鉄道切符の払い戻しに1ヵ月

先日、ジョグジャカルタへ鉄道で行く予定だったのが、都合により取り止めとなったため、スラバヤ・グベン駅に切符の払い戻しに出かけた。払った額は13万ルピア、すぐに払い戻しがなされると確信していたが・・・。

窓口で払い戻しをお願いすると、「払い戻し申請書に記入してください」といわれた。周りには申請書がないので、「申請書をください」というと、「カスタマーサービスへ行って申請書を書き込んでください」というので、カスタマーサービスへ。

エアコンの効いたカスタマーサービスで、係員に切符の払い戻しをお願いすると、払い戻し申請書の用紙が渡されたので、それに記入する。

記入を終えて、申請書を係員に渡す、さあ、払い戻し、と思っていると、「払戻手数料として25%引きます」といわれ、そんなにキャンセル料が高いのか、とびっくりしていると・・・。

「払い戻しは現金にしますか、銀行振込にしますか」と聞かれるのだ。今すぐ欲しいので「現金」と答えると、次に、予想外の返事が来た。

「それでは、1ヵ月後にもう一度、駅へ出向いて、現金を受け取ってください」

えーっ、今、払い戻してくれないのか。どうして、1ヵ月も待たなければならないのか。おかしいと思って食い下がるが、答えは一つ。「規則でそうなっていますから」。

もう少し食い下がると「オンラインなので」という答え。オンラインだったらすぐできるのではないか。でも、職員はオンラインなので手続がいる、の一点張りだった。よく分からない理由だ。

鉄道の切符は、今はインターネットでオンライン予約して、アルファマートなどで買えるようになった。でも、払い戻しは簡単にできない。現金をその場で扱うと、職員が横領したり紛失したりするというのが、払い戻しに1ヵ月もかかる理由なのかもしれない。

もし、私が1週間程度で帰国する旅行者だったら、切符の払い戻しは受けられないことになる。きっと、手続が面倒で時間がかかるので、けっこう多くの人が途中で、払い戻しをあきらめているのではないかと想像する。1ヵ月もかかるのは実はそれが目的だったりして、とも思ってしまう。

ともかく、インドネシアで鉄道を利用するときには、日程を慎重に決めて、キャンセルしないことが肝心かもしれない。

中ジャワ州2014年各県・市の最低賃金

中ジャワ州各県・市の2014年最低賃金が、以下の表の通り、確定した。

県・市名 Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
都市 スマラン市 Kota Semarang 1,423,500 1,209,100 17.73
スラカルタ市(ソロ市) Kota Surakarta 1,145,000 915,900 25.01
サラティガ市 Kota Salatiga 1,170,000 974,000 20.12
マゲラン市 Kota Magelang 1,037,000 901,500 15.03
プカロンガン市 Kota Pekalongan 1,165,000 980,000 18.88
テガル市 Kota Tegal 1,044,000 860,000 21.40
北側東部 ブローラ県 Kab. Blora 1,009,000 932,000 8.26
レンバン県 Kab. Rembang 985,000 896,000 9.93
パティ県 Kab. Pati 1,013,027 927,600 9.21
グロボガン県 Kab. Grobogan 935,000 842,000 11.05
クドゥス県 Kab. Kudus 1,150,000 990,000 16.16
ジェパラ県 Kab. Jepara 1,000,000 875,000 14.29
デマック県 Kab. Demak 1,280,000 995,000 28.64
北側西部 スマラン県 Kab. Semarang 1,208,200 1,051,000 14.96
クンダル県 Kab. Kendal 1,206,000 953,100 26.53
バタン県 Kab. Batang 1,146,000 970,000 18.14
プカロンガン県 Kab. Pekalongan 1,145,000 962,000 19.02
プマラン県 Kab. Pemalang 1,066,000 908,000 17.40
テガル県 Kab. Tegal 1,000,000 850,000 17.65
ブレベス県 Kab. Brebes 1,000,000 859,000 16.41
南側西部 チラチャップ県(市内) Kab. Cilacap (Kota) 1,125,000 986,000 14.10
チラチャップ県(東) Kab. Cilacap (Timur) 975,000 861,000 13.24
チラチャップ県(西) Kab. Cilacap (Barat) 950,000 816,000 16.42
バニュマス県 Kab. Banyumas 1,000,000 877,500 13.96
クブメン県 Kab. Kebumen 975,000 835,000 16.77
プルバリンガ県 Kab. Purbalingga 1,023,000 896,500 14.11
バンジャルヌガラ県 Kab. Banjarnegara 920,000 835,000 10.18
南側中部 ウォノソボ県 Kab. Wonosobo 990,000 880,000 12.50
トゥマングン県 Kab. Temanggung 1,050,000 940,000 11.70
マゲラン県 Kab. Magelang 1,152,000 942,000 22.29
プルウォレジョ県 Kab. Purworejo 910,000 849,000 7.18
南側東部 クラテン県 Kab. Klaten 1,026,600 871,500 17.80
スコハルジョ県 Kab. Sukoharjo 1,150,000 902,000 27.49
ウォノギリ県 Kab. Wonogiri 954,000 830,000 14.94
カランアニャール県 Kab. Karanganyar 1,060,000 896,500 18.24
ボヨラリ県 Kab. Boyolali 1,116,000 895,000 24.69
スラゲン県 Kab. Sragen 960,000 864,000 11.11

上の表を見ると、上昇率は比較的低めであるが、20%を超えているデマック県とクンダル県では、現在、大きな工業団地の造成が計画されている。

最低賃金は上昇したが、ジャカルタ周辺に比べれば、まだかなり低いレベルにあるといえよう。南側西部のプルバリンガ県やバンジャルヌガラ県、南側東部のボヨラリ県などには、韓国系などのかつら・つけまつげ、繊維などの企業が投資を行ってきている。

納期の要求がそれほど厳しくなく、手先の器用さなどを求める労働集約型産業にとっては、中ジャワ州はまだ十分に魅力的であろう。

インドネシアウォッチ講演会(12/6)のお知らせ

JACインドネシア・ウォッチ講演会
2014年大統領選挙を展望する
~ジョコウィの時代は来るのか~
2014年4月の総選挙、7月の大統領選挙を前に、インドネシアは本格的な政治の季節を迎えていますが、いつもより盛り上がりに欠けています。それは、政治家の汚職などで国民の関心が政治から離れる一方、ジャカルタのジョコウィ州知事の大統領選挙出馬を国民が待っているためです。
ジョコウィは本当に次期大統領になるのでしょうか。ジョコウィ政権となった場合のプラス・マイナスは何でしょうか。ジョコウィ以外が大統領となる可能性はあるのでしょうか。ジョコウィの時代になれば、今後の日本との関係、とくにビジネス面での関係に何らかの変化が起こってくるのでしょうか。
本講演では、ジョコウィ政権の可能性を検討しつつ、ポスト・ユドヨノのインドネシアがどう変わっていくのか、日本はどのように対応していくべきかについて、講師の見方を皆様へ大胆に提示します。
講師 : 松井和久(JACシニアアソシエイト)
日時 :201312月6日(金)16:30 – 18:30(受付開始 16:00
場所 :スカイビジネスセンター Menara Cakrawala 19th Flr., Jl. M.H. Thamrin No.9, Jakarta
参加費: 500,000 ルピア + VAT 10 %
定員: 60(定員になり次第、締め切らせていただきます)
お申し込み方法: 下記をご記入の上、メールにてお申し込みください。
1)会社名 2)氏名および役職 3)メールアドレス 4)電話番号(できれば携帯番号)
申込先: JACビジネスセンター(担当:Tata / 田巻) seminar@jac-bc.co.id
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皆様のご出席をお待ちしております。よろしくお願いいたします。
また、上記と同様のテーマでの講演を別途お引き受けしますので、ご希望の方、ご相談されたい方は、お気軽に私(matsui01@gmail.com)までご連絡ください。
 

