インドネシア・東ジャワ州スラバヤ、マランを訪問

先週(2017年9月25〜29日)、インドネシア・東ジャワ州のスラバヤとマランを訪問しました。

今回は, インドネシアから日本を含む海外への研修生派遣についての現状を学んだほか、現地の実業高等学校がかなり革新的な取り組みを行っていることを知りました。

日本からインドネシアへ援助する時代は確実に終わりつつあることを改めて確認するとともに、日本とインドネシアが対等なパートナーとして一緒に学び合い、具体的に協働する時代が来ていることを確信しました。

スラバヤ出張(2016年12月7〜11日)

2016年12月7〜11日、インドネシア・スラバヤへ出張しました。

今回の出張は、公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES: Institute for Global Environmental Strategies)が実施する「アジア地域における地域資源ベースSCP(持続可能な生産と消費)イニシアティブの分析ならびに政策的支援の検討(事例研究)」の準備調査のお手伝いでした。

この調査は、アジアの都市部、都市近郊での持続可能な消費に関する取り組みを効果的に支援する政策パッケージを提案することを目的としているそうで、インドネシアにおける先進環境都市と自負するスラバヤ市において、持続可能なコミュニティ・イニシアティブを探るうえで参考となりそうなインプットを得たいということでした。

今回は、様々な市民活動のプラットフォームを目指して活動している若者グループであるAyorek / C2O図書館、エコロジカル・サニテーションを研究している私立スラバヤ大学環境研究センター、マングローブ保全活動とバティックなどへのマングローブ活用産品振興・コミュニティ開発の両立を進めるグループBatik SeRuの3カ所を案内しました。

この調査が今後、どのように展開していくかは分かりませんが、スラバヤの事例が単なる事例で終わらず、アジア各地での同様の事例と横に結び付き合いながら、新しい動きが生まれてくることを期待したいと思います。

今回で、本当に2016年のインドネシア出張は最後となります。

 

アンボンとスラバヤにて

今回のインドネシア出張でのメインは、アンボンとスラバヤでの講演だった。いずれも、インドネシア側から招待され、交通費、ホテル代、講演料も先方が負担した。

とは言っても、今回の成田=スラバヤは、燃料サーチャージ込みの往復で38,520円と破格に安い中華航空の便で行ったので、交通費でもお釣りがくるほどだった。これだけ安いと、日本国内の地方へ行くよりも、インドネシアへ出かけるほうが低コストとなるかもしれない。こうした状況も手伝って、私の感覚では、日本国内、海外という区別がほぼなくなっている。

アンボン(マルク州の州都)では2月11日、「マルク州と日本との貿易投資関係」と題して、シンポジウムで講演した。このシンポジウムは、EUがインドネシア東部地域の幾つかの州を対象に行っている貿易投資促進のためのプログラムCITRA(Centre for Investment and Trade Advisory)の一環で開催されたもので、EUから委託を受けたスラバヤのNGOであるREDI(Regional Economic Development Institute)からの依頼で招かれたものである。

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マルク州はもともと植民地時代から香辛料で有名だが、現在の主要産業は水産業であり、海産物の輸出で経済が回っている。しかし、養殖などの育てる漁業はほとんど根付いていない。20年前、スラウェシ島近海で「魚が獲れなくなってきた」という漁民の話を聞いてから久しいが、漁民は魚の群れを追って、スラウェシ島から東へ東へと移動し、今はマルク州の海域が主たる漁場となっているのである。

新政権のもとで、違法外国漁船の摘発が行われ、水産資源の枯渇スピードが若干遅くはなったが、マルク州内には水揚げした水産物を扱える場所もキャパも少ないため、水産物生産高が大きく減少し、地元経済にプラスとはなっていない。厳しい現実がそこにあった。

また、マルク州では、南東海域でマセラ鉱区の大規模ガス田開発の話が日本も関わる形で進んでおり、その権益を巡って、様々な思惑が入り乱れている様子が伺えた。この件については、後日、じっくりと調べてみたいと思う。

