久々のJICA案件でインドネシアへ

今日5月11日から6月8日まで、インドネシアに出張する。今年は、久々にインドネシア絡みのJICA案件に一コンサルタントとして関わることになった。

「インドネシア国官民連携型農業活性化支援情報収集・確認調査」という名前の案件。農業・畜産業分野で、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府とを結びつけ、各々の官民連携を通じて新たな事業創出・展開ができるかどうか、試行してみるという内容である。

この関係で、4月は日本のいくつかの地方自治体をまわり、自治体側の現状と意向を調べてきた。今度は、インドネシア側のいくつかの地方政府をまわり、同様の調査を行う。

この案件の成否は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府の双方に精通し、マッチングの見極めをするだけの情報をきちんと持ちながら、各々のイニシアティブを尊重できることにかかってくると思われる。

自分にそのような能力があるかどうかはやってみないと判らない。しかし、今後、国境を超えたローカルとローカルの結びつきを促し、新たな価値を創造する動きが起こったらいいなあと思う自分にとっては、格好の機会であると考えた次第である。

今回はどんな出会いや気づきが得られるか、楽しみである。新しい未来をつくる一滴になればと思っている。

アンボンとスラバヤにて

今回のインドネシア出張でのメインは、アンボンとスラバヤでの講演だった。いずれも、インドネシア側から招待され、交通費、ホテル代、講演料も先方が負担した。

とは言っても、今回の成田=スラバヤは、燃料サーチャージ込みの往復で38,520円と破格に安い中華航空の便で行ったので、交通費でもお釣りがくるほどだった。これだけ安いと、日本国内の地方へ行くよりも、インドネシアへ出かけるほうが低コストとなるかもしれない。こうした状況も手伝って、私の感覚では、日本国内、海外という区別がほぼなくなっている。

アンボン(マルク州の州都)では2月11日、「マルク州と日本との貿易投資関係」と題して、シンポジウムで講演した。このシンポジウムは、EUがインドネシア東部地域の幾つかの州を対象に行っている貿易投資促進のためのプログラムCITRA(Centre for Investment and Trade Advisory)の一環で開催されたもので、EUから委託を受けたスラバヤのNGOであるREDI(Regional Economic Development Institute)からの依頼で招かれたものである。

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マルク州はもともと植民地時代から香辛料で有名だが、現在の主要産業は水産業であり、海産物の輸出で経済が回っている。しかし、養殖などの育てる漁業はほとんど根付いていない。20年前、スラウェシ島近海で「魚が獲れなくなってきた」という漁民の話を聞いてから久しいが、漁民は魚の群れを追って、スラウェシ島から東へ東へと移動し、今はマルク州の海域が主たる漁場となっているのである。

新政権のもとで、違法外国漁船の摘発が行われ、水産資源の枯渇スピードが若干遅くはなったが、マルク州内には水揚げした水産物を扱える場所もキャパも少ないため、水産物生産高が大きく減少し、地元経済にプラスとはなっていない。厳しい現実がそこにあった。

また、マルク州では、南東海域でマセラ鉱区の大規模ガス田開発の話が日本も関わる形で進んでおり、その権益を巡って、様々な思惑が入り乱れている様子が伺えた。この件については、後日、じっくりと調べてみたいと思う。

アンボンでは、5年ぶりに様々な旧友と再会し、ゆっくり話すことができたのが最大の喜びだった。

彼らと話しながら、「東インドネシア・ラブ」の気持ちがひしひしと沸いてきた。マルク州をもっと日本の方々に知ってもらうための役目を果たそうと思った。今年の11月ごろに、マルク州代表団が日本へ視察に来るという計画もあるようなので、その際には最大限のお手伝いをしたいと思った。

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2月14日は、東ジャワ州シドアルジョのムハマディヤ大学シドアルジョ校で、「日本における教育のモチベーション」という、主催者側から与えられた題で講演した。

教育学が専門ではないので、ちょっと的外れなことを言ったかもしれないが、目的が、参加者である学生(ほとんどが小学校教師になる)のモチベーションを上げることだったので、日本の学校の話をするだけでも刺激があったように思う。

