トランスジャカルタ、JALANAN

先週、ジャカルタの「父」を連れて日本からジャカルタへ戻り、2日間、ジャカルタで過ごした。久々に、コタで行きつけの麺屋へ行って、ワンタン麺にナシチャンプルまで食べて、大満足で、来たときと同様、グロドックからブロックM行きのトランスジャカルタに乗った。

しばらくして、大きなバッグとギターケースを抱えた女性がトランスジャカルタに乗り込んできた。トランスジャカルタのバスの連結部に立ち、私のすぐ隣にいた。ふと、ギターケースを見ると、JALANANというステッカーが貼ってある。もしかして・・・。

女性は携帯電話で話を始めた。バスの連結部なので、ギターケースを抱えてバッグを手に電話するのはなかなか大変そう。その女性と目を合わせた後、ギターケースをそっと支えてあげた。

そう、この女性は、映画JALANANのティティさんだった。電話の内容からすると、スラバヤのモールで演奏した後、ジャカルタへ戻ってきたようだった。バンドンでも演奏したらしい。

JALANANについては、じゃかるた新聞に小川忠さんのエッセイがあるので参考にして欲しい。

夢と哀しみのスディルマン通り

ティティさんは、他の乗客とはやや違う雰囲気を持った女性だった。聡明な顔立ちの一方で、どこか翳のある表情を時おり見せた。

ブロックMでトランスジャカルタを降りた。別の降車ドアから降りたティティさんは、もう姿が見えなくなっていた。もしかすると、そのうち、テレビで会えるかもしれない、などと思った。

筆者にとって、数えきれないほど乗ってきたバスは、インドネシアについての様々な側面を学んできた場だった。

20年以上前に留学していたとき、バスに乗り込んできた歌い手のなかに、当時の27州の歌をメドレーでひたすら歌い続ける男性がいた。歌がうまいだけでなく、凄みさえ感じた。その男性とは、バスのなかで頻繁に遭遇したのだが、同じ歌を2回と聞くことはなかった。彼は今、どうしているのだろうか。

トランスジャカルタの車内はエアコンがよく効き、静かである。ピーナッツ売りも歌唄いも乗ってこない。「カーシーハーン(かわいそー)」と言いながら床を這ってくる物乞いも来ない。今となっては、そんな雑然としたボロボロの冷房なしバスが愛おしく思えるほどである。

豊かになるインドネシアの一つの側面ではある。ティティさんらは、そんなインドネシアをどう駆け抜けていくのだろうか。

ブルーバードの新サービス

昨日から7日まで、ジャカルタ出張である。昨日のフェイスブックで、友人が「スカルノハッタ空港でブルーバードの新サービスを使った」という記事があったので、ブルーバードタクシーの係員のところで待っていた。

そのサービスというのは、ブルーバードタクシーに乗りたい客を無料シャトルバスに乗せ、空港の外のタクシー・プールまで連れて行き、そこからブルーバードタクシーに乗ってもらう、というサービスである。

空港で客を拾えるのは空港ステッカーの貼られたタクシーのみで、台数は限られている。ジャカルタ市内から客を空港まで乗せてきたノー・ステッカーのタクシーは、空のまま戻らなければならない。そこで、ノー・ステッカーのタクシーを空港の外に待機させ、空港でブルーバードタクシーを待っている客をそこへ連れて行き、ノー・ステッカーのブルーバードタクシーに乗せるのである。

こうして、市内への戻りでも、客を乗せていくことができる。タクシーの運転手もうれしいし、客もまたうれしい。ほんと、ブルーバードは賢い。

空港からステッカー付きのブルーバードタクシーに乗ると、空港チャージを行先までの距離に応じて9,000ルピア以上払わなければいけないが、無料シャトルでノー・ステッカーのブルーバードタクシーならば、それはノーチャージ、しかも市内までの距離が若干短くなるので、タクシー料金自体も空港から乗るより少しは安くなる。

早速、昨日、それを利用する機会に恵まれた。無料バスに乗ると、係員が「どこまで行くのか」聞いてくる。しばらくしてタクシープールに着くと、何台ものノー・ステッカーのブルーバードタクシーが待機していた。

無料バスの降り口にタクシーの運転手が並び、順番に客をあてがわれていく。運転手たちはみんな笑顔だ。すすんで荷物を持ってくれる。そして、自分のタクシーのところまで連れて行き、客を乗せて颯爽と走り出す。

タクシーの運転手にいろいろ聞いた。彼によると、このサービスは2ヵ月前ぐらいに始まった。タクシープールのあるインドマレには、駐車料金を支払う。けっこう高いらしい。待機するノー・ステッカーのブルーバードタクシーは、順番が付けられ、その順番順に客を得る仕組みになっている。

思い出せば、1985年にスカルノハッタ国際空港(第1ターミナル)が完成したときは、空港タクシーのすべてがブルーバードで、安心して空港から乗れた。それが1987年頃、規制緩和で、ブルーバードの独占はけしからんとなり、各社が乗り入れられるようになった。すると、悪徳タクシーが増え、逆にブルーバードは撤退し、やや高級なシルバーバードのみに特化した。

