断食中の機内食、ガルーダの場合

今回のゴロンタロ州ボアレモ県訪問は、断食中の用務でした。

断食明けは7月6日と予定されていますが、通常、月が新月かどうか、実際に見て判断するので、直前まで決まりません。というわけで、イスラム教徒の皆さんは、「もういくつ寝ると・・・」という感じで、指折り数えて断食明けを待っているところです。

断食中でも、私たち非イスラム教徒は通常通り飲食をしてかまいません。もちろん、断食中の方には一応「食べさせていただきます」と断わりを入れるのが礼儀でしょうね。

イスラム教徒としては、異教徒に断食を強制させることは罪という意識があります。昔、役所の職員と一緒に地方出張したとき、たまたまタイミングを逃して飲まず食わずとなり、気がつくともう夕方の4時でした。職員たちは「お願いだから食べてくれ」と懇願され、カーテンのかかった小さな食堂へ押し込まれてしまいました。

今回も、一緒に動いてくださったカカオ栽培指導のコンサルタントの方と運転手が、気を遣って、田舎なのでなかなかないのですが、いつも昼食の場所を探してくださいました。おかげで、昼食をとることができました。

ところで、断食中の飛行機の機内食ですが、今年は少し例年と変わった光景を目にしました。これまでは、通常通りの食事が供され、断食中の人には食事が供されませんでした。

今回、ガルーダ・インドネシア航空で目にしたのは、紙の箱に入った食事です。1時間程度の短距離飛行の時にはパンなどの入った紙の箱が渡されますが、通常の食事もまた、紙の箱に入って渡されたのです。中を開けると・・・。

ガルーダのマーク入りのポリ袋が1枚入っています。この袋、紙の箱をお持ち帰りするための袋なのでした。断食中の客も、紙の箱に入った食事をお持ち帰りできるようにしたのでした。機内で見ていると、ほとんどの客が紙の箱をポリ袋に入れて持ち帰っていました。

工夫しましたね、ガルーダ・インドネシア航空。5つ星航空会社と認定された自信が、こうしたちょっとしたサービス向上に結び始めたような気がしました。

山頂までトウモロコシ畑

ボアレモ県に滞在3日目の7月2日は、県南東部の村を訪問しました。本当は6月30日の午前中に訪問予定だったのですが、「雨がひどくて、道路状況が良くないので、来ないほうが良い」と言われて、行けなかった村です。ゴロンタロ空港へ向かう途中での寄り道でした。

スラウェシ島のマカッサルからマナドまで通じるトランス・スラウェシ道路から一本入ると、その道は、舗装されてはいるものの、穴だらけで、中には舗装が剥がれてガタガタになっている、急なアップダウンの道でした。上り下りが相当に急で、たしかに、これでは、大雨の中、行くのはかなり危険だと思わざるをえない道でした。

標高は上がっていきますが、道の両側はトウモロコシ畑が広がり、しかも遠くに見える山々の頂までトウモロコシ畑が広がっている様は圧巻でした。トウモロコシ畑を広げるために、削られた山肌があちこちに見られます。

村に着くと、そこもまた、山の頂までトウモロコシ畑でした。山肌が削られ、新たにトウモロコシ畑となるであろう様子もうかがえます。

昨日訪問した別の村では、かつてはほとんどがトウモロコシを栽培していたのに、今は皆んな止めてしまい、カカオへ転作していました。曰く、種子や肥料などの代金を商人から借りても、収穫の時に返済すると儲けがほとんどでないかマイナスになる、化学肥料や殺虫剤の投与で農地がダメになるのに加えて自分たちにも健康障害が出る、といった理由でした。

ゴロンタロ州は、北スラウェシ州から2000年に分立してから、州を挙げてトウモロコシ生産を奨励し、「トウモロコシ州」としてゴロンタロ州の名前を売りました。それから15年、トウモロコシ生産の弊害が出ている一方で、この村のように、今もなお、山を裸にし、トウモロコシを植え続け、森がなくなっていく状況も併存しています。

トウモロコシ栽培のための森林減少を食い止めるため、代替物としてカカオを含めたアグロフォレストリーの奨励が試みられていますが、この村のトウモロコシ栽培の広範な拡大を見ていると、アグロフォレストリーの前途は相当に多難だと思わざるをえません。

こんな村でも、ゴロンタロの断食明け直前の風物詩トゥンビロ・トヘの準備が行われていました。

トゥンビロ・トヘとは、灯を照らすということで、元々は、夜のイスラム礼拝を人々に伝えるための道しるべの灯りとして使われたようです。昔のブログでトゥンビロ・トヘについて書いたことがありますので、参考までにリンクを貼っておきます。

ゴロンタロ「灯りの祭典」

トゥンビロ・トヘは、なかなか幻想的できれいなので、機会があれば見に行かれたらと思います。州全体で行われ、今回訪問したすべての村で、準備が行われていました。でも、膨大な数の灯りをつけるために燃やされる大量の灯油とそこから発せられる二酸化炭素のことを思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。

発酵カカオ、未発酵カカオ

昨日は、午後、ようやく雨が上がり、再びカカオ農家を訪問することができました。

カカオは収穫後、実を割って中からカカオ豆を取り出し、それを発酵させてから、天日干しにして水分を飛ばし、加工へまわす、というのが一般的です。カカオを発酵させると、あのカカオ独特の芳醇な香りが生まれ、チョコレート原料となります。

上の写真はカカオ豆を半分に切った断面です。右から3番目付近の黒いのが発酵カカオです。一番右側は半分ぐらい発酵しています。残りの紫色のものはまだ発酵が十分でないカカオです。

ところが、ボアレモのカカオ農民の多くはカカオを発酵させず、未発酵のまま集配人に売ってしまいます。それはなぜでしょうか。

一つには、すぐにお金が欲しいからです。何はともあれ、現金がすぐに欲しいので、未発酵のまま天日干しして、すぐに売ってしまうのです。集配人も、天日干しして、水分を飛ばすことしか要求しません。

