トンプの人々と陸稲

先ほど、フェイスブックで友人から興味深い投稿があった。インドネシア・スラウェシ島の中央部、中スラウェシ州のトンプという村での人々と陸稲との関係についてのエッセイである。

トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。

今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。

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「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。

トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。

「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。

もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。

旗のように残ってしまった我が同胞よ
涙がもう流れてきます
涙がもう溢れてきます
涙とともにお迎えに参ります

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インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。

そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。

インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。

出発当日、鉄道切符の払い戻しは?

先日のクルド火山噴火で、今週、2月16〜18日に予定していたソロへの出張が延期になった。スラバヤからソロへは航空便がないので、鉄道を利用する。おおよそ3時間程度なので、さほど苦にはならない。

さて、今回、その切符の払い戻しをするために、スラバヤ・グベン駅へ行った。2月16日、本来なら出発する日である。当日のキャンセルなので、まあ、半額でも20%でも払い戻しできればラッキー、払い戻しできない可能性もあるな、という軽い気持ちで行った。

結果は・・・。意外だった。2月16日のスラバヤ発ソロ行きの切符は、当日ということでダメだと思ったら、「当日なのでこの場で処理する」という理由で、全額、その場で戻ってきた。一方、2月18日のソロ発スラバヤ行きの切符は、「マニュアルで処理しなければならない」という理由で、1か月後以降、25%の手数料を引いた額が払い戻される。

すなわち、インドネシアでは、切符の払い戻しをする場合、少なくとも乗車駅で当日に払い戻すと、100%その場でお金が戻ってくるのである。

参考になれば幸いである。

クルド火山噴火、スマランから戻って

先週は、2月12〜14日の予定で中ジャワ州スマランへ出張していた。用務は順調に進んでいたが、14日朝、東ジャワ州のクルド火山が噴火したとの報道を聞いた。スラバヤでも火山灰が降っているらしいが、それを聞いたとき、スマランはまだその徴候はなかった。

14日朝9時過ぎ、スマラン空港でジャカルタから来た方と合流し、車に乗って訪問先へ向かおうとしたとき、チラチラと白い粉が空から舞い降りてきた。火山灰だった。

このとき、なぜか、3・11の後、原発が爆発した直後、福島県双葉地方に降ったという白い物体のことを思った。

空港には、すでに火山灰で真っ白な車もあった。中ジャワでも、サラティガから南は火山灰に覆われているとのことだった。ジョグジャカルタの友人から電話があり、火山灰が降っていて外には出られない状況とのことだった。スマランの状況からはちょっと信じられなかった。

間もなく、スマラン空港は閉鎖になった。そのときすでに、スラバヤ、マラン、ジョグジャカルタ、ソロの各空港は閉鎖になっており、日帰りの予定だったジャカルタから来たばかりの方々が慌て始めた。もちろん、私のスマラン発スラバヤ行きの便も早々にSMSでキャンセルのお知らせが来た。

用務の合間に、ジャカルタから来た方々の帰りの鉄道の切符確保と私の鉄道の切符確保に走った。その頃にはすでに、スマラン発ジャカルタ行きのほとんどの切符は売り切れになっていたが、スマラン発スラバヤ行きの切符はまだまだ余裕があった。

ジャカルタから来た方々はスマランに1泊して、翌15日朝発の鉄道列車のビジネス席に乗って帰ることになった。私は、15日午前2時半発の夜行列車でスラバヤへ戻ることにした。

1泊を余儀なくされたジャカルタから来た方と夕食を共にし、その後、深夜までワインなど飲んで、すっかり気分が良くなっていた。私はスマラン・タワン駅へ向かい、1時間遅れて着いた夜行列車に乗り、ワインの酔いのせいもあり、スラバヤまですっかり熟睡した。

スラバヤ・パサールトゥリ駅に午前7時過ぎに到着し、タクシーに乗って無事自宅に到着。あーあ、疲れた、と思ってカバンを開けたら・・・。

ない。ない。ノートパソコンとiPadがなくなっている。一体、どこで・・・。

そういえば、列車を降りるとき、網棚の上に置いたカバンの位置がちょっと違っていたのが気になったが、まあ、列車が揺れたりして動いたのだろうと思って、気にしなかった。そして、なぜそのカバンに、今回だけは鍵をかけなかったのだろうか、と後悔したが、後の祭りだった。

手元のiPhoneでiPadを探してみるが、オフラインのままで反応がない。

でも、幸い、パスポートやクレジットカードは無事だった。パソコンのデータもクラウドに保存してあったので、実害はほとんどなかった。

最近、ちょっとポカが多くなった気がする。この間も、パレンバンで古いデジカメを盗られた。年齢のせいなのか、疲れているためなのか。

ショックだったが、しょんぼりしてはいられない。土日を使って、月曜締切の原稿2本、火曜締切の原稿2本を書かなければならないのだ。

とにかく、すぐに代わりのパソコンを手にしなければならない。思い切って、MacBook Airを購入し、18日(火)までに4本の原稿をそれで書いた。このブログもそれで書いている。

原稿を書き終わった後、本当に久しぶりに2時間、昼寝をした。ほんとうに本当に久しぶりによく寝た。

スラバヤは連日の激しい雷雨で、クルド火山の火山灰はほとんど洗い流されていた。16日朝にはスラバヤ空港も再開し、見た目には、噴火の影響は何もないように見える。しかし、スラバヤから車で2時間も行けば、火山灰に覆われ、避難を余儀なくされた人々の場所がある。

スマランからスラバヤへ向かう列車の中で、ボジョヌゴロ付近からしばらく、空の白が異常なほど濃くなっているのが見え、その上に、顔面蒼白のような太陽が見えた。それを見ながら、怖いと思った。再び、3・11後の福島県双葉地方のことを思っていた。

言葉が下手だからコミュニケーションできない・・・

今日、用事があってスラバヤ市政府の役人と会った。インドネシア語でいろいろ説明していると、その途中で先方が言い出した。「せっかくこちらがお前を助けてあげようとしているのに、お前の言葉が下手だからコミュニケーションができない」と。要するに、私とは話をしたくない、という婉曲表現である。

助けてあげたいのにできない、というのも彼らの常套文句で、助ける気などこれっぽっちもないのに、恩着せがましく言うのである。

この役人は、私がいきなりアポなしで会いに来たのが気に入らなかったのである。私は、来週スラバヤに来る訪問団のアポを取るため、正式レターを出す前にどの部署を訪ねるのがよいか、探るために出かけたのである。インドネシアでは進んでいるといわれるスラバヤ市政府でも、全ての部署の電話やメルアドが明記されている訳でもなく、また電話しても途中で切られてしまうことが少なくない。今回、ある程度当たりを付けてから、レターを出す心づもりだった。

でも、役人はレターなしで来る人間には極めて冷たい態度をとる。もしそうなら、あの不愉快な役人は私と会うのを拒み、「レターがなければ会えない」と言いさえすればよかったのだ。それを面会に応じ、いやそうなそぶりを見せながら「お前を助けたいのに、お前の言葉が下手なせいで助けられない」などとわざわざ言うのである。結局、結論は「レターを出せ」なのであった。

こうした経験は、スラウェシやマカッサルにいた時にはまずなかった。数少ない経験ではあるが、それはいずれもジャワでの経験である。言い訳になるかもしれないが、これは決してジャワを悪く言いたいがための話ではないことを断っておく。