タクシー待ちの客は順番に来るタクシーに乗らなければならないので、タクシーを選ぶことが長い間できなかった。だから、多くの客は高くてもシルバーバードに乗っていた。

ユドヨノ政権になって、客がタクシーを選ぶ仕組みに変わった。すなわち、タクシー会社ごとにスタンドができた。しかし結局、再参入したブルーバードに客は集中した。

ところが、空港で客を拾えるタクシーの台数は決められており、常にブルーバードタクシーは客の長い列があった。今回の無料シャトルバス+ノー・ステッカーは、こうした問題を解決するためのものだ。その結果、ブルーバードのタクシー待ち客用に設置されていた椅子は撤去されていた。

このサービス、空港内のシャトルバスを営業できるブルーバードならではのサービスといえる。しかし、おそらく、シャトルバスを営業できない他のタクシー会社からは不満が出ることだろう。空港当局も禁止措置を命ずるかもしれない。

でもしばらくは、このサービス、歓迎したいところである。

ジャカルタの猿まわし禁止令に寄せて

ジャカルタで路上での猿まわしが禁止になり、路上での一斉摘発が行われた。猿を媒介とする疫病の防止、動物虐待、渋滞の悪化などを理由としている。猿まわしは職業訓練を受けさせて他の職業に就かせ、猿はラグナンの動物・魚類保護観察センターで14日間観察した後、異常がなければ自然界へ放たれる。

ところで、インドネシアでの猿まわしの歴史は意外に古いようだ。きちんと確認することはできないが、19世紀末に猿や犬を使った演芸が発展したという記述があるという。その後、猿まわしは主に西ジャワや東ジャワで発達したが、1980年代にいったん消えかかった。しかし、まもなく復活し、それまでの集落などをまわる形から、人の集まる都市の路上などへ活動の場を求めていった。

『コンパス』紙の記事によると、デデという猿まわしの1日の稼ぎは4〜10万ルピア程度。デデは猿の調教師でもあり、4〜7ヵ月の調教期間に4〜5匹まとめて調教し、1匹当たり70〜100万ルピアを稼ぐという。過去12年間に、数十人の猿まわしから調教を頼まれたそうである。

筆者も猿まわしには個人的な思い出がある。マカッサル(当時はまだウジュンパンダンという名前の町だった)に住んでいた1997年、娘がまもなく2歳になるとき、知り合いの家族の子供たちを我が家に呼んで、みんなで猿まわしを楽しんだことがある。

我が家の前を通る猿まわしを呼び止め、まず、彼らの居場所を訪ねて話を聞き、我が家で演じてもらうことをお願いした。猿まわしは、たしかジャワ人の一家で、中華街の一角にジャワ人同士がひっそりと寄り添って住んでいた。

我が家で演じてもらったときには、猿が自転車に乗ったり、こっけいな芸を一通り披露した後、最後にニシキヘビが登場し、猿まわしがそれを体に巻き付けて、「おーっ」とみんなで驚いて終わる、というパターンだった。もちろん、子供たちは大喜びだった。今になって聞くと、娘はよく覚えてない様子なのだが。

日本での猿まわしは、すでに鎌倉時代にはあったようだ。小沢昭一「日本の放浪芸」によると、和歌山県と山口県に猿まわしの里があったそうである。もともとは、正月の祝福芸、祈祷芸であったものが、季節に関係なく、道端や門付けで行われるようになった。「継子いじめ」「金色夜叉」などが定番だったようだが、須藤功「写真ものがたり・昭和の暮らし10」によると、「三番叟」や「娘道成寺」も演じられたそうである(演目の中身はよく分からないが)。

その後、高度成長期の1960年代半ば、猿まわしは姿を消した。猿まわしたちは、社会的に差別を受けていた人々で、生計を立てるために猿まわしを行っていたのだが、猿まわし自体に民俗学的・文化的な意味を見出した宮本常一氏によって、猿まわしの復活運動が起こる。そして1978年、山口県光市で「周防猿まわしの会」が復活するに至る。宮本氏は、今西錦司氏らの属する京都大学の霊長類研究グループにも話をつなげ、猿まわしを民俗学的に発展・継承するために奔走した。

今、ジャカルタの猿まわし禁止令を見ながら、日本の猿まわしの過去を思い起こしている。日本の高度成長期に消えていった様々なもののなかに、猿まわしがあった。日本の1970年代とも見える今のインドネシアにおいても、様々なものが消え始めている。その一つが、やはり猿まわしなのであった。動物虐待という話が、社会が豊かになるにつれて声高になっていくことも、日本とインドネシアで共通しているような気がする。

残念ながら、インドネシアでは猿まわしを民俗学的な見地から継承すべき対象とみる動きは見られない。猿まわしを単なる稼ぎの道具としてしか見られないのは、宮本氏が奔走する前の日本でも同じことだったのかもしれない。実際、宮本氏がこの世にいない今、日本の猿まわしはすっかり商業化し、日光猿軍団のようなエンターテイメントとして残った。インドネシアで同じようなことが起こったとしても、猿まわしの民俗学的・文化的価値があるかどうかも省みられないだろう。

