原田正純先生の思い出
6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。
6月12日が原田正純先生の命日だった。原田先生とお会いしたのは一度だけ。それも、インドネシアでお会いしたのだった。
2020年1月17日、阪神淡路大震災が起こってしまってから25年が経った。25年、四半世紀という区切りがつけやすいこともあってか、メディアの取り上げ方が、例年に比べて多いように感じる。
いまを生きていらっしゃる被災された方、大事な人やものを失われた方にとって、25年目といっても、その365倍の毎日の積み重ねでしかない一日であろう。
ごく普通の変わらない、あたりまえの明日が来ることが、あたりまえではなく奇跡かもしれないことを教えてくれたあの日。そしてあの後、東日本大震災をはじめ、あたりまえの日がやって来なかった経験が幾度も繰り返されてきた。
いまをまだ生きていることへの感謝。たとえ求められていなくとも、他者の悲しみを少しでも和らげてあげたいという気持ち。様々な思いを持った様々な人々がいるということの理解。忘れてしまいたいことと忘れてほしくない気持ちとの葛藤。それらをすべてまるく包含できるやわらかな世の中をつくっていくこと。
1月17日は、自分にとって、3月11日とともに、それらを忘れてはならない、と肝に命じ、改めて自覚させる日。生きている者、生きたかった者、生きることに希望を失いかけている者、なんとかして生きたいと願う者、そうした人々への想像力をより鋭敏に高めることを、改めて自覚させる日。
あたりまえの日常や普通であることのすごさ。これは、私自身がこれまでの人生のなかで、痛感してきたことです。
平凡な人々が自分の人生を開いていけること、日常の中で希望を持ち続けられること、ここに新たな世界秩序があります。歴史書に全く出てこない人々、名前ではなく労働者、木こり、商人、学生といった一般名詞で登場する人々、こうした平凡な人々が一人一人、自分の名前で呼ばれなければなりません。世界も、国家も、「私」という1人で始まります。働いて夢を見る、日常を維持していく平凡さが世界を構成しているということを、私たちは認識する必要があります。
そのためには、1人の人生が尊重されねばなりません。1人の人生の価値がどれだけ重要なのか自分でも理解する必要がありますが、歴史的に、文化的に再評価されるべきだと思います。自身の行動が周囲に影響を与えられるということ、またどんな行動が周囲に広がり、最終的にどんな結果をもたらし得るのかについて語り、記録に残さねばなりません。
平凡さが偉大であるためには、自由と平等に劣らず正義と公正が保証されるべきです。人類の全ての話は「善事を勧め、悪事を懲らしめる」という平凡な真理を反すうします。東洋では「勧善懲悪」という四字熟語で表現します。この簡明な真実が正義と公正の始まりです。無限競争の時代が続いていますが、正義と公正がより普遍化した秩序となるべきです。
正義と公正の中でのみ、平凡な人々が世界市民に成長できます。今はまだ何もかもが進んでいる最中のようですが、人類が歩んできた道に新たな世界秩序に対する解決策があります。東洋には「人は倉に穀物がいっぱい詰まっていれば礼節を知り、衣服や食物が満ち足りてこそ栄誉と恥辱を知る(倉廩実而知礼節、衣食足而知栄辱)」という古言があります。正義と公正によって世界は成長の果実を等しく分かち合えるようになり、これを通じて皆に権限が与えられ、義務が芽生え、責任が生じるでしょう。
今、世界が危機だと捉えていることは平凡な人々が解決していくべきことです。これは一国では解決できない問題であり、1人の偉大な政治家の慧眼では成し遂げられないことです。苦しんでいる隣人を助け、ごみを減らし、自然を大切にする行動が積み重なっていくべきです。こうした行動を取る人が1人しかいなければ「何を変えられるだろう?」と懐疑的になるかもしれませんが、この小さな行動が積み重なれば流れが大きく変わります。
人気取りを意識した偽善だ、きれいごとだ、そんなことを本心から思っているはずがない、と批判することは容易いでしょう。韓国の大統領がそんなことを言うはずがない、と頭から信じない人もいるかもしれません。
文大統領は、自身にも大きな影響を与えた光州事件が韓国社会や民主化にもたらした意義をとても重視していて、それをもとに、普通の人々の力が積み重なって世界を変えていくことができる、と訴えています。