しかし、わざわざ日本から人を招いて話を聞きかなければならないような内容だったのだろうか、という疑問はぬぐえない。日本人だったら誰でもよかったのかもしれない。でも、一緒に講演した方々が大上段に構えた大風呂敷の話をしていたので、もっと身近なことを生かした、学生の意識に働きかけるような話のほうが効果的なのではないかと思った。

 

スラバヤ・タンバックバヤン地区の中国正月

2月7日、肌寒い東京の自宅を朝早くに発ち、中華航空の台北、シンガポール経由でスラバヤに到着したのが夜12時前。途中の台北で、スラバヤの友人とFacebookメッセンジャーで面会の約束をしていたら、「8日朝、スラバヤの中国正月の様子を一緒に観に行こう」という話になった。

8日朝7時、英雄の像(Tugu Pahlawan)前に集合。日本との温暖の差が激しかったためか、肌の温度調節がうまくいかず、なかなか眠れぬままスラバヤ最初の夜が明けた。

眠い目をこすりながら、英雄の像前で友人と会い、彼の連れて行ってくれたのがタンバックバヤン(Tambak Bayan)地区。すでに、写真を撮りに多くの若者たちが集まっていた。スラバヤの写真愛好家にとって、中国正月の朝にタンバックバヤン地区に来るのは毎年恒例の行事の様子である。

タンバックバヤン地区は、1920年代頃、政治的理由で中国から逃れた人々が集まってできた集落で、その後、世界恐慌後の1930年代の経済苦境期には、カリマンタンやスマトラから失職した華人苦力らが駆け込んできた。もともとスラバヤで生まれ育った華人とは違う人々と言ってよい。華人とはいえ、生活は貧しく、あり合わせの材料で家を作って住んできた。

そんなタンバックバヤン地区だが、スラバヤの一般市民の知名度はさして高くはない。でも、スラバヤのなかで最も中国の雰囲気を残す場所として、写真愛好家らには知られているようだ。

このタンバックバヤン地区を友人と歩いた。まずは、住民のまとめ役を果たしているダルマ・ムリア財団(中国名:励志社)を訪問。ここは今、中国とスラバヤとの友好のシンボル的存在でもある。

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この励志社の向かい側に、タンバックバヤン地区の集落がある。集落の真ん中に大きな中心家屋(Rumah Induk)があり、その周りに約30戸ほどの小さい家々が長屋風に建てられている。

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中心家屋の中は小さい部屋に仕切られ、それぞれの部屋が仕事場(ワークショップ)として使われていた跡がうかがえる。ある部屋は台所の跡であった。真ん中に建ててある赤い柱は、バロンサイ(中国の獅子舞)が乗ったりするのに使うとのことだった。

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狭い路地に建てられた家々の軒先からは針金が貼られ、子供向けであろうか、中国正月の縁起物である赤い小さな祝儀袋(アンパオ)がつけられている。

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ここに住む人々はオープンで、訪れた人々を家の中に招いて、容易に写真を撮らせてくれる。住居は質素で、所得の低い人々が寄り添いながら生活している様子がうかがえる。昔から使われている井戸があった。この井戸はやや黄色く濁っているが、いまだかつて枯れたことはないのだという。

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タンバックバヤン地区は、2007年頃から土地収用問題で揺れてきた。近くにあるホテルが拡張するため、この地区の土地を収容しようと動いてきたからである。かつて、住む場所のない難民のような先代たちがようやくたどり着き、生活を取り戻したこの場所の記憶がなくなってしまうことに、多くの住民は耐えられなかった。激しい反対運動が起こり、それを大学生やNGO活動家らがアートの形をとるなどして支援した。でもすでに一部は買い取られ、駐車場となっていた。

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タンバックバヤン地区を歩いているうちに、そろそろバロンサイの始まる時間になった。バロンサイはこの地区の住民が演じるのではなかった。他所からバロンサイ演舞グループがやってきて、踊りながら地区を練り歩くのである。

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友人によると、バロンサイ演舞グループはスラバヤでわずかに5グループ程度しか残っていないのではないかという。中国正月は、彼らにとって数少ない稼ぎどきなのであろう。

バロンサイが終わると、集まっていた人々が去り、写真愛好家たちが去り、あたりは静かな中国正月の雰囲気になった。来年の中国正月も、今年と同じように、バロンサイを目当てに、瞬間的に人々が訪れることだろう。

