日本へ行くのはちょっと・・・という印象

先日、スラバヤの街なかを歩いていたら、以下のような看板が目に入った。

北京・上海ツアーは8日間で650米ドル、日本歴史ツアーは7日間で1650米ドル。

このように並べられてしまうと、「日本へ行くのはちょっと・・・」という感覚にどうしてもなってしまうだろう。

何かもっと、中身をアピールする手立てはないものか。

インドネシアの人々は決して安さだけを重視しているわけではない。日本の良さを丁寧に、しかしインドネシアの人々が納得するように、アピールしていくほかないのではないか。

日本に行ってみたいというインドネシアの人々は数多い。逆に、最も安く日本へ行くのにこれだけで済む、というアプローチもありではないか。

一つの方法は、もっと、個人と個人のつながりや触れ合いを重視するようなアピールの仕方かもしれない。ホームステイや擬似的な家族づくりなど、まだまだ試すべき方法はいろいろあるだろう。

もっとも、東京の自宅は狭く、とてもお客さんを泊められるような状態ではないので、あまり大きなことも言えないのだが。

ともかく、フツーの個人どうしがもっとフツーにつながり、触れ合うことが、日本とインドネシアとの関係を深めていくのに最も効果的であると思っている。

スラバヤ・ジュアンダ国際空港にて

昨晩(3/20)、キャセイ航空で東京から香港経由でスラバヤへ戻った。到着したのは、スラバヤ・ジュアンダ国際空港第2ターミナル。昔の空港をリノベーションして、新空港としたものである。

今回は、国際線到着では初めての利用になる。イミグレは空いていて、すぐ自分の番に。ところが、「別室へ行け」と言われる。何か問題があったのか。

別室にはいやな思い出がある。インドネシアへ初めて入国した1985年8月。インドネシアがビザなしで入国できるようになったはずなのだが、情報がはっきりしない。オドオドしながら、パスポートを手に並んでいたら、係員が「こっちへ来い」と別室に連れて行かれた。椅子に腰掛けると、係員が「ドラール、ドラール」という。最初は何を言っているのか分からなかったが、インドネシア語でドルと発音しているのだった。当時、インドネシア語がまだできなかったので、「ノーノー」というと、私に財布を出せと命じる。恐る恐る財布を出すと、財布の中のシンガポールで換金してきたルピアの束から1万ルピアを勝手に抜き出し、「オッケー」といって入国スタンプを押して、開放された。

それが、私の最初のインドネシアだった。聞かされていたとおり、なんて汚い国だとそのときは思った。出迎えに来ていた私のインドネシア語の先生が、彼の家のある西ジャワ州チマヒに着くまでずっと謝っていた。その後の、彼のカンポンでの様々な楽しい思い出がなかったら、私はインドネシアが大嫌いになっていたことだろう。

今回も、そのことが頭をよぎった。が、よく聞いてみると、外国人居住者用の出入国スタンプがイミグレカウンターにないという。あり得ないと思った。またダマされて金銭を要求されるのか。

別室の前へ行っても警戒は解かなかった。係員が私のパスポートを持って中に入り、しばらくすると、出てきた。入国スタンプが押されていた。

その後、荷物を受け取り、税関へ。ジャカルタでは手荷物だけをX線に通すのだが、なぜかスラバヤのここでは、すべての荷物を通すのだった。

空港に到着し、税関を抜けて外に出るまで、わずか20分。空いているということもあるが、かなり早かった。外に出る手前にタクシーカウンターがあり、そこでチケットを買って、タクシー乗り場へ。

新車のタクシーは匂いがきつく、運転も荒かったので、久々に酔いそうになった。

ともあれ、スラバヤの自宅に無事、夜9時すぎに到着。寝る前に短い原稿を1本書こうと思ったが、やはり睡魔には勝てず、今朝、朝一で書き上げた。

 

水俣・・・祈り

3月16〜17日、水俣へ行ってきた。地元学を主宰する吉本哲郎氏にお会いし、自分なりに地元学を再学習する旅であった。地元学は深く新しく進化していた。

珠玉の言葉がたくさんあった。久々に目からうろこ状態になった。それらは、まだ自分のなかで十分に咀嚼しきれていない。自分のなかでまだなじんでいない。吉本さんの言葉を自分のものにするためには、まだ熟考と時間が必要な気がする。それらをブログに書いてしまうと、薄っぺらいものになってしまいそうな気がする。

人に何かを伝えるためには、言葉をもっと大切にすること。哲学や美学が必要であること。原理主義を排し、現実から出発すること。

水俣は、複合的な差別の渦巻く場所だった。そして今もそれを拭えていない。

水俣病患者への想像を絶する差別の嵐のなかで、なぜ、水俣病を患った故杉本栄子さんが「チッソを赦す」境地へ至ったのか。「人様が変わらないなら自分が変わるしかない」と思うに至ったのは、チッソが正しかったと認めたわけでは断じてないのだが。

果たしてチッソはそれを深い意味で受け止めているのか。自分に都合の良い薄っぺらい解釈で「ラッキー」と思っているにすぎないのではないか。

他方、福島第1原発事故で苦難を余儀なくされている方々は、この杉本さんの気持ちを深く理解できるだろうか。でも、政府や東電も、もしそうした赦しがあれば、自分たちに都合よく、薄っぺらく「ラッキー」と思うだけではないだろうか。

敵を赦す境地に至るとは、どれだけ壮絶なものか、理解できるだろうか。そして、それがなければ、水俣は前に進めなかったことを。それなしには、杉本さんが生きていけなかったことを。

祈りが大事だ、と吉本さんは言った。

水俣湾に面した記念公園に患者さんが置いた、点在する石像の写真を見直しながら、その意味を反芻している。

祈り。哲学。美学。そして覚悟。本物を創る意思。

東日本大震災から3年

先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。

静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。

あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。

頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。

この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。

復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。

希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。

3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。

諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。

だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。

諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。

私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。

私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。

今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。

このことを、改めて、肝に銘じている。

【スラバヤ】ラーメンバーガー@ラーメン希

食べたいけどどうしようかな。見るからに超ジャンクっぽいし・・・・。気にはなっていたが、なかなか食べようという気になれなかったのが、スラバヤのユニークなラーメン店、ラーメン希(のぞみ)のラーメンバーガーである。