そこにはよりよい未来へ向けての希望や、人々に対する信頼が見えます。隣国の大統領が発したこうした言葉を、私たちはどう受け止めるのでしょうか。
実は、私たちに対しても向けられた言葉なのかもしれない、私はそう受け止めたのです。
為政者によって事実が嘘とされ、嘘を事実とさせられる事態が何度も繰り返され、それをあたりまえのことと感じたり、しかたがないとあきらめてはいないか。飼いならされているのではないか。自分が声を上げても誰も賛同してくれないと思っているのではないか。
平凡さの偉大さは、日本でも同じはずだと思うからです。
マカッサル国際作家フェスティバルの2日目、私は2つのセッションでパネリストを務めました。
一つ目は、”Asia in our Hands: Japan, Malaysia & Philippines”というセッションで、マレーシアとフィリピンから招待された若手作家に、今回、人形劇のワークショップを主宰したジョグジャカルタの女性アーティストを加えたセッションでした。
このセッションでは、実行委員長のリリ・ユリアンティからリクエストがあったため、福島の話をしました。様々な風評が世界中に流布しているが、帰還困難区域は福島県の一部であり、大半の地域では日常生活が営まれていること、除染や産品検査が行われて監視し続けていることなどを紹介したうえで、和合亮一氏の「詩の礫」の初期の作品で英訳されている「悲しみ」という詩の一節を、試みに日本語と英語で朗読しました。参加者はしっかりと聞いてくれました。
他のパネリストからは、どのように他国の文学への関心を引き起こすか、そのためのネットワークをどう作っていくか、といった話が展開しました。インドネシアの参加者はマレーシアやフィリピンの文学作品についてほとんど知らず、また、マレーシアでもフィリピンの文学作品はほとんど知られていない。その一方で、韓国ドラマはけっこう皆知っている、という状況であることを確認しながら、文学者どうしがこうしたフェスティバルのような場を通じて、もっとコミュニケーションを取り合うことが必要だという話になりました。
私からは、文学者どうしのコミュニケーションも必要だが、キュレーター間の交流をもっと進めていくことも合わせて重要ではないかという意見を述べました。
2つ目は、”How to Rise Readers in Your Family”というセッション、すなわち、本好きの子どもを育てるにはどうしたら良いのか、というテーマでのパネルディスカッションでした。
一緒にパネルをした方は、日本に長く滞在経験があり、自作の本を3冊書かれた方で、自身の無学で文字を書けなかった母親がどうやって自分に教育の機会を与え、博士を取るまでに育てたのか、という話をしてくれました。
私は主に、親による子どもへの読み聞かせの話をしました。声色を変えた読み聞かせを少し演じて見せて、読み聞かせが親子のコミュニケーションを深め、安心感を作り、子どもの想像力や好奇心を掻き立て、本に対するバリヤーを低くする効果がある、といった話をしました。
インドネシアでは、読書は知識を得るため、賢くなるために読むという傾向が今も強く、親が声色を変えて子どもへ読み聞かせをするというのは一般的ではない様子でした。親から本を与えられて、読むことを強制された経験を語る参加者もいました(でもその参加者は本好きになったそうです)。
質疑応答で、山奥の辺境地の学校で小さな図書館を作ったものの、子どもたちが本に見向きもしない、文字を読めないので本を読めない子どもが多い、本が紛失するとまずいから図書館に鍵がかけられてしまった、私はどうしたらいいのだろう、という質問がありました。
私は、知識や学びは必ずしも本だけから得られるものではない、先祖から伝えられてきた知識や学びが生活の中で生かされているはず、子どもがそこで生きる力はそうした知識や学びから生まれる(町の子どもにはないものである)、そうした知識や学びに対して外部から来た先生がどの程度これまで関心を持ち尊敬を示してきたのか、本はいずれ必要になれば読むようになるけれど読まないからといって落胆する必要はないのではないか、というような話をしました。
でも、今日出席したセッションの中で、一番引っかかったのは、午前中に一般参加者として出席した、”Narrations about Conflict and Resolution”というセッションでした。
このセッションでは、アンボンの宗教間抗争、マカッサルの反華人暴動、バンガイ群島の村落間抗争の経験談が語られました。しかし、それは、それらが起こった当時、まだ小学生ぐらいだった作家たちによる経験談で、本当は何が起こっていたのかを実感できているわけではなく、後追いで取材して映画や小説を作り上げようとしているのでした。
