【スラバヤの風-38】有機農業は広がるか

インドネシア農業の大きな問題の一つが土地の肥沃度である。かつて1970年代の米の自給を目指したいわゆる「緑の革命」では、高収量品種と化学肥料・農薬のセットで単収上昇が図られた。その影響は今も続き、化学肥料を多投する農業が一般化した。必要以上に化学肥料を投入すると、土地が肥料を保持する力が落ち、生産性が低下する。すると農家はさらに化学肥料の投入量を増やす。その連続が農業を支える農地の疲弊を起こす。

東ジャワ州でも、化学肥料に依存した農業からの脱却が図られている。まずは土を作り直すことから始める必要があり、化学肥料から有機肥料への流れが定着しつつある。近年、化学肥料価格が上昇し、農家収入を圧迫していることもその流れを促しており、一部には、価格上昇を理由に、人糞を使ったコンポスト化にも抵抗がない農家さえ存在する。

東ジャワ州南部のルマジャン県の農村でも、すでに有機肥料の利用が行われていた。この農村には、牛糞、鶏糞、山羊の糞をベースとしたコンポスト工場が3年前に建てられ、EM菌や他の菌を混ぜて発酵させて有機肥料を生産する。1袋30キロの有機肥料を毎月約4,000袋生産し、県内の6郡へ販売している。売価は1袋1万2,000ルピア(キロ400ルピア)で、一度に約1,000袋分を製造して5日で売り切る、というサイクルである。

農家レベルでも、牛糞などを発酵させて田畑へ撒いたりするが、この工場で製造された有機肥料を購入して使うケースも少なくない。あたかも、化学肥料を手軽に購入したように、有機肥料を購入する感覚である。しかし、持ち運びしやすい化学肥料とは違い、大量の有機肥料を圃場へ運ぶのはなかなか至難である。これが化学肥料から有機肥料への転換がなかなか進まない理由の一つとも指摘されており、配送方法に工夫が求められる。

他方、東ジャワ州での最大の有機肥料生産企業は、国営ペトロキミア・グレシック社である。石油化学工場が主であるこの企業は、炭素と窒素の比率であるC/N比、酸性・アルカリ性の度合いを示すpH値、含水率などの一定基準を満たしたうえで、石灰を独自の配合で加えた有機肥料を毎月1,000トン生産している。各県に工場があり、ルマジャン県にも3工場ある。農家にはキロ500ルピアで販売する。

有機肥料の生産が進む東ジャワ州ではあるが、果たして、州政府の望み通りに有機農業は広がっていくのだろうか。バトゥ市のリンゴのように、有機肥料から化学肥料へ戻ってしまったケースもある。後継者不足による農業の持続性の問題も含め、有機農業を広げるための明確な政策支援が必要な気がする。

 

(2014年12月5日執筆)

 

【スラバヤの風-37】牛乳後進国インドネシア

インドネシアで入手に苦労したものの一つが牛乳である。国内メーカーの牛乳は輸入生乳を使い、様々な薬品や保存料を加えているとされ、地元の人でも敬遠する人が少なくなかったため、輸入ロングライフ牛乳を購入せざるを得なかった。今も、日本のように、新鮮な牛乳が毎日大量に手に入る状況はまだ確立されていない。

インドネシア国内での乳製品生産向けの牛乳の需要は年間約330万トンあるが、国内生産で供給できるのは69万トンに留まり、全体の8割を占める残りは、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、EUなどからの生乳や粉乳の輸入に依存している。インドネシアは、これまでにホルスタイン種の乳牛輸入や人工授精による繁殖などを何度も試みてきたが、熱帯という気候の問題もあり、画期的な成功を収めることは難しかった。

