小松理虔著『新復興論』を読了
購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。
購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。
12月4日、福島第2原発を視察するという貴重な機会があった。
今回も、先週と同様、福島イノベーション・コースト構想推進機構の第2回ツアー「リスクマネジメント・コース」(12月3~4日)に参加してきた。
そのメインが、福島第2原発の視察だった。そして、福島第1原発の事故の際の経験をもとにした避難者による避難所運営に関わるマネジメントや、福島第2原発が事故を防げた理由を学びながらリーダーがどのようなりリスクマネジメントをすべきか、について、ワークショップが行われた。
福島第2原発は、富岡町と楢葉町にまたがって立地する。東京電力は、2019年7月31日、福島第2原発1~4号基のすべてを廃炉とする決定をした。もちろん現在は稼働していない。ただし、燃料棒はまだ残っているため、高い値になることはないにしても、放射線に関する管理は厳格に行われていた。
福島第2原発を視察する意味は、実際に原子炉建屋の中、燃料棒などのある圧力容器の下へ入ることができたことである。事故のあった福島第1原発の視察では、線量が高いため、実際に中へ入ることはできない。内部がどうなっているかを見るには、福島第2原発の視察でその機会があることが有用である。
視察では、携帯、カメラ、メモ道具など何も域内へ持ち込めない。ポケットのなかのハンカチも持ち込めない。
案内の東京電力の方々の指示に従い、赤い来客者カードをぶらさげる、白い入館者カードをぶら下げる、ベストを着る、ヘルメットを持つ。原子炉建屋に入ると、線量計を渡される、靴下を履き替える、靴を履き替える、オーバーオールを着る、白い手袋をはめる。白い手袋の上からビニール手袋をはめる。圧力容器の下へ向かう前に、もう一度靴下を履き替え、もう一度別の靴を履き替える。
とにかく、放射線量の高低に応じて、次から次への身に付けるものが変えられる。肌がむき出しにならないように身につける。夏場は確実に蒸して暑くなるだろう。
原子炉建屋内を歩く際、床に手をつかないように気をつける。床についた手で顔を触ると顔が汚染される可能性があるからとのこと。
原子炉建屋内での視察を終えると、それまでとは逆に、身につけたものを脱いでゆく、原子炉建屋の中を歩いてきた靴下を脱ぐ際には、放射線域で脱ぎ、脱いだ後の素足をそこへ降ろさず、非放射線域へとまたぐ必要がある。
一通り終わって、係員へ線量計を返す。係員が線量計の値を読み上げる。「0.000ですね」とのこと。
原子炉建屋の圧力容器の下は、様々なコードや棒が飛び出ており、体をかがめる必要があった。福島第1原発では、この部分が高熱で溶けてしまい、網状の足元のからさらに下へ落ちていってデブリになったのだ、とリアルに納得できた。福島第1原発では今、自分たちがいるのと同じ場所へ人間が入ることはできず、ロボットを使って内部の状況を確認しようとしているのだ。
福島第1原発の原子炉建屋の内部を見ることはできないが、福島第2原発のそれを見学することで、ある程度リアルにその様子を想像することができる。
また、放射線管理がいかに細かく、最新の注意が払われているかを、様々なものを身に着けたり、ボディチェックを繰り返すなど、面倒なプロセスに時間をかけることも、実際に体験することで納得できる。
写真にもメモにも残せず、ただ自分の五感の記憶に頼らざるを得ないのが難点だが、機会があれば、できるだけ多くの方々に福島第2原発を視察していただければと思う。
3月8日。朝、福島市を出発し、飯館村に新たにオープンした道の駅いいたてに立ち寄りました。ここで、岩手県、宮城県から南下してきたもう1台のグループと合流しました。
道の駅いいたては、木材をふんだんに使った新しい建物で、入口に掲げられた村の人々一人一人の大きな笑顔の写真が印象的でした。
道の駅いいたてを出発し、南相馬から常磐自動車道を経由して、浪江町へ。メディアからすれば、浪江町で避難指示解除があった今年は「浪江の年」になりそうです。
浪江町役場に到着。立派な建物です。役場の方によると、現時点での町民は約500人、300世帯程度ということです。
浪江町役場の脇には、いくつかの小さな仮設店舗が集まった「まち・なみ・まるしぇ」がありました。
ここでランチ。食べたのは、もちろん、なみえ焼きそば。特徴の太いうどんのような麺をこってりソースで炒め、麺の上に大ぶりの豚肉が3切れのっています。
浪江町役場からそう遠くないところに、災害復興公営住宅が建てられていました。
