十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

ジャパン・レール・パスを買えなかった友人

今日は、1月にマレーシアのマラッカでお世話になったマレーシア人の友人S氏と東京で再会しました。S氏は、日本各地にいる友人を訪ねるため、1カ月の予定で日本に滞在しています。

S氏、S氏を私にご紹介頂いたY氏、S氏の部下、の4人で、桜を眺めながら南池袋公園のカフェで歓談しました。やや風は強いものの、温かかったので、「外で」と勧めたら、「肌寒い」といわれ、屋内で過ごしました。

しばらくして、S氏が「ジャパン・レール・パスを日本で買えるらしいから、買いに行きたい」と言うので、その場所のある新宿駅へ一緒に行ってみることにしました。

しかし、彼は結局、ジャパン・レール・パスを買うことができませんでした。

ジャパン・レール・パスは、外国からの旅行者が日本を旅行する際にJR線を一定期間乗り降りできるパスです。7日間の普通車用で33,000円、のぞみなどを除く低速新幹線を含む鉄道に乗ることができます。

通常は、外国で事前に引換証を買い求め、来日した際にJRの窓口でジャパン・レール・パスと引き換えることになっていますが、東京オリンピックを3年後に控え、外国人旅行客の増加を見込んで、JRグループは、2017年3月8日から2018年3月31日まで、ジャパン・レール・パスを試験的に日本国内でも販売することにしました。

詳細は、以下のサイト(PDF)をご覧ください。

「ジャパン・レール・パス」の日本国内での試験販売及びご利用資格の一部変更について

このサイトにも説明がありますが、2017年4月1日以降、ジャパン・レール・パスは海外在住の日本人向けの引換証販売を終了しました。これに対する批判が、ネット上に多数見られます。

さて、マレーシア人の友人S氏らと新宿駅のびゅうプラザに出向き、ジャパン・レール・パスを買おうとしたのですが・・・。係員に断られました。

ジャパン・レール・パスは、海外から「短期滞在」(3カ月)の入国資格により日本を訪れる、日本国以外の旅券のみを持つ外国人旅行者に対して販売されるものでした。

S氏は、5年毎更新の日本の永住権を持っているのでした。彼は30年近くにわたって、日本の複数の大学でマレーシア語やマレーシア文化を教えてきた人で、その間に取得したものでした。数年前に、マレーシアへ帰国し、現在は、日本に居住しておらず、マレーシアで活動を行っています。

日本に住む権利を持っていても、実際には住んでおらず、久々に日本に来て、昔からお世話になった方々を訪問しようと思っていた矢先に、ジャパン・レール・パスが買えないということを知って、ちょっとびっくりした様子でした。

それでも、「マレーシアで引換証を買ってこなくてよかった。マレーシアでは資格などよくわからずに引換証を売られたことだろう。日本に着いてから引換証が無効と言われるよりよかった」と、自分を慰めるようにつぶやいていました。

彼のような、日本と深く関わり、日本を愛し、マレーシアと日本との関係深化に多大な貢献をしてきた方でも、たとえ実際に日本に住んでいなくとも、永住権があるという理由で、久々の日本旅行でジャパン・レール・パスを使うことはできないのでした。

極言すれば、ジャパン・レール・パスという特権を使ってもらいたい、日本へ来て欲しい旅行者とは、滞在期間3カ月以内の外国人旅行者なのですね。1年ぐらいかけてじっくり日本を旅してまわりたいとか、日本と深く交わってしまって日本を第二の祖国のように思い永住権を得てしまったような人は、たとえ日本に居住していないとしても、ジャパン・レール・パスを使って欲しい、好ましい外国人旅行者とは見なされない、ということなのかもしれません。

これもまた、外国人にたくさん来て欲しい、と言っている日本の観光関連の一コマです。

日本と長く付き合ってきた彼には、決して好ましいこととは思いませんが、そうした事情を理解してもらうことはできました。こんなことで、日本が嫌いになるようなS氏ではないと思いますが、もし読者の皆さんが彼の立場だったら、どう思うか、ちょっと思いをいたしてみてください。

