スラバヤを訪問(2017年11月26~30日)
2017年11月26〜30日、JICAによる「産官連携による東ジャワ州の中小食品加工業振興に向けた食品加工技術普及・実証事業」の一環で、スラバヤを訪問しました。
11月29日に、私から東ジャワ州産業貿易局職員に対して、「日本の地域産業振興の経験:食品加工業を中心に」と題したインドネシア語での講演を行いました。
講演について、詳しくは、個人ブログ「ぐろーかる日記」をご覧ください。
2017年11月26〜30日、JICAによる「産官連携による東ジャワ州の中小食品加工業振興に向けた食品加工技術普及・実証事業」の一環で、スラバヤを訪問しました。
11月29日に、私から東ジャワ州産業貿易局職員に対して、「日本の地域産業振興の経験:食品加工業を中心に」と題したインドネシア語での講演を行いました。
講演について、詳しくは、個人ブログ「ぐろーかる日記」をご覧ください。
先週(2017年9月25〜29日)、インドネシア・東ジャワ州のスラバヤとマランを訪問しました。
今回は, インドネシアから日本を含む海外への研修生派遣についての現状を学んだほか、現地の実業高等学校がかなり革新的な取り組みを行っていることを知りました。
日本からインドネシアへ援助する時代は確実に終わりつつあることを改めて確認するとともに、日本とインドネシアが対等なパートナーとして一緒に学び合い、具体的に協働する時代が来ていることを確信しました。
2016年12月7〜11日、インドネシア・スラバヤへ出張しました。
今回の出張は、公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES: Institute for Global Environmental Strategies)が実施する「アジア地域における地域資源ベースSCP(持続可能な生産と消費)イニシアティブの分析ならびに政策的支援の検討(事例研究)」の準備調査のお手伝いでした。
この調査は、アジアの都市部、都市近郊での持続可能な消費に関する取り組みを効果的に支援する政策パッケージを提案することを目的としているそうで、インドネシアにおける先進環境都市と自負するスラバヤ市において、持続可能なコミュニティ・イニシアティブを探るうえで参考となりそうなインプットを得たいということでした。
今回は、様々な市民活動のプラットフォームを目指して活動している若者グループであるAyorek / C2O図書館、エコロジカル・サニテーションを研究している私立スラバヤ大学環境研究センター、マングローブ保全活動とバティックなどへのマングローブ活用産品振興・コミュニティ開発の両立を進めるグループBatik SeRuの3カ所を案内しました。
この調査が今後、どのように展開していくかは分かりませんが、スラバヤの事例が単なる事例で終わらず、アジア各地での同様の事例と横に結び付き合いながら、新しい動きが生まれてくることを期待したいと思います。
今回で、本当に2016年のインドネシア出張は最後となります。
今回のインドネシア出張でのメインは、アンボンとスラバヤでの講演だった。いずれも、インドネシア側から招待され、交通費、ホテル代、講演料も先方が負担した。
とは言っても、今回の成田=スラバヤは、燃料サーチャージ込みの往復で38,520円と破格に安い中華航空の便で行ったので、交通費でもお釣りがくるほどだった。これだけ安いと、日本国内の地方へ行くよりも、インドネシアへ出かけるほうが低コストとなるかもしれない。こうした状況も手伝って、私の感覚では、日本国内、海外という区別がほぼなくなっている。
アンボン(マルク州の州都)では2月11日、「マルク州と日本との貿易投資関係」と題して、シンポジウムで講演した。このシンポジウムは、EUがインドネシア東部地域の幾つかの州を対象に行っている貿易投資促進のためのプログラムCITRA(Centre for Investment and Trade Advisory)の一環で開催されたもので、EUから委託を受けたスラバヤのNGOであるREDI(Regional Economic Development Institute)からの依頼で招かれたものである。
マルク州はもともと植民地時代から香辛料で有名だが、現在の主要産業は水産業であり、海産物の輸出で経済が回っている。しかし、養殖などの育てる漁業はほとんど根付いていない。20年前、スラウェシ島近海で「魚が獲れなくなってきた」という漁民の話を聞いてから久しいが、漁民は魚の群れを追って、スラウェシ島から東へ東へと移動し、今はマルク州の海域が主たる漁場となっているのである。
新政権のもとで、違法外国漁船の摘発が行われ、水産資源の枯渇スピードが若干遅くはなったが、マルク州内には水揚げした水産物を扱える場所もキャパも少ないため、水産物生産高が大きく減少し、地元経済にプラスとはなっていない。厳しい現実がそこにあった。
また、マルク州では、南東海域でマセラ鉱区の大規模ガス田開発の話が日本も関わる形で進んでおり、その権益を巡って、様々な思惑が入り乱れている様子が伺えた。この件については、後日、じっくりと調べてみたいと思う。
アンボンでは、5年ぶりに様々な旧友と再会し、ゆっくり話すことができたのが最大の喜びだった。
彼らと話しながら、「東インドネシア・ラブ」の気持ちがひしひしと沸いてきた。マルク州をもっと日本の方々に知ってもらうための役目を果たそうと思った。今年の11月ごろに、マルク州代表団が日本へ視察に来るという計画もあるようなので、その際には最大限のお手伝いをしたいと思った。
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2月14日は、東ジャワ州シドアルジョのムハマディヤ大学シドアルジョ校で、「日本における教育のモチベーション」という、主催者側から与えられた題で講演した。