4月から再開される小中学校は、小学校8人、中学校2人で開校、ということでした。元々の中学校の場所に、小学校と中学校を(一貫ではなく)併設する形で開校するそうです。
浪江町の後は、南相馬市小高区へ。
以前、2012年8月、誰もいない小高へ行きました。誰もいない、野良猫しかいない場所に、なぜか商店街の音楽だけが流れていました。以下の2枚は当時、小高で撮った写真です。
今回行ったら、小高は、人の気配のある町になっていました。「なぜ、人のいない町で音楽が流れていたのか」と聞いたところ、音のない街は死んでしまうと思った小高の商工会長さんの意向で、あえて流していた、ということが今回の訪問で分かりました。
最初に訪問したのは、小高復興デザインセンター。南相馬市と東京大学が運営する復興のための協働拠点です。
小高復興デザインセンターで、最近の小高での取り組みについてうかがった後、近くにある小高ぷらっとほーむ(小高工房)を訪問しました。
ここは、誰でもふらっとやってきて、お茶を飲んだり歓談したりできる、どんな人にとってもの居場所という役目を果たしています。ガヤガヤと押し寄せた我々も、ゆるっとした雰囲気で受け入れてもらえました。
しばらくすると、代表の廣畑裕子さんが我々を別室へ招き、活動内容をお話ししてくださいました。別室へ招かれたのは、その時に訪れていた方々のなかには、いろいろな方がいらして、ふとした瞬間にトラウマや悲しみの感情が溢れてしまうこともある、という理由でした。誰にとっても、その存在を否定せずに受け入れる、どんな人にとっても居場所となることが大事なのでした。
廣畑さんは、10分ぐらいとおっしゃっていたのに、30分近く、7年目を迎えるにあたっての思いを真剣に話してくださいました。喜怒哀楽をもった普通の人間が生きている。でも、よそ者のメディアは、7年経っても悲しみにくれる映像を求めてくる。被災地の人間は笑ったり、楽しくしていたりしてはいけないのか。廣畑さんは、ときに怒りを込めながらも、自分たちの気持ちをなかなか分かってもらえない虚しさやもどかしさを訴えていました。
廣畑さんは、この7年間の思いを文字の形で映像にしています。でも、それは英語版のみです。日本語で書いて英訳したものなのですが、英語版のみをユーチューブにのせています。いかにそのサイトを上げておきますので、ご覧になってみてください。
I will live my life fully today. 311 minamisoma odaka
建物の壁面には、来訪した若者たちによる描画がありました。
小高には、小高ワーカーズベースや柳美里さんが準備中の本屋「フルハウス」(私もささやかながらクラウドファンディングに協力しました)など、訪れたい場所が他にもいろいろあります。小高にはそうした新しいよそ者がまちづくりにも関わっている雰囲気があり、まだまだ面白くなりそうな気配がありました。
小高を後にして、相馬へ向かいました。相馬では、早川医院の早川先生のお話をうかがいました。早川先生は、死体の検案を行う医師でもあり、7年前の震災の際には、たくさんの検案を行いました。
早川先生は、その時から全ての記録を克明にとってきました。死体の発見場所、時間、発見された時の状況、本当の死因、その他、彼の関わった震災に関連する記録を克明にとっていたのです。そのデータから、彼なりの幾つかの疑問が提示されました。
たとえば、個人情報という観点から、3・11の際、災害時要支援者情報を支援者団体へ提供した自治体は岩手県(県単位)と南相馬市の2つのみで、他は提供しなかったということです。個人よりも個人情報保護が重要なのか、という問いかけがありました。
そして、たくさんの他県の医療関係者による支援があり、それに対する深い感謝の気持ちが改めて示されていました。
そして、夜は、早川先生の主宰で、賑やかな夕食の宴が催されたのでした。
浜通りを1日駆け足でまわって、日常を取り戻そうとする様々な動きを知るとともに、それが、よそ者の考えるような単純な復興ではなく、まだまだ、ぐだぐだと、よそ者から見れば焦ったく見えるような、少しずつの歩みが続くのであり、同時に、誰もが存在を認められる環境・場づくりが大事であることを感じました。
浜通りの現場としっかり向き合ってじっくり付き合っていくことが、必要になってくると思いました。
先週、3月7~9日は、友人である神戸・まちコミュニケーション専務理事の宮定章さんとその仲間たちと一緒に、福島市、飯舘村、浪江町、南相馬市小高区、相馬市、山元町、名取市閖上、仙台市荒浜と、駆け足でまわりました。
福島県福島市出身で1年前にあえて福島市に一人会社を登記し、自分では、遅ればせながらの出戻りと思っていますが、福島市のある中通りの人間にとっては、同じ福島県でありながら、浜通りや会津は違う世界、という感覚があります。