ジャワ人の猿まわしも、もしかしたら社会の最下層で差別を受けていた人々だったのではないか。そんなことを思いながら、どこかに猿まわしの継承価値がありはしないかと考えている。

スラバヤ空港でのGaruda Indonesia職員

5月25日、スラバヤからジャカルタへ日帰り出張した。5月20~22日に一組、5月23~28日にもう一組、視察同行中で、後者については、仏教のワイサックで祝日であることを理由に1日だけあけてもらうことをお願いし、日帰り出張を行った。

25日朝、スラバヤのジュアンダ空港でGaruda Indonesiaのカウンターでチェックイン。通常よりも一人一人のチェックインに要する時間が長いので何かおかしいとは感じていた。自分の番になって、その理由がわかった。カウンターの職員曰く「直前の便がキャンセルになって、その客がお客様の予約した次の便へ振り向けられたため、オーバーブッキングとなり、乗れません。さらに次の便に振り替えます」とのこと。

はあ? 前の便がキャンセルになると後の便に振り替えて、後の便に予約を入れておいた私が乗れないわけ? 午前11時からジャカルタで会議のため、遅れないようにこの便にしたのに、どういうことなのか? これがGaruda Indonesiaの通常のやり方なのか? カウンターの職員に詰め寄ったが、彼女はGaruda Indoensiaではなく空港サービス会社の職員なので、、「Garuda Indonesiaのカスタマーサービスに話してください」と取り合ってくれなかった。

ともかく、次の便に振り向けられ、その搭乗券をもったまま、Garuda Indonesiaのカスタマーサービスへ。同じような運命になったと思われる何人かの乗客がそこにいた。Garudaのネームタグをつけた男性職員に苦情を話す。するとその職員、「ご意見を言っていただいたお客様をとてもありがたく思います」「素晴らしい意見ですね」「ご意見賜ります」と、褒め言葉が並ぶ。それでさらにカチンと来て苦情を言い続けると、今度は何度も「申し訳ありません」を繰り返し始めた。頭にきたが、埒が明かないので、あきらめて、当初乗る予定の次の便を気長に待つことにした。

振り向けられた次の便だとジャカルタ着は10:20、土曜・祝日で空港からジャカルタ市内への高速が空いていたとしても、おそらく間に合わない。会議の相手にお詫びの連絡を入れた。

話はここで終わらなかった。

ジュアンダ空港内のカフェで、中華チマキとコーヒーの朝食をゆったり摂っていると、先ほど私が会ったGaruda Indonesiaのカスタマーサービスの職員が、息を切らせながら私のところへ駈け込んできた。そして言う。「お客様、当初お乗りになるはずだった便ですが、キャンセルが一人出ました。お客様だけ特別にご案内したいのですが」と。

私と同様の運命になった乗客はたくさんいたはず。なぜ私だけなのか。他の乗客にもちゃんと情報を流したのか。病人や急用のある人など、緊急性の高い乗客がいるのではないか。私だけが特別扱いされるのはおかしい。こんな風にまくし立てていると、「もう時間がないんです。1人分だけですから、どうか搭乗してください」と懇願される始末。

2個あった中華チマキを1個だけ食べ、コーヒーを半分以上残したまま、その職員に急かされながら、搭乗口へ向かった。搭乗券の便名やシート番号は手書きで直され、日帰りで手荷物のみだったので、そのまま搭乗。本来、自分が乗るはずだった便に結局乗ってしまった。

便は約30分遅れで出発。最後の乗客である私を待っていたためだろうか。

機内を見ると、同じ柄のバティックを着たウムロ(断食明け以外の時期に聖地メッカへ行くこと)に行くと思われる方々が多数乗っていた。見た感じ、政府高官やその子弟のような方々が多いように見えた。

もちろん、ジャカルタでの会議の時間には間に合った。きっと、素直にラッキーと思えばよいのかもしれない。でも、後味の悪い何かが残る顛末であった。

【ジャカルタ】ジャワ化した中華 @ Restoran “Rendezvous”

1973年に開業したこの店は、ジャカルタの古き良き時代の庶民的な中華料理の味を今も守っている。名前の通り、この店で出会ったり、デートをしたりしたジャカルタっ子も多いことだろう。

私もここ数年、よく通っていた店である。何回かに一度、何度かインドネシアに赴任して馴染んでいる知り合いの邦人の方にお会いするのである。まさに、ランデブー。

今回のジャカルタ出張中、5月7日の夜に友人夫婦と一緒に夕食をとった。お目当てのシウマイ(Siumai Komplit)は、ニガウリもキャベツもないとのことで見送り。今回食べたのは以下の料理である。

Gohiong Udang Saus Mentega: Rp. 70,000
(エビ肉詰め揚げのバターソース)
 Lindung Fumak: Rp. 60,000
(ウナギの野菜辛味炒め)
Babi Cah Brokoli: Rp. 55,000
(豚肉とブロッコリーの炒め物)
Sup Kimlo Ayam: Rp. 50,000
(鶏肉入りのキムロスープ)