彼には、広島や福岡の知り合いを訪問するために、成田発の格安航空会社のチケットを購入することを勧めました。

日本にとって必要なことは、外国人観光客の数を増やすことだけでなく、日本を深く理解し、日本との間の架け橋になるような方々をもっと大事にすることだと思います。

彼らのおかげで、どんなに日本のイメージが好意的に伝えられているか、日本に対する理解がどれほど深くなっているか、想像すればわかるはずです。市民レベルでも、世界中に日本の味方を増やしていくことが日本の安全保障にもつながると思うのです。

その意味で、決まりとはいえ、S氏がジャパン・レール・パスを買えなかったことは、残念なことでした。

企業メセナ協議会のイベントに出席してみた

先週は、公益社団法人企業メセナ協議会の主催する2つのイベントに出席しました。友人であるインドネシアの都市研究専門家のマルコ・クスマウィジャヤ氏が出ているので、彼に会いに行くというのも一つの目的でした。

1つ目は1月24日、「文化拠点と地域・コミュニティ:ケーススタディ&ワークショップ」というイベント。出席者が3つのグループに分かれて議論し、「過疎・高齢化の進んだ地方小都市で元庄屋の古民家を生かしてどのようなコミュニティ再生が可能か」というお題で、グループごとにアイディアを出し合う、というワークショップでした。

議論中に、マレーシアの都市コミュニティ開発機関シンクシティのディレクターであるダンカン・ケンプ氏と前述のマルコ氏がグループを回ってアドバイスを行い、議論終了後、各グループから出されたアイディアに対して2人からコメントをもらう、というものでした。

私の属したグループは5人と少人数で、ゆっくり話し合いをすることができました。メンバーは文化・芸術及びその振興活動に関わっている方々でしたが、驚いたのは、全員が地域・コミュニティの再生・活性化のための芸術・文化の役割について真剣に考えていらしたことでした。

よそ者が芸術や文化を外から持ち込んでも一過性のものにしかならない。それが何らかの持続的な変化を地域・コミュニティに起こしていくためには、何が必要になるのだろうか。現実の話として、地元の方々は自分達に負担がかからない限りにおいて、よそ者が文化イベントをやることは拒まないけれども、積極的によそ者の行事に関わるわけでもないのです。

今行われているビエンナーレやトリエンナーレは、それをやり続けている間に何か新しいものが生まれ、地元の方々にもその必要性が理解されて、持続性がいずれ確保されていくだろう、という根拠なき希望のもとに行われている、という指摘も出ました。

それじゃあどうするのか、と議論していてもなかなかいいアイディアは出てきません。そこで、原点に戻って、まず地元の人の話を丁寧に聞くことから始めるしかない。その話を聞いている中からその人が地域で生きてきた様々な知恵や生きざまや特技などが見えてくる。

その地元の人自身が気づかなかったり、忘れてしまっていたりしたものも、話を聞く中でいろいろと引き出されてくるかもしれない。そうやって、その人の生きてきた人生を敬い、肯定しながら、その人の持っている大事なものをもう一度認識する。そのようなプロセスを経ると、地元の人たち一人一人が、実は広い意味でのアーティストになるのではないか。

よそ者がアートを持ち込んで何かやるのもいいけれども、そこにいる地元の人たち一人一人が「アーティスト」であることを発見し、それを地域・コミュニティの中で生かしていくことが、アートが地域に根ざすという意味で有益なのではないか。

私のグループでは、そんな議論をゆるゆると続けていました。マルコ氏は「再発見」という言葉を使い、アートが地域の中で何かを始めるときに決定的に重要である、とコメントしてくれました。

私自身は、故郷の福島市で、古民家を生かした場づくりに関わることを考えており、このワークショップのお題に違和感は感じませんでした。今回のメンバーは、わずか1時間の議論では話し足りない、もっとずっと話をしていたいね、と言い合いました。素敵なメンバーに恵まれて、とても気持ちのよいワークショップでした。

2つ目は、1月26日の東京フォーラム「芸術・文化を振興する企業理念とは:インドネシア・マレーシア企業における展開に向けて」というシンポジウムへの出席でした。

このシンポジウムには、前述の2人に加えて、マレーシアからパフォーマンスアート協議会のアズミー氏、インドネシアから芸術振興財団代表のリンダさん、フィランソロフィー・インドネシアのレスマナ氏が出席し、各国における企業と芸術活動との関係について、話し合いを行いました。