ふと25年近く前の出来事を思い出した。前にもブログに書いた話かもしれないが、もう一度書く。あのときは、ジャカルタで日本から来た専門家のセミナーで、慣れないながらも通訳をさせられた。セミナー出席者は模範工場を見学し、その感想を述べる場面で、その模範工場の欠点ばかりを指摘した。専門家は「本当に欠点ばかりだったのでしょうか。ご自分の工場と比べてよかった点は率直に認めることも必要ではないでしょうか」と述べた。私はそれを通訳した。
まとめのセッションで、参加者の感想を述べ合う時間が来た。そこで参加者のほとんどは、「通訳のインドネシア語が下手だからよく分からなかった」と述べたのである。私は泣きそうになった。セミナー参加者は、専門家の言葉に直接反論できないので、通訳を標的にして、自分たちが劣っているということを面前で認めずに済ませたのである。私は、そのいやらしさを痛感しながら、「自分の通訳の能力不足のせいなのだ」とセミナー参加者へ何度も詫びた。
あのときと同じ「いやらしさ」を、今日の役人との面会で久々に感じた。
言葉が下手だからお前とはコミュニケーションできない、と言われれば、そりゃあ、30年近くインドネシアと付き合い、インドネシア語でやり取りしてきたとはいえ、外国人のインドネシア語だし、と思うほかない。この30年で、インドネシア語も相当に乱れてきており、高校生の書くインドネシア語の文章などびっくりするぐらい下手で、赤ペンで添削したくなるようなレベルなのだが、私のはあくまでも外国人のインドネシア語、そう思うことにしている。
気分的なものにすぎないのだろうが、こうした「いやらしさ」の経験が、私自身、どうしてもジャワというものを心の底から好きになれない要因となっていることを否定できない。

パレンバン訪問(その2): カンポン・カピタン

デジカメを盗まれた後、乗合に乗ってムシ川にかかるアンペラ大橋を渡って、対岸へ。対岸にはカンポン・カピタンという名前の華人系の人々が古くから住む集落がある。話を聞くと、どうもこちらのほうが市外よりも歴史が古く、パレンバン自体がもともとはカンポン・カピタンから始まったといってもよいようなのである。

細い道を川のほうへ向かって入って行く。質素な家が立ち並び、家の周辺は湿地のような景観である。その一角に、カンポン・カピタンはあった。

カンポン・カピタンに住んでいるのは華人系だけではない。マレー系の人々も住んでいるが、けっこう前の代から住んでいるようである。ここにいると、川から風が吹いてきて、とても気持ちがよい。しかし、川から水があふれて洪水となるのは茶飯事のようで、家も、高床のような構造であり、洪水と共存した生活になっている。

この長屋の向かいには、漢字で書かれた小さな祠が建てられていた。南無阿弥陀佛と書かれている。

さらに、川と反対方向へ行くと、別の長屋のような集合住宅が集まっているところへ出た。ここがカンポン・カピタンの中心と言ってもいい場所のようだ。カピタンというのは、華人系住民の長を指す名称だが、ここでのカピタンは「蔡氏」のようだ。

上の3枚のうち真ん中の写真がカピタンの家。この辺では最も古い建物である。ここを守っているのは、蔡氏の13代目とのことである。多くの親族はカンポン・カピタンを離れ、ジャカルタやシンガポールなどで活躍し、富豪になった者もいる。

カピタンの家の隣が、中国寺院になっている。

中国寺院の隣のカピタンの家には、歴代カピタンの位牌の置かれた廟があった。歴代カピタン一人一人に線香を立てる灰置きがあるはずなのだが、1個を除いて、すべて紛失したという話である。誰が盗んだのかはまだわかっていない。

これら中国寺院や廟の裏が、ここを守る蔡氏13代目の家族が住む、広い長屋のような空間である。

周辺では、子供たちの歓声がこだましていた。子供たちがアイスキャンディー売りに群がっている光景がなつかしい。

カンポン・カピタンに来る前に見た、インスタントな薄っぺらな文化とは相当に異なる世界が、ムシ川の対岸にあった。

ムシ川にかかるアンペラ橋は、夜になると様々な色にライトアップされる。カンポン・カピタンから眺めるイルミネーションは、予想以上に見事だった。あまりにも見事だったので、帰りは歩いてアンペラ橋を渡った。とても気持ちのいい散歩であった。

パレンバン訪問(その1)

インドネシア34州のうち、まだ行ったことのない州が5つある。そのうちの一つ、南スマトラ州パレンバンへ思い切って行ってきた。実質わずか1日という短い滞在だったので、いろいろ見えていないところもあるが、とりあえず、書き留めておきたい。

なお、パレンバンの食べ物編は、追って、食べ物ブログ「食との出会いは一期一会」に書きたいと思う。

パレンバンに着いたのは1月24日夜。片側三車線の広い道路を走る車はまばらだ。道路を渡るには、何が何でも歩道橋を渡るしかない。ここの歩道には、何も置かれていない。何も置かれていない本当の歩道。歩道の下は暗渠排水路となっている様子。

しっかりと整備された道路と夜の人通りの少なさから受ける印象は、「パレンバンは真面目な町」というものだった。夜中に小腹がすいても、食べに行くところがない。

夜のパレンバンに、大モスクとその前にある噴水が光っていた。この噴水は、パレンバンで東南アジア・スポーツ大会(SEA Game)が開催されてからは、SEA Game噴水と呼ばれているそうである。

一夜明けて、街には喧騒があふれていた。道路を通る車の台数は多く、裏道はあちこちで渋滞している。通りには店が立ち並び、市場は人の波で活況を呈していた。

さっそく、前の晩に見た大モスクへ行ってみた。このモスクは、表側が近代的な建物になっているが、裏側は古い建物が残されている。その古い建物の形がユニークなのだ。鐘楼のような高い建物が一番古く、隣の建物の屋根には黄色のヒレのようなものが付けられている。これは龍をかたどったものなのだろうか。

大モスク(Mesdjid Agung)は1748年、パレンバンのスルタンであるマフムッド・バダルッディン1世によって建てられた。建立に当たっては、地元華人たちの支援が大きかったのかもしれない。それが何となく中国風の屋根の形に反映されているように見えるのである。

大モスクから歩いてすぐのところには、スルタン・マフムッド・バダルッディン2世博物館がある。どんな博物館なのか、中に入ってみた。

パレンバン周辺は、4~14世紀頃に栄えたスリウィジャヤ仏教王国の中心であるが、それに関する記述や展示は極めて少ない。スルタンの博物館ということで少ないのはやむを得ないのかもしれないが、石器時代の次にそれと同等の小さな扱いだったのがちょっとびっくりした。

展示物の中に「古い書き物」というものがあり、どれぐらい古いかと思ってみてみると、1800年代のカガナ文字による書き物であった。1800年代の書き物が「古い書き物」なのだ・・・。あたかも、パレンバンの歴史は、スルタンの時代から始まったかのような展示物であった。スルタンの時代以前は先史時代であり、スリウィジャヤ仏教王国の存在には触れるものの、基本的にパレンバンの歴史は実質上スルタンの時代から始まったかのような印象を受ける展示だった。

博物館から少し川岸へ歩いたところで、船を雇い、ムシ川に浮かぶクモロ島という島へ行ってみた。この島には九重塔があり、土日はたくさんの市民がやって来る観光地である。

島に着いて、中国(風)寺院があった。赤や黄色で塗られ、そこに描かれる絵は伝統を感じさせるものではなく、ささっと書いたような稚拙な絵だった。寺院自体は1960年に建立され、2010年にこのケバケバしい色で改築された。