福島県は、山々に隔てられる形で、会津地方、中通り、浜通りの大きく3地方に分かれていますが、それもあってか、福島県として一体感を感じることは、正直、あまりなかったように思います。
7年前の震災・原発事故と、それに伴う大規模な強制・自主避難のなかで、浜通りの方々を中通りや会津地方の方々が受け入れる、という事態が起こりました。もちろん、全国すべての都道府県が避難された方々を受け入れてくださっているのですが、福島県内でそのような事態が起こったのはもちろん初めてでした。
それに加えて、福島という言葉にまつわる様々な誹謗中傷、偏見や差別が起こるなかで、福島という同じ名前を背負った会津地方、中通り、浜通りは、「自分は違う」として他の二つの地方を見捨てるようなことはできなくなりました。そうした境遇が、おそらく初めて、三地方が福島県としてまとまりを意識する契機を作り出したのではないか、という気がします。
そんなことを思いながら、宮定さんの「ツアー」に同行しました。
3月7日は、まず、三春町にある福島県環境創造センター交流棟(コミュタン福島)を見学しました。
この施設では、震災後に起きた原発事故と現在に至るまでの取り組みを開設するほか、放射線・放射能・放射性物質に関する正しい科学的な知識を説明するコーナーがあり、東京の国立科学博物館以外ではここにしかない360度シアターでの迫力ある映像番組を観ることができました。
次に、郡山市のNPO法人原発事故災害者復興タウン鬼生田開発プロジェクトを訪ねました。ここでは、地権者と話をつけ、原発事故で避難を余儀なくされている方々で農業で生計を立てたい方々に農地と宅地を提供し、そうした方々をコミュニティの新たな一員として受け入れる準備を進める活動をしています。
この鬼生田地区は、遠く安達太良連峰を望む風光明媚な場所で、できる限り有機農業で米や野菜を作っているところです。おそらく、他の地域と同じように、人口流出や高齢化が課題となっているようで、原発事故で避難された方々がここで安心して暮らすことが鬼生田地区にとっても大きなメリットになる、という意味があるようでした。
鬼生田地区の後は、福島市へ戻り、飯舘村から移った、私の行きつけの珈琲店・椏久里で、浪江町津島地区から福島市へ避難したご夫妻からお話をうかがいました。お二人は、私の友人のご両親です。店内が混んでいたので、席が離れざるを得ず、私以外の参加者を優先して話を聞いてもらいました。
津島地区は浪江町の内陸部にあり、原発事故当初、浪江町の海岸部の町民たちの避難先となっていました。ところが、海岸部から津島地区への谷道は風の通り道であり、かつ、南東の風が吹き込んだため、津島地区は放射能汚染で高い放射線量を記録する場所となり、さらに中通り方面へ避難することになりました。
その避難の際の混乱とどのように動いて最終的に福島市へ落ち着いたのか、友人曰く話下手のご夫妻が、ポツリポツリとではありましたが、事細かく話してくださいました。息子である友人自身も初めて聞く話だった、と言います。
夜は、市内で、福島大学名誉教授の鈴木浩氏と福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任教授の真野博氏のお話を聞く、宮定さん主宰の勉強会に出席しました。真野氏からは、2017年6月30日に出された福島復興再生基本方針に、国の決意表明のような、以下のような記載があることが紹介されました。
「福島の復興及び再生を国政の最重要課題と受け止め、原子力災害によって福島にもたらされた深刻な事態の記憶と教訓を決して風化させることなく、これからも、原子力災害に対する福島の住民の怒りや悲しみに共感し、福島の住民に寄り添いながら、誇りと自信を持てるふるさとを取り戻すことができるまで、その責務を真摯に、かつ、国の威信をかけてあらゆる知恵と力を結集し、総力で実行していくものである」
この言葉通りの実行がなされることが求められるのですが、現実の動きを見ると、果たして国は本気で共感し、寄り添う意思があるのか、疑問を持たざるを得ない面もあります。
また、住民の生活再建と行政の政策の位相にずれがあり、行政が何をしたらいいのか把握しきれていない様子もあります。国から下りてくる事業で精いっぱいで、住民参加をむしろ避ける傾向すら見られるといいます。行政と住民とをどのようにつなぐのか、住民参加を政策へ反映させるための方策は何か、それらを支えるサポート人材を大学などが育ててはいるのですが、需要があまりにも多く、まだまだ人材が不足しているということです。
自分が福島でこれから取り組みたいことの一つが、こうした「つなげる」人材を育てていくこと。単につなげるだけでなく、つなげ方やつなげる目的を理解し、どのような未来を作っていくのかを意識できる「つなぎ屋」を育ててみたい、と思っています。