【スラバヤの風-13】さらばアジア最大の売春街

スラバヤ市内に通称「ドリー」と呼ばれる売春街がある。植民地時代にドリーという混血女性がオランダ兵のために設けた場所で、最盛期には5000人以上の売春婦が働くアジア最大の売春街となった。最近は減少気味で、公式には52軒、1025人の女性が働いているとされる。実際はもっと多いだろう。

スラバヤ市にはドリーを含めて売春街が6ヵ所あり、そのすべてが2014年までに閉鎖となる。すでに3ヵ所が閉鎖され、ドリーは来年初めである。市は、ウィスマと呼ばれる売春店を仕切る胴元や売春婦へ補償金を支払うとともに、転職の斡旋や手に職を付けるための職業訓練を施している。

売春街閉鎖を前に、週刊誌『テンポ』がドリーの特集を組んだ。それによると、売春婦は平日で一晩5人前後、週末は10人前後の客の相手をし、1時間当たり最高で20万ルピア程度が相場である。客の支払は胴元が取り、売春婦に6万ルピアが払われる。洗濯代や美容を保つためのジャムゥ(伝統薬)代を引くと、売春婦の手取りは2万ルピアである。他方、胴元は12万ルピアを、仲介屋は客紹介料2万ルピアを取る。胴元は、ウィスマの家賃以外に警備員へ35万ルピア、地区警備のため町内会費へ6.5万ルピアを毎月支払う。

売春街はすでに一定の経済効果を地域にもたらし、それに依存する人々も少なくない。ヤクザ集団、軍・警察、役人、政治家など様々な利害が絡んでもいる。

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当然、売春街の胴元や売春婦は、将来の生活への不安から、売春街閉鎖に強く抵抗している。たとえば、転職できなかった売春婦がスラバヤから地方へ移動する可能性がある。バニュワンギやクディリなどの売春街では、年配の売春婦が新参者に競争で負け、辺地の売春街に押し出されている。あるいは、路上売春が闇で増えるという懸念もある。

それでもスラバヤ市のリスマ市長は、不退転の決意で売春街閉鎖を遂行している。「死を恐れない」と豪語する市長はなぜ、それほどまでに強気なのだろうか。

リスマ市長によれば、それは「子供」のためである。アルコールやドラックが横行する環境から子供を解放したいという理由に加えて、売春街で親が分からないまま産まれた子供たちが容易に人身売買される状況を心配している。リスマ市長は実際に売春街の近くの小学校を訪れ、子供たちから直接に話を聞いて行動しているのである。

リスマ市長の真っ直ぐな本気こそが、まず無理と思われた売春街閉鎖を秒読みとさせたのである。さらば、アジア最大の売春街。

 

(2013年11月15日執筆)

 

 

【スラバヤの風-12】リスマ=ジョコウィ+アホック

昨今、ジャカルタ首都特別州を変えようとするジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事とアホック州副知事が注目されているが、スラバヤのリスマ市長も負けてはいない。どこにでもいる普通のおばさんといった風貌の彼女は、ジョコウィの庶民性とアホックの戦闘性の両方を兼ね備え、スラバヤを変革してきた手腕が国内外から高く評価されている。

トゥリ・リスマハリニ(リスマ)市長の前職はスラバヤ市環境美化局長だった。2005年に同局長へ就任後、市内の緑化やゴミ対策など環境改善へ取り組んできたが、政治的野心はなかった。2010年、3期目に立候補できないバンバン市長(当時)が副市長へ立候補して市政をコントロールするため、彼女を市長候補に担ぎあげた。しかし、当選後のリスマ市長は副市長の操り人形にはならず、独自のスタイルを見せていった。

リスマ市長の庶民性に関するエピソードは事欠かない。彼女はバイクの後部座席にまたがり、カンプンの細い路地へ入って住民と直接対話し、そこで出された問題を解決していく。毎朝の散歩の際にゴミを拾って歩くのが日課であるが、水が濁って悪臭を発する排水路に溜まったゴミを見つければその場で自ら掻き出す。汚れないように指先でゴミをつまんでいたアシスタント職員には「明日から出勤に及ばず」と告げ、その場で解雇した。 夕方から夜にかけては、公園でたむろする若者たちに声をかけ、家へ帰って勉強するように諭す。東南アジア最大ともいわれる赤線地帯を閉鎖に至らせ、売春婦の再就職や売春に走る少女たちの更生にも熱心に取り組む。さらに、目の前で交通渋滞があれば、乗っていた車からいきなり降りて、自ら交通整理を始めることさえあった。

リスマ市長は同時に、間違ったことに対する戦闘性も発揮する。たとえば、パサール・トゥリを緊急視察した際に、建物のデザインが当初の予定と違っていたことに怒り、本来のデザインに1週間で戻させた。また、2ヵ月経っても工事を始めない建設業者に対して、工事の中止やブラックリスト化だけでなく、裁判に訴えると圧力をかけた。

ジャカルタ首都特別州のアホック副知事は、許認可などの行政サービス、効率的な予算作成手法、ゴミ対策などをスラバヤ市から学ぶことを表明している。リスマ市長はジョコウィとアホックの特徴を兼ね備えるだけでなく、彼らの学びの対象ともなっている。 リスマ=ジョコウィ+アホック。従来とは根本的に異なる新しい指導者が地方から生まれ始めている。

 

(2013年10月18日執筆)

 

 

【スラバヤの風-11】カンプン改善事業の先駆地

インドネシアでは、一般に、家屋が集まった集落をカンプンと呼ぶ。都市におけるカンプンは、小さな家屋が密集した場所であり、末端の行政区域・クルラハンの一区画を占める。田舎から職を求めて都市に住み着き、家族も呼び寄せて不法占拠のまま小さな家を建てる。それらが集まってカンプンを形成する場合もある。

都市計画では、カンプンを整理して住民を集合住宅へ移転させる方法とカンプン自体の居住環境を改善する方法の2つが考えられる。スラバヤの都市計画は後者を基本とした。

スラバヤは、インドネシアで最初にカンプン改善事業が始まった都市で、それはオランダ植民地時代の1910年代にさかのぼる。その中心は、カンプン内の排水溝の改善とそれに伴う道路の整備であった。その後、1969年から住民参加型でカンプン整備事業が実施された。すなわち、住民はクルラハンを通じて改善要望を市側に伝え、市側は材料や工具の支給、工事監督者の派遣などを行い、住民自身が実際の道路・排水溝工事を担った。1974年以降は世銀融資で事業が拡大され、小学校、診療所、一体型共同沐浴場・洗濯場・トイレ(MCKと称す)などの公共施設の建設が進んだ。カンプン改善事業はその後、全国へ広がったが、スラバヤはその成功事例と見なされることが多い。