英雄とは誰なのか ー 英雄の日に寄せて

11月10日は「英雄の日」(Hari Pahlawan)。1945年8月17日のインドネシア独立宣言の後、再び侵攻してきた旧植民地宗主国オランダを含む連合国軍に対して、インドネシアが真の独立のために立ち上がった日、とされる。

その発火点は、スラバヤだった。この日を契機に、スラバヤ市民が武器を持って立ち上がり、連合国軍と激しい市街戦を繰り広げることになった。そのなかでも有名なのは、オレンジ・ホテル(旧ヤマト・ホテル、現在のマジャパヒト・ホテル)の屋上に掲げられたオランダ国旗を若者が引き下ろし、旗の青い部分を切り裂いて、赤白旗(インドネシア国旗)として掲げた、というエピソードである。マジャパヒト・ホテルの屋上には、その話がインドネシア語と英語で記されている。

11月16日には、英雄の日にちなんで、モジョクルトからスラバヤまでのウォーキング・イベントが行われ、3000人以上が参加した。スラバヤでの住民蜂起に加わるため、モジョクルトをはじめとする地方都市から人々がスラバヤを目指した、という話が元になっているらしい。

そんななか、このときの様子を連合国軍側がどう見ていたのかについて書かれた新聞記事を目にした。

The untold story of the Surabaya bettle of 1945

これによると、日本軍が降伏した後、多くのオランダ人やヨーロッパ人が日本軍収容所から解放されたが、ほどなく、何百人もが殺害された。彼らに協力的で彼らのスパイと見なされた華人、アンボン人、ティモール人なども殺害の犠牲になった。

オランダ側は、これらの殺害が住民による暴発的なものではなく、青年将校らによる計画的・組織的なものであると判断した。オランダ側は、1945〜1946年に殺害された者の数を、オランダ人やヨーロッパ人が約2万5000人、華人、アンボン人、ティモール人などが約1万人、と見ている。

「オランダが再植民地化する」という恐怖を煽り立てていたのは、誰だったのか。あるいは、本当にオランダはそう考えていたのか。

インドネシア側では、1945〜1949年は、再侵攻してきた外敵と独立戦争を戦った聖なる時代と見なされる。しかし、もし、上記の連合国軍側の見方が正しければ、インドネシア側にも知られざる暗い闇が存在することになる。

同様の闇は、1965年9月30日事件とその後の共産党シンパに対する弾圧においても存在する。これらの闇を、大多数のインドネシア人は、政府から知らされずにきている。

歴史というものは、勝者の歴史しか残らない。もしあの時、連合軍側が再植民地化に成功していれば、おそらく、上記の殺害の話は正史として前面に出たことであろう。1965年9月30日事件も、共産党側が勝っていれば、歴史認識は異なったはずである。

過去の歴史に「もし」は禁物かもしれない。でも、もし、オランダ人らに対する殺害が一切起こらなかったら、オランダは本当に再植民地化したのだろうか。殺害にショックを受け、「インドネシア側を懲らしめなければならない」という意識がオランダ人側に起こったのかもしれない。オランダ側のインドネシア側に対する蔑視や軽蔑の感情をどう考えたらよいのか。

どんな人間も、自分が生きてきた過去を自分で否定したくはない。自分の生きざまを正当化しようとするのが常である。自分に都合のいいように解釈するものである。

インドネシア側から見える英雄が、オランダ側からはただの殺人者にしか見えないこともあり得るのである。

立場を変えれば、という点では、最近、フェイスブックで見かけた「お父さんは桃太郎という奴に殺されました(by 鬼の子供)」や、それをアレンジした「お父さんはボランティアという奴に殺されました(by 援助先でコミュニティがずたずたにされた子供)」にも、同じ視点がある。

「もう一人の自分」を自分のなかに持ち、立場を変えて、冷めた目で両方からみることのできるように努めたいと思っている。

ジャカルタの猿まわし禁止令に寄せて

ジャカルタで路上での猿まわしが禁止になり、路上での一斉摘発が行われた。猿を媒介とする疫病の防止、動物虐待、渋滞の悪化などを理由としている。猿まわしは職業訓練を受けさせて他の職業に就かせ、猿はラグナンの動物・魚類保護観察センターで14日間観察した後、異常がなければ自然界へ放たれる。

ところで、インドネシアでの猿まわしの歴史は意外に古いようだ。きちんと確認することはできないが、19世紀末に猿や犬を使った演芸が発展したという記述があるという。その後、猿まわしは主に西ジャワや東ジャワで発達したが、1980年代にいったん消えかかった。しかし、まもなく復活し、それまでの集落などをまわる形から、人の集まる都市の路上などへ活動の場を求めていった。

『コンパス』紙の記事によると、デデという猿まわしの1日の稼ぎは4〜10万ルピア程度。デデは猿の調教師でもあり、4〜7ヵ月の調教期間に4〜5匹まとめて調教し、1匹当たり70〜100万ルピアを稼ぐという。過去12年間に、数十人の猿まわしから調教を頼まれたそうである。

筆者も猿まわしには個人的な思い出がある。マカッサル(当時はまだウジュンパンダンという名前の町だった)に住んでいた1997年、娘がまもなく2歳になるとき、知り合いの家族の子供たちを我が家に呼んで、みんなで猿まわしを楽しんだことがある。

我が家の前を通る猿まわしを呼び止め、まず、彼らの居場所を訪ねて話を聞き、我が家で演じてもらうことをお願いした。猿まわしは、たしかジャワ人の一家で、中華街の一角にジャワ人同士がひっそりと寄り添って住んでいた。

我が家で演じてもらったときには、猿が自転車に乗ったり、こっけいな芸を一通り披露した後、最後にニシキヘビが登場し、猿まわしがそれを体に巻き付けて、「おーっ」とみんなで驚いて終わる、というパターンだった。もちろん、子供たちは大喜びだった。今になって聞くと、娘はよく覚えてない様子なのだが。

日本での猿まわしは、すでに鎌倉時代にはあったようだ。小沢昭一「日本の放浪芸」によると、和歌山県と山口県に猿まわしの里があったそうである。もともとは、正月の祝福芸、祈祷芸であったものが、季節に関係なく、道端や門付けで行われるようになった。「継子いじめ」「金色夜叉」などが定番だったようだが、須藤功「写真ものがたり・昭和の暮らし10」によると、「三番叟」や「娘道成寺」も演じられたそうである(演目の中身はよく分からないが)。

その後、高度成長期の1960年代半ば、猿まわしは姿を消した。猿まわしたちは、社会的に差別を受けていた人々で、生計を立てるために猿まわしを行っていたのだが、猿まわし自体に民俗学的・文化的な意味を見出した宮本常一氏によって、猿まわしの復活運動が起こる。そして1978年、山口県光市で「周防猿まわしの会」が復活するに至る。宮本氏は、今西錦司氏らの属する京都大学の霊長類研究グループにも話をつなげ、猿まわしを民俗学的に発展・継承するために奔走した。

今、ジャカルタの猿まわし禁止令を見ながら、日本の猿まわしの過去を思い起こしている。日本の高度成長期に消えていった様々なもののなかに、猿まわしがあった。日本の1970年代とも見える今のインドネシアにおいても、様々なものが消え始めている。その一つが、やはり猿まわしなのであった。動物虐待という話が、社会が豊かになるにつれて声高になっていくことも、日本とインドネシアで共通しているような気がする。