九重塔はその先にあった。2006年に建てられたものだが、建物自体は、まるで巨大な張りぼてのような建物だった。もちろん、そこに描かれている絵は稚拙そのもので、何ら、寺院らしき厳かな雰囲気を感じない。

そう、このクモロ島の寺院も九重塔も、一言で言って、安っぽいのである。文化のかけらも感じることができない。

こんな場所でも観光地となり、休みの日には大勢の市民が訪れ、それを目当てにしたヤシジュース屋が何軒も店を出すのだ。

雨がぱらつくなか、クモロ島を後にして、博物館近くの船着き場へ戻る。船着き場とクモロ島の間には、インドネシア国内最大の国営尿素肥料工場があり、船上でもアンモニアの匂いが相当にきつかった。

船着き場からベチャに乗って、ンペンペを食べて、ぐるっと街歩きをした後、ムシ川にかかるアンペラ橋を渡って、対岸へ行ってみることにした。橋を渡る乗合をさがして、乗り込んで「さあ出発」と思ったとき、乗合の前座席のおじさんが「あんたのカバンからさっき何か盗まれたよ」というので、「えっ?」と思ってカバンを探ると、ポケットに入れておいたお古のデジカメが消えていた。おじさん曰く、犯人は3人組の若者だったようだ。

ガクッと気落ちしたまま、乗合で橋を渡り始めた。

(その2に続く)

インドネシア語雑誌でラーメン特集

インドネシアでも、ジャカルタやスラバヤを中心に広がってきたラーメン・ブーム。とうとう、インドネシア語の食品関連雑誌Yuk Makan.comの2014年1月号は、大々的にラーメン特集を組んだ。

同誌のウェブサイトは以下だが、残念ながら、ウェブ上で雑誌を読むことはできないようだ。

YukMakan.com (インドネシア語のみ)

ラーメン特集は2部構成になっていて、第1部が日本のラーメンの紹介、第2部が「編集部の選んだラーメン店」となっている。

「中国で生まれ、日本で有名になった」と題された第1部の日本のラーメン紹介は、ラーメンの歴史から説き起こされた後、日本各地のラーメンの特徴を紹介している。

北海道では、釧路ラーメンは「スープはそれほど濃くなく、麺は少なめで滑らか」、北見ラーメンは「スープは玉ねぎベースで醤油味が効いている」、旭川ラーメンは「縮れ麺」、札幌ラーメンは「日本人の最も好きなラーメン。スープはみそ味だが、初めて紹介されたときは塩味だった」、函館ラーメンは「スープは塩味で、中国古来の雰囲気あり。ラーメンの上に粉チーズをたくさん書ける店がある」、といった具合である。

こんな調子で、東北では、仙台ラーメン、酒田ラーメン、米沢ラーメン、喜多方ラーメン、白河ラーメンが、関東では、東京ラーメン、サンマー麺、、油そば、とんこつ醤油ラーメン、八王子ラーメン、佐野ラーメンが、簡単なコメントと共に紹介されている。

信越・新潟では、新潟ラーメン、長岡ラーメン、富山ブラックが、東海では、高山ラーメン、台湾ラーメン、ベトコンラーメン(一宮)が、近畿では、京都ラーメン、神戸ラーメン、天理ラーメン、和歌山ラーメン、播州ラーメン(西脇)が紹介されている。

中国・四国では、讃岐ラーメン、岡山ラーメン、尾道ラーメン、広島ラーメン、徳島ラーメン、鍋焼きラーメン(須崎)が、九州では、博多ラーメン、久留米ラーメン、熊本ラーメン、宮崎ラーメン、鹿児島ラーメンが紹介されている。

それにしても、編集部がこれらを全部踏破して、食べ歩いたとは思えない。これらのタネ本があるのだろうか。

日本全国のラーメン紹介の後は、スープの味(醤油、豚骨、塩、味噌)の違いについて解説している。

第2部は、同誌の編集部や愛読者が好む、ジャカルタのラーメン屋が合計10軒紹介されている。そのなかには、在留邦人にはお馴染みの店の名前がいくつも出てくる。10軒中7軒に豚さんマークが付けられている。

それぞれの店のラーメンの紹介だけでなく、餃子や鶏唐揚げなどのサイドディッシュに関する記述も多い。おそらく、インドネシア人のとくに家族連れは、ラーメンのみを食べるのではなく、こうしたサイドディッシュを、メインとしてのラーメンの付随品、というよりも、別料理として注文しているように見受けられる。

この雑誌は一般誌ではないので、広く情報が行き渡っているとは思わないが、こんなに大々的にインドネシア語の雑誌がラーメン特集を組んでいること自体がビックリである。

何せ、日本へ旅行する目的がラーメンを食べることにあるというインドネシア人観光客がいるご時世である。日本のご当地ラーメンを食べ歩くツアーなどをやったら、インドネシア人観光客は大喜びするだろうし、日本の地方にとってもいい刺激となるのではないだろうか。

そうしたご当地ラーメンのなかで豚骨ベースではないところでは、ハラル認証を取って、ハラル・ラーメンを広める夢を描き始めたところもある。

以前のブログでも取り上げたが、インドネシアの各地で、インドネシア人自身が見よう見まねで、インドネシア人の味覚に合ったラーメンを提供し始めている。もちろん、日本人からするとちょっと受け入れがたいような味付けのものもあるのだが。

ともかく、インドネシアからのラーメンへの関心の高まりは、我々日本人の想像以上にアツくなってきていることは確かである。

*ラーメン特集のある「YukMakan.com 2014年1月号」を購入されたい方は、ウェブサイト上から申し込むか、以下へメールまたは電話で問い合わせてください。ジャカルタ首都圏はRp. 25,000、それ以外はRp. 30,000です。

Email: contact@yukmakan.com
Tel: +62 21 653 00 883 / 929 / 764

iPhone 5Sを使い始めて(独り言)

今回の一時帰国中に、日本で思い切ってSIMフリーのiPhone 5Sを購入した。64GBのゴールド。日本ではOCNの1ヵ月980円という安価なナノSIMを入れて使っていた。データ通信のみ、デザリングはできないタイプである。

そして、日本国内用のブラックベリーを通話専用とすることにし、パケホーダイなどの契約を解除してから、インドネシアへ戻ってきた。

昨日、家の近くのXLのサービスセンターへ行って手続をした。これまでポケットWifiに入れて使っていたSIMをナノSIMにしてiPhone 5Sに入れてもらった。1ヵ月当り最大5.1GB、価格は99,000ルピア(約850円)である。このセッティングで、なんと通話可能、デザリング可能。インドネシアは、無料Wifiの場所が多いので、これで十分に間に合いそうだ。

ちなみに、インドネシアではまだ5Sは販売されていないが、間もなく販売されるという話である。

さっそく、Facebook、Twitter、WhatsApp、LINEなどをiPhone 5Sにまとめ、最後に、Blackberry Messenger (BBM) もiPhone 5Sへ移行させた。結局、インドネシアで使っているブラックベリーも通話とSMSのみ使う形になった。

というわけで、データ通信用にiPhone 5S、通話+SMS用にもう1台、という組み合わせとなった。もう1台はブラックベリーである必然性はもうないので、シンプルで電池の長持ちする携帯に変えてもいいとも思う。

