【ぐろーかる日記】年末年始に東京から帰省しないということは・・・[2020/12/30]
2020年12月30日、例年と同じく、この日は正月関連の食材を妻と一緒に買いまわる日である。
いつもだいたい、買い物に行くところは決まっていて、伊達巻と蒲鉾はあそこ、年越しそばと天ぷらはここ、正月3が日におせち以外で食べるための食材はあれとこれをあそこで、といくつかのスーパー、店、デパ地下などをめぐる。
今年はちょっと様子が違っていた。
2020年12月30日、例年と同じく、この日は正月関連の食材を妻と一緒に買いまわる日である。
いつもだいたい、買い物に行くところは決まっていて、伊達巻と蒲鉾はあそこ、年越しそばと天ぷらはここ、正月3が日におせち以外で食べるための食材はあれとこれをあそこで、といくつかのスーパー、店、デパ地下などをめぐる。
今年はちょっと様子が違っていた。
今日(12/16)の朝、自分のFACEBOOKページに、以前、インドネシアに住んでいたときの場所の名前と「恋しい」という言葉をずらずらとインドネシア語で書いて投稿した。
こんなふうに・・・。
Rindu Rawamangun. Rindu Jalan Lombok. Rindu Daeng Tompo. Rindu Perintis Kemerdekaan. Rindu Gunung Batu Putih. Rindu Duku Kupang Barat. Rindu semua.
1カ月近くブログを書かないでいたが、これからまた、少しずつでも日記として書いてみたい。途中でしばし途切れるかもしれないが、ご容赦のほどを。
12月12日(土)、今年はこれまで、なかなか紅葉を見に行けなかったので、妻と一緒に、小石川植物園へ出かけた。入場料は500円に値上がっていたが、来場者もさほど多くなく、ゆっくりと紅葉狩りを楽しむことができた。
2020年11月2日、天気のよかった土日にこもって作業していた資料作成が終わったので、妻と一緒に巣鴨の大鳥神社へ行きました。今日は酉の市の一の酉。毎年、妻と一緒に出かけるのですが、今年の酉の市は、いつもとは全然違うものでした。
色々と怒りや諦めや悲しみを感じ続ける今日この頃で、それをブログに殴り書きしたい気持ちにもなるのですが、敢えて、それを抑えて、現実逃避???
東京の我が家の庭もすっかり秋めいてきました。庭に植えてある柿の木やザクロの木も実をつけて、まさに実りの秋。
前々から行こう行こうと思って行けてなかった「ソトベタウィ宮本」へ、7月25日、ようやく行ってきました。
ソトベタウィというのは、ソト(Soto)というインドネシア(主にジャワ)の実だくさんスープの一種で、もともとのジャカルタ地域の地元民であるベタウィ(Betawi)族が編み出したスープです。その特徴は、ココナッツミルクを使い、具には牛肉やトマトが入ります。
毎年の恒例ですが、今年も東京の自宅でお盆をしました。お盆といえば、故郷の福島では8月半ばの旧盆ですが、東京では7月半ばの新盆を指しています。
このお盆の時期に、ご先祖さまがしばし戻ってきて、この世で一緒に過ごした後、また向こうの世界へ帰っていく、というひと時を毎年繰り返しています。
ご先祖さまがこの世へ戻ってくるときの乗り物として、ナスで牛、キュウリで馬をつくって、飾ります。
7月13日、ご先祖さまをお迎えするための「迎え火」を焚きます。まずは、家の門を開けて、迎え入れる準備をします。
2018年10月29日~11月2日、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市の市長を団長とする訪問団を日本に迎えました。当方はフルアテンドで訪問団に随行しました。
訪問団は主に福島市と東京都を訪れ、リンゴ農園、選果場、農産物加工工場、農産物直売所、公設青果市場等を見学し、農業生産、加工、流通がどのように関係づけられているかを視察しました。バトゥ市長は福島市長とも面会しました。
訪問団は、今後、バトゥ市と福島市との農業協力をどのように進めていくかについて、様々な示唆を得ることができ、無事、帰国されました。
2018年4月4日、在日インドネシア大使公邸にて、在日インドネシア経営者協会(Asosiasi Pengusaha Indonesia di Jepang [APIJ])の設立懇親会に出席しました。
今後、APIJがインドネシアと日本との間のビジネスコミュニケーションを促進する役割を期待しています。
2018年9月または10月、東京に、コワーキングスペースを含む小さなシェアオフィスを開設する予定です。
まだ構想段階ですが、3〜4部屋の小さなレンタルオフィス・スペースと10-15人のフリーデスク・メンバーを想定しています。場所はJR大塚駅から徒歩8分です。