アンボンでは、5年ぶりに様々な旧友と再会し、ゆっくり話すことができたのが最大の喜びだった。

彼らと話しながら、「東インドネシア・ラブ」の気持ちがひしひしと沸いてきた。マルク州をもっと日本の方々に知ってもらうための役目を果たそうと思った。今年の11月ごろに、マルク州代表団が日本へ視察に来るという計画もあるようなので、その際には最大限のお手伝いをしたいと思った。

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2月14日は、東ジャワ州シドアルジョのムハマディヤ大学シドアルジョ校で、「日本における教育のモチベーション」という、主催者側から与えられた題で講演した。

教育学が専門ではないので、ちょっと的外れなことを言ったかもしれないが、目的が、参加者である学生(ほとんどが小学校教師になる)のモチベーションを上げることだったので、日本の学校の話をするだけでも刺激があったように思う。

しかし、わざわざ日本から人を招いて話を聞きかなければならないような内容だったのだろうか、という疑問はぬぐえない。日本人だったら誰でもよかったのかもしれない。でも、一緒に講演した方々が大上段に構えた大風呂敷の話をしていたので、もっと身近なことを生かした、学生の意識に働きかけるような話のほうが効果的なのではないかと思った。

 

スラバヤ・タンバックバヤン地区の中国正月

2月7日、肌寒い東京の自宅を朝早くに発ち、中華航空の台北、シンガポール経由でスラバヤに到着したのが夜12時前。途中の台北で、スラバヤの友人とFacebookメッセンジャーで面会の約束をしていたら、「8日朝、スラバヤの中国正月の様子を一緒に観に行こう」という話になった。

8日朝7時、英雄の像(Tugu Pahlawan)前に集合。日本との温暖の差が激しかったためか、肌の温度調節がうまくいかず、なかなか眠れぬままスラバヤ最初の夜が明けた。

眠い目をこすりながら、英雄の像前で友人と会い、彼の連れて行ってくれたのがタンバックバヤン(Tambak Bayan)地区。すでに、写真を撮りに多くの若者たちが集まっていた。スラバヤの写真愛好家にとって、中国正月の朝にタンバックバヤン地区に来るのは毎年恒例の行事の様子である。

タンバックバヤン地区は、1920年代頃、政治的理由で中国から逃れた人々が集まってできた集落で、その後、世界恐慌後の1930年代の経済苦境期には、カリマンタンやスマトラから失職した華人苦力らが駆け込んできた。もともとスラバヤで生まれ育った華人とは違う人々と言ってよい。華人とはいえ、生活は貧しく、あり合わせの材料で家を作って住んできた。

そんなタンバックバヤン地区だが、スラバヤの一般市民の知名度はさして高くはない。でも、スラバヤのなかで最も中国の雰囲気を残す場所として、写真愛好家らには知られているようだ。

このタンバックバヤン地区を友人と歩いた。まずは、住民のまとめ役を果たしているダルマ・ムリア財団(中国名:励志社)を訪問。ここは今、中国とスラバヤとの友好のシンボル的存在でもある。

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この励志社の向かい側に、タンバックバヤン地区の集落がある。集落の真ん中に大きな中心家屋(Rumah Induk)があり、その周りに約30戸ほどの小さい家々が長屋風に建てられている。

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中心家屋の中は小さい部屋に仕切られ、それぞれの部屋が仕事場(ワークショップ)として使われていた跡がうかがえる。ある部屋は台所の跡であった。真ん中に建ててある赤い柱は、バロンサイ(中国の獅子舞)が乗ったりするのに使うとのことだった。

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狭い路地に建てられた家々の軒先からは針金が貼られ、子供向けであろうか、中国正月の縁起物である赤い小さな祝儀袋(アンパオ)がつけられている。

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ここに住む人々はオープンで、訪れた人々を家の中に招いて、容易に写真を撮らせてくれる。住居は質素で、所得の低い人々が寄り添いながら生活している様子がうかがえる。昔から使われている井戸があった。この井戸はやや黄色く濁っているが、いまだかつて枯れたことはないのだという。