教育学が専門ではないので、ちょっと的外れなことを言ったかもしれないが、目的が、参加者である学生(ほとんどが小学校教師になる)のモチベーションを上げることだったので、日本の学校の話をするだけでも刺激があったように思う。
しかし、わざわざ日本から人を招いて話を聞きかなければならないような内容だったのだろうか、という疑問はぬぐえない。日本人だったら誰でもよかったのかもしれない。でも、一緒に講演した方々が大上段に構えた大風呂敷の話をしていたので、もっと身近なことを生かした、学生の意識に働きかけるような話のほうが効果的なのではないかと思った。
2月7日、肌寒い東京の自宅を朝早くに発ち、中華航空の台北、シンガポール経由でスラバヤに到着したのが夜12時前。途中の台北で、スラバヤの友人とFacebookメッセンジャーで面会の約束をしていたら、「8日朝、スラバヤの中国正月の様子を一緒に観に行こう」という話になった。
8日朝7時、英雄の像(Tugu Pahlawan)前に集合。日本との温暖の差が激しかったためか、肌の温度調節がうまくいかず、なかなか眠れぬままスラバヤ最初の夜が明けた。
眠い目をこすりながら、英雄の像前で友人と会い、彼の連れて行ってくれたのがタンバックバヤン(Tambak Bayan)地区。すでに、写真を撮りに多くの若者たちが集まっていた。スラバヤの写真愛好家にとって、中国正月の朝にタンバックバヤン地区に来るのは毎年恒例の行事の様子である。
タンバックバヤン地区は、1920年代頃、政治的理由で中国から逃れた人々が集まってできた集落で、その後、世界恐慌後の1930年代の経済苦境期には、カリマンタンやスマトラから失職した華人苦力らが駆け込んできた。もともとスラバヤで生まれ育った華人とは違う人々と言ってよい。華人とはいえ、生活は貧しく、あり合わせの材料で家を作って住んできた。
そんなタンバックバヤン地区だが、スラバヤの一般市民の知名度はさして高くはない。でも、スラバヤのなかで最も中国の雰囲気を残す場所として、写真愛好家らには知られているようだ。
このタンバックバヤン地区を友人と歩いた。まずは、住民のまとめ役を果たしているダルマ・ムリア財団(中国名:励志社)を訪問。ここは今、中国とスラバヤとの友好のシンボル的存在でもある。
この励志社の向かい側に、タンバックバヤン地区の集落がある。集落の真ん中に大きな中心家屋(Rumah Induk)があり、その周りに約30戸ほどの小さい家々が長屋風に建てられている。
中心家屋の中は小さい部屋に仕切られ、それぞれの部屋が仕事場(ワークショップ)として使われていた跡がうかがえる。ある部屋は台所の跡であった。真ん中に建ててある赤い柱は、バロンサイ(中国の獅子舞)が乗ったりするのに使うとのことだった。
狭い路地に建てられた家々の軒先からは針金が貼られ、子供向けであろうか、中国正月の縁起物である赤い小さな祝儀袋(アンパオ)がつけられている。
ここに住む人々はオープンで、訪れた人々を家の中に招いて、容易に写真を撮らせてくれる。住居は質素で、所得の低い人々が寄り添いながら生活している様子がうかがえる。昔から使われている井戸があった。この井戸はやや黄色く濁っているが、いまだかつて枯れたことはないのだという。
タンバックバヤン地区は、2007年頃から土地収用問題で揺れてきた。近くにあるホテルが拡張するため、この地区の土地を収容しようと動いてきたからである。かつて、住む場所のない難民のような先代たちがようやくたどり着き、生活を取り戻したこの場所の記憶がなくなってしまうことに、多くの住民は耐えられなかった。激しい反対運動が起こり、それを大学生やNGO活動家らがアートの形をとるなどして支援した。でもすでに一部は買い取られ、駐車場となっていた。
タンバックバヤン地区を歩いているうちに、そろそろバロンサイの始まる時間になった。バロンサイはこの地区の住民が演じるのではなかった。他所からバロンサイ演舞グループがやってきて、踊りながら地区を練り歩くのである。
友人によると、バロンサイ演舞グループはスラバヤでわずかに5グループ程度しか残っていないのではないかという。中国正月は、彼らにとって数少ない稼ぎどきなのであろう。
バロンサイが終わると、集まっていた人々が去り、写真愛好家たちが去り、あたりは静かな中国正月の雰囲気になった。来年の中国正月も、今年と同じように、バロンサイを目当てに、瞬間的に人々が訪れることだろう。
スラバヤの街づくりは、旧来のカンポン(集落)を壊さずに、その居住空間を生かす形で長年にわたって進められてきた。外来の華人たちが作ったこのタンバックバヤン地区もそうしたカンポンの一つといってよい。しかし、都市の発展に伴って、かつては人間的な街づくりと賞賛された、そうしたカンポンを内包する形での街づくりにも限界が見え始めたように思える。
そしてまた、スラバヤの華人、あるいは「中国人」とは一体何なのか、ということも改めて考えることになってしまった。その出自や歴史的背景が異なることから、彼らをすべて華人、「中国人」として括ってしまうことの単純さ、浅はかさを感じたのである。ある意味、タンバックバヤン地区に集まった友人や写真愛好家の認識にも、なぜかそうした単純さや浅はかさを感じずにはいられなかった。
そうはいっても、興味深い機会に誘ってくれた友人には深く感謝している。友人は、スラバヤの町歩きの達人で、「Surabaya Punya Cerita(スラバヤは物語を持っている)」という本を出版しているダハナ・ハディ氏である。また近いうちに、彼とスラバヤの街を歩くことになるだろう。
私の別の友人で、Ayorek!という団体の主宰者の一人であるアニタ・シルビアさんが、タンバックバヤン地区について書いたエッセイがある。これも合わせて読まれることをお勧めする。彼女もスラバヤの町歩きの達人で、英語・インドネシア語のバイリンガル雑誌を発行している。
– Story from Kampung Tambak Bayan(英語)
– Cerita dari Kampung Tambak Bayan(インドネシア語)
Ayorek!のサイト(英語)はこちら。