それ自体はある意味やむをえないことなのですが、私が頭を抱えたのは、彼らよりも上の世代のある参加者が発した問いかけでした。すなわち、「どうしてそれらの抗争や暴動は1990年代後半、スハルト政権崩壊前後に起こったのか、よくわからない」という質問でした。
スハルト時代を知らない世代がどんどん増えているだけではなく、あの時代を生きてきた世代でさえも、歴史上の出来事とその流れを捉えられなくなろうとしている、本当は何が起こったかを記憶できず、後追いで作られる「事実」に置き換えられてしまう可能性が高い、と思ったのです。
実際、1997年9月に起こったマカッサルの反華人暴動を題材とした映画を作って、華人と非華人との関係を考えたいという、華人の血の流れる若手映画監督は、当時のことを華人の方々が全く話してくれないことを嘆いていました。それを聞いて、私は「ある意味、当然だよな」と思いました。歴史とは、こうやって埃に埋もれていき、その時々の為政者にとって都合のいいように書き換えられていく、そのプロセスが綿々と続いていくのだな、と思いました。
私も、仕事柄、1990年代の抗争や暴動を、新聞記事などで丹念に追っていました。マカッサルの反華人暴動の時には、実際、マカッサルでそれを経験しました。何が起こったのかも私なりに記録に残さなければと書いてきました。それらを総合して、私なりの当時の歴史の流れと抗争や暴動との関係に関する大まかな仮説も持っています。
でも、それを精緻に再構成して、論文にして、あるいは本にして、英語版など作って、インドネシアの人々を含めた一般へ公開発表することがよいことなのか、ずっとずっと悩んできました。現段階では、発表しても誰も幸せにならないのではないか、と思い、「発表すべきかも」という思いを断ち切るために、自分をビジネス志向や会社設立の方向へ向けさせた面もあった、と気づきました。
今日のセッションの話を聞きながら、そして昨今のインドネシアの状況を考えながら、我々もインドネシアの方々も、1990年代の歴史の流れをもう一度学び直す必要性が出てきているのを痛感しつつも、自分は「もうそれはやらない」と断ち切ったはずではないか、と悶々としてしまうのでした。
1990年代の抗争や暴動の背景となる政治史の検証をやはり行うべきなのか、あるいは、外国人である自分がそこへ手を突っ込む必要はないのではないか、と、まだしばらく悶々としていかざるを得ないような気がしています。
昨日、シンガポール・チャンギ空港で、華人系インドネシア人の若者が西ヌサトゥンガラ州知事を汚い言葉で罵った話を書きましたが、それを読んでくれた友人から「あのジャカルタ暴動を知らないのだな」というコメントをもらいました。
あのジャカルタ暴動というのは、1998年5月半ば、ジャカルタの街中で広範囲に起こった暴動のことで、その標的は華人系でした。読者の皆さんのなかには、きっとまだあの時の様子を鮮明に記憶されている方も少なくないと思います。
話は変わりますが、先日4月4日、インドネシア・東ジャワ州マランのムハマディヤ大学で学生と議論した際、彼らがスハルト大統領の時代を知らないという現実を目の当たりにしました。それはそうですよね。彼らはまだ20歳前後、ジャカルタ暴動やその後のスハルト政権崩壊といったインドネシアの激動の時代には、まだ乳幼児だったのですから。
30年以上もインドネシアを追いかけてきた自分にとっても、当たり前ではあっても、まさに新鮮な驚きでした。あの時代を知らないインドネシアの若者たちにも、日本の方々に話すときと同じように、インドネシアの歴史を話さなければならないということを改めて理解しました。
私自身は、1998年5月のジャカルタ暴動の前に、1997年9月、当時、JICA専門家として、家族とともに滞在していたマカッサルで、反華人暴動に直面しました。
いつもは穏やかな人々が、あの暴動のときには人が変わったように、華人系住民を罵り、投石や放火を繰り返したのでした。邦人も華人系に間違えられやすいので、マカッサルでは、数人の邦人の家も投石の被害にあいました。今思い出すとありえないような、ものすごい量や内容のデマや噂が飛び交い、それに右往左往される日々でした。
マカッサルの反華人暴動は、貧富格差の拡大に怒った非華人系(一般にプリブミと呼ばれることもある)の人々が、富を握っているとみなされる華人系を襲ったという、社会的格差が背景にあるという解釈が一般的になっています。