今朝、試しにiPhone 5Sから東京の自宅へSkypeしたら、これまでで一番、画像も声もはっきりしていたということだった。これまでも、MacBookやiPadからSkypeしていたのだが、技術進歩は想像以上に進んだということなのだろうか。

iPhone 5Sを持ち歩くことで、デジカメを持ち歩かなくなった。iPadを持ち歩かなくなった。ノートを何冊も持ち歩かなくなった。街歩きをするときの荷物がとても軽くなった。

iPhone 5Sを使い始めて、今までとは何かが変わってきたような気がする。料理の写真を撮ると、これまで使っていたデジカメよりも何となくきれいに写ってしまうし、それを瞬時にSNSへアップロードすることができる。その時々にアップロードしたものへの反応が、時間がたってアップロードしたものよりもずっといいのが不思議である。

WhatsAppでも、LINEでも、Skypeでも、地理的な距離とそれに付随するコストを考えることなく、軽々とそれを乗り越えて、地球上のどこにいても、インターネットにつながってさえいれば、いつでもコンタクトできる。発信できる。誰がどこで何をしているのかがリアルタイムで分かる。少し前には夢物語だったようなことが、すでに日常の現実の中にある。
だからこそ、インドネシア、アジア、東京、福島、そのほかの世界、これらがうまくつながりながら、新しい何かを起こしていける環境が整いつつあると感じるのである。ブラックベリーを使い始めた時にはさほど感じなかったが、iPhone 5Sを使い始めて、よし、新しい何かを創るために動いてみよう、と無性に思い始めている今日この頃である。

2014年カタリスト宣言

2014年になりました。明けましておめでとうございます。

本年が皆様にとって素晴らしい年となりますように。
世界中の人々が昨年よりも幸せを感じられますように。

そのために、自分自身が、小さなことから具体的に行動すること。

1日最低1つ、誰かのために何かよいことを行なうこと。
誰かに助けてもらったら、2倍返し以上でその人またはほかの誰かを助けること。
1日最低1回、誰かに微笑をかけること。

ふるさと福島の人々や福島のこと、東北の人々や東北のことを忘れないこと。
日本をはじめ世界中の地元に生きる人々のことを深く思い続け、希望を追求すること。
地域と地域、人と人、モノとコト、世代と世代、喜びと喜び、幸せと幸せをつなぐ人になること。

プロフェッショナルな触媒、カタリストになること。

 

9年前、スマトラ沖大震災

9年前の2004年12月26日、スマトラ島北部、アチェ沖を震源とする大地震が起こり、大津波などで20万人近くの方々が犠牲となった。まだ覚えているだろうか。

当時、日本のメディアにはインドネシアの情報はほとんど伝わっておらず、タイやスリランカでの被害の様子が報じられていた。インドネシアのとくにアチェの被災状況が報じられたのは、ほとんど年が明けてからだったように思う。

アチェの現地から送られてきた写真をみた。津波がバンダアチェの町を襲う写真、助けを求める人々の写真、そして道路沿いのおびただしい数の遺体の写真、その遺体を埋葬している写真・・・。直視することができない、しかし直視しなければならない。嘔吐感すら感じながら、必死でその画像を記憶に留めようと必死だった。

自分が長く関わってきたインドネシアの悲劇に、一体何ができるのだろうか。悩みに悩んで、信頼できる知人らとともに、アチェの新聞社と一緒に、子供たちが未来へ向けて進み出せるためのささやかな支援を行った。それで十分だったとは決して思えず、その後もずっと気にし続けていた。実際には体験していないのに、時折、あの遺体の画像が夢の中に出てきたり、突然、頭の中に浮かんできたりした。

震災当時のアチェは、インドネシア国軍とアチェ独立派との戦いが続いていた。しかし、その震災で、インドネシア政府は全世界から支援金・物資を受け入れ、それを現場へ投下することでアチェの人々の人心をつかんでいった。ジャワ島などからもたくさんのボランティアがアチェへ入り、救援・復興作業が進められていった。

他方、この点で、アチェ独立派は非力だった。結果的に、震災は、アチェ独立派を弱体化させ、インドネシア政府が支援・復興をリードしながら、アチェ紛争の解決を有利に運び始めた。そして、インドネシア政府とアチェ独立派はヘルシンキで和平協定を締結し、アチェに平和が訪れることとなった。結果的に、大震災による膨大な数の方々の犠牲の上に、アチェは平和を取り戻すことになったとも言える。

2010年10月、遅きに失した感はあったが、震災後としては初めて、アチェを訪問した。津波にも耐えたモクマオウの木は立派なままだった。打ち上げられた大型船や家の屋根の上に乗り上げた船、残された建物に残された生存を示す言葉、それらが震災遺構として残されていた。観光地になっていた。会う方々は皆、笑顔で接してくれた。 そして、彼らのほとんどが身内に犠牲者を抱えていた。これからのアチェをこうしていきたい、という強い思いが伝わってくる出会いだった。

その2年半後に、「アチェで起きたこと」が日本で起こるとは・・・。災害対策が世界で最も進んでいるといわれ、アチェをはじめとするインドネシアに多大な支援を行った日本で、よもやアチェと同じ事が起こるとは・・・。

大船渡や気仙沼の町を津波が襲う映像は、まさに、バンダアチェの町を津波が襲った映像と酷似していた。東日本大震災で亡くなった方は約2万人、たとえスマトラ沖大震災の10分の1だとしても、その悲劇の程度が緩和されるわけではない。

アチェの被災者に対しては、1995年1月に大地震に見舞われた神戸の人々が様々な支援を行っていた。そして今度は、東日本大震災に見舞われた東北地方に対して、神戸の方々だけでなく、アチェの方々も支援の手を差しのべた。災害は、その被災地同士を「同志」としてつなげたのである。東北からの人々も今、アチェの地を訪れており、アチェの人々の9年前に寄り添おうとしている。

同じ被災国として、インドネシアと日本はともに世界へ向けて発信しなければならない何かを共有している。そして、世界の災害対策をともにリードしていくべき役割を担っていると考える。 それは単なる科学的な災害対策に留まらず、人々の経験や思いを共有し、未来を担う次の世代へ、そしてさらに次の世代へ、語り継ぎ、受け継いでいくことだと思う。

9年前、アチェをはじめとするスマトラ沖大震災のことを忘れてはならない。8年前の神戸、2年9ヵ月前の東日本大震災のことを忘れてはならない。これからの我々が、そして次の世代・世代が築いていく未来のために。

中ジャワ州山間部にてウナギ蒲焼を食す(一部修正)

すでに以前のブログ「インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)」に掲載したPDFファイルの報告書でも書いたのだが、11月27日、中ジャワ州のバンジャルヌガラ県でウナギ蒲焼を食べてきた。それも、生きたウナギを目の前でさばき、開いて串に刺し、オーブンでじっくり焼いて、濃厚なタレをつけていただく、というなかなか贅沢なひとときだった。

このウナギ、南海岸に面したチラチャップ付近で漁民が獲った稚魚(シラス)をいったん海水の池に集め、そこから淡水の池に移して徐々に淡水に慣らしながら大きくしていく。種類はジャポニカ種ではなくビコール種、日本の蒲焼用のウナギは体長20〜25センチ程度だが、今回いただいたのはそれよりも若干長い30〜40センチのものだった。

