自宅近くのレンタルオフィス

昨日までとは打って変わって、今日は冷たい雨の降る、寒い1日でした。

そんな冷たい雨に打たれながら、いつものように、自宅近くのレンタルオフィスで、作業をしていました。管理費を除いた賃料が3万円弱、しかも個室という、とても経済的な部屋は暖房がよく効いて、セーターを脱いでも汗ばむほどでした。

この部屋を借りて間もなく2年になります。狭い自宅には物があふれ、本を読んだり、物を書いたり、集中して作業できる場所が限られているため、思い切って、レンタルオフィスを借りることにしたのでした。

でも、東京都心のレンタルオフィスは総じて賃料が高く、安いと思ってみると、個室ではなく、机や椅子を共用するタイプのものがほとんどでした。

とにかく、自宅やインドネシアから持ち帰った本の置き場がないと困るので、個室が条件。たまたま、自宅近くに新しくできたレンタルオフィスが、オープン記念価格で借りられることを発見し、借りることができました。

部屋は通常のスチール本棚が2本入るスペースがありますが、今ではもう、すでに2本では足りず、あふれています。

そろそろ契約した2年目を迎えるので、更新しようと思って、管理会社に電話し、賃料が値上げになるかどうかを聞くと、何と、これまでと同じ賃料で借りられるとの返事。本当にありがたいことです。

まだしばらく、東京では、このレンタルオフィスを使うことにします。何せ、自宅から歩いて10分もかからない距離。最寄駅からも徒歩5分程度です。

これからも複数拠点で活動したいので、こうしたレンタルオフィスの賃料コストや滞在コストをいかに抑えるかはとても重要です。とりあえず、東京はこれでOK。さて、次は福島、マカッサル、ジャカルタです。

なお、スラバヤでもこれまで部屋を借りていましたが、3月末で契約が終了するので、来週は、スラバヤへ出かけて、部屋の片付けと明け渡しをする予定です。

春の訪れをいつの日か分かち合いたい

春を感じさせる穏やかな一日でした。午後のイベントへ出掛ける前に、自宅の庭で春を見つけました。

福寿草やモクレンが咲いていました。

温かな日差しに照らされながら、花が可憐に咲いていました。

こうして、平和に春の訪れを感じることができる日常の何気ない幸せを、今日は改めて感じなければならないことになりました。

午後9時から放映されたNHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」。反アサド勢力の最後の砦とされたアレッポ東部に最後まで残った人々と、死傷者を受け入れなければならない、最後まで残った病院・クドゥス病院の、凄まじい状況を市民のカメラ映像で追った、見るのが辛くなる番組でした。

一言で言うならば、地獄。目の前で次々と人々が亡くなっていく。医師や看護士の能力を超える数の人々が運び込まれ、生存可能性の高い人々を優先せざるを得ない、助けようにも助けられない、そんな現実が次々に映し出されていきます。

アレッポを制圧するアサド政権からは反政府のレッテルを貼られた人々。でも、もはやアサド打倒のために最後まで戦うような状況にはなく、かといって、投降しても命の保証があるとは思えないほどの不信感のなか、次の瞬間での死を意識しながら生きる人々の姿には、今の瞬間瞬間を生きるしかない、究極の状況が映し出されていました。

絶望しかない世界。でも、絶望に打ちひしがれている暇すらないのでした。そして、医師や大人たちがわずかな希望を託せるのは子供たちしかなく、それが子供たちを助けようとする尋常ではないエネルギーになっているかのようでした。

何が何でも生き延びるためには、どんな酷い権力者であっても、従順で馬鹿なふりをして権力者へ尻尾を振らなければならないと思って、さっさと降伏し、投降するしかない、そういう選択をしてしまうだろうし、その選択を後世で「仕方なかった」と納得しながら生きていくしかない、という面はあるかもしれません。

安全で安心して暮らせる状態にある後世の人々が、そうした行為を批判し、愚弄したとしても、そうして自分を偽ってでも生き延びた人々は、それを甘んじて受けざるをえないでしょう。きっと、日本もまた、そうして生きてきた人々が少なくなかったはずです。

アレッポのクドゥス病院の人々は、たとえ反アサドの活動家でなかったとしても、様々な理由で、そこから脱出できなかった人々も少なくなかったかもしれません。そういう人も含めて、アサド政権から反政府のレッテルを貼られたのでしょう。

テロリストのように、他人の生きる権利を一方的に踏みにじる人でなければ、その人の生きる権利は何としてでも尊重されなければならないはずです。クドゥス病院の人々は、少なくとも人間の命をできる限り救おうと懸命だったのに、彼らを「反政府=テロリスト」と一方的に決めつけて爆撃するのは、主義主張やイデオロギーを超えて、犯罪以外の何物でもない、ということは明確にしておかなければならないでしょう。

そのような状況を、国際社会は見て見ぬ振りをしてきたことを、彼らは糾弾しています。私もその国際社会の一部であり、個人として深く反省しなければなりません。しかしながら、国際社会がその現実を見たとして、祈る以外に、何が一体できたのか、という気持ちもあります。それでも、それを見てしまった者は、少なくともその情報を広めるなど、何かをしなければならなかったのでしょう。

このNHKスペシャルを観た後では、庭の福寿草やモクレンに春の訪れを感じていた自分の呑気さをちょっと後ろめたく感じてしまいます。

でも、そう感じられる自分の今の瞬間瞬間に感謝しつつ、不躾かもしれませんが、アレッポの人々と春の訪れをいつの日か分かち合いたい、という気持ちが不意に湧き上がってきました。きっと、それがあって始めて、自分が何かをしていけるのではないかと感じます。実際に何ができるのかはまだわからないのですが・・・。

「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

確定申告とバッテリー交換

今日は午前中、税務署へ出向いて、確定申告を済ませてきました。

昨日のうちに書類を用意し、証票や領収証などを貼付し、必要書類を揃えて、確定申告会場へ。

最終日の15日までまだ日があるためでしょうか、20人ぐらいしか並んでおらず、10分も待たずに、係官のブースへ行けました。係官は書類を確かめると、控え書類に判を押して、あっけないぐらいすぐに提出は終了しました。

