タケゴンのラウト・タワル湖の朝

1月17日、中アチェ県タケゴンからアチェ州の州都バンダアチェへ出発して直後、朝日に光るラウト・タワル湖を眺めました。

ちょっと逆光になってしまったのですが、なかなか神秘的な景色です。

坂の下からバイクがどんどん上がってきます。

神秘的な景色をしばし堪能した後、まずは、海岸の町ビルンを目指して、山の一本道を下っていきました。

なお、この道は、我々がタケゴンを後にした後、先週、土砂崩れで一時通行不能となったようです。

みなかみ町の「たくみの里」をちょっと訪問

今日(7/3)は、みなかみ町を訪問し、朝から夕方まで、関係者と会議でした。

5月から、みなかみ町のアドバイザーを拝命しており、今後、インドネシアの地方政府との関係づくりを進めていくにあたっての助言や情報提供をお願いされています。

会議終了後、町役場の方が「たくみの里」へ案内してくださいました。たくみの里のホームページでは、以下のような説明がなされています。

たくみの里は昔ながらの日本の風景を残す須川平にあります。
東京ドーム約70個分(330ha)にわたる集落には昔ながらの手法をそのままに木工、竹細工、和紙などの手作り体験ができるたくみの家が点在しています。手作りが体験できるたくみの家と、展示・見学・ショッピングがたのしめる家の二種類があり、それぞれのたくみが各家のオーナーとなりオリジナリティ溢れる作品や体験を提供させていただきます。

たくみの里事業は、1983年、旧新治村で、農村地域の持つ観光資源(農村景観、歴史文化、伝統手工芸)を活かし、しっかりした農業経営のもとで、美しい農村景観を保全する事業として開始されました。背景には、温泉などの旅館・ホテルの宿泊者数が減少したことがありました。

この地域に点在する野仏を周って歩くことと、農産加工技術の体験工房などを組み合わせて、都市と農村との交流を促す、住民参加型の新しい試みを続けて今日に至っています。

たくみの里の入口にある豊楽館という施設は、今は道の駅としての役割も果たしています。今日訪問した際は、平日のせいか、閑散としていました。

 道の駅 たくみの里 豊楽館

豊楽館から北へ延びる道路は「宿場通り」と呼ばれ、昔の三国街道の須川宿の面影を感じられるよう、通りに向かって垂直に屋根の方向を揃え、こげ茶色に統一した街並みが続きます。この通りに様々な店や工房が並び、休日には観光客でにぎわうそうです。

今回は、時間も限られていたので、町役場の方の車でざっと域内を周りました。次回は、実際に歩いてまわってみたいと思います。

町役場の方から紹介されたのですが、たくみの里の近くには、「みなかみフルーツランド・モギトーレ」という施設があり、観光果樹園のほか、果物を使った美味しいスイーツを食べさせるカフェがあります。

 みなかみフルーツランド・モギトーレ

この施設は元々、果物取引で有名な株式会社ドールが「ドールランドみなかみ」という名前で運営していましたが、2018年7月2日からは、みなかみ町農村公園公社へ移管されました。ドールがみなかみ町にそんな施設を持っていたことを初めて知りました。

この移管を記念して、みなかみフルーツランド・モギトーレでは、7月7~8日にOPEN感謝祭として、大人1500円(みなかみ町民は1000円)、子ども750円(同500円)で、70分スイーツ&グルメ食べ放題+ドリンク飲み放題のバイキングを開催するそうです。ただし、時間は10:30~15:00。

提供されるスイーツに使う果物は、すべてみなかみ町で収穫されたもの。当日は先着順で予約不可、とのことです。

筆者自身は行けませんが、こちらも、次回のみなかみ町訪問の際に、しっかり食べに行きたいと思います。

会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く

1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。

会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。

会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。

まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。

子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。

まず、5トンの大俵のお祓いをします。

続いて、東方(赤)と西方(白)のふんどしを絞めた裸の引き手計147人が登場、引き手もお祓いを受けます。引き手は地元の人だけでなく、全国、そして外国から参加した人もいました(例年、11月頃にネット上で一般参加者の登録ができるそうです)。
でも、小雪が舞い散る氷点下のなか、多くの引き手はすでにアルコールを飲んで体を温めてきている様子で、なかにはもう、顔が真っ赤で、目が血走り、ベロンベロンに酔っぱらっている者も。
大俵を動かして、道の真ん中に据えます。大俵の上には、東方に町長が、西方に商工会長が乗り、その間に軍配を持った行司が立ちます。
いよいよ、「引き方、始め~!」の声で、大俵引きが始まります。そして、「引き方、止め~!」で終了です。

