六本木に登場したMIE BAKSOへ行ってみた

8月11日、東京・六本木に登場したMIE BAKSOへ友人とランチに行ってきた。「本場インドネシア屋台料理」と銘打っているが、Mie Baksoはインドネシアの定番軽食なのだ。

インドネシア語でMieは麺、Baksoは肉団子、Mie Baksoは肉団子そばのことである。これをBaksoと略すことも多いが、その場合の主役は麺ではなく肉団子である。

ジャカルタ周辺では、Baksoといえば、肉団子以外に小麦粉の麺とビーフンがちょろっと入っているものが普通だが、スラバヤやマカッサルでは、色んな種類のBaksoが入ったもので、麺は入らない。色んな種類のBaksoには、通常の硬めの肉団子、柔らかめの肉団子、肉団子付き豆腐など4〜5種類が入る。

マカッサルでは、Baksoとは別にNyuknyangという肉団子スープがあり、前述以外に揚げ肉団子も入り、スープが染みて絶妙の味となる。Nyuknyangには、豚肉の肉団子が入ることもよくある。

 

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さて、六本木のMie Baksoだが、基本料金は900円である。

食事はセルフサービス。まず、サラダを取る。これは後でトッピングにしても良い。次にBaksoはエビ団子、魚肉団子、鶏肉団子、牛肉団子の4種類で、基本料金に含まれるのはこのうちから選んだ2個まで。3個目からは1個100円で追加できる。

ほかに、味付け玉子などの追加トッピングをする場合は、基本料金にプラスされる。

次に麺。温かい麺か冷たい麺か尋ねられる。茹で加減は問われない。選んだBaksoをのせた麺が出てくる。これで、お会計。

主役は麺である。茹で具合はシコシコ感が残る日本のラーメンと同様の仕上がり。麺の入る器は大きなラーメン丼で、インドネシアでおなじみの「味の素」や「Sasa」のロゴの入った小ぶりの椀ではない。

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私は冷たい麺、友人は温かい麺をとった。味は美味しいが、やや辛味がある以外は、とくに特徴のある味ではない。インドネシアでMie Baksoをよく食べた人間からすると、麺がちょっと多い。麺とBaksoのバランスがよくない。冷たい麺にサラダを入れて食べてみたら、それはそれでけっこう美味しかった。

給仕をしてくれたお姉さんは、インドネシア人かと思ったらフィリピン人のとても気持ちのよい方だった。店は清潔で気持ちよい。トッピング名の表記の仕方などに改良の余地がありそうだ。

インドネシアの庶民の味Mie Baksoが日本の東京の六本木に来て、精一杯背伸びしているような印象を受けた。それはそれでいいんだけれども。

加えて欲しいのは次の二つ。まず、ハーフサイズのMie Bakso。台湾担仔麺のノリで、飲んだ後の締めにピッタリだろう。次に、麺なしのBaksoスープ。Baksoの種類を増やして、それに合うスープの味を研究してもらうといいかもしれない。これもソウルフードとして気軽に食べられるものになるといいなあ。

ともかく、この六本木風背伸びしたMie Baksoが、いつかジャカルタの高級ショッピングセンターなどへ逆輸入されると面白い。そのときには、Mie Bakso Roppongiとして、もっともっとカッコよく進化しているといいなあ。

 

【スラバヤの風-30】スマラン周辺に2つの工業団地建設

ジャカルタ周辺からの工場移転先として、全国で賃金が最も低い中ジャワ州が注目を集めて久しい。繊維、縫製、その他労働集約関連の工場移転が続いている。

たとえば2014年の同州での最低賃金を見ると、最も高いスマラン市でも142万3500ルピアであり、最も低いプルウォレジョ県(ジョグジャカルタ特別州の西隣)では910万ルピくアである。州内37県・市で最低賃金が100万ルピアに満たないのは9県あり、その多くは州の南部に分布している。

そして、単に賃金が安いだけでなく、労働争議がほとんど起こっていない点が特筆される。一般におとなしく従順な労働力で、現在でもジャカルタ周辺の工場労働者となって働いている者が少なくない。しかも手先の器用な若年女性労働力が多く、それを生かしたカツラ・付け睫毛生産の韓国系企業がプルバリンガ県に20社以上も進出している。

そんななか、州都スマラン周辺で大規模な工業団地建設が開始された。スマランの西のクンダル県に建設中のクンダル・インダストリアル・ パーク(以下「クンダル」)と、東のデマック県に建設中のサユン統合エコ・インダストリアル・パーク(以下「デマック」)である。

「クンダル」は、ブカシで工業団地を運営するジャバベカ社がシンガポール資本と組んで開発中で、全部完成すると2700ヘクタールとなる。スマラン市内のタンジュン・エマス港まで25キロと近いが、さらに工業団地と近接のクンダル港の開発も計画されている。また、許認可手続、労務サポート、警備、物流サービス、工業団地メンテナンスをワン・ストップ・サービスとして提供するとしている。

一方、「デマック」は、携帯電話やタブレットの輸入組立などで台頭したムガン・グループを中心とするジャテン・ランド社が、スマラン市内の既存の国営ジャヤクスマ工業団地と共同開発中で、全部完成すると1600ヘクタールとなる。現在は第1期として300ヘクタールを造成中で、2014年後半までに用地を整備し、2014年末には入居者が工場建設を開始、同時にガスや電力や用水を供給するインフラ整備を進める。