現在、国内における牛乳生産の中心地は東ジャワ州であり、そのほとんどがパスルアン県やマラン県の高原地帯に立地する。東ジャワ州では8万6,000人の酪農家が29万6,350頭の乳牛を飼育しており、全国の乳牛飼育頭数の8割近くを占める。東ジャワ州には外資系のネスレやグリーンフィールズ、国内食品最大手インドフードの子会社インドラクトなどの大企業が立地し、地元の酪農協同組合などとの契約に基づいて、比較的規模の大きい牛乳生産を行っている。

しかし近年、牛乳価格が低迷する一方、飼料などの価格が値上がりしているため、末端の乳牛飼育業者の生産意欲が減退している。実際、乳牛の飼育頭数は、全国で2012年に42万5,000頭だったのが、2014年5月時点で37万5,000頭へ大きく減少した。このままでは結局、乳製品生産の輸入原材料に依存する状況は当面続かざるを得ない。

インドネシアにおける牛乳の一人当たり年間消費量はわずか11リットルである。これはマレーシアの22リットル、インドの42リットルなどと比べてかなり少ない。現在のインドネシアの領域を植民地化したオランダは牛乳を生産していたが、それは主にオランダ人用であったため、マレーシア、インドといったイギリス植民地のように、牛乳を嗜好する食文化を根付かせることは叶わなかった。

そんななか、乳牛を飼育する牧場が自家製の牛乳を都市で直販するだけでなく、オシャレな牛乳カフェを経営する動きが出てきた。2010年、ジョグジャカルタに「カリミルク」というカフェがオープンしたが、その直接の動機は、ムラピ山の噴火による風評被害で牛乳が売れなくなった酪農家を助けることにあった。

「カリミルク」でイチゴ味の牛乳を飲みながら、牛乳後進国インドネシアで国産牛乳がもっと飲まれるようになる日が果たして来るのだろうかと考えこんでしまった。

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(2014年11月21日執筆)

 

 

【スラバヤの風-36】海外へ出稼ぎに向かう人々

スラバヤ空港から国際線に乗ると、ほぼ必ずと言っていいほど、出稼ぎへ向かう集団と一緒になることが多い。彼らの多くは若者で、お揃いの制服を着ているのですぐ分かる。

スラバヤからはシンガポール、クアラルンプール、香港、台北などへ直行便が飛んでいるが、そのいずれでも出稼ぎへ向かう人々がいる。今や、それらの国際線の主要乗客となっているかのようである。スラバヤは、東ジャワ州だけでなく、ロンボク島などの西ヌサトゥンガラ州や南スラウェシ州などからの海外出稼ぎ者の経由地ともなっている。

最新データによると、2014年1〜9月の東ジャワ州から海外への出稼ぎ者は3万6547人であり、そのうち、政府公認の正規出稼ぎ者が1万1811人、家事労働などの非正規出稼ぎ者が2万4736人である。出稼ぎ先で多いのはアジア太平洋諸国で2万9486人と大半を占める。ちなみに中東諸国への出稼ぎ者は6119人、欧米諸国は530人、オセアニア諸国は98人である。アジア太平洋諸国への出稼ぎ者はほとんどが非正規であるのに対して、中東諸国は正規・非正規が半々、その他は正規がほとんどである。

一方、同期の出稼ぎ者による東ジャワ州への海外送金額は1兆9318億ルピア(約180億円)に達する。そのうち、アジア太平洋諸国の非正規の出稼ぎ者による海外送金額が1兆1799億ルピアを占める。すなわち、海外送金額のほとんどは、アジア各国で働く家事労働者などからの仕送りであり、国家から見れば、彼らは重要な外貨獲得源になっている。彼らが「外貨の英雄」などと称される所以である。

実は、東ジャワ州を含め、ここ数年、インドネシアから海外への出稼ぎ者数は横ばいないし低下傾向にある。数字のうえからは、好調なインドネシア経済の下で、国内での雇用機会が順調に増えていることが理由のようにみえるが、実際には、マレーシアや中東諸国による非正規出稼ぎ者の受け入れ制限の影響のためである。