この企業は兄弟・親戚の3人で動かしている小さな企業である。以前、日本で開催されたFOODEX JAPANへ蒲焼を出展したが、「泥臭い」と言われて散々だった。日本滞在中に、彼らは浜松のウナギ養殖業者を訪問し、いろいろ学んだ。「泥臭い」原因 は、海水で大きくしたウナギを使ったからで、地下水などの淡水を使うと臭みが抜けることに気づき、FOODEXの半年後、淡水で育てたウナギの蒲焼で再チャレンジした。評判はよく、日本のウナギ蒲焼と遜色ないと評された。

3人のうちの一人は、スラバヤの料理学校を出た後、ジャカルタのリッツカールトンで修行した男で、彼が浜松で蒲焼の作り方、タレの作り方を学び、短期間でそれを習得した。浜松の巨匠は1分間に40匹のウナギをさばくそうで、技の習得に長い期間が必要とのことだが、この彼は、わずか1年間学んだだけで、1分間で25匹をさばくという。その技も見せてもらった。(このくだりは、この企業の人の話だが、よくよく考えてみれば、非現実的な数字のように思える。1時間当たりの数字なのかもしれない。要するに、このインドネシア人の彼が短時間で技術を身につけたということを強調したい表現と受け取ってもらえれば幸いである)。

このウナギ蒲焼、日本で食べる一般的なものよりも肉厚でふっくらしている。今回は関西風に蒸さずに直接焼いてもらったが、全体に脂っこくなく、適度な脂が乗っている。ビコール種は皮が堅いとよく言われるが、ちょっとカリッとしてはいるものの、食べられないほど堅くない。日本で学んできたタレはそのまま注ぎ足しながら味をキープしてきたもので、浜松の巨匠も太鼓判を押したというのがうなずけるよくできたタレだった。

ウナギ蒲焼を口に運ぶ。ふわっと口の中に広がるウナギの柔らかな肉と脂の絶妙なハーモニー。こんなおいしいウナギを食べたのは本当に久しぶりだった。

しかも、私のためにわざわざ作ってくれた蒲焼。山椒がなかったのが本当に残念だった。

まだまだ手作りという感じの彼ら。今は月に100キロ程度、 某日本食レストランからの注文を受けて生産し、真空パックにして送っている。将来的には、月に5トン程度の蒲焼をつくりたいという計画を持ち、養殖場と蒲焼工場の敷地として24,000m2の土地を確保したという。彼らと一緒にウナギ養殖と蒲焼工場に興味を持つ投資家はいないだろうか。

このウナギ、一食の価値がある。もし、食べてみたい方がいれば、ご連絡いただきたい。彼らのウナギを食べるツアーなど企画してみたい、などと思う今日この頃である。

インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)

11月26〜29日に実施した中ジャワ州バンジャルヌガラ県・プルバリンガ県への出張の報告書が、ジェトロのホームページに掲載された。以下のサイトからPDFでダウンロード可能である。

インドネシア・中ジャワ州南西部の投資環境(報告)

これは、今年7月に拝命した、中小企業海外展開現地支援プラットフォームコーディネーター(インドネシア)としての仕事の一部である。

なお、今後も、日本ではまだあまり知られていないインドネシアの地方の投資環境について、このブログも活用する形で、発信していく予定である。

今も、上記の仕事の一環として、ジョグジャカルタに進出されている某日系企業のお手伝いをさせていただいている。

ジャカルタ周辺ではなく、東ジャワ、中ジャワ、インドネシア東部地域など、地方でのビジネス展開を検討されている方は、遠慮なく、matsui01@gmail.com までご連絡いただきたい。

日本と、インドネシアと、世界の、地方・ローカルの味方でありたい。そう願っている。

素敵なジョグジャで疲労困憊

先週、12月3~7日のジャカルタに引き続いて、12月8日からジョグジャカルタに来ている。

今回もジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学社会政治学部での用事である。今日(12/10)の午前中、「震災後の日本社会」という題でインドネシア語の公開授業をした。参加者はわずか8人と少なかったが、学生たちはとても熱心に聴いてくれ、質問もたくさん出た。

公開授業の最初に、震災後の日本について知っているイメージを語ってもらった。ほとんどの学生が「日本は震災から見事に立ち直った」と認識していた。彼らの日本に対する願望や確信がそう思わせている面があるが、私が公開授業を進めるうちに、どんどん真剣な表情へ変わっていったのが印象的だった。事実は様々な側面から見る必要があり、単純化できるものではない。震災後の日本社会が抱える様々な構造的問題について、少しでも知ってもらいたいと思った。その思いが通じたかどうかは、今一つよくわからなかったのだが。

今回は、ガジャマダ大学内の教員宿舎がいっぱいだったので、知人に勧められたムストコウェニ・ヘリテージホテル(The Mustokoweni Heritage Hotel)に宿泊している。ジョグジャカルタの著名な文化人の方の大きな古い家を改修してホテルとして使っているが、なかなか居心地がよい。

朝食は最初の日がナシ・クニン、翌日がナシ・グデック(ジャックフルーツを濃く煮込んだジョグジャカルタの地元料理。下写真)だった。明日はナシ・ゴレンと予想している。

部屋は天井が高く、広い。余計なものはないが、冷蔵庫や金庫が備えられている。シャワーはお湯がよく出るが、今一つ使い勝手はよくない。

受付に頼むとタクシーを呼んでくれるが、それ以外のサービスはとくにない。今朝はタクシーを頼んだが、結局来なかったので、ベチャでガジャマダ大学へ向かった。

こんな素敵なジョグジャカルタに泊まっているのだが、実は疲労困憊なのである。

先週、6日に全力で講演した後、7日は昼から知人とManufacturing Indonesiaをジャカルタ見本市会場へ見に行き、帰りにシャトルバス、乗合(Mikrolet)、オジェック(バイクタクシー)、トランスジャカルタと乗り換えて、フラフラの状態で、夜はラグラグ会のパーティーで司会をした。

8日はジャカルタからジョグジャカルタへ飛び、毎週のことだが月曜未明まで週刊インドネシア情報ニュースレターを執筆し、9日は朝早くからジョグジャカルタでの進出手続を進める日系企業に同行、午後は知人と会って、夜はガジャマダ大学の学生と夕食、ホテルに戻って火曜昼締切の連載原稿執筆、10日はガジャマダ大学で公開授業、という感じで、とにかく30分でも1時間でも横になる、という毎日。

今晩、日系企業の方と夕食の後、スーパーへ行ってアンタギン(Antagin)を買って飲んだ。風邪、吐き気、疲労感、頭痛などに効くと書かれている。普段は、この手のものをほとんど飲まないのだが、騙されたと思って飲んでみた。

ハーブの味がして、ちょっと苦め。でも、ハチミツやロイヤルゼリーが入っているらしく、甘さもある。一気にガーッと飲んだ。ええっ、ちゃんと効くかも。

こうして、私はこのブログを書くことができた。

明日は昼間にガジャマダ大学の学生と討論会をした後、夜中発の特急「ビマ」でスラバヤへ戻る。

信用し、信用される関係

今日12月6日は、2014年大統領選挙の展望について、ジャカルタで講演した。久々に全力投球で講演したので、さすがに疲れた。果たして、講演の中身は、参加された人々にどのように伝わったのか。ちょっとストレートに自分の見解を出し過ぎた感もある。

そんな講演の前に、とてもうれしいことがあった。私が資金を貸していた相手が5年かかってその資金を返済し終えたということ、である。

2008年、マカッサルで仲間の地元出版社「イニンナワ・プレス」は資金難に陥っていた。イニンナワ・プレスは、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行う小さな出版社。当時、大手書店のグラメディアなどへの負債がたまり、資金不足で事業が回らない状況になっていた。出版予定の材料を5点抱えながら、翻訳出版を断念することを真剣に考えていた。