しかし、渦中にいた私には、それが後付けに過ぎず、真相は別なところにあると言うことができます。その内容については、今回は詳しく述べませんが、一つ言えることは、時間が経つにつれて、様々な要素が後付けされ、真実はどんどん覆い隠され、その真相を述べることがはばかれる雰囲気が出てくる、ということです。
もっと言うと、最初は嘘だとわかっていても、その嘘が嘘に塗り重ねられていくと、嘘が本当になってしまう、歴史的にそのような解釈になってしまう、ということが言えるのかもしれません。
スハルトを知らない若者たちは、その時間を経た歴史を他人事として学び、その「事実」をもってインドネシアを知ろうとするのです。一度、国家や政府によって認定された「事実」は、覆すことが難しくなってしまいます。別の言い方をすれば、歴史とは勝者の歴史であって、敗者の歴史では決してない、ということです。
これは何もインドネシアの若者に限ったことではありません。嘘が嘘を重ねて本当になっていく、同じような現象は、世界中どこでも、そして日本でも起こっているということを改めて認識したいです。
1月26日、ISへ合流しようとしたインドネシア人とその家族が逮捕されたというニュースがありました。最初に報じたのは、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジア(CNA)でした。
このニュースが注目されたのは、このインドネシアネシア人が元財務省職員だったという点ででした。報道によると、彼の職位はIII/c級で、2016年2月に財務省を退職。疑惑が立たないように、8月15日にインドネシアを発って、まずタイに到着。その3日後にイスタンブールへ飛んだ、とのことです。
イスタンブールで彼らはイニシャルがIのインドネシア人と会い、隠れ家に連れて行かれた後、イスタンブールで家々を転々とします。そして、2017年1月16日にトルコ軍に逮捕されて警察へ連行され、1週間後にインドネシアへ送還されたのでした。
彼はオーストラリアのフリンダース大学に留学して公共政策の修士号を取っています。もし財務省でそのまま勤務していたならば、将来は安泰で、昇進も約束されていたはず。経済的にも恵まれていたのに、なぜ、ISに合流しようとしたのか、謎に包まれたままです。
ただ、これまで、インドネシアではエリートがイスラムへ傾斜する場面がいろいろありました。
1990年代以降、経済的に豊かになった華人系企業グループやそれを擁護する市場重視型エコノミストへの批判を強めたのは、イスラム知識人連合(ICMI)に集結した学者や知識人でした。ICMIは1990年に設立された知識人組織で、市場競争激化とそれに伴う格差拡大の原因は世銀・IMFによる自由主義的経済政策であると批判しました。
中央政府や地方政府では、ICMIに所属する官僚が徐々に主要ポストに就き始め、ICMIは単なる知識人連合ではなく、政策や人事にも大きな影響を与えるようになりました。そして、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比が拮抗している地方では、両者間のポスト争いが激化し、それが火種の一因となって、暴動が起こるような場面も見られました。
組織の中心メンバーには、欧米留学組も多数いました。でも、留学した者でICMIに加わらなかった者も少なくありませんでした。留学中、彼らに何があったのかは知る由はありません。でも、留学中の何かが、イスラムへ傾倒する者とそうではない者とを分けたに違いありません。
私の経験でもそうですが、福島の高校から東京の大学へ入ったときに、まず驚いたのは、福島にいたのでは想像もつかないような優秀な同世代の若者が東京には多数いるということでした。自分とは別世界の人々でした。そして、インドネシア大学に留学したときにも、まだインドネシア語がよく分からないなかで、優秀な学生たちの存在がとても眩しく見えました。
もしかすると、欧米などへ留学した者には、そうした優秀な学生たちがまさに「欧米」を体現した存在と映ったのではないか、と想像します。自分の国では優秀な学生だったのに、一生懸命勉強しても「欧米」に叶わない彼らは、どのようにして自分のプライドを守ろうとするでしょうか。
おそらく、そんな彼らを惹きつけるオルターナティブが、イスラムであるような気がします。すなわち、そこで改めて、自分がイスラム教徒であり「欧米」とは異なる者であるという自覚が強まります。そして、自分の努力が足りないのではなく、「欧米」であること自体が間違っている、その代替はイスラムである、といった感情が、イスラム知識人というカテゴリーを生み出したようにも思えます。
