4月からスラバヤへ

4月に、ジャカルタからスラバヤへ滞在地を移すことになった。現在、籍をおいているJAC Business CenterがJAC Recruitmentと一緒に、4月からスラバヤへオフィスを開設することになり、それに伴う異動である。

スラバヤは東ジャワ州の州都で、人口は約300万人(昼間は560万人、夜間は290万人)とジャカルタに次ぐ大都市である。ジャカルタが東京だとすれば、スラバヤは大阪、という感じだろうか。実際、ジャカルタ首都特別州と東京都は姉妹関係にあるが、東ジャワ州と大阪府も姉妹関係にある。スラバヤ市は高知市、北九州市とも姉妹関係にあり、スラバヤのよさこい祭りは多くの市民が参加する名物行事となっている。

*訂正:先のバージョンで「スラバヤ市と大阪市は姉妹都市」と書きましたが、誤っておりました。上記の通り訂正し、お詫び申し上げます。

スラバヤは南緯7度14分、東経112度44分に位置し、ほとんどが海抜3〜6メートルの割りと平坦な街である。行政的には、スラバヤ市のなかには31の郡(Kecamatan)とその下に163の区(Kelurahan)がある。

スラバヤの名前の由来は、スラ+バヤである。スラ(sura)は鮫、バヤ(baya)はワニ(buaya)から来ており、鮫とワニが絡まる彫像を市内でよく見かけることができる。スロボヨという発音もよく聞くが、これはジャワ語訛りの「スラバヤ」である。スラバヤっ子のことをアレック・スロボヨ(Arek Suroboyo)と一般に言う。漢字(中国語)では「泗水」と表記する。

余談だが、大昔、東京の四谷荒木町にある泗水飯店という中華料理屋によく行ったが、そこで初めて泗水がスラバヤだと知った。懐かしの泗水飯店はまだ残っているのだろうか(もうないかな?)。

スラバヤの港であるタンジュン・ペラッ(Tanjung Perak)港は天然の良港で、オランダ植民地時代から交易の中心となっていた。内陸から砂糖やタバコなどの商品作物が運ばれてきて、貿易商や金融業などが発達し、よそ者がビジネスをする場所として適地であった。

スラバヤ市政府は「きれいで緑の多いスラバヤ」を開発ビジョンに掲げ、緑化を積極的に進めるなど、潤いのあるまちづくりに努めてきた。私が初めてスラバヤを訪れた1985年は「とにかく暑くて埃っぽい、がさつな街」という印象だったのに、その後、訪れるたびに緑が増え、今ではジャカルタよりもずっときれいで潤いを感じる街になっている気がする。現市長(女性)が前スラバヤ市美化局長だったことも関係しているのだろう。環境問題にも熱心に取り組み、北九州市とも友好関係にある。

スラバヤに住んでしまった人は、日本人の方々でも、「ジャカルタには移りたくない」という声が多いと聞く。意外に、スラバヤ周辺に留まっている優秀な人材がけっこう居そうな気配がある。

私にとって、スラバヤはジャカルタ、マカッサルに続く3番目の長期滞在地になりそうである。このブログでも、いろいろとスラバヤの面白い話を紹介していきたい。とくに、食べ物の美味しい街としても名高いスラバヤでの食べ歩きが今からとても楽しみである。

 

西ジャワ州知事選挙結果

3月3日、西ジャワ州選挙委員会は、2月24日に投票が行われた西ジャワ州知事選挙で現職アフマド・ヘリヤワン=デディ・ミズワル組が当選、と発表した。任期は2013〜2018年の5年間。

得票結果は以下のとおり(カッコ内は得票率)。

Ahmad Heryawan – Deddy Mizwar : 651万5313票(32.39%)
前州知事+俳優。福祉正義党(PKS)、開発統一党(PPP)、ハヌラ党推薦。

Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki : 571万4997票 (28,41%)
闘争民主党(PDIP)国会議員・女優+人権活動家。PDIP推薦。

Dede Yusuf – Lex Laksamana : 507万7522票 (25,24%)
前州副知事・俳優+州官房長。民主党推薦。

Irianto MS Syafiuddin (Yance) – Tatang F Hakim : 244万8358票 (12,17%)
インドラマユ県知事・ゴルカル党州支部長+元タシクマラヤ県知事。ゴルカル党推薦。