個人、企業、グループ、コミュニティでの使用を歓迎します。利用者による共同運営を考えています。地方自治体、企業、NPOなど東京での簡易なオフィス機能が欲しい方、いかがでしょうか。
興味がある方は、メールにて matsui@matsui-glocal.com へお気軽にご連絡ください。
4月9日(土)、知り合いのコンサルタントの方から「西葛西に来てくれ」と言われて出向いた。
西葛西、といえば、最近はインド人の方々がたくさん住んでいる地区として知られ、私の大好物のインド料理屋がたくさんあるところらしい。
西葛西でインド料理を存分に堪能したい。インド料理、インド料理が食べたい! 今回はそのチャンスがあるかも、と思って出かけたが、インド料理は関係なかった。がっくり。
西葛西の用事は、米粉だった。しかも、米粉クッキングだった。はー?と思いつつ、何の心の準備もできないまま、米粉クッキングの会場へ。
会場に入ると、連れて行ってくださったコンサルタントの方と主宰者の方以外は女性ばかり。いやー、まずったなと正直、思った。どうしてこんな展開になるのか。
しかも、作るのは、米粉のシュークリーム。どうなっているんだー、と叫びたい気持ちを抑えて、エプロンをつけ、講師の先生に教えてもらいながら、見よう見まねでついていくしかない。
通常のシュークリームをどう作るかが分からないので、先生から「小麦粉を使うよりも米粉のほうが簡単です!」と言われても、何も実感がわかない。
まず生地づくり。牛乳、グラニュー糖、塩、米油を混ぜて沸騰させ、火を止めて米粉を入れ、卵を5〜6回に分けて少しずつ混ぜ合わせる(固まってくると混ぜている手がけっこう疲れるものだ)。それを絞り袋に入れて、グニュグニュっと絞り、ツヤ出しの卵を塗ってオーブンで25分焼くと、こんな感じで生地ができ上がった。
次に、生地の中に入れるクリームづくり。バニラビーンズを入れた牛乳を温め、グラニュー糖、米粉、卵黄を入れてよく混ぜる。卵黄を取り出すのが少々難しいのと、これも混ぜるのに根気がいる。
火をつけてとろみがついたら、リキュールを混ぜて冷やし、その後、それにホイップクリームを混ぜたものを絞り袋に入れ、2つに切った生地へ絞り出して、デコレーションして、完成!
初めてのシュークリーム。しかも米粉。作ってしまった・・・。ちょっと生地が薄くできてしまって、格好が悪かったのだけれど・・・。
と言っても、材料の下準備、オーブンでの焼き加減のチェックやホイップクリームつくりなど、面倒な部分はぜーんぶ先生がやってくださったのだけどね。
参加者の一人は、ある日から突然小麦粉アレルギーになり、それ以来、ずっとお菓子が食べられなくなってしまったそうだ。食べられた頃の味を知っているだけに、今回は、「何年ぶりのシュークリームかしら」と言ってとても嬉しそうに米粉シュークリームを頬張っていらっしゃった。
皆さんが帰られた後、主宰者のH氏と連れて来てくださったコンサルタントの方と、米粉普及の今後についていろいろ話をした。米粉にもパンや麺に加工するのに適した品種があること、パスタのようにコシの強くない麺ならば押し出し式で米粉パスタが簡単に作れること、などなど、色んなことを話していただいた。
お話をうかがいながら、アジアの米粉文化のことを考えていた。ミャンマーに造詣の深いH氏も絶賛するモヒンガーをはじめ、ビーフン、クエティアウ、フォー、ソーウンなどの米粉でできた麺はもっと日本で普及したらいいなあと思った。また、南インドに行ったときに朝食でよく食べたドーサやイドゥーリも、体に優しい米粉食品ではないだろうか。
しかし、H氏によると、最近は、ビーフンなどにグルテンを加えることがよくあるそうである。そういえば、昔食べたものよりもツルツル感が少なくなったように思うのは、気のせいだろうか。
日本国内で米粉活用を促進する団体が、こうした講習会を通じて、米粉料理を広めようとしている。興味のある方は、以下のホームページをご参照されたい。
8月11日、東京・六本木に登場したMIE BAKSOへ友人とランチに行ってきた。「本場インドネシア屋台料理」と銘打っているが、Mie Baksoはインドネシアの定番軽食なのだ。
インドネシア語でMieは麺、Baksoは肉団子、Mie Baksoは肉団子そばのことである。これをBaksoと略すことも多いが、その場合の主役は麺ではなく肉団子である。
ジャカルタ周辺では、Baksoといえば、肉団子以外に小麦粉の麺とビーフンがちょろっと入っているものが普通だが、スラバヤやマカッサルでは、色んな種類のBaksoが入ったもので、麺は入らない。色んな種類のBaksoには、通常の硬めの肉団子、柔らかめの肉団子、肉団子付き豆腐など4〜5種類が入る。