出稼ぎ者が農村などから出て行くことを考えると、インドネシアの農村は外部に対して閉じられた空間ではなく、我々の予想以上に外の世界との心理的距離が近い世界とも言える。筆者も農村を訪れた際に、日本に居た経験を持つ人々に出会うことが少なくない。

11月初め、西アフリカのリベリアで7ヵ月間働いて帰国した東ジャワ州出身の出稼ぎ者2人が、エボラ出血熱に感染した疑いで隔離され、入院する事態が起こった。結局、保健省は彼らが陰性であったと発表したが、同時に、海外への出稼ぎを通じて、インドネシアの農村が外部世界からの脅威をも容易に受け入れ得ることが示された。

 

(2014年11月7日執筆)

 

【スラバヤの風-34】ブランタス川流域総合開発は今

東ジャワ州の中央部アルジュナ山系から南下し、マラン県、ブリタール県を通り、西へぐるりとまわってクディリ県、モジョクルト県を経由して最後はスラバヤ市から海へ出る。全長320キロメートル、流域面積1万1800平方キロメートルのブランタス川は、東ジャワ州最大の河川であるだけでなく、ブンガワン・ソロ川に次ぐジャワ島第2の大河でもある。

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クディリ市内を流れるブランタス川

ブランタス川は、ジャワの古代王朝であるクディリ朝の時代から稲作を営む恵みの水をもたらしてきたと同時に、頻繁に洪水を引き起こしてきた。インドネシア政府は1961年、「ブランタス川流域総合開発計画」を策定し、日本の円借款による協力を受けて、洪水制御、灌漑、水力発電を目的とした複数のダム建設を進めた。

日本の協力は40年の長期にわたって続けられ、流域における米の増産やスラバヤ都市圏への送電など、地域経済の発展に大いに貢献した。  同時に、40年にわたる協力のなかで、日本人技術者からインドネシア人技術者への技術移転が進められ、現在も水資源開発などの分野で主導的な役割を果たす人材を輩出してきた。「ブランタス川流域総合開発計画」は、モノだけではなく、ヒトを作る日本の経済協力の好例として今もよく採り上げられている。

しかし、協力開始から50年以上を経て、ブランタス川をめぐる状況は大きく変わってきている。たとえば、協力実施時から課題だった中下流部での堆砂はますます深刻になっている。ブランタス川流域の人口はこの50年で2倍以上に増加した。その結果、かつては未耕作地だった山間部で田畑耕作が盛んに行われるようになり、それに伴う土壌流失がブランタス川の堆砂の大きな原因となっているとの見方がある。

また、クディリ付近では、堆砂を川底から掘り出す違法行為が頻発する一方、川の流量が低下したため、川面が大きく低下した。

川の流量の低下は、ブランタス川へ流れこむ水源数の減少が影響している可能性がある。環境NGOのWALHIによると、2005年以前は水源が421箇所もあったが、2005年には221箇所、2009年には57箇所、そして2012年にはわずか13箇所へと、10年経たない間に水源の数が激減した。とりわけ、水源に近い場所でのホテルや別荘地の開発が問題視されており、バトゥ市ではホテル建設への反対運動が起こった。

このように見てくると、急速な経済開発と人口増加のなかで、「ブランタス川流域総合開発」の役目は終わりつつあり、ブランタス川の河川としての機能をどのように保全するか、という新たな緊急の課題が表出しているように見える。

 

(2014年10月3日執筆)

 

【スラバヤの風-29】大統領選挙とNU内部の分裂

東ジャワ州は、西ジャワ州に次ぐ全国第2位の3066万4958人の有権者を抱える大票田である。今回の大統領選挙では、これら2州の結果が勝敗を決するとも言われる。

東ジャワ州は、初代大統領スカルノの出生地ブリタールを含むことから、スカルノの娘メガワティが党首を務める闘争民主党(PDIP)の牙城である。他方、インドネシアで最大のイスラム社会団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の本拠地であり、キアイと呼ばれる高僧を通じて農村に至る津々浦々へ影響力を誇る。大統領候補にとっては、NUの支持をどれだけ取れるかが勝敗の分かれ目となるが、そのNUが今回は事実上分裂した。