それぞれの国の状況紹介がありましたが、やはり、観客動員数や認知回数といった短期的な成果を求める企業側と、芸術活動の社会への受容を長い目で見たい芸術家側との認識ギャップがなかなか埋まらず、日本の一部民間企業が行ってきたような長期的な企業メセナの視点がまだ十分に育っていない、という評価でした。

そういう日本にしても、かつての高度成長期とは逆の状況の中で、これまでのような形で民間企業が芸術振興にじっくり関わっていける余裕が少なくなってきているようにも見えます。これからメセナを高めていきたいマレーシアやインドネシアと、企業メセナをより成熟した社会の中で定着させたい日本との間で、どのような有意義な相互学習関係が生まれてくるのか、個人的にはなかなか興味深く聴かせてもらいました。

日本の芸術家のほとんどは民間企業の支援によって育てられた、とも聞きました。少なくともインドネシアでは、まだそのような状況にはありません。しかし、自分たちで何とか資金を工面し、小規模ながらコツコツと芸術活動を続けている小集団が全国各地に存在しており、その中には、目を見張るような技術を持った者たちも存在します。

地方政府は行事などの折に彼らを招いてパフォーマンスをさせたりしますが、あくまでも行事に彩りを添えるものであり、パフォーマンス自体を芸術的に評価して深めさせようという意識はまだ低いと言わざるをえません。

それでも、民間企業が少額ながら寄付をし、それらをかき集めて、地方政府からの支援なしで実施するようなイベントも現れました。その一つが、私の仲間がインドネシア・マカッサルで毎年開催しているマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)です。今年も5月17〜20日に開催されます。このMIWFでは、実は私も、5年前から、インドネシア東部の若手有望作家を発掘するセッションのスポンサーを個人的に続けています。

今回のイベントは、東京オリンピックを前に、マレーシアやインドネシアなどの文化活動の勢いを日本へも取り込み、日本の地域をアートで元気にしたい、それを企業が支援していけるようにする、という目的があると感じました。

私としては、その対象を日本だけでなく、外国と結びつけることで、日本の地域だけでなく外国の地域でも、新たなアートが生まれ、それがきっかけとなって日本のローカルも外国のローカルも一緒に活性化し、再生していくという動きが生まれる、という方向性もぜひ考えてほしいと思いました。

そう、もっともっと、国境を越えた、地域に根ざしたアートの結合と新たなアートの様々な創造が起こってほしいし、起こしてみたい、と思いました。

今回マレーシアで食べたもの

昨日1月18日、クアラルンプールから東京へ戻りました。今回、マレーシアで食べたものは、次のようなものでした。

まずは、1月12日、マラッカの昼食で食べたカレーセット。マラッカの有名店Selvamにて。

バナナの葉の上にご飯、アチャール、野菜カレー、パパドなどが載せられ、チキンカレー、マトンカレー、豆カレー(ダル)から選んだ1つをご飯の上にかけてもらいます。合わせて、イカのサンバル煮、揚げ魚、ゆで卵カレー、マトンカレーを追加でチョイス。

飲み物はマンゴーラッシーを注文、食べた分だけ支払う仕組みです。食べ終えたら、バナナの葉を半分に畳みます。

インドのターリーとインドネシアのパダン料理のミックス、のような形に思えました。

次は、1月16日、マカッサルからクアラルンプールに夜着いて、11時半頃に食べたマトン・ブリヤニ。

長粒米のブリヤニにキャベツの炒め物とゆで卵が添えられ、その上から豪快にマトン・カレーがかけられた一品。これで11.5リンギ。ご飯の上にゆで卵が載っているのは、マカッサルの定番ナシ・チャンプルを思い出させます。
1月17日のランチは、NUセントラルのDolly Dimsum。この店は、ハラールの飲茶レストランで、ランチをご一緒した友人(イスラム教徒の女性)は前から興味があったとのこと。でも、インドネシアでは、ショッピングモールに入っている中華系レストランは、すでにほとんどがハラールなので、ちょっとびっくりしました。マレーシアの中華系レストランは、まだイスラム教徒を客としてあまり認知していない様子がうかがえます。
そして、その彼女が持ってきたモナカアイスも賞味しました。

ソルティーキャラメル味とイチゴミルク味。皮がサクサクしていて、なかなかの味でした。保冷バッグに入れてこられたのですが、食後に食べたせいか、中身が溶け始めていたのがちょっと残念。でも、このモナカアイス、クアラルンプールではけっこう受け入れられるのではないでしょうか。現在、ハラール認証申請中で、将来はフランチャイズを志向しています。インドネシアやシンガポールなどへも広がるといいな、と思います。