たまたま、日本からお客さんが4人来ていて、私の本ブログで気になっていたラーメン屋に食べに行きたいということで、これがチャンス、とラーメン希へお連れすることができた。今度こそ、ラーメンバーガーだ。

各自、好きなラーメンを注文した後、一番年齢の若そうな客にラーメンバーガーを勧めたところ、乗ってきた。結局、4人で少しずつ味見をすることにした。

ラーメンバーガーは、オニオンリングやフライドポテトを従えて現れた。

これを4つに分けると、何となく広島風お好み焼きのように見えた。

肝心の味だが、意外にいけるのだ。思ったよりも油っこくなく、中身の具との相性もそれほど悪くもない。とはいっても、4等分したものでの評価なので、全部食べるとちょっと重くなるかもしれない。

でも、炭水化物大好きな若い子たちには意外に受けるのではないか、と思った。

ラーメン希には、さらなる挑戦を期待したい。

マラン市のゴミ銀行(連絡先追加)

3月1日、たまたま国際会議でスラバヤを訪れていた、前の職場の後輩研究者にお願いして、マランへのフィールド・トリップに同行させてもらった。彼はバンドン工科大学のエンリ教授からの誘いで、マラン市のゴミ銀行(Bank Sampah Malang: BSM)を見学に行くことになっていた。

マラン市のゴミ銀行の話は、2013年11月30日のジャワ・ポス・グループによる「地方自治賞」受賞式の際に、経済発展部門でマラン市が最優秀賞を取った際の受賞理由の一つに挙げられていた。いずれは見に行きたいと思っていたので、今回はまたとないチャンスと思ったのである。

マラン市のゴミ銀行は2011年に設立されたが、市民からはゴミ処理場を勘違いされて、最初は設立反対の声が多かった。市内に適当な場所が見つからず、結局、市営墓地の管理事務所に設立することとした。この管理事務所は、以前、オランダ植民地時代には遺体安置所だったということだが、ここを改修して、事務所として使うことになった。

ゴミ銀行は70種類のゴミに分別し、それをいくらで買い取るかの価格表が用意されている。ゴミ銀行の利用者は、ゴミ銀行に直接ゴミを持ち込むこともできるようだが、一般的には、ゴミ銀行の職員が出向いた際、そこへゴミを持ってくることになる。ゴミは、できれば予め、70種類のゴミ分別表に基づいて分別したうえで持参し、そこでゴミ銀行員の係員が帳簿をつける。そこでの記録に基づいて、各預金者のゴミ預金通帳に記載が行われ、「どんなゴミをどれだけ持ち込んだことでいくらお金に代わったか」が一覧表になって示される。

このゴミ銀行の預金を使って、コメや食用油などスンバコと呼ばれる生活必需品を購入したり、電気料金を支払ったりすることができる。「スンバコを買って、ゴミで支払いましょう」と書かれている。

一般には、地域ごとに預金者個人をひとまとめにしたグループが作られ、預金者個人の通帳に加えて、グループ全体の通帳も作られる。グループ全体の通帳に記載される額は、各預金者個人の通帳に記載された額の合計額になる。1グループは20人以上の預金者で構成される。

現時点で、320グループ、175の学校、グループに属さない400人、30の組織がゴミ銀行の顧客となっている。

ゴミ銀行は、預金者から集めたゴミを業者や工場などへ売って利益を得る。昨年の年間売上額は2億ルピア、純利益は2000万ルピア程度出ている。

ゴミ銀行では、ゴミを使ったバイオガスの実験も試みている。

また、ミミズを増やす試みもしている。

ゴミ銀行の裏は、様々なゴミの分別場となっていた。

ゴミ銀行の連絡先は以下のとおり。

Bank Sampah Malang (BSM)
Jl. S. Supriyadi No. 38A, Malang
Tel. 0341-341618, Fax. 0341-369377
Email: banksampahmalang@yahoo.com
Contact Person: Bapak Rahmat Hidayat, ST (Direktur BSM),
0812-3521-4545, 0341-7779912.

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今回は、ゴミ銀行以外に、住民主体で運営しているゴミ分別場や、環境に配慮したゴミ処理場も見学した。

住民主体で運営しているゴミ分別場はムルヨアグン村にあり、住民による1日30立方メートルものゴミのブランタス川への投棄が問題となり、2008年に村長が川へのゴミ投棄を禁止した。そこでの対策ということで、村にゴミ分別場を作り、無機ゴミの食べかすを家畜の餌に、それ以外は処理して業者へ売るほか、有機ゴミをコンポストにするなどの対策をとった。毎朝、ウジ虫を収集して養魚池にまくことで、ハエの発生を95%減少させたという。

政府からは、まず畜産局からヤギが11頭与えられ、糞を堆肥作りに活用する。乳は従業員たちで飲む。水産局からナマズの稚魚が提供され、残飯などを与えて、ナマズを養殖する(写真下)。

このゴミ分別場は、現在、7600世帯からのゴミを1日64立方メートル処理しているが、処理能力に限界があるため、規模の拡大は考えていない。すべての作業は1日で終わらせる。77人が雇用されている。

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最後に訪れたのは、マラン県のタランアグン・ゴミ処理場で、ここは観光も兼ねたゴミ活用の学習施設と銘打っている。

実際、ゴミから発生したメタンガスをコンロや電灯などに使っている。空き缶を使ってブロックで仕切った簡易なコンロ「ノナク」(私の彼女、という意味)は面白かった。

ゴミから出た汚水を植物用にまいたりもしており、その成果なのか、発育が良いものがあるということだった。

ゴミ処理場へ向かう道には、様々な植物が植えられ、緑の多い、きれいな公園のようである。前の職場での後輩の研究者は、様々なゴミ処分場を訪問しているが、こんなきれいなところは初めてだと驚いていた。