その要因は、NU関係者を主体とした民族覚醒党(PKB)の政治的駆け引きである。当初、PKBは元憲法裁判所長官のマフド、国民的人気ダンドゥット歌手のロマ・イラマ、元副大統領でNU重鎮のユスフ・カラを独自に大統領候補としていたが、PDIPと連立してジャカルタ首都特別州知事のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)を大統領候補とし、先の3名をジョコウィと組む副大統領候補とした。

ところが、最終段階でPKBのムハイミン党首が副大統領候補に名乗りを上げたことから、NU関係者の一部がムハイミンと彼の率いるPKBに反旗を翻した。結局、ジョコウィはユスフ・カラを副大統領候補としたが、副大統領候補になれなかったマフドとロマ・イラマは、傷心のなか、プラボウォ=ハッタ陣営へ寝返り、同選対の中心人物となった。

こうした経緯から、大統領候補支持に関するNU内部は分裂した。NUは組織として特定大統領候補を支持しないと言明したが、ムハイミンPKB党首のやり方に否定的なサイドNU議長はプラボウォ=ハッタ組への支持を表明し、各地のキアイへ影響を与えた。

実際、プラボウォ=ハッタ、ジョコウィ=カラの両陣営の草刈場となったのは、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部であり、ここで両陣営とも「キアイの支持を取り付けた」との報道合戦を繰り広げた。しかし、マドゥラ島パムカサン県出身のマフドの影響力は予想以上に大きかった。ジョコウィを誹謗・中傷するタブロイド紙『オボール・ラクヤット』、SMS、モスクでの説教などを通じて、地元出身の実力者マフドが選対を務めるプラボウォ=ハッタ組への支持が広まった。

スラバヤなどの都市部ではジョコウィ=カラ組が圧勝だが、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部ではむしろプラボウォ=ハッタ組が勝ちそうである。だが、そこでは騒乱の起こる可能性が高いとして、治安当局は厳戒態勢を敷いている。

 

(2014年7月12日執筆)

 

 

【スラバヤの風-25】国内唯一のリンゴの運命は?

寒冷な地方で育つリンゴが熱帯のインドネシアでも栽培されているのをご存知だろうか。国内で唯一、リンゴ栽培の行われているのが東ジャワ州バトゥ市周辺である。

バトゥ市は面積202平方キロメートル、人口約20万人。標高2000メートル以上の山々の裾に位置する、平均海抜827メートルの高原都市である。市内には洞窟、温泉、プール、動物園、観光農園、遊園地などのほか、ホテルや別荘が多数あり、週末や祝休日には多くの観光客が訪れる。その数は年間約300万人、国内有数の観光都市でもある。

バトゥ市は2001年にマラン県から分立した。このため、バトゥで栽培されるリンゴは、今も「マラン・リンゴ」(Apel Malang)と呼ばれることが多い。

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バトゥでリンゴが栽培され始めたのは植民地時代の1930年代で、涼しい気候に目をつけたオランダ人が苗木を持ち込んだ。その後、リンゴ栽培は拡大し、リンゴを使ったドドール(日本の羊羹に似た菓子)、クリピック(スナックせんべい)、リンゴ酢などが作られ、リンゴを自分で摘める観光農園も広がった。

しかし、1980年代頃から、他の果物や高原野菜、花卉など、より儲かる産品への転換が急速に進んだ。たとえば、ブミアジ郡では、最盛期に約300ヘクタールあったリンゴの栽培面積が今では60〜70ヘクタールへ減少し、ミカンへ15〜20ヘクタール、サトウキビへ約20ヘクタールと転換し、10年前から宅地化も進行した。