二つには、発酵は面倒くさいのです。発酵させる4〜5日間が無駄になるし、1日に何回かは発酵中のカカオを手でかき回さなければならないし、発酵してくるとカカオが熱くなるし、こんな手間暇かけたくない、という理由です。

そして、それらの理由の根本には、集配人から提示される価格は一つで、発酵してもしなくても、買い取り価格が同じ、という問題があります。

皆さんがカカオ農家だったら、それでも発酵させますか。しないですよね。

インドネシア産カカオは、世界市場では低品質のカカオとみなされており、しかも家畜のエサ用など低品質カカオの市場が存在するので、あえていいカカオを作らなくても済む構造ができ上がっています。

実は、発酵カカオと未発酵カカオの価格差がないという問題は、私がマカッサルでJICA専門家として地域開発政策アドバイザーを務めていた20年前から、全く変わっていないのです。それを今回、改めてボアレモのカカオ農家で確認しました。

しかし、状況は変わり始めました。ごくごく一部ですが、発酵カカオを未発酵カカオよりも高く買い取る動きが出始めました。その先陣を切った企業の一つがダリケーです。

ダリケーは発酵カカオを高く買い取るだけでなく、カカオ農民に対して、カカオの栽培・管理技術、発酵の方法などを指導し、それをマスターしてちゃんとした発酵カカオを作った農民からはプレミアムをつけた価格で買う、ということをスラウェシで行なっています。でもこれは、良いものを作った人には正当な価格で評価する、という商売として当たり前のことをやっているに過ぎないのです。

ボアレモ県のカカオ生産は年産わずか1000トンぐらいの少量生産ですが、県政府がカカオ栽培を奨励し、苗木や肥料などを無料で農民に配っています。このやり方だと、農民はオーナーシップを持たず、やる気も出ないのではないかと思いました。

ところが、現場へ行くと、過去にカカオ生産を経験した農民がリーダー格となり、他の農民を発酵カカオ生産へ誘っていました。

彼らの多くは、これまでトウモロコシ農家でした。気候変動の影響か、トウモロコシ生産が2期連続で不作となり、中間業者から借りた借金の返済に追われたと言います。トウモロコシで地獄を見た農民たちは、1回植えれば20〜30年持ち、毎週のように収穫でき、しかも初期費用は政府もち、というカカオへなびきました。そして、今、発酵させると、世界市場では高く売れるということを農民が知り始めました。

ボアレモ県のカカオ生産は、まだ緒につき始めたばかりで、生産量はごくわずかです。しかし、長年カカオを作ってきた農家とは違い、最初から発酵カカオの良さを理解し始めています。これからの戦略を間違えなければ、少量ではあるが、高品質の発酵カカオを生産できる場となり得るかもしれません。

これからのボアレモ県のカカオ農民の努力に注目していきたいです。

ボアレモは大雨だった

インドネシアのスラウェシ島にある、ゴロンタロ州ボアレモ県に来ています。今回は、ここで2日間、カカオ農家のヒアリングを行います。

今日と明日の2日間、なのですが、昨晩から強い雨が降り続き、今朝は8時に出発予定だったのが、訪問予定先のカカオ農家から「雨で道が悪くなっていて、土砂崩れが起こる可能性があるから、今は無理。しばらく様子を見て欲しい」と連絡があり、様子を見ながらホテルで待機しています。

本来であれば、今は乾季のはず。でも、昨日会ったカカオ農家の方によると、一週間前ぐらいから雨が降り出し、ずっと降っているとのことです。おかげで、そろそろ収穫期のカカオを乾燥させることができずに、困っていました。

しかもそのカカオですが、昨年12月の花がつく頃に雨が少なく、豆が例年よりも小さいそうです。本来ならば、12月は雨季で雨が多い時期だったはずなのですが。

寒気や雨季は、私たちが思っているほど、明確に分かれてもいないし、場所によっても異なります。ここは赤道よりも少し北側なので、赤道の南側のインドネシアの乾季・雨季とは逆になりそうな気もします。

他方、アルファベットのKの字をしたスラウェシ島は、場所によって乾季・雨季が入り乱れています。例えば、南スラウェシ州の州都マカッサルは今は乾季ですが、山を越えた東側、ボネ湾に面した地方は逆に雨季の真っ最中になります。今の時期は、西側は一般に乾季、東側は一般に雨季、といった様相ですが、では南側に面しているボアレモはどうか、というのはちょっとビミョーです。

ともかく、カカオ農家のヒアリングはうまく行われるのでしょうか。お天気の神様のみぞ知る、といったところです。

昨晩は、疲れ切ってしまって寝てしまい、ハッと気がついて起きたらすでに6月30日、本ブログの毎日更新の目標は破られてしまいました。しかも、停電が5時間以上続き、携帯電話の充電ができるかどうか不安な夜でした。

今日の写真は、昨日降り立ったゴロンタロ空港です。空港ビルが新しくなっていて驚きましたが、搭乗ブリッジはまだ使われていませんでした。

変わり行く季節の中で味わう桃とサクランボ

日本でもインドネシアでもそうなのですが、最近は季節の様子がだいぶ変わってきているように感じます。気候変動や温暖化の影響なのでしょうか。

たとえば、日本の梅雨は、雨がしとしと何日も降り続く、というイメージでしたが、最近の梅雨は、しばらく雨が降らないのに、降ると集中豪雨、という、なんだか熱帯の雨に様相がずいぶん似てきたような気がします。