1回目は東方の勝ち。2回目は西方の勝ち。そして、3回目に移る前に、参加した引き手の名前をズラズラと一人ずつ読み上げます。
そして、3回目。1分以上もかかる熱戦の末、西方の勝ち。これで、2勝1敗の西方が今年の大俵引きの勝者となりました。
この大俵引きでは、東方が勝つと米の値段が上がり、西方が勝つと米が豊作になる、といわれるため、今年は米が豊作となるという予想になりました。
この後、見物人を含めた誰でも参加できる大俵引きがありました。この大俵を引くということは、福や幸運を引き寄せることになる、ということで、大勢の人々が参加しました。
毎年、この坂下の大俵引きは、新年の恒例行事として、福島県内のテレビや新聞で必ず報道されます。
寒いなか、裸にふんどし一丁で参加した引き手たちは、厳寒のなか、写真撮影などしばらく現場に残された後、町内の温泉施設へ移動して体を温め、夜は盛大な懇親会で再びアルコールに浸る、ということです。
今回は、この奇祭を見に来たわけですが、それに合わせて、雪の会津坂下の街中を少し歩いてみました。わずかの時間でしたが、なかなか堪能できました。素敵なところでした。その内容はまた、明日以降のブログでお伝えすることにします。

台風の最中に涼を求めて長野へ(3)

今回の長野への旅の番外編は、乗り物、バスと鉄道です。

志賀高原で便利だったのは路線バスでした。蓮池を中心に、白根火山方面と奥志賀高原方面へ、日中で1時間ないし1時間半おきに路線バスが来るので、一つの場所でゆっくり回ることができました。

重宝したのは、「志賀高原得トクキップ フリー1日乗車券」です。サンバレーから志賀高原内の白根火山方面と奥志賀高原方面への路線バス停留所を自由に乗り降りできて、1日1000円。蓮池から白根火山まで1050円、蓮池から奥志賀高原まで890円、すぐに元が取れてしまいます。

今回は8月9日に利用したのですが、奥志賀高原まで乗ったので、フリー乗車券でない場合と比べて2分の1以下の運賃で済んでしまいました。

バスといえば、長野駅東口から志賀高原へ直行する急行バスも便利です。蓮池停留所に停まっていた急行バスの車体には、「えのたんとキノコフレンズ」が描かれていて、台湾から来た女の子二人連れが盛んに写真を撮っていました。

奥志賀高原からは路線バスで湯田中駅まで直行しました。所要時間は約1時間。途中に通った渋温泉はなかなかの渋さでした。

湯田中駅は、昭和の面影を残す、風情のある終着駅でした。

湯田中駅から長野電鉄の普通電車で信州中野へ向かい、信州中野で長野行きの普通電車に乗り換えます。

長野電鉄は、様々な車輌の第2の人生の舞台でもあります。途中駅で、隣のホームに、あれ、ロマンスカーが・・・。

乗客はみんなビールを飲みながら楽しそう。どうやら、この日は、ビール電車の運転日だったようです。ロマンスカー車輌を使っているのがなんとも。1000系ゆけむり、という名で、長野電鉄では10年目を迎えたようです。

長野駅に着くと、元・成田エクスプレスを発見。

NERの文字が入り、車体にはSnow Monkeyの名前がありました。

他にも、東急で使っていた車輌や東京メトロ日比谷線で使っていた車輌なども見かけました。長野電鉄で彼らの第2の人生を見守るのも楽しいものです。

けっこうな地方都市で自動改札のない駅、というのもなかなか味わいのあるものです。

乗り物にもずいぶん楽しませてもらいました。

台風の最中に涼を求めて長野へ(2)

7〜9日は志賀高原で過ごしました。

志賀高原というと、私にはとてもまぶしい雰囲気の場所でした。バブル全盛だった大学生時代、学生たちの多くは、夏はテニス、冬はスキー、と判で押したように男女伴って出かけ、大いに遊んでいました。その行き先として脚光を浴びていたのが志賀高原でした。