スラバヤの街づくりは、旧来のカンポン(集落)を壊さずに、その居住空間を生かす形で長年にわたって進められてきた。外来の華人たちが作ったこのタンバックバヤン地区もそうしたカンポンの一つといってよい。しかし、都市の発展に伴って、かつては人間的な街づくりと賞賛された、そうしたカンポンを内包する形での街づくりにも限界が見え始めたように思える。

そしてまた、スラバヤの華人、あるいは「中国人」とは一体何なのか、ということも改めて考えることになってしまった。その出自や歴史的背景が異なることから、彼らをすべて華人、「中国人」として括ってしまうことの単純さ、浅はかさを感じたのである。ある意味、タンバックバヤン地区に集まった友人や写真愛好家の認識にも、なぜかそうした単純さや浅はかさを感じずにはいられなかった。

そうはいっても、興味深い機会に誘ってくれた友人には深く感謝している。友人は、スラバヤの町歩きの達人で、「Surabaya Punya Cerita(スラバヤは物語を持っている)」という本を出版しているダハナ・ハディ氏である。また近いうちに、彼とスラバヤの街を歩くことになるだろう。

私の別の友人で、Ayorek!という団体の主宰者の一人であるアニタ・シルビアさんが、タンバックバヤン地区について書いたエッセイがある。これも合わせて読まれることをお勧めする。彼女もスラバヤの町歩きの達人で、英語・インドネシア語のバイリンガル雑誌を発行している。

– Story from Kampung Tambak Bayan(英語)

– Cerita dari Kampung Tambak Bayan(インドネシア語)

Ayorek!のサイト(英語)はこちら

 

ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない

どうしても、これを言わなければならない。

1月14日に起こったジャカルタのテロ事件。実家のある福島と友人との面会がある郡山とをJR普通電車で移動する合間に、事件の速報をiPadで追いかけていた。

かつて私は、事件の起こったスターバックスの入るビル内のオフィスに通い、毎日のようにあの付近を徒歩で歩き回っていた。仕事の合間、知人との待ち合わせのため、あのスタバで何度時間を過ごしたことか。向かいのサリナは、地下のヘローで毎日の食料品を買ったり、フードコートで食事をしたり、お気に入りの南インド料理屋でドーサを食べたり、本当に馴染みの日常的な場所であった。あの界隈の色々な人々の顔が思い浮かんできた。

断片的な情報を速報的にまとめたものは、ツイッターとフェイスブックで発信した。犯人がBahrun Naimだとすると、思想・信条的なものもさることながら、かつて警察にひどい拷問を受け、その恨みを晴らすことが動機の一つとなっていることも考えられる。

2002年10月に起こったバリ島での爆弾テロ事件のときのことを思い出す。犯人がイスラム過激派であることが知られたとき、インドネシアのイスラム教徒の人々のショックは計り知れないものだった。まさか、自分の信じている宗教を信じている者がこんな卑劣な事件を起こすとは、と。ショックが大きすぎて、自分がイスラム教徒であることを深く内省する者も少なくなかった様子がうかがえた。

今にして思うと、当時のインドネシアのイスラム教徒にとっては、一種のアイデンティティ危機だったのかもしれない。しかし、自己との辛い対話を経て、インドネシアの人々はそれを乗り越えていった。

そのきっかけは、2004年から10年間政権を担当したユドヨノ大統領(当時)の毅然とした態度だったと思う。ユドヨノ大統領は、宗教と暴力事件とを明確に区別したのである。テロ事件は犯罪である。宗教とは関係がない。そう断言して、テロ犯を徹底的に摘発すると宣言した。そして、国家警察にテロ対策特別部隊をつくり、ときには人権抑圧の批判を受けながらも、執念深く、これでもかこれでもかと摘発を続けていった。

余談だが、かなり昔に、上記と同様の発言を聞いたことがある。1997年9月、当時私の住んでいた南スラウェシ州ウジュンパンダン(現在のマカッサル)で反華人暴動が起こった。経済的に裕福な華人に対して貧しいイスラム教徒が怒ったという説明が流れていたとき、軍のウィラブアナ師団のアグム・グムラール司令官(後に運輸大臣、政治国防調整大臣などを歴任)が「これは華人への反発などではない。ただの犯罪だ!」と強調した。ただ、今に至るまで、暴動の真相は公には明らかにされず、暴動を扇動した犯人も捕まっていない。