この店の中華料理は、本場風でとても美味しい、という感じではない。本物と比べると、どこか何となく抜けていて、逆に親しみを持ってしまうような味である。中華料理がジャカルタにやってきて、しっかりとこの土地に馴染んだ、そんなジャワ化した中華の味わい、といってよいかもしれない。

以前、この店で Lo Mie(あんかけそば)を頼んだとき、コシのない麺にドロッとした餡のかかった麺が出てきたときは、中華料理とは認めたくない気持ちがした。でも、食べているうちに、これも有りかもしれないと妙に納得した記憶がある。

そう、この古っぽい店でゆったりと食事をしていると、それだけで何となく落ち着いた気分になってくるのである。いつも、若い頃はここでランデブーだったのだろうと思われるお年寄りのカップルを見かけるのだが、なかなか微笑ましい。ふっと、20年前のジャカルタにタイムスリップできるような空間である。

Restoran “Rendezvous” (Pertemuan)
Jl. Johar No. 2B-C, Jakarta Pusat
Tel: 021-3905973, 31923784, 31923468

【スラバヤ】海南鶏飯 @ Rumah Makan “Hay Nan”

5月4日昼、スラバヤで美味しいという話の海南鶏飯屋へ行った。英雄の像(Tugu Pahlawan)の近く、ということで、Jl. Pahlawanへ。

一方通行の通りの右側に2軒あり、1軒目がまだ閉まっていたので、2軒目に入る。

昼間から華人系のオヤジたちがビールや黒ビールをガンガンに飲みながら、ガヤガヤ楽しそうに話をしている。この後、魚やら肉やら、どんどんごちそうが彼らの席へ運ばれていった。

お目当ての海南鶏飯はこちら。

特徴このゆで鶏のゆで加減が絶妙で、鶏皮がプリプリし、肉はパサパサしておらず、やや固めである。スープはネギのみのチキンスープで、大根などは入っていない。

今回は、海南鶏飯(Nasi Ayam Hainan)が Rp. 32,000、パパイヤジュース(Juice Papaya)が Rp. 15,000、だった。

Rumah Makan “Hay Nan”
Jl. Pahlawan 73, Surabaya
Tel. 031-5341224, 5349640

Jl. Mayjend Sungkono Darmo Park II に支店がある(Tel. 031-5685143)。

<余談>

前日の5月3日は、ジャカルタで海南鶏飯を食べた。シンガポールのマンダリン・オーチャードにあるChatter Boxの支店がPlaza Senayanの紀伊國屋の隣にある。

さすがに、シンガポールでも有名な海南鶏飯である(Hainan Chicken Rice Rp. 48,000)。

ジャカルタではほかに、セントラルパークにChatter Boxの支店がある。

ジャカルタで5月2日のワークショップを終えて

5月1日夜からジャカルタに来ている。

5月2日の日系企業で働くインドネシア人スタッフを対象としたワークショップを何とか終了した。ほぼ予定通りに終わったとはいえ、主催側としては、ワークショップの進め方や手法について、まだまだ修正すべき点が多いことを痛感した。参加者アンケートの文面もきちんと読んで、しっかり反省したいと思う。

同時に、今回、参加者には、日本人とインドネシア人とのコミュニケーションをよりよくしていくために、日本人に対して求めるものと同時に、自分たちインドネシア人がどうしていく必要があるかについても議論し、書面に書いてもらった。まだ読み終わっていないが、その内容についても、いずれ、皆さんに日本語で公表したいと考えている。

昨日は、ワークショップの後、インドネシアの民間コンサルタント会社と、夜6時から別件での打ち合わせがあり、終わったのが夜8時過ぎ、さすがにどっと疲れてしまった。

今朝は5時半起きして、スラバヤに関する短い締切連載原稿を1本仕上げた。今夜の便でスラバヤへ戻る前に、また別の連載原稿の打ち合わせを関係者と行う予定である。こうした連載原稿やこのブログを通じて、スラバヤやいくつものインドネシアがもっと伝えられるように努めていきたいと思う。

来週も、5月8~9日にジャカルタへ出張する予定である。

5月2日のワークショップ・ジャパンを前に

明日(5/2)、日系企業で働くインドネシア人向けのコミュニケーション能力向上を目的としたワークショップを実施するため、今日(5/1)の夜から3日夜までジャカルタへ出張する。「ワークショップ・ジャパン」と名付けたこのワークショップを実施するのは今回が3回目、基本的な内容は同じだが、一部内容と構成を変えて実施してみる。

昨今の日系企業のインドネシア進出ブームの陰で、日本人経営者・管理者とインドネシア人中堅管理職・スタッフとのコミュニケーションのあり方が重要視されてきている様子がうかがえる。お互いに「相手はこう思っているだろう」という一種の思い込みを持ったまま、それを確認することもなく、物事を進めてしまう。しばらくは何も起こらないので、一種の思い込みが正しかったと錯覚しがちになる。

インドネシア人中堅管理職・スタッフの側からそれを確認しようとするのは難しい。彼らはこれまで、言われたことを忠実にその通りにやるように仕向けられてきたからである。その背景には「相手を喜ばせる」「相手を決して傷つけない」「相手が思うように自分を合わせる」という態度にも表れている。そうしている間、とくに問題が起こらなければそれでよい、のである。