Dikdik Arif Mansur – Cecep N Suryana Toyib : 35万9233票(1,79%)
前南スマトラ州警察長官+前ランプン州警察長官。独立候補。

各県・市ごとに優勢だった候補は以下のとおり。

バンドン(Bandung)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
バンドン(Bandung)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
西バンドン(Bandung Barat)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
ブカシ(Bekasi)県:Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki
ブカシ(Bekasi)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
ボゴール(Bogor)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
ボゴール(Bogor)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
チアミス(Ciamis)県:Dede Yusuf – Lex Laksamana
チアンジュール(Cianjur)県: Dede Yusuf – Lex Laksamana
チレボン(Cirebon)県:Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki
チレボン(Cirebon)市:Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki
デポック(Depok)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
インドラマユ(Indramayu)県: Irianto MS Syafiuddin (Yance) – Tatang F Hakim
カラワン(Karawang)県:Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki
プルワカルタ(Purwakarta)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
スバン(Subang)県:Rieke Diah Pitaloka – Teten Masduki
スカブミ(Sukabumi)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
スカブミ(Sukabumi)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
スメダン(Sumedang)県:Dede Yusuf – Lex Laksamana
タシクマラヤ(Tasikmalaya)県:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar
タシクマラヤ(Tasikmalaya)市:Ahmad Heryawan – Dedy Mizwar

上の結果から、工業団地を数多く抱えるブカシ県、カラワン県でRieke Diah Pitaloka – Teten Masduki組が優勢であったことが注目される。Rieke Diah Pitalokaは、金属労連(FSPMI)などの労働者デモを積極的に支援してきた国会議員であり、労働組合が労働者の票をそれなりに固くまとめる力を持っていることが示されたのである。

投票における労働組合の統制が今後も効き続けるのか、Rieke Diah Pitalokaが出馬した西ジャワ州知事選挙だけで終わるのか、2014年総選挙を控えて、注目すべき点の一つである。

ティニさんの自立を妨げていたもの

マカッサルで借りている家の契約が2013年3月31日で切れる。Balla Idjo(緑の館)と名付けたこの家に私が滞在した時間は長くない。

この家を借りていた2年の間に、様々な方々がここに集い、料理名人のお手伝いティニさんの食事を堪能し、語らい、そして宿泊していただいた。主のいない家で、少しでもそうした機能が果たせたことがちょっと嬉しい。

プール付き、寝室が4つ、作業用の部屋が1つ、という広い家。ゆったりと佇めるスペースがいくつもあるこの家は、利用者が思い思いの時間をそれぞれのスタイルで過ごすのに格好の家だった。多少古いがとても居心地のよい家なのだが、住宅手当があるならまだしも、それもなく、わずかな収入で何とかやりくりしている現状では、残念ではあるが、自分が住むわけでもないこの家を借り続けることは困難、と判断した。

私は、自分の「故郷」であるマカッサルに自分や家族の居場所をずっと持ち続けたいと思ってきた。その思いは変わっていない。

しかし、物理的に家を借り続ける、ということは、誰かに管理をお願いし続けるということになる。現に、今もティニさん一家に住み込みで私の借家に住んでもらっている。彼女との付き合いはもう17年にもなろうとしている。彼女が所帯を構えてからでも10年以上が経つ。

過去に任期を終えてマカッサルを去るとき、いつもティニさんの自立を願っていた。ワルンや小食堂など、自ら小さなビジネスを始めて、独り立ちすることを願っていた。しかし、彼女はまだ私のお手伝いのままだ。主のいない家を健気に守ってくれている。

そうなのだ。彼女の自立を願っているはずの私自身が、彼女の自立を妨げていたのだ。

息子が小学校高学年になり、クラスでも1・2位を争う優秀な子に育って、これまでずっと潜むように生きてきたティニさんにも将来への希望が現れてきた。自分は小学校にも満足に行けなかったのに、びっくりするほどの教育ママぶりを発揮していた彼女。かつて、再度マカッサルに赴任したときに、貧困のどん底にあえいでいた彼女を救出し、私のお手伝いとして呼び戻したこともあった。そんな彼女が今ようやく、普通の家庭の幸せを見つけられるところに来たことがうれしい。