他方、すでに乾季に入ってもおかしくないはずのインドネシアでは、ジャワ島を中心に相も変わらず雨が降って、洪水や鉄砲水まで起こっています。

こうした季節の様子の変化は、風情というものも時とともに変えてしまうのかもしれません。「梅雨の長雨」が消えて、「梅雨の豪雨」となる日が来るかもしれません。

そんななかで、四季を愛でる我々日本の人々は、これからどんなところに季節を感じていくのでしょうか。季節を感じる対象が変わってくると、季節感というものも自ずと変わってくることでしょう。

幸運にも、私自身は、このところ、初夏を感じさせる果物を味わうことができました。

福島の実家で食べた、品種はわかりませんが、おそらく早生の桃。でもこれが思った以上に美味しくて、びっくりしました。これから8月にかけて、赤みを帯びたあかつきや川中島を楽しめることでしょう。

こちらは、東京の自宅で食べたサクランボの佐藤錦。まだちょっと早いような気がしないでもないですが、赤く色づいたものは甘みが強く、美味しくいただきました。山形から送られてきたものですが、以前、福島がサクランボの大産地だったことがあったのです。

桃や佐藤錦で初夏の匂いや味を堪能して、さて、これから7月4日まで、またインドネシアへ出かけてきます。行先は、スラウェシ島、久々のゴロンタロ州ボアレモ県です。

「支持政党なし」という政党

昨晩、福島から東京へ戻って、最寄駅の前の参議院議員選挙のポスター掲示板を見て、一瞬、目を疑いました。

「支持政党なし」と書かれたポスターが4枚、並べて貼られていました。候補者個人の名前ではなく、「支持政党なし」「政策一切なし」とデカデカと書かれています。

最初は、既存の政党に対する批判や風刺か。もしかしたら、既存政党に対する嫌がらせなのかもしれない、と思いました。きっと、翌朝には剥がされていて、ニュースで「悪質な選挙妨害」などと報じられるのではないか、と思いました。

ところが、家でインターネットで検索すると、「支持政党なし」という政治団体が存在し、党として選挙に出ていることを知りました。私の選挙区には4人も立候補しています。でも名前は分からないし、政策は一切ない、と言っています。

ホームページを見ると、「支持政党なし」党の党員は使者であり、議案や法案ごとに一つずつインターネット等を通じて国民に議決に参加してもらう、そこで賛成多数なら賛成へ、反対多数なら反対へ、議決権を行使する、とか書かれています。

何かのために政治的に結社するのではなく、また、そのために独自に議案や法案を出すこともしない、あくまでも現状に対して賛成か反対か、多数のほうへなびくという、徹底的に受け身の立場の政治団体と見受けました。

このような政治団体も選挙に参加できるのですね。この団体の中身を知らない人が、政治の現状への不満から、投票用紙に「支持政党なし」と書くのを期待しての行動なのかもしれません。

本当の意味で支持政党なしならば、「支持政党なし」党も支持しないのではないでしょうか。「支持政党なし」党の出現は、ほの暗い将来への動きをさらに象徴するもののようにも感じられました。

未来の祀りカフェに参加

6月26日(日)は、午後から福島銀行ビル12階で行われた「未来の祀りカフェ第1回」に参加してきました。

この「未来の祀りカフェ」は、8月に行われる「未来の祀りふくしま」に並行して行われる行事で、「ふくしまに学ぶ、ふくしまで学ぶ」をモットーに、福島の伝統や文化を福島の地でより深く学び、これからの福島の未来を創っていくための礎の一つにしようという意気込みを感じるイベントでした。

8月の「未来の祀りふくしま」は、「昨年に引き続き、東日本震災の現実を伝え、鎮魂と再生の祈りを込め、伝承していく新しい表現としての現代の神楽「ふくしま未来神楽」第三番を創作し、福島の総鎮守である福島稲荷神社に奉納、発表する」(ホームページより引用)ものです。

今日のカフェでは、まず第1部で、福島の神楽について学びました。福島県文化財保護審議会委員の懸田弘訓氏が神楽の基礎知識をユーモアを交えて分かりやすく教えてくださった後、市内にある金沢黒沼神社の十二神楽のうち、剣の舞、猿田彦(四方固め)、三人剣の3神楽が演じられました。

この金沢黒沼神社の神楽は、福島県内で最も古く(元禄10年頃)伝わったものらしいです。猿田彦の舞で使われた面は、鎌倉時代に彫られたもののレプリカで、オリジナルは大切に保管されているそうです。鎌倉時代にはまだここに神楽はなく、後に神楽を舞う際に猿田彦の面を流用したのだろうという解釈でした。

金沢黒沼神社には、蝦夷征伐という神楽があります。蝦夷征伐に来たヤマトタケルを酔わせてやっつけようとした村人たちが返り討ちにあう、というユーモラスな内容で、この神社にしか見られない珍しい神楽だそうです。

金沢黒沼神社はほぼ毎月のように神事や祭礼があり、地元の人々の信仰の厚さが偲ばれますが、他の神社と同様、氏子数の減少や後継者不足の問題に直面しているようです。

続く第2部では、福島県立博物館長の赤坂憲雄氏と詩人でこのイベントの仕掛け人である和合亮一氏との対談でした。

様々な内容がとめどなく話されましたが、言葉とは言葉に置き換えられないものがあることを理解するために存在するものであり、だからこそ言葉は大事にされなければならないのに、今は言葉が蔑ろにされているという危機感が示されました。言葉を大切にし、言葉を取り戻し、言葉へ戻っていく文化を新たな福島の文化として育てていく必要性が提示されました。和合氏は「人づくり、まちづくり、言葉づくり」を福島で取り組むべきものとまとめました。

第3部では、仙台を中心に、アートによるまちづくりに取り組んできたMMIX Labの村上タカシ氏が仕掛けてきた様々な取り組みが紹介されました。震災後にお年寄りがゆるく集える場所としての「おしるこカフェ」、津波が到達した学校に桜を植えていく桜3・11プロジェクトなどのほか、88歳の女性タツコさんがラップで歌う「俺の人生」も紹介されました。