実はそうでなかった、ということに気づいて、「すまん」「すみません」といって済ませられる状況で済ませられればよいのだが、それが放置されたまま、「実はそうでなかった」が幾重にも重なっていくと、ある日突然、何かのきっかけでそれが表面化する。表面化は、必ずしも、いきなり暴力的行動に出るアモック、日本流に言えばキレる、という形になるとは限らない。通常、それは最後の手段である。

その前に、欠勤したり、モノが無くなったり、誰かの悪口や変な噂が流布されたり、些細だがおかしなことが起こる。表面的には、全く関係のないことが多いので、それが見過ごされがちになるが、コミュニケーションがうまくいっていないことへの不満のサインであるケースも少なくない。

こうした状況を是正することは、実は企業内部の当事者同士では意外に難しい。なぜなら、彼らは日々接し、互いに分かっていると思いながら仕事をしているので、「まさか」という事態を想定していないし、それを期待もしていない。両者の本当の気持ちが表れるようにするためには、第三者による適切な働きかけが必要になってくる。

それは、その第三者が日本人経営者・管理者よりもインドネシア人中堅管理職・スタッフのことを良く知っている、あるいはインドネシア人中堅管理職・スタッフよりも日本人経営者・管理者のことを良く知っている、という意味では全くない。そんなことはあり得ない。しかし、両者がお互いにもっと本当の気持ちを知ろうとするきっかけ作りを起こすことはできる。それだけの話である。

この部分を放置したまま、表面的な友好関係を続けているうちに、インドネシア人は親日的だ、日本人はインドネシアと仲良くやっていける、と互いに思い込んだまま、表面的な友好関係で終わってしまうのではないか、という危惧を最近とくに感じている。

大きな話かもしれないが、こうしたことが日本とインドネシアの今後にとっても重要になるのだと思っている。

そんな気持ちを持ちながら、ささやかな試みではあるが、このワークショップを実施していくつもりである。

5月2日の次は、ジャカルタで6月3日、スラバヤで6月12日に実施することを予定している。定員はいずれも30名である。 企業向けの出張ワークショップも承っている。

もっとも、ワークショップをやりながら、この問題は決して日系企業や日本=インドネシア関係だけでなく、どこにでも起こっている問題だと感じている。インドネシア人同士の間でも、勝手な思い込みで会話がなされ、互いに誤解したまま話が進んでしまうケースが少なくない。言語が通じるからコミュニケーションがうまくいく訳ではないのである。

ジャカルタと比べるとスラバヤは・・・

4月17日、日帰りでスラバヤからジャカルタへ出張してきた。今週は、締切原稿が月〜水で通常より1本多い3本だったこともあり、ブログの更新を怠ってしまった。

実は、新たに、インドネシアで発行されている日本語媒体4誌に連載を書くことになった。ほとんどがスラバヤについて書くことになっており、このブログも含めると、少なくとも5つの媒体でスラバヤのことを書くことになる。当然、同じ内容は書けないので、日夜、アンテナを張りながら、書く内容のネタ探しに勤しむことになる。それはそれで楽しいのだが、けっこうしんどいかもしれない。5つの媒体で各々中心テーマを定めながら、重複しないように書いていくことになる。

と、ここ数日、更新できなかった言い訳めいたことを書いた後で、スラバヤに来てから思っていたジャカルタとの「感覚的な」違いを少しメモしておく。今回、ジャカルタへ日帰り出張したことで、さらにその違いを実感した部分もある。

その1。渋滞である。ジャカルタの渋滞は、ノロノロ流れていればいいほうで、多くの場合はスタックして停まってしまう。本当に動かなくなるのがジャカルタの渋滞だ。一方、スラバヤでもタクシーの運転手が「スラバヤでも渋滞が最近多くてねえ」という話をするが、ノロノロでも車が流れている。スラバヤの渋滞はまだ車が動いている。

その2。ジャカルタでは空港高速に西のタンゲラン方面へ行くトラックやトレーラーが混在するので、渋滞があちこちで起きる。一方、スラバヤの空港への高速はガラガラである。これは、空港高速がほかの高速と一緒になっている部分が少ないためである。たしかに、タンジュン・ペラッ港と南のグンポルまでの区間はトラックやトレーラーが多く走り、時間によっては速度が落ちるが、分岐点から空港高速に入った途端、車がほとんど無い。ちなみに、我が家からは30分である。

その3。セキュリティーチェックについて。ジャカルタでは、爆弾テロ事件が頻発したことで、オフィスビル、ホテルやショッピングセンターでのセキュリティーチェックが今も行われている。以前に比べれば形式的になったとはいえ、それは続けられている。一方、スラバヤではそうした検知器を配したセキュリティーチェックにほとんど出会わない。スラバヤのほうがのんびりした雰囲気を感じる一因は、セキュリティーチェックのものものしさが無いことにもあるように思える。