大勢と同じことをしたくない自分は、テニスもスキーもせず、しかも浮いた話にも興味がなく、男同士で歌う男声合唱のサークルに所属していました。そのため、志賀高原というのは、自分にとってはまぶしく、世界の違う場所と感じていたのでした。

それ以前、小学生の頃、群馬の親戚のおじさんに誘われて、草津から何度か志賀高原へドライブに連れて行ってもらったことはありました。その時の印象も、人気のある観光地だな、という程度のものでした。

今回も、そんな賑やかできらびやかな志賀高原を想像して行ったのですが・・・。

それは、昭和の志賀高原でした。平成の志賀高原は、違う印象の場所になっていました。

志賀高原行きのバスに乗るため、まず長野駅東口へ行きました。でも、一通り見渡しても、駅には、志賀高原に関するポスターやパンフが見当たりません。

東口の土産物店「科の木」なら何かあるだろうと思って、行ってみました。志賀高原に関するものは何もありませんでした。「科の木」はアルピコグループが経営していて、同グループのバスの行先である信濃大町や黒部アルペンルートの情報パンフは置いてありましたが・・・。

新幹線ができてからは、中央線・大糸線経由で松本や大町からアクセスするのではなく、新幹線で長野まで来て、バスで大町や黒部へ向かうようになったことを理解しました。

長野駅東口から志賀高原への急行バスを運行しているのは長野電鉄です。スキーシーズンの冬季は本数が多いのでしょうが、夏季の本数は1日数本。

私たちが乗った10時15分発の白根火山行き(通行止のため渋峠までしか行きませんでしたが)のバスの乗客は、我々2人以外は外国人客8人。しかも、我々以外の全員が途中のスノーモンキーパーク前で降りて行きました。そうか、彼らの目当てはニホンザルだったのか。

ニホンザル目当ての外国人が降りた後の乗客は、我々2人だけ。そのまま目的地の蓮池まで行きました。バスを降りた目の前、旧蓮池ホテルが解体されているところでした。

それにしても、人がいません。台風が来ているし、旧盆の少し前ということもあるのかもしれません。実際、今回の行程は、どこへ行っても我々2人の貸切状態でした。

蓮池周辺には、志賀高原総合館98など、長野冬季オリンピックが開催された1998年に建てられた幾つかの施設があります。

「志賀高原総合館98」というバス停のある山の駅が観光案内所の役割を果たしています。蓮池から琵琶池までハイキングをして、蓮池へ戻った後、そこにある「山の食堂1959」で素敵な冷やし山菜そばをいただきました。

この山の家、以前は蓮池から発哺温泉へ上がるロープウェイの駅でした。まだ当時のロープウェイが残っていました。

1960年に開業し、単なる観光向けだけでなく、道路アクセスの良くない高天ヶ原やより標高の高い発哺などへの重要な交通手段でもあったということです。長野県北部地震の後に点検したところ、老朽化が進んでいたことから、2011年6月に廃止されました。実際、道路事情も良くなって、利用者の数も大幅に落ち込んでいたのでした。

正面に発哺や東館山を臨む素晴らしい眺望に見とれていると、一群の雨雲が湧いてきて、激しいにわか雨が降り、その後に、それは見事な虹が現れました。

8日に訪れた志賀高原歴史記念館は、以前、国策で造られた高級ホテルの志賀高原ホテルでした。

旧志賀高原ホテルには、皇族をはじめ、要人も泊まったそうです。ドイツの職人が作った椅子などの調度品が重厚さを醸し出していました。志賀高原歴史記念館となった今は、1956年のコルティナダンペッツォ・オリンピックで、日本選手として初めて冬季オリンピックでメダル(銀メダル)を獲得した猪谷千春氏の記念館の役割も果たしています。

長野オリンピック後、志賀高原の開発に当初から長年にわたって深く関わってきた長野電鉄が撤退し、志賀高原は往年の輝きを失ってしまったようでした。多くの旅館やホテルが廃業し、廃墟となっていました。

それにしても、志賀高原にとって、あの長野冬季オリンピックとは一体、何だったのか。涼しくて気持ちの良い高原の道を歩きながら、そんな問いを何度も頭の中で繰り返していました。