バトゥで栽培される野菜には有機肥料を使うのが一般的で、リンゴもそうだった。しかし成果が上がらず、リンゴだけは再び化学肥料へ戻ってしまった。リンゴの木は剪定されずに空高く伸び、果実は直径約5〜6センチと小さい。価格はキロ当たり2500ルピア(約22円)程度と安く、甘みが少ないため、質でも量でも輸入リンゴに対抗できない。

リンゴはもうダメだ、と地元の人は言う。大量のリンゴ輸入のせいだとする声もある。しかし、厳しい言い方をすれば、これは、付加価値を上げる栽培・加工上の工夫を追求できなかった結果である。国内唯一のリンゴは、果たして復活できるのだろうか。

 

(2014年5月10日執筆)

 

 

【スラバヤの風-23】ムルヨアグン村のゴミ処理場

今日もまた、マラン県ムルヨアグン村へ視察者が訪れる。国内ばかりではなく、日本をはじめとする外国からも来る。目的地は、村の中心部からやや離れた、ムルヨアグン統合ゴミ処理場である。この処理場は地元住民グループによって管理運営されている。

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ムルヨアグン村のゴミ処理場

地元住民グループは2010年に結成された。ムルヨアグン村にはブランタス川水系の河川が流れており、それまで20年以上にわたり、1日当たり30立方メートルのゴミが投棄されてきた。2008年、当時の村長が一念発起し、「河川へのゴミ投棄をさせない」と宣言、2009年に住民全員を集めて土地利用計画を話し合って説き伏せた。住民グループ結成後、村は2,000平方メートルの土地を用意し、2010年12月までに国家予算や州予算などを使って処理場を建設し、2011年2月から運用を開始した。今や、広さは8,676平方メートルに拡張されている。

現在、この処理場では、1日当たり64立方メートルのゴミを処理している。これはムルヨアグン村の5,656家屋、7,600世帯のゴミに相当する。ゴミの内訳は無機ゴミが45%、有機ゴミが39%で、前者は、食べかすなどがアヒルや豚の餌となり、その他は洗浄・加工して業者へ売る。分別は細かく、硬質プラスチックが61種類、オモチャが74種類、ガラスが13種類、アルミ缶が22種類、といった徹底ぶりである。

一方、後者は40日かけてコンポストにし、さらに55日かけて有機肥料にする。有機肥料を作る過程では、県畜産局から進呈されたヤギ11頭の糞も混ぜる。これらのゴミ処理で、ハエの発生率が95%減少したという。

住民からは1世帯・1ヵ月当たり5,000〜1万2,000ルピアのゴミ収集費を徴収するので、毎月3,500万ルピア程度の収集費収入がある。他方、従業員の給与や機器の維持管理などの運営コストが毎月8,000万ルピアかかるが、処理ゴミの業者への売却益を合わせると収支は黒字になる。ただし、用地拡張が難しいため、処理能力の拡大には限界があるとのことである。

住民は河川へのゴミ投棄を止め、ゴミ処理場で働くことによって雇用機会が生まれ、収入が上がり、生活が豊かになった。河川も以前よりきれいになった。ムルヨアグン村の挑戦は、インドネシア国内の様々な地方政府から注目を集めているが、政府に頼らず、地元住民グループによって自立したゴミ処理ビジネスを成立させたことが重要なのである。

 

(2014年4月11日執筆)

 

 

【スラバヤの風-22】マラン市のゴミ銀行

「ゴミで貯金しよう」「ゴミで日用必需品を買おう」「ゴミで電気代を払おう」。マラン市のゴミ銀行のオフィスを訪ねると、そんな標語があちこちに掲げられている。

マラン市のゴミ銀行は、ゴミ処理場への家庭ごみの削減を目的に、市政府が2011年10月に設立した。オフィスは市内の墓地管理事務所にあり、オランダ植民地時代には遺体安置所だった。ゴミ銀行とゴミ処理場を同一視した市民が猛反対したため、ゴミ銀行の立地場所を決められず、結局、墓地管理事務所にオフィスを置くことになったのである。