他の係官のブースを見ると、身分証明書の提示を求められていたり、マイナンバーの説明を受けていたり、なかなか一発で済む感じの人はいないようでした。でも、係員の対応はとても丁寧で、年配の方にも優しい声で根気よく説明していました。

今回の確定申告での還付金は、来月ぐらいに指定銀行口座へ振り込まれるようです。

研究所に勤めていた頃は、ピンとこなかった確定申告ですが、今は、パソコンソフトを使って、経費になりそうなものは全て打ち込み、収支を把握するのが普通になりました。まだまだシロウトですが、パソコンソフトのおかげで、青色申告で申告しています。

確定申告があっという間に済んだので、3年以上使っているiPhone 5sのバッテリー交換も済ませました。

かなり前からバッテリーの持ちが悪くなっていたのですが、今回調べてもらうと、やはり消耗していました。バッテリーの寿命は一般に2年だそうです。こちらも30分もかからずに、すぐに交換してもらえました。

愛機iPhone 5sの復活はやはり嬉しいものです。この愛機には、インドネシアのTelkomselのSIMが入っています。この携帯番号もすでに10年以上使っていて、LINEやWhatsAppにはこのインドネシアの番号を使っています。

確定申告にせよ、バッテリー交換にせよ、今日はやろうと思ったことが予想以上にスムーズに済んだ1日でした。

明治神宮の芝生とポニー公園

午後、用事があって、妻と一緒に代々木の某所を訪れた後、久々に、北参道から明治神宮の広い芝生へ行ってみました。

それほど寒くない陽気の中、数は少ないものの、人々が思い思いに芝生でくつろいでいました。

スタスタと早歩きでやってきたジャージ姿の男性は、芝生に寝転んだかと思うと、いきなり足を曲げたり伸ばしたり、ストレッチを始め、終わるとまた、何事もなかったかのようにスタスタと去って行きました。

まだ枯れたままの芝生の白とも黄ともいえぬ淡い色合いと、薄いグレーの広い空を眺めながら、少しずつ冬が終わり始めている気配を感じました。

神宮本社にお参りせずに、そのまま参宮橋のほうへ抜けると、明治神宮の敷地を出たところに、代々木ポニー公園という場所がありました。小柄な馬と子供たちが触れ合える公園に、一緒に散歩していた一名が引き寄せられて行きました。

なぜか、カラスへの注意を喚起する張り紙も(下写真では左側)。

この代々木ポニー公園は、東京乗馬倶楽部に隣接した渋谷区の施設でした。小学生までの子どもが馬と楽しく過ごせる場所です。

東京での日常の何気ない散歩の一コマでした。

カバンを買い換えるの巻

昨日、日頃、使っている仕事カバン(というかリュック)を買い換えました。

今まで主に使っていたのは、Hedgrenのリュック。これは、たまたま、インドネシア・ジャカルタのサリナデパートのカバン売り場で見つけて、まあ、とりあえずしばらく使えればいいや、と思って買ったのですが、これが意外に使いやすく、重宝してきました。

物入れの場所が3箇所あり、MacBook Airと機内防寒用のウィンドブレーカーを入れるスペース、書類や本などを入れるスペース、携帯電話など小物を入れるスペースに分かれていて、けっこう、収納力があります。飛行機の中では、ちょうど席の下のスペースに収まり、足おき代わりに使っていました。

使い込むににつれて、鍵などを入れておく一番上の小さなスペースのファスナーが壊れて締められなくなり、リュックに物を入れると、全体が下にダラリと垂れるようになってしまいました。それに、雨に当たると、防水・撥水仕様でないので、中のものが濡れてしまって、困ったことがありました。

東京の街中で使うにはちょっと大きすぎるし、アポで人に会うときにもややカジュアルな感じだし・・・。ということで、来週からのスラバヤ出張を前に、買い換えました。

今回購入したのは、Manhattan Passageの縦型3ウェイタイプ、#2450というものです。このメーカーの特徴どおり、軽量で撥水性が高く、機能的です。

縦型ですが、表面に二つ大きなポケットが付いていて、モノを取り出しやすいです。普通のリュックだと、深く入ってしまったものが取りにくくて難儀でしたが、これだと、すぐに取り出せて良いです。とくに、上のポケットは、ほぼ日手帳オリジナルがちょうど縦に入る高さで、愛用のA5ノートも横にして余裕で入ります。

3ウェイではありますが、私は通常、ショルダーバッグにしないので、リュックにするか手提げにするかです。収納はA4用となっているので、ちょうどMacBook Airがピッタリに入り、大きすぎないのが良いです。

背負ってみると、カバンが背中をずり落ちてこず、背中の真ん中あたりで止まって、いい感じ。そして、何といっても軽くて、MacBook Airを入れて背負っても、重さをあまり感じません。

手提げにすれば、それほどカジュアルな感じもせず、大きくないので、日本で人と会うときに持ち歩いても違和感はなさそうです。

久々にいい買い物をした、と満足しました。

この人たちも、HedgrenのリュックからManhattan Passageの3ウェイバッグへ移しました。ももりん(左)とキビタン(右)です。また、どこへも一緒に連れて行きます。

昼下がりの山手線での幸せな空気

今日は午後、東京駅近くで面会のアポがあったので、普段通りに乗った昼下がりの山手線。席に座った私の前のベビーカーで、赤ちゃんが目の前のお母さんを見ながら、うれしそうに声をあげていました。

お母さんの左側に座っている、ネクタイを締めた年配の紳士が、赤ちゃんを見ながらニコニコしています。時々、面白い顔を作って、赤ちゃんを笑わせようとしています。この紳士は、赤ちゃんのおじいさまではありませんでした。