そんな志賀高原の夏に、東京の某大手進学塾がのべ1万人以上の生徒を連れてきて、サマースクールを行なっています。その進学塾の横断幕が貼られた旅館やホテルをいくつも見かけました。

志賀高原のメイン道路沿いの旅館やホテルで、進学塾の垂れ幕を見かけました。交通の弁が良いこうしたところほど、進学塾のサマースクールに頼らざるをえないのかもしれません。

今回我々が泊まった石の湯は、メイン道路から外れていますが、日本で標高が最も高い地域に生息するゲンジボタルの群生地のすぐそばにあります。ホタルに配慮して、夜は灯りを暗くし、部屋もカーテンを閉めることを求められます。ホタル見物の際には、懐中電灯やカメラなどを使うことを禁じています。

ホタル見物にも行きました。台風による川の増水などの影響で、最盛期の10分の1しか飛んでいなかったそうですが、それでも、ゆらゆら〜っと飛ぶホタルを何匹も見ることができ、幻想的な世界に浸りました。

志賀高原のなかでは、進学塾のサマースクールのような大口需要に頼るところと、交通の便は悪くとも独自の良さを作り出して固定客を増やしているところと、大きく二手に分かれているように感じました。

山を削ってスキー場をどんどん造成し、団体客で賑わっていた志賀高原。長野オリンピックでウハウハだったのも束の間、観光客が大きく落ち込んでいった志賀高原。冬季はまだスキーで賑わうためか、まだまだ過去の栄光にすがりつく傾向が多く見られます。

大量消費時代の自然破壊型の観光開発が何をもたらしてきたか。時代とともに変われなかった志賀高原の観光が目指す方向は、もう一度、自分たちの足元を振り返り、地に足をつけた自然環境と共存できる地道な取り組みでしかないような気がします。

でも、これは志賀高原だけの問題なのでしょうか。2020年はもうすぐです。

イモニウォーク奥松島2017は楽しかった!

昨日(7/15)の朝、ジャカルタから東京へ戻り、自宅でちょっと休憩してから、新幹線と仙石線を乗り継いで東松島市へ向かって、同市矢本の宿に宿泊(ここがとても居心地良かった!)。そして今日(7/16)は、イモニウォーク奥松島2017というイベントに参加してきました。

イモニウォークは、東松島市の野蒜駅を出発点として、宮戸島にある松島自然の家までの約10キロのコースを歩く「イモニウォーカー・ルート」と、自転車で宮戸島の名所8カ所をまわる「新宮戸八景ルート」のいずれかを選びます。各コースにはチェックポイントが設けられ、それぞれのポイントでスタンプを押して周り、完走して全部スタンプが押されたら、景品がもらえます。

また、途中では、インドネシア・アチェのコーヒーを飲めるスタンドや、アチェのカレーを食べられるスタンドがあり、かつ農産物直売所を兼ねた複合施設「あおみな」で地元の特産品を味わえるマルシェに立ち寄ります。

東松島市はJICAによる震災復興を通じた経験共有協力の事業を通じてインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市と協力関係があり、ちょうど今、バンダアチェ市から2名の漁師さんが1カ月間の研修に来ています。彼らと東北大学のインドネシア人留学生が上記のスタンドでコーヒーやカレーを振る舞うほか、アチェのサマンダンスのパフォーマンスも披露してくれます。

そうそう、イモニの説明を忘れていました。これは芋煮のことで、南東北で秋の恒例行事である芋煮会で振舞われる食事です。ゴールした後、この芋煮が振舞われます。そこで、このイベントをイモニウォークと名付けたようです。

野蒜駅は真新しく変わっていました。仙石線が野蒜駅付近で津波で寸断されて再建できないため、住民移転を行った内陸側へ線路を付け替え、駅も新築して、2015年5月30日に復旧し、運転が再開されました。

ちなみに、昔の野蒜駅は、今は震災復興伝承館とコンビニが一緒の建物となっています。震災復興伝承館では、震災時の津波による被害とその後の復興の様子が映像も含めた資料として展示されています。