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マラン市の「ゴミ銀行」オフィス窓口

ゴミ銀行で扱う家庭ごみはプラスチック、紙類、金属、ガラス瓶など70種類に分類され、その各々に引取価格が設定されている。ゴミを持ち込んだ顧客は、現金または貯金の形で対価を得るが、貯金のほうが現金よりも高く対価が設定される。たとえば、カップ麺の空カップは現金だと300ルピアだが、貯金だと400ルピアになる。

ゴミ貯金には普通貯金、教育資金用貯金、レバラン用貯金のほか、現金ではなく現物で引き出す日用必需品貯金、奨学金やモスク建設補助のための社会義援貯金、リサイクル関連の設備購入のための環境貯金、健康保険料を支払うための健康保険貯金がある。

ゴミ銀行の顧客には、直接ゴミを持ち込む個人顧客と、ゴミ銀行が出向いてゴミを引き取るグループ顧客の2つがある。グループ顧客には町内会、学校、パサール(市場)などがあり、それぞれ最低でも住民20人、生徒40人、商人5人の会員で構成する。

グループ顧客は1〜2週間に1回、重量50キロ以上になるようにゴミを収集し、計量・分類する。そこへゴミ銀行の職員が出向いて再度計量・分類し、梱包した後、軽トラックでゴミ銀行へ運ぶ。収集したゴミの内訳・重量・預金額などはゴミ銀行で集計・記録し、グループ顧客の通帳にも口座情報として細かに記録される。現在までに個人顧客が約400人、グループ顧客が約320グループ、うち参加学校は175校である。

ゴミ銀行の収益は、収集したゴミを廃品回収業者へ売ることで得られる。現在、毎月2億ルピア程度の売り上げと2000万ルピア程度の収益がある。マラン市のゴミ銀行の1日当たりの収集量は約2.5トンで、市全体から見ればまだごくわずかであり、家庭ごみ処理に関する市民への啓蒙の役割を果たす段階といってよい。

しかし、ゴミをお金に変える試みは珍しく、マラン市のゴミ銀行の動きは全国の地方政府から注目を集めていくことだろう。

 

(2014年3月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-21】出稼ぎの民、マドゥラ人

マドゥラ島を出自とするマドゥラ人は、インドネシアではジャワ人、スンダ人、バタック人についで4番目に人口の多い種族集団である。2010年人口センサスによると、国内のマドゥラ人の人口は718万人で、そのうち東ジャワ州に居住する者が644万人である。マドゥラ島にある4県の人口が合計362万人で、そのすべてをマドゥラ人と仮定すれば、マドゥラ人の分布は、マドゥラ人の2人に1人はマドゥラ島外へ出ていることになる。

すなわち、マドゥラ人は出稼ぎの民といってよい。歴史的に見ると、マドゥラ人の出稼ぎのきっかけは17世紀にさかのぼる。当時、ジャワ島を支配するマタラム王国に対して、マドゥラ人の英雄トゥルノジョヨが反乱を起こしたが、オランダ東インド会社をバックにしたマタラム王国に敗北した。その際、トゥルノジョヨに従ったマドゥラ人多数が島から逃げ出し、生計を立てるため、逃亡先で様々な雑業に就いたとされる。もっとも、マドゥラ島自体が農業に不向きな、塩田に頼る貧しい土地だったことも要因として挙げられる。

彼らの就く雑業といえば、たとえば、ジャカルタなどの都市で見かけるサテ(串焼き)屋やソト(実だくさんスープ)屋、住宅地などを歩きまわる移動式屋台(カキリマ)や自転車にインスタント飲料とお湯を乗せた売り子などである。ほかには、マドゥラ人の理髪師のネットワークがあり、西ジャワ州のガルット出身者と並んで知られる。マッサージ業界でも、マドゥラ人のマッサージ師は一大勢力となっている。雑業以外にも、中央政界・財界で活躍するマドゥラ人は少なくない。