お母さんの右側に座っている勤め人らしい、まだ若い女性も、読んでいる本から目を上げて、赤ちゃんの方を見て微笑んでいます。

空いている車内だったからでしょうか。楽しそうな赤ちゃんの姿が、私を含む周りの人々にほのぼのとした幸せな空気を作り出していました。

通勤電車で押し合いへし合いのない、昼下がりの山手線には、殺伐とした日本はありませんでした。ベビーカーと一緒に電車に乗るお母さんへの罵声もありませんでした。

あの日本とこの日本。同じ日本で起こっている異なった風景。

自分の経験した日本だけで、日本を代表しているかのように振舞ってはならない、そうじゃない日本もあるんだと思えるような自分でありたいな、と思いました。

大丈夫。まだそんなに人間の未来を悲観しなくてもよいのかもしれません。

今日も、毎月コレステロール検査をしてくださるお医者さん、カードで支払ったら店用と客用のカード控えを間違えたといって私を追いかけてきてくれた薬局のお姉さん、電車を降りるときにさりげなく道を開けてくれたおじさん。

コーヒー店でカードにポイントがつかないことを申し訳ながってくれた店員さん。夕食を食べたピザ屋さんでその店のピザの良さを教えてくれた店員さん。

何もない毎日でも、そうやって出会う人たちとのささやかな、コミュニケーションとも言えないほどのささやかなコミュニケーションを、丁寧に気持ちよく接することで、毎日を自分や出会った人たちにとっても、少しでも気持ちの良く感じられるような瞬間を一つ一つ積み重ねていきたいなあ、と思いました。

話は変わりますが、仕事用に、中村印刷所の方眼ノートを5冊買いました。

このノートは、印刷所の方のお孫さんがツイッターでおじいさまの素晴らしいノートについてつぶやいたことで、一般に知られるようになり、製品化されたものです。

他のノートと違い、開いて軽く押さえるだけで1枚の方眼紙になる水平開きになるノートです。水平開き製本の独自技術を用いており、左のページと右のページが本当に平らになります。

ノートの素晴らしさもそうなのですが、よい技術を持つおじいさまの製品が世間には知られず、売れない状態をなんとかしたい、とツイッターにつぶやいたお孫さんの気持ちを何となく感じることができます。

そんなノートにも、ほのぼのとした幸せな気持ちを感じてしまいます。それが理由というわけではありませんが、今日は、インドネシア政治連載の執筆はお休みにしました。

何もないような一日。でも必ず何かはあるのでした。

このブログは、力の入ったものだけでなく、こんなものも書いていきます。よろしくお付き合いください。

侠女と龍門客桟を堪能

今日は、某新聞社のシンポジウムに行きたかったのですが、応募抽選結果が当選とも落選とも知らされなかったので、あ、落ちたんだな、と思って、ちょっと残念だったのです。

でも、その代わりに、渋谷のユーロスペースで、キン・フー監督の映画「侠女」と「残酷ドラゴン血闘龍門の宿(龍門客桟)」の2本を堪能することができました。

この2本の台湾映画は、2013年に台湾政府の資金援助を受けて、デジタル修復されたものです。キン・フー監督の作品を見るのはおそらく初めてだと思いますが、聞いていた評判に違わず、時代を感じさせない見ごたえのある作品でした。

制作年代では、「龍門客桟」が1967年、「侠女」が1971年なのですが、今回の上映では、「侠女」「龍門客桟」の順でした。「侠女」は英語の題名が A Touch of Zen、「龍門客桟」は Dragon Gate Inn なのですね。

両作品とも、正しい政治を行おうとした側が悪事を働こうとする側に策略で嵌められて罪人となり、お家取り潰しになるものの、その親族や子孫が逃げ延びて、お家の再興を図ろうとするものの、支配者(悪事)からの追っ手が追いかけてきて、それと戦い続ける、といった割とわかりやすいストーリーです。

映画に出てくる急峻な山や谷、急流の川のシーンは、2つ続けて観ると、同じ場所で映していると思しき場所がけっこう出てきます。きっと、当時は中国本土で撮影することは不可能で、台湾の中の限られた場所での撮影を余儀なくされていたのだろうな、と思いました。

その自然の撮り方の美しいこと。有名な竹林での戦いのシーンもそうですが、真ん中のススキを払いながら人間が出てくるシーン、道に煙がいつも上がっているシーンなど、印象的な場面がたくさんありました。

もちろん、売り物ともいえる剣を使った戦闘シーンは、CGを使わないとこんなにも俳優の演技に迫力が出るのか、と思えました。キーン、キーンという剣が重なり合う音が耳に残っていきます。

主人公たちと悪役との戦いが終わってすぐに劇終となる「龍門客桟」と、戦いが終わっても戦うことの虚しさが強調される「侠女」。制作年の異なる4年間の間に、キン・フー監督の中に何か心境の変化があったのかもしれません。

この2本の映画が後のカンフー映画に大きな影響を与えたというのも良く分かる気がします。特撮や活劇シーンの進化には本当に驚かされますが、キン・フー監督が撮った人間の美しさ、演じる者たちの緊張感、といったものは、後続作品がやすやすと超えられない者のような気がします。

そういえば、昔、ジャカルタに住んでいた1991年頃、The Swordsman(笑傲江湖)を観て、とても気に入り、その後、ジェット・リーなどのカンフー映画を見るようになったのですが、調べたら、The Swordsmanもキン・フー監督作品でした。初めて観たのではなかったのでした。カンフー映画が好きになるきっかけを作ってくれた監督でした。

今日、この2本を観ることができて、なんだかとても満ち足りた気分になりました。

トルコ料理店のレディースコースが重量級

東京・有楽町にある、日本で最初のトルコ料理レストラン「イスタンブール」へ行ってきました。創業は1988年、意外にトルコ料理レストランの歴史は新しいという印象です。

今日は、2月の月曜日のせいか、有楽町周辺のショッピングセンターは休館が目立ち、最初のお目当の中華料理店も臨時休業、ということで、やむなく、「イスタンブール」へ行きました。

月曜日は、レディスコースが通常3500円が2800円へ割引になります。妻と娘と3人で行ったのですが、女性だけでなく、女性連れであれば男性もレディスコースを注文できるということで、3人揃ってレディスコースを注文しました。

ひよこ豆のポタージュスープの後、出てきた前菜盛り合わせ。厚手のトルコパンと一緒にいただきます。

この後に、メインのカルシュック・ケバブ(4種類のケバブの盛り合わせ)が出てきたのですが・・・。

これを3人で分けるのではなく、これが1人前なのです。チキン(左)、ビーフ(真ん中)、マトン(右)、ビーフとマトンの合挽き(下)で、レタス、酢漬けの赤キャベツ、マッシュドポテトとバターライスが添えられています。

とにかく、肉、肉、肉、という感じ。焼き具合はとてもよく、肉の旨みがしっかり味わえる逸品なのですが、これがレディースコースとは。他ではなかなか味わえないであろう重量級でした!