受付で、予想通り、私は外国人の参加者と一緒に歩くことになりました。全員が東北大学の留学生で、マレーシア2名、インドネシア、モロッコ、モザンビーク各1名、私を含む日本人3名の8名で、イモニウォーカー・ルートに参加しました。

スタンプを押すポイントになった場所は、上記の震災復興伝承館のほかは、まず鳴瀬二中跡地。校歌の碑の裏には、廃校に至るまでの軌跡が年表として綴られていました。

防災盛土。防災盛土の上から、海を見渡しながら歩きます。

アチェのカレーのスタンドの裏には、津波の犠牲となった子供たちを含む身元不明の方々を祀るたくさんのお地蔵さまがありました。

多目的施設のあおみな。

ここで食べたかき汁と東松島ドッグは、美味しかったですよ。

ルートのポイントがあるかと間違って皆んなを登らせてしまった、大高森山の山頂から見た奥松島の景色は、まさに絶景でした。

奥松島縄文村。好奇心旺盛なメンバーは、中の展示もしっかり見ていきました。イベント参加者は、スタンプを押すカードを見せれば、無料で見学できます。

観音寺の手前にある津波の碑。

結局、途中でなんだかんだと休みながら、また、ハーハー息を切らせながら大高森山を登るなど余計な行動も入ってしまい、午前9時に出発して、ゴールにたどり着いたのは、イベント終了の午後4時少し前でした。それでも、イモニウォーカー・ルートの10チェックポイントはすべてまわることができました。

何事もポジティブに明るく捉えてくれる楽しいメンバーと一緒に歩けたせいか、けっこう体力的に疲れているはずの私も、最後まで元気に過ごすことができました。というか、ずっと私が彼らをリードして連れていく役目を果たしたので、疲れてヘロヘロになるわけにはいかなかった、というほうが正しいのかもしれません。

すでに何度も実施されているためか、このイモニウォーク奥松島は、予想以上によく作られているイベントだと思いました。東松島市の人々が外から来た方々に見て欲しいと思う場所がうまく組み合わされ、結局は、いろいろ見ながら歩く、という形になるように組まれていました。また、東松島市がバンダアチェ市と協力しているということが、コーヒーやカレーやサマンダンスの形で組み込まれ、参加者へ自然に認知されるようになっていたのもうまいやり方だと思いました。

一部にはチェックポイント間の距離がかなりあって間延びしたところがあったり、間違って大高森山の山頂まで登ってしまわないような指示など、いくつか改善点は指摘しましたが、ともかく、楽しく過ごすことができました。

とはいえ、メンバーと別れ、一人になると、けっこう疲れを改めて感じるものです。そんな時は、と思って、夜は、エスパルの青葉亭でしっかりと牛タン定食をいただきました。評判通り、ここの牛タンはとても美味しく、大満足。柚子胡椒味にワサビを添えて食べる牛タンが特に秀逸でした。

さあ、明日は朝、福島へ移動します。おやすみなさい。

摺上川ダムを訪問

昨日(6月22日)、福島市を流れる摺上川(すりかみがわ)の上流にある摺上川ダムを見てきました。このダムは、中・下流の飯坂温泉や福島市での洪水対策として、2005年に完成したロックフィル・ダムです。

摺上川ダムの建設構想は1960年代に遡り、1973年に国が予備調査を行いました。1992年に工事が開始され、2005年9月に完成しました。

摺上川は水質の良い川として名高く、この川を源水とする福島市の水は、モンドセレクションで2017年も3年連続で金賞を受賞しました。とくに、2017年は最高金賞を受賞したとのことです。

でも、私の子どもの頃、1970年代には、摺上川ダム建設に関する強い反対運動があったように記憶しています。連日、ダム建設反対運動が新聞を賑わせていて、ダムが本当に建設されるのかどうか、不確かな状況だったように覚えています。
その印象が強く残っていたので、摺上川ダムが完成したのは知っていたものの、本当にどうなっているのか、見に行こうという気にはなれませんでした。
実際、茂庭地区の奥の名号集落や梨平集落がほぼ全てダムに沈んでいました。私の子どもの頃、名号行きや梨平行きの福島交通のバスをよく見かけたものでした。茂庭へ行く道路は狭く、茂庭というと山奥というイメージがありました。
現在の国道399号線は、片側1〜2車線で道幅は十分広く、快適なドライブでダム湖まで行くことができました。
この辺は、猿や熊がよく出てくるようです。
風が強く、また同行者の時間があまりなかったので、今回はさっと見ただけでしたが、次回は、ダム湖のすぐ近くにある茂庭生活歴史館をぜひ訪問したいと思います。