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タンバックバヤン地区は、2007年頃から土地収用問題で揺れてきた。近くにあるホテルが拡張するため、この地区の土地を収容しようと動いてきたからである。かつて、住む場所のない難民のような先代たちがようやくたどり着き、生活を取り戻したこの場所の記憶がなくなってしまうことに、多くの住民は耐えられなかった。激しい反対運動が起こり、それを大学生やNGO活動家らがアートの形をとるなどして支援した。でもすでに一部は買い取られ、駐車場となっていた。

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タンバックバヤン地区を歩いているうちに、そろそろバロンサイの始まる時間になった。バロンサイはこの地区の住民が演じるのではなかった。他所からバロンサイ演舞グループがやってきて、踊りながら地区を練り歩くのである。

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友人によると、バロンサイ演舞グループはスラバヤでわずかに5グループ程度しか残っていないのではないかという。中国正月は、彼らにとって数少ない稼ぎどきなのであろう。

バロンサイが終わると、集まっていた人々が去り、写真愛好家たちが去り、あたりは静かな中国正月の雰囲気になった。来年の中国正月も、今年と同じように、バロンサイを目当てに、瞬間的に人々が訪れることだろう。

スラバヤの街づくりは、旧来のカンポン(集落)を壊さずに、その居住空間を生かす形で長年にわたって進められてきた。外来の華人たちが作ったこのタンバックバヤン地区もそうしたカンポンの一つといってよい。しかし、都市の発展に伴って、かつては人間的な街づくりと賞賛された、そうしたカンポンを内包する形での街づくりにも限界が見え始めたように思える。

そしてまた、スラバヤの華人、あるいは「中国人」とは一体何なのか、ということも改めて考えることになってしまった。その出自や歴史的背景が異なることから、彼らをすべて華人、「中国人」として括ってしまうことの単純さ、浅はかさを感じたのである。ある意味、タンバックバヤン地区に集まった友人や写真愛好家の認識にも、なぜかそうした単純さや浅はかさを感じずにはいられなかった。

そうはいっても、興味深い機会に誘ってくれた友人には深く感謝している。友人は、スラバヤの町歩きの達人で、「Surabaya Punya Cerita(スラバヤは物語を持っている)」という本を出版しているダハナ・ハディ氏である。また近いうちに、彼とスラバヤの街を歩くことになるだろう。

私の別の友人で、Ayorek!という団体の主宰者の一人であるアニタ・シルビアさんが、タンバックバヤン地区について書いたエッセイがある。これも合わせて読まれることをお勧めする。彼女もスラバヤの町歩きの達人で、英語・インドネシア語のバイリンガル雑誌を発行している。

– Story from Kampung Tambak Bayan(英語)

– Cerita dari Kampung Tambak Bayan(インドネシア語)

Ayorek!のサイト(英語)はこちら

 

【スラバヤの風-46】ボヨラリは牛乳の町から繊維の町へ

中ジャワ州南東部、ソロ市のすぐ西隣の高原地帯、ムラピ火山の東側にあるボヨラリ県は「牛乳の町」として知られる。牛乳生産は1980年代に始まり、2013年時点で、ボヨラリ県の乳牛頭数は8万8,430頭、年間牛乳生産量は4万6,906トンであり、頭数で全国の約14.5%、牛乳生産量で同約8%を占める。たしかに、ボヨラリの街中には牛乳を売る店があちこちに見られ、牛乳を使ったドドール(羊羹の一種)も売られている。

 

一見するとのどかなボヨラリの風景だが、ここ数年、繊維・縫製を中心とした投資が急増している。投資調整庁(BKPM)のホームページでも、繊維・縫製産業の投資先としてボヨラリ県を紹介している。

ボヨラリ県投資・統合許認可サービス局によると、2006年時点で、同県の国内投資実績は6件、4,073億ルピアに過ぎなかった。ところが、2008年に460件が一気に進出した後は、2009年に621件、2010年に767件、2011年に859件、2012年に1,056件、2013年に938件、そして2014年に804件の国内企業が新たに進出し、2014年時点で計5,513件、1兆1703億9400万ルピアとなった。ただし、国内企業の投資件数は増えたが、その多くは比較的小規模の投資だったことが分かる。