イニンナワ・プレスのJ代表が、藁にもすがる思いで私に資金援助を求めてきた。必要額は4000万ルピアとのこと。その資金があれば、負債を何とか返済でき、出版を続けることができる、と切々と訴えられた。

私は、南スラウェシの人々が自分たちの足元を批判的に知るための材料として、南スラウェシに関する外国語出版物のインドネシア語翻訳出版を行うイニンナワ・プレスの活動を高く評価し、共鳴していた。4000万ルピアという額はけっこうな額だったが、思い切って貸すことに決めた。しかも利子をつけずに。彼らに出版を続けてほしいという気持ちが先だった。

あれから5年。イニンナワ・プレスは、何とか出版を続けることができ、しかもその出版活動は高い評価を受けることになった。けっして大規模な商業出版ではないが、ちょっとした本屋へ行けば、彼らの翻訳した書物を手にすることができる。何よりも、南スラウェシの人々がインドネシア語で南スラウェシについて書かれた外国語出版物を読み、それを批判的に検討することができるようになった。経営的にも、イニンナワ・プレスは軌道に乗ることができた。

イニンナワ・プレスからは、毎月、あるいは2ヵ月ほど間が空いたりしながら、1回当り100万ルピアずつ返済が続いた。ときには数ヵ月、返済のないこともあった。もう返済はないかと思いつつ、私はじっと待ち続けた。そして先月、私が貸した4000万ルピアを彼らはとうとう完済した。

そして今日、イニンナワ・プレスから感謝の気持ちのこもったメールが届いた。本当に困っていたあのときに、助けてもらった恩は決して忘れない。信用し、信用される関係がずっと続いたことに感謝している。これからもずっと良い関係を続けていきたい。彼らのメールを読みながら、自分の中に込み上げてくるものがあった。

南スラウェシに関する外国人を含む研究者は、現地で資料を探す際に、必ずイニンナワ・プレスを訪ねるという。州立図書館や国立ハサヌディン大学図書館よりも、イニンナワ・プレスの図書館に様々な南スラウェシに関する書籍や資料があるからである。

今年3月、私がマカッサルで借りていた家を閉める際、過去15年以上にわたって収集してきたスラウェシやインドネシアに関するインドネシア語書籍の処分に困ったとき、彼らの図書館に寄贈することにした。彼らは軽トラックを借りてやってきて、全部持って行ってくれた。それらの書籍は、今も彼らの図書館で、いつでも私に返せるような形で、大切に保管されているという。

私は、亡き父から「貸した金は返ってくると期待するな」と教えられた。彼らに貸した4000万ルピアも、戻ってこないかもしれないと思っていた。でも、彼らは律儀に、5年かけて完済してくれた。彼らとの信用し、信用される関係がとてもとてもうれしく、彼らが一層いとおしく感じた。

彼らと一生付き合っていく。大切なマカッサルの友の活動をずっとずっと応援していくことを改めて決意した。

ブルーバードの新サービス

昨日から7日まで、ジャカルタ出張である。昨日のフェイスブックで、友人が「スカルノハッタ空港でブルーバードの新サービスを使った」という記事があったので、ブルーバードタクシーの係員のところで待っていた。

そのサービスというのは、ブルーバードタクシーに乗りたい客を無料シャトルバスに乗せ、空港の外のタクシー・プールまで連れて行き、そこからブルーバードタクシーに乗ってもらう、というサービスである。

空港で客を拾えるのは空港ステッカーの貼られたタクシーのみで、台数は限られている。ジャカルタ市内から客を空港まで乗せてきたノー・ステッカーのタクシーは、空のまま戻らなければならない。そこで、ノー・ステッカーのタクシーを空港の外に待機させ、空港でブルーバードタクシーを待っている客をそこへ連れて行き、ノー・ステッカーのブルーバードタクシーに乗せるのである。

こうして、市内への戻りでも、客を乗せていくことができる。タクシーの運転手もうれしいし、客もまたうれしい。ほんと、ブルーバードは賢い。

空港からステッカー付きのブルーバードタクシーに乗ると、空港チャージを行先までの距離に応じて9,000ルピア以上払わなければいけないが、無料シャトルでノー・ステッカーのブルーバードタクシーならば、それはノーチャージ、しかも市内までの距離が若干短くなるので、タクシー料金自体も空港から乗るより少しは安くなる。

早速、昨日、それを利用する機会に恵まれた。無料バスに乗ると、係員が「どこまで行くのか」聞いてくる。しばらくしてタクシープールに着くと、何台ものノー・ステッカーのブルーバードタクシーが待機していた。

無料バスの降り口にタクシーの運転手が並び、順番に客をあてがわれていく。運転手たちはみんな笑顔だ。すすんで荷物を持ってくれる。そして、自分のタクシーのところまで連れて行き、客を乗せて颯爽と走り出す。

タクシーの運転手にいろいろ聞いた。彼によると、このサービスは2ヵ月前ぐらいに始まった。タクシープールのあるインドマレには、駐車料金を支払う。けっこう高いらしい。待機するノー・ステッカーのブルーバードタクシーは、順番が付けられ、その順番順に客を得る仕組みになっている。

思い出せば、1985年にスカルノハッタ国際空港(第1ターミナル)が完成したときは、空港タクシーのすべてがブルーバードで、安心して空港から乗れた。それが1987年頃、規制緩和で、ブルーバードの独占はけしからんとなり、各社が乗り入れられるようになった。すると、悪徳タクシーが増え、逆にブルーバードは撤退し、やや高級なシルバーバードのみに特化した。

タクシー待ちの客は順番に来るタクシーに乗らなければならないので、タクシーを選ぶことが長い間できなかった。だから、多くの客は高くてもシルバーバードに乗っていた。

ユドヨノ政権になって、客がタクシーを選ぶ仕組みに変わった。すなわち、タクシー会社ごとにスタンドができた。しかし結局、再参入したブルーバードに客は集中した。

ところが、空港で客を拾えるタクシーの台数は決められており、常にブルーバードタクシーは客の長い列があった。今回の無料シャトルバス+ノー・ステッカーは、こうした問題を解決するためのものだ。その結果、ブルーバードのタクシー待ち客用に設置されていた椅子は撤去されていた。

このサービス、空港内のシャトルバスを営業できるブルーバードならではのサービスといえる。しかし、おそらく、シャトルバスを営業できない他のタクシー会社からは不満が出ることだろう。空港当局も禁止措置を命ずるかもしれない。

でもしばらくは、このサービス、歓迎したいところである。

ニューヨーク、シンガポール、メッカ

11月26〜29日、中ジャワ州のバンジャルヌガラ県とプルバリンガ県を訪問した。今回の出張の様子は、別途、このブログでお知らせする予定だが、今回は、バンジャルヌガラで出会ったニューヨークとシンガポールとメッカについてお知らせしたい。

バンジャルヌガラもプルバリンガも、中ジャワ州南西部の中心プルウォクルトからスマランへ抜ける街道沿いにある。プルウォクルトからプルバリンガまでは車で約30分、バンジャルヌガラまでは約1時間半であり、プルウォクルトから毎日通ってくる人も少なくない。