ジャカルタでの国際線と国内線の乗継(お役立ち情報)

3月4日朝、東京へ戻りました。到着が午前9時で、それほど気温が低くもなく、極度な温度差で体が戸惑うこともありませんでした。飛行機のなかでそれなりに眠ったはずなのに、眠くてしかたのない一日でした。

今回、往復に利用したのは、インドネシアのガルーダ・インドネシア航空でしたが、ジャカルタのスカルノハッタ空港での国際線と国内線の乗継について、ちょっと気をつけておいたほうが良い点があるので、以下、メモとして残しておきます。

羽田空港のガルーダ・インドネシア航空機
(ボーイング777-300)

<ビザ>

現在、インドネシアへの入国にあたっては、観光、親族訪問、社会訪問、芸術・文化活動、政府用務、講義・セミナー等参加、国際展示会参加、インドネシアでの本社または代理店の会議出席、他国への乗り継ぎを目的とする場合で、滞在期間が30日以内の場合には、滞在ビザが免除となります。

なお、上記目的で31日以上滞在する場合には、到着ビザ(Visa on Arrival: VOA)が必要になります。VOAは30日有効で、入国後1回のみ延長可能ですので、最長60日以内の滞在となります。VOAは1回あたり35米ドルの有料です。

なお、商業目的ではないスポーツ、研究・短期留学・短期トレーニング、商談(ビジネス・ミーティング)、物品購入を目的とする場合は、30日以内でもVOAが必要となります。

インドネシアへの入国ビザについては、在インドネシア日本大使館のホームページに詳しい情報が載っております。ビザなし入国後のVOAへの変更不可など、留意事項も詳しく説明されているので、ご参照ください。

 インドネシアへの入国・滞在(在インドネシア日本大使館ホームページ)

<入国審査>

ジャカルタのスカルノハッタ空港では、かつては到着ロビーへ向かう途中の左右で外国人向けの入国審査が行われましたが、現在は、到着ロビーへ向けて直進した先で行われるように変更されました。

ビザなしの場合はそのまま、あるいはVOAを支払い後、動く歩道等でまっすぐ到着ビーへ向かって直進します。直進すると、左側が「一般の外国旅券保持者」、右側が「長期滞在許可(KITAS)を持つ外国旅券保持者」「外交官等」に分かれます。

「一般の外国旅券保持者」のほうは、ジグザグに一列に並ぶように指定されていて、先頭から順番に、空いた入国審査官のブースへ進むようになっています。

入国審査官のブースでは、基本的には旅券を出すのみですが、帰国便のチケット控の提出を求められることもあります。滞在目的、滞在日数、宿泊先などを英語で質問されることもあります。

<ガルーダ国際線からガルーダ国内線への乗継>

ガルーダ・インドネシア航空で国際線から国内線へ乗り継ぐ場合には、通常は、スーツケースなど預け荷物は最終目的地までスルーで行きますので、ジャカルタでピックアップする必要はありません。入国審査後、そのまま税関検査へ向かいます。

税関検査では、検査官に税関申告書(機内で配られます)を渡し、乗り継ぎであることを伝えた後、求められた場合には手荷物をX線検査機へ通します(今回、私は求められませんでした)。

税関検査終了後、到着ロビーへは出ずに、左側へ向かうと、ガルーダ・インドネシア航空の乗り継ぎカウンターがあります。すでに国内線の搭乗券を持っている場合はスルーしてよいのですが、搭乗ゲートなどの情報を得るために乗り継ぎカウンターに立ち寄っても構いません。

乗り継ぎカウンターの後は、右へ曲がって、まっすぐ進みます。国内線第2Fターミナルに入り、そのまま進んで突き当りを左へ曲がり、向かって右側の通路をまっすぐ進むと、F6と表示された場所に「第3ターミナルへの乗り継ぎ(Transfer to T3)」と書かれた表示があり、そこを入ってまっすぐ行くと、椅子のたくさん並んだ場所があります。ここから、ガルーダの無料専用バスで、ガルーダ国内線の発着する第3ターミナルへ向かいます。このバスは、駐機場を見ながら、空港ターミナル敷地の中を走って行きます。