中ジャワ州南東部、ソロ市のすぐ西隣の高原地帯、ムラピ火山の東側にあるボヨラリ県は「牛乳の町」として知られる。牛乳生産は1980年代に始まり、2013年時点で、ボヨラリ県の乳牛頭数は8万8,430頭、年間牛乳生産量は4万6,906トンであり、頭数で全国の約14.5%、牛乳生産量で同約8%を占める。たしかに、ボヨラリの街中には牛乳を売る店があちこちに見られ、牛乳を使ったドドール(羊羹の一種)も売られている。
一見するとのどかなボヨラリの風景だが、ここ数年、繊維・縫製を中心とした投資が急増している。投資調整庁(BKPM)のホームページでも、繊維・縫製産業の投資先としてボヨラリ県を紹介している。
ボヨラリ県投資・統合許認可サービス局によると、2006年時点で、同県の国内投資実績は6件、4,073億ルピアに過ぎなかった。ところが、2008年に460件が一気に進出した後は、2009年に621件、2010年に767件、2011年に859件、2012年に1,056件、2013年に938件、そして2014年に804件の国内企業が新たに進出し、2014年時点で計5,513件、1兆1703億9400万ルピアとなった。ただし、国内企業の投資件数は増えたが、その多くは比較的小規模の投資だったことが分かる。
ボヨラリ県への外国投資は、1995年に2件、2001年に1件進出して以降、2007年まで全くなかった。それが2008年、2010年、2012年、2013年に1件ずつ進出した後、2014年になって一気に4件へ増加した。その結果、外資系企業は現在11社となり、そのほとんどが韓国系などの繊維・縫製である。このように、ボヨラリ県は投資ラッシュとなっているが、工業団地はまだなく、投資企業は県の空間計画で定められた工業ゾーンに立地することになる。
実は、2013年から、韓国政府による援助の下、ボヨラリ県に繊維・縫製を主とする敷地面積約500ヘクタールの工業団地を建設する計画があった。しかし、計画が公になるとすぐに地価が上昇し始めた。2010年頃は1平方メートル当たり2万ルピア(約180円)だったのが、2014年には 50万ルピア(約4,630円)へ急騰した。このため、地権者がなかなか用地買収に応じず、結局、韓国政府は協力の継続を断念するに至った。ボヨラリ県政府は、韓国政府に代わる新たな事業者を探して、工業団地建設を継続する意向である。
ボヨラリ県は投資許認可のワンストップ・サービスを完備し、建築許可(IMB)と妨害法許可(HO)以外の許認可手続は無料化した。ボヨラリ県への繊維・縫製企業進出はまだ続くだろうが、一部ではすでに、ボヨラリ県から周辺のスラゲン県などへ工場を再移転する動きも見られる。ボヨラリ県とその周辺県との投資誘致競争は熱を帯びている。
(2015年3月29日執筆)
先週、地方投資環境調査のため、中ジャワ州へ出張した。まず、州都スマランにて、新任の中ジャワ州投資局長を訪ねた。近年、中ジャワ州は、ジャカルタ周辺地域からの工場の移転・増設が急増しており、もちろん、その辺の話もしたのだが、彼の話に熱がこもったのは、前職の協同組合・中小事業局長時代に手がけた一村一品についてだった。
一村一品とは、1970年代初頭に当時の平松守彦大分県知事が名づけた地域おこし運動であり、自分たちが誇れる産品を最低一つ作り上げ、その価値を高めながら自分たちの地域の価値を高めていくことを目的とする。現在、世界中の国々で一村一品を取り入れようという動きがあり、インドネシアでも1990年代半ばから様々な試みが行われてきた。
中ジャワ州では、協同組合・中小事業省の指導の下、2003年3月から一村一品に取り組み始め、すでに、各県のいくつかの工芸品を一村一品対象に指定した。それらは、たとえば、ジェパラ県のトロソ織、クラテン県の縞状のルリック織、プマラン県のゴヨール織、ソロ市のバティックなどである。中ジャワ州はプカロンガン、ソロなどバティックの産地が多く、そのイメージが強いが、実は、織機を使わない手織物の宝庫でもある。
中ジャワ州で2003年3月に一村一品の開始が宣言されたのは、州内でもあまり目立たない南東部、東ジャワ州と接するスラゲン県であった。スラゲン県の特産品であるゴヨール織とバティックも中ジャワ州の一村一品に指定された。
実は、手描きバティックの下請け作業の多くはスラゲン県内で行われている。それがソロやジョグジャカルタでバティックの有名ブランドとなり、ジャカルタで売られる際には、スラゲン県から搬出されるときの10倍ぐらいの価格に跳ね上がるのである。
手描きバティックや手織りの織物を制作するには、単調な細かい作業に長い時間を費やす。これらを担うのはほとんどが女性労働力であり、この点からも、中ジャワ州の女性労働力は忍耐強く、細かい作業を長時間集中して行う能力に長けているとみなされる。ジャカルタ周辺地域の労働集約型工場を支えているのも、彼女たちであるとよく言われる。
中ジャワ州の一村一品を受けて、スラゲン県は2014年11月、県内のすべての村を対象とする一村一品を宣言し、産品でも芸能でも、最低一つの誇れるモノを生み出すよう求めた。そして県は、それらを様々な機会に他所へプロモーションすることを約束した。
インドネシアでもようやく、プロジェクトではなく地に足をつけた運動としての一村一品が、地元レベルで起こり始めたようである。
(2015年3月13日執筆)
過去3年間のジャワ島内の最低賃金の変化を県・市レベルで眺めてみる。一般に、経済活動が活発化すると最低賃金が大きく上昇し、停滞するところでは上昇率が低いと考えられる。最低賃金の算出には、当地での物価水準や家計の消費行動が反映されるので、最低賃金をみることは、地方経済の活況度合いを計ることにもつながる。
ざっと見て、ジャワ島の地方経済に起こっている現象には2つのポイントがある。
第1に、最低賃金の上昇トレンドの継続である。なかでも、2015年最低賃金の上昇率でとくに注目されるのは、そろって20%以上上昇した東ジャワ州のスラバヤ市とその周辺4県で、すでにジャカルタ周辺地域と遜色ないレベルに達した。「労働コストの低いスラバヤ周辺へ」とはもはや言えない。その一方で、中ジャワ州は全般に10%台の上昇に留まる。