88歳の新星ラッパーTATSUKO★88「俺の人生(HIP-HOP ver.)」

村上氏は、モノではなくコトのアート、建築型のアート、行為のアートがこれからますます必要になっていくという見解を示しました。イベント終了後に本人とも話しましたが、建物を建てない建築家としてコミュニティ・デザインを提唱する山崎亮氏に近いスタンスのように感じました。

この機会に、前からお会いしたかった赤坂憲雄氏や和合亮一氏とお会いできたのは良かったし、伝統芸能などを含めた形で、新しい福島を作っていくための本質的な部分に触れる良い機会になったと思いました。これから回を重ね、各回の内容を蓄積していくことで、このカフェが新しい何かを生み出す機会を創っていくような予感がありました。

なお、インドネシア出張と重なってしまったため、昨年に引き続き、今年も自分は8月の福島稲荷神社での「ふくしま未来神楽」の奉納を見ることができないのが残念です。まだ少し早いですが、今年の奉納の成功と盛会を心から祈念する次第です。

ぐろーかる日記、開始!

本サイトとは別に、あえて「ぐろーかる日記」という個人ブログを始めた。

ぐろーかる日記

ぐろーかる日記は、グローバルとローカルが交じり合う日々のくらしのなかで、思ったこと、考えたこと、感じたこと、伝えたいことなどを気ままに書きのこすためのツールである。

当初、すべての内容をこのサイトへ統合しようと思ったが、ちょっとしたことをゆる〜く書ける場所を作ってこなかったことに気づいた。そして、仕事とプライベートがごちゃごちゃになってしまったことにも気づいた。

というわけで、本サイトは今後、仕事に関連したものへ特化させていくこととし、ここでのブログは、業務報告的な形にしていく予定である。

すなわち、世の中の出来事に関する個人的な見解、旅日記、食べ物のこと、興味のあること、などプライベートな内容は、「ぐろーかる日記」で書いていくことにしたい。

ぐろーかる日記は、ゆる〜く、日記のように毎日更新を目指していきたい。ときには、わずか1行とか、写真のみ、ということもあるかもしれないが、皆さんに毎日、気楽に読んでもらえるような、個人ブログにしていきたいと思う。

 

福島をダイバーシティ尊重の先進県に

昨晩、高知から東京の自宅へ戻ったのですが、今日は午前中に歯医者へ行った後、そのまま新幹線に乗って、再び福島へ舞い戻りました。

午後から訪ねたのは、「ふくしまダイバーシティシネマ&トーク」という催しです。22日に福島へ日帰り出張した際に知人から勧められ、急遽、参加を決めた催しでした。

まずは、「パレードへようこそ」というBBC制作の映画を鑑賞しました。1984年サッチャー政権下のイギリスを舞台に、性的マイノリティの若者たちがストライキを続ける炭坑労働者たちの支援へ動いた実際の話を描いた作品で、彼らに対する根強い社会の偏見とそれが少しずつ克服されていく可能性が映し出されている映画でした。

映画を観た後、アフタートークで性的マイノリティに関する基礎知識を確認し、感想を語り合う場が設けられました。

日本では、虹色で表現される「ダイバーシティ」は、一般に、性的マイノリティ(略して「セイマイ」というらしいことを知りました)を尊重することを指すようですが、性別だけでなく、宗教、種族、出自など様々な要素もダイバーシティの中に含まれてくると思われます。

セイマイは、本人がそうと打ち明けない限りは周囲が分からないので、それがしやすいような環境を作っていくことが求められるという特質があります。もっとも、それは、見た目ではなかなか分かり難い種族や出自や過去など、打ち明けた途端に差別や色眼鏡の対象となりうるようなものとも共通しているかもしれません。

たとえその人がどんな人であっても、性的マイノリティであっても、実は日本国籍を持っていなくとも、差別にさらされてきたコミュニティの出身だったとしても、忘れられないような屈辱や虐待を受けた過去を持っていたとしても、そうした方々が安心して暮らせる、安心して受け入れられる、そんな社会を作っていこうというのが、ダイバーシティの目指すところなのだと思います。

頭の中でダイバーシティを勉強し、「そのような社会にすべきだ」と言っても、上記のような方々を受け入れる社会にはなりません。一人一人が、この世の中には様々な人々が存在し、もしかしたら今、自分が接している人がそうなのかもしれない、という想像力をできる限り豊かにする努力を常に続けることが重要なのではないかと思います。そして、「なるほどね」「そういうのもアリだよね」と、多様な人々の存在を当たり前のこととしてフツーに受け入れられる能力や寛容性を自分で高めていくことなのだと思います。

そしてその能力は、マジョリティと思っている人だけでなく、マイノリティと思っている人にも必要なものです。でも、まずはマジョリティと思っている人から動く必要があることは言うまでもありません。

ふと、親を喜ばせたい一心で好きでもない勉強を無理やり頑張ってしまう子どもや、空気を読まなければならないと思い込んでいる会社人間や、何かのために過度な我慢を自分に強いている人たちのことが頭をよぎりました。彼らはマイノリティではないし、差別の対象にもならないだろうけれども、本当の自分を打ち明けられないという意味では、ある程度は同じなのかもしれません。彼らが本当の自分を安心して表現できる社会もまた、ダイバーシティの目指す方向に包含され得るのではないでしょうか。

だとするならば、ダイバーシティ社会というのは、様々な他者を尊重しながら、自分らしさを安心して表現できる社会ということになるのかもしれません。それは、特定の思想や考え方に染まり、それに合わない人々を排除していく社会(誰にも要求されないのに率先して自らをそれに合わせようとする人々さえ出現します!)とは正反対の、インクルーシブな社会、ということになるでしょう。