ちなみに、ジャカルタでセキュリティーチェックがけっこうな数の雇用機会を生み出しているだろう。安全になったからといって、一度創った雇用機会をなくすわけには行かないという事情もある。たまたま、スラバヤではジャカルタのような爆弾テロが起こらなかったというだけに過ぎない。

その4。スラバヤでの地元の簡単な食事の値段がジャカルタよりずっと安い。これは体感的なもので、統計的に調べたものではない。しかし、ジャカルタでは1食に付き5万ルピアぐらいは覚悟するのに対して、スラバヤでは3万ルピアぐらいで済んでしまうという実感がある。道端の小さなワルンでナシ・ラウォン(ご飯にラウォンをかけたもの。ラウォンは牛肉を煮込んだ黒っぽいスープ料理)食べれば、コーヒーも入れて5000ルピアだったりする。

その5。スラバヤの公共交通機関は貧弱である。公共バスも乗合も走っているが、その数がジャカルタと比べて圧倒的に少ない。多くの人は自家用バイクや自家用車を使っている様子である。何度か乗合(ジャカルタのミクロレットのようなもの)に乗ったが、短い距離でも3000ルピアだった。この値段はジャカルタより高く、マカッサルとほぼ同じ金額である。反面、ジャカルタのように、道路でジグザグ運転するバスもないので、車は比較的素直にスムーズに流れている印象がある。

まだまだ色々あるが、ネタを常に仕入れる必要もあり、今回のところはこの辺で。

 

夢を現実に

昨晩は、ひょんなことからスラバヤ出身のIT実業家の友人とその元学友たちらと夕食をご一緒した。ふだんジャカルタに住んでいる彼がなぜ私に会いたいといってきたのだろう、とちょっと不思議に思いながらも、会ってみることにした。

彼が話してくれたのは、彼の夢。まだ詳しくは書けないが、スケールが大きい。相当に大胆な発想である。でも、それができたら、とても楽しく面白いことになるだろう。元学友たちは、投資や資金調達の専門家だった。日本語の堪能な韓国籍の方々だった。話はとても面白かった。

彼らはもちろん、この夢の実現をビジネスとして考えている。その夢も、単にいくら稼ぐか、という話に終わらない。これをどのように、適切なモノやヒトと結びつけて現実化していくか。

その実現を、ジャカルタではなくスラバヤで、という発想も気に入った。何でもジャカルタが一番で、最初でなければならない理由はない。

無理だよ、というのは簡単だ。でも、夢を現実に、という話に大いに興味をそそられる。彼の夢の先が、より広い世界のどんな未来とつながっていくのか。それをいつか語れるように、自分の頭の中にキープしておきたい。

スラバヤ生活をスタート

3月30日にジャカルタのゲストハウスから引越荷物を出し、31日午後の便でスラバヤに到着。

CitiLinkでただ一つの古いボーイング737-400機で、エアコンが壊れているのか、離陸までの機内は暑くてたまらない状態。空港に着いてから、空港タクシーは珍しく長い列。でも、ジャカルタのスカルノハッタ空港のように、白タクのオヤジたちがしつこく寄ってくることもなく、スムーズにタクシーで新居に到着。

しかし。誰もいない。鍵がかかっている。やむを得ず、この家を紹介してくれた友人を待つことに。友人はイースターを祝う家族の用事が終わってからということで、結局、新居の前で1時間以上たたずむことになった。その間に、雨がざーっと降った。

この家を紹介してくれた友人がようやく到着したが、鍵はこの家の様々な手伝いをしてくれるおじさんが持っているということで、そのおじさん宅へ行き、鍵を受け取って、ようやく中へ入ることができた。

後は、いろいろ買い物。ベッドシーツ、枕などをカルフールへ買い出しに行って、夜8時頃に家へ戻る。

今回はちょっとこぢんまりした一軒家。ふと、庭を見ようと外へ出ると、雨が上がった後だからなのか、ひんやりとした空気で気持ちよい。ジャカルタでゲストハウス暮らしをここ数年していたときには味わえなかった心地よさ。これから生活のなかで馴染んでいくといいなと思った心地よさだった。

私がインドネシアで腰を落ち着けて住む街としては、スラバヤは、マカッサル、ジャカルタに続いて3都市目である。実は、以前からスラバヤに住みたいと思っていた。マカッサルもずっと住みたいと思って住めた街である。明日からどんな日々になっていくのだろうか。不安と同時に、新入生のようなワクワクした気分もある。

明日、4月1日からスラバヤ・新オフィスに出勤。夕方には、3月30日にジャカルタから送った引越荷物が届く。スラバヤ生活のスタートである。

インドネシアの工業団地は民間主導

日本からの企業投資が増えるにつれ、工業団地の用地不足が問題視されている。用地不足に伴い、土地価格も急速に値上がりしている。

政令2009年第24号第7条に基づき、新規製造業投資が立地する場合には必ず工業団地に立地することが定められている。ただし、(1) 原料や生産過程の関係で特別の場所に立地する必要がある場合(セメント、肥料、製紙、造船など)、(2) 中小企業の場合、(3) まだ工業団地のない県・市の場合や工業団地があってもすでに空きがない場合、には、工業団地以外への立地が認められる。