ゴミ処理場にパイプが引かれ、そこを通じてメタンガスが実験棟へ送られている。

まだまだ改善・改良を余地はあるだろう。もしかしたら、日本の技術を組み合わせると、もっと面白いことが起こるかもしれない。

ともあれ、東ジャワ州には、こうしたゴミを生かす試みが様々に行われている現場がある。インドネシア発の様々な試みをじっくりと注目していきたい。

【クドゥス】さすが本場のソト・クドゥス

昼食としてはナシ・オポールで十分満足しつつも、本場のソト・クドゥスを食さずして、クドゥスを去る訳にはいかない。

向かった先は、クドゥスのやや大きめのパサール(市場)の一角。下の写真が入口。

中に一歩入ると、右も左もソト・クドゥス屋。何軒ものソト・クドゥス屋が軒を並べている。いずれもずいぶんと年季の入った店構えである。

筆者が入ったのは、Bu Ramidjanという店。どの店もカウンター形式で、客の目の前には様々なソト・クドゥス用の食材が並び、客が好みの食材を入れるよう告げると、その向こうで、おじさんやおばさんが手際よくソト・クドゥスを作ってくれる。

注文する際、「肉は鶏肉にするか、水牛肉にするか」と聞かれた。ソト・クドゥスといえば鶏肉だと思っていたのでちょっとびっくり。でも、もともとは水牛肉が元祖だったらしい。そこで、水牛肉にしてもらう。そういえば、チョト・マカッサルも、もともとは水牛の肉と臓物を食べるための料理だった。
これが水牛肉のソト・クドゥス。ご飯が中に入っているので、正確にはナシ・ソト・クドゥス。水牛肉なので固いイメージが合ったが、ええーっと思うくらい、柔らかくなった肉だった。水牛に特有の生臭さもない。
このソト・クドゥス、絶品だった。こんな美味しいソトを今まで食べたことがないぐらい、絶品だった。水牛肉の柔らかさ、キャベツやもやしの適度なシャキシャキ感、それに絡むスープとご飯、アクセント役の揚げニンニク。もう、たまらない。この美味しさを言葉にすることは難しい。これを食べるためだけでも、クドゥスに来て本当に良かったと思えた。
ソト・クドゥス屋では、最初に「ソトにするか、ピンダンにするか」と聞かれる。ピンダンというのは、酸っぱい味のスープである。次に「肉は鶏肉か、水牛肉か」と聞かれるのである。ちなみに、一緒に連れて行ってくれた運転手くんは、水牛肉のピンダン(下写真)を頼んだ。
ジャカルタでは、おそらく水牛肉を使ったソト・クドゥスは見かけないだろう。また、ピンダンを一緒に出すソト屋もないだろう。本場のソト・クドゥスに出会えてよかった。
余談だが、このBu Ramidjanという店で料理を出してくれたのはおじさんだったが、ふと向かいを見ると、同じようなソト・クドゥス屋があり、店の名はPak Ramidjanだった。そこでは、おばさんがソトを出している。この両者、どういう関係になっているのか聞いたが、要領のいい答えはもらえなかった。謎である。

トンプの人々と陸稲

先ほど、フェイスブックで友人から興味深い投稿があった。インドネシア・スラウェシ島の中央部、中スラウェシ州のトンプという村での人々と陸稲との関係についてのエッセイである。

トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。

今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。

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「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。

トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。

「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。

もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。

旗のように残ってしまった我が同胞よ
涙がもう流れてきます
涙がもう溢れてきます
涙とともにお迎えに参ります

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インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。

そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。

インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。

【クドゥス】ナシ・オポール

スマランへ出張に行った際、たまたまクドゥスへも足を運んだ。クドゥスは、先般の大雨で川が氾濫し、川沿いから町中へかけて大洪水となり、道路が寸断された。筆者が行った時には、ちょうど、洪水でガタガタになった幹線道路の改修工事が行われていた。

ところで、クドゥスといえば、やはり食べなければならないのがソト・クドゥス。茶色っぽいスープに鶏肉の入った、ご飯との相性バッチリのソト・クドゥスは、ソトが大好きな自分の中では最も好きなインドネシア料理である。

ところが、運転手くんは、前日にスマランでソト・アヤム・バンゴンを食べたからという理由で、オポール・アヤムの店へ連れて行かれた。この店もクドゥスでは有名だそうで、特徴は、丸ごとの鶏肉ではなく、細かく切った鶏肉の上からココナッツミルクのソースがかかっていることである。

店の名前は、Nasi Opor Sunggingan。エアコンのない、普通の店構えである。出てきたナシ・オポールはこれ。
細かく裂いた鶏肉の上にココナッツミルクのソースがかかり、テンペや豆腐が添えられている。右下の緑色の葉っぱは・・・。

なんと、スプーンの代わりなのである。これでナシ・オポールをすくって食べる。これもなかなか乙なものであった。通常のオポールのようなこってり感はなく、あっさりした美味しいオポールだった。

しかし、やはり本場のソト・クドゥスを食べずに、クドゥスを離れるのは惜しい。そこで、ランチ第2弾、ソト・クドゥスを食べにもう1軒立ち寄ることにした。

この続きは次回。

【スマラン】毎度おなじみジャワの庶民料理

2月半ば、中ジャワ州の州都スマランで、毎度おなじみのジャワ料理を堪能してきた。

まずは、筆者が最も好きなペチェル(Pecel)。青菜、キャベツ、もやしなどのゆでた野菜に甘辛いピーナッツ・ソースをかけ、豆や小魚を入れたペイエ(Peye)と呼ばれるセンベイをかじりながら食べる。ジャワでは最もポピュラーな庶民料理で、ペチェルにご飯をつけたり、アヤム・ゴレンやテンペなどをつけることもできる。

今回訪れたのは、スマラン中心部シンパン・リマ(五叉路交差点)のフードコートにあるンボ・サドル(Mbok Sador)。この店だけが、長い行列を作っていた。

スラバヤで食べるペチェルと比べると、ピーナッツ・ソースがややあっさりで、より液状になっている。今回は、ご飯を付けなかったが、ヘルシーフードとして毎日食べても飽きない味だった。