ジャワ島全体の116県・市で最低賃金が100万ルピア未満だった県・市の数は、2013年が58だったのが2014年に11へ減り、2015年はゼロになった。反対に、200万ルピア以上は、2013年の12から2014年が20、2015年は24へ増えた。ちなみに、2015年最低賃金の最高は西ジャワ州カラワン県の295万7,450ルピア(これにさらに業種別課金が加わる)、最低は中ジャワ州バニュマス県の110万ルピアであった。約3倍の差である。
第2に、最低賃金が大きく上昇した県・市がジャワ島の北海岸に集中する一方、それ以外は上昇率が総じて低いことである。すなわち、ジャワ島全体で北部の大都市周辺が豊かになる一方、中南部は停滞気味という「南北問題」の色彩が強まっている。
なかでも、西ジャワ州南東部(パガンダラン県、チアミス県など)と中ジャワ州南西部(バニュマス県、プルバリンガ県、バンジャルヌガラ県など)、及び中ジャワ州南東部(ウォノギリ県、スラゲン県など)と東ジャワ州南西部(マゲタン県、パチタン県、ポノロゴ県、トレンガレック県など)といった州境付近の県・市の最低賃金は、まだ110〜120万ルピア程度である。これらは人口の多い貧しい農業地域で、これまでジャカルタ周辺などへ工場労働者や家事労働者などを供給してきた。
日本側で一般的に知られるジャカルタ周辺やスラバヤ周辺では、安い労働コストを求める事業展開はもはや限界に来つつある。そこでは地場中小企業でさえ、機械化・自動化を検討している。他方、ジャワ島中南部の最低賃金はまだジャカルタ周辺の2分の1以下であり、手先が器用で従順な女性労働力などを活用する労働集約企業が生き残れる余地は大いにある。そこでは、ほどなく工場進出による農村社会の大きな変貌が起こることだろう。
ジャワ島内の地域格差問題を視野にいれると、1970年代の日本の変化がどうしても重なって見えてくる。
(2015年2月15日執筆)
ジャカルタ~バンドン間の高速鉄道事業をめぐる日中の受注競争は、結局、中国に軍配が上がった。ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領は、いったんは双方案を白紙にし、中速鉄道として再提案を受けると表明していたが、最後にそれを翻した。
当然、日本政府は反発した。受注できなかったからというよりも、インドネシア側の対応に誠意と一貫性がなかったからである。地元メディアは、早くも「二国間の信頼関係に影響を及ぼす」との懸念を伝えている。
そもそも本件は、日本による事前調査は行われたものの、中期計画に組み込まれるような緊急性の高い案件ではなかった。政府から「実施するなら国家予算や政府保証なしで」という条件が付いたのはその表れである。
実は、4月時点で中国・インドネシアの国営企業が本件でコンソーシアム(企業連合)を組むことが内定していた。インドネシア幹事の国営建設ウィジャヤ・カルヤ(ウィカ)は7月、このために3兆ルピア(約 256 億円)の政府追加出資を求めた。リニ国営企業大臣は10 月5日、ウィカに4兆ルピアの政府追加出資を行うと発表したが、高速鉄道建設関連ではないとわざわざ強調している。
リニ大臣によると、事業実施に当たって中国との合弁企業を設立し、インドネシア側が60%出資する。また、返済40年(支払猶予10年)、年利2%で、 国営銀行3行が中国開発銀行から50億米ドル(約6,000億円= 30%は元建て)を借り入れる。
国家予算から国営企業へ政府追加出資があり、国営銀行が仮に返済できない場合には政府の後ろ盾がある。「国家予算も政府保証もない」という条件を満たすかといえば、実は微妙なのではないか。
日本側の不満を受けて、テテン・マスドゥキ大統領府長官は、「日本側にはまだ投資可能な案件が多々あ る」と弁明したが、その例のなかに、ジャカルタ~スラバヤ間の高速鉄道が含まれていた。今回のジャカル タ~バンドン間とは別なのか。中国の動きを見ながら、日本もインドネシア側のニーズをしっかり汲み取りつつ、戦略を練っていく必要がある。
(2015年10月6日執筆)
ジャワ島の東端、バリ島を目の前に臨む東ジャワ州バニュワンギ県は、ユニークな立ち位置にある。ここでは、車で6時間以上かかる東ジャワ州の州都スラバヤとの関係よりも、むしろ、フェリーを使ってわずか30分の、海を隔てたバリ島との関係を意識している。
観光地であるバリ島では環境アセスメントが厳しく、新規の製造業投資が制限される。家具、工芸品、縫製品などの新規・拡張投資は難しい。バニュワンギはそれらの受け皿としての役目を果たそうとしている。バニュワンギ県の2015年最低賃金は142万6000ルピアと定められ、バリ州各県の162万2000ルピア〜190万5000ルピアを下回る。実際、バニュワンギからバリ島へ多くの職工が家具製造などに出かけていたが、今後は地元で働くことが期待される。
合わせて、バリ島からの観光客の誘致も図ろうとしている。コーヒーや果物などの体験型観光農園やアグロリゾート構想などがあり、国内外の投資家の関心を集めている。古いジャワ文化とバリ文化の混じった独特の文化があり、黒魔術のような神秘主義の要素も色濃く残る。バニュワンギ県は年間イベントカレンダーを毎年発表するが、ほぼ毎月様々な観光イベントが催されている。色鮮やかな衣装に身を包んだバニュワンギ・エスノカーニバルは盛大に開催されるほか、全身を真っ黒に塗った男たちが水牛の形相で練り歩いて収穫を祝うケボケボアンという伝統的な奇祭もある。
バニュワンギは、バリ島との間が深い海底で区切られるため、ジャワ島では珍しい水深18メートルのコンテナ港の建設が計画されている(スラバヤのタンジュンペラッ港は水深7メートル)。この港の近くに複数の工業団地開発が予定され、2015年中にマスタープランを完成させ、2017年の入居開始を目指す。民間のウォンソレジョ社が開発する約500ヘクタールの工業団地には、すでに小麦粉製粉、食料品、二輪車などの企業が進出の意向を見せている。原材料を外から持ち込み、工業団地で生産して外へ輸出・移出する製造業のほか、製鉄などの重化学工業の進出も想定している。