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ボヨラリ県投資・統合許認可サービス局にて

ボヨラリ県への外国投資は、1995年に2件、2001年に1件進出して以降、2007年まで全くなかった。それが2008年、2010年、2012年、2013年に1件ずつ進出した後、2014年になって一気に4件へ増加した。その結果、外資系企業は現在11社となり、そのほとんどが韓国系などの繊維・縫製である。このように、ボヨラリ県は投資ラッシュとなっているが、工業団地はまだなく、投資企業は県の空間計画で定められた工業ゾーンに立地することになる。

実は、2013年から、韓国政府による援助の下、ボヨラリ県に繊維・縫製を主とする敷地面積約500ヘクタールの工業団地を建設する計画があった。しかし、計画が公になるとすぐに地価が上昇し始めた。2010年頃は1平方メートル当たり2万ルピア(約180円)だったのが、2014年には 50万ルピア(約4,630円)へ急騰した。このため、地権者がなかなか用地買収に応じず、結局、韓国政府は協力の継続を断念するに至った。ボヨラリ県政府は、韓国政府に代わる新たな事業者を探して、工業団地建設を継続する意向である。

ボヨラリ県は投資許認可のワンストップ・サービスを完備し、建築許可(IMB)と妨害法許可(HO)以外の許認可手続は無料化した。ボヨラリ県への繊維・縫製企業進出はまだ続くだろうが、一部ではすでに、ボヨラリ県から周辺のスラゲン県などへ工場を再移転する動きも見られる。ボヨラリ県とその周辺県との投資誘致競争は熱を帯びている。

 

(2015年3月29日執筆)

 

【スラバヤの風-45】中ジャワ州の一村一品

先週、地方投資環境調査のため、中ジャワ州へ出張した。まず、州都スマランにて、新任の中ジャワ州投資局長を訪ねた。近年、中ジャワ州は、ジャカルタ周辺地域からの工場の移転・増設が急増しており、もちろん、その辺の話もしたのだが、彼の話に熱がこもったのは、前職の協同組合・中小事業局長時代に手がけた一村一品についてだった。

一村一品とは、1970年代初頭に当時の平松守彦大分県知事が名づけた地域おこし運動であり、自分たちが誇れる産品を最低一つ作り上げ、その価値を高めながら自分たちの地域の価値を高めていくことを目的とする。現在、世界中の国々で一村一品を取り入れようという動きがあり、インドネシアでも1990年代半ばから様々な試みが行われてきた。

中ジャワ州では、協同組合・中小事業省の指導の下、2003年3月から一村一品に取り組み始め、すでに、各県のいくつかの工芸品を一村一品対象に指定した。それらは、たとえば、ジェパラ県のトロソ織、クラテン県の縞状のルリック織、プマラン県のゴヨール織、ソロ市のバティックなどである。中ジャワ州はプカロンガン、ソロなどバティックの産地が多く、そのイメージが強いが、実は、織機を使わない手織物の宝庫でもある。

中ジャワ州で2003年3月に一村一品の開始が宣言されたのは、州内でもあまり目立たない南東部、東ジャワ州と接するスラゲン県であった。スラゲン県の特産品であるゴヨール織とバティックも中ジャワ州の一村一品に指定された。

実は、手描きバティックの下請け作業の多くはスラゲン県内で行われている。それがソロやジョグジャカルタでバティックの有名ブランドとなり、ジャカルタで売られる際には、スラゲン県から搬出されるときの10倍ぐらいの価格に跳ね上がるのである。

手描きバティックや手織りの織物を制作するには、単調な細かい作業に長い時間を費やす。これらを担うのはほとんどが女性労働力であり、この点からも、中ジャワ州の女性労働力は忍耐強く、細かい作業を長時間集中して行う能力に長けているとみなされる。ジャカルタ周辺地域の労働集約型工場を支えているのも、彼女たちであるとよく言われる。

中ジャワ州の一村一品を受けて、スラゲン県は2014年11月、県内のすべての村を対象とする一村一品を宣言し、産品でも芸能でも、最低一つの誇れるモノを生み出すよう求めた。そして県は、それらを様々な機会に他所へプロモーションすることを約束した。