第3ターミナルに到着すると、手荷物検査の後、そのまま出発ゲートへ出ます。

<全日空からガルーダ国内線への乗継>

なお、全日空はガルーダ・インドネシア航空とコードシェア便を飛ばしていますが、ガルーダ国内線への乗り継ぎの場合、現在のところ、最終目的地まで預け荷物はスルーで行きません。いったん、ジャカルタで預け荷物を回収し、税関検査を受けた後、到着ロビー(1階)へ出ます

到着ロビーから外へ出てすぐのところに大きなエレベーターがあるので、それで2階へ。2階の着いたところのすぐそばに、無料ターミナル間連絡バスの乗り場がありますので、そこからバスに乗り、第3ターミナルへ向かいます。乗り口に段差のある小さなバスですので、預け荷物を車内へ持ち込む際にはご注意ください(下に荷物入れがある場合でももすでに荷物でいっぱいの場合があります)。

第3ターミナルでは、改めて、ガルーダ国内線のカウンターでチェックインし、回収して持ってきた預け荷物を預けなおします。

<日本航空その他で国際線からガルーダ国内線への乗継>

上記の全日空からガルーダ国内線への乗継の場合と同じです。

<<修正&再修正!!>>

ブログの読者の方から、ガルーダ・インドネシア航空以外の国際線からガルーダ国内線へ乗り継ぐ場合でも、到着ロビーへ出ずに、乗り継ぎカウンターで発券、チェックイン、荷物預入れが可能、との情報をいただきました(情報提供をありがとうございます!)。

その場合には、預け荷物をターンテーブルから受け取った後、すぐ近くの税関ではなく、「ガルーダ国内線へ乗り継ぐため」と言って、ガルーダ国際線到着時と同じ税関まで、ずーっと(到着ロビーへ出ずに)中を歩いて移動し、税関検査後、左へ向かって、乗り継ぎカウンターで対応してもらう、ということになります。乗り継ぎカウンターはガルーダ国際線到着時の1箇所のようです。

ちょっと裏技的ですが、お試しになられてください。

<ガルーダ国内線からガルーダ国際線への乗継>

この場合も、出発地で預けた荷物はスルーで最終目的地まで行くはずです。

ジャカルタ第3ターミナル内の「国際線への乗継」表示場所から、ガルーダ国際線の発着する第2ターミナルへ無料シャトルバスで向かいます。バスは、第2ターミナルのF6に到着します。到着後、左へ曲がるとエスカレーターがあり、それで2階へ上がります。

「国際線への乗継」表示に沿って歩いていくと、ガルーダ国際線チェックインカウンターに出ます。そこをまっすぐ進むと、イミグレ(出国審査場)があります。

<ガルーダ国内線からガルーダ以外の国際線への乗継>

まず、到着した第3ターミナルで預け荷物を受け取ります。それを持って、いったん到着ロビーから外へ出て、一番左端から無料ターミナル間連絡バスに乗り、国際線のある第2ターミナル(2Dまたは2E)へ向かいます。

<ジャカルタ・スカルノハッタ空港の航空会社別ターミナル>

参考までに、現時点での航空会社別のターミナルは以下のようになっています。

*国内線
ライオン(ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、バリ、ロンボク以外の東部地域) : 1A
ライオン(スマトラ各地、ロンボク) : 1B
バティック : 1C
シティリンク : 1C
スリウィジャヤ、ナム : 2F
エアアジア : 2F
ガルーダ : 3

*国際線
ガルーダ、中国東方、中国南方、エアアジア、エティハド、大韓航空、サウディア、ベトナム、アモイ:2E
上記以外:2D

なお、国際線は全て、いずれは第3ターミナルへ移転する計画のようです。また、各ターミナル間を結ぶトレインを現在建設中です。

外国人向け富士山・御殿場観光ツアーに参加して

今日は、インドネシアから来た友人とその家族と一緒に、外国人向けの観光ツアーに参加しました。彼らは富士山に行きたいということだったので、英語ガイドが付く次のツアーを申し込みました。