スラバヤの大通り沿いのカンプンを歩くと、道路が舗装されて路幅が広い(自動車が対面運転できる程度)、沿道に植物などが植えられて緑が多いなど、整然とした潤いのある居住空間が作られている。ジャカルタのような、くねくねと曲がった細い道に沿って半ば無秩序に建てられた住宅密集のカンプンとはかなり様相が違う。大通りとの境にカンプン名の書かれたアーチがかけられたところもある。

そんなスラバヤのカンプンだが、狭い居住空間にひしめき合って人々が暮らす状況に変わりはない。なかには、市中心部でも水道がまだ引かれず、井戸から汲み上げた地下水を使っているカンプンもある。公共インフラの整備は引き続き必要である。

カンプンの住民には、日雇いなど不安定な身分で収入の限られた底辺層も少なくない。実際、彼らの生活が豊かになっているという印象はあまりない。むしろ、豊かになるインドネシアから取り残されているようにさえ見える。全国の手本とされるスラバヤのカンプン改善事業は、時代に即したさらなる進化を求められている。

 

(2013年10月4日執筆)

 

 

【スラバヤの風-10】公共交通が退化した町

スラバヤに住んで、ずっとタクシーで移動していた。スラバヤのタクシーはブルーバードとアストラ系のオレンジが二大勢力で、ほかにも、かつてタクシー会社として最初に上場したゼブラや南スラウェシ出身のボソワ・グループの持つボソワなど多数ある。タクシー移動で生活上や仕事上、困ったことはとくになかったが、街歩きをするようになって、はたと気づいた。バスや乗合などの公共交通機関がすぐに見つからないのである。

スラバヤに公共交通機関は存在する。バスは国営ダムリが19系統を運行し、冷房バスも走っている。ダムリ以外の民間会社のバスもある。また、系統ごとに色分けされた「リン」と呼ばれる小型乗合(ジャカルタのミクロレットとほぼ同じ)も、調べると、計60系統以上走っていることが分かる。しかし、その存在が見えない。

実は、公共交通機関の台数がここ数年、減少している。6月2日付『テンポ』誌(東ジャワ版)によると、バスは2008年の250台から2011年には167台へ、「リン」は同じく5233台から4139台へ、それぞれ急減している。

対照的に、自家用二輪車・四輪車の台数は、そのわずか3年間に140万9360台から699万3413台へ激増している。経済成長に伴う所得上昇は、スラバヤの人々に二輪車や四輪車の購入を促し、公共交通機関ばなれを急速に引き起こさせたといえる。

もともとスラバヤは、公共交通機関が大きな役割を果たした町だった。オランダ植民地時代の1881年から約100年間、市内を路面電車や蒸気路面列車が走り、人々の足となっていた。モータリゼーションの進行とともに、路面電車や蒸気路面列車は交通渋滞を引き起こすと敬遠され、バスに取って代わられた。1980年代に筆者が訪れたスラバヤには、その頃のジャカルタと同様、ボルボ製やレイランド製の二階建てバスが走っていた。もちろん、ベチャの台数は今よりはるかに多かったし、一時期、バジャイもこの町を走っていた。

二輪車・四輪車台数の急増により、スラバヤも5年後にはジャカルタのような渋滞に直面することが確実と見られる。このため、スラバヤ市政府は、2015年の開業を目指して南北線(トラム「スロトレム」)と東西線(モノレール「ボヨレール」)を組み合わせた公共交通機関の整備を計画している。

公共交通機関が退化した町・スラバヤで、「スロトレム」と「ボヨレール」が自家用車利用者を本当に引き込めるのだろうか。タイミングとしては遅すぎた感が否めない。

 

(2013年9月21日執筆)

 

 

【スラバヤの風-09】東ジャワ州知事選挙と今後の政治

スラバヤは、インドネシアの政治を占うバロメーターといわれる。1945年8月17日の独立宣言の後、連合軍(英国軍)が進駐してきた際、それへ最初に抵抗したのが、同年11月10日にスラバヤで起こった市民蜂起だった。これをきっかけに、連合軍への抵抗闘争が全国へ拡大し、独立戦争が本格化した。それ以後、多くの国内政治ウォッチャーが、スラバヤで何が起こるのかに注目してきた。

その観点からすると、8月29日に投票が行われた東ジャワ州知事選挙の結果が今後のインドネシアの総選挙や大統領選挙へどんな影響を与えるかが注目される。開票結果はまだ未確定だが、クイックカウントによれば、スカルウォ=サイフラー(現正副州知事)の現職ペアが勝利を収めるのは確実である。

現職ペアは、与党民主党など30政党以上の推薦を受けただけでなく、東ジャワ社会に大きな影響力を持つ国内最大のイスラム社会団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の高僧(ウラマー)の支持も取り付け、万全な体制で選挙戦へ臨んだ。

ここで、筆者は、政党間の駆け引きよりも、現職ペアが作り上げてきた政治の中身に注目したい。もともと、現職ペアは1期目に致命的な問題を起こさず、調整型の行政運営を通じて明白な政敵も作らなかった。筆者が会った州政府高官たちは、「誰が州知事になってもシステムとして行政は回る」と自信を持って答えた。以前の「選挙があると行政がほぼストップしてしまう」という感覚はもはやない。

スカルウォ州知事は元州官房長という官僚出身者で、自分が前面に出て指導力を発揮し、部下をぐいぐい引っ張るタイプではない。組織のタテ割りの弊害を防ぐために部局長間の相互人事を進め、各部局間の意思疎通を円滑化するなど、見えないところで様々な工夫を施してきた。その結果、2012年の地方政府運営パフォーマンス評価において、東ジャワ州政府が全国第1位に選ばれるなど、着実に実績を積み上げてきた。

地方行政改善のためには、「王様型からマネージャー型へ」という地方首長の態度変化が求められるが、東ジャワ州はそれを先取りしている。大変な親日家としても知られるスカルウォ州知事の2期目がその中身をさらにどう進化させていくのか。

政治の中身に注目するという意味で、東ジャワ州知事選挙とその後の行政運営は、たしかに、大統領選挙とその後の国政のバロメーターになるかもしれない。

 

(2013年9月6日執筆)

 

 

【スラバヤの風-08】再び脚光を浴びるサトウキビ

東ジャワといえば、植民地時代から有名なのはサトウキビ栽培である。オランダ支配下の強制栽培制度で本格導入され、1930年代前後の最盛時には年間約300万トンとアジア最大の生産量を誇った。世界恐慌の後、生産は衰退したが、今でも、アジアでインドネシアは、今でもフィリピンに次ぐ第2のサトウキビ生産国である。サトウキビは、ブランタス川下流のモジョクルトからシドアルジョにかけての地域を中心に、土地の肥沃度を維持するため、水田にコメや畑作物と組み合わせた3年輪作の1作として栽培された。