次に紹介するのが、ソト・アヤム・バンコン(Soto Ayam Bangkong)。この店は、ジャカルタにもマカッサルにもあるが、スマランが本店だということを今回はじめて知った。店はシンパン・リマの割と近くにある。一見するとちょっと広めの何の変哲もない、エアコンもない素朴な店。お目当てのナシ・ソト(ご飯入りソト)を食べた。

ナシ・ソトと一緒に、プルクデル(小ぶりの芋コロッケ)、鶏皮の串刺し、ウズラの卵の串刺し、などが出てくる。ウズラの卵の串刺しと一緒にナシ・ソトを食べるのが、私のお気に入り。

スマランのソトは、スープが薄味で、トマトのかけらが浮いているのが特徴である。細かく切った揚げニンニクが香ばしい。

この店の椅子の配置が面白い。四角いテーブルを4つの長椅子が囲む形になっているのだ。店の人に聞いたが、理由はわからなかった。相席の見ず知らずの人々も、ここでナシ・ソトをすすりながらテーブルを囲むのは、何となくいい雰囲気である。

これらの料理は、スラバヤでももちろん食べられるが、スマランの場合、おいしくて、値段がスラバヤよりも安い感じがする。

日本料理屋や高級レストランの少ないスマランだが、こうしたジャワの庶民料理にはヘルシーで栄養価の高いものも少なくないのである。

出発当日、鉄道切符の払い戻しは?

先日のクルド火山噴火で、今週、2月16〜18日に予定していたソロへの出張が延期になった。スラバヤからソロへは航空便がないので、鉄道を利用する。おおよそ3時間程度なので、さほど苦にはならない。

さて、今回、その切符の払い戻しをするために、スラバヤ・グベン駅へ行った。2月16日、本来なら出発する日である。当日のキャンセルなので、まあ、半額でも20%でも払い戻しできればラッキー、払い戻しできない可能性もあるな、という軽い気持ちで行った。

結果は・・・。意外だった。2月16日のスラバヤ発ソロ行きの切符は、当日ということでダメだと思ったら、「当日なのでこの場で処理する」という理由で、全額、その場で戻ってきた。一方、2月18日のソロ発スラバヤ行きの切符は、「マニュアルで処理しなければならない」という理由で、1か月後以降、25%の手数料を引いた額が払い戻される。

すなわち、インドネシアでは、切符の払い戻しをする場合、少なくとも乗車駅で当日に払い戻すと、100%その場でお金が戻ってくるのである。

参考になれば幸いである。

クルド火山噴火、スマランから戻って

先週は、2月12〜14日の予定で中ジャワ州スマランへ出張していた。用務は順調に進んでいたが、14日朝、東ジャワ州のクルド火山が噴火したとの報道を聞いた。スラバヤでも火山灰が降っているらしいが、それを聞いたとき、スマランはまだその徴候はなかった。

14日朝9時過ぎ、スマラン空港でジャカルタから来た方と合流し、車に乗って訪問先へ向かおうとしたとき、チラチラと白い粉が空から舞い降りてきた。火山灰だった。

このとき、なぜか、3・11の後、原発が爆発した直後、福島県双葉地方に降ったという白い物体のことを思った。

空港には、すでに火山灰で真っ白な車もあった。中ジャワでも、サラティガから南は火山灰に覆われているとのことだった。ジョグジャカルタの友人から電話があり、火山灰が降っていて外には出られない状況とのことだった。スマランの状況からはちょっと信じられなかった。

間もなく、スマラン空港は閉鎖になった。そのときすでに、スラバヤ、マラン、ジョグジャカルタ、ソロの各空港は閉鎖になっており、日帰りの予定だったジャカルタから来たばかりの方々が慌て始めた。もちろん、私のスマラン発スラバヤ行きの便も早々にSMSでキャンセルのお知らせが来た。

用務の合間に、ジャカルタから来た方々の帰りの鉄道の切符確保と私の鉄道の切符確保に走った。その頃にはすでに、スマラン発ジャカルタ行きのほとんどの切符は売り切れになっていたが、スマラン発スラバヤ行きの切符はまだまだ余裕があった。

ジャカルタから来た方々はスマランに1泊して、翌15日朝発の鉄道列車のビジネス席に乗って帰ることになった。私は、15日午前2時半発の夜行列車でスラバヤへ戻ることにした。

1泊を余儀なくされたジャカルタから来た方と夕食を共にし、その後、深夜までワインなど飲んで、すっかり気分が良くなっていた。私はスマラン・タワン駅へ向かい、1時間遅れて着いた夜行列車に乗り、ワインの酔いのせいもあり、スラバヤまですっかり熟睡した。

スラバヤ・パサールトゥリ駅に午前7時過ぎに到着し、タクシーに乗って無事自宅に到着。あーあ、疲れた、と思ってカバンを開けたら・・・。

ない。ない。ノートパソコンとiPadがなくなっている。一体、どこで・・・。

そういえば、列車を降りるとき、網棚の上に置いたカバンの位置がちょっと違っていたのが気になったが、まあ、列車が揺れたりして動いたのだろうと思って、気にしなかった。そして、なぜそのカバンに、今回だけは鍵をかけなかったのだろうか、と後悔したが、後の祭りだった。

手元のiPhoneでiPadを探してみるが、オフラインのままで反応がない。

でも、幸い、パスポートやクレジットカードは無事だった。パソコンのデータもクラウドに保存してあったので、実害はほとんどなかった。

最近、ちょっとポカが多くなった気がする。この間も、パレンバンで古いデジカメを盗られた。年齢のせいなのか、疲れているためなのか。

ショックだったが、しょんぼりしてはいられない。土日を使って、月曜締切の原稿2本、火曜締切の原稿2本を書かなければならないのだ。

とにかく、すぐに代わりのパソコンを手にしなければならない。思い切って、MacBook Airを購入し、18日(火)までに4本の原稿をそれで書いた。このブログもそれで書いている。