1月17日の夕食は、友人と一緒に新峰肉骨茶(Sun Fong Bak Kut Teh)。クアラルンプール在住者ならきっと必ず知っている、1971年創業の有名店です。今回が二度目ですが、しっかりと堪能しました。

まずは、ニラのような青菜ともやしの炒め物。シャキシャキ感がたまりません。

次は、オリジナル肉骨茶。レタスなどが入っていない、肉骨茶のなかの肉骨茶という感じの美味しさ。

ドライ肉骨茶というのも注文しました。これもなかなかいけますが、やはり、薬草などが入ったスープと一緒の肉骨茶のほうが好みです。

インドネシア・マカッサルの名物料理に、骨つき牛肉を煮込んだコンロというのがあります。通常はスープ・コンロとして汁付きですが、汁なしのコンロ・バカールがジャカルタで発明され、マカッサルに逆輸入されるということが起こりました。前々から、このコンロと肉骨茶とは、牛と豚という肉の違いはあれ、何らかの関係があるのではないかと考えています。

新峰肉骨茶での最後の締めは、豚肉ビーフン。この豚肉が三枚バラ肉で、柔らかくてとろけそう。病みつきになりそうな美味しさでした。

新峰肉骨茶を出てすぐのところに、ドリアン屋の屋台が出ていました。

猫山王というドリアンを食べさせる屋台です。この猫山王ドリアン、後で知ったのですが、黄色みを帯びて味が濃く、ドリアンの中でも最も美味しい部類のドリアンとのこと。

たしかに、ドリアンとしては小ぶりなのですが、肉厚で、味がとても濃厚でした。うーん、至福のとき。でも、1キロ60リンギと高く、これは1.5キロだったので90リンギ。結局、80リンギにまけさせて賞味しました。

クアラルンプール最後は、1月18日、KLIA2のフードコートで、チキン土鍋飯(Claypot Chicken Rice)を食べました。

タマゴが載っていて、熱々をタレ付きご飯と混ぜ混ぜして食べる、この幸せな気分。おこげもまた、カリカリしていい感じでした。

食べることで、自分が楽しく、元気になれるような気がします。今回も、「どうだ、私を食べてみよ」と言われているような勢いのある食べものたちと出会えて、元気に前向きに一層慣れたような気がします。

また、食べにきます!!

1月12日、マラッカを歩く(3ー了)

いろんな博物館があるものだなあと思いながら、橋を渡って、マラッカの古い街を歩きました。

橋を渡ったところに、街の雰囲気を壊さないように配慮したと思われるハードロック・カフェがありました。

さらに進むと、鄭和マラッカ来訪611周年を祝う垂れ幕が掲げられ、その上部にマレーシアと中国の国旗が描かれていました。

ジョンカー・ウォークと名付けられた街歩きをしているわけですが、古い街並みが続きます。その多くは、飲食店や商店として活用されています。

通りに面した建物の間口は狭く、鰻の寝床のように奥が深い、華人系の建物の特徴を表しています。

福建会館がありました。この種の会館も多数見られます。

しばらく歩くと、マラッカで最も古いモスクがありました。Masjid Kampung Klingという名前で、1748年にスマトラ式建築で建てられました。ヒンドゥー寺院のような尖塔、床に敷かれた西洋風のタイル、西洋風シャンデリアのようなランプ、インド風あるいは中国風の壁の彫刻など、モスクとはいえ、他からの様々な影響を受けた様子がうかがえます。

その隣には、ヒンドゥー寺院がありました。Sri Poyatha Venayagar Moorthi寺院で、1781年に建てられました。門が閉まっており、残念ながら中には入れませんでした。

さらにその隣は、華人系の増瀧会館で、ここは、イスラム、ヒンドゥー、中国仏教の3つが隣同士で並んでいるところなのでした。

そこから西へ少し歩くと、マラッカ、いや、おそらくマレーシア最古の華人廟である青雲亭(Cheng Hoon Teng)があります。1673年、中国人が初めてマラッカへ入植した頃に建てられた廟で、観音像を中心に道教、儒教、中国仏教が平等な位置に置かれています。