サトウキビを原料とする砂糖の生産は主に国営企業が担ってきたが、設備が老朽化したにもかかわらず、機械の更新など設備投資を長年にわたって怠ったため、生産性が低下し、多額の損失を出し続けた。一時、ジャワ島に集中する製糖工場をスラウェシやパプアへ移転して生産拡大を図る計画もあったが、結局頓挫した。政府は砂糖の輸入を増加させ、現在では、年間200万トン以上を輸入する世界有数の砂糖輸入国となっている。

しかし、サトウキビに砂糖生産の原料以外の用途が現れたことで、状況に変化が生じた。8月20日、モジョクルトにある国営第10農園グンポルクレップ製糖工場にて、日本の新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)がインドネシア工業省と共同で設置したバイオエタノール製造プラントが実証運転を開始した。日本の発酵技術を応用し、製糖工場から出る廃糖蜜(モラセス)を原料に純度99.5%のバイオエタノールを輸入代替生産する。バイオエタノールはすべて国営石油会社(プルタミナ)に買い取らせる計画である。

さらに、同じく国営第10農園は、マドゥラ島に日産6000トンの製糖工場を2014年までに建設する予定のほか、国営第3・第11・第12農園の合弁である国営インドゥストリ・グラ・グレンモレ社は、東ジャワ州東端のバニュワンギに日産6000トンの製糖工場を2015年までに建設し、サトウキビ糟から有機肥料やバイオエタノールの生産を計画している。製糖工場が新規に建設されるのは実に30年ぶりということである。

これら製糖工場の新しい動きが軌道に乗れば、砂糖の輸入抑制、ガソリンからバイオエタノール燃料への転換、有機農業の拡大など、インドネシアが直面するいくつかの深刻な問題の克服へ貢献する。サトウキビ栽培農家の生産意欲も向上するだろう。東ジャワのサトウキビは、再び脚光を浴び始めている。

 

(2013年8月24日執筆)

 

【スラバヤの風-07】東部地域との結節点

筆者が東ジャワ州やスラバヤに注目する理由の一つは、インドネシア東部地域(以下「東部地域」と称す)との結節点となっているためである。東部地域とは、カリマンタン島、スラウェシ島、マルク諸島、パプア、バリ島以東のヌサトゥンガラ諸島の広い地域を指す。

ジャワ島内で生産された生活物資・消費財は、州都スラバヤのタンジュン・ペラッ港から東部地域の各地へ運ばれる。一方、東部地域からは、木材、鉱物、商品作物、水産物などがスラバヤに集まり、一部は加工され、一部は海外へ輸出される。

遠い昔からスラバヤは物流交易都市であった。ジャワ島で生産された生活物資・消費財は、東部地域にある中心港(スラウェシ島ならマカッサルやマナド、マルク諸島ならアンボンやテルナテ、パプアならジャヤプラやソロンなど)へ大型船で運ばれ、そこから小・中型船ないし陸送へ小分けされて中小都市へ運ばれる。最終的には、客と一緒に乗合自動車に積まれたり、バイクや馬、果ては人力で運ばれたりしながら、生活物資・消費財が東部地域の末端の村々まで到達する。

一方、東部地域の豊富な天然資源を求めて、地域の隅々までスラバヤなどから商人が入り込んでいる。現場で買い付け、用意した船で一次産品などをスラバヤまで運ぶ。あるいは、スラバヤからの商人が現場で注文し、現場の元締めや商人が物品を用意して、船でスラバヤへ送る。カカオやコーヒーなどの商品作物も、マグロやロブスターなどの水産物も、木材や鉱産物も、東部地域の各地からダイレクトにスラバヤへ運ばれてくるケースが多い。そして、その船で生活物資・消費財を積んでスラバヤから東部地域へ戻るのである。

こうした東ジャワ州やスラバヤと東部地域との相互経済関係を意識して、東ジャワ州政府と州商工会議所は、東部地域の各州政府と協力協定を結び始めた。そして、東部地域各州に東ジャワ州の連絡事務所を開設し、両者の相互経済関係を一層緊密化させ、東ジャワ州が東部地域の発展に積極的に貢献しようとする姿勢を示している。そこでは、東ジャワ州の実業家が東部地域でのさらなるビジネス機会を求めていることはいうまでもない。

南スラウェシ州の州都マカッサルも、東部地域での経済センターを目指すが、物流の搬入量が搬出量よりずっと大きく、港湾施設も非効率なため、スラバヤを使うほうが低コストとなる。東部地域との結節点としての役割は、スラバヤのほうがまだ大きいのである。

 

(2013年7月26日執筆)

 

 

【スラバヤの風-06】「日系専用」の国営パスルアン工業団地

先週と今週は、講演のためシンガポールと日本に出張中である。参加者と話をすると、交通渋滞やコスト高の進むジャカルタ周辺への懸念が大きく、代替先を探している様子をひしひしと感じる。インドネシア政府も、低賃金労働を求めてインドネシアからカンボジアやミャンマーなどへ日系企業が移転することを恐れており、ジャカルタ周辺からの移転先として、同じジャワ島内の東ジャワや中ジャワの魅力を伝える必要を感じている。

そのなかで、今後の日系企業進出の受け皿として有望なのが、東ジャワ州の国営パスルアン工業団地(PIER)である。スラバヤから南へ60キロ、約1時間半の距離である。敷地面積500ヘクタールのうち200ヘクタールが工業団地であり、そこに60社が立地し、そのうち21社が日系企業である。毎月第3木曜日に「三木会」(さんもくかい)という日系企業間の情報交換を行う定期会合が開かれている。

PIERは、2014年末までにさらに92ヘクタールを造成予定だが、そこを日系企業専用工業団地とする方針で、東ジャワ州政府も全面的に後押ししている。 さらに、現在、スラバヤからの高速道路をパスルアン方面へ延伸する工事が進められているが、このPIERの敷地内、「日系企業専用工業団地」のすぐそばにインターチェンジが2014年末までに設置される。おそらく、高速道路のインターチェンジが敷地内にある工業団地としては、このPIERがインドネシアで初めてとなる。これが完成すると、PIERからスラバヤ港まで約1時間弱で結ばれる。

インドネシアの工業団地開発は、1980年代半ばまでは国営が中心だったが、その後は民間が主となり、ジャカルタ周辺はほとんどが民営の工業団地である。そこでは、高速道路から工業団地までのアクセス道路における交通渋滞が大問題となっている。

PIERは、現在でも工業団地本体から幹線道路沿いの出入口まで長いアクセス道路があり、その出入口を閉鎖することで外部から来た労働デモ隊をシャットアウトしている。インターチェンジができれば、高速道路が閉鎖でもされない限り、物資の搬出入も影響を被ることはまずない。