結局、3人で協力して、というか私が妻の残りもいただいて、完食。レディス・コースのボリュームに感服しました。

最後のデザートは、ちょっと固めの甘みを抑えたプリンと紅茶で締めました。

やっぱり、半分は食べ物ブログになってしまいますね(笑)。

トルコ料理レストラン「イスタンブール」(ウェブサイトリンク
銀座店は、地下鉄銀座駅 C2番出口 徒歩5分 
またはJR有楽町駅 銀座口 徒歩7分 

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ジャカルタ州知事選挙関連の分析レポート(有料)は、ただいま執筆中。明日には掲載できるといいのですが。

おそらく、私と同じような見解で書かれたものはまだないと思います。乞うご期待。

天狼院書店を知ってしまった夜

今夜、東京の我が家からのお散歩エリア内に、ユニークな本屋があることを知ってしまいました。その名は、天狼院(てんろういん)書店。3年前に開店していたのに、今まで知りませんでした。しかも、東京のほか、福岡と京都にもあるのですね。

池袋駅から雑司ヶ谷霊園の方へ向かう東(あずま)通りをまっすぐ歩き、都電とぶつかる手前の右側の建物の2階にあります。
中に入ると、ちょうど、10人ぐらいの男性が集まっていて、「宇宙戦艦ヤマト」に関する話を熱く語り合う催しの最中でした。男性ばっかりでした。
真ん中に談話や議論のできるテーブルと椅子の置かれたスペースがあり、その周りに面白そうな本がたくさん並んでいました。

入り口を入ってすぐ左側の棚には、天狼院の秘本シリーズが6巻まで置いてあります。この秘本の中身を見ることはできないのですが、中身は素晴らしいことが書いてあるという話らしく、中身が分からないにもかかわらず、けっこうな部数が売れているようです。
装丁にも一切内容を類推できるような文字もなく、チラ見もなく、買ってみてからのお楽しみ、という売り方がなかなか面白いです。
店の右側には畳が2畳分ぐらい敷かれ、その上にコタツが置いてありました。コタツ、いいですよね。うだうだとくつろげる部分空間が作られているのでした。
男性ばかりの「宇宙戦艦ヤマト」談義にはとくに惹かれるものはありませんでしたが、このような居心地の良い空間の使い方をし、店主体でイベントや部活もする、カフェもあるという、この店のユニークな本屋ぶりにとても興味をそそられます。
今、全国で小さいけれどもユニークな、こだわりの本屋(+カフェ)が増えているようですが、私も、自分オリジナルのこんな空間を作ってみたいと思いました。
そもそも、今日は、一風堂池袋店の味噌赤丸ラーメンが2月いっぱいで終了するので、その前に食べておきたい、という娘のリクエストで池袋へ出かけたのでした。
味噌赤丸を満喫した後、妻も娘も前々から気になっていた天狼院書店へ様子を見に行ったのでした。自分の身近なところに、まだまだ面白いものがありそうです。

天敵はハウスダストとカビ

季節の変わり目になると呼吸が苦しくなる気管支ぜんそくとの付き合いは、もう何十年にもなります。まだ私が小さい頃は、小児ぜんそくとも言っていました。

急に気温が下がると、ゼーゼーしてきて、よく親に背中をさすってもらったものです。ですから、秋から冬、冬から春にかけてがきつくなるのでした。

気管支炎となれば、その「お友だち」であるアレルギー性のアトピー性皮膚炎ともずっとお付き合いしてきました。副腎皮質ホルモンの入ったステロイド軟膏をチビチビ使ってきました。

振り返ると、気管支炎もアトピーもひどかったのは、幼少期を除けば、前の職場に入ってしばらくの間でした。当時は、毎日、インドネシアから送られてくる新聞を読んで記事をまとめる作業を続けており、その新聞と一緒に運ばれてきたか新たに発生したかのダニやカビが原因だったのだろうと推察します。

その後、インドネシアへ赴任した2年間では、症状が全くと言っていいほど出なくなりました。帰国して、新聞との格闘が少なくなると、症状もあまり出なくなりました。

インドネシアにいる間は症状が出ないのですが、日本では、冬になると毎年のように、何度かはきつい気管支炎に、そしてアトピーで肌がボロボロと何度も剥けるようになりました。

今年は、毎月、血中コレステロール検査で通っているお医者さんに薬と吸入器を処方してもらったため、気管支炎は今のところ、ひどくならずにいます。毎日、自宅で肺活量検査を行い、その値を記録して変化を見ていますが、最初の頃はかなり低い値だったのが、今は高い値で安定しています。いつもの冬に比べると、アトピーもひどくなく、また何かあればすぐ医者に行ける体制なので、ずいぶんと楽だし、安心です。

子どもの頃、「大人になったら自然に治るよ」と、かかりつけの先生に言われたのですが、今もまだお付き合いしている状況です。まだ子どもなのかもしれませんが。

これら気管支ぜんそくとアトピー性皮膚炎がひどくなる原因は何か、だいぶ前に、病院でアレルゲン検査をしてもらったところ、ハウスダストとカビへの感応度が異常に高く、この二つが自分の天敵であることがわかりました。

今でも、ハウスダストやカビがひどいとすぐ症状が出るので、今日、思い切って、その対策用に、コードレスの布団用クリーナーを購入してしまいました。ダイソンのV6、コードレスなのに、強力な吸引力を持つクリーナーです。