このため、バンジャルヌガラもプルバリンガも、泊まれるホテルが少ない。今回レンタルした車の運転手も、プルウォクルトまで戻って泊まることをしきりに勧めた。でも、ちょっと街の様子も見てみたいから、といって、バンジャルヌガラの3つ星ホテルに泊まることにした。

このホテルは、スルヤ・ユダ・パークの一角にあるスルヤ・ユダ・ホテルで、パーク内にウォーターボム・パーク、各種スポーツ施設、フィットネス、カラオケまで備えた一大エンターテイメント施設であった。

ホテル自体は、田舎のフツーのホテルだった。カラオケがうるさいといやなので、離れたスタンダードの部屋に泊まった。部屋は清潔だが、トイレは久々の便座にしゃがむ方式だった。インターネットはつながるという話だったが、実際にはつながらなかった。まあ、こんなものだろうと思う。ここまで来て、原稿書きをする人もいないだろう。

このなかに、ニューヨークとシンガポールとメッカがあった。

この3つが隣接しているとは、なんと便利なことだろう。言ってみれば、この3つ、自由の女神、マーライオン、カーバ神殿は、人々のあこがれの場所なのだろう。日本人がかつて、ハワイやグアムにあこがれたように。

話によると、土日や祝日は常に満室で、たくさんの来訪客で賑わうそうである。

スルヤ・ユダ・パークは、インドネシアの庶民がどのような娯楽エンターテイメント施設を望んでいるか、を体現した施設だといえる。それは、自分の個人的な趣味とはだいぶ違うが、何となく、日本の1970年代に各地に建設された、宿泊・食事・温泉・レジャーを含む観光施設と共通する何かがあるように感じる。

ジョグジャカルタ特別州の2014年各県・市の最低賃金

ジョグジャカルタ特別州の2014年各県・市の最低賃金は以下の通りである。

州名 県・市名 Provinsi Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
ジョグジャ ジョグジャカルタ市 Yogyakarta Kota Yogyakarta 1,173,300 1,065,247 10.14
ジョグジャ スレマン県 Yogyakarta Kab Sleman 1,127,000 1,026,181 9.82
ジョグジャ バントゥル県 Yogyakarta Kab Bantul 1,125,500 993,484 13.29
ジョグジャ クロンプロゴ県 Yogyakarta Kab Kulonprogo 1,069,000 954,339 12.01
ジョグジャ グヌンキドゥル県 Yogyakarta Kab Gunungkidul 988,500 947,114 4.37

ジョグジャカルタ特別州には現在、工業団地は存在しないが、スレマン県やバントゥル県の「工業地域」に指定された場所に、手袋や縫製品などの労働集約産業が立地している(以前のブログ「バントゥル県の水田に突如現れた工場」を参照)。

同州では、クロンプロゴ県にジョグジャカルタ新国際空港の建設を予定しており、その近くに工業団地も整備していく計画がある。ただし、空港建設に関しては土地収用をめぐって住民から反対の声が上がっている。

以前、ジョグジャカルタ特別州投資局でのヒアリングでは、大規模な製造業ではなく、同州の文化的イメージに適した、いわゆる創造産業(ソフトウェア、メディア、アニメなど)の立地を促したいという意向が示されていた。

西ジャワ州2014年各県・市の最低賃金

少し遅くなってしまったが、西ジャワ州の各県・市の2014年最低賃金が先週、以下のように決定した。

県・市名 Kab/Kota 2014UMK 2013UMK %
最低賃金 最低賃金 増加率
バンドン市 Kota Bandung 2,000,000 1,538,703 29.98
チマヒ市 Kota Cimahi 1,735,473 1,388,333 25.00
バンドン県 Kab Bandung 1,735,473 1,388,333 25.00
西バンドン県 Kab Bandung Barat 1,738,476 1,396,399 24.50
スメダン県 Kab Sumedang 1,735,473 1,381,700 25.60
スバン県 Kab Subang 1,577,956 1,220,000 29.34
プルワカルタ県 Kab Purwakarta 2,100,000 1,693,167 24.03
カラワン県(基本) Kab Karawang 2,447,450 2,000,000 22.37
カラワン県(繊維・皮革) Kab Karawang 2,484,162 2,030,000 22.37
カラワン県(第1グループ) Kab Karawang (Kelompok 1) 2,496,375 2,100,000 18.88
カラワン県(第2グループ) Kab Karawang (Kelompok 2) 2,624,000 2,200,000 19.27
カラワン県(第3グループ) Kab Karawang (Kelompok 3) 2,814,590 2,422,000 16.21
ブカシ県(基本) Kab Bekasi 2,447,445 2,002,000 22.25
ブカシ県(第1グループ) Kab Bekasi (Kelompok 1) 2,814,562 2,402,400 17.16
ブカシ県(第2グループ) Kab Bekasi (Kelompok 2) 2,692,190 2,302,300 16.93
ブカシ県(第3グループ) Kab Bekasi (Kelompok 3) 2,496,394 2,042,040 22.25
ブカシ市(基本) Kota Bekasi 2,441,954 2,100,000 16.28
ブカシ市(第1グループ) Kota Bekasi (Kelompok 1) 2,814,108 2,420,000 16.29
ブカシ市(第2グループ) Kota Bekasi (Kelompok 2) 2,686,149 2,305,000 16.54
デポック市 Kota Depok 2,397,000 2,042,000 17.38
ボゴール県 Kab Bogor 2,242,240 2,002,000 12.00
ボゴール市 Kota Bogor 2,352,350 2,002,000 17.50
スカブミ県 Kab Sukabumi 1,565,922 1,201,020 30.38
スカブミ市 Kota Sukabumi 1,350,000 1,050,000 28.57
チアンジュール県 Kab Cianjur 1,500,000 970,000 54.64
ガルット県 Kab Garut 1,085,000 965,000 12.44
タシクマラヤ県 Kab Tasikmalaya 1,279,329 1,035,000 23.61
タシクマラヤ市 Kota Tasikmalaya 1,237,000 1,045,000 18.37
チアミス県 Kab Ciamis 1,040,928 854,075 21.88
バンジャール市 Kota Banjar 1,025,000 950,000 7.89
マジャレンカ県 Kab Majalengka 1,000,000 850,000 17.65
チレボン県 Kab Cirebon 1,212,750 1,081,300 12.16
チレボン市 Kota Cirebon 1,226,500 1,082,500 13.30
クニンガン県 Kab Kuningan 1,002,000 857,000 16.92
インドラマユ県 Kab Indramayu 1,276,320 1,125,000 13.45

全般的にみると、工業団地が集中するブカシ県やカラワン県は額としては大きく上がったものの、上昇率は比較的低めに抑えられている。

東ジャワ州と同様に、州内の賃金格差が拡大している様子もうかがえる。すなわち、西ジャワ州の工業団地が集中する北部海岸沿いは高く、とくに中ジャワに近い南東部、州都バンドンよりも東側の賃金はまだかなり低い。

「鉛筆が病気を持ってくる」

友人であるリリ・レザ監督とミラ・レスマナ・プロデューサーの最新作『ソコラ・リンバ』をスラバヤの某映画館で観てきた。

金曜日の夜だからなのか、あるいは金曜日の夜なのにといったほうがいいのか、観客はごく少数だった。リリの前作『アタンブア摂氏39度』も、観客動員数が少なく、すぐに映画館上映が打ち切りとなったのを思い出す。インドネシアの人々の映画に求めるものは、娯楽性に集中しているのかもしれない。