その後も、ジャカルタなど各地で、爆弾テロ事件が頻発した。インドネシアの人々はそれらの経験を踏まえながら、暴力テロと宗教を明確に分けて考えられるようになった。かつてのように、アイデンティティ危機に悩む人々はもはやいない。誰も、たとえテロ犯が「イスラムの名の下に」と言っても、テロ犯を支持する者はまずいない。インドネシアでテロ事件を起こしても、国民を分断させることはもはや難しい。この15年で、インドネシアはたしかに変わったのである。

テロ犯は標的を間違えている。イスラム教徒を味方に引き付けたいならば、インドネシアでテロ事件を起こしても効果はない。個人的なストレスや社会への恨みを晴らそうと暴力に走る者がいても、それは単なる腹いせ以上のものではない。政治家などがこうした者を政治的に利用することがない限り、彼らはただの犯罪者に留まる。

そんなことを思いながら、福島の実家でテレビ・ニュースを見ていた。イスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか、的を得た説明はなかった。そして相変わらず、イスラムだからテロが起こる、インドネシアは危険だ、とイメージさせるような、ワンパターンの処理がなされていた。初めてジャカルタに来たばかりと思しき記者が、現場近くでおどおどしながら、東京のデスクの意向に合わせたかのような話をしていることに強烈な違和感を覚えた。

なぜイスラム人口が大半のインドネシアでなぜテロが起こるのか。理由は明確である。テロ犯にとってインドネシアは敵だからである。それは、テロ犯の宗教・信条的背景が何であれ、インドネシアがテロ犯を徹底的に摘発し、抹消しようとしているからである。それはイスラムだからでもなんでもない。人々が楽しく安らかに笑いながら過ごす生活をいきなり勝手に脅かす犯罪者を許さない、という人間として当たり前のことをインドネシアが行っているからである。

とくに日本のメディアにお願いしたい。ジャカルタのテロ事件をイスラムで語ってはならない。我々は、テロを憎むインドネシアの大多数の人々、世界中の大多数の人々と共にあることを示さなければならない。

 

ジャカルタで福島の桃と梨に出会う

9月3日、福島の桃と梨のプロモーション・イベントがジャカルタであるというので、物見遊山的に行ってきた。前日、友人のフェイスブックに情報が載っていたので、「地元出身者としては、これは行かずにはいられない」と行ってきた次第である。

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知人の加藤ひろあきさんの手慣れたバイリンガルMCで、イベントはつつがなく進んでいく。プレゼンはちょっと専門的で細かったかなという印象だが、福島県庁やJA新福島の方々が、実際に持ってきた桃や梨を手に、一生懸命プロモーションしている姿が嬉しかった。口下手でお人よしの福島人は、何かを売り込むときの押しの強さが今ひとつ、なので。

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第2部に移ると、ジャカルタの日本料理店・鳳月の高井料理長が、巧みな語りを入れながら、福島の桃や梨を素材にした素敵なデザートを作っていく。そこには、素材への慈しみが感じられ、きっと、福島の桃も梨も、彼に慈しまれて幸せなのではないか、なんて思ってしまうのであった。

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いくつかのデザート、そして、何よりもはるばる福島からやってきた桃たちや梨たちに、ジャカルタで会えるなんて、本当にありがたく、幸せな気分だった。

このイベントには、インドネシアで最も有名な料理研究家であるウィリアム・ウォンソ氏も出席していたので、名刺交換をして、お知り合いになっていただいた。彼は、プレゼンのときから熱心に説明を聞き、実際に福島の桃と梨を食し、その美味しさに驚嘆していた。

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この桃と梨、ジャカルタの高級スーパーであるランチマーケットで9月半ばまで販売されるとのこと。桃や梨という、インドネシアではあまり馴染みのない果物がどのようにマーケットに受け入れられるのか。おそらく、生食のほか、洋菓子などの素材としても注目されるかもしれない。

豊かになってきたインドネシアでは、シェフやパティシエになりたい若者が増えてくると予想される。日本では考えもつかないような、斬新な発想で、福島の桃や梨を使った一品が現れると面白い。