工業省によると、1兆ルピアの投資は通常12.5haの工業団地用地を必要とする。2011年時点での工業団地の販売用地面積は1,247.84haで、外国投資・国内投資の製造業部門への投資額は計99.64兆ルピアであった。

現段階で工業団地の空き用地面積は7,911.98haであり、今後、製造業投資については、2013年中に2,372.59ha、2014年に2,847.10ha、2015年に3,416.53haの新規用地需要が見込まれている。すなわち、今から工業団地を造成・拡張していかないと、ほどなく工業団地は一杯になってしまう。

工業団地の造成・拡張を急いで進めていかなければならないのだが、そのネックとなっているのが、インドネシアの工業団地開発が民間主導であることである。インドネシアでは、国営の工業団地面積は全体のわずか6%にすぎず、残りは民間企業による工業団地である。

他方、他のアジア諸国では、工業団地整備の主役は政府である。工業団地に占める政府系の比率は、(必ずしも年代が同じではないが)台湾90%、シンガポール85%、日本85%、マレーシア78%、 韓国70%、とされている。実は、インドネシアも1989年までは工業団地はほぼすべてが国営だった。その後、工業団地建設が外資を含む民間へ開放され、インドネシアでの工業団地建設は民間主導で進められていった。

そして、かつて建設された国営工業団地の設備が民間よりもはるかに劣っていることが明らかになってしまった。敷地の半分を、工場ではなく、倉庫が占める国営工業団地も存在する。

工業団地は、インドネシアのどこでも同じ訳ではない。先に挙げた工業団地の空き用地面積は、スマトラ、スラウェシ、カリマンタンなどジャワ島以外のものを含めた面積であり、そうしたところへジャボタベックと同様の製造業が投資が行われるわけではない。そう考えると、工業団地の用地の逼迫度はなおさらのこと高まる。

西ジャワ州カラワンなどでは、全国有数の豊かな米作地帯の水田が工業団地に取って代わられたところもある。現状では、水田の単収を上げることで生産量を維持しているが、工業団地の造成とともに、水田面積の減少傾向は否めない。一方、地主は地価上昇を見越して、工業団地用に土地をなかなか手放さない傾向もある。

不動産事業としての側面を強く持つインドネシアにおける民間主導の工業団地建設は、まだしばらくは活況を呈していく。とくに、集中の弊害が懸念され始めたジャカルタ周辺(ジャボタベック)から、東ジャワ州(州都・スラバヤ)や中ジャワ州(州都・スマラン)などへ、工業団地建設の波が広がっていくものと見られる。

中ジャワへの企業移転

渋滞、賃金高騰、労働争議。ジャカルタ周辺で投資環境が急速に悪化しているとの認識が一部企業の間に出てきた。韓国やインドの企業のなかには、インドネシアからバングラデシュやミャンマーへの工場移転を考える企業もあるという。

インドネシア政府としては、何とか企業のインドネシアからの撤退、海外への移転を防ぎたいと考えている。「もはや低賃金労働を売り物にする国ではない」と言いながらも、労働集約型企業を引き留めるには、ジャカルタ周辺以外の場所を移転先としてプロモーションしなければならない。

その一つとして、最近よく名前の挙がるのは、スラバヤを中心とした東ジャワ州と、スマランやソロを含む中ジャワ州である。両州とも人口は約3500万人、豊富な労働力を抱えている。とくに、中ジャワ州は最低賃金がジャカルタ周辺の半分程度、最高のスマランでも1ヵ月120万ルピア程度であり、場所によっては同80〜90万ルピアの県・市もある。メディアを通じて、労働集約型企業には、「海外へ移るよりも中ジャワへ」というメッセージを流し始めている。

中ジャワ州投資局によると、2012年中に投資申請をした企業は40社あるが、そのうちの60%が拡張投資で、ジャカルタ周辺の既存工場に付加したものが大半だった。実際に投資を実施したのは40社中19社に留まる。

移転を計画している企業の多くは繊維産業で、中ジャワの人材は手先が器用で根気強く、しかも労働コストが安い、というのが魅力のようである。実際、ジャカルタ周辺の繊維計の工場で多くの中ジャワ出身者が働いているという。

変わったところでは、韓国系のカツラ・付け睫毛を製造する工場が中ジャワ州ボヨラリ県などに集積し始めている。工業団地がないところへの進出だが、集積し始めたことで、韓国政府の支援で、工業団地建設計画が進められている。もっとも、まだ韓国系だけで工業団地を埋めることは難しいので、韓国貿易公社(Kotra)関係者は「今後は日系企業にも立地して欲しい」と呼びかけている。

注目される中ジャワだが、州内で工業団地がまだ6ヵ所しかないことがネックである。うち5ヵ所は州都スマラン周辺、1ヵ所は南岸のチラチャップにある。しかも、スマラン周辺はすぐに入れる空き区画が工業団地にない状態である。このため、スマランの西側のクンダルと東側のデマックに新工業団地の造成が進められている(いずれもスマランから車で30分圏内)。