というのは、これをインドネシアへ持っていきたいからです。だいぶ長い間、インドネシアでは、荷物置き場と化したアパートの一部屋を借りているのですが、前にそのベッドで寝たら、全身が痒くなって眠れず、飛行機内の強力冷房への対策で持ち歩いているウィンドブレーカーを着て、ようやく眠れた、ということがあったためです。

窓は少し開けたままにし、換気はしているのですが、今のインドネシアは雨季で、とくにハウスダストやカビの天国になっています。2月末に1週間インドネシアへ行くので、まずはこのダイソンで掃除をしてから、ちゃんと眠りたいと思うのです。

さて、インドネシアのアパートではちゃんと眠ることができるでしょうか。

35年ぶりのどら焼き

今日は午後、独立ジャーナリストとして活躍中の友人に、ジャカルタで知り合ったインドネシア人のコンサルタントである友人を紹介しました。そして、これから一緒にやっていけそうな幾つかのアイディアを一緒に話し合う、という刺激に満ちた会合となりました。

また、別の友人夫妻と新宿で夕食をご一緒することになっていたのですが、それを前にした夕方、どうしても小腹が空いてしまい、でも食事を摂るほどではない、という状況になりました。

そのとき、ふと目の前に現れたのが時屋。新宿西口の昔からある甘味喫茶店で、有名なのはどら焼きです。そうだ、久々に時屋でどら焼きを食べよう、と店に入りました。

店内の客は1人のみ。店の外ではたくさんの人々が行き交っているのに、時屋の店内は、まるで別世界のように静かで、店内も昔と全く変わっていませんでした。

そう、昔、35年前、まだ大学生だった頃、この店に入りました。当時、大学のサークルで渉外を務めていて、女子大との合コン1次会の後、2次会への参加者約15人を引き連れて、店に入りました。

お目当ては、時屋のジャンボどら焼きです。この店のどら焼きは、普通サイズでも一般のものより大ぶりなのですが、ジャンボどら焼きは普通サイズのざっと見て10倍ぐらいの大きさで、これを参加者全員で分けて食べたのでした。

ジャンボどら焼きは、もちろん今もまだ健在でした。

今回注文したのは、苺クリームどら焼き。苺の甘酸っぱさ、クリームとつぶあんの絶妙なハーモニー、そしてふわっとしたどら焼きの生地(時屋という焼印があります)。これにお茶を付けて、美味しくいただきました。

35年ぶりのどら焼きを食べた時屋は、刻々と姿を変えていく新宿西口の喧騒をよそに、本当に昔の雰囲気を保ったままでした。自分にとってはホッとする場所、と思ってしまうのは、自分もまたその齢を重ねてきたことの証拠なのかもしれません。

ボリューム感いっぱいのどら焼きを食べた後の夕食は、どら焼きは別腹の如く、しっかり楽しくいただきました。その店からきっかり2時間で追い出されましたが。

何年もの時を経て旧友とつながり始めた気配

この一週間ぐらいの間に、もう何十年も会っていない、半ば忘れていたような、旧友たちと再びつながり始めた気配を感じます。

先週、ひょんなことから、中学、高校と一緒だった友人とフェイスブックでつながりました。すると、彼から、中学時代の彼の級友たちが東京に住んでいて、彼らが集まって飲んだときの写真が送られてきました。

この友人とはクラスが違っていたので、記憶は確かではないのですが、写真を見て、何人かの名前を思い出し、会っているかどうかを尋ねたら、ほとんど合っていました。

高校を卒業して福島市を離れ、それから埼玉県に少し住んだ後、ずっと東京で暮らしてきました。

一般に、友人づくりにはいろいろなタイプがあり、少数の親友と長く親しい関係を続ける場合もありますが、私の場合は、その時その時で新しく友人ができ、昔の友人との関係はどんどん消えていくという形だったような気がします。

つい最近まで、福島市にいた時の小中高時代の友だちとは、ほとんどコンタクトがなかったのです。新しい友人がどんどんできていくので、ほとんど気にも止めず、放置したまま長い月日が経ったのでした。

数年前、Linkedinでダメ元でつながりリクエストを出したら、高校時代の友人らとつながり、その勢いで再会して、福島市で餃子を一緒に食べ、今ではいつでもコンタクトを取れる仲に戻りました。彼らは、福島県庁の幹部職員や地方銀行の重役になっており、いつでも協力すると言ってくれました。

先週、写真を送ってくれた彼。写真を見ながら、自分のクラスではないのに、何人かのことを急に思い出し、とても懐かしくなりました。私の中学時代のクラスメイトは、今、どうしているだろうか、と懐かしい気持ちが止められなくなりました。

その後、前の勤務先で一緒だった方とも10数年ぶりにコンタクトが取れ、来週、ランチをご一緒することになりました。また、20年以上前にとてもお世話になったマスコミ関係の方とも今朝フェイスブックでつながり、元気でいらっしゃる様子を嬉しく思いました。

写真を送ってくれた彼は、写真に写っていた面々に声をかけて、東京で飲み会を計画したいと言ってくれました。でも、会うとなるとちょっと恥ずかしい気持ちになってしまいます。

常に新しい友を得て、それがインドネシアなど海外にもどんどん友ができて、この歳になって、昔の友とつながり始めた、というのも、不思議な気がします。

フェイスブックという、何年経っても繋がっていることができ、常に連絡を取らなくても何をしているかがわかり、いつでも、10年以上会っていなくても、あたかも昨日会ったかのように冗談を言い合える、そんな道具のおかげで、私の友人ネットワークは軽々と国境や時間を超えていくのでした。

こうして、この世を去るまで、友人を作り続けていくのでしょう。そして、真摯に想い続ける限り、フェイスブックなどの助けを借りて、バーチャルに過ぎないにしても、これらの友人とつながり続けていくことでしょう。