バニュワンギ県知事は、インドネシアで最も投資しやすい県となることを宣言している。中央政府による全国ブロードバンド化事業の第一号として、他県に先駆けて光ファイバーが敷設された。県統合許認可サービス局は、すでにジャカルタの投資調整庁とオンラインで結ばれ、スムーズな許認可プロセスを実現している。投資家には会議用の部屋を用意し、空港出迎えを行うという熱の入れようである。ここしばらくは、ユニークな開発を目指すバニュワンギから目が離せなさそうである。
(2015年1月31日執筆)
インドネシアは知られざるコーヒー大国である。2014年のコーヒー生豆の全世界の生産量・日本の輸入量のいずれでも、ブラジル、ベトナム、コロンビアに次いで第4位を占めている。日本で知られるトラジャ、マンデリンなどはインドネシア産コーヒーである。
日本でのインドネシア産コーヒーは、缶コーヒーやインスタントコーヒー用にブレンドさせる豆として輸入される。メディアでは、ジャコウネコの糞から豆を取り出す、高価なルワック・コーヒーが有名になった。今回注目するのは、インドネシア国内での産地別コーヒーのブランド化である。
日本で珈琲店に行くと、ブレンド以外に、モカ、ブラジル、コロンビア、ブルーマウンテンなど、世界中の産地別のコーヒーを味わうことができる。インドネシアは、それを国内産地別にやり始めたのである。全部のカフェではないが、アノマリ・カフェなどの一部ではアチェ・ガヨ、スマトラ・マンデリン、フローレス、パプアといった産地別のコーヒーを味わえる。ガルーダ・インドネシア航空のビジネスクラスでも、スマトラ・リントンやトラジャ・カロシなどのインドネシア産コーヒーを香り高く出してくれる。
これらの産地別コーヒーのほとんどは、標高800メートル以上の高地で栽培されるアラビカ種であり、それ以下の標高で栽培されるロブスタ種に比べると生産量は少なく、価格も高い。日本の缶コーヒーやインスタントコーヒー用の多くは廉価のロブスタ種である。
ところが、そのロブスタ種でもブランド化が行われている。バリ島に面するジャワ島最東端の東ジャワ州バニュワンギ県では、ローカルレベルでブランド化を試みている。県内の産地別に、ラナン、ガンドゥルン、クミレン、レレン・イジェンなど、バニュワンギの産地や地域性を象徴するブランドを付けて提供している。これらのコーヒーはロブスタ種であり、決して高価ではない。
残念ながら、これらのローカルブランド名をスラバヤで聞いたことはなく、バニュワンギに来て初めて知った次第である。でも、もしこのコーヒーを誰か専門家や著名人が「おいしい」と言えば、一気に有名になる可能性もないわけではない。地産地消により資金が地域内で回るという観点からは、少量生産の地元コーヒーを地元の人や訪問客に味わってもらうというレベルがむしろちょうどよいともいえる。
インドネシアは、国際商品であるコーヒーの産地別ブランド化が一国内で可能な稀有な国であろう。バニュワンギのレアなコーヒーも含めて、本物の美味しいコーヒーを飲むならインドネシアへ、という日がもう来ているのかもしれない。
(2015年1月17日執筆)
東ジャワ州ジュンブル県にしかないものには、前回お知らせしたジュンブル・ファッション・カーニバルのほかにもう一つある。枝豆である。インドネシアで生産される枝豆のほとんどは、ジュンブル県で生産されている。
ジュンブル県で枝豆を生産・冷凍しているのはミトラタニ27という民間企業で、国営第10農園会社と民間企業の合弁会社である。1995年に設立され、ジェトロ専門家の指導に基づいて、枝豆生産・冷凍を開始した。生産量は年間6,500トンで、85%が冷凍枝豆として輸出される。輸出のうちの85%が日本向けで、残りは米国向けである。
しかし、日本の枝豆需要は6万トンあり、インドネシア産はその1割程度しか供給していない。輸入枝豆のシェアでも、インドネシアは5%程度であり、インドネシアと同じ頃に枝豆生産・冷凍を開始したタイ(25%)を大きく下回っている。同社からの日本向けの冷凍枝豆は、東京・銀座の料亭やレストランへ高級枝豆として提供され、タイ産よりも品質がよいとされているが、国内での生産量が伸びていないのが現状である。
枝豆はわずか70日で生育し、ほぼ毎日収穫できる。通常の大豆と同様、地力を高めるため、8〜11月はオフとし、連作は行わない。作付面積は1,000〜1,200ヘクタールだが、なかなか広がらない。枝豆の栽培は通常の大豆よりも様々な注意が払われ、ミトラタニ27社が農家に対して細かに品質管理を指導する。とくに輸出向けのために540の殺虫成分に関する検査をクリアする必要がある。
このため、枝豆の栽培コストは通常の大豆よりもはるかに高くなり、インドネシア国内市場での枝豆は高級食材となる。農家としては、通常の大豆よりも面倒な枝豆栽培を敬遠する傾向がある。
枝豆の種苗は台湾から輸入していたが、2008年に台湾が種苗輸出を禁止したため、現在は、かつて輸入した種苗を国内で増やしている。このため、ミトラタニ27社は枝豆の新品種導入などに不安を感じている。
このように、枝豆の栽培面積がなかなか増えず、新品種の導入が難しい状況のなかで、ミトラタニ27社自体も工場の生産能力を拡大させるタイミングを測りかねている。
枝豆は、ジュンブル県にしかない地域おこしの格好の対象産品であるが、国内での認知度が低く、高級イメージの強い現状では、県政府も積極的に枝豆をプロモーションする姿勢を見せていない。ミトラタニ27社も、枝豆だけに頼らず、オクラや他の野菜の生産・冷凍輸出の比重を高める方向性を探り始めている。
(2015年1月4日執筆)
→ 2015年のジュンブル・ファッション・カーニバルの動画サイト
