今回マレーシアで食べたもの

昨日1月18日、クアラルンプールから東京へ戻りました。今回、マレーシアで食べたものは、次のようなものでした。

まずは、1月12日、マラッカの昼食で食べたカレーセット。マラッカの有名店Selvamにて。

バナナの葉の上にご飯、アチャール、野菜カレー、パパドなどが載せられ、チキンカレー、マトンカレー、豆カレー(ダル)から選んだ1つをご飯の上にかけてもらいます。合わせて、イカのサンバル煮、揚げ魚、ゆで卵カレー、マトンカレーを追加でチョイス。

飲み物はマンゴーラッシーを注文、食べた分だけ支払う仕組みです。食べ終えたら、バナナの葉を半分に畳みます。

インドのターリーとインドネシアのパダン料理のミックス、のような形に思えました。

次は、1月16日、マカッサルからクアラルンプールに夜着いて、11時半頃に食べたマトン・ブリヤニ。

長粒米のブリヤニにキャベツの炒め物とゆで卵が添えられ、その上から豪快にマトン・カレーがかけられた一品。これで11.5リンギ。ご飯の上にゆで卵が載っているのは、マカッサルの定番ナシ・チャンプルを思い出させます。
1月17日のランチは、NUセントラルのDolly Dimsum。この店は、ハラールの飲茶レストランで、ランチをご一緒した友人(イスラム教徒の女性)は前から興味があったとのこと。でも、インドネシアでは、ショッピングモールに入っている中華系レストランは、すでにほとんどがハラールなので、ちょっとびっくりしました。マレーシアの中華系レストランは、まだイスラム教徒を客としてあまり認知していない様子がうかがえます。
そして、その彼女が持ってきたモナカアイスも賞味しました。

ソルティーキャラメル味とイチゴミルク味。皮がサクサクしていて、なかなかの味でした。保冷バッグに入れてこられたのですが、食後に食べたせいか、中身が溶け始めていたのがちょっと残念。でも、このモナカアイス、クアラルンプールではけっこう受け入れられるのではないでしょうか。現在、ハラール認証申請中で、将来はフランチャイズを志向しています。インドネシアやシンガポールなどへも広がるといいな、と思います。

1月17日の夕食は、友人と一緒に新峰肉骨茶(Sun Fong Bak Kut Teh)。クアラルンプール在住者ならきっと必ず知っている、1971年創業の有名店です。今回が二度目ですが、しっかりと堪能しました。

まずは、ニラのような青菜ともやしの炒め物。シャキシャキ感がたまりません。

次は、オリジナル肉骨茶。レタスなどが入っていない、肉骨茶のなかの肉骨茶という感じの美味しさ。

ドライ肉骨茶というのも注文しました。これもなかなかいけますが、やはり、薬草などが入ったスープと一緒の肉骨茶のほうが好みです。

インドネシア・マカッサルの名物料理に、骨つき牛肉を煮込んだコンロというのがあります。通常はスープ・コンロとして汁付きですが、汁なしのコンロ・バカールがジャカルタで発明され、マカッサルに逆輸入されるということが起こりました。前々から、このコンロと肉骨茶とは、牛と豚という肉の違いはあれ、何らかの関係があるのではないかと考えています。

新峰肉骨茶での最後の締めは、豚肉ビーフン。この豚肉が三枚バラ肉で、柔らかくてとろけそう。病みつきになりそうな美味しさでした。

新峰肉骨茶を出てすぐのところに、ドリアン屋の屋台が出ていました。

猫山王というドリアンを食べさせる屋台です。この猫山王ドリアン、後で知ったのですが、黄色みを帯びて味が濃く、ドリアンの中でも最も美味しい部類のドリアンとのこと。

たしかに、ドリアンとしては小ぶりなのですが、肉厚で、味がとても濃厚でした。うーん、至福のとき。でも、1キロ60リンギと高く、これは1.5キロだったので90リンギ。結局、80リンギにまけさせて賞味しました。

クアラルンプール最後は、1月18日、KLIA2のフードコートで、チキン土鍋飯(Claypot Chicken Rice)を食べました。

タマゴが載っていて、熱々をタレ付きご飯と混ぜ混ぜして食べる、この幸せな気分。おこげもまた、カリカリしていい感じでした。

食べることで、自分が楽しく、元気になれるような気がします。今回も、「どうだ、私を食べてみよ」と言われているような勢いのある食べものたちと出会えて、元気に前向きに一層慣れたような気がします。

また、食べにきます!!