残念ながら、インドネシアでは猿まわしを民俗学的な見地から継承すべき対象とみる動きは見られない。猿まわしを単なる稼ぎの道具としてしか見られないのは、宮本氏が奔走する前の日本でも同じことだったのかもしれない。実際、宮本氏がこの世にいない今、日本の猿まわしはすっかり商業化し、日光猿軍団のようなエンターテイメントとして残った。インドネシアで同じようなことが起こったとしても、猿まわしの民俗学的・文化的価値があるかどうかも省みられないだろう。

ジャワ人の猿まわしも、もしかしたら社会の最下層で差別を受けていた人々だったのではないか。そんなことを思いながら、どこかに猿まわしの継承価値がありはしないかと考えている。

フィリピン中部台風被災地緊急支援について

フィリピン中部台風(台風30号)の被害は、現場の様子が伝えられるにつれて、さらにひどい惨状が現れ始めている。次のサイトには、生々しい状況が映し出されている。

Typhoon Hayan in Pictures

すでに、国際社会は救援活動へ動き始めている。以下のサイト(英文)では、救援活動を行っている国際機関・団体へのコンタクトができるようになっている。

How to Help Typhoon Haiyan Survivors

日本の救援団体やNGO/NPOも救援活動を開始しているが、初動にはかなりの資金を必要とするため、募金を募っている。これまでに、私がFACEBOOKでシェアしたのは、以下の団体である。

認定NPO法人アジア日本相互交流センター(アイキャン)

公益社団法人シビックフォース

認定NPO法人ジャパン・プラットフォーム

アチェ大津波のとき。東日本大震災のとき。世界中が「何かしなければ」「助けなければ」「力にならなければ」と思ったと思う。「助けてくれた。今度は自分が」「助けてあげようと思った。でも実は自分のほうが助けられたような気がする」。そんな関係が生まれ、互いに学び、そして、いろんな新しい動きが起こったと思う。

アチェ大津波のとき、東日本大震災のとき、フィリピンの人たちがどんなに思ってくれていたことか。その思いを返し、返される関係を作っていけるのではないか。そんなことを思いながら、自分にできる範囲で、フィリピンの人々のことを思っていきたい。

アチェの人も、東北や福島の人も、フィリピンの人々のことを思える関係でありたい。

でも、自分の周りのインドネシアの人々は、とくにフィリピンの台風被害について、興味や関心を示していないように見える。それが普通、といってしまえばそれまでなのかもしれないが。

あまり報道はされていないが、ソマリア北東部のプントランドでも、サイクロンで相当な被害が出ている様子だ。

Another Tropical Cyclone Develops

Somalis ‘killed in Puntland’ during Tropical Cyclone

外資参入は緩和される方向へ(2013.11.10改訂)

11月7日付コンパス紙によると、インドネシア政府は12月末までに投資ネガティブリストの改訂を終える予定。従来の予定より数カ月遅れとなっており、外資参入条件の緩和を目指す経済調整大臣府と各省庁との間で、調整に手間取っている様子がうかがえる。

ネガティブリスト改訂に当たっての原則は以下4点とのことである。すなわち、

(1) 目的は投資促進。
(2) 改訂前より制限的なものにしない。
(3) 1つの分野は1省庁による規定とする(複数省庁にまたがるのを避ける)。
(4) 零細中小企業分野、農業分野は国内向け保護対象として確保。

まだ議論の最中でファイナルではないが、現段階で、以下のような外資規制緩和を計画していることが明らかにされている。

(1) 空港管理運営、港湾管理運営、空港サービス管理運営は100%外資可能(資産ではなく、管理運営のみ)。
(2) 陸運旅客・貨物ターミナル管理・運営は49%まで外資可能(以前は外資参入不可)。
(3) 自然を生かした観光事業の外資比率は49%までから70%までへ。
(4) 被覆付通信業の外資比率は49%までから65%までへ。
(5) 製薬業の外資比率は75%までから85%までへ。

<投資調整庁長官発言>(2013.11.09 追加)
・水産業の外資比率は30%まで
・広告業の外資比率は51%まで(ASEAN企業優先)
・ベンチャーキャピタルなど金融業への外資参入規制緩和
・自動車状態点検業への外資参入規制緩和
・映画配給業、病院業への外資参入規制緩和
(出所)Bisnis Indonesiaより

(2013.11.10 追加)
・映画配給業は外資比率は49%まで。

これらの外資緩和の背景として、政府は、単にインドネシア国内市場だけを目的に来る投資ではなく、インドネシアを生産拠点として、海外へ輸出するための投資を歓迎するとの意向を示している。

一方、同じ記事の中で、銀行業や農園業における外資の支配が高まっているとの警告も発している。今回の外資規制緩和が明確な産業発展戦略に基づいて議論されているものなのかどうか、という疑問も呈している。

筆者としては、上記の議論の方向が国際収支改善・マクロ経済安定との接点を意識したものであり、必ずしも場当たり的なものではないとの印象を受ける。とくに、外資に対して、経済ナショナリズムの風潮が高まる印象を与えないように気を使っている点が注目される。

とはいえ、来年の総選挙・大統領選挙を控えて、人気取りのために、経済ナショナリズム意識の高揚を図ろうとする動きは出てくることになろう。インドネシアは、ここにきて急速に自信を持ち始めている。もう自分たちでできる、という過信さえ首をもたげ始めている。

ただし、以前と違うのは、それをイデオロギー的に進めようとしても、自分の本当の実力を省みる冷静さも持ち合わせていることである。外国支配、という意識の裏に、被植民地意識の根強さを感じる。外資もまた、「インドネシアを支配するのではない」というアピールをもっとするために、現場で現実にインドネシア人・社会との接点をもっともっと持ち、インドネシアでインドネシアのためになる、という姿勢を見せていく必要があると考える。

 

ガジャマダ大学生の採用に興味のある方は?

先月、ジョグジャカルタで面接した国立ガジャマダ大学生20名は、かつて日本語を勉強したことはあったが、大学ではそれぞれの専門分野で学んだ学生である。短期集中型で日本語の再教育を行い、ある程度、日本語を使えるレベルになっている。

彼らの内訳は、以下の通り。

・男1(21歳)、工学部、物理工学
・男2(22歳)、政治社会学部、行政管理学
・男3(22歳)、工学部、電子・情報工学
・男4(21歳)、工学部、原子力工学
・男5(20歳)、数理学部、コンピューター・電子学
・男6(23歳)、政治社会学部、コミュニケーション学
・男7(21歳)、政治社会学部、公共経営・政策学
・男8(21歳)、政治社会学部、社会開発・厚生学
・男9(20歳)、 政治社会学部、国際関係学
・男10(21歳)、経済経営学部、経営学
・男11(19歳)、数理学部、コンピューター・電子学
・男12(21歳)、工学部、原子力工学
・男13(20歳)、経済経営学部、会計学

・女1(22歳)、政治社会学部、国際関係学
・女2(20歳)、政治社会学部、コミュニケーション学
・女3(22歳)、政治社会学部、コミュニケーション学
・女4(22歳)、政治社会学部、国際関係学
・女5(21歳)、経済経営学部、会計学
・女6(22歳)、数理学部、コンピューター・電子学
・女7(20歳)、数理学部、コンピューター・電子学

国立ガジャマダ大学といえば、インドネシアでは有数の有名大学。今回会った学生たちも成績優秀で、しかも、皆、日本が大好きである。なかには、日本への思いを熱く語ってくれた学生も少なくなかった。基本的に英語ができ、日本語も自分たちで自主的に勉強しているような学生たちである。

就職までにはまだ時間があるが、すでに、日本を含む外資系企業から声がかかり始めている。もちろん、学生の常として、給料の高い、安定した仕事を臨んでいる。

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もし、このブログの読者のなかで、、実際に彼らとコンタクトしてみたい方がいれば、直接、メールにて私(matsui01@gmail.com)までご連絡ください。状況に応じて、こちらから彼らの履歴書をお送りいたします。