ティニさんは、自分の家族3人が身の丈にあった生活のできる質素な家を見つけてきていた。そして、私から離れて、そこに3人で住むことを望んでいたことを知った。やっと、やっと、今度こそ、本当に私から離れることができそうだ。

インドネシア料理、西洋料理、中華料理、日本料理(とくにトンカツ、酢豚、海老フライは絶品)の得意なティニさんの能力を、生かしてくれるところはないだろうか。

借家に残った机、椅子、本棚、テーブルなどは、マカッサルの友人たちに引き取ってもらう準備を始めた。インドネシア語書籍は、マカッサルの仲間のやっている簡易図書館に寄贈し、日本語書籍は自分の手元に戻そうと思う。日本語版映画DVDは、地元大学の日本文学科が欲しいといってきた。何とか3月中に片付きそうな気配である。

この借家をインドネシア人、日本人、その他様々な人々が交差する場にしたい、と思っていた。その意志を尊重してくれる大家が、何とかできないものか、日本文化を伝える場所のようなものができないか、などと考えてくれているようだが、どうなるだろうか。

3月末までまだ時間がある。できることなら私も何かしたい。もし、何かアイディアのある方は、私までお寄せいただければ幸いである。

2012年経済実績のおさらい

すでに、2013年2月時点で発表された数字だが、備忘録として、2012年1年間の経済実績の数字を下記に書き留めておく。

<GDP成長率>
2012年は目標の6.5%を下回る6.23%。

<貿易>
2012年通年の輸出は1,900.4億ドル、輸入は1,916.7億ドルで、貿易収支は16.3億ドルの赤字を記録。石油ガスが59.9億ドルの赤字、他方、非石油ガスは39.6億ドルの黒字。
貿易赤字の大きかったのは中国(81億ドル)、タイ(58億ドル)、日本(56.4億ドル)。ASEAN全体との貿易も4億5540万ドルの赤字。
輸出の61.1%は工業製品。

<観光客>
2012年通年の観光客数は前年比5.16%増の804万人。2012年の観光による外貨収入は前年比5.81%増の91億ドルに達した。
2012年通年の航空利用者数は、国内線が前年比5.87%増の5450万人、国際線が同9.54%増の1190万人。
海運では、旅客数は前年比8.68%減の690万人だが、貨物量は同10.61%増の2億950万トン。
鉄道では、旅客数が前年比1.43%増の2億220万人、貨物量は同15.56%増の2360万トン。

<製造業>
2012年の大中工業生産の成長率は4.12%、小・零細工業生産のそれは4.06%。

<消費者物価上昇率>
2012年通年では前年比4.30%増となり、2011年通年の3.79%増よりは若干上昇したが、比較的低い水準を維持。

<直接投資>
外国直接投資(PMA)が前年比26.1%増の245億ドル、国内直接投資(PMDN)が同21.3%増の92.2兆ルピア。
日本からの投資は前年比67%増の25億ドルで、国別ではシンガポール(49億ドル)に次いで第2位。韓国からの投資は19億ドルだが、2012年第4四半期に限ると、韓国が国別で2位。
外国直接投資の17%(43億ドル)は鉱業部門へ。増加率が最も高かったのは化学・薬品の前年比86%増(28億ドル)。
外国直接投資の立地別では、西ジャワが42億ドル、ジャカルタが41億ドル、バンテンが27億ドル、東ジャワが23億ドル、東カリマンタンが20億ドル。ジャワ島に全体の56.1%。

<自動車・二輪車>
2012年のインドネシア国内での自動車販売総数は111万6230台。また、2012年のインドネシアからの自動車輸出はCKDを含めて27万3490台。
2012年のインドネシア国内での二輪車販売台数は706万台(2011年は801万台)。

輸出の減退、輸入の増加による経常収支赤字を、直接投資・証券投資の流入による資本収支黒字で補って、何とか国際収支(総合収支)全体を保っているという状態。この構造は、かつて、石油ガス依存から脱却しようとしていた1980年代〜1990年代前半のインドネシアの国際収支構造に似ている。あのときには、通貨ルピアが過大評価されがちで、一気にルピアを切り下げたことが何度かあった。現在は、そのようなドラスティックな措置をとれる状況にはなく、中銀が懸命に為替介入を試みながら、ルピアの変動をできる限り緩やかに調整しようと試みている。おそらく、対ドルでのルピア下落はある程度避けられないであろう。