多様性の中の統一。人と違うということが力になる。そんなことを日常的に見聞きする、ごった煮の国「インドネシア」のことを思い出していました。そんなインドネシアでも、国家の名の下に、ある一定の方向へ人々を向けさせようとする動きはしっかりと存在しているのです。

今回の催しを主催したダイバーシティふくしまは、福島を多様性(ダイバーシティ)尊重の先進県にし、その重要性を全国へ発信していくことを目標に活動を行っています。東日本大震災や原発事故の後、福島は様々な入り組んだ差別や偏見の対象となり続けています。そんな福島だからこそ、ダイバーシティが大事だということを発信していかなければならないという気持ちが感じられます。

高知らしさと言えば・・・

6月24日は、高知で用務がありました。午前中は、越知町役場で会議があり、午後は高知県庁で2件、小さな会議がありました。

会議の中でいろいろな話題が出ましたが、「高知らしさって、なんだろう?」という話が結果的には中心だったような気がします。
例えば、高知の水産業は、多品種少量が特徴だそうで、いろいろな種類の水産物が少量ずつ獲れるということです。でも、県は、水産物の輸出促進を新たな政策として掲げているので、輸出の成果をあげなければならないのです。とすれば、量でかせげないので、個々の水産物の価値を上げるしかありません。
高知らしさを生かすような形での戦略を立てなければならないのに、まずは輸出ありき、成果を出せ、といわれた職員たちのちょっと困った様子がうかがえました。チャレンジ!ではあるのですが。
高知らしさと言えば、今日、お昼を食べたひろめ市場も挙げられるのではないでしょうか。フードコートのように、真ん中に食卓が置かれ、それを囲むように色々な飲食店があって、昼間からアルコールを楽しんでいる、その大らかで楽しい雰囲気がまさに「高知らしさ」ではないか、と思ったのです。
昼食でいただいたのは、鰹のたたき定食。ここのは、醤油ダレではなく、塩たたき。鰹のたたきも高知らしさを表しています。
「高知で一番うまいたたきを食べさせる店」と自分で看板に書いてしまうところも高知らしさかもしれません。でも、ここのは本当に美味かったのです。以前食べた、有名高級割烹のたたきよりも美味しかったのです。
相席になっても、笑顔で応じてくださる方々。ひろめ市場は、飾り気のない、フツーの庶民的な雰囲気にあふれた、人間味のある場所でした。きっと、昼からずっと夜までここで呑んだくれる人たちもいて、そんな様子を店の人たちが温かく見守ってくれているような、そんな場所のような気がしました。
人の温かさ、という意味では、高知龍馬空港で見た電話もそうでした。
これは鏡ではありません。セキュリティチェックを終えて出発ロビーに入った方と、見送りに来た方とが、ガラス越しに話のできる電話なのです。
ちょうど、おじいちゃん、おばあちゃん、小さい子供たちが、これから飛行機に乗る若い男女二人を見送りに来ていました。パパとママなのか、おじちゃんとおばちゃんなのか、それはわかりませんが、電話をとって、名残惜しそうにバイバイを繰り返していたのが、とても微笑ましい光景でした。
些細なことですが、この電話も、何となく高知らしさを表しているなあ、と思いました。

和歌山を発ち、祭ずしを食べながら高知へ

昨日は福島へ日帰り出張、今日は、朝、雨の東京を発ち、和歌山県庁で会議に出て、終了後は、新大阪、岡山経由で、高知へたどり着きました。和歌山からはくろしお、のぞみ、南風を乗り継いで、5時間の旅でした。

この旅程で、今回、密かに楽しみにしていたのが、岡山の祭ずしです。

昔、山陽新幹線に乗ったときに食べて以来、ずっと忘れられなかった祭ずし。その後、岡山駅を通るたびに探すのですが、あるときは売り切れで買えませんでした。今回こそ、と思って、岡山駅の乗り換え10分の間に、駅弁売り場へ。

えっ、ない。売ってない。でも少し歩くと、別の立派なお弁当売り場があり、そこにありましたが・・・。名前が「桃太郎の祭ずし」。たしか「桃太郎の」はなかったような気が。ニセモノ、類似品? それ以外の祭ずしが見当たらないので、とりあえず購入しました。値段は1000円。「箸入り」というのも面白い表現です。

なかを開けると、ピンク色の桃が・・・。

高知行きの特急「南風21号」は岡山駅を発車。在来線のせいか、ずいぶんと揺れます。そして、席のトレイが平らでないので、揺れるたびに動いてずり落ちてきます。

うーん、写真がなかなか撮れないよー。というか、写真を撮っている間に、祭ずしがトレイから床へ落ちてしまわないか、と気になってきました。ともかく、揺れる車内と斜めのトレイの上の祭ずしを何とか写真に撮ることができました。

何となくですが、昔のよりも密度が薄くなったような気がするのは気のせいでしょうか。もっと色々詰まっていたような記憶があるのですが。でも、味は、あの覚えている祭ずしの味でした。うまい!