さて、『ソコラ・リンバ』である。リンバとは、スマトラ島ジャンビ州の山間部に住む地元民で、外界との接触を避け、昔からの慣習法を尊重し、森林を生かした生活を営んできた。男性はふんどしのような腰布のみの服装である。ほとんどが読み書きできず、ジャンビの下界の住民からは未開人の扱いを受けている。

そこへ、ブテットという名の一人の若い女性が乗り込んで、彼らに「読み・書き・そろばん」を教え始める。しかし、彼女の行為は、彼女の所属するプロジェクトの責任者からも、また、リンバの大人たちからも、否定的な扱いを受けることになる。

そんなシーンのなかで登場したのが、「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉だった。ブテットの下で学ぶことの面白さに目覚めてしまった息子を怒る母親の言葉である。

昔観た、パプアの地元民とジャカルタから来た青年との交流を描いた映画でも、パプアの子供たちに読み書きを教えるシーンがあった。その映画では、パプアの子供たちがジャカルタの青年たちのように、教育を受けて、自分たちのように文明化して欲しい、というメッセージが込められているのを感じた。

今回の『ソコラ・リンバ』は、そんな、ある意味、お目出度い、単純な話ではない。パプアの話とは全く異なるメッセージが込められている。どのように単純でないのか。是非、この映画を観て、皆さん自身でそれを受けとめて欲しい。

「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉には、教育が慣習法社会への尊敬を失わさせ、教育を受けた者を余所へ連れて行ってしまい、戻ってこなくさせる、という意味も込められている。我々は、教育を授ける側の目で、「良いことをしてあげている」「自分たちのように良い生活を送って欲しい」「貧しさから逃れて豊かな暮らしを」というようなことを相手に対して無意識に思っている。しかし、相手が教育をどのように捉えているかについては、想像力が欠けている。というか、教育の使命に燃えている人ほど、相手の捉え方を想像すること自体に、思いを至らせないのである。

リンバの人々が暮らす森にも、オイル・パーム農園の開拓のための森林伐採が迫り、彼らは自分たちの居住地を追われて、次から次へと居住先を移らざるを得ない。リンバの人々は森が消えていく恐怖を日々感じながら生きているのだが、開発業者の用意した同意書に、訳も分からず血判を押してしまう。

その同意書が読めれば、森を守れるはず。そう思ったリンバの青年がブテットの元に通って読み書きを学び、母親から「鉛筆が病気を持ってくる」と叱責されるのである。

地元の人々が自分たちの生活を守り、彼らなりの主体性をもって生活を向上させていくためには、余所者にだまされない力をつけなければなるまい。「それが読み書きである」とブテットは信じている。

そして、すでに読み書きのレベルを超え、文明に触れ、新しい生活様式になり、豊かになりたい、そのためにはカネの世界だ、という衝動を抑えられなくなった我々が、余所者にだまされない力の源は、もはや忘れてしまいつつある、自分たちの足元をしっかりと知り、理解することであろう。

我々の身の回りの様々な「開発」、生活を豊かにしてくれる、魔法のようなその言葉に、我々は頻繁にだまされてきた。そして、今もだまされ続けている。だまされないためには、我々も余所者を知らなければならない。学ばなければならない。

しかし、その学ぶ過程で、我々自身が「余所者」へ変わっていってしまう可能性が少なくない。『ソコラ・リンバ』ではそこまでは描かれていないが、そんなことも思った。

「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉を、自分自身を見失わないための戒めの言葉としても、受け止めたいと思う。

インドネシアで一番特殊な場所

自分のインドネシア観は、もしかしたら異常なのかもしれない。

最初は首都ジャカルタの、日本人はおろか外国人がほとんど住んでいない東ジャカルタのジャワ人の家に下宿して、インドネシア語漬けの毎日を過ごした。

2回目のインドネシア滞在は、首都ジャカルタのコスで5ヵ月過ごした後、南スラウェシ州の州都マカッサル(当時の名称はウジュンパンダン)に4年7ヵ月住んだ。このときは、家族3人と一軒家に住み、4人の使用人を使って生活した。

次は、再びマカッサルに単身で2人の使用人を使って、3年7ヵ月住んだ。大きな2階建ての家を借り、自分は1階の後ろ半分に住み、残りは、図書館、アートスペース、ワークショップ会場など、地元の若者たちや彼らのNGOの活動スペースにしてもらった。

その次は、ジャカルタで単身コス暮らしを3年して、スラバヤへ移った。

つまり、首都ジャカルタにいた時間よりも、地方都市にいた時間のほうが多かった。

そして、地方から首都ジャカルタを眺める時間が多かった。それは、まだ幼い頃、生まれ故郷の福島から東京を見ている感覚を思い出させた。

テレビ・ドラマに移るジャカルタの風景を、地方の人々は別世界ととらえ、かつあこがれの対象としていた。「自分たちとは違う世界だ」という気持ちと「いつか行ってみたい」という気持ちとが混ざっているようだった。

自分が福島にいたときもそうだった。東京の人たちはみんな頭が良くて、ファッションに気を使い、洗練されている。自分のような田舎者が生きていける世界ではない。でも、ちょっと覗いてみたい。

そんな気持ちだった自分が、決して頭がよいわけでもなく、ファッションセンスがいいわけでもなく、洗練されてもいないのに、東京で家庭を持って暮らせたのは幸運だったのかもしれない。

首都ジャカルタは、多くのインドネシアの人々にとっての、そんな場所だと悟った。すなわち、首都ジャカルタはインドネシアであるが、インドネシアを代表する場所ではなく、ある意味、インドネシアで一番特殊な場所だということを悟った。

現在、インドネシアに関する情報発信の多くは、首都ジャカルタと観光地バリ島に集中している。インドネシアで一番特殊な場所からインドネシア情報を発信する。タムリン通りとスディルマン通りとカサブランカ通りの周辺をめぐって、インドネシアはどんどん発展している、という情報が日本へ伝わる。もちろん、それ自体は間違っていない。でも、それは、ほかの大半のインドネシアを決して代表してはいない。

反対に、インドネシアにおける日本イメージは、東京や大阪の情報に基づく部分がかなり多い。近代的、都会的、交通機関が整っている。インドネシアの若者と話していて、日本の東京・大阪以外の様々な地方や農村のイメージをほとんど持っていないことに気づかされる。

日本の地方からインドネシアへの経済・投資ミッションが頻繁に訪れるが、その大半は、ジャカルタ周辺のみである。自分たちと同じ立ち位置にある、インドネシアの地方への想像力がそこには欠けている。

インドネシアの地方都市のなかには、日本の地方都市と姉妹関係を結びたいというところが少なからずある。しかし、その背景には、あたかも東京のようなイメージでの日本の地方都市への期待が隠れている。

日本の地方とインドネシアの地方とをもっと結びつけることによって、日本とインドネシアのイメージをより豊かにし、等身大でつきあえる関係を作っていく段階に入っているのではないかと感じている。

ジャカルタはインドネシアではなくなろうとしている。そんな言葉も、マカッサルでは聞いた。東京が日本を代表している、といえば、多くの日本人が「日本は東京だけじゃない」と思うことだろう。

自分はこれまで、ジャカルタとは違うインドネシアを日本へ向けて発信し、東京とは違う日本をインドネシアに向けて伝えてきたつもりだが、まだまだ力が足りない。自戒しながら、このブログをそうした媒体として使いたいと思ってきた。

もっと多く人たちが、様々なインドネシアを発信し、逆に様々な日本を発信していくことを願っている。

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