用地取得価格は現在1平方メートル当たり100万ルピア(約1万円)前後とジャカルタ周辺に比べればまだ低いが、値上がり傾向にある。PIERは、「日系専用」のために諸手続の簡便化など様々な改善を積極的に進めていく意向である。

 

(2013年7月12日執筆)

 

 

【スラバヤの風-05】中小企業向け信用保証

中小企業がなかなか育たない理由の一つは、銀行から安心して融資を受けられないことにある。このため、中小企業向けの銀行融資を保証する仕組みづくりが重要になる。 中央レベルでは、信用保証会社(PT. Jamkrindo)と信用保険会社(PT. Askrindo)の二つの国営企業が信用保証を行っているが、中小企業については地方でよりきめ細かな対応が必要になる。日本の国際協力機構(JICA)による技術協力の下、中銀が中心となって各州での信用保証会社の設立へ向けた制度づくりを行ってきた。

その第1号となったのが東ジャワ州である。2010年1月、中小企業向け融資を保証する信用保証会社・東ジャワ州ジャムクリダ(PT Jamkrida Jatim)が他州に先駆けて設立された。最大出資者は株式の9割以上を持つ州政府であり、州内各県政府も出資する。

ただし、保証対象は東ジャワ州開発銀行(Bank Jatim)による融資に限られる。2.5億ルピアまでの融資はすべて自動保証されるが、2.5~7.5億ルピアの融資は審査が必要となる。保証期間は3カ月から最長6年、多くは3年以下である。保証料は保証対象融資額の1.5%を毎年支払い、これが信用保証会社の収入となる。インドネシアでは信用保証会社は利益を上げて、株主である州政府へ利益を還元することが求められる。実際、州議会では、ジャムクリダの収益がどれぐらい上がっているのかが常に議論となる。

2013年4月時点の保証総額は8000億ルピアに達しているが、一顧客当りの平均保証額は2000万ルピアと少額である。顧客の中小企業は約4万社あり、約12万人の雇用を支えている。しかし、東ジャワ州ではまだ290万社の中小企業が信用保証の恩恵を受けておらず、ジャムクリダがカバーしているのはごくわずかに過ぎない。

それでも、ジャムクリダの信用保証のおかげで、ある金属加工の中小企業が日本への委託生産品の輸出を始めるなど、いくつかの成功事例が生まれ始めた。ジャムクリダのヌルハサン社長は、「ジャムクリダの目的は中小企業振興を通じた貧困撲滅」と言い切る。もっとも、ジャムクリダの直接取引先は東ジャワ州開発銀行であり、その顧客である中小企業の融資を保証することで、間接的に中小企業振興に関わっているのである。

東ジャワ州ジャムクリダには、同様の信用保証会社を設立する他州からの視察者が後を絶たない。利益確保など困難に直面しつつも、ジャムクリダは中小企業向け地方信用保証会社のリーダーとしての役割を果たし続けようとしている。

【スラバヤの風-04】中小企業が地域経済に高い貢献

東ジャワ州は、インドネシアのなかで、協同組合や中小企業の振興に最も力を入れている州の一つである。その結果は、2012年の州内総生産(GRDP)に占める協同組合・中小企業部門の貢献が54.4%という、他州に比べてかなり高い数字に表れている。

活動停止中の協同組合の比率は、全国平均が27%であるのに対して、東ジャワ州はわずか12%に過ぎない。中小企業の事業所数は、2006年の420万事業所から2012年にはその1.5倍に当たる682万事業所へと大幅に増加した。682万事業所の6割以上が農業関連で占められている。東ジャワ州は農林水産業・同加工業の振興を地域開発の最優先課題と位置づけているが、その担い手のほとんどは協同組合や中小企業によるものといえる。

スラバヤ・ジュアンダ国際空港近くの東ジャワ州協同組合・中小企業局を訪問すると、役所棟に向かって左側に工芸館、右側にバティック(蝋纈染め)館が配置されている。いずれも州内の協同組合や中小企業によって作られた製品を展示即売する場所で、日本でいうところの地方特産品センターの位置づけである。

そして、役所棟の裏側には、州中小企業クリニックが配置されている。同クリニックは州内の中小企業に対し、事業相談、情報提供、アドボカシー、短期研修、起業家関連書籍センター、資金アクセス、市場アクセス、移動式クリニック、IT起業、中小企業オンラインテレビ、などのサービスを提供し、中小企業コンサルタントが常駐している。中小企業向けの短期研修は生産、経営、IT起業の3分野に分かれ、合計で1ヵ月に3〜4回の頻度で実施されている。

中小企業コンサルタントには、事業者と銀行を結ぶ役割も期待されている。彼らが有望な事業者を見つけ、帳簿つけからビジネスプラン作成に至るまで指導するとともに、銀行はコンサルタントを信用して融資を行う。インドネシア銀行の後押しで養成された銀行パートナー金融コンサルタント(KKMB)もそのような中小企業コンサルタントの一つであり、東ジャワ州では、KKMBの属する42団体の連合会が作られている。

2012年に東ジャワ州では一般銀行81行、庶民信用銀行(BPR)363行によって約240兆ルピアの融資がなされたが、実際の中小企業向け融資はその約3割に留まる。さらなる中小企業向け融資の促進には、もちろん信用保証を充実させる必要がある。そう考えた東ジャワ州政府は2010年、州レベルでは全国初となる信用保証会社(PT Jamkrida Jatim)を設立した。

【スラバヤの風-03】村へ戻る運動(GKD)

東ジャワ州政府は、1990年代に大分県の一村一品運動を取り入れようとしていた。インドネシアで初めてそれに注目したのは西スマトラ州で、1993年に大分県を訪問し、導入を試みていた。東ジャワ州は1996年11月、大分県の平松守彦県知事(当時)をスラバヤへ招いて一村一品運動の紹介セミナーを開催した。それをきっかけとして、当時のバソフィ・スディルマン州知事が『村へ戻る運動』(Gerakan Kembali ke Desa: GKD)を提唱したのである。

GKDは、都市に比べて発展の遅れた農村を開発政策の重点とし、開発に必要な技術、人材、資金を農漁村の外から注入して開発のスピードを加速化させようとした。その際に、単に農業生産を上げるだけでなく、加工して付加価値をつける方向性が強調され、そこに、「グローバルに考えローカルに行動」「自立・創造性」「人材育成」という一村一品運動のエッセンスを入れようとした。

当時はまだスハルト政権下で、政府主導の開発政策が主流だった。バソフィ州知事が軍人出身だからかもしれないが、GKDは、1970年代に全国で実施された『軍人が村へ』(ABRI Masuk Desa: AMD)、『新聞が村へ』(Koran Masuk Desa: KMD)という軍の社会政治機能に基づく政策と発想が基本的に同じだった。