瀬戸大橋を渡る前に祭ずしを食べ終えてしまい、夜7時だというのにまだ日の落ちない瀬戸内海を眺めながら、高知へ向かったのでした。

<余談>
祭ずしに関連した以下のページを見ると、昔からこの包装だったようです。でも、私が食べたのは、塗り箱入りのほうだったかもしれません。

岡山駅の祭ずし

椏久里のケーキとお気に入りの蕎麦屋

6月22日、福島市に日帰り出張しました。

肝心の福島市役所での会議は午前中で終わり、昼食を摂ってから、知人と椏久里(あぐり)でコーヒーを飲み、活動拠点とする予定の古民家の様子を見に行って、実家で夕食を食べてから、新幹線で東京へ戻ってきました。

椏久里でコーヒーを飲みながら、知人から「福島に活動拠点を作ってやるといったのに、全然福島に来ないじゃないの!」と追及され、「言わなきゃよかったのにね」などと諭され、今週末に強制的にまた福島へ来る予定が入ってしまいました。

インドネシア関連案件が11月ぐらいまであり、物理的になかなか福島に腰を落ち着けられない後ろめたさを感じつつ、でもマイペースで進めていくしかないよね、なんとかなっていくものさ、とちょっと呑気に構えてしまう今日この頃です。

椏久里の今月のケーキを2個も食べ、2つともとても美味しかったので、写真だけでも載せておきます。もちろん、椏久里の美由紀さんに聞いて、それぞれのケーキに合うコーヒーを勧めてもらい、満喫しました。

別にケーキを売り物にしている店ではないけれど、とにかく美味しいのです。ヨーロッパ、とくにウィーンのケーキ菓子に造詣が深く、研究熱心なのです。世界中のコーヒーから選りすぐったコーヒーはもちろん、ケーキもお忘れなく。

椏久里の店主・市澤秀耕さんの記事がありました。以下のリンクをご覧ください。

 (リレーおぴにおん)カフェより:3
  語り合い、苦しみ分かちあう 市澤秀耕さん

椏久里に行く前に昼食をとったのは、手打ち蕎麦屋のよしなり。福島市のパセオ通りにあるこじんまりとした店なのですが、店内の雰囲気がとてもよくて、居心地が抜群に良いのです。軽めのジャズ系の音楽が流れるなか、茹で加減が素晴らしい蕎麦が出てきます。

今日食べたのは、Cセット。ミニせいろ+ミニ天丼です。

店員さんの対応も気持ちがよく、今回が2回めですが、すっかり気に入ってしまいました。

昔ながらの蕎麦屋といえば、福島市内では喜多屋、喜多八、峰亀など、私が子どもの頃からある老舗の有名店があります。その後、他に何軒も新しい蕎麦屋ができています。

でも、よしなりは何といっても居心地が本当によくて、私の福島での大事な場所になるかもしれません。

ガンビールとの出会い(3)

パッパク・バラット県を訪れた後、ガンビールに関する情報ファイル(インドネシア語)が送られてきました。送り主は、同県でガンビール加工を促し、加工品の販売を始めた県営企業の幹部です。

それによると、ガンビールは標高200〜800メートルで育ち、気温26〜28度、湿度70〜85%、土中のpHが4.8〜5.5、年降水量2,500〜3,000ミリの赤道付近で育つとされ、インドネシアのスマトラ島には適地があるようです。

ガンビールの加工品としては、まず、ガンビール茶です。ガンビールの葉を数日間天日干しし、それを細かく砕いて、ティーバッグに入れたお茶です。地元の皆さんと一緒にいただきました。カテキンは熱いうちに摂取しないと効果がない、と言われて、アツアツを飲みましたが、甘い。砂糖が入っていました。

機械がちょうど修理中で、手作業でティーバッグ詰めをしていました。

ガンビール茶のほかに、ガンビールでインクを試作していました。ガンビール製のインクを次の選挙の際に、二重投票禁止の印用のインクとして使ってもらうよう、北スマトラ州選挙委員会に働きかけているということでした。

そして、できれば、プリンターのインクにも使えないか、と思っているようです。プリンター製造メーカーにかけあってみたらどうか、と勧めてみました。

ほかにも、健康に良いガンビールのエキス抽出後の葉を発酵させて飼料にし、牛に食べさせて、牛糞を有機肥料にして、ガンビールや他の農作物に使う、というアイディアもあるようです。ガンビール牛の肉も、何か健康に良さそうな気がします。

日本ではあまり知られていないガンビールですが、パッパク・バラット県でいろんなことを知りました。彼らがガンビールを軸にした地域振興を考えるのは自然なことに思えるほどでした。

ガンビールに興味のある方や企業があれば、是非、ご連絡ください。ガンビールに関する情報ファイル(インドネシア語)も英訳する予定です。場合によっては、私がパッパク・バラット県までご案内してもかまいません。

なお、余談ですが、ジャカルタのガンビールの由来は、このガンビールとは違うようです。ウィキペディアによると、ジャカルタのガンビールは、オランダ人の名前から取られたもののようです。

ガンビールとの出会い(2)

ガンビールは、葉からエキスを抽出し、水分を飛ばして固形化したものをインドへ輸出しているようです。固形化したガンビールは、摂氏50度ぐらいになると容易に液体化してしまうため、扱いがなかなか難しいそうです。

パッパク・バラット県は標高1000〜1500メートルぐらいの高原地帯にあり、平地がほとんどなく、傾斜地が多い地形です。風が吹いていて、ガンビールを乾燥させるには適した気候のようです。

まず、ガンビールの葉を煮た後、葉っぱを取り除きます。

エキスを抽出した後のガンビールの葉。

ガンビールのエキスを抽出している様子を動画に撮りました。

抽出されたエキス。

抽出されたエキスは布袋に入れて放置し、水分を切ります。

布袋から中身を取り出すと・・・。

これを天日干しします。

雨がけっこう降るところなので、雨よけのビニールがかけられています。

これが輸出される前のガンビール。なんと、カテキンの塊なのだそうです。

作業場は上写真のような、質素な小屋がけでした。パッパク・バラット県では、こんなシンプルなガンビール加工場が農家レベルでいくつもあるとのことです。

日本から技術を入れて、このガンビール加工の効率を上げたい。そして、そのガンビールを日本へ直接輸出したい。案内してくださった県農業局の皆さんは、そう熱く語ってくれました。

ガンビールとの出会い(1)