実際、インドネシア人留学生が海外でイスラムへの傾倒をむしろ強めていくという話は、よく聞きます。彼らがその社会から疎外されていると感じるほどに、自らのアイデンティティをそこに求めようとする傾向が強まるようにも思えます。
トルコで逮捕された元財務省の彼もそうだったのかどうかはわかりません。でも、留学先のオーストラリアで、あるいは財務省の中で、彼自身が自分の存在を否定されたり、認めてもらえなかったりしたとするならば、その代替となるアイデンティティのありかをイスラムに求め、そこに何らかの勧誘や洗脳が加われば、自分を虐げた社会への報復に自分自身を向かわせる可能性があるのではないかと思ってしまいます。
こうしたことには、おそらく、エリートであるかないかはほとんど関係ないのではないでしょうか。
どんな人間でも、自分のアイデンティティが一つしかない状態になると、極端な行動へ走る可能性が高まるのではないか、と考えるとき、その人のアイデンティティと思えるものを複数持つような状況を作ることが大事になってくるように思えます。
例えば、宗教以外に、自分の出自種族や、生活している場としての地域。出身校やサークルなどを含めても良いかもしれません。こうした複数のアイデンティティが確認できることで、自分の情緒も安定し、自分を極端な行動へ追い込む必要もなくなるのではないか。
そんなことを考えながら、改めて、様々な自分を内包して生きていくことの意味をかみしめたいと思うのでした。
今日は、第2次世界大戦中、日本占領下のインドネシア・マカッサルの歴史や当時の日本人の足跡を調べている方々が定期的に集まる「スラウェシ研究会」に出席しました。
この研究会は、当時、民政府の官吏としてマカッサルにおられた方、スラウェシ島情報マガジンというサイトを運営されている方、日本政府関係者としてマカッサルに滞在された方、などが参加し、戦時中の在留邦人の活動や証言などを掘り起こしています。
この方々は、最高齢90歳の後期高齢者となられていますが、独立以前のスラウェシのことをできるだけ後世へ伝え残したいと思いながら、自分の趣味を兼ねて、情報収集に当たられています。
今年は、できれば、マカッサルで彼らの調査研究の成果をマカッサルの人々へ還元したいと考えています。実は、インドネシアの人々も、昔のマカッサルがどうだったかということを意外に知らないのだと言います。インドネシアの歴史を教わる際、始まりはインドネシアの独立であり、それ以前の細かな実態については、ほとんど知られていないようなのです。
参考になるサイトを以下に挙げておきます。
スラウェシ島情報マガジン
スラウェシ研究会のメンバーW氏の力作です。
とくに戦前のセレベス、太平洋戦争の記録、軍政下のマカッサルは圧巻です。
彼の調べた新事実も多数含まれており、頻繁に改訂を加えておられます。
北スラウェシ日本人会ホームページ (会報タルシウス)
マナドを中心とした北スラウェシ州在住日本人会のホームページです。
とくに、会報「タルシウス」は創刊号から最新号までpdfでダウンロード可能。
貴重な論稿が多数含まれ、私も、創刊号、第2・6・8号に寄稿しました。
スラウェシと鰹節との関係、ベチャ(輪タク)はマカッサル発祥?、敗戦後の収容所での暮らしの様子、スラウェシと関わりのあった人物紹介、などなど、興味深い内容が溢れています。
ぜひ、これらのウェブサイトを訪れていただき、日本人がかつてどのようにスラウェシと関わってきたのかを少しでも知っていただければと思います。
そして、そうした先人たちの膨大な努力のうえに、我々は今、スラウェシやインドネシアと関わらせてもらっているのだということを忘れてはならないと思うのです。
今日は中国正月(イムレック)。私は東京ですが、インドネシアでも、各地で爆竹が鳴り、花火が上がり、獅子舞が繰り出し、賑やかにお祝いをしているようです。
スハルト時代から30年以上、インドネシアを見てきた自分にとっては、このお祝いをしていること自体が信じられないことのように思えます。
なぜなら、1998年5月のスハルト大統領辞任までの時代は、基本的に中国との対決姿勢をとってきており、中国正月を祝うどころか、漢字の使用も禁止されていました。華人系の人々は、身内だけでひっそりと、人目を避けながら中国正月を祝っていたのでした。