皆んな、今どこでどうしているのだろうか。自分勝手な思い込みかもしれませんが、きっと、そんな風に皆んなも思っているような気がします。

何かのきっかけで、このブログを見てくれた友人がいたら、ぜひ、私まで連絡をください。そして、連絡が取れたら、近いうちにお会いしましょう。

激安ノートパソコンを購入

9年前、以前の勤務先を辞めたのをきっかけに、ウィンドウズからマックへ乗り換えたのですが、今日、久々にウィンドウズのノートパソコンを購入しました。

というのも、銀行のインターネットバンキング、インターネットを通じた税金支払いなど、今後の仕事のうえで、ウィンドウズにしか対応していない場面が出てきそうだと感じたからです。

しかし、ノートパソコンを新しくもう1台買うべきかどうかは悩みました。今メインで使っているMacBook Airのブートキャンプを使って、マックとウィンドウズをMacBook Airの中に併存させることもできるからです。

それでも、MacBook AirのストレージがSSD256GBで、DropBoxとファイルを同期させているので、ブートキャンプを使って、マックとウィンドウズをパーティションすると、容量不足になりそうな気がして、不安になりました。

そこで、やはりウィンドウズのノートパソコンをもう1台買うということにしたのですが、最初は、MacBook Airを自分用にし、新たに購入するノートパソコンを仕事用にしようかと思いました。目をつけたのは、携帯性に優れたLet’s Note SZ、VAIO Z、Thinkpad X1の3つでした。これらにそれなりのスペックを搭載すると、いずれも25〜30万円ぐらいかかって、とても高価になってしまうので、今の経済状態からは大変厳しくなります。

MacBook Airが壊れて使い物にならないのであればその選択肢もあったでしょうが、MacBook Airはまだまだ健在で、携帯性も十分にあります。

前述の3つの機種の中古パソコンも色々見て、そのリーゾナブルな価格にはずいぶんと惹かれたのですが、携帯性を考えたとき、バッテリーの状態が不明なのがとても気になりました。

結局、今まで通り、MacBook Airをメインで使うとして、そのサブとして使えるウィンドウズのノートパソコン、新品で5万円以下、携帯性はあえて問わず、で探しました。

たまたま行った家電量販店で、生産完了したASUSの一つ前のモデルが破格の値段でした。最安値は、Windows 10 Home、CPUはCeleron、メモリ2GB、HDD500GB、14インチディスプレイが税抜で29,800円、というのにはさすがにびっくりしました。

私が購入したのはその一つ上のASUSで、Windows 10 Home、CPUはAMD、メモリ4GB、HDD500GB、15.6インチディスプレイ、テンキー付きキーボードで、税抜で39,800円、わずかですが1%のポイントが付きました。ゲーマーでも高度な数理分析を行うわけでもないので、とりあえずこれに性能は十分です。ただ、おそらく、このスペックならば、通常ならこの倍の値段でもおかしくないと思います。

新品でこの値段のものは、ネット上では見つけられず、実際に量販店に行って初めて見つけたものでした。「何でもネット」の世の中ではありますが、こういう一種の「出会い」みたいなところが面白いなあと感じてしまいます。

購入した後、家にあったMicrosoft Office Home & Business 2010をインストールし、問題なく使えるようになりました。でも、有線LANは問題ないのに、無線LANがつながりませんでした。加えて、マウスも欲しくなりました。DropBoxの膨大なファイル同期が始まってしまいました。これらは、これから少しずつ解決していこうと思います。

というわけで、常に携帯するメインはこれまで通りのMacBook Air、新ノートパソコンはサブ、据え置きで使っていきます。目標の5万円以下でうまく収まりました。

誕生日にガレット・デ・ロワ

昨日の誕生日の夜、ささやかなお祝いということで、リチュエルのガレット・デ・ロワを東京の自宅で味わいました。


リチュエルを知ったのは偶然です。昨年12月、クリスマス・イルミネーションに誘われて表参道へ向かい、その後、青山通りへ向けて小さな坂道を色々歩いていたとき、リチュエル青山店を見つけました。

美味しそうなパンが色々あったので、クロワッサンをはじめ、いくつか買って食べたのですが、見た目以上の美味しさ。とくに、細長くくるくる巻かれたピスタチオのパンは最高でした。

そのときに、店内で見たガレット・デ・ロワがとても美味しそうで、一緒に来た妻に「誕生日にはあれが食べたいな」とポロリと言った言葉を、彼女が覚えていて、買ってきてくれたのでした。

後で知ったのですが、リチュエルはフランスの有名なパン屋で、2014年にはパリで最も美味しいガレット・デ・ロワとして表彰されているようです。詳しく説明したブログはこちらです。

周りの生地がサクサクして、中のアーモンドクリームが甘すぎずくどすぎず、絶妙の味付けで、本当に美味しく、堪能しました。

本当ならば、ガレット・デ・ロワの中に入っているフェーブという陶器製の可愛い小さな人形や、それが当たったときにかぶる紙製の王冠も付いていました。中国正月でも、同じ風習があったような・・・。

ガレット・デ・ロワは1月6日の公現祭というお祭りで食べるお菓子らしいのですが、幸運にも、リチュエルでは1月中は販売しています。

1月生まれの特権(?)ということで、味わうことができました。

誕生日を迎えました

本日1月26日、55回目の誕生日を迎えました。

フェイスブックやリンクトインなどを通じて、たくさんのメッセージをいただきました。ありがとうございます! 改めて深く感謝をお伝えいたします。いただいたメッセージには、これから一つ一つお返事をお返ししたいと思います。

昔お世話になっていた職場に今もいたなら、管理職定年となる歳です。かつて、55歳の頃の父の威厳ある姿を思い出すとき、今の自分のあまりにも子どもみたいに無邪気で普通すぎる姿との対照に、我ながら思わずすくんでしまいます。

ある意味、「大人」にならないで歳を重ねてきたような気もします。自分で年齢を決められるならば、もうずっと28歳のまま、27年が過ぎてしまったような気もします。28歳の頃の気持ちと今の気持ちとがまだつながったまま、老後や寿命を全く意識できず、まだまだずっと走り続けていけるような気がしています。

この間、私よりも先に生を終えた友人や知人のことを思います。それぞれにいろんな事情があったことでしょうが、彼らの分まで一生懸命生きようと思って生きなければならないと自分に言い聞かせてきました。