2014年最低賃金(11/2時点、速報)

11月1日は、2014年州別最低賃金(月額)を各州一斉に発表する日だったが、発表に至ったのは一部の州のみに留まった。

東ジャワ州のように、州内の地域によって賃金水準格差がかなりあり、まずは県・市レベルでの最低賃金を確定し、その後でないと州レベルでの最低賃金を発表できない、といった理由が背景にあるようである。

日系企業にとって気になる州としては、ジャカルタ首都特別州が244万1000ルピア(2013年は220万ルピア、10.95%増)、バンテン州が132万5000ルピア(同117万ルピア、13.25%増)であった。

政府が示した基準は、物価上昇率+5〜10%だったので、予想に反して、意外に低い数字に抑えられたという印象がある。

ほかに11月1日に発表された各州の2014年最低賃金(月額)は以下の通り(カッコ内は2013年)

<スマトラ>
西スマトラ州:149万ルピア(135万ルピア)
ジャンビ州:150万2300ルピア(130万ルピア)
ブンクル州:135万ルピア(93万ルピア)
バンカ・ブリトゥン州:164万ルピア(126万5000ルピア)

<カリマンタン>
西カリマンタン州:138万ルピア(106万ルピア)
中カリマンタン州:172万3970ルピア(155万3127ルピア)
南カリマンタン州:162万ルピア(133万7500ルピア)
東カリマンタン州:188万6315ルピア(175万2073ルピア)

<東インドネシア>
東南スラウェシ州:140万ルピア(112万5207ルピア)
西ヌサトゥンガラ州:121万ルピア(110万ルピア)
パプア州:190万ルピア(171万ルピア)

5Sと5R

日本での5S。5Sといえば、最近はアイフォンの最新機種を指すが、それ以前から、職場の現場で言われてきた5Sは、もちろん、「整理、整頓、清掃、清潔、しつけ」である。

インドネシアでは、この日本の5Sがかなり普及しており、日系企業以外、インドネシアの地場企業においても一般に適用されている。

もっとも、インドネシアでは通常、5Rと称している。すなわち、インドネシア語では、Ringkas, Rapi, Resik, Rawat, Rajinとなっている。若干、日本語とニュアンスは異なるが、基本的には同じものである。

ところで、先日、ある国営企業を訪問した際に、5Rではなく、下の写真のような5Sに出会った。

意訳すると、「微笑、尊敬、挨拶、丁寧、礼儀」とでもなるのか。他の企業ではこれと同じ5Sを見たことはないので、おそらくオリジナルのものだと思う。

「うちの5Sは日本のとは違うよ。はっはっは」と国営企業の職員が教えてくれた。

ともかく、日本の5Sが5Rとしてインドネシアの企業へ一般的に受け入れられ、独自の5Sさえ現れている。これもまた、「日本」がインドネシアでしっかりと受け入れられていることの表れである。

 

バントゥル県の水田に突如現れた工場

ジョグジャカルタ滞在中、友人の案内で、バントゥル県をまわり、水田地帯に突如現れた工場を見にいった。

話によると、工場が建設され始めたのは3年ぐらい前からで、それまでは見渡す限りの水田地帯だった。

村人もいきなりの工場建設でびっくりしたとのことだが、その後の変容はもっとびっくりしたものだったろう。工場ができると、その周りに軽食堂やワルンができる。主に、工場で働く従業員向けで、すでに5軒以上が軒を並べていた。

さらに、女性向けの下宿屋がたくさんできている。下宿屋はすべてが女性向けなのである。

この工場は、女性用下着(ブラジャー)を生産しているという話だった。だから、従業員はすべて女性なのだ。
今回は工場の中には入らず、外から見ただけだった。工場の正門前には怖い顔をした守衛が何人も立っており、工場名を確認することはできなかった。おそらく、インドネシア国内に4つのブラジャー工場を持つ企業の一つのようだ。この企業は、ジョグジャカルタに3つ工場を持ち、そのうちの2つがバントゥル県にある。今回、見たのはそのうちの一つだったようだ。
友人の話によると、ジョグジャカルタでは、2006年のジャワ島中部地震やその後のムラピ火山の噴火などにより、住んでいた場所を追われて、仕事が無くなってしまった者が少なくなかった。そうした者への雇用機会として、こうした工場が役割を果たしている、ということであった。
ということは、地元バントゥル県の女性たちだけでなく、遠くから仕事を求めてやってきた女性たちのために下宿屋が繁盛しているという構図なのだろう。
バントゥル県政府自体は、地場産業保護の立場を採っており、よそから来た企業が地元企業を駆逐するような事態を避けようとしている。実際、ジョグジャカルタのすぐ南にあるにもかかわらず、コンビニの一つ、インドマレは2軒しかないそうだ。
この工場は、地場産業を駆逐することなく、雇用機会を増やすという観点からウェルカムなのだろう。
しかし、ジョグジャカルタ周辺の農村は、こうした工場の進出によって大きく変わっていくことだろう。ジャワ島といえば豊富な労働力、低い労働コスト、という話が未来永劫変わらないという保証はない。
経済発展とともに、インドネシアにおける農村を含めた社会変動・社会変化にも、十分に目を向けていく必要があるだろう。

ガジャマダ大学の学生たちと面接

先週は、10月15日〜20日まで、5泊6日でジョグジャカルタへ行っていた。

ジョグジャカルタは日本の京都に相当する古都で、実際、京都府とジョグジャカルタ特別州は姉妹関係にある。ジョグジャカルタのキャッチフレーズは「永遠のアジア」(Never Ending Asia)、インドネシアの他の都市よりもネーミングのセンスが断然によい。

前半は某日系企業関連の仕事だったが、後半は、ガジャマダ大学の学生20名との面接であった。これは、日本の某大学のプログラムで、日本語科以外で学ぶ優秀な学生のうち、かつて日本語を勉強したものの、今は日本語を学ぶ機会のない学生に再教育の機会を与え、その後の進路について、簡単なカウンセリングを行う、というものである。私は、この「簡単なカウンセリング」の部分を面接という形で受け持った。

18日午前中に、ガジャマダ大学で「日本の企業文化は今:インドネシアにおける日系企業」と題して公開授業を行った後、1人30分ずつ、20名の面接に突入した。

20名のほとんどがIPK/GPAが3.3以上の成績優秀者で、今回の再教育で日本語検定N-3を目指すぐらいのレベルに達していた。とても勉強熱心で、面接が終了した午後3時過ぎから夕方まで、彼らの日本語の勉強を追加で見ることにもなった。

面接では、彼らの将来の夢を聞いた。自分の専門を生かした職業に就きたい、日本語を生かせる職業に就きたい、といった声が多かったが、なかには、いずれインドネシアを変えてみたい、インドネシアの農業を守るために農民に土地を提供できる立場に就きたい、といった話をする者もいた。

彼らの描くキャリアパスは、まず学部を卒業してから数年間は企業で働き、その後、大学院で勉強する機会を得て、それから先の企業に戻るか、または次のステップへ移る、というものであった。

なかには、どうしても日本へ行きたい、という者もいた。しかし、多くの学生は、鉱業部門の多国籍企業で働きたいと考えていた。花形企業なのだ。賃金水準が高く、福利厚生も整い、安定している。日本語を学んでいるからといって、どうしても日本企業で働きたいという者は少なかった。

日本企業で働いたり、日本で働いたりすることを希望する者は、規律正しさや清潔さなど、日本の良さを自分で身につけたいという動機が多い様子であった。日本に対するあこがれやステレオ・タイプは、彼らにも健在であった。