先月、出張先のインドネシアでガンビールに出会う機会がありました。

ガンビール(Gambir)といえば、ジャカルタ在住の方なら長距離列車のターミナル駅であるガンビール駅を思いつきますよね。でも、今回出会った場所は、ジャカルタではなく、北スマトラ州のパッパク・バラット県(Pakpak Bharat)という、ちょっと聞きなれない地名のところです。

パッパク・バラット県は、北スマトラ州の州都メダンからトバ湖方面へ車で約6時間、山間部のサラックというところが県都です。人口は5万人以下で、バタック族の中のパッパク族というサブ種族グループの方々がダイリ県から分立してできた県です。

ガンビールとは、木になる葉っぱでした。

この葉っぱ、実は薬の原料として、日本にも輸入されています。ただし、インド経由で。でも、世界のガンビール生産の8割が実はインドネシアなのです。

しかも、インドネシアで獲れるところは、スマトラ島の一部に限られます。最も生産が多いのは西スマトラ州のリマプルコタ県です。この北スマトラ州のパッパク・バラット県も近年とくに力を入れており、県政府は100万本のガンビールノキを植えると息巻いています。

薬の原料としてのガンビールは、日本では阿仙薬として知られ、正露丸や仁丹などにも含まれているそうです。そう、知らないところで、我々はガンビールにお世話になっているのかもしれません。

このガンビールの葉を使ったお茶が作られています。ティーバッグが25個入って1万ルピア、他の一般的な大量生産のティーバッグ茶よりもやや高い値段です。今は口コミでメダンやジャカルタで細々と売られているそうです。

このガンビール茶を、このところしばらく飲んでいます。ガンビールと関係あるのかどうかは知りませんが、ずっと悩まされていたアトピーがずいぶんと良くなり、汗をかいたときの肌のかゆみも和らいだ気がします。

ガンビールは体にいい、とパッパク・バラット県の方々に言われました。腹痛の時に飲むといいとか。正露丸にも使われているなら、なるほどと思いましたが。

どんなふうにガンビールを加工するのか。次回はその様子をお知らせすることにします。

今日は珍しく一緒に記念日

私たちが家族となって、今日が二十何回目かの記念日でした。

振り返ってみると、この日に一緒にいたことがほとんどありませんでした。たいていの場合、私はインドネシアにいたり、国内出張に出かけていたり・・・。そういえば、お互いの誕生日も一緒にいたことはあまりなかったような気がします。

今日は、たまたま、久々に一緒にいるので、娘と、東京で学校に通っている姪も誘って、4人でロシア料理を食べに行ってきました。

銀座にある渋谷ロゴスキー本店。大昔、この店がまだ渋谷にあった頃、何度か家族で行ったことがあります。娘はここの肉の串焼きが大好きで、今日も堪能していました。

これは「毛皮のコートを着たニシン」というサラダ。ミルフィーユ風に重ねられ、一番上にビーツが乗り、一番下にニシンの酢漬けが隠れていました。4人で分けましたが、ロシアではこれを一人で食べてしまうのが普通なのだとか。

串焼きは、豚と羊の2種類。昔と同様、美味しくいただきました。

もちろん、ボルシチも。満足の味でした。

東京で慣れない独り暮らしの姪も、大学でロシア語を勉強し始めた娘も、じっくりたくさん食べられて満足の様子。我々も和やかで楽しいひと時を過ごすことができました。

さて、来年の記念日は一緒に過ごせるのかどうか。今のところはまだ分かりませんが、こうやって一年一年が積み重なっていくのだなあと思いつつ、日々のあたりまえの尊さを大事にしていきたいと改めて思いました。

これからもよろしくお願いします、という気持ちを込めて。

かけ違えたボタン

最初にかけ違えたボタンを後でかけ直すのは、難しい・・・ということを感じました。

ボタンをかけ違えたことを最後まで分からないままのケースも少なくないのかもしれません。でも、おそらく、かけ違えたことを知っていても知らないふりをしたり、かけ違えてしまったことをどう繕うかに全精力を傾けてしまう場合も多いような気がします。

何のためにそうするのでしょうか。

メンツ、見栄、保身。「真実は何か」「何が大事なのか」ということよりも、自分を、組織を、どうやって守るか、ということのほうが重要だと思い込んでしまうのです。

ときには、嘘をついたり、だましたり、ごまかしたりしてでも、自分や組織を守るために懸命になっているのではないか。そんな気がします。

この社会のなかで、そうしたことに費やされるエネルギーはどれほどのものでしょうか。それをもっと建設的な議論に使うならば、世の中はもっともっと良くなっていくのではないか、と思わずにいられません。

ちょっと優しい気持ちで、メンツや見栄や保身のために必死になっている人を「かわいそうだから助けてあげよう」とすると、私自身もまた、無駄なエネルギーを費やして、余計な仕事をやらなければならない羽目になります。

久々に午後11時過ぎまで、ノンストップで仕事をしてしまいました。

5月に行った、インドネシアのロンボク島、リンジャニ山のカルデラ内にあるセンバルン地区で見たあの光景(上写真)が、ふっと目に浮かんできました。

【インドネシア政経ウォッチ】第150回 内閣改造で政権安定へ(最終回)(2016年4月14日)

ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領の周辺では、 再び内閣改造の噂が流れている。更迭がささやかれる大臣は何人もいるが、可能性が最も高いのがマルワン村落・途上地域開発・移住相である。

村落・途上地域開発・移住相のポストは、これまで民族覚醒党の政治家が座り続けており、同党の既得権 益と化してきた。大統領周辺によると、同省の年予算消化率が約25%と他省に比べて著しく悪く、現政権が力を入れる村落開発に関して期待通りの成果を上げていない。

一方で、事業の入札にあたっては20~30%分をリベートとして上積みすることが求められているとされ、大臣の弟を含む省外の近親者たちが省の事業を事実上、牛耳っていることに対して省内から強い批判が起こり、大統領宛てに大臣罷免要求の嘆願書が出される事態となった。