スラバヤには、人口の約4分の1に当たる80万人ものマドゥラ人が居住し、とくに市の北部に集中している。様々な雑業のなかでも、とくに目立つのがクズ鉄や古紙などの廃品回収やゴミ収集・分別に従事する者や、市場(パサール)や路上で商品売買をする商人などである。商人については、スラバヤだけでなく、マドゥラ人居住者の多い北東海岸部に加えて、マランなどの内陸部の市場に入ると、そこはマドゥラ語が支配的な世界である。

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スラバヤ市北部のくず鉄・廃品市場。ありとあらゆる廃品が売買されている。ここもマドゥラ人が牛耳っている。

このように、マドゥラ人は東ジャワ経済にとって不可欠な存在である。温厚で感情を露わにしないジャワ人とは対照的に、より敬虔なイスラム教徒であるマドゥラ人は、感情をストレートに表現することで知られる。出稼ぎの民・マドゥラ人は、そのバイタリティを発揮しながら、東ジャワやスラバヤ、インドネシアにおける経済の基底を支えている。

 

(2014年3月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-17】日本向け野菜生産の聖地となるか

熱帯に属するインドネシアは、日本など温帯産の農作物の栽培には適さないと考えられがちだが、それは一面的である。標高差を生かすと、温帯に近い高山気候のような環境で農作物の栽培が可能になる。しかも四季がないので、年間を通じて栽培できる。

ジャワ島の高原地帯の多くは火山灰地帯であり、肥沃な土壌を生かして高原野菜が栽培されている。キャベツ、白菜、ニンジン、トマトなどが畑でトラックに積まれ、夕方から夜明け前頃までに大都市へ毎日運ばれてくる。ジャカルタではクラマット・ジャティ市場、スラバヤではクプトゥラン市場がそうした野菜の一大集積地である。

東ジャワでは、国内市場向けだけでなく、輸出向けの野菜生産・冷凍も行われている。最も有名なのは、ジェンブル県を中心に生産される枝豆で、その8割以上が日本向けである。中心となる国営合弁企業では、年間約5500トンの枝豆を生産するほか、オクラ、ナス、サツマイモ、大根、インゲンなども日本向けに生産している。

いくつかの日本企業も、東ジャワの高原地帯で野菜の委託生産を試みている。昨年9月に訪問したマラン市の野菜加工工場では、長ネギ、マッシュルーム、サツマイモ、ニラ、大根などを扱い、契約栽培された野菜を水洗いした後、乾燥、冷凍、チルド、水煮などの状態にして、日本及びシンガポール向けに出荷する。野菜加工工場の指導員が栽培農家を回り、圃場で野菜作りや農薬の使用方法などを細かく指導している。

たとえば、日本企業のスペックに合わせてカットされた野菜は、大腸菌の発生を防ぐため殺菌液に浸けられた後、急速冷凍され、半製品として日本へ輸出される。日本市場に受け入れられるよう、日本で味付けをしたり衣をつけたりしたものが、おでんセットの大根や、駅の立ち喰い蕎麦屋のイモ天となって市場に出る。インドネシアからの輸入量はまだわずかだが、すでにインドネシア産野菜が日本食材の一部となっているのである。

しかし、すべての日本向け野菜生産が成功している訳ではない。低コストを狙って委託生産を試みたある日本企業は、昨年初めに東ジャワから撤退した。品質管理や圃場管理の難しさに加え、5年契約で借地代の一括払を要求するといった、農民レベルでの拝金主義の横行も近年目立つという。そして、日本市場が要求する安全・安心への保証をどう確立するかが極めて重要な課題となるだろう。果たして、東ジャワは日本向け野菜生産の聖地となるのだろうか。

 

(2014年1月17日執筆)

 

 

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