福島人としては、桃や梨に日本の他の生産地との違いを明確に出す戦略が取れればと思うが、それをどのように進めていけばよいのか。桃太郎といえば岡山、のような何かが欲しい。うーん、それは、福島県庁の方やJA新福島の方といろいろ楽しく考えてみたい。

と言いつつ、9月8日に帰国して、今は日本。

 

日系企業でワークショップ実施

一週間前になるが、9月2日、ジャカルタから少し離れた日系企業で、インドネシア人従業員を対象にした1日ワークショップを実施した。

参加したのは、同企業のスーパーバイザークラスの中堅職員24名。同社の日本人幹部からは、近い将来、日本人職員に代わって会社の中核を担ってもらいたい人材である。

今回のワークショップでは、会社経営の観点から自分たちは何をすべきか、それをどう行っていくかというテーマで進めた。

いつものように、会社のなかのよい点とよくない点を挙げてもらって、取り組むべき課題を明らかにしたうえで、その課題解決のために何をするかを具体的に議論する方向で進めようとした。

ところが・・・。というか、予想どおり・・・。

よくない点を挙げてもらったら、結局、会社への不平・不満が噴出した。そのほとんどは、日本人職員の存在に対する不満であった。

しかし、ちょっと議論を促すと、果たしてそうした日本人への不平・不満が事実に基づいたものであるのか、単なる彼らの思い込みによるものなのではないか、ということに参加者が気がついた。彼らが良くないと考える根本が事実でなかったら・・・。そして、事実かどうかを確かめるためには、日本人側とのコミュニケーションを取らなければならないことに気がついた。

ではどうするか。日本人側への要求ではなく、自分たちがどうするか。それを議論してもらった。その結果、彼らは一つのあるプロポーザル案を作り始め、それを人事部を通じて日本人幹部へ提出することになった。

ずいぶんと議論し、整然としたワークショップにはならなかったが、彼ら自身が自分たちで考えたこの時点でのプロポーザル案をまとめられたことで、ワークショップとしての一つの形を保つことができた。

後は、彼らのプロポーザルが社内でどう扱われるか、である。個人的に楽しみである。

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Dari K カカオ農園ツアーに同行

8月22〜27日、京都のチョコレート会社であるDari K主催のカカオ農園ツアーに同行した。日本からの参加者は45名、2台のバスに分乗して、南スラウェシ州マカッサルを出発し、Dari Kの提携カカオ農家のある西スラウェシ州ポレワリ県へ向かった。

ポレワリ県では、カカオ農園を訪問して苗木を植樹したり、カカオの実を割って中の果肉を味わったり、カカオ農家から栽培の苦労談を聞いたりした。また、カカオの接ぎ木の仕方、カカオの発酵や天日干しの様子、集荷と分別の作業、農家と商人との取引状況なども観察した。

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カカオの実を取った残り滓(カカオポッド)を利用したバイオガス発生装置も見学し、今後はバイオガスから電気を作り、チョコレート製造機械やカカオ農家へ配電する計画がある。

ほかにも、カカオ農家のお宅で心づくしの食事を振る舞われ、郷土菓子作りの体験もあった。

島まで渡って海遊びもした。

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地元の郷土芸能「踊る馬」に参加者の女性6人が挑戦したり、伝統楽器の体験・演奏もあった。

ポレワリ県にとっては、外国人観光客が一度にこんなに大勢で来ることは滅多になく、県観光局を中心に県をあげての歓待となった。

ポレワリ県からマカッサルへ戻り、マカッサルの夕日を拝むことができた。

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通訳兼コーディネーター役を担った同行で、最後には声が枯れてしまったが、このツアーが今後一層中身の濃いものとなるための材料も色々と得ることができた。

日本のチョコレート愛好者たちが原材料のカカオを作る農家を訪ねる旅は、参加者にとってチョコレートやカカオをより深く知る機会となった一方、カカオ農家にとっても、日本からお客さんが来ることで、自分たちのカカオが美味しいチョコレートになることを改めて感じて、質の良いカカオ作りに意欲が湧く、という話があった。生産者と消費者の信頼関係は、国を超えてもしっかり作ることができる可能性を強く感じた。