すなわち、「外部から何かを入れて遅れた農村を開発する」という発想であり、そこには、一村一品運動の最も重要な根幹である「農村の自立」という姿勢は希薄だった。外部から入れた技術・人材・資金は外部の論理で動き、農村は外部者がやりやすいように協力してあげるという形になる。こうした話は東ジャワ州に特有なのではなく、程度の差こそあれ、全国どこでも起こっていた。

結局、バソフィ州知事の退任とともにGKDは廃れ、州政府が一村一品運動を東ジャワ州に定着させることは叶わなかった。1998年にスハルト政権が崩壊して地方分権化の時代になると、GKDは旧来型の開発政策として厳しい批判を受けた。しかし、今に至ってもまだ、州政府からは、GKDに代わる有効な開発政策が提示されていない。

だが、GKDは「種まき」の役割を果たしていた。GKDをきっかけに農漁村が自らの足元を見つめ直し、もっと儲かる事業を志向し始めたのである。それが農水産物加工だった。人口が多く、他人や近隣農漁村の動きを気にしやすい東ジャワ州では、誰かが成功するとそれを真似する人々が続出し、必ず他とは違うモノを作る人が出てくる。GKDが失敗したからこそ、人々は政府に頼らず、儲かる食品加工ビジネスを自ら求めていったのである。

【スラバヤの風-02】食品加工業の一大中心地

東ジャワ州政府が経済開発で最も重視する産業は、食品産業である。東ジャワ州ではもともと、シドアルジョ周辺のエビ養殖・エビせんべい(クルプック・ウダン)製造をはじめ、様々な農水産加工品が製造されてきており、インドネシアでも有数の食品産業の中心地となっている。昨今では、南東のジェンブル付近を中心とした日本向け枝豆の生産や、マラン周辺での乳牛飼育・牛乳生産など、食品産業のラインナップがより多彩になってきた。

東ジャワ州が食品産業の中心地となっているのは、早くからサトウキビ栽培・製糖、エビ養殖・加工といった食品加工業の歴史を持っているためである。ただし、多くの場合、これら食品加工に携わる企業は中小企業であるため、ジャカルタから見るとあまり目立たない。私自身も、東ジャワ州に来て、加工食品の種類の多さを改めて感じるほどである。

以前、南スラウェシ州マカッサルを拠点に活動していたとき、インドネシア東部のスーパーや商店に並んでいる加工食品の製造元をよく見て回った。ジャカルタ周辺の大企業製の食品に混じって、スラバヤやマランなど東ジャワ州製の食品が意外に多く流通していることが分かった。とりわけ、ピーナッツ、せんべい、クッキーなどの地場製のスナック菓子では、マランの企業製のものが目立った。サンバルなどの調味料でも、スラバヤ製の製品が店頭に並んでいた。

加えて、同じ製品でも味のバラエティがどんどん増えている。大豆発酵食品のテンペを油で揚げたテンペせんべいには、チーズ味、エビ味、甘辛味などのほか、ピザ味、海藻味、スパゲッティ味などというものまである。あいにく、すべての味を試してはいないのだが、やはりスパゲッティ味には興味がある。東ジャワ州では、こうした新しいものへのチャレンジ精神をよく見かける。

以前から、有名な日本の食品会社がエビフライなどの冷凍食品を委託加工させていたのも東ジャワである。その経験が生かされて、シーフードを原材料とした冷凍食品を製造するインドネシア企業もある。

東ジャワ州は、3,000万人以上の人口を養うための農水産品生産を基盤とし、そのうえに食品加工業が存在する。各県・各企業間に競争意識が強く、新製品開発への意欲もそれなりに高い。こうした食品加工への意識を高めるきっかけとなったのが、実は、20年以上前に東ジャワ州政府が試みた日本・大分県の一村一品運動の導入だったのである。

【スラバヤの風-01】ジャワ島で最も成長率の高い東ジャワ

交通渋滞、物流遅滞、最低賃金上昇、工業用地不足。ジャカルタ周辺でのビジネス環境が急速にコスト高、非効率になってきたという声をよく聞くようになった。2013年1月にジャカルタが大洪水に見舞われて以降、インドネシア政府・財界が明示的にジャカルタ周辺から他地域への産業移転を促す発言をしている。ジャカルタ周辺への一極集中を和らげ、他地域での経済発展を促進させる動きが本当に起こるのだろうか。

ジャカルタ周辺の次はどこか。まず、思い浮かぶのが、国内第二の人口を持つスラバヤ(311万人)を州都とする東ジャワ州であろう。人口3747万人を擁する東ジャワは、実はジャワ島で最も成長率の高い州である。

経済規模は884兆ルピア(2011年)であり、全国の14.7%、ジャワ島の25.4%を占める。 経済成長率は2009年以降、ずっと全国を上回り、2011年は7.2%(GDP 6.5%)、2012年は7.3%(同6.2%)となった。産業別(2012年)では、商業・ホテル業(10.1%)、運輸・通信業(9.5%)、金融業(8.0%)、建設業(7.1%)が高成長で、製造業(6.3%)が追う。

需要面では、東ジャワから他州への移出が20.5%と大きく伸びる一方、 移入も12.6%と急増した。州経済に占める民間消費のシェアは67.5%と大きく、依然として州経済を支える主役となっている。

東ジャワへの投資実施件数・額は2012年に大きく増えた。外国投資は2011年の208件、13.1億ドルに対して2012年は403件、23億ドル、国内投資は同じく157件、9.7兆ルピアから289件、21.5兆ルピアへ増大した。

ジャワ島内の他州では投資件数が減少傾向にあるが、東ジャワは唯一、外国・国内投資とも増加している。もっとも、2012年のGRDPにおける総固定資本形成(投資)成長率は3.68%と低く、投資の経済成長への効果が表れるのは2013年以降になるものとみられる。

東ジャワ州政府は、自州が全国で最も投資効率の高い州であると自負する。2011年の限界資本係数(ICOR)は全国最低の3.09、ジャカルタや西ジャワよりもかなり低い。最低賃金上昇があるとはいえジャカルタ周辺よりは低く、渋滞もまだ少ない。既存の工業団地は埋まってきているが、新規建設計画も進んでいる。 こうした東ジャワへジャカルタ周辺から産業移転が本格的に進むのか、大いに注目されるところである。

【インドネシア政経ウォッチ】第131回 大統領と副大統領の確執(2015年6月10日)

このところ、事あるごとに、ジョコ・ウィドド大統領とユスフ・カラ副大統領との間の意見の相違が表面化している。

直近の出来事としては、全インドネシア・サッカー連盟(PSSI)活動凍結問題がある。組織運営に問題があるとして、イマム青年スポーツ大臣がPSSIの活動凍結を決定し、ジョコウィ大統領もそれを支持した。それに対して、カラ副大統領はPSSI活動凍結の見直しを強く求めたが、イマム大臣は決定を覆さなかった。