マカッサルでは、Baksoとは別にNyuknyangという肉団子スープがあり、前述以外に揚げ肉団子も入り、スープが染みて絶妙の味となる。Nyuknyangには、豚肉の肉団子が入ることもよくある。
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さて、六本木のMie Baksoだが、基本料金は900円である。
食事はセルフサービス。まず、サラダを取る。これは後でトッピングにしても良い。次にBaksoはエビ団子、魚肉団子、鶏肉団子、牛肉団子の4種類で、基本料金に含まれるのはこのうちから選んだ2個まで。3個目からは1個100円で追加できる。
ほかに、味付け玉子などの追加トッピングをする場合は、基本料金にプラスされる。
次に麺。温かい麺か冷たい麺か尋ねられる。茹で加減は問われない。選んだBaksoをのせた麺が出てくる。これで、お会計。
主役は麺である。茹で具合はシコシコ感が残る日本のラーメンと同様の仕上がり。麺の入る器は大きなラーメン丼で、インドネシアでおなじみの「味の素」や「Sasa」のロゴの入った小ぶりの椀ではない。
私は冷たい麺、友人は温かい麺をとった。味は美味しいが、やや辛味がある以外は、とくに特徴のある味ではない。インドネシアでMie Baksoをよく食べた人間からすると、麺がちょっと多い。麺とBaksoのバランスがよくない。冷たい麺にサラダを入れて食べてみたら、それはそれでけっこう美味しかった。
給仕をしてくれたお姉さんは、インドネシア人かと思ったらフィリピン人のとても気持ちのよい方だった。店は清潔で気持ちよい。トッピング名の表記の仕方などに改良の余地がありそうだ。
インドネシアの庶民の味Mie Baksoが日本の東京の六本木に来て、精一杯背伸びしているような印象を受けた。それはそれでいいんだけれども。
加えて欲しいのは次の二つ。まず、ハーフサイズのMie Bakso。台湾担仔麺のノリで、飲んだ後の締めにピッタリだろう。次に、麺なしのBaksoスープ。Baksoの種類を増やして、それに合うスープの味を研究してもらうといいかもしれない。これもソウルフードとして気軽に食べられるものになるといいなあ。
ともかく、この六本木風背伸びしたMie Baksoが、いつかジャカルタの高級ショッピングセンターなどへ逆輸入されると面白い。そのときには、Mie Bakso Roppongiとして、もっともっとカッコよく進化しているといいなあ。
4月7日に帰国して10日が過ぎた。慌ただしかった3月のインドネシアでの日々とは打って変わって、東京の家族とともに、ゆったりした時間を過ごしている。じと~っとした熱帯の湿気に慣れた肌は、さわやかな春の東京でやや乾燥肌になっている。
帰国した4月7日は真冬日だった。「冬」が再来する前に、ソメイヨシノは終わってしまっていたが、新宿御苑や小石川植物園でヤエザクラを見ながら、今年の花見を楽しんだ。
今回は、5月末まで日本の予定である。自分なりに活動の区切りをつけるべく、頭を冷やそうと思っている。次のステップへ向けての準備期間でもある。
今後の活動の主拠点は、日本に置く。東京か福島か、どちらをそのメインとするかを思案中であるが、その両方を日本での活動拠点とすることは決めている。
東京の自宅はあまりにも居心地がよく、家族と和んでいると、ついついだら~っとしてしまいがちなので、自宅の近くのレンタルオフィスに仕事場を作ることにした。自宅から徒歩10分、24時間いつでも利用可能。本棚などを入れて、自宅に溜まった本の一部を移動させる。
インドネシアは、今後の活動の副拠点とする。帰国前に、スラバヤとジャカルタに居場所を確保し、引っ越しや家具等の調達も終わらせてきた。インドネシアでの活動拠点は、今のところ、スラバヤとジャカルタだが、マカッサルを追加することも検討している。
5月までに自分の個人会社を設立する予定だが、まだいくつか検討事項があり、ややゆっくりと進めている。すでに単発の仕事の話はいくつか来ているが、昨年度までのジェトロのような長期の契約の仕事はまだない。
今のところ、1年の半分を日本、半分をインドネシアで活動する計画であるが、さらにそれ以外の国での活動も加えたいと思っている。
ローカルとローカル、ローカルとグローバルを結んで、新しい何かが起きていくためのプロフェッショナルな触媒となる。
日本とインドネシアの計4つの拠点を行き来しながら、自分にしかできないような仕事をしていきたいと思っている。
インドネシアと直接関係ない話で申し訳ない。
2020年の五輪開催都市に立候補している東京。東京電力福島第一原発からの高濃度汚染水の漏洩・海洋排水の問題が世界的に注目されるなかで、当選へ向けてなりふりかまわぬ姿勢を見せた。