インドネシアでもようやく、プロジェクトではなく地に足をつけた運動としての一村一品が、地元レベルで起こり始めたようである。

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スラゲン県投資局のワンストップ・サービス・デスク。

 

(2015年3月13日執筆)

 

【スラバヤの風-43】最低賃金から見る地方経済

過去3年間のジャワ島内の最低賃金の変化を県・市レベルで眺めてみる。一般に、経済活動が活発化すると最低賃金が大きく上昇し、停滞するところでは上昇率が低いと考えられる。最低賃金の算出には、当地での物価水準や家計の消費行動が反映されるので、最低賃金をみることは、地方経済の活況度合いを計ることにもつながる。

ざっと見て、ジャワ島の地方経済に起こっている現象には2つのポイントがある。

第1に、最低賃金の上昇トレンドの継続である。なかでも、2015年最低賃金の上昇率でとくに注目されるのは、そろって20%以上上昇した東ジャワ州のスラバヤ市とその周辺4県で、すでにジャカルタ周辺地域と遜色ないレベルに達した。「労働コストの低いスラバヤ周辺へ」とはもはや言えない。その一方で、中ジャワ州は全般に10%台の上昇に留まる。

ジャワ島全体の116県・市で最低賃金が100万ルピア未満だった県・市の数は、2013年が58だったのが2014年に11へ減り、2015年はゼロになった。反対に、200万ルピア以上は、2013年の12から2014年が20、2015年は24へ増えた。ちなみに、2015年最低賃金の最高は西ジャワ州カラワン県の295万7,450ルピア(これにさらに業種別課金が加わる)、最低は中ジャワ州バニュマス県の110万ルピアであった。約3倍の差である。

第2に、最低賃金が大きく上昇した県・市がジャワ島の北海岸に集中する一方、それ以外は上昇率が総じて低いことである。すなわち、ジャワ島全体で北部の大都市周辺が豊かになる一方、中南部は停滞気味という「南北問題」の色彩が強まっている。

なかでも、西ジャワ州南東部(パガンダラン県、チアミス県など)と中ジャワ州南西部(バニュマス県、プルバリンガ県、バンジャルヌガラ県など)、及び中ジャワ州南東部(ウォノギリ県、スラゲン県など)と東ジャワ州南西部(マゲタン県、パチタン県、ポノロゴ県、トレンガレック県など)といった州境付近の県・市の最低賃金は、まだ110〜120万ルピア程度である。これらは人口の多い貧しい農業地域で、これまでジャカルタ周辺などへ工場労働者や家事労働者などを供給してきた。

日本側で一般的に知られるジャカルタ周辺やスラバヤ周辺では、安い労働コストを求める事業展開はもはや限界に来つつある。そこでは地場中小企業でさえ、機械化・自動化を検討している。他方、ジャワ島中南部の最低賃金はまだジャカルタ周辺の2分の1以下であり、手先が器用で従順な女性労働力などを活用する労働集約企業が生き残れる余地は大いにある。そこでは、ほどなく工場進出による農村社会の大きな変貌が起こることだろう。

ジャワ島内の地域格差問題を視野にいれると、1970年代の日本の変化がどうしても重なって見えてくる。

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中ジャワ州ソロ市の地場縫製工場にて

 

(2015年2月15日執筆)

 

【インドネシア政経ウォッチ】第139回 高速鉄道事業をめぐる顛末(2015年10月8日)

ジャカルタ~バンドン間の高速鉄道事業をめぐる日中の受注競争は、結局、中国に軍配が上がった。ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領は、いったんは双方案を白紙にし、中速鉄道として再提案を受けると表明していたが、最後にそれを翻した。

当然、日本政府は反発した。受注できなかったからというよりも、インドネシア側の対応に誠意と一貫性がなかったからである。地元メディアは、早くも「二国間の信頼関係に影響を及ぼす」との懸念を伝えている。

そもそも本件は、日本による事前調査は行われたものの、中期計画に組み込まれるような緊急性の高い案件ではなかった。政府から「実施するなら国家予算や政府保証なしで」という条件が付いたのはその表れである。