彼らの多くは、高校時代に日本語を学び、友人たちと日本愛好グループを勝手に立ち上げて、彼らなりのやり方で日本を楽しんできた者たちであった。大学に入って日本語を学ぶ機会が乏しくなっても、日本愛好グループの仲間同士の付き合いは続き、日本語学校に通ったり、日本語の自主的な勉強会に参加したりしている者もいた。

どうして日本が好きなのかを何人かに聞いたが、そこで出てくるのはやはり規律正しさや清潔さなど。でも、話しているうちに、彼らはなぜ日本が好きかを冷静に説明するというよりは、うまく説明できないがとにかく好きなのだ、ということが体中からあふれてくるような印象だった。

たとえ彼らが日本企業に就職しなくとも、彼らの日本好きは簡単には消えないだろう。我々の知らないところで、こうした日本好きの若者たちがインドネシア社会のメジャーな部分に増えていくのは、やはり好ましいことである。

彼らに卒論のテーマも聞いたが、数人が「東電福島第一原発事故をめぐる日本の政治経済」をテーマにしたいといっていたのが印象的だった。しかし、彼ら曰く、情報ソースのほとんどが日本語で情報収集が難しく、かつ指導教官から対応できないと言われ、別テーマを検討しなければならないとのことだった。

むずがゆかった。「彼らの指導教官になりたい」と思わずにはいられなかった。彼らにとっても、原発事故後の日本は、関心の高いテーマであることを改めて認識した次第である。

彼らとの面接は、私にとっては至福のひとときだった。そして、自分の心に素直に従えば、学生を指導するということがやはり自分の天職のひとつだったのだということをしみじみと思った。しかも、こんな優秀な学生たちの指導ができたら、どんなに面白く、将来が楽しみになることだろう、と。彼らとこれからもずっと付き合っていければと願う。

今後、インドネシアの大学で現代日本事情(政治経済社会)を教える、という選択肢も考え始めている。そして同時に、日本の学生のことも気になって仕方がない。何とか、両方で教えられる手立てはないものか。しばらく、欲張って考えてみよう。

インドネシアの鉄道の旅、なかなかよい

先月、ジョグジャカルタからスラバヤへ戻るときに鉄道を利用して以来、インドネシアの鉄道での移動のよさを改めて感じ始めている。

10月15日、「サンチャカ」号でスラバヤを朝8時に定刻通り出発し、ジョグジャカルタに12時52分、定刻通りに到着した。前回、ジョグジャカルタからスラバヤまで乗った「ビマ」号は、ジョグジャカルタを出発するときに30分遅れていたが、スラバヤには15分遅れで到着した。

以前、インドネシアの鉄道といえば、時刻表はあってなきがごとし、などと言われたものだが、どうしてどうして、ほぼ定刻で走れるではないか。

スラバヤを発車する際、車内にはそれを告げる放送は一切なく、いきなりガタンと動き出した。というか、車内放送は一切ないのである。到着駅の案内など何もない。どこに着いたか、自分で確認するしかないが、車内放送がないので、とても静かなのである。

車内には車掌が検札にやって来る。その際、2名の鉄道公安員風の警備員(警察官なのだろうか)が同伴する。おそらく、不正乗車が見つかった場合に、すぐに摘発するためだろう。でも、この2名、銃器を携えるような物々しさはない。

検札のほかには、サンドイッチやナシゴレンや飲み物の売り子が頻繁にやって来る。日本の車内販売のような、車を押してくるのではなく、プレートの上に食べ物や飲み物を乗せて持ってくる。すべてプラスチックやラップに包まれている。必要な客はまず食べ物や飲み物を取り、飲食が終わったころに、別の係員が代金の徴収にやって来る。

今回乗ったエクゼクティブ車両はエアコン付きだが、冷房がこれでもかというぐらいに効きすぎていた。係員が毛布を持ってくるので、必ず受け取ったほうがよい。体中がキンキンに冷えてくる。そんななかでナシゴレンを取っても、すぐナシゴレンが冷えてしまいそうな気がして、食べる気になれなかった。

スラバヤからモジョクルトに近づくにつれ、車窓にはサトウキビ畑が広がってくる。ジョンバン付近にはプサントレン(寄宿制イスラム学校)の建物がいくつか見える。ンガンジュックに至る頃には、サトウキビ畑と水田の景色。ンガンジュックからマディウンの手前までは多くの土地が乾燥していて、一部、灌漑のあるところに水田が見られる。マディウンを過ぎてしばらく走ると、工場が目に入ってきていつの間にかソロに到着。ソロからジョグジャカルタまでは複線区間で、のどかな田園風景が広がる。車窓から見えるジャワ島中東部の農業の土地利用は、次々に様相が変わるので、見ていて飽きることがなかった。

もともと鉄道好きということもあるが、やはり、鉄道の旅はなかなかよい。20日にジョグジャカルタからスラバヤへ戻るが、これも、ジョグジャカルタ夕方発の鉄道で戻ることを考えている。

食の輸入依存度上昇と遺伝子組換え

インドネシアは資源豊富な豊かな国である。まだ農業が重要な産業である。そんなインドネシアで、気がつかない間に、食料における輸入依存度の増大、遺伝子組換え飼料・食材の既成事実化が進んだ。これからこの状態を変えるのは困難かもしれない。

インドネシア料理に欠かせないのはニンニクである。 筆者の記憶が正しければ、1980年代の自給率は50%以上、それが今では10%台に落ちた。中国産のニンニクのほうが粒が大きく、いつの間にか、輸入ニンニクの市場シェアが大半になってしまった。

インドネシアの従来からの重要なタンパク源は大豆である。テンペ菌で大豆を発酵させたテンペや豆腐は、安価でタンパク質を容易に摂ることのできる必需食品である。この大豆は、1990年代初めにインドネシアは自給を達成したのだが、いつの間にか自給率は下がり、今では2割程度に落ち込んだ。テンペ・豆腐業者によると、輸入大豆のほうが粒が大きくて味がよいので、もう国産大豆には戻れないとのことである。

この輸入大豆は、主にアメリカからのもので、遺伝子組換え大豆なのである。そう、我々はインドネシアにおいて、テンペや豆腐を食べ、豆乳を飲んだりしているが、知らないうちに遺伝子組換え大豆を食べているのである。

遺伝子組換え製品のインドネシアへの流入は、まず、棉花が最初だった。1990年代半ばから、南スラウェシ州南部などに遺伝子組換え棉花が導入された。このときには、「人間の口に入るものではない」との理由で導入が進められた。

その次が飼料用トウモロコシである。これも直接人間の口に入るわけではないが、家畜を通じて人間の口に入ることになる。「遺伝子組換えトウモロコシは農家所得を2倍にする」という触れ込みで政府が喧伝し、危険性を一切省みることなく、政府は導入を進めた。しかしその後、農家の技術的能力の問題と政府側の指導不足のためか、農家所得は2倍になるどころか逆に費用負担が増えて収入が減り、「約束が違う」と農家が怒り出すこととなった。遺伝子組換えトウモロコシの普及に努めていた米国系モンサントは、後に農業省へ多額の贈賄を行っていたことが明るみになった。それでも、遺伝子組換えトウモロコシが全面禁止になったという話は聞かない。

インドネシアは舐められていたのかもしれない。一般国民レベルでの遺伝子組換え食品に関する無知を逆手に取られ、国民が知識を得て気づく前に、もうすでに既成事実が出来上がってしまったのである。今さら、輸入大豆抜きのテンペや豆腐へ転換するのは困難である。

スハルト政権が倒れ、民主化とともに経済効率化政策が採られるなかで、コメ、大豆、トウモロコシなど基幹食糧の流通管理を行ってきた食糧調達庁の役割が否定され、市場化されていった。市場メカニズムに任せることで、国産品よりも価格が安く、品質のよい輸入ニンニクや輸入大豆が一気に市場へなだれ込み、市場シェアを高めていった。