原稿を書き終わった後、本当に久しぶりに2時間、昼寝をした。ほんとうに本当に久しぶりによく寝た。

スラバヤは連日の激しい雷雨で、クルド火山の火山灰はほとんど洗い流されていた。16日朝にはスラバヤ空港も再開し、見た目には、噴火の影響は何もないように見える。しかし、スラバヤから車で2時間も行けば、火山灰に覆われ、避難を余儀なくされた人々の場所がある。

スマランからスラバヤへ向かう列車の中で、ボジョヌゴロ付近からしばらく、空の白が異常なほど濃くなっているのが見え、その上に、顔面蒼白のような太陽が見えた。それを見ながら、怖いと思った。再び、3・11後の福島県双葉地方のことを思っていた。

言葉が下手だからコミュニケーションできない・・・

今日、用事があってスラバヤ市政府の役人と会った。インドネシア語でいろいろ説明していると、その途中で先方が言い出した。「せっかくこちらがお前を助けてあげようとしているのに、お前の言葉が下手だからコミュニケーションができない」と。要するに、私とは話をしたくない、という婉曲表現である。

助けてあげたいのにできない、というのも彼らの常套文句で、助ける気などこれっぽっちもないのに、恩着せがましく言うのである。

この役人は、私がいきなりアポなしで会いに来たのが気に入らなかったのである。私は、来週スラバヤに来る訪問団のアポを取るため、正式レターを出す前にどの部署を訪ねるのがよいか、探るために出かけたのである。インドネシアでは進んでいるといわれるスラバヤ市政府でも、全ての部署の電話やメルアドが明記されている訳でもなく、また電話しても途中で切られてしまうことが少なくない。今回、ある程度当たりを付けてから、レターを出す心づもりだった。

でも、役人はレターなしで来る人間には極めて冷たい態度をとる。もしそうなら、あの不愉快な役人は私と会うのを拒み、「レターがなければ会えない」と言いさえすればよかったのだ。それを面会に応じ、いやそうなそぶりを見せながら「お前を助けたいのに、お前の言葉が下手なせいで助けられない」などとわざわざ言うのである。結局、結論は「レターを出せ」なのであった。

こうした経験は、スラウェシやマカッサルにいた時にはまずなかった。数少ない経験ではあるが、それはいずれもジャワでの経験である。言い訳になるかもしれないが、これは決してジャワを悪く言いたいがための話ではないことを断っておく。

ふと25年近く前の出来事を思い出した。前にもブログに書いた話かもしれないが、もう一度書く。あのときは、ジャカルタで日本から来た専門家のセミナーで、慣れないながらも通訳をさせられた。セミナー出席者は模範工場を見学し、その感想を述べる場面で、その模範工場の欠点ばかりを指摘した。専門家は「本当に欠点ばかりだったのでしょうか。ご自分の工場と比べてよかった点は率直に認めることも必要ではないでしょうか」と述べた。私はそれを通訳した。
まとめのセッションで、参加者の感想を述べ合う時間が来た。そこで参加者のほとんどは、「通訳のインドネシア語が下手だからよく分からなかった」と述べたのである。私は泣きそうになった。セミナー参加者は、専門家の言葉に直接反論できないので、通訳を標的にして、自分たちが劣っているということを面前で認めずに済ませたのである。私は、そのいやらしさを痛感しながら、「自分の通訳の能力不足のせいなのだ」とセミナー参加者へ何度も詫びた。
あのときと同じ「いやらしさ」を、今日の役人との面会で久々に感じた。
言葉が下手だからお前とはコミュニケーションできない、と言われれば、そりゃあ、30年近くインドネシアと付き合い、インドネシア語でやり取りしてきたとはいえ、外国人のインドネシア語だし、と思うほかない。この30年で、インドネシア語も相当に乱れてきており、高校生の書くインドネシア語の文章などびっくりするぐらい下手で、赤ペンで添削したくなるようなレベルなのだが、私のはあくまでも外国人のインドネシア語、そう思うことにしている。
気分的なものにすぎないのだろうが、こうした「いやらしさ」の経験が、私自身、どうしてもジャワというものを心の底から好きになれない要因となっていることを否定できない。

日本出張から戻って

1月30日にジャカルタを出発し、2月7日にジャカルタへ戻ってきた。今日(8日)はジャカルタで仕事があり、明日(9日)昼過ぎにスラバヤへ戻る。

今回は、前回の年末年始帰国とは違い、仕事のための帰国だった。2月4~6日に講演やレクチャーなどがびっしり入った。そこで、比較的余裕のある1月31日~2月3日は福島、滋賀、大阪へと動こうと思っていたのだが…。それらはすべてキャンセルとせざるを得なくなった。

福島、滋賀でどうしてもお会いしたい人がいた。今の自分にとって、一番、会って直接お話が聞きたい人だった。

何というタイミングで妻が病気で寝込んでしまったのだろう、と、本当に残念だった。大学受験生の娘もいる。キャンセルした後、ずっと家で、久々に料理を作ったり、洗濯をしたり、家事らしいことを少しやってみた。「お父さんの作る料理はおいしい」と娘からお世辞を言われるのも、まんざらではなかった。

自分にとって、何が大事なのか。大事なものの優先順位を改めて自問した。言うまでもない。何よりも大事なのは、家族だ。

今、自分がこうして、インドネシアを拠点に単身で活動できるのも、家族が健康で元気に過ごしてくれているという安心感があってこそである。いつでも電話やメールで連絡できると分かっているからこそ、1ヵ月に1回しかやりとりしなくても、便りがないのはよい便り、と思うことができる。こんな家族生活を始めてから、すでに7年以上が経った。

チャンスはそうそうあるものではないから、チャンスがあったら絶対に逃すな、という言葉には真理がある。しかし、チャンスを得ることで大切なものを失うこともある。もちろん、逆に、チャンスを逃して、なおかつ大切なものを失うこともある。欲張りな私は、チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。