そこからすぐの場所には、伝統的な高床式住居があり、人が住んだまま保存されていました。高床式といっても、南スラウェシのブギス族のものに比べると、地面からの距離は随分と少ないです。

高床式住居から少し奥に入ったところに、Syamsudin Al-Sumatraniの墓があります。彼は、Sultan Iskandar Muda治世下のアチェ王国の著名な学者・著述家でした。彼は、ポルトガルの占領されたマラッカを解放するためアチェから派兵された軍隊に加わり、マラッカで戦死し、ここに葬られているということでした。

今回は、わずか3〜4時間という時間の関係で、マラッカの古い街歩きもハイライトのみでした。次回来るときは、他の道や路地裏をゆっくりと探検したいところです。でも、昼間歩くのは暑くて、かなり堪えそうな予感がします。

街歩きの最後は、マラッカで有名な庶民的インド料理店Selvamでのランチでした。テーブルに敷かれたバナナの葉の上に、ご飯やおかずが載せられ、追加で他のカレーや揚げ魚などを注文します。ご飯とカレーは「お替りいかがですか」と何度も聞かれます。食事が終わったら、バナナの葉を半分に折ります。うーん、満腹、美味しかった!

1月12日、マラッカを歩く(2)

パウル教会跡の丘を下りて門を出ると、2004年にできたマラッカ独立花公園(Taman Bunga Merdeka Bandaraya Melaka)があります。子ども用の遊具も置かれた普通の公園ですが、その真ん中に、周囲を囲まれた黒いポールが立っています。

これは、ザビエルがマラッカに上陸した場所だそうです。つまり、以前はここまでが海だったということです。黒いポールについての説明は何もありませんでした。

パウル教会跡の丘の下には、幾つもの古い建物がまだ残っていますが、その多くは今は博物館として使われています。その数がけっこうありました。

マレー・イスラム世界博物館(上写真)の前には、キティちゃん風船がいっぱいのリキシャーが客待ちをしていました。

マラッカ・イスラム博物館(上写真)。

マレーシア建築博物館(上写真)。

マラッカUMNO博物館(上写真)。UMNOとはマレーシアの与党です。

パウル教会跡の丘の上には、こんな博物館もありました。

民主政府博物館。この建物は、マラッカ州知事公邸(ちょっとあやふやですが)として使われていたそうです。

いろいろな博物館がありましたが、それらのうちのどれがお勧めなのか、どなたか教えていただけると嬉しいです。次回、マラッカを訪問した際に、行ってみたいと思います。

1月12日、マラッカを歩く(1)

マカッサル滞在もあとわずかですが、少し時間があるので、1月12日のマラッカ訪問の話を半分ぐらい書いておきます。

クアラルンプールからマラッカまでは、意外に近かったという印象があります。高速バスでKLIA2からマラッカ・セントラルまで2時間、マラッカ・セントラルからクアラルンプールのTBSまでも2時間、でした。クアラルンプールからならマラッカは十分に日帰りできる距離で、今回も数時間の滞在でしたが、できれば1泊してゆっくり回りたいものだと思いました。

KLIA2からバスで到着後、マラッカ・セントラルで友人とおちあい、マラッカ・セントラル内にある荷物預り所にスーツケースを預けて出発。まずはバスで市内中心部へ(バスは30分に1本ぐらいしかないようです。料金1リンギット)。
バスを降りて少し歩くと、マラッカ川の橋のところに出ます。ここからマラッカ川沿いの歩道を歩いて行きます。ウォーターフロントをきれいにした様子で、昔に比べると川がずっときれいになったのだそうです。
川沿いの建物には、マレーシアの諸民族の絵が描いてありました。

「ここで写真を撮れ」という看板もありましたが、何が被写体としていい景色なのかは不明です。
「1万歩歩きましょう」という看板もありますが、そのような人は誰も見かけませんでした。
しばらく行くと、1845年に建てられた聖フランシス・ザビエル教会(カトリック)が現れました。
ここには、日本へも布教に来たザビエルの像(下写真の右側)の隣に、やじろうの像(下写真の左側)が立っています。
やじろうは今の鹿児島県の出身で、ザビエルを日本に連れてきたという通訳の人物です。海賊の出身とも言われますが、その生涯は多くの謎に包まれているようです。
聖フランシス・ザビエル教会の内部。