1月12日、マラッカを歩く(3ー了)

いろんな博物館があるものだなあと思いながら、橋を渡って、マラッカの古い街を歩きました。

橋を渡ったところに、街の雰囲気を壊さないように配慮したと思われるハードロック・カフェがありました。

さらに進むと、鄭和マラッカ来訪611周年を祝う垂れ幕が掲げられ、その上部にマレーシアと中国の国旗が描かれていました。

ジョンカー・ウォークと名付けられた街歩きをしているわけですが、古い街並みが続きます。その多くは、飲食店や商店として活用されています。

通りに面した建物の間口は狭く、鰻の寝床のように奥が深い、華人系の建物の特徴を表しています。

福建会館がありました。この種の会館も多数見られます。

しばらく歩くと、マラッカで最も古いモスクがありました。Masjid Kampung Klingという名前で、1748年にスマトラ式建築で建てられました。ヒンドゥー寺院のような尖塔、床に敷かれた西洋風のタイル、西洋風シャンデリアのようなランプ、インド風あるいは中国風の壁の彫刻など、モスクとはいえ、他からの様々な影響を受けた様子がうかがえます。

その隣には、ヒンドゥー寺院がありました。Sri Poyatha Venayagar Moorthi寺院で、1781年に建てられました。門が閉まっており、残念ながら中には入れませんでした。

さらにその隣は、華人系の増瀧会館で、ここは、イスラム、ヒンドゥー、中国仏教の3つが隣同士で並んでいるところなのでした。

そこから西へ少し歩くと、マラッカ、いや、おそらくマレーシア最古の華人廟である青雲亭(Cheng Hoon Teng)があります。1673年、中国人が初めてマラッカへ入植した頃に建てられた廟で、観音像を中心に道教、儒教、中国仏教が平等な位置に置かれています。

そこからすぐの場所には、伝統的な高床式住居があり、人が住んだまま保存されていました。高床式といっても、南スラウェシのブギス族のものに比べると、地面からの距離は随分と少ないです。

高床式住居から少し奥に入ったところに、Syamsudin Al-Sumatraniの墓があります。彼は、Sultan Iskandar Muda治世下のアチェ王国の著名な学者・著述家でした。彼は、ポルトガルの占領されたマラッカを解放するためアチェから派兵された軍隊に加わり、マラッカで戦死し、ここに葬られているということでした。

今回は、わずか3〜4時間という時間の関係で、マラッカの古い街歩きもハイライトのみでした。次回来るときは、他の道や路地裏をゆっくりと探検したいところです。でも、昼間歩くのは暑くて、かなり堪えそうな予感がします。

街歩きの最後は、マラッカで有名な庶民的インド料理店Selvamでのランチでした。テーブルに敷かれたバナナの葉の上に、ご飯やおかずが載せられ、追加で他のカレーや揚げ魚などを注文します。ご飯とカレーは「お替りいかがですか」と何度も聞かれます。食事が終わったら、バナナの葉を半分に折ります。うーん、満腹、美味しかった!