実は、4月時点で中国・インドネシアの国営企業が本件でコンソーシアム(企業連合)を組むことが内定していた。インドネシア幹事の国営建設ウィジャヤ・カルヤ(ウィカ)は7月、このために3兆ルピア(約 256 億円)の政府追加出資を求めた。リニ国営企業大臣は10 月5日、ウィカに4兆ルピアの政府追加出資を行うと発表したが、高速鉄道建設関連ではないとわざわざ強調している。

リニ大臣によると、事業実施に当たって中国との合弁企業を設立し、インドネシア側が60%出資する。また、返済40年(支払猶予10年)、年利2%で、 国営銀行3行が中国開発銀行から50億米ドル(約6,000億円= 30%は元建て)を借り入れる。

国家予算から国営企業へ政府追加出資があり、国営銀行が仮に返済できない場合には政府の後ろ盾がある。「国家予算も政府保証もない」という条件を満たすかといえば、実は微妙なのではないか。

日本側の不満を受けて、テテン・マスドゥキ大統領府長官は、「日本側にはまだ投資可能な案件が多々あ る」と弁明したが、その例のなかに、ジャカルタ~スラバヤ間の高速鉄道が含まれていた。今回のジャカル タ~バンドン間とは別なのか。中国の動きを見ながら、日本もインドネシア側のニーズをしっかり汲み取りつつ、戦略を練っていく必要がある。

 

(2015年10月6日執筆)

 

【スラバヤの風-42】ユニークな開発を目指すバニュワンギ

ジャワ島の東端、バリ島を目の前に臨む東ジャワ州バニュワンギ県は、ユニークな立ち位置にある。ここでは、車で6時間以上かかる東ジャワ州の州都スラバヤとの関係よりも、むしろ、フェリーを使ってわずか30分の、海を隔てたバリ島との関係を意識している。

バニュワンギの海岸からバリ島を臨む

観光地であるバリ島では環境アセスメントが厳しく、新規の製造業投資が制限される。家具、工芸品、縫製品などの新規・拡張投資は難しい。バニュワンギはそれらの受け皿としての役目を果たそうとしている。バニュワンギ県の2015年最低賃金は142万6000ルピアと定められ、バリ州各県の162万2000ルピア〜190万5000ルピアを下回る。実際、バニュワンギからバリ島へ多くの職工が家具製造などに出かけていたが、今後は地元で働くことが期待される。

合わせて、バリ島からの観光客の誘致も図ろうとしている。コーヒーや果物などの体験型観光農園やアグロリゾート構想などがあり、国内外の投資家の関心を集めている。古いジャワ文化とバリ文化の混じった独特の文化があり、黒魔術のような神秘主義の要素も色濃く残る。バニュワンギ県は年間イベントカレンダーを毎年発表するが、ほぼ毎月様々な観光イベントが催されている。色鮮やかな衣装に身を包んだバニュワンギ・エスノカーニバルは盛大に開催されるほか、全身を真っ黒に塗った男たちが水牛の形相で練り歩いて収穫を祝うケボケボアンという伝統的な奇祭もある。

バニュワンギは、バリ島との間が深い海底で区切られるため、ジャワ島では珍しい水深18メートルのコンテナ港の建設が計画されている(スラバヤのタンジュンペラッ港は水深7メートル)。この港の近くに複数の工業団地開発が予定され、2015年中にマスタープランを完成させ、2017年の入居開始を目指す。民間のウォンソレジョ社が開発する約500ヘクタールの工業団地には、すでに小麦粉製粉、食料品、二輪車などの企業が進出の意向を見せている。原材料を外から持ち込み、工業団地で生産して外へ輸出・移出する製造業のほか、製鉄などの重化学工業の進出も想定している。

バニュワンギ県知事は、インドネシアで最も投資しやすい県となることを宣言している。中央政府による全国ブロードバンド化事業の第一号として、他県に先駆けて光ファイバーが敷設された。県統合許認可サービス局は、すでにジャカルタの投資調整庁とオンラインで結ばれ、スムーズな許認可プロセスを実現している。投資家には会議用の部屋を用意し、空港出迎えを行うという熱の入れようである。ここしばらくは、ユニークな開発を目指すバニュワンギから目が離せなさそうである。

 

(2015年1月31日執筆)

 

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