東京が安全であることをアピールするため、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」とプレゼンしたと報じられている。筆者は、科学的な安全性について、客観的にみて、本当に東京が安全なのかを判断する確かな知識を持ち合わせているわけではないので、安全かどうかを問題にすることはしない。
しかし、この発言は、「福島は安全でない」と言ったに等しい。どうしても何かこの種のことを言いたいならば、「(問題となっている)東京電力福島第一原発は東京から250キロ離れており」と言うべきであった。「福島」は福島県全体なのか、他都市よりもまだ相対的に線量の高い福島市なのか。東京並みかそれ以下の線量の会津地方やいわき市周辺も含むのか。この発言からすると、「福島は安全ではない」と受けとめられることになる。
これこそが、いわゆる風評というものではないか。発言者の繊細さに欠ける用語使いで、どんなに印象が変わるか。
この発言を聞いてすぐに思い出したのは、東京の発展を電力で支えてきた福島の歴史だった。奥会津・只見川の電源開発で、巨大水力発電所が建設され、その後、浜通りの相双地区に何基もの原子力発電所が「福島」という名前の下に建設された。それを担ったのは東京電力であり、それらの場所で作られた電気はすべて東京首都圏へ送電された。福島県内の電力は、東北電力による発電所から送電されたのである。
そもそも論として、なぜ東京への電力を福島県に作ったのか。只見川電源開発は、そこに豊富な水資源があったから、という理由で容易に納得できる。
他方、浜通りの 原子力発電所は、そこにウランがあったからではなかった。東京にもっと近いところに作ればいいものを、わざわざ送電コストをかけて流す選択をした。そして、2011年3月に事故が起こって、東京から離れたところに建設した理由が眼前に現れてしまった。やっぱり、実は、最初から「危ない」と分かっていたのである。
「危ない」と言っていたのではどこにも建設できないから、過疎で出稼ぎに頼る貧しかった相双地区が注目され、人口の多い東京首都圏で何か起こるのに比べれば、影響は少ないと勝手に判断され、多額の資金供与を見返りとして、原発が建設されたのである。もしかしたらそこの人々は「騙されている」と分かっていたのかもしれない。でも、生きていかなければならなかった。東京の人たちのような豊かな生活をおくる権利もあるはず。彼らを「金の亡者」と一律に非難するのは難しい。
そして事故が起き、改めて「騙された」ことに気がついたが、それと引き替えに手に入れた自分たちのより良い生活を否定することはできない。けれども、あえて「騙される」ことを選択したことで、間接的にではあっても、事故に荷担してしまった罪悪感が人々の心の一番の奥底でうごめいていることは想像に難くない。単純に「原発反対」などと声を上げられない複雑な気持ち、しかしそれはなかなか理解してはもらえないだろう。
東京オリンピックは、そんな人々を励まし、勇気づけ、復興へ向けて前向きの気持ちにさせる機会になる、と信じて旗を振る人々がいる。たとえ、打ち上げ花火のようなはかないものだとしても、何もないよりは、一時的に気分を高揚できる機会になるかもしれない。何かそれが決定的に復興を継続的に進めていくエネルギーになるとは思えないけれども。線量を気にし、食の安全にピリピリした、日々の生活で精一杯の福島の人々にとって、東京オリンピックとはその程度の位置づけでしかない。
でも、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」という発言がすべてを台無しにした。東京オリンピックが福島の復興のためなんて、嘘だということが明らかになってしまった。東京は福島とは違う世界にあり、東京でオリンピックをやっても、福島の影響は何もない、ということだ。それをいうなら、東京よりも遠い、福岡や鹿児島でやったほうがいいではないか。東京だけでオリンピックをやれればよいのか。
東京首都圏の発展を支えた電力の源の多くが福島県からだったという事実、その見返りは刹那的なカネでしかなかったのか。東京は福島を見ていない。同情はしているかもしれないが、ともに歩んでいこうという姿勢はない。むしろ、東京オリンピックの実現には迷惑な存在と思っているかもしれない。
もっとも、東京オリンピック云々の話題が出たからこそ、世界中のメディアが注目するなかで、東京電力福島第一原発で今本当は何が起こっているかを、東電が騙し続けられない状況が生まれたという面もある。東京オリンピックが実現することで、東京電力福島第一原発の廃炉処理が本当に実質的に進むのならば、それはありがたいことではあるが、そのような説明は政府からも東京都からも東電からも聞こえてこない。