政府にとって重要なのは市場での需給確保である。先のニンニク輸入一時禁止措置の時に見られたように、国内生産からは市場状況に適応した柔軟な供給ができず、価格が急騰するという事態が起こった。輸入によって、スムーズな需給調整が可能になる側面がある。

輸入ニンニクや輸入大豆をめぐっては、輸入業者によるカルテルの存在が頻繁に指摘される。現在、牛肉輸入業者の選定をめぐって、特定政党の政治資金捻出のために、国会議員が口利きをした事件が大問題となって、福祉正義党はその清廉イメージを失ってしまったが、輸入業者と政治家の癒着が大きな問題となっているのである。

しかし、そこで輸入された大豆の大半が遺伝子組換え大豆だったのは、背に腹は替えられないということだったのか。世界的には、西欧や中国などで遺伝子組換え食材の輸入を避ける方向が 有力となっており、輸出国としては、インドネシアのような国は大変にありがたいはずである。

こうした農産物の国産化比率を上げなければ、という議論はないわけではないが、その多くがナショナリズムの観点からであり、食の安全という観点がほとんど見えてこない点がやはり気になる。インドネシアの食のマーケットは、ようやく安心・安全への意識が出始めているとはいえ、大豆などに見られるように、ある意味、それではもう遅すぎるのではないかという懸念を持ってしまう。アメリカが大丈夫だというのだから大丈夫、ということで済ませているのだろうか。

こうしたインドネシアの状況を日本の今に重ね合わせてみると、 いろいろな点で興味深い。農家と消費者がどうつながれるか、という点が鍵になるのではないかと思う。インドネシアでも日本でも、根本の問題は同時進行しているように思える。

とはいえ、テンペや豆腐のないインドネシアの食生活はあり得ない。

上記の問題とどこかでつながるかもしれないが、最近よく聞くのは、ジャワの農村部で若い世代が農業を継がず、後継者問題が意外に大きな問題として現れているということである。インドネシアは人口が多いから、と軽視している間に、インドネシア・ジャワでも3チャン農業が主流となり、機械化の必要が出てくるかもしれない。ASEAN自由貿易化で、輸入農産物の比重が益々増え、食糧自給への意欲が薄れてくるのではないか。

程度の差こそあれ、これもまた、インドネシアと日本の現実とを重ね合わせて見ることができるのではないか。

憲法裁判所長官の汚職と逮捕

この1週間、体調がすぐれず、発熱、悪寒、下痢と戦っていた。そのため、恥ずかしながら、ブログの更新を怠ってしまった。

8〜9日にジャカルタへ出張し、ワークショップなどをこなしたが、急遽、10日にジャカルタで用事が入ってしまった。9日のスラバヤへの帰り便(LCCなのでキャンセルが利かず)をどぶに捨て、10日の便を取り直したが、連休前しかも直前ということもあって軒並み満席、値段も通常のLCCの3倍だった。

何とかスラバヤに戻ったものの、体調がいまいちで、昨晩、日本料理屋KAYUの鍋焼きうどんを食べ、ゆっくり寝たことで、ようやく復活、さあブログ、となったわけである。

先週から今週にかけて、インドネシアのメディアは、憲法裁判所のアキル・モフタル長官が汚職で現行犯逮捕されたニュースであふれている。10月2日、情報をキャッチして張り込んでいた汚職撲滅委員会(KPK)捜査官が現場に踏み込み、アキル長官らを逮捕、贈収賄用の現金(28万4040シンガポールドル及び2万2000米ドル)をその場で押収した。

今回の事件は、中カリマンタン州グヌンマス県知事選挙をめぐるものである。すなわち、同選挙で現職が再選を果たしたが、敗れた候補側が選挙に不正があったと主張し、憲法裁判所に選挙結果に関する異議申立を行った。当選した現職側は、憲法裁判所がこの異議申立を受け入れないようにと願い、アキル長官へ贈賄を行い、長官側もそれを収賄しようとしていた、というものであった。

憲法裁判所は通常、法律等の違憲審査を行うが、それ以外に、異議申立のあった選挙結果についての判断を下したり、地方政府分立の是非に関わる判断を行ったりもする。裁判は1回のみで、憲法裁判所の判断が最終決定になる。インドネシアでは、汚職撲滅委員会(KPK)と並んで、民主化を担う信頼できる機関と見なされてきた。

しかし、よく考えてみると、それは幻想に過ぎなかったことが後付けで分かる。第1に、裁判が1回のみで最終判断ということは、第三者によるモニタリングの利かない機関ということである。審議内容はオープンにされているとはいえ、チェックアンドバランスが制度的に弱かったといわざるを得ない。第2に、政治家出身者が裁判官や長官にさえなる構造である。アキル自身もゴルカル党所属国会議員で、しかも、現役のままだったというから驚く。本当に政治から独立した判断がなされていたのだろうか。

アキルには、これまでも汚職の噂が何度かあったが、それは今回と同様、地方首長選挙結果への異議申立をめぐる案件だった。今回も、中カリマンタン州グヌンマス県知事選挙以外に、バンテン州レバック県知事選挙絡みでも贈収賄があったとしてKPKが捜査中である。過去にも、アキルが裁判官の時に、北スマトラ州シマルングン県知事選挙などで同様の疑惑が出たが、当時は証拠不十分で不問に付された。

また、アキルは、地方政府分立の是非についても多数案件に関与してきた。アキルの判断で分立が正当化された地方政府も少なくないようである。

贈収賄によって生まれた地方首長や分立地方政府はいったいどれぐらいあるのだろうか。今さら、「我々がそうでした」とは言えないだろうが、 KPKの監視は地方へも広がっており、戦々恐々としている者たちはかなりいるのではないか。また、今後、過去のそういった話が蒸し返されて、混乱する可能性もあり得る。彼らの正統性の危機が内在する。

コンパス紙によると、アキルに依頼する場合の相場がすでに存在し、その額は1件当たり30億ルピアだったとのことである。今回の現行犯逮捕の際に押収された金額もそれに相応する。また、アキルには他人名義の隠し口座に1000億ルピアあることが明らかになった。KPKは、マネーロンダリングの可能性もあるとして追及している。

さらには、アキルの執務室から麻薬や覚醒剤が見つかり、そのなかには市中に出回っていない物も含まれていたということである。

果たして、これらは、アキルを糾弾し、憲法裁判所の評判を貶めるためのヤラセなのだろうか。インドネシアで国民が最も信頼するKPKによる捜査であることからして、世論はその見方に否定的である。

アキルは貧困家庭の出身で、子供時代は貧しい生活のなかにあった。ゴルカル党に入るのは1998年、スハルト政権崩壊後であった。国会議員としては主に地方政府分立などに尽力したといわれる。憲法裁判所裁判官は国会承認が必要で、後付けでしかないが、アキルのような人物を憲法裁判所へ送るということ自体、明らかに、政党が憲法裁判所を利用するという意図がそもそもあったとしか考えられない。

日本の大手メディアではあまり報道されていないが、今回の事件はインドネシアの汚職事件の中でも最も影響の大きい事件だったといっても過言ではない。憲法裁判所以外にも、最高裁判所裁判官の選出をめぐる国会議員と最高裁との贈収賄の疑惑も浮上している。

ここで本格的に司法関連の汚職へメスが入るのか、そして、2014年総選挙を間近に控えて、本当に信頼できる汚職フリーの議員をどのように国民が選ぶのか、国会議員を監視する何らかの仕組みができるのか。誰が当選するかよりももっと重要なシステムの話がクローズアップされてくることを願っている。