しばらく、赤い色の建物の通りを歩いたその先には、やはり赤い建物のマラッカ教会(オランダ時代の1753年に建立)が建っていました。
このマラッカ教会の脇から小高い丘の上へ登っていきます。
丘の上にもザビエルの像がありました。やじろうと一緒の像とはちょっと趣の異なる感じがします。
丘の上には、破壊されたセントポール教会(ポルトガル時代に建立)の跡がありました。ザビエルがマラッカに到着した1545年頃に建てられた教会で、ザビエルの死後、1553年に遺骸がこの場所に保管されたそうです。その後、イギリス統治下で破壊されましたが、それをラッフルズが批判して途中でやめさせたということです。
ザビエルの遺骸が安置された場所は、金網で覆われていました。
内部には墓碑がいくつもあり、その中には、日本人のものと思われる墓碑もありましたが、上部にはドクロ・マークが。
丘から下ると、オランダ人の墓があります。
坂を下りていくと、やはり破壊された門の跡がありました。
丘の上から見たマラッカ死骸ですが、ポールから向こうは、かつては海だったところを埋め立てて、新しい市街地を作ったということでした。
マラッカの支配者がポルトガル、オランダ、イギリスへと変わっていった様子が残された建物からうかがえます。そして、その眼下には、新しいマラッカの街並みが広がっていて、列強による植民地時代から一気に現実へ引き戻されるような、そんな感覚を持ってしまいます。

クアラルンプールで夕食中

毎日更新を目標にしているこのブログ。

日本時間で間も無く日付けが変わります。でも、まだ、クアラルンプールで友人たちとベトナム料理レストランで夕食中です。

今日は、マラッカへ行って、たくさんの写真を撮ったのですが、時間がないので、別のブログでご案内することにします。ごめんなさい。

今日は、マラッカでもクアラルンプールでもよく食べました。やっぱり、こちらへ来ると食事へのテンションが上がります。でも食事の写真を撮るのを忘れました。

夕食会の会場は、Bukit Bintangの
Sao Nam Fine Vietnamese Restaurant

友人の結婚式に出るためマカッサルへ

今度の土曜日、1月14日の私の友人の結婚式に出るため、インドネシア・マカッサルへ行ってきます。今回は、仕事ではなくプライベートです。

彼女は、マカッサルで長年、日本語学校を運営し、たくさんの若者たちに日本語を教え、日本のことを伝え広めてきました。

彼女自身、日本の大学に留学中の父親に連れられて、日本で何年も過ごしました。日常会話の日本語はまったく淀みなく、インドネシア人と会話していることを忘れるほどです。

彼女の結婚式がメインではありますが、久々に、時間の許す限り、懐かしいマカッサルの友人たちとも再会する予定です。仕事で行くと、時間がなくてなかなか彼らに会えないので、今回のようなプライベートの旅の時間は貴重でもあります。

友人たちの中には、南スラウェシ州政府の国際交流局長や投資調整局長など、重要ポストに就いている者も少なくありません。20年以上前、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてマカッサルに滞在したとき、彼らはまだヒラで、毎日のように、オフィスで彼らと地域開発政策について、それこそ色々と議論したものでした。

彼らとの再会も楽しみです。

もちろん、マカッサルですっかり馴染んだ食べ物との再会も楽しみです。

マカッサルの夕陽(2016年8月27日)
今回は雨季なので、恐らく素敵な夕陽にはお目にかかれないでしょう。

今回は、マレーシアのクアラルンプール経由のエアアジアで、東京=マカッサルを往復します。11日夜に羽田を出て、12日はマレーシア、13〜16日がマカッサル、17日がマレーシアです。マレーシアでも、知人に紹介された新しい友人たちほかと会う予定です。

個人的には、今年ぐらいから、日本=インドネシアの二国間の往来から、マレーシアなどの他の国へのヨコ展開を進めていきたいと考えています。

とくに、いろんな国の地方で頑張っている人々の活動をもっと学んでいきたいと思っています。皆さんのご推奨の場所があれば、ぜひ、情報提供をお願いします。

右ならえの自己アピール

昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。

マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。

それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。

日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。

もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。

極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。

自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。

そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。

本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。

多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。

それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。

自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。

右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。

自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。

対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。

他者との対話。自己との対話。

物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。

対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。

就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。

それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。

それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。