自分のインドネシア観は、もしかしたら異常なのかもしれない。
最初は首都ジャカルタの、日本人はおろか外国人がほとんど住んでいない東ジャカルタのジャワ人の家に下宿して、インドネシア語漬けの毎日を過ごした。
2回目のインドネシア滞在は、首都ジャカルタのコスで5ヵ月過ごした後、南スラウェシ州の州都マカッサル(当時の名称はウジュンパンダン)に4年7ヵ月住んだ。このときは、家族3人と一軒家に住み、4人の使用人を使って生活した。
次は、再びマカッサルに単身で2人の使用人を使って、3年7ヵ月住んだ。大きな2階建ての家を借り、自分は1階の後ろ半分に住み、残りは、図書館、アートスペース、ワークショップ会場など、地元の若者たちや彼らのNGOの活動スペースにしてもらった。
その次は、ジャカルタで単身コス暮らしを3年して、スラバヤへ移った。
つまり、首都ジャカルタにいた時間よりも、地方都市にいた時間のほうが多かった。
そして、地方から首都ジャカルタを眺める時間が多かった。それは、まだ幼い頃、生まれ故郷の福島から東京を見ている感覚を思い出させた。
テレビ・ドラマに移るジャカルタの風景を、地方の人々は別世界ととらえ、かつあこがれの対象としていた。「自分たちとは違う世界だ」という気持ちと「いつか行ってみたい」という気持ちとが混ざっているようだった。
自分が福島にいたときもそうだった。東京の人たちはみんな頭が良くて、ファッションに気を使い、洗練されている。自分のような田舎者が生きていける世界ではない。でも、ちょっと覗いてみたい。
そんな気持ちだった自分が、決して頭がよいわけでもなく、ファッションセンスがいいわけでもなく、洗練されてもいないのに、東京で家庭を持って暮らせたのは幸運だったのかもしれない。
首都ジャカルタは、多くのインドネシアの人々にとっての、そんな場所だと悟った。すなわち、首都ジャカルタはインドネシアであるが、インドネシアを代表する場所ではなく、ある意味、インドネシアで一番特殊な場所だということを悟った。
現在、インドネシアに関する情報発信の多くは、首都ジャカルタと観光地バリ島に集中している。インドネシアで一番特殊な場所からインドネシア情報を発信する。タムリン通りとスディルマン通りとカサブランカ通りの周辺をめぐって、インドネシアはどんどん発展している、という情報が日本へ伝わる。もちろん、それ自体は間違っていない。でも、それは、ほかの大半のインドネシアを決して代表してはいない。
反対に、インドネシアにおける日本イメージは、東京や大阪の情報に基づく部分がかなり多い。近代的、都会的、交通機関が整っている。インドネシアの若者と話していて、日本の東京・大阪以外の様々な地方や農村のイメージをほとんど持っていないことに気づかされる。
日本の地方からインドネシアへの経済・投資ミッションが頻繁に訪れるが、その大半は、ジャカルタ周辺のみである。自分たちと同じ立ち位置にある、インドネシアの地方への想像力がそこには欠けている。
インドネシアの地方都市のなかには、日本の地方都市と姉妹関係を結びたいというところが少なからずある。しかし、その背景には、あたかも東京のようなイメージでの日本の地方都市への期待が隠れている。
日本の地方とインドネシアの地方とをもっと結びつけることによって、日本とインドネシアのイメージをより豊かにし、等身大でつきあえる関係を作っていく段階に入っているのではないかと感じている。
ジャカルタはインドネシアではなくなろうとしている。そんな言葉も、マカッサルでは聞いた。東京が日本を代表している、といえば、多くの日本人が「日本は東京だけじゃない」と思うことだろう。
自分はこれまで、ジャカルタとは違うインドネシアを日本へ向けて発信し、東京とは違う日本をインドネシアに向けて伝えてきたつもりだが、まだまだ力が足りない。自戒しながら、このブログをそうした媒体として使いたいと思ってきた。
もっと多く人たちが、様々なインドネシアを発信し、逆に様々な日本を発信していくことを願っている。