更迭の噂が出ているのはこのほか、リザル・ラムリ調整相(海事)とスディルマン・サイド・エネルギー・ 鉱物資源相である。この2人は、マルク州にあるマセ ラ天然ガス田開発をめぐって陸上方式か海上方式かで激しい対立を起こした。大統領はバランスをとって両者を更迭させたい意向のようだが難しい。リザル調整相の背後にはルフット・パンジャイタン調整相(政治・ 治安)が、スディルマン・エネ鉱相の後ろにはユスフ・ カラ副大統領がいる。

ジョナン運輸相にも更迭の噂がある。ジャカルタ~バンドン間の高速鉄道での中国案の採用に消極的だっただけでなく、1月の高速鉄道着工式に欠席したことから大統領の批判を受けているようだ。

こうした動きを見ると、ジョコウィ大統領に対する ルフット調整相やリニ国営企業相の立場が以前より強まってきたと言える。他方、両者と敵対する与党第1党の闘争民主党は影響力を低下させており、同党のメガワティ党首にはむしろ焦りの気配すらうかがえる。

内閣改造をちらつかせながら野党を取り込み、徐々に政権基盤を安定化させるジョコウィ大統領。なかなかしたたかである。

 

(2016年4月14日執筆)

 

【インドネシア政経ウォッチ】第149回 テロ対策の光と陰(2016年3月25日)

1月14日に首都ジャカルタの中心部でテロ事件が起こってから、2カ月余りが過ぎた。社会は平穏を取り戻したかに見えるが、その裏で、テロ対策警察特殊部隊(Densus 88)がテロリスト掃討作戦を強化している。

その標的の一つは、サントソ・グループである。サントソは、国内で唯一、過激派組織「イスラム国」(IS)に忠誠を誓う「東インドネシア・ムジャヒディン」という名の組織を率い、2012 年12 月から中スラウェシ州ポソ県の山岳地帯グヌン・ビルでゲリラ活動を行っている。

今年3月、警察は軍と合同で2,200人を投入し、サントソの逮捕を目的とした「ティノンバラ作戦」を実行した。この作戦で爆弾などの証拠品を押収したほか、中国籍のウィグル族の男性2名が射殺された。彼らは15年に合流したとみられ、ISへの共鳴の広範な国際化を示唆する。

世界で最大のイスラム人口を抱えるインドネシアはISを敵視し、テロリスト・ネットワーク細胞の摘発などの成果を上げてきた。Densus 88 の貢献度は極めて高い。しかし、その一方で、Densus 88 のテロ対策が行き過ぎであるとの批判も根強い。

3月8日、中ジャワ州クラトン県で、モスクで夕方 の礼拝をしていたシヨノ氏がDensus 88 に拘束された。 彼はテロ組織ジュマア・イスラミア(JI)のメンバ ーで、火器製造の役目を果たしたとの容疑だった。当初は従順だったが、その後、急に反抗したため、3月 11 日、Densus 88 のメンバーが正当防衛として彼を殺 害した。

シヨノ氏の容疑は検証されず、誤認だった可能性が あるとして、中ジャワ州の学生らが抗議行動を起こした。国家人権委員会や国会もシヨノ氏殺害事件に注目 し、Densus 88 による行き過ぎを非難するとともに、人権侵害の可能性を危惧する声明を発した。警察は、シヨノ氏の扱いに不備があった可能性を示唆しつつも、テロ容疑者に対する処置で人権侵害ではないとの立場 を示している。

Densus 88 を軸とするテロ対策は不可欠だが、一歩間違うと、それが逆にISへの共感を強めてしまう可能性もあることに留意する必要がある。

 

(2016年3月25日執筆)

 

【インドネシア政経ウォッチ】第148回 閣僚間で罵り合い、でも政権は安定(2016年3月11日)

このところ、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)政権内部での閣内不一致が表面化している。とくに、リザル調整相(海事)とスディルマン・エネルギー・鉱物資源相との対立はその典型である。

両大臣は、マルク州南部のマセラ鉱区でのガス田開発をめぐって対立する。日本の国際石油開発帝石(INPEX)が主導する同鉱区のガス田開発は、深海からのガス抽出という技術的理由により、前政権下で海上にプラントを浮かべる洋上方式が提案され、了承された。

その後、開発側から生産量拡大に伴う修正案が出されると、現政権下で議論が紛糾し始めた。リザル調整相が陸上方式を強力に主張したのである。リザル氏側もスディルマン氏側も事前調査を行い、互いに自案の優位性を主張した。このため、政府は第三者機関に依頼して再調査を行い、洋上方式が優位であるとの結論が出された。

しかし、ジョコウィ大統領はそこで決断できなかった。修正案を新たな利権獲得機会と捉えた人々が動き出していた。マルク州内では、「洋上方式なら利益を全部外資に取られ、地元に何の恩恵もない」という話が住民レベルに広まっていた。陸上設備の設置場所をめぐる県政府間の激しい対立や値上がり期待の土地の買い占めも起こり、政治対立や住民間抗争などの恐れが出てきた。

リザル氏は、「スディルマン・エネ鉱相は海事担当調整相の管轄下にある」として自案を譲らず、閣議ではスディルマン氏と罵り合う場面すらあった。スディルマン氏は、今回の対立の裏で事業への新規参入を狙う企業の存在さえ示唆した。結局、ジョコウィ大統領はさらなる調査を要請して決定を先送りし、事業開始が予定よりも遅れる可能性が高くなった。

もっとも、こうした閣内不一致や大統領の指導力の欠如が露呈しても、現政権が不安定化する様子はうかがえない。これまでに野党勢力は切り崩されて弱体化し、現大統領に対抗する政治家もまだ現れていないためである。現政権の奇妙な安定はしばらく続くと見られる。

 

(2016年3月11日執筆)

 

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