ビジネスのしやすいインドネシアの地方都市

ビジネス情報誌『SWA』の2013年8月15-29日号は、ビジネスのしやすいインドネシアの地方都市ランキングを発表した。SWAは毎年、このランキングを発表しているが、満足度指数、推奨度指数という2つの指数で数値化している。

サーベイは2013年6月に行われ、全国のすべての県・市のうち、GRDP(Gross Regional Domestic Products)の上位20位までの県・市を対象に、それぞれの県・市で各90名の実業家・企業を対象にアンケート調査を行った。

満足度指数については、インフラ、許認可・地域政策、税金・利用者負担金、政府の支援について「とても満足」「満足」の2つを合わせたパーセンテージで示した。

また、推奨度指数は、NPS(Net Promoter Score)指標を使い、「この県・市を奨めたいか」という問いに対して1〜10の10段階で調査し、プロモーター(段階9〜10)の比率(%)からデトラクター(段階1〜6)の比率(%)を引いたNPS指標を用いる。NPS指標が高ければ、その県・市を推奨する度合い、すなわち推奨度が高いと判断される。

ぐちゃぐちゃ書いてしまったが、要するに、そこでビジネス活動を行っている実業家の自己満足度の高い県・市はどこか、という話が、「ビジネスのしやすいインドネシアの地方都市」という話になる、というわけである。

そして今年のランキングは、以下の通りである。

●総合(満足度+推奨度)
第1位:パレンバン市(南スマトラ州)
第2位:シドアルジョ県(東ジャワ州)
第3位:東クタイ県(東カリマンタン州)
第4位:マカッサル市(南スラウェシ州)
第5位:ボゴール県(西ジャワ州)
第6位:スラバヤ市(東ジャワ州)
第7位:バタム市(リアウ群島州)
第8位:スマラン市(中ジャワ州)
第9位:バンドゥン市(西ジャワ州)
第10位:ジャカルタ首都特別州
第11位:プカンバル市(リアウ州)
第12位:タンゲラン市(バンテン州)
第13位:クタイ・カルタヌガラ県(東カリマンタン州)
第14位:バンドゥン県(西ジャワ州)
第15位:チラチャップ県(中ジャワ州)
第16位:デリ・スルダン県(北スマトラ州)
第17位:メダン市(北スマトラ州)
第18位:クディリ市(東ジャワ州)
第19位:ブカシ県(西ジャワ州)
第20位:カラワン県(西ジャワ州)

●満足度
第1位:スラバヤ市(東ジャワ州)
第2位:パレンバン市(南スマトラ州)
第3位:東クタイ県(東カリマンタン州)
第4位:ジャカルタ首都特別州
第5位:マカッサル市(南スラウェシ州)
第6位:プカンバル市(リアウ州)
第7位:バンドゥン市(西ジャワ州)
第8位:シドアルジョ県(東ジャワ州)
第9位:タンゲラン市(バンテン州)
第10位:スマラン市(中ジャワ州)

●推奨度
第1位:ボゴール県(西ジャワ州)
第2位:シドアルジョ県(東ジャワ州)
第3位:パレンバン市(南スマトラ州)
第4位:東クタイ県(東カリマンタン州)
第5位:マカッサル市(南スラウェシ州)
第6位:バタム市(リアウ群島州)
第7位:スマラン市(中ジャワ州)
第8位:バンドゥン市(西ジャワ州)
第9位:スラバヤ市(東ジャワ州)
第10位:ジャカルタ首都特別州

ちなみに、昨年の総合順位の1〜3位は、ボゴール県、タンゲラン県、ブカシ県で、いずれも首都ジャカルタの周辺の県だった。それに対して、今年の総合1〜3位はパレンバン市、シドアルジョ県、東クタイ県と、すべてジャカルタから離れた県・市であった。とくに、日系企業の進出が集中するブカシ県やカラワン県は全20県・市中19位と20位に留まっている。

昨今、ジャカルタ周辺の投資環境が悪化して来ている様子だが、今回のランキングの変化はそれを反映したものといえるだろうか。

もっとも、インドネシアの実業家にとってビジネスのしやすい都市は、日系にとってもビジネスのしやすいところとは限らないのはもちろんである。これは、あくまでも参考程度に留めておけばいい話であろう。

それでも気になるのは、インドネシアの地方都市(県・市)がお互いを意識し合い、ビジネス環境の改善に意欲を見せ始めているからである。こんなことは、中央集権のスハルト時代には起こらなかった。いろいろと面倒になった部分もあるが、これも地方分権化の産物といえる。

現場を見ることもせず、地方をすべてダメな存在と一般化するのではなく、インドネシアの実業家が「ビジネスがしやすい」と考える地方都市の魅力を探ることも必要なのかもしれない。まだまだ我々の知らないインドネシアがそこにある。

インドネシアでダイビングを思う存分しながら生きていきたい人へ

今朝、あるインドネシア人の知人と朝食をしながら、前々から温めてきた夢の一つを語り合った。それは、インドネシアで、ダイビングを思う存分しながら生きていく、という生き方の選択についてであった。

以前、何かの時に、こんな話を聞いた。夢のような話かもしれないけれど、1年中ダイビングができて、その合間に時々仕事をする、なんていう生き方はできないものか、という話である。本当にそれを実現できないものか、という話をした。

誤解のないように言うが、私自身がそうしたいと思っている訳ではない。

(ワカトビ上空)

その知人が提案してきた内容はこうだ。

・デラワン、アロール、ワカトビ、ラジャ・アンパットなどのダイビングで有名な場所に長期滞在できる、ダイビング免許を持った外国人(できればダイビングを他人に教えられる人)

・メインの仕事は、ダイビングをすること。そして、ダイビングの話やその場所の出来事などを、英語と最低もう一つの外国語で、写真を使って、ブログ、フェイスブック、ツイッターなどへ頻繁に発信する(毎日、または1週間に3~4回、など)こと。

・宿舎や食事、インターネット接続、ダイビングに必要な機材等はそれぞれの場所でインドネシア側が用意する

・ダイビング客をよそから連れてきた場合にはその紹介料が支払われる

・必要に応じて、地元の若者や子供たちにダイビングを教えたり、外国からの客の通訳をしたり、パンフなどの翻訳も行う(それぞれについて謝礼が支払われる)

・毎月、若干の賃金が支払われる(日本円で5万円ぐらいか)

以上のような条件で、インドネシアに住んで、上記のような活動してみたいという人は、いるだろうか。

興味のある方は、私(matsui@matsui-glocal.com)まで、是非ご連絡いただきたい。

 

【お知らせ】日本人経営者のためのワークショップジャパン・フィードバックセミナー(10/9)

日系企業で働くインドネシア人スタッフは、日本や日本人や日本企業に対してどんな意識を持っているのか。その本音の部分を知ることで、日本側とインドネシア側とのコミュニケーションが大きく改善することが期待できます。

そこで、下記のセミナーを10月9日に開催予定です。私が講師を務めます。ふるって、ご参加ください。

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日本人経営者のための
ワークショップジャパン・フィードバックセミナー

JACインドネシアでは、日系企業で働くインドネシア人管理職・マネージャーを対象に、日系企業内でのコミュニケーション能力を高めるための「ワークショップ・ジャパン」を開催してきました。

「ワークショップ・ジャパン」では、参加者間の討論や経験交流を通じ、親密なコミュニケーションを実現するためにインドネシア側・日本側双方がどのような努力が必要かを考えてきました。そのなかで、インドネシア人側の日本人経営者に対する見方や態度の本音の部分が明らかになり、それを日本人側へフィードバックする必要性を感じました。