日本ならば、あちこちの地方で毎週のようにお祭りがある。インドネシアでは、宗教行事を除いてあまりお祭りを見かけない。それがちょっとつまらないと思っていた。ところが、今や全国23都市でカーニバルが催され、インドネシア・カーニバル協会が設立されるところまで来ていたことに気がついた。インドネシアは、いつの間にか、お祭りに満ちあふれる国へ変わっていたのである。
その発端は、2001年に始まり、2014年で14回を数える東ジャワ州ジュンブル県のジュンブル・ファッション・カーニバル(JFC)である。総合プロデューサーを務めるディナンド・ファリズ氏がJFCを提唱したのには理由があった。
ジュンブル県は農業県で、とくに葉タバコ栽培の中心地である。近年の禁煙運動の影響でタバコへの需要が減少し、県内のタバコ工場が閉鎖されて失業が広がった。とくに失業した若者たちは懐疑的かつ非生産的となり、加えて、インターネットやテレビなどのメディアが彼らをより受動的にした。
ファリズ氏は、こうした状況をジュンブル県の未来への危機と認識した。彼は、ファッションを通じて若者たちにライフスキルを学ばせることで、創造性を促し、協力を構築し、自信をもたせ、リーダーシップを発揮させる機会としてJFCを考案したのである。
JFCは毎年異なるテーマで様々なファッションを提示する。過去には、バリ爆弾事件やスマトラ沖地震・津波などがテーマとなった。参加する若者たちは、これらテーマを通じてグローバルな現象を学び、コスチュームのデザインや音楽を創造し、表現していく。JFCでは、各チームがカテゴリー別に競い、優勝チームには奨学金が送られる。クライマックスは、参加者のデザインしたコスチュームをまとった総勢400人以上の路上パレードで、沿道には約10万人以上の観客があふれる。
JFCは地域経済に多彩な恩恵をもたらす。デザイナーはもちろん、地元の仕立屋、アクセサリー屋、ハンディクラフト屋などが動員され、新たなファッション・デザイン産業が生まれる。飲食店、ホテル、露天商(カキリマ)も潤うことは言うまでもない。
その後、2008年、中ジャワ州ソロ市では、ジョコウィ市長(当時。現大統領)の下で、初めてのソロ・バティック・カーニバル(SBC)が開催されたが、ファリズ氏率いるJFCの52名が参加し、先導役を務めた。SBCは、「ソロがイスラム強硬派の本拠地」というイメージを払拭する目的で開始され、今ではJFCと並ぶ規模のカーニバルへ成長した。こうして、インドネシアの地方都市で、カーニバルを活かした街づくりが静かに広まりつつある。
(2014年12月19日執筆)
インドネシア農業の大きな問題の一つが土地の肥沃度である。かつて1970年代の米の自給を目指したいわゆる「緑の革命」では、高収量品種と化学肥料・農薬のセットで単収上昇が図られた。その影響は今も続き、化学肥料を多投する農業が一般化した。必要以上に化学肥料を投入すると、土地が肥料を保持する力が落ち、生産性が低下する。すると農家はさらに化学肥料の投入量を増やす。その連続が農業を支える農地の疲弊を起こす。
東ジャワ州でも、化学肥料に依存した農業からの脱却が図られている。まずは土を作り直すことから始める必要があり、化学肥料から有機肥料への流れが定着しつつある。近年、化学肥料価格が上昇し、農家収入を圧迫していることもその流れを促しており、一部には、価格上昇を理由に、人糞を使ったコンポスト化にも抵抗がない農家さえ存在する。
東ジャワ州南部のルマジャン県の農村でも、すでに有機肥料の利用が行われていた。この農村には、牛糞、鶏糞、山羊の糞をベースとしたコンポスト工場が3年前に建てられ、EM菌や他の菌を混ぜて発酵させて有機肥料を生産する。1袋30キロの有機肥料を毎月約4,000袋生産し、県内の6郡へ販売している。売価は1袋1万2,000ルピア(キロ400ルピア)で、一度に約1,000袋分を製造して5日で売り切る、というサイクルである。
農家レベルでも、牛糞などを発酵させて田畑へ撒いたりするが、この工場で製造された有機肥料を購入して使うケースも少なくない。あたかも、化学肥料を手軽に購入したように、有機肥料を購入する感覚である。しかし、持ち運びしやすい化学肥料とは違い、大量の有機肥料を圃場へ運ぶのはなかなか至難である。これが化学肥料から有機肥料への転換がなかなか進まない理由の一つとも指摘されており、配送方法に工夫が求められる。
他方、東ジャワ州での最大の有機肥料生産企業は、国営ペトロキミア・グレシック社である。石油化学工場が主であるこの企業は、炭素と窒素の比率であるC/N比、酸性・アルカリ性の度合いを示すpH値、含水率などの一定基準を満たしたうえで、石灰を独自の配合で加えた有機肥料を毎月1,000トン生産している。各県に工場があり、ルマジャン県にも3工場ある。農家にはキロ500ルピアで販売する。
有機肥料の生産が進む東ジャワ州ではあるが、果たして、州政府の望み通りに有機農業は広がっていくのだろうか。バトゥ市のリンゴのように、有機肥料から化学肥料へ戻ってしまったケースもある。後継者不足による農業の持続性の問題も含め、有機農業を広げるための明確な政策支援が必要な気がする。
(2014年12月5日執筆)
インドネシアで入手に苦労したものの一つが牛乳である。国内メーカーの牛乳は輸入生乳を使い、様々な薬品や保存料を加えているとされ、地元の人でも敬遠する人が少なくなかったため、輸入ロングライフ牛乳を購入せざるを得なかった。今も、日本のように、新鮮な牛乳が毎日大量に手に入る状況はまだ確立されていない。
インドネシア国内での乳製品生産向けの牛乳の需要は年間約330万トンあるが、国内生産で供給できるのは69万トンに留まり、全体の8割を占める残りは、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、EUなどからの生乳や粉乳の輸入に依存している。インドネシアは、これまでにホルスタイン種の乳牛輸入や人工授精による繁殖などを何度も試みてきたが、熱帯という気候の問題もあり、画期的な成功を収めることは難しかった。