PSSIの活動凍結の背景には、政治家がPSSIに影響を与える傾向が強まったことがある。とくに、ゴルカル党のアブリザル・バクリ党首はPSSI傘下の複数クラブチームを持ち、大統領立候補など自身の政治的野心のためにPSSIを利用する懸念があった。ジョコウィ大統領からすれば、現在でも動員力のある PSSIを通じて政治的圧力を受ける恐れがあり、政権基盤の安定にはPSSI活動凍結が有益と判断したとみられる。

ジョコウィ政権は、2つに分裂したゴルカル党のうち、アグン・ラクソノ前副党首を党首とするグループを正統と認め、アブリザル・バクリ党首派を切り捨てようとした。しかし、行政裁判所がアブリザル・バクリ党首の正統性を認めたため、元ゴルカル党党首でもあるカラ副大統領が両派の仲介に当たっている。アチェ和平など紛争終結に努めてきたカラ副大統領は、敵と味方を峻別せず、両者を包含してゴルカル党を丸くまとめようと試みているように見える。

カラ副大統領は以前、ユドヨノ大統領と組んで副大統領を務めた際、「真の大統領」とメディアに名付けられるほどのやり手ぶりを見せ、警戒したユドヨノ大統領が2期目には組まなかった過去がある。

ジョコ・ウィドド大統領がルフト・パンジャイタン氏を長とする大統領府オフィスを新設したのも、同様の警戒の表れである。カラ副大統領は「事前に話がなかった」として、同オフィスの新設に反発した。両者は、ブディ・グナワン氏をめぐる国家警察長官人事でも対立した。大統領と副大統領との確執はまだまだ続きそうである。

 

 

中ジャワは最も投資しやすい州を目指す

先週、北スマトラ州に続いて、6月18〜19日に中ジャワ州を訪問した。中ジャワ州投資局のスジャルワント長官は、「中ジャワはインドネシアで最も投資しやすい州を目指す」と胸を張った。

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中ジャワ州の特色としては、全国最低レベルの最低賃金、極めて少ない(というかほとんどない)労働争議、豊富な資源ポテンシャル、などが挙げられるが、それらはよく知られた特色である。これら以外に、他州には見られない特色があった。

それは、官民一体となって、投資をサポートする体制を整えていることである。州レベルでは、政府と商工会議所が一緒になって投資対策チームを作り、常に県・市政府とコンタクトし、モニタリングする体制になっている。たとえば、ある県で投資を阻害する問題が起こったら、すぐに州のチームも動くのである。とくに、すでに投資した企業が安心して活動できる環境を維持することが狙いである。

それだけではない。州政府は、州内のすべての県・市を対象としたパフォーマンス評価チームを結成し、毎年、表彰している。この評価チームは実業界・学界・市民代表から構成され、政府関係者が含まれていないのがミソである。チームは、実際に現場で行政サービスや許認可事務の状況を把握し、評価の重要な要素としている。

これによって、中ジャワ州の県・市の間で、行政サービスや許認可事務の簡素化を含む善政競争が起こっている。投資を呼び込むために、許認可に要する期間の短縮やサービスの改善にしのぎを削っている。各県・市の創意工夫で、様々な新しい試みが生み出される。たとえば、従来、多くの県・市政府は自己財源収入を確保するために、わざと許認可を面倒にする傾向さえあったが、競争意識によって、それが大きく改善へと向かっているという。

以前、ジョコウィ大統領がソロ市長だったときに、このパフォーマンス評価でソロ市は3年連続で州内第1位に輝いた。そうした実績を引っさげて、ジョコウィは中央政界へ進むことになったのである。ジョコウィが中ジャワ州から去った後は、各県・市が毎年入れ替わり立ち替わり第1位を占めるようになり、競争状態に拍車がかかっている。中ジャワ州の善政競争マネジメント能力の高さがうかがえる。

このように、州全体での投資へのサポート体制ができており、「インドネシアで一番投資しやすい州になる」という言葉もあながち嘘ではない気がしてくる。

とはいっても、日本人駐在員が中ジャワ州に駐在するには、日本的な要素が少ないことは否めない。中ジャワ州には日系の工業団地はまだない。州都スマランには日本料理店もほとんどない。ゴルフ場はあるが、日本人向けの娯楽施設も限られている。この辺は今後の課題となる。

しかし、中ジャワ州は日本に最もなじみのある州の一つなのである。実は、技能実習生や研修生を日本へ最も多く送り出しているのが中ジャワ州とのことである。中ジャワ州のどこへ行っても、日本での経験を持つ若者たちが存在する。日本企業は、そんな彼らを生かすことができるのではないか。

技能実習生や研修生を単なる低賃金未熟練労働力ととらえず、将来の日本企業のインドネシア投資、あるいはインドネシアでのOEM生産などを念頭に、彼らとの関係を戦略的に作っていくことがこれから重要になってくるだろう。実際、日本の中小企業がインドネシアへ来て、自分たちと一緒に低コストで材料や部品を作ってくれるインドネシアの中小企業を探しているという話もある。もしそうならば、戦略的に技能実習生や研修生を日本で活用して、次のステップへつなげることが有用ではないだろうか。

そんな場としても、中ジャワ州はなかなか有望なのではないかと思う次第である。

中ジャワ州に関して、何かお問い合わせになりたい方は、私まで遠慮なくご連絡いただければ幸いである。日本でもっと中ジャワ州を勝手にプロモートしたいと思っている。

 

セイマンケイ特別経済地域はなかなか有望

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6月16日、北スマトラ州のセイマンケイ特別経済地域(KEK Sei Mangkei)を訪問した。

特別経済地域(KEK: Kawasan Ekonomi Khusus)は、中国の経済特区を意識した特区で、単なる工業団地ではなく、許認可手続や税制面で優遇措置が採られる。

KEK指定第1号であるセイマンケイは、2011年5月27日に建設が開始され、2015年1月27日に開所された。敷地総面積は1,933.8haで、そのうち工業用地は1,331haである。工業用地はオイルパーム工業区域(285.85ha)、ゴム工業区域(72.7ha)、一般工業区域(509.61ha)の3つに分けられる。第1期はオイルパーム工業区域から始められ、すでに、第3国営農園のパーム油加工プラントとユニリーバのパーム油原材料加工工場(下写真)が試運転中である。

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敷地内には、国営電力会社(PLN)の変電施設(12MW)が作られるほか、アチェ州のアルンLNGからプルタミナによって75MMSCFDのガスがパイプラインを通じて供給される。