でも、目の前で寝込んでいる妻を見捨てて、福島、滋賀、大阪へ出かけることはできなかった。

幸い、妻の状態は6日までにずいぶん持ち直した。すぐに回復することを願う。

自分は甘いのかもしれない。世の中で何かをなした人たちのなかには、家族を犠牲にしたり、極貧の状態にあえいだり、病気になったりしても、自分がなすべきことをなそうとして実際になした人々がおり、後世ではその生き方が称賛されたりもする。私はそこまで行けない。

2月5日・6日は、朝から晩までほぼ全日、かなりの数のアポが入った。それを懸命にこなしながら、ふっと気を抜くと、寝不足ということもあり、風邪を本格的に引きそうな、あるいはふらっとそこに倒れてしまいそうな、そんな気分になった。

その意味で、翌7日、家でゆっくり休まずに、飛行機に乗り、インドネシア・ジャカルタへ飛んできてしまったのは、良かったのかもしれない。今のところ、日本で乾燥した皮膚がちょっとボロボロになる程度で済んでいる。

真剣に生きる、ということを、今まで以上に強く思い始めている。チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。欲張りな自分でいきたい。

パレンバン訪問(その2): カンポン・カピタン

デジカメを盗まれた後、乗合に乗ってムシ川にかかるアンペラ大橋を渡って、対岸へ。対岸にはカンポン・カピタンという名前の華人系の人々が古くから住む集落がある。話を聞くと、どうもこちらのほうが市外よりも歴史が古く、パレンバン自体がもともとはカンポン・カピタンから始まったといってもよいようなのである。

細い道を川のほうへ向かって入って行く。質素な家が立ち並び、家の周辺は湿地のような景観である。その一角に、カンポン・カピタンはあった。

カンポン・カピタンに住んでいるのは華人系だけではない。マレー系の人々も住んでいるが、けっこう前の代から住んでいるようである。ここにいると、川から風が吹いてきて、とても気持ちがよい。しかし、川から水があふれて洪水となるのは茶飯事のようで、家も、高床のような構造であり、洪水と共存した生活になっている。

この長屋の向かいには、漢字で書かれた小さな祠が建てられていた。南無阿弥陀佛と書かれている。

さらに、川と反対方向へ行くと、別の長屋のような集合住宅が集まっているところへ出た。ここがカンポン・カピタンの中心と言ってもいい場所のようだ。カピタンというのは、華人系住民の長を指す名称だが、ここでのカピタンは「蔡氏」のようだ。

上の3枚のうち真ん中の写真がカピタンの家。この辺では最も古い建物である。ここを守っているのは、蔡氏の13代目とのことである。多くの親族はカンポン・カピタンを離れ、ジャカルタやシンガポールなどで活躍し、富豪になった者もいる。

カピタンの家の隣が、中国寺院になっている。

中国寺院の隣のカピタンの家には、歴代カピタンの位牌の置かれた廟があった。歴代カピタン一人一人に線香を立てる灰置きがあるはずなのだが、1個を除いて、すべて紛失したという話である。誰が盗んだのかはまだわかっていない。

これら中国寺院や廟の裏が、ここを守る蔡氏13代目の家族が住む、広い長屋のような空間である。

周辺では、子供たちの歓声がこだましていた。子供たちがアイスキャンディー売りに群がっている光景がなつかしい。

カンポン・カピタンに来る前に見た、インスタントな薄っぺらな文化とは相当に異なる世界が、ムシ川の対岸にあった。

ムシ川にかかるアンペラ橋は、夜になると様々な色にライトアップされる。カンポン・カピタンから眺めるイルミネーションは、予想以上に見事だった。あまりにも見事だったので、帰りは歩いてアンペラ橋を渡った。とても気持ちのいい散歩であった。

パレンバン訪問(その1)

インドネシア34州のうち、まだ行ったことのない州が5つある。そのうちの一つ、南スマトラ州パレンバンへ思い切って行ってきた。実質わずか1日という短い滞在だったので、いろいろ見えていないところもあるが、とりあえず、書き留めておきたい。

なお、パレンバンの食べ物編は、追って、食べ物ブログ「食との出会いは一期一会」に書きたいと思う。

パレンバンに着いたのは1月24日夜。片側三車線の広い道路を走る車はまばらだ。道路を渡るには、何が何でも歩道橋を渡るしかない。ここの歩道には、何も置かれていない。何も置かれていない本当の歩道。歩道の下は暗渠排水路となっている様子。

しっかりと整備された道路と夜の人通りの少なさから受ける印象は、「パレンバンは真面目な町」というものだった。夜中に小腹がすいても、食べに行くところがない。

夜のパレンバンに、大モスクとその前にある噴水が光っていた。この噴水は、パレンバンで東南アジア・スポーツ大会(SEA Game)が開催されてからは、SEA Game噴水と呼ばれているそうである。

一夜明けて、街には喧騒があふれていた。道路を通る車の台数は多く、裏道はあちこちで渋滞している。通りには店が立ち並び、市場は人の波で活況を呈していた。

さっそく、前の晩に見た大モスクへ行ってみた。このモスクは、表側が近代的な建物になっているが、裏側は古い建物が残されている。その古い建物の形がユニークなのだ。鐘楼のような高い建物が一番古く、隣の建物の屋根には黄色のヒレのようなものが付けられている。これは龍をかたどったものなのだろうか。

大モスク(Mesdjid Agung)は1748年、パレンバンのスルタンであるマフムッド・バダルッディン1世によって建てられた。建立に当たっては、地元華人たちの支援が大きかったのかもしれない。それが何となく中国風の屋根の形に反映されているように見えるのである。

大モスクから歩いてすぐのところには、スルタン・マフムッド・バダルッディン2世博物館がある。どんな博物館なのか、中に入ってみた。

パレンバン周辺は、4~14世紀頃に栄えたスリウィジャヤ仏教王国の中心であるが、それに関する記述や展示は極めて少ない。スルタンの博物館ということで少ないのはやむを得ないのかもしれないが、石器時代の次にそれと同等の小さな扱いだったのがちょっとびっくりした。