45人の参加者の満足度が気になるところだが、彼らは自ら「ダリケーキラキラチョコ大使」を名乗り、ツアーの経験とDari Kの良さを発信する役目を果たすと勝手に動き始めた。

次回のツアーは、さらにパワーアップした内容で臨みたいと今からワクワクしている。興味のある方は、是非、次回のツアーへご参加を。

 

中ジャワは最も投資しやすい州を目指す

先週、北スマトラ州に続いて、6月18〜19日に中ジャワ州を訪問した。中ジャワ州投資局のスジャルワント長官は、「中ジャワはインドネシアで最も投資しやすい州を目指す」と胸を張った。

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中ジャワ州の特色としては、全国最低レベルの最低賃金、極めて少ない(というかほとんどない)労働争議、豊富な資源ポテンシャル、などが挙げられるが、それらはよく知られた特色である。これら以外に、他州には見られない特色があった。

それは、官民一体となって、投資をサポートする体制を整えていることである。州レベルでは、政府と商工会議所が一緒になって投資対策チームを作り、常に県・市政府とコンタクトし、モニタリングする体制になっている。たとえば、ある県で投資を阻害する問題が起こったら、すぐに州のチームも動くのである。とくに、すでに投資した企業が安心して活動できる環境を維持することが狙いである。

それだけではない。州政府は、州内のすべての県・市を対象としたパフォーマンス評価チームを結成し、毎年、表彰している。この評価チームは実業界・学界・市民代表から構成され、政府関係者が含まれていないのがミソである。チームは、実際に現場で行政サービスや許認可事務の状況を把握し、評価の重要な要素としている。

これによって、中ジャワ州の県・市の間で、行政サービスや許認可事務の簡素化を含む善政競争が起こっている。投資を呼び込むために、許認可に要する期間の短縮やサービスの改善にしのぎを削っている。各県・市の創意工夫で、様々な新しい試みが生み出される。たとえば、従来、多くの県・市政府は自己財源収入を確保するために、わざと許認可を面倒にする傾向さえあったが、競争意識によって、それが大きく改善へと向かっているという。

以前、ジョコウィ大統領がソロ市長だったときに、このパフォーマンス評価でソロ市は3年連続で州内第1位に輝いた。そうした実績を引っさげて、ジョコウィは中央政界へ進むことになったのである。ジョコウィが中ジャワ州から去った後は、各県・市が毎年入れ替わり立ち替わり第1位を占めるようになり、競争状態に拍車がかかっている。中ジャワ州の善政競争マネジメント能力の高さがうかがえる。

このように、州全体での投資へのサポート体制ができており、「インドネシアで一番投資しやすい州になる」という言葉もあながち嘘ではない気がしてくる。

とはいっても、日本人駐在員が中ジャワ州に駐在するには、日本的な要素が少ないことは否めない。中ジャワ州には日系の工業団地はまだない。州都スマランには日本料理店もほとんどない。ゴルフ場はあるが、日本人向けの娯楽施設も限られている。この辺は今後の課題となる。

しかし、中ジャワ州は日本に最もなじみのある州の一つなのである。実は、技能実習生や研修生を日本へ最も多く送り出しているのが中ジャワ州とのことである。中ジャワ州のどこへ行っても、日本での経験を持つ若者たちが存在する。日本企業は、そんな彼らを生かすことができるのではないか。

技能実習生や研修生を単なる低賃金未熟練労働力ととらえず、将来の日本企業のインドネシア投資、あるいはインドネシアでのOEM生産などを念頭に、彼らとの関係を戦略的に作っていくことがこれから重要になってくるだろう。実際、日本の中小企業がインドネシアへ来て、自分たちと一緒に低コストで材料や部品を作ってくれるインドネシアの中小企業を探しているという話もある。もしそうならば、戦略的に技能実習生や研修生を日本で活用して、次のステップへつなげることが有用ではないだろうか。

そんな場としても、中ジャワ州はなかなか有望なのではないかと思う次第である。

中ジャワ州に関して、何かお問い合わせになりたい方は、私まで遠慮なくご連絡いただければ幸いである。日本でもっと中ジャワ州を勝手にプロモートしたいと思っている。

 

セイマンケイ特別経済地域はなかなか有望

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6月16日、北スマトラ州のセイマンケイ特別経済地域(KEK Sei Mangkei)を訪問した。