自分という存在が、果たして世の中のために役に立っているのかどうかは、正直言って、よく分かりません。少し前までは、世の中の役に立ちたいと願い、それが果たされていないのではないか、自分などいてもいなくても同じなちっぽけな存在なのではないか、と悲観することもなかったとは言えません。

でも、生きている、生かされているということは、少なくともそれ自体に意味があり、これから何かすることが世の中にとって意味のあることなのでしょう。

生が長ければ長いほどいいとは思いません。生の中身をもっと濃くしたいと努めながらも、薄いように見える生の中身が実はものすごく濃いことに気がつくこと、そしてそれを大切なものとしてありのままに受け止めること、その繰り返しなのかもしれません。

私の生自体を客観的に誰かが価値判断することはできないはずです。その誰かにとって私の存在がプラスだったかマイナスだったか無関係だったかを判断するのは自由ですが。

今この瞬間にも、「生きたい」と懸命に生きている人々が世の中にはたくさん存在する、という当たり前のことを意識したいものです。

誰も一人では生きていけないし、自分のためだけに生きる訳でもない、直接的にせよ、間接的にせよ、自分以外の誰かのために生きている、それが生きるということの根本のような気がします。

今までよりももっと、自分以外の誰かと安心して一緒に過ごせる時間を大事に大切に丁寧に過ごしていきたいと思います。誰かを受け止め、誰かと信頼を分かち合える瞬間や時間を感じながら、これからも丁寧に真摯に前へ向かって生きていきたいです。

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

55年前に産まれてすぐの頃の私。
私という存在の原点。

お通夜の最後の参列者

今日の午後、突然、知人の訃報が知らされました。先週亡くなり、今日がお通夜、明日が告別式、ということでした。

この方は、某マスコミの管理部門の方で、これまで、インドネシア関連の講演などで大変お世話になった方でした。

彼についてとくに思い出されるのは、2015年1月28日、ジャカルタで開催された「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」と題するシンポジウムです。このシンポジウムは、彼の会社が幹事として運営され、彼はその責任者でした。

シンポジウムでは、日本とインドネシアの著名人によるセミナーに加えて、新企画として、日本とインドネシアの企業経営者に企業の現場から日本とインドネシアの関係強化をどう図るか、という内容のパネルディスカッションがありました。私はこのパネルディスカッションで、彼から進行役を任されました。

きれいごとではなく、技術移転や労務問題など、日本側とインドネシア側から双方に対する本音が出る、中身のある議論にしたい、というのが彼の願いでした。でも、パネルディスカッションが始まる直前になっても、議事進行のシナリオは用意されておらず、また、日本語とインドネシア語の混じる形で議事を進めることになっているので、進行役としては、いったいどうなることやら、皆目見当のつかない、不安な状態でした。

私は、拙いながらも、日本語とインドネシア語のバイリンガルで議事進行役を務め、議論を丁寧に拾いながら、そこから派生してさらに本音の部分が深まるような方向へ議論を導いていきました。1時間半という予定時間内で終わるのか、シナリオが何もない中で、必死で議事を進行していきました。

何とか議論をうまくまとめた形になり、パネルディスカッションは、自分で言うのも何ですが、けっこう中身のある内容になったと思います。ご興味のある方は、以下のリンクをご参照ください。

平成 26 年度新興国市場開拓事業(相手国の産業政策・制度構築の支援事業(インドネシア:知日派育成))報告書

このパネルディスカッションに引き続き、シンポジウム後のレセプションで、何か日本とインドネシアの今後のパートナーシップを象徴するような、前向きの内容を作れないか、とおっしゃったのも彼でした。

私は、日本とインドネシアの架け橋になりたいと本当に頑張っている、日本人の血とインドネシア人の血を持つダブルの友人2名にプレゼンしてもらってはどうかと提案しました。彼はそれを快諾し、2名のプレゼンが実現しました。彼らは今、日本とインドネシアの架け橋として、さらに活動を発展させています。

これまで、いろんな方々と一緒に仕事をする機会がありましたが、今回亡くなった彼と一緒にした仕事は本当に思い出深いものでした。

今日は、夕方から都内で用事があったのですが、その用事が長引いてしまい、お通夜に行くのは無理かと最初は躊躇しました。でも、着いたらもう終わっているかもしれないけれど、行けるところまで行ってみよう、と電車を乗り継いで、トイレに行くのを我慢し、時には必死で走りながら、お通夜会場まで行ってみました。

着くと、お通夜はもう終わっていました。でも、斎場に明かりが灯っています。見ると、ご家族がまだいらっしゃいました。彼の部下だったTさんが、私が遅れてくることをご家族に伝えてくださっていたのです。待っていてくださったのでした。

本当に恐縮し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それでも、彼に最後のお別れを言おうと思いました。焼香用の火はすでに消されており、線香をあげるように促されました。そして、お別れをすることができました。

ずっと待っていてくださったご家族に深く御礼を申し上げ、場を後にしました。

享年46歳。まだまだこれから、でした。もっともっと、一緒に仕事をしたかった・・・。帰りの電車の中で、色々な気持ちがこみ上げてきました。

Wさん、さようなら。本当にお世話になりました。どうぞ、安らかにお休みください。

米国のトランプ新大統領の就任演説を聴いて

1月20日深夜、眠い目をこすりながら、アメリカのトランプ新大統領の就任式をテレビで観ていました。就任式やその前後の行事には全てしきたりがあり、それに則ってすべて進んでいくのは興味深いものでした。

画面を通して観ると、やはりそこに現れる人々の様々な表情が観てとれて面白いです。オバマ前大統領夫妻の大役を終えた安堵感溢れる表情とは対照的に、トランプ新大統領夫妻や家族たちはやや緊張した面持ちのように見えました。

世界が注目した新大統領の就任演説。でも、トランプ新大統領の演説は、自国民だけへ向けたものでした。

当然といえば当然ですよね。新大統領を選んだのは自国民なのですから。自分を選んでくれた自国民に対しての演説なので、「アメリカ第一」を繰り返すのは当然のことでしょう。「偉大なアメリカを取り戻そう」と世界へ向けて訴えたわけではないのです。