敷地内には、企業幹部向けの高級住宅地や従業員向け住宅のほか、ゴルフ場、学校、スポーツ施設、商業施設なども作る予定である。

セイマンケイ特別経済地域は北スマトラ州の州都メダンから144キロ南東にあり、現時点では、車で約3〜4時間かかる。筆者が行った今回は、途中で渋滞に何度か合い、4時間近くかかった。しかし、今後、セイマンケイ特別経済地域とメダン及びその外港であるベラワン港、クアラナム国際空港が高速道路で直結する計画である。また、鉄道も敷設される計画である。完成後は、セイマンケイ特別経済地域とメダンは車で1時間半で結ばれるということである。

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セイマンケイ特別経済地域で特筆すべきは、ジョコウィ政権が「海の高速」構想で国際ハブ港に指定して整備を進める予定のクアラ・タンジュン(Kuala Tanjung)港と直結することである。セイマンケイ特別経済地域とクアラ・タンジュンとの間も鉄道と高速道路が計画され、これが完成すると、セイマンケイ特別経済地域からクアラ・タンジュンまで車で30分かからなくなる予定とのことである。

セイマンケイ特別経済地域の東部分には、ドライポートが造られ、通関手続はセイマンケイ特別経済地域の中で完結するようになる。すぐ脇に鉄道の駅と高速道路入口が設けられる。

セイマンケイ特別経済地域は元々、第3国営農園の所有するオイルパーム農園の中に造られた。このため、土地収用問題が回避されている。樹齢が長くて植え替え時期に至ったオイルパームの区域を特別経済地域に提供したのである。そして、セイマンケイ特別経済地域の管理運営は第3国営農園が担い、敷地内に事務所もすでに置かれている。事務所内にはまた、所在地のシマルングン県政府の出先が置かれ、許認可関係のワンストップサービスを提供する。

セイマンケイ特別経済地域と直結する予定のクアラ・タンジュン港は、国営アサハン・アルミが持つ輸出港を活用して開発される。港湾の水深が14〜15メートルあり、港湾としても良質である。メダンからのスマトラ縦断道路(一般国道)からのアクセス道路もしっかり作られ、その脇で鉄道レールの敷設工事が始まっていた。これらはすべて、30年間日本が関わってきたアサハン・アルミによるインフラ建設の成果である(といっても、インドネシア側へ移管された後のメンテナンスが良くないという声を聞いた)。

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まだ将来の話ではあるが、セイマンケイ特別経済地域はなかなか有望であるとの印象を持った。

第1に、ASEAN全体のなかで見たときに地理的位置が優れていることである。マラッカ海峡に面し、マレーシア、シンガポール、タイに近い。むしろ、ジャカルタやジャワ島が遠く感じる場所である。セイマンケイ特別経済地域は、インドネシア国内ではなく、ASEANのなかで位置付けるほうがよいと考える。

第2に、インドネシア国内に2ヶ所作る予定の国際ハブ港の1つ、クアラ・タンジュン港と直結することである。クアラ・タンジュン港は、近隣の港湾と競争することになるだろうが、効率性がある程度確保できれば、コスト面で十分競争可能となる。

第3に、土地収用問題が起こらず、土地自体も固い地盤の上に築かれることである。重工業の立地もOKである。現時点での用地価格は1㎡当たり50万ルピア(約4600円)程度である。敷地内に高級住宅も建設されるが、高速道路ができれば、メダンから車で通うことも可能になる。

セイマンケイ特別経済地域のある北スマトラ州は、全体として、電力不足となっているが、セイマンケイ特別経済地域は独自に電力源を確保するため、その影響を受けない。また、第3国営農園が管理し、土地問題を回避し、しかも特別経済地域として中央が直接監視し続けるので、地元で暗躍する政治家やヤクザ集団などからも距離を置くことができる。

セイマンケイ特別経済地域をインドネシアや北スマトラなどの枠で考えずに、ASEAN全体のなかで考えてみると、ここに生産拠点を構えてASEAN市場に浸透していく、世界へ輸出していくということは、一計に値するのではないだろうか。

まだ絵に描いた餅の域を出てはいないが、他の工業団地などと比べても、セイマンケイ特別経済地域の将来はなかなか有望であると感じた。

図書館舟、東インドネシア海域へ

今回の2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)では、図書館舟(Perahu Pustaka)を披露することも注目点の一つだった。図書館舟には約5000冊の本を積んで、マカッサル海峡をはじめとする東インドネシア海域の離島をまわる、という構想である。

この構想自体は、4月頃に、友人たちがツイッター上で話し合ううちに思いついて、あっという間に実行に移されたものである。その基には、東ジャワ州で馬に本を積んで山奥の村々をまわる活動や、タイで船に本を積んで離島をまわる活動があった。

図書館舟には、パッティンガロアン(Pattingalloang)号という名前が付けられた。パッティンガロアンとは、17世紀に活躍したゴア王国(ゴア・テッロ)の首相で、いくつもの外国語を解し、様々な学問と知識を広めた人物とされている。今回のMIWF2015のテーマ「知識と普遍」(Knowledge and Universe)は、あまり知られていないパッティンガロアンの再評価も意図していた。

MIWF2015が終了した翌日の6月7日、図書館舟の管理者である友人のイワン氏に誘われ、図書館舟に乗ってみた。舟はスラウェシ島南西部のマンダール地方の伝統舟で、けっこう小さい。

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10人も乗れば窮屈な感じがする。その船倉に本棚を作って本を並べ、子供たちが中で本が読めるスペースを作る予定である。

イワン氏はジャーナリストで、西スラウェシ州の地方新聞社に籍を置いているが、この図書館舟を管理するにあたって、何日も洋上で離島をめぐるため、兼任は難しいと判断し、地方新聞社を退職した。収入もないなか、しばらくは図書館舟の管理・運営に全力を尽くすという。

私たちの乗った図書館舟は、マカッサルのロッテルダム要塞前からソンバオプ要塞近くまで、約1時間半航海した。マカッサルの新興住宅地タンジュン・ブンガと対岸のバロンボン地区を結ぶバロンボン橋の手前まで来て、舟は止まった。ソンバオプ要塞近くへ行くには、この橋をくぐらなければならない。しかし、このままでは通行できない。マストが高く、橋にかかってしまうのだ。ではどうするか。

断念するのかなと思っていたら、船員がやおらマストを切り始めた。そして、とうとうマストを切ってしまった。
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マストを切った図書館舟は、無事に橋の下を通過し、ソンバオプ要塞近くへと向かった。

マンダール地方の伝統舟は、甲板に穴を開けてマストの棒を船倉まで落とすため、高さの調整ができない。このため、今回のような場合には、マストを切るしか方法がないのである。そして、新しく木材を調達し、再びマストを作るのである。実際には、今回の件に懲りて、図書館舟のマストは、高さの調整ができるように改修するとのことであった。