展示物の中に「古い書き物」というものがあり、どれぐらい古いかと思ってみてみると、1800年代のカガナ文字による書き物であった。1800年代の書き物が「古い書き物」なのだ・・・。あたかも、パレンバンの歴史は、スルタンの時代から始まったかのような展示物であった。スルタンの時代以前は先史時代であり、スリウィジャヤ仏教王国の存在には触れるものの、基本的にパレンバンの歴史は実質上スルタンの時代から始まったかのような印象を受ける展示だった。

博物館から少し川岸へ歩いたところで、船を雇い、ムシ川に浮かぶクモロ島という島へ行ってみた。この島には九重塔があり、土日はたくさんの市民がやって来る観光地である。

島に着いて、中国(風)寺院があった。赤や黄色で塗られ、そこに描かれる絵は伝統を感じさせるものではなく、ささっと書いたような稚拙な絵だった。寺院自体は1960年に建立され、2010年にこのケバケバしい色で改築された。

九重塔はその先にあった。2006年に建てられたものだが、建物自体は、まるで巨大な張りぼてのような建物だった。もちろん、そこに描かれている絵は稚拙そのもので、何ら、寺院らしき厳かな雰囲気を感じない。

そう、このクモロ島の寺院も九重塔も、一言で言って、安っぽいのである。文化のかけらも感じることができない。

こんな場所でも観光地となり、休みの日には大勢の市民が訪れ、それを目当てにしたヤシジュース屋が何軒も店を出すのだ。

雨がぱらつくなか、クモロ島を後にして、博物館近くの船着き場へ戻る。船着き場とクモロ島の間には、インドネシア国内最大の国営尿素肥料工場があり、船上でもアンモニアの匂いが相当にきつかった。

船着き場からベチャに乗って、ンペンペを食べて、ぐるっと街歩きをした後、ムシ川にかかるアンペラ橋を渡って、対岸へ行ってみることにした。橋を渡る乗合をさがして、乗り込んで「さあ出発」と思ったとき、乗合の前座席のおじさんが「あんたのカバンからさっき何か盗まれたよ」というので、「えっ?」と思ってカバンを探ると、ポケットに入れておいたお古のデジカメが消えていた。おじさん曰く、犯人は3人組の若者だったようだ。

ガクッと気落ちしたまま、乗合で橋を渡り始めた。

(その2に続く)

インドネシア語雑誌でラーメン特集

インドネシアでも、ジャカルタやスラバヤを中心に広がってきたラーメン・ブーム。とうとう、インドネシア語の食品関連雑誌Yuk Makan.comの2014年1月号は、大々的にラーメン特集を組んだ。

同誌のウェブサイトは以下だが、残念ながら、ウェブ上で雑誌を読むことはできないようだ。

YukMakan.com (インドネシア語のみ)

ラーメン特集は2部構成になっていて、第1部が日本のラーメンの紹介、第2部が「編集部の選んだラーメン店」となっている。

「中国で生まれ、日本で有名になった」と題された第1部の日本のラーメン紹介は、ラーメンの歴史から説き起こされた後、日本各地のラーメンの特徴を紹介している。

北海道では、釧路ラーメンは「スープはそれほど濃くなく、麺は少なめで滑らか」、北見ラーメンは「スープは玉ねぎベースで醤油味が効いている」、旭川ラーメンは「縮れ麺」、札幌ラーメンは「日本人の最も好きなラーメン。スープはみそ味だが、初めて紹介されたときは塩味だった」、函館ラーメンは「スープは塩味で、中国古来の雰囲気あり。ラーメンの上に粉チーズをたくさん書ける店がある」、といった具合である。

こんな調子で、東北では、仙台ラーメン、酒田ラーメン、米沢ラーメン、喜多方ラーメン、白河ラーメンが、関東では、東京ラーメン、サンマー麺、、油そば、とんこつ醤油ラーメン、八王子ラーメン、佐野ラーメンが、簡単なコメントと共に紹介されている。

信越・新潟では、新潟ラーメン、長岡ラーメン、富山ブラックが、東海では、高山ラーメン、台湾ラーメン、ベトコンラーメン(一宮)が、近畿では、京都ラーメン、神戸ラーメン、天理ラーメン、和歌山ラーメン、播州ラーメン(西脇)が紹介されている。

中国・四国では、讃岐ラーメン、岡山ラーメン、尾道ラーメン、広島ラーメン、徳島ラーメン、鍋焼きラーメン(須崎)が、九州では、博多ラーメン、久留米ラーメン、熊本ラーメン、宮崎ラーメン、鹿児島ラーメンが紹介されている。

それにしても、編集部がこれらを全部踏破して、食べ歩いたとは思えない。これらのタネ本があるのだろうか。

日本全国のラーメン紹介の後は、スープの味(醤油、豚骨、塩、味噌)の違いについて解説している。

第2部は、同誌の編集部や愛読者が好む、ジャカルタのラーメン屋が合計10軒紹介されている。そのなかには、在留邦人にはお馴染みの店の名前がいくつも出てくる。10軒中7軒に豚さんマークが付けられている。

それぞれの店のラーメンの紹介だけでなく、餃子や鶏唐揚げなどのサイドディッシュに関する記述も多い。おそらく、インドネシア人のとくに家族連れは、ラーメンのみを食べるのではなく、こうしたサイドディッシュを、メインとしてのラーメンの付随品、というよりも、別料理として注文しているように見受けられる。

この雑誌は一般誌ではないので、広く情報が行き渡っているとは思わないが、こんなに大々的にインドネシア語の雑誌がラーメン特集を組んでいること自体がビックリである。

何せ、日本へ旅行する目的がラーメンを食べることにあるというインドネシア人観光客がいるご時世である。日本のご当地ラーメンを食べ歩くツアーなどをやったら、インドネシア人観光客は大喜びするだろうし、日本の地方にとってもいい刺激となるのではないだろうか。

そうしたご当地ラーメンのなかで豚骨ベースではないところでは、ハラル認証を取って、ハラル・ラーメンを広める夢を描き始めたところもある。

以前のブログでも取り上げたが、インドネシアの各地で、インドネシア人自身が見よう見まねで、インドネシア人の味覚に合ったラーメンを提供し始めている。もちろん、日本人からするとちょっと受け入れがたいような味付けのものもあるのだが。