両者とも、スマラン市内から20キロ程度の距離に立地し、交通の便はよいが、近年は大型トラックなどによる渋滞も頻発している。

中ジャワ州知事は、日本企業の誘致を積極的に進めたい強い意向を持っているようである。これら2つの工業団地を始め、中ジャワ州へどれだけの日本企業が進出していくのか。インフラ整備の進行状況とともに、注目していきたいと思う。

 

(2014年8月10日執筆)

 

 

【スラバヤの風-29】大統領選挙とNU内部の分裂

東ジャワ州は、西ジャワ州に次ぐ全国第2位の3066万4958人の有権者を抱える大票田である。今回の大統領選挙では、これら2州の結果が勝敗を決するとも言われる。

東ジャワ州は、初代大統領スカルノの出生地ブリタールを含むことから、スカルノの娘メガワティが党首を務める闘争民主党(PDIP)の牙城である。他方、インドネシアで最大のイスラム社会団体ナフダトゥール・ウラマ(NU)の本拠地であり、キアイと呼ばれる高僧を通じて農村に至る津々浦々へ影響力を誇る。大統領候補にとっては、NUの支持をどれだけ取れるかが勝敗の分かれ目となるが、そのNUが今回は事実上分裂した。

その要因は、NU関係者を主体とした民族覚醒党(PKB)の政治的駆け引きである。当初、PKBは元憲法裁判所長官のマフド、国民的人気ダンドゥット歌手のロマ・イラマ、元副大統領でNU重鎮のユスフ・カラを独自に大統領候補としていたが、PDIPと連立してジャカルタ首都特別州知事のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)を大統領候補とし、先の3名をジョコウィと組む副大統領候補とした。

ところが、最終段階でPKBのムハイミン党首が副大統領候補に名乗りを上げたことから、NU関係者の一部がムハイミンと彼の率いるPKBに反旗を翻した。結局、ジョコウィはユスフ・カラを副大統領候補としたが、副大統領候補になれなかったマフドとロマ・イラマは、傷心のなか、プラボウォ=ハッタ陣営へ寝返り、同選対の中心人物となった。

こうした経緯から、大統領候補支持に関するNU内部は分裂した。NUは組織として特定大統領候補を支持しないと言明したが、ムハイミンPKB党首のやり方に否定的なサイドNU議長はプラボウォ=ハッタ組への支持を表明し、各地のキアイへ影響を与えた。

実際、プラボウォ=ハッタ、ジョコウィ=カラの両陣営の草刈場となったのは、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部であり、ここで両陣営とも「キアイの支持を取り付けた」との報道合戦を繰り広げた。しかし、マドゥラ島パムカサン県出身のマフドの影響力は予想以上に大きかった。ジョコウィを誹謗・中傷するタブロイド紙『オボール・ラクヤット』、SMS、モスクでの説教などを通じて、地元出身の実力者マフドが選対を務めるプラボウォ=ハッタ組への支持が広まった。

スラバヤなどの都市部ではジョコウィ=カラ組が圧勝だが、NU地盤のマドゥラ島や東ジャワ州北海岸部ではむしろプラボウォ=ハッタ組が勝ちそうである。だが、そこでは騒乱の起こる可能性が高いとして、治安当局は厳戒態勢を敷いている。

 

(2014年7月12日執筆)

 

 

【スラバヤの風-28】スラバヤのゆるさ

先日、マカッサル出身の友人たちと都市のデザインについて議論をした。彼らは昨今のマカッサルでの無秩序な都市開発を批判する一方、その対比で、皆がみんな、スラバヤを賞賛するのである。そして、それは実行力のあるスラバヤのリスマ市長の功績という話に落ち着く。彼らと話をしながら一部は賛成しつつも、何となく違和感も抱いた。「スラバヤはゆるい」という印象を持っていたからである。

ちょうど2014年6月18日、予定よりも1日早く、東南アジア最大の売春街と言われたドリー地区の閉鎖をリスマ市長が強行したばかりであった。仕事を失った売春婦やウィスマと呼ばれる売春店には、賠償金とともに転職のための職業訓練などの機会が市政府から与えられたが、彼らのなかにはそれを拒否し、閉鎖に強く抗議して法的手段に訴えようとする者も少なくない。ムスリム人口が9割以上を占めるスラバヤにドリーが存在したこと自体、スラバヤのゆるさを象徴しているように思える。

ほかにも、たとえば、豚肉を出すレストランにムスリムの客がやってくる。もちろん、豚肉の食事を食べはしないが、豚以外のものは平気で食べている。通常、豚肉と同じ場所で調理された食事をムスリムは口にしないと聞いていたし、マカッサルでは実際その辺がかなり厳しかった。ビールを飲むムスリムもよく見かける。ミュージックパブに行くと、ジルバブを被った若い女性たちが退廃的とされるパンクロックをノリノリで聴いている。

その一方で、スラバヤ市は一般店でのアルコール飲料の販売を禁止したり、ドリーを閉鎖したりと、あたかも厳格なイスラム教の教えを適用するかのような政策を