1月12日、マラッカを歩く(2)

パウル教会跡の丘を下りて門を出ると、2004年にできたマラッカ独立花公園(Taman Bunga Merdeka Bandaraya Melaka)があります。子ども用の遊具も置かれた普通の公園ですが、その真ん中に、周囲を囲まれた黒いポールが立っています。

これは、ザビエルがマラッカに上陸した場所だそうです。つまり、以前はここまでが海だったということです。黒いポールについての説明は何もありませんでした。

パウル教会跡の丘の下には、幾つもの古い建物がまだ残っていますが、その多くは今は博物館として使われています。その数がけっこうありました。

マレー・イスラム世界博物館(上写真)の前には、キティちゃん風船がいっぱいのリキシャーが客待ちをしていました。

マラッカ・イスラム博物館(上写真)。

マレーシア建築博物館(上写真)。

マラッカUMNO博物館(上写真)。UMNOとはマレーシアの与党です。

パウル教会跡の丘の上には、こんな博物館もありました。

民主政府博物館。この建物は、マラッカ州知事公邸(ちょっとあやふやですが)として使われていたそうです。

いろいろな博物館がありましたが、それらのうちのどれがお勧めなのか、どなたか教えていただけると嬉しいです。次回、マラッカを訪問した際に、行ってみたいと思います。

1月12日、マラッカを歩く(1)

マカッサル滞在もあとわずかですが、少し時間があるので、1月12日のマラッカ訪問の話を半分ぐらい書いておきます。

クアラルンプールからマラッカまでは、意外に近かったという印象があります。高速バスでKLIA2からマラッカ・セントラルまで2時間、マラッカ・セントラルからクアラルンプールのTBSまでも2時間、でした。クアラルンプールからならマラッカは十分に日帰りできる距離で、今回も数時間の滞在でしたが、できれば1泊してゆっくり回りたいものだと思いました。

KLIA2からバスで到着後、マラッカ・セントラルで友人とおちあい、マラッカ・セントラル内にある荷物預り所にスーツケースを預けて出発。まずはバスで市内中心部へ(バスは30分に1本ぐらいしかないようです。料金1リンギット)。
バスを降りて少し歩くと、マラッカ川の橋のところに出ます。ここからマラッカ川沿いの歩道を歩いて行きます。ウォーターフロントをきれいにした様子で、昔に比べると川がずっときれいになったのだそうです。
川沿いの建物には、マレーシアの諸民族の絵が描いてありました。

「ここで写真を撮れ」という看板もありましたが、何が被写体としていい景色なのかは不明です。
「1万歩歩きましょう」という看板もありますが、そのような人は誰も見かけませんでした。
しばらく行くと、1845年に建てられた聖フランシス・ザビエル教会(カトリック)が現れました。
ここには、日本へも布教に来たザビエルの像(下写真の右側)の隣に、やじろうの像(下写真の左側)が立っています。
やじろうは今の鹿児島県の出身で、ザビエルを日本に連れてきたという通訳の人物です。海賊の出身とも言われますが、その生涯は多くの謎に包まれているようです。
聖フランシス・ザビエル教会の内部。

しばらく、赤い色の建物の通りを歩いたその先には、やはり赤い建物のマラッカ教会(オランダ時代の1753年に建立)が建っていました。
このマラッカ教会の脇から小高い丘の上へ登っていきます。
丘の上にもザビエルの像がありました。やじろうと一緒の像とはちょっと趣の異なる感じがします。
丘の上には、破壊されたセントポール教会(ポルトガル時代に建立)の跡がありました。ザビエルがマラッカに到着した1545年頃に建てられた教会で、ザビエルの死後、1553年に遺骸がこの場所に保管されたそうです。その後、イギリス統治下で破壊されましたが、それをラッフルズが批判して途中でやめさせたということです。
ザビエルの遺骸が安置された場所は、金網で覆われていました。
内部には墓碑がいくつもあり、その中には、日本人のものと思われる墓碑もありましたが、上部にはドクロ・マークが。
丘から下ると、オランダ人の墓があります。
坂を下りていくと、やはり破壊された門の跡がありました。
丘の上から見たマラッカ死骸ですが、ポールから向こうは、かつては海だったところを埋め立てて、新しい市街地を作ったということでした。
マラッカの支配者がポルトガル、オランダ、イギリスへと変わっていった様子が残された建物からうかがえます。そして、その眼下には、新しいマラッカの街並みが広がっていて、列強による植民地時代から一気に現実へ引き戻されるような、そんな感覚を持ってしまいます。