ともかく、図書館舟は、間もなく、離島を回り始める。しかし、まだまだ本の数が足りない。対象が離島の子供たちであることから、マンガや絵本が好まれるということである。

パッティンガロアンの精神を受け継いで知識に触れる機会を離島の子供たちに提供する、という高邁な理想とはちょっと離れるかもしれないが、本に触れる経験の乏しい離島の子供たちに何らかの刺激を与えることにはなるだろう。それに挑戦しようというイワン氏の覚悟は尊敬に値する。

図書館舟の航海の様子は、特設ウェブサイトでお知らせするということで、楽しみである。

 

2015年マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF2015)に出席して

6月3〜6日、マカッサルで開催されたマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)2015に出席した。MIWFは今回で5年目となり、マカッサルでの毎年6月の恒例行事となった。昨年に引き続き、今回も、MIWFの1セッションのスポンサーとなった。

筆者がスポンサーを務めたのは、「東インドネシアからの声」というセッション。東インドネシアの幾つかの州で注目される若手作家を招聘し、彼らがどんな活動をしているか、なぜ執筆活動を始めたのか、今後どのような活動をしていきたいか、などを語り合うセッションである。

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その若手作家の一人であるファイサル・オダン氏は、『コンパス』紙主催2014年短編小説コンクールで最優秀賞に輝いた。このセッションのコメンテーターは、「昨今、西インドネシアよりも東インドネシアでの若手作家の活動がずっと盛んで、注目すべき作品が続々現れている」と評した。

ファイサル氏は、2年前のこのセッションにも出席したが、当時は、まだ執筆活動を始めたばっかりで不安だったが、MIWFに出席したことで自信がつき、執筆活動を進めていく意欲が高まったという。あのとき、彼は、ほかの参加者仲間と一緒に、私がまだマカッサルに残していた借家に数日間泊まっていたことを思い出した。

ささやかではあるが、このようなセッションを通じて、東インドネシアの若手作家の執筆活動を間接的にでも応援できたのが個人的に嬉しい。

今年のMIWFはマカッサル市政府から後援が受けられず、カラ・グループやボソワ・グループのほか、国際交流基金や筆者を含む複数のスポンサーからの支援のみで実施された。それでも、オーストラリアや日本を含む外国からも作家たちが参集し、様々なワークショップや出版発表会などが繰り広げられた。

実行委員会を含め、200人以上のボランティアが一緒になってMIWFを運営し、4日間のイベントを無事に終了できたことは、このイベントが、金銭の話ではなく、マカッサルの精神と外の世界を手作り感覚で結びつけていく稀有なイベントとして定着しつつあることを示している。下の写真は、クロージング・セレモニーで壇上に上がった実行委員とボランティアたちである。

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ローカルとローカルと結ぶ。ローカルがグローバルになる。グローバルがローカルになる。筆者はMIWFをそんなイベントだと勝手に位置づけ、応援している。

きっと、来年もまた、6月にはマカッサルに来ることだろう。

 

「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」のお知らせ

いつもお世話になっております。松井グローカル代表の松井和久です。

今回は、私がアドバイザーを務めるダリケー株式会社が企画・実施する「Dari Kと行くカカオ農園ツアー2015」(8月22〜28日)へのお誘いです。

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このツアーは、Dari Kが提供するチョコレート・カカオ加工製品の原料である西スラウェシ州・ポレワリ県のカカオの生産現場を単に訪れるだけではありません。

カカオ生産農家やカカオ商人の方々と直に話し合ったり、カカオの苗木を植えたり、発酵カカオを使って実際にチョコレートを作ってみたり、カカオの滓を使ったバイオガス生成の様子をみたり、盛りだくさんの内容です。

カカオのことを学ぶ以外にも、農村を歩いて色々なことを発見したり、沖合の島でくつろいだり、地元の方々の作る心づくしの食事を堪能したり、と、普通のツアーでは体験できない面白さを感じてもらえるはずです。

是非、皆さんにもご参加いただき、カカオとスラウェシの魅力を存分に味わっていただきたいと思います。私も、このツアーにフルで同行いたします。

ツアーへのお申し込みは、以下のサイトからお願いいたします。
http://www.jeps.co.jp/tours/indonesia/darik_cacao.html

なお、参加者多数の場合には、8月15〜21日にも実施する可能性があります。こちらの日程のほうが都合が良いという方も、ご連絡いただければと思います。また、「全日程ではなく3〜4日ぐらいなら参加してみたい」という方も、私までご相談ください。

8月、スラウェシでお会いしましょう!

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【インドネシア政経ウォッチ】第130回 ペトラル解散の裏にある深い闇(2015年5月28日)

インドネシアのジョコ・ウィドド政権は5月13日、石油マフィア撲滅策の一環として、国営石油会社(プルタミナ)の子会社で香港に本社のあるプルタミナ・エネルギー貿易会社(ペトラル)を解散させた。ペトラルはこれまで、シンガポールの子会社を通じて原油・石油製品の輸出入を取り仕切ってきたが、その機能は、プルタミナ本社の内部ユニットである統合サプライチェーン(ISC)が担うことで、マージンコストが大幅に削減できるとみている。

ユドヨノ前政権でもペトラル解散への動きはあったが、実現できなかった。スディルマン・エネルギー鉱物資源相は「大統領府が支持しなかったため」と発言したが、それに対してユドヨノ前大統領が激怒した。ユドヨノ氏はツイッターで、「大統領府にペトラル解散の提案が出されたことはないし、ブディヨノ前副大統領を含む当時の閣僚5人に聞いたがその事実はない」と反論し、名誉毀損(きそん)だと息巻いた。

ユドヨノ時代のペトラルは事実上、シンガポールの「ガソリン・ゴッドファーザー」と呼ばれた貿易商リザル・ハリド氏が牛耳っていた。リザル氏は、ハッタ前調整相(経済)、エネ鉱省幹部、プルタミナ幹部らと近く、ユドヨノ氏周辺との関係さえうわさされた。大統領選挙でハッタ氏が副大統領に立候補した際、対抗馬のジョコ大統領候補を中傷する大量のタブロイド紙が出回ったが、その資金源はリザル氏だったと報じられている。

一方、ジョコ政権下で石油マフィア撲滅を指揮するアリ・スマルノ氏は、闘争民主党のメガワティ党首が大統領だった時代にプルタミナ社長を務めた人物で、リニ国営企業大臣の実兄である。アリ氏は当時、ペトラルを縮小してISCを主導させたが、偽原油輸入疑惑を起こし、ユドヨノ政権下でプルタミナ社長職を更迭された。スディルマン・エネ鉱相は当時アリ氏の部下で、プルタミナのサプライチェーン管理部長だった。

石油マフィア撲滅を名目としたペトラル解散の裏には、深い闇がある。

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