特別経済地域(KEK: Kawasan Ekonomi Khusus)は、中国の経済特区を意識した特区で、単なる工業団地ではなく、許認可手続や税制面で優遇措置が採られる。

KEK指定第1号であるセイマンケイは、2011年5月27日に建設が開始され、2015年1月27日に開所された。敷地総面積は1,933.8haで、そのうち工業用地は1,331haである。工業用地はオイルパーム工業区域(285.85ha)、ゴム工業区域(72.7ha)、一般工業区域(509.61ha)の3つに分けられる。第1期はオイルパーム工業区域から始められ、すでに、第3国営農園のパーム油加工プラントとユニリーバのパーム油原材料加工工場(下写真)が試運転中である。

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敷地内には、国営電力会社(PLN)の変電施設(12MW)が作られるほか、アチェ州のアルンLNGからプルタミナによって75MMSCFDのガスがパイプラインを通じて供給される。

敷地内には、企業幹部向けの高級住宅地や従業員向け住宅のほか、ゴルフ場、学校、スポーツ施設、商業施設なども作る予定である。

セイマンケイ特別経済地域は北スマトラ州の州都メダンから144キロ南東にあり、現時点では、車で約3〜4時間かかる。筆者が行った今回は、途中で渋滞に何度か合い、4時間近くかかった。しかし、今後、セイマンケイ特別経済地域とメダン及びその外港であるベラワン港、クアラナム国際空港が高速道路で直結する計画である。また、鉄道も敷設される計画である。完成後は、セイマンケイ特別経済地域とメダンは車で1時間半で結ばれるということである。

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セイマンケイ特別経済地域で特筆すべきは、ジョコウィ政権が「海の高速」構想で国際ハブ港に指定して整備を進める予定のクアラ・タンジュン(Kuala Tanjung)港と直結することである。セイマンケイ特別経済地域とクアラ・タンジュンとの間も鉄道と高速道路が計画され、これが完成すると、セイマンケイ特別経済地域からクアラ・タンジュンまで車で30分かからなくなる予定とのことである。

セイマンケイ特別経済地域の東部分には、ドライポートが造られ、通関手続はセイマンケイ特別経済地域の中で完結するようになる。すぐ脇に鉄道の駅と高速道路入口が設けられる。

セイマンケイ特別経済地域は元々、第3国営農園の所有するオイルパーム農園の中に造られた。このため、土地収用問題が回避されている。樹齢が長くて植え替え時期に至ったオイルパームの区域を特別経済地域に提供したのである。そして、セイマンケイ特別経済地域の管理運営は第3国営農園が担い、敷地内に事務所もすでに置かれている。事務所内にはまた、所在地のシマルングン県政府の出先が置かれ、許認可関係のワンストップサービスを提供する。

セイマンケイ特別経済地域と直結する予定のクアラ・タンジュン港は、国営アサハン・アルミが持つ輸出港を活用して開発される。港湾の水深が14〜15メートルあり、港湾としても良質である。メダンからのスマトラ縦断道路(一般国道)からのアクセス道路もしっかり作られ、その脇で鉄道レールの敷設工事が始まっていた。これらはすべて、30年間日本が関わってきたアサハン・アルミによるインフラ建設の成果である(といっても、インドネシア側へ移管された後のメンテナンスが良くないという声を聞いた)。

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まだ将来の話ではあるが、セイマンケイ特別経済地域はなかなか有望であるとの印象を持った。

第1に、ASEAN全体のなかで見たときに地理的位置が優れていることである。マラッカ海峡に面し、マレーシア、シンガポール、タイに近い。むしろ、ジャカルタやジャワ島が遠く感じる場所である。セイマンケイ特別経済地域は、インドネシア国内ではなく、ASEANのなかで位置付けるほうがよいと考える。

第2に、インドネシア国内に2ヶ所作る予定の国際ハブ港の1つ、クアラ・タンジュン港と直結することである。クアラ・タンジュン港は、近隣の港湾と競争することになるだろうが、効率性がある程度確保できれば、コスト面で十分競争可能となる。

第3に、土地収用問題が起こらず、土地自体も固い地盤の上に築かれることである。重工業の立地もOKである。現時点での用地価格は1㎡当たり50万ルピア(約4600円)程度である。敷地内に高級住宅も建設されるが、高速道路ができれば、メダンから車で通うことも可能になる。