本セミナーでは、インドネシア人側が持つ日本人や日系企業へのイメージを示した後、ワークショップ・ジャパンで出された具体的なミスコミュニケーションの事例を取り上げ、インドネシア人側と日本人側との認識の相違を考えます。そして、インドネシア人側から出された日本人経営者側への改善提案をもとに、両者間の良好なコミュニケーションの作り方について、参加者と一緒に考えていきます。皆様のご参加をお待ちしております。

講師  : 松井和久(JACシニアアソシエイト)

日時    : 2013年10月9日(水)17:00 – 19:00(受付開始 16:30)

場所    : スカイビジネスセンター
Menara Cakrawala 19th Floor., Jl. M.H. Thamrin No.9, Jakarta

参加費:  500,000 ルピア + VAT 10 %

定員: 30名(定員になり次第、締め切らせていただきます)

お申し込み方法: 下記をご記入の上、メールにてお申し込みください。
1)会社名 2)氏名および役職 3)メールアドレス 4)電話番号(できれば携帯番号)
申込先: JACビジネスセンター(担当:田巻) tamaki@jac-bc.co.id または松井(matsui01@gmail.com)まで

なお、当日は、9:30〜16:30に同じ会場で、日系企業で働くインドネシア人スタッフを対象としたコミュニケーション能力養成ワークショップ「ワークショップ・ジャパン」も開催します。参加ご希望のインドネシア人スタッフがおりましたら、上記と同じ要領で、JACビジネスセンター(担当:タタ) tata@jac-bc.co.id または松井(matsui01@gmail.com)までお申し込みください。

「日本」が人々の胃袋の中へ広がる

ジョグジャカルタの「こてこて」と「わざわざ」の話を前回書いた。そこでは、「日本」がインドネシアの若者たちに、肩肘張らずに自然にすんなりと、受け入れられている様子があった。最近の日本からの企業進出、とくに日本というものを意識した日本側からインドネシア側へのアプローチとの対比で、少し考えてみたい。

たとえば、日本からラーメンなどの飲食業の進出がジャカルタやスラバヤなどで見られるようになって久しい。そこでは、多くの場合、日本的なものを前面に出して、日本を売りにするケースがほとんどである。

基本は、日本で食べるのと同じものをインドネシアにも提供したい、という姿勢である。そして、それは日本好きであったり、物珍しさを好むインドネシアの人々に受け入れられていく。在留邦人も、日本食が恋しくなって、そうした店へ出かける。そうして、日本というものがインドネシアへ広がっていく。

一方、「こてこて」や「わざわざ」のように、日本人がほとんど関与せずに、インドネシア側のイニシアティブで、日本人が知らないところで、勝手に「日本」が広まっていく現象がある。彼らのやっていることは、日本人の我々から見れば、日本の真似事に過ぎないかもしれない。「ちょっとそれは違うんじゃないかなあ?」と首をかしげたくなるような面もある。

そうしたビジネスを行っているのは、留学や研修でかつて日本に滞在した経験のある人だったり、アニメやオタク文化に触れて日本にはまってしまった人だったり、あるいは、ちょっとビジネスをするのに「日本」を借りただけの人だったりする。

これら両者の違いは、日本をどう扱っているかである。日本から進出した企業は、日本をインドネシアの中へ持ち込み、その日本たるものを維持することでビジネスを展開させようとする。その際、最初は物珍しさから注目を集めても、すぐにインドネシア側に飽きられてしまう可能性がある。

気をつけないと、「日本のものだから素晴らしいんだ」「どうしてインドネシアの人々はそれを理解してくれないのか」という話に陥りかねない。もちろん、そして利益を上げなければならないというプレッシャーがかかる。

「こてこて」や「わざわざ」は、インドネシアの若者が、日本が好きで勝手に始めたものである。もちろん、利益を上げることが前提だが、日本礼賛!というように力が入っているわけではない。日本をそのまま伝えなければならないという使命感などない。彼らが最もなじむ形で「日本」あるいは「日本的なもの」が受け入れられていく。そこでは、容易にインドネシアやインドネシア的なものと融合していく。当然、日本的なものを求める日本人や日本通の関心の対象にはならない。

しかし、どうやら、我々の目に見えないところで、この「こてこて」「わざわざ」現象は静かに広まっている様子なのである。

昨晩、スラバヤ郊外の住宅地の細い道路を走っていたら、ワルンのような赤ちょうちんを発見。ちょっと覗いてみると、机一つだけの「ラーメン屋」だった。いかにも、インドネシアの方が試しに始めてみたスモール・ビジネスという感じで、日本人の私の眼から見て、どう見ても美味しそうなラーメン屋には見えなかった。機会があれば、今度、取材をかねて、味を試してみたいと思う。

クールジャパンなどを通じて、日本食をビジネスとする日本企業のインドネシア進出を支援することにも意味があるだろう。

それとともに、いやそれ以上に、インドネシアの人々や世界の人々の胃袋に日本食あるいは「日本食」をなじませ、広めていくこと、日本が世界の人々の胃袋から離れられなくなる(する)ことが、日本が世界のなかで生きていくに当たって、とても重要なのではないかと思える。それは、日本企業だけでできる話ではない。「こてこて」や「わざわざ」のような、現地の人々が勝手に広めてこそ、「日本」が人々の胃袋の中に根づいていくのではないか。

こうした、勝手に「日本」を広げていく動き、とくに胃袋を通じて「日本」が広がっていく動きを、我々日本人は、「本物ではない!」などと目くじらを立てずに、温かい目で見守っていきたいものである。

「こてこて」と「わざわざ」

7月に「中小企業海外展開支援プラットフォームコーディネーター」という長い名前の職務を拝命し、日本の中小企業がインドネシアへ進出する際のコンタクトポイント、あるいはすでにインドネシアへ進出した中小企業の相談窓口、のような役割を果たしている。

昨晩から出張でジョグジャカルタに来ているが、今回はそのプラットフォームがらみの仕事である。

仕事の話はちょっと置いておいて、今回、ジョグジャに来てあらためて思うのは、日本というものがジョグジャの風景の中に溶け込み始めているということである。すなわち、日本に留学したり、日本について学んだりした学生たちが、自分のフツーの感覚で、肩ひじ張ることなく、遊び感覚も兼ね備えながら、ちょっとしたビジネスなどを行なっている光景である。

最初は「こてこて」。これは、広島風と大阪風のお好み焼きを出す小さな店である。ワルン・オコノミヤキと称している。注文すると、お兄ちゃんがお好み焼きを焼いてくれる。ムスリムのお客さんを考慮して、すべてがハラル。お好み焼きのソースも、自分たちで工夫してハラルにしている。しかも、小・中・大とサイズの分かれたお好み焼きは、大でもトッピングなしで3万ルピアと手頃な値段だ。これで十分に元が取れているという。

次は「わざわざ」。「こてこて」からすぐのところに、赤いのれんをかけた屋台があった。ガジャマダ大学日本語科の学生?が始めたビジネスで、まさに屋台をイメージして始めたようだ。ご飯に鶏肉または牛肉のそぼろをかけ、お好みで目の前の春巻、チキンカツ、サテ、サラダなどをトッピングする。あれ、これってジャワでよく見かけるワルンやソトアヤム屋と同じシステムではないか。

まさに、「日本」がすんなりと入っているのだ。ジョグジャの持ついい意味での脱力感とともに。

日本とインドネシアの交流イベントを大々的にやるのもよい。でも、ジョグジャカルタの若者たちは自分たちのアイディアとセンスで、日イ友好などと力を入れることなく、楽しみながら「日本」を自然に自分たちの中に取り込んでいる。そんな動きが自然に広がっていくのがいい。日本人は、「本当の日本とは違う」などと目くじらを立てないほうがよい。

夜だったせいもあり、うっかり、写真を撮るのを忘れた。失敗。

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