もちろん、世界中の人々がこの就任演説を観ていることを意識してのパフォーマンスであり、アメリカがより自国優先主義を強める、と解釈されるのは誤りではなく、懸念が深まるのももちろんのことと思います。

でも、日本も含めたどの国でも、自国優先主義を採っていない国など、国家である以上ないはずです。我々は、どこかで、世界最強の国であるアメリカには、自国だけでなく、世界のことをもっと考えて行動してほしいと思っているように見えます。そして、そのアメリカに自分たちが付いていく、だからアメリカはしっかりしてよ、と思っている国さえあるのです。

自分たちは自国優先主義でもアメリカはそうであって欲しくない、というのは、少々身勝手ではないかという気もします。世界のことをもっと考えて行動するのは、たとえば、日本もどこの国も同じなのではないでしょうか。

アメリカが自国優先主義になると、世界中がバラバラに自国のことしか考えなくなる、という意見もあるでしょうが、アメリカにだけ「世界のことを考える」ことを求めてきたことのほうが誤りであったのではないでしょうか。

そうではなくて、自国優先主義はすべての国の大前提として、それと並行して、世界のことをすべての国が考える、そのような世の中を作っていく。戦争を回避しながら、国家間の利害関係を交渉し調整するにはものすごいエネルギーや時間やコストがかかりますが、それをすべての国が覚悟してやっていかなければならないのではないでしょうか。アメリカだけに任せるのではなく・・・。

そのためには、自国外の世界をもっと知っていかなければならないのではないでしょうか。よその世界を知ることなく自国内だけに留まる態度こそが、利害関係の交渉や調整を難しくしていくことでしょう。「自国優先主義」と「自国さえ良ければいい主義」は大きく異なるはずです。

個人レベルでも、自分以外の人や世界の存在を認め、それを知ろうとしないと、それらに対する勝手な妄想、偏見、イメージが作られ、場合によっては、それがヘイトや排斥や差別につながります。知らないから恐れ、怖がり、それに対する妄想や偏見を勝手に強め、だからこそ、相手を威嚇したり、やられる前に力でやっつけてしまおうとする。戦争やテロはそんなことの繰り返しであり、我々はまだそれらから十分に学べていないような気がします。

トランプ政権の発足で、アメリカがよりナショナリズムに走り、社会の分断はより大きくなりだろうというコメントを聞きます。おそらく、そうなるのでしょう。反論するには、現状はあまりにも厳しいです。

でも、国家におけるナショナリズムが強まることを懸念したり悲観したりしてそれを呆然と見ているよりも、我々一人一人が自分以外のよその人や世界を知る行動を起こしていくことのほうが大事なのではないでしょうか。

傍観している我々もまた、社会の分断に結果的に加担していることになるのですから。

自分以外の人や世界の存在を認めてそれらをもっと知る。他者への想像力を高める。そして社会の分断を少しずつ溶かしていくために自分でできる範囲の行動をする。微力ながら、自分の身の回りから、そんな方向へ少しでも促せるような活動を進めていかなければならない。トランプ新大統領の就任演説を聴きながら、改めてそう決意しました。

マレーシアから羽田へ向かうエアアジア機から見た夕暮れ
(本文とは関係ありません)

今回の私は怪しい人物?

1月11〜18日、マレーシア、インドネシアへ行ってきましたが、普段はこれまでなかったことが起こりました。

日本からの出国時と入国時、荷物検査と税関で荷物をすべて開けさせられたのです。これまで、何度も海外へ出かけていますが、行きも帰りも全部荷物を開けさせられたのは、今回が初めてでした。

羽田空港での行きの荷物検査では、「ハサミのようなものがある」と言われ、もう一度リュックを荷物スキャンに通した後、「おかしい」という表情をした、メガネのまだ若い女性検査官が、リュックの中のものを全部開けるように命じ、自分も一緒に私の荷物を中から外へ出し始めました。

もう一度、彼女は「おかしい」と首をかしげ、それでもないとわかると、諦めたように、自分の持ち場へ、何事もなかったかのように、さっさと戻って行きました。

残された私は、一人で荷物をもう一度リュックへ入れ直しました。けっこう工夫して収納しているので、入れ直すのにはけっこう時間がかかりました。

この間、女性検査官からは何も言葉をかけられませんでした。あなたのが終わったから持ち場に帰る、疑うのは当然、という風情に見えました。

ちょっと頭にきたので、彼女に「終わりましたよ」と呼びかけましたが、無視されました。

私が疑われて当然の風情だったのでしょうか。

次は、帰国後の羽田空港。スーツケースを受け取って、いつもの通り、税関のグリーンライン(申告なし)へ向かいました。人も並んでおらず、すっと行くかなと思ったら、係官から、おもむろに「マレーシアからですか?」「マレーシアから最近、麻薬とか密輸するのが多いんですよ。ちょっと中を開けてもらえますか?」と言われました。

そして、スーツケースの隅々まで、手を入れて見始めました。5分近くスーツケースの中を探った後、「ないですね」と言っておしまいでした。この係員からも、疑われた側を気遣う言葉はありませんでした。

荷物検査の検査官も、税関の係員も、いってみれば、人を疑うのが仕事の方々で、きっと、いつも濡れ衣をかけてしまった相手から罵声を浴びたりすることもよくあるかもしれません。でも、濡れ衣をかけられた側のことをもう少し気遣ってもいいのではないかと思いました。

今回は、買ったばかりの、ユニクロの黒いウルトラライトダウンジャケット(これは軽くて暖かくて本当にいいですよね!)を着ていました。ズボンも黒かったので、黒装束でした。まさか、この格好のせいで疑われたのでしょうか。

それにしても、疑われるほうも悪い、というのが世の中の常識になってしまうのでしょうか。痴漢されるほうも悪い、いじめられるほうも悪い・・・。

いや、やっぱり、女性検査員や税関係員に対して、声を荒げて抗議すべきだったのか・・・。

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

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