また、経済が発展するにつれて、国内産業のエネルギー需要が高まっている。価格高騰かつ環境負荷の大きい石油から天然ガスへの転換がインドネシア国内でも進んでいるが、ガス田開発の遅れと供給体制の不備などで、北スマトラなど一部の地方ではガス供給が逼迫している(昨年問題となった東ジャワのガス供給逼迫は改善の方向にある)。このため、インドネシアにおいても、石油に加えて、中東地域で輸入向け天然ガスの確保などが始まっている。

自動車や二輪車の販売台数が増えれば、ガソリン需要も増える。インドネシアにはガソリン向け石油精製施設の整備が遅れており、輸入に依存している。このため、自動車や二輪車が増えるとガソリン輸入も増え、経常収支を圧迫することになる。加えて、2014年へ向けた政治的理由から、ガソリン向け補助金の削減が難しくなっており、2013年も財政的にも厳しい状況が続く。

経常収支赤字とエネルギー供給。この二つが、インドネシア経済の持続的発展の鍵を握る重要なファクターとなっている。

あるくみるきく

3月1日、今日から新しいブログを開始する。題名は「インドネシアあるくみるきく」。この題名は、宮本常一氏の「あるくみるきく」から拝借した。

宮本常一氏(1907〜1981)は山口県周防大島出身の民俗学者で、戦前から亡くなるまで日本全国をくまなく歩き、各地でフィールドワークを行った。宮本氏の足跡を赤い線で辿ると、日本全土が真っ赤になる、と言われたほどである。

宮本民俗学の特徴の一つは、世の中から省みられなくなったもの、無視されたもの、忘れ去られたもののなかに、遠い過去からの永続的な営みの蓄積とそこに刻まれた人々の営為を見出し、それを新たな時代のなかに生かす、という姿勢にある。高度成長時代の日本で時の流れに取り残され、忘れ去られてしまうものを、懸命に記していこうとした宮本氏の調査記録は、とてつもない膨大なものとなって、現在も整理しつくされていない。

宮本氏は、単に民俗学の調査を行っただけでなく、行く先々でそこに生きる人々の話をじっくりと聞き、彼らの人生に思いを馳せつつ、どうすれば彼らやその子孫、そして彼らの生きる地域が生き生きとしていけるのか、厳しく複雑な現実に直面して、ときには絶望に苛まれながらも、彼らを励まし続けたのである。

宮本氏の活動は、経済成長の大きな流れのなかのほんの一滴に過ぎなかったかもしれないが、それによって励まされ、前を向いて地域とともに生きてきた人々がたしかに存在する。そうした宮本氏の姿勢を表す言葉が「あるく・みる・きく」であった。

何よりもまず、現場の事実から始まること。相手をして語らしめ、相手が自分自身で何かに気づき、行動を起こしていくこと。それを促す働きかけが、民俗学調査という名前で行われた宮本氏の「あるく・みる・きく」であった。

インドネシアのマカッサルという地方都市で、日本政府の名の下に、地方政府へ政策アドバイスの仕事をしていた15年前、学生時代に読んだ宮本氏の『忘れられた日本人』を読み返し、「学ぶこと」が「教えること」と同じになること、相手を敬い、励ませられるようなアドバイスをさりげなく行う技術が必要なこと、を強く感じた。そして、自分は長年なじんだインドネシアで宮本氏のようにありたいと思うようになった。

今もその思いにいささかの変化もない、と自分では思っている。ただし、宮本氏のような、インドネシア全土を赤く染めるような手法はとれていない。民間コンサルタントという今の自分の立場のなかで、何がどのようにできるのか、日々模索しているのが現状である。そんな自分への自戒も込めて、このブログのタイトルを「インドネシアあるくみるきく」と命名した。

これから、このブログを通じて、政治、経済、社会、文化、生活、たべもの、ふと思ったことなど、私なりの「あるくみるきく」のインドネシアを表していきたい。この拙いブログを通じて、インドネシアに対する興味や関心を高めていただけるなら、とても嬉しく思う。

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