セイマンケイ特別経済地域のある北スマトラ州は、全体として、電力不足となっているが、セイマンケイ特別経済地域は独自に電力源を確保するため、その影響を受けない。また、第3国営農園が管理し、土地問題を回避し、しかも特別経済地域として中央が直接監視し続けるので、地元で暗躍する政治家やヤクザ集団などからも距離を置くことができる。

セイマンケイ特別経済地域をインドネシアや北スマトラなどの枠で考えずに、ASEAN全体のなかで考えてみると、ここに生産拠点を構えてASEAN市場に浸透していく、世界へ輸出していくということは、一計に値するのではないだろうか。

まだ絵に描いた餅の域を出てはいないが、他の工業団地などと比べても、セイマンケイ特別経済地域の将来はなかなか有望であると感じた。

図書館舟、東インドネシア海域へ

今回の2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)では、図書館舟(Perahu Pustaka)を披露することも注目点の一つだった。図書館舟には約5000冊の本を積んで、マカッサル海峡をはじめとする東インドネシア海域の離島をまわる、という構想である。

この構想自体は、4月頃に、友人たちがツイッター上で話し合ううちに思いついて、あっという間に実行に移されたものである。その基には、東ジャワ州で馬に本を積んで山奥の村々をまわる活動や、タイで船に本を積んで離島をまわる活動があった。

図書館舟には、パッティンガロアン(Pattingalloang)号という名前が付けられた。パッティンガロアンとは、17世紀に活躍したゴア王国(ゴア・テッロ)の首相で、いくつもの外国語を解し、様々な学問と知識を広めた人物とされている。今回のMIWF2015のテーマ「知識と普遍」(Knowledge and Universe)は、あまり知られていないパッティンガロアンの再評価も意図していた。

MIWF2015が終了した翌日の6月7日、図書館舟の管理者である友人のイワン氏に誘われ、図書館舟に乗ってみた。舟はスラウェシ島南西部のマンダール地方の伝統舟で、けっこう小さい。

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10人も乗れば窮屈な感じがする。その船倉に本棚を作って本を並べ、子供たちが中で本が読めるスペースを作る予定である。

イワン氏はジャーナリストで、西スラウェシ州の地方新聞社に籍を置いているが、この図書館舟を管理するにあたって、何日も洋上で離島をめぐるため、兼任は難しいと判断し、地方新聞社を退職した。収入もないなか、しばらくは図書館舟の管理・運営に全力を尽くすという。

私たちの乗った図書館舟は、マカッサルのロッテルダム要塞前からソンバオプ要塞近くまで、約1時間半航海した。マカッサルの新興住宅地タンジュン・ブンガと対岸のバロンボン地区を結ぶバロンボン橋の手前まで来て、舟は止まった。ソンバオプ要塞近くへ行くには、この橋をくぐらなければならない。しかし、このままでは通行できない。マストが高く、橋にかかってしまうのだ。ではどうするか。

断念するのかなと思っていたら、船員がやおらマストを切り始めた。そして、とうとうマストを切ってしまった。
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マストを切った図書館舟は、無事に橋の下を通過し、ソンバオプ要塞近くへと向かった。

マンダール地方の伝統舟は、甲板に穴を開けてマストの棒を船倉まで落とすため、高さの調整ができない。このため、今回のような場合には、マストを切るしか方法がないのである。そして、新しく木材を調達し、再びマストを作るのである。実際には、今回の件に懲りて、図書館舟のマストは、高さの調整ができるように改修するとのことであった。

ともかく、図書館舟は、間もなく、離島を回り始める。しかし、まだまだ本の数が足りない。対象が離島の子供たちであることから、マンガや絵本が好まれるということである。

パッティンガロアンの精神を受け継いで知識に触れる機会を離島の子供たちに提供する、という高邁な理想とはちょっと離れるかもしれないが、本に触れる経験の乏しい離島の子供たちに何らかの刺激を与えることにはなるだろう。それに挑戦しようというイワン氏の覚悟は尊敬に値する。

図書館舟の航海の様子は、特設ウェブサイトでお知らせするということで、楽しみである。

 

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