 1-Day Mt. Fuji, Gotemba Premium Outlets & Yamanakako Onsen

このツアーは、まず富士山へ行き、忍びの里でランチを食べ、山中湖温泉で温泉に入り、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物をして、東京へ戻る、という内容でした。今日のそれは、天候に恵まれて、とても良い一日になりました。

富士山では、スバルラインで4合目まで行きました。雪がたくさん残っていて、友人の子供たちは大喜びでした。

また、富士山4合目から見た南アルプス連峰の素晴らしく美しいことと言ったらありませんでした。

道中、何度も見えた富士山は、雲ひとつない空に美しくそびえ立っていました。富士山って美しいなあ、と改めて何度も思いました。

インドネシア人の友人とその息子2人は、温泉にも挑戦しました。最初、裸になるのを嫌がるかもしれない、と思いましたが、彼らは覚悟を決めて裸になり、温泉に浸かりました。するとどうでしょう、すっかり気持ちよくなり、気泡湯や露天風呂など、そこにある全種類の温泉に挑戦し、とても喜んでくれました。温泉好きのインドネシア人が3人増えました。

温泉の後は、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物。このアウトレットですが、モールのどの通りからも富士山が見えるように作られているのに感心しました。

友人はバッグを買い、子供たちはバンダイやポケモンセンターなどで楽しんだ様子です。聞いてはいましたが、本当に外国人観光客の多いところでした。

今回のツアーですが、インドネシア人向けの冬のツアーとしてはよくできていて、オススメと感じました。富士山を眺め、本物の雪を楽しみ、初めての温泉体験をし、アウトレットで買い物もできる、と、一日でいろんな経験を楽しめるからです。

ガイドさんも英語が分かりやすく、かつ、移動中の車内で退屈しないように、簡単な折り紙で雪の積もった富士山を作るなど、いろいろな工夫をされていました。

総体的には良いツアーだったのですが、いくつか改善して欲しい点がありました。

まず、インドネシアやマレーシアなどからのイスラム教徒のお客さん向けの配慮をもう少しして欲しいと思いました。ツアーを申し込む時に食事について聞かれるのですが、ノーマルかベジタリアンしか選択肢がなく、今回も、別のインドネシア人の参加者がとても不安がっていました。

今回は、ガイドさんが「豚のものはありません」と繰り返していたので、安心していました。ところが、実際には、昼食会場では、地元特産の豚肉を使った料理(焼きそば)が1つ入っていて、ガイドさんお言葉を鵜呑みにしたイスラム教徒の参加者が知らずに食べてしまいました。「豚のものはない」とツアー会社から聞いていたガイドさんは、結果的に嘘の情報を流してしまったことになり、とてもお気の毒でした。また、食べてしまった方を私も懸命になって慰めました。

この昼食会場は、こうしたツアーで来る外国人専用に近い場所のようで、もしも、外国人だからこのぐらいで大丈夫だろう、という予断があるのならば、すぐに正していただきたいと思いました。日本人には知られてないから大丈夫、という態度ならば、いつかは必ずバレます。

次に、温泉です。今回の友人とその息子たちのような、覚悟を決めて違う体験をしようという客ならば良いのですが、すべての人がそうとは限りません。人前で裸になるのを拒む人も少なくないと思われます。今回の温泉は、そういう人の温泉体験を結果的に拒絶することになってしまいます。

少しでも温泉体験をしてもらえるように、せめて足湯の設備を整えてもらえたらと思いました。今回の温泉には足湯がなかったのです。私の経験では、足湯だけでも十分にインドネシアからのお客さんに温泉気分を楽しんでもらえました。また、足湯にすれば、温泉場での滞在時間をもっと短くすることができ、より柔軟な日程を組むことができるメリットもツアー会社にはあるかと思います。

外国人向けのツアーに参加してみて、対象が外国人だけで日本人はいないから、という甘えのような部分が見えました。おもてなしとは、日本人にも外国人にも同じようにするものではないでしょうか。外国人だけで日本人には知られないから、という気持ちで観光客を迎えるのでは、日本のおもてなしの劣化と捉えられても仕方ないでしょう。

自分も将来、様々な形で質の高い、交流型のスタディツアーを実施運営したいと考えているので、今回の経験は色々と勉強になりました。