中ジャワについてはまだまだいろいろな話題があるが、引き続き、このブログで紹介していきたい。

南ジャカルタ・マンパンのジンピタン

3月17日の日曜日、南ジャカルタ・マンパン地区の知り合いの家を家庭訪問した。一通りいろいろ話を聞いた後、ふと軒先を見ると、つり下げられたプラスチックのカップに米が少し入っていた。

「これは何か」と知り合いに聞くと、ジンピタン(jimpitan)だという。この町内会では、各家の軒先に米を入れるカップがつり下げられている。この米は集められてお金に換えられる。当初は、町内会の警備・夜警をする人向けに想定されたものである。すなわち、警備や夜警をしてくれる人は昼間は肉体労働で働いており、その労をねぎらう意味で、お米を分けたり、お米を売って換えたお金を使ってもらったりするように考えられていた。

しかし、傍目にはコミュニティの雰囲気で満ちあふれているこの町内会でも、そういった人々による警備や夜警が機能しなくなっていた。やむを得ず、町内会の男たちが当番で警備や夜警をすることになる。彼らは、警備や夜警をするときに、軒先につり下げられた米を回収して歩く。だから、軒先にまだ米が残っているということは、当番の住民が警備や夜警をしなかったことを意味する。

各家庭から出される米は1日にスプーンで2さじ、それでも町内会全体だと1日に2キロぐらいになる。すなわち、1ヵ月で約60キロの米が集められる。1キロ当たりの米の値段は約7000ルピアなので、約42万ルピアの資金ができる。これらの一部は町内会の貧しい家庭に配られ、残りは街灯を直したり、警備用の詰め所をきれいにしたり、緑化活動に使ったりしている。

さすが、伝統的コミュニティの知恵だな、と少し感心していると、どうもそうではないことが分かった。このジンピタンを考案したのは私の知り合いで、3ヵ月ぐらい前から始めたということである。ほかの町内会ではやっていないそうだ。そういえば、10ヵ月前にここを訪れたときには、ジンピタンはなかったような気がする。

各家庭で1日にスプーン2さじの米なら、さほど大きな負担ではないだろう。お金ではなく米を使って町内会の活動用のささやかな資金を生み出しているのである。

20数年ぶりの再会

20数年ぶりの再会だった。3月9日の昼、インドネシア大学大学院時代のクラスメイトと一緒に昼食した。我々が学んだのは1990〜1992年、インドネシア大学の学部が皆デポックへ移転した後、元々のサレンバ・キャンパスであった。クラスメイトは私を入れて6名、今回は男2名を除き、女性陣3名との再会となった。

各人それぞれ、この20数年の間に様々な出来事を経験していた。10年近く闘病生活をしてきた夫が亡くなった後、家を売り、子供の家を渡り歩きながら細々と生活しているTさん。長年の独身生活に終止符を打って結婚したのに結局は離婚してしまったAさん。結婚10数年目にしてようやく子供を授かることのできたFさん。きっと、今回話せなかった経験談がまだまだたくさんあるのだろう。

でも、20年ぶりに会っても、大学院時代と全く同じ、とにかく彼女らはよくしゃべる。しゃべっているうちに元気になってくるかのように。

話は個々人の20年を振り返るところから、様々なインドネシア人有名人の批評にまで及んだ。我々が教わった先生のなかには、現在の中銀総裁、過去の調整大臣など蒼々たる方々がいる。

そんななかの一人にTH先生がいた。我々が習っていた頃、彼は将来を嘱望された新進気鋭のエコノミストだった。頭脳明晰、しかし人柄は温厚で、我々はその実力を尊敬していた。順調にいけば、今頃は大臣になっていてもおかしくないほどの人物である。

TH氏はその後、インドネシア大学から某有力省庁の課長クラスへ抜擢され、部長クラスへ昇進するはずだった。私もそこまでは知っていた。しかし、忽然と彼の名前が世の中から消えてしまった。ずっとなぜなのだろうと思っていた。

ゴシップ好きのクラスメイトから話を聞いて理解した。TH氏は、何と重婚が発覚したのである。高級官僚でもある最初の奥さんがそれを暴露してしまった。そのため、TH氏は役所にいることができなくなってしまったのである。

インドネシア大学という外部から省庁に入った外様が部長に昇格する、というのを生え抜きは苦々しく思っていたことだろう。部長レースはそれなりに激しい。クラスメイト曰く、部長レースからTH氏を蹴落とすために、ライバルが女を使ってTH氏を陥れたのではないか、という推理だった。なぜなら、実直なTH氏ならきっと簡単にだまされてしまいそうだから、である。やりかねないかもしれない、と思った。

TH氏は今、ひっそりと古巣のインドネシア大学経済学部へ戻って役職なしの講師を務めている。すでにケチがついてしまっているため、役職には就けない。「今の中銀総裁より何倍も頭が切れたよね」とみんなでうなずいた。きっと、TH氏のような人がインドネシアには何人もいるのだろう。

今回の再会、すべては私がWhatsAppというメッセンジャーソフトを携帯電話にインストールしたことから始まった。それにAさんが反応してメッセージを送ってきて、急に「会おう」という話になったのである。次はいつ会えるだろうか。「10年後なんて言わないでね」といって彼女らと別れた。

 

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