スハルト政権が崩壊し、後継のハビビ大統領の後のアブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥル)大統領の時代に中国正月を祝日とすることが決まり、その後のメガワティ大統領の時代に正式に祝日となりました。中国正月が祝日となってから、まだ10数年しか経っていないのです。
そんな歴史を感じさせる様子もなく、街中のショッピングモールでは中国正月向けのセールが行われ、中国正月を祝う赤い色で埋められています。
華人はインドネシア国籍を持つインドネシア人の一部、という認識が定着してきました。華人系の人々も、祖先の出身国である中国よりもインドネシアへの帰属意識が強くなり、華人系だから中国共産主義の手先、という見方も随分と薄れました。
スハルト時代には認められなかった華人系の政治・国防治安への進出も進み、華人系の政治家や軍人・警察官も、一般には特別視されるような状況でなくなりました。
漢字交じりの看板はあまり見かけませんが、中国語の新聞や雑誌などはけっこう出版されています。テレビやラジオでは、中国語ニュースの時間がレギュラーであり、中国語の歌謡曲やポップスも流れます。
スハルト時代に政治・国防治安への参入を禁じられていた華人系は、ビジネスの世界で生きていかざるをえず、その結果として、ビジネスは華人系企業グループが牛耳っている、という状況は、マクロで見ればあまり変わっていませんが、ミクロで見ると変化が起こっています。
すなわち、30〜40代の経営者を見ると、華人系だから優秀で、プリブミ(非華人系)だからダメ、ということはほとんど言えなくなりました。華人系でもそうでなくとも、彼らの多くは海外で教育を受けた経験を持ち、アジア全体に目を向けて英語でビジネスをし、経営手法も、かつてのような政治家と癒着したり特別扱いしてもらうことを前提としない、スマートな経営を行っています。
日本では今だに「華人系でないとパートナーとしてはダメ」といった話をよく聞きます。しかし、何を根拠にそう言えるのか(おそらく話者の幾つかの経験に基づくのかもしれませんが)、疑問に感じます。
華人系とか非華人系といったレッテルで見るのではなく、個々の経営者が優れているかどうかを見極めて、判断する眼力が求められていると痛切に感じます。
そして、華人系を中国と常に結びつける見方も適切ではなくなっています。たしかに、彼ら華人系は中国の政府や企業とビジネスを行っていますが、それは人種的な親近感に基づくのではなく、純粋にビジネスとして有望かどうかを判断して行なっているのです。非華人系でも、同じように中国の政府や企業とビジネスを行っている者が少なくありません。
スハルト時代の末期には、スハルト・ファミリーのビジネスを非華人系の代表として優先的に拡大させることを暗黙の目的として、華人系をディスる傾向が見られましたが、現在は、非華人系が政治家と結託して華人系をディスるような傾向は見られません。その意味で、何の根拠もなく、「華人系のほうがプリブミよりも優れている」といえる時代はもはや終わったのだ、と思います。
ただし、昨今の中国人労働者の大量流入や中国企業の進出を背景に、中国ファクターを政治的に使って現政権に揺さぶりをかけたがっている勢力が存在する様子もうかがえます。
ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック現知事(休職中)への攻撃も、華人系でキリスト教徒であるという点を執拗に攻めている形です。これは、あくまでもアホックへの個人攻撃とみなせるものですが、これが制御を失って、政治的に中国批判という形になってしまうとまずいです。
現に、現政権の与党・闘争民主党やジョコウィ大統領が中国を利しているとして、共産党との関係を疑うような話題も出始めており、中国ファクターを政治的に使って政権批判を行う可能性がないとは言い切れません。そして、国際政治にそれが連結した場合、今の微妙な日中関係を背景に、インドネシアにおける日本や日本人の立ち位置が難しくなりかねません。
もっとも、今のインドネシア社会では、(インドネシア人である)華人系と(外国である)中国とを区別するという態度が一般的になってきています。ですから、それほど過度に心配する必要はないのですが、一応、気をつけて見ていく必要はありそうです。
少なくとも、「華人系だから」といった色眼鏡でインドネシアのビジネスを見ることなく、経営者やそのビジネスの中身で判断する時代となっていることを理解して行動してほしいと思います。