現在、国内における牛乳生産の中心地は東ジャワ州であり、そのほとんどがパスルアン県やマラン県の高原地帯に立地する。東ジャワ州では8万6,000人の酪農家が29万6,350頭の乳牛を飼育しており、全国の乳牛飼育頭数の8割近くを占める。東ジャワ州には外資系のネスレやグリーンフィールズ、国内食品最大手インドフードの子会社インドラクトなどの大企業が立地し、地元の酪農協同組合などとの契約に基づいて、比較的規模の大きい牛乳生産を行っている。
しかし近年、牛乳価格が低迷する一方、飼料などの価格が値上がりしているため、末端の乳牛飼育業者の生産意欲が減退している。実際、乳牛の飼育頭数は、全国で2012年に42万5,000頭だったのが、2014年5月時点で37万5,000頭へ大きく減少した。このままでは結局、乳製品生産の輸入原材料に依存する状況は当面続かざるを得ない。
インドネシアにおける牛乳の一人当たり年間消費量はわずか11リットルである。これはマレーシアの22リットル、インドの42リットルなどと比べてかなり少ない。現在のインドネシアの領域を植民地化したオランダは牛乳を生産していたが、それは主にオランダ人用であったため、マレーシア、インドといったイギリス植民地のように、牛乳を嗜好する食文化を根付かせることは叶わなかった。
そんななか、乳牛を飼育する牧場が自家製の牛乳を都市で直販するだけでなく、オシャレな牛乳カフェを経営する動きが出てきた。2010年、ジョグジャカルタに「カリミルク」というカフェがオープンしたが、その直接の動機は、ムラピ山の噴火による風評被害で牛乳が売れなくなった酪農家を助けることにあった。
「カリミルク」でイチゴ味の牛乳を飲みながら、牛乳後進国インドネシアで国産牛乳がもっと飲まれるようになる日が果たして来るのだろうかと考えこんでしまった。
(2014年11月21日執筆)
スラバヤ空港から国際線に乗ると、ほぼ必ずと言っていいほど、出稼ぎへ向かう集団と一緒になることが多い。彼らの多くは若者で、お揃いの制服を着ているのですぐ分かる。
スラバヤからはシンガポール、クアラルンプール、香港、台北などへ直行便が飛んでいるが、そのいずれでも出稼ぎへ向かう人々がいる。今や、それらの国際線の主要乗客となっているかのようである。スラバヤは、東ジャワ州だけでなく、ロンボク島などの西ヌサトゥンガラ州や南スラウェシ州などからの海外出稼ぎ者の経由地ともなっている。
最新データによると、2014年1〜9月の東ジャワ州から海外への出稼ぎ者は3万6547人であり、そのうち、政府公認の正規出稼ぎ者が1万1811人、家事労働などの非正規出稼ぎ者が2万4736人である。出稼ぎ先で多いのはアジア太平洋諸国で2万9486人と大半を占める。ちなみに中東諸国への出稼ぎ者は6119人、欧米諸国は530人、オセアニア諸国は98人である。アジア太平洋諸国への出稼ぎ者はほとんどが非正規であるのに対して、中東諸国は正規・非正規が半々、その他は正規がほとんどである。
一方、同期の出稼ぎ者による東ジャワ州への海外送金額は1兆9318億ルピア(約180億円)に達する。そのうち、アジア太平洋諸国の非正規の出稼ぎ者による海外送金額が1兆1799億ルピアを占める。すなわち、海外送金額のほとんどは、アジア各国で働く家事労働者などからの仕送りであり、国家から見れば、彼らは重要な外貨獲得源になっている。彼らが「外貨の英雄」などと称される所以である。
実は、東ジャワ州を含め、ここ数年、インドネシアから海外への出稼ぎ者数は横ばいないし低下傾向にある。数字のうえからは、好調なインドネシア経済の下で、国内での雇用機会が順調に増えていることが理由のようにみえるが、実際には、マレーシアや中東諸国による非正規出稼ぎ者の受け入れ制限の影響のためである。
出稼ぎ者が農村などから出て行くことを考えると、インドネシアの農村は外部に対して閉じられた空間ではなく、我々の予想以上に外の世界との心理的距離が近い世界とも言える。筆者も農村を訪れた際に、日本に居た経験を持つ人々に出会うことが少なくない。
11月初め、西アフリカのリベリアで7ヵ月間働いて帰国した東ジャワ州出身の出稼ぎ者2人が、エボラ出血熱に感染した疑いで隔離され、入院する事態が起こった。結局、保健省は彼らが陰性であったと発表したが、同時に、海外への出稼ぎを通じて、インドネシアの農村が外部世界からの脅威をも容易に受け入れ得ることが示された。
(2014年11月7日執筆)
スラバヤ市北部、オランダ植民地時代の建物が残る一角に「ハウス・オブ・サンプルナ」がある。ここは、インドネシア特有の丁字入りタバコ「クレテック」の大手メーカーの一つ、サンプルナが最初に建てた工場の跡地で、博物館とカフェがある。平日の午前中ならば、クレテックを手作業で製造する工程を博物館の2階から眺めることができる。ずらっと並んだ工員たちの目にも留まらぬ速さの手作業は一見の価値がある。
このサンプルナが2014年5月末、東ジャワ州ジュンブル県とルマジャン県の2工場を閉鎖した。いずれも手作業によるクレテック工場だが、これにより従業員4900人が一時解雇された。同じく大手のベントゥールも、11工場のうち8工場を閉鎖する計画に伴って、9月に1000人を早期退職させた。さらに、最大手のグダンガラムも1万2000人の早期退職者を募集し、10月半ばまでに約5000人が応じた。
各社とも、退職者に対して、事業を起こすための研修・講習などを施しているが、多くが勤続20年以上、40〜50歳前後の工場労働者であり、その成果は限定的とみられる。
元々、東ジャワでのタバコ栽培は19世紀後半から拡大し、クレテック製造はサンプルナが1913年、グダンガラムが1958年に開始した。タバコ産業の地域経済への影響力は、雇用創出や関連産業などからみても大きく、クディリ市はグダンガラムの企業城下町といっても過言ではない。大手以外にも、東ジャワ州には手作業による中小の丁字タバコ製造工場が多数存在していたが、3年ぐらい前から閉業・倒産が相次いでいる。