ともかく、インドネシアからのラーメンへの関心の高まりは、我々日本人の想像以上にアツくなってきていることは確かである。

*ラーメン特集のある「YukMakan.com 2014年1月号」を購入されたい方は、ウェブサイト上から申し込むか、以下へメールまたは電話で問い合わせてください。ジャカルタ首都圏はRp. 25,000、それ以外はRp. 30,000です。

Email: contact@yukmakan.com
Tel: +62 21 653 00 883 / 929 / 764

【スラバヤ】 麺屋佐畑

2月20日、前から気になっていた麺屋佐畑へ行ってきた。

立地場所がEast Coast Centerという、スラバヤで最も東のショッピングモールにあり、筆者の住むスラバヤ西部から行くのはかなり遠い。たまたま、東部にある国立11月10日工科大学(スラバヤ工科大学と称することも多い)で午前中に用事があったので、これはチャンスと行ってきた。

お目当ては、味噌ラーメン。仙台味噌を使っている、というのが売り文句。

さっそく、辛味噌ラーメンを頼んだ。

まず、スープがしつこくないのに驚いた。鶏がベースのスープなので、さっぱりしていて、飽きない味である。一口目はちょっと物足りない感じだったのだが。

味噌ラーメンの麺は太め。醤油ラーメンは細麺を使っている。インドネシアで打った自家製の麺、固めのシコシコ感はないが、十分にいける。
あっさり系の味噌ラーメンとして、お勧めしたい。今なら、次回50%オフのクーポンがもらえる。

麺屋佐畑(Sabata Ramen)
East Coast Center Ruko Pakuwon City FR 1-10
Jl. Kejawen Putih Mutiara No. 17, Surabaya

 

【スラバヤ】 Soto Ayam Pak Sadi

ジャカルタに住んでいるとき、ソト・アヤムと言えば、ソト・アンベガン(Soto Ambangan)というのが有名だった。スラバヤのソト・アヤムらしい、ソト・マドゥラとは同じなのだろうか、などと色々なことを想像していた。

スラバヤに来て、ソト・アンベンガンを求めてアンベンガン通りに行ってみた。きっと、通りにたくさんのソト・アヤム屋が並んでいるだろうと思ったのである。嬉々として向かったが、アンベンガン通りは何の変哲もない殺風景な通りだった。そこに1軒、ポツンと立っていたのがSoto Ayam Ambengan Pak Sadiであった。ジャカルタをはじめ、全国にたくさんの支店を持つあのPak Sadiの本店である。

さすがに本店のSoto Ayamは美味しかった。スラバヤでは、ソト・アヤムのスープの中にご飯が入っているのが一般的で、それが絶妙な組み合わせだった。

そして、本店は美味しいが支店はちょっと・・・、という声をあちこちで聞いた。

先日、家の近くのPak Sadiの支店で、鶏肉以外に内臓や皮も入ったSoto Ayam Spesialを食べた。もちろん、ご飯はスープの中に入れたもの。

おいしかった。支店だけれども、おいしかった。

iPhone 5Sを使い始めて(独り言)

今回の一時帰国中に、日本で思い切ってSIMフリーのiPhone 5Sを購入した。64GBのゴールド。日本ではOCNの1ヵ月980円という安価なナノSIMを入れて使っていた。データ通信のみ、デザリングはできないタイプである。

そして、日本国内用のブラックベリーを通話専用とすることにし、パケホーダイなどの契約を解除してから、インドネシアへ戻ってきた。

昨日、家の近くのXLのサービスセンターへ行って手続をした。これまでポケットWifiに入れて使っていたSIMをナノSIMにしてiPhone 5Sに入れてもらった。1ヵ月当り最大5.1GB、価格は99,000ルピア(約850円)である。このセッティングで、なんと通話可能、デザリング可能。インドネシアは、無料Wifiの場所が多いので、これで十分に間に合いそうだ。

ちなみに、インドネシアではまだ5Sは販売されていないが、間もなく販売されるという話である。

さっそく、Facebook、Twitter、WhatsApp、LINEなどをiPhone 5Sにまとめ、最後に、Blackberry Messenger (BBM) もiPhone 5Sへ移行させた。結局、インドネシアで使っているブラックベリーも通話とSMSのみ使う形になった。

というわけで、データ通信用にiPhone 5S、通話+SMS用にもう1台、という組み合わせとなった。もう1台はブラックベリーである必然性はもうないので、シンプルで電池の長持ちする携帯に変えてもいいとも思う。

今朝、試しにiPhone 5Sから東京の自宅へSkypeしたら、これまでで一番、画像も声もはっきりしていたということだった。これまでも、MacBookやiPadからSkypeしていたのだが、技術進歩は想像以上に進んだということなのだろうか。

iPhone 5Sを持ち歩くことで、デジカメを持ち歩かなくなった。iPadを持ち歩かなくなった。ノートを何冊も持ち歩かなくなった。街歩きをするときの荷物がとても軽くなった。

iPhone 5Sを使い始めて、今までとは何かが変わってきたような気がする。料理の写真を撮ると、これまで使っていたデジカメよりも何となくきれいに写ってしまうし、それを瞬時にSNSへアップロードすることができる。その時々にアップロードしたものへの反応が、時間がたってアップロードしたものよりもずっといいのが不思議である。

WhatsAppでも、LINEでも、Skypeでも、地理的な距離とそれに付随するコストを考えることなく、軽々とそれを乗り越えて、地球上のどこにいても、インターネットにつながってさえいれば、いつでもコンタクトできる。発信できる。誰がどこで何をしているのかがリアルタイムで分かる。少し前には夢物語だったようなことが、すでに日常の現実の中にある。
だからこそ、インドネシア、アジア、東京、福島、そのほかの世界、これらがうまくつながりながら、新しい何かを起こしていける環境が整いつつあると感じるのである。ブラックベリーを使い始めた時にはさほど感じなかったが、iPhone 5Sを使い始めて、よし、新しい何かを創るために動いてみよう、と無性に思い始めている今日この頃である。
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