国会では、タバコを中毒性物質と認定して規制を法制化しようとする保健省などの勢力と、規制をかけさせまいとするタバコメーカーとの駆け引きが20年間にわたって続いてきた。同時に、通常のフィルター付きタバコを製造する外資系を牽制するという名目で、ニコチン含有量などで不利なクレテックを守る動きも見られる。
では、タバコ産業に打撃を与えているのは、昨今の禁煙ブームによるタバコ需要の減少なのだろうか。答えは否である。タバコ生産量は2013年の3419億本に対して、2014年は3530億本が見込まれ、実は減少していない。
従業員の一時解雇は機械化のためである。タバコ生産全体に占める手作業によるクレテック製造の比率は2004年の36.5%から2013年には26.6%へ低下する一方、機械によるクレテック製造は55.8%から67.3%へ上昇した。各社ともに、機械によるクレテック製造工場については、まだまだ新設する予定なのである。
工員たちの目にも留まらぬ速さの手作業は、ほどなく無形文化遺産となるかもしれない。
(2014年10月17日執筆)
東ジャワ州の中央部アルジュナ山系から南下し、マラン県、ブリタール県を通り、西へぐるりとまわってクディリ県、モジョクルト県を経由して最後はスラバヤ市から海へ出る。全長320キロメートル、流域面積1万1800平方キロメートルのブランタス川は、東ジャワ州最大の河川であるだけでなく、ブンガワン・ソロ川に次ぐジャワ島第2の大河でもある。
ブランタス川は、ジャワの古代王朝であるクディリ朝の時代から稲作を営む恵みの水をもたらしてきたと同時に、頻繁に洪水を引き起こしてきた。インドネシア政府は1961年、「ブランタス川流域総合開発計画」を策定し、日本の円借款による協力を受けて、洪水制御、灌漑、水力発電を目的とした複数のダム建設を進めた。
日本の協力は40年の長期にわたって続けられ、流域における米の増産やスラバヤ都市圏への送電など、地域経済の発展に大いに貢献した。 同時に、40年にわたる協力のなかで、日本人技術者からインドネシア人技術者への技術移転が進められ、現在も水資源開発などの分野で主導的な役割を果たす人材を輩出してきた。「ブランタス川流域総合開発計画」は、モノだけではなく、ヒトを作る日本の経済協力の好例として今もよく採り上げられている。
しかし、協力開始から50年以上を経て、ブランタス川をめぐる状況は大きく変わってきている。たとえば、協力実施時から課題だった中下流部での堆砂はますます深刻になっている。ブランタス川流域の人口はこの50年で2倍以上に増加した。その結果、かつては未耕作地だった山間部で田畑耕作が盛んに行われるようになり、それに伴う土壌流失がブランタス川の堆砂の大きな原因となっているとの見方がある。
また、クディリ付近では、堆砂を川底から掘り出す違法行為が頻発する一方、川の流量が低下したため、川面が大きく低下した。
川の流量の低下は、ブランタス川へ流れこむ水源数の減少が影響している可能性がある。環境NGOのWALHIによると、2005年以前は水源が421箇所もあったが、2005年には221箇所、2009年には57箇所、そして2012年にはわずか13箇所へと、10年経たない間に水源の数が激減した。とりわけ、水源に近い場所でのホテルや別荘地の開発が問題視されており、バトゥ市ではホテル建設への反対運動が起こった。
このように見てくると、急速な経済開発と人口増加のなかで、「ブランタス川流域総合開発」の役目は終わりつつあり、ブランタス川の河川としての機能をどのように保全するか、という新たな緊急の課題が表出しているように見える。
(2014年10月3日執筆)
インドネシアのカカオについて学ぶ大学生のスタディツアーのお手伝いをする機会があった。ジャカルタやスラバヤでチョコレートの生産・販売・消費を調べた後、西スラウェシ州ポレワリでは、京都でチョコレートの製造・販売を行うダリ・ケー社のスタディツアーに便乗し、カカオ農家の現状を学んだ。
インドネシアのカカオ農家のほとんどは小農である。農家から集配商人、輸出業者へ至る流通マージンは小さく、国際価格の変動が買い取り価格へ直結する。なお、アフリカ諸国のようなカカオをめぐる児童労働の問題は存在しない。
インドネシア産カカオは未発酵の低級品で、これまでほぼ全量が豆のまま輸出されてきた。国際市場での評価が低いためか、国内で発酵カカオ豆と未発酵カカオ豆の価格差はなく、発酵カカオ豆を生産する動機がなかった。実際、未発酵カカオ豆にも化粧品材料などの国際市場が存在する。
今、その状況が変わりつつある。きっかけは、2010年にカカオ豆の輸出に5〜15%の輸出税が課せられるようになったことである。これに伴い、輸入元の外国企業がインドネシア国内にカカオ加工工場を立地させ始めた。
ところが、加工工場の要求水準を満たす発酵カカオ豆は、国内から量的にまだ調達できず、輸入が必要となる状況である。そこで加工工場は、買い取り価格にプレミアムを付け、発酵・未発酵を問わず、カカオ豆の確保へ動いた。なかには、未発酵カカオ豆を買い取って自前で発酵させるところさえ現れた。その結果、加工工場による未発酵カカオ豆の買い取り価格が、仕向地への輸送コストを引いた国際価格を上回る事態が生じた。
こうして、カカオ豆の流れは、従来の輸出向けから加工工場向けへ大きくシフトした。加工工場は発酵・未発酵カカオ豆の価格に差を付け、農家レベルでも発酵カカオ豆を生産する機運が生まれ始めたのである。
インドネシアはガーナを抜いて世界第2位のカカオ生産国となった。低級品といわれたカカオでも、しっかり発酵させれば、良質のチョコレートになることは、ダリ・ケー社の高級チョコレートが証明している。
そのダリ・ケー社は、西欧製のチョコレート製造機械をポレワリのカカオ農家に設置した。利幅の最も大きい最終工程を農家の手に委ねるのである。さらに、カカオの滓を使うバイオガス発電構想もある。これからスラウェシのカカオにどんな変革が起こるのか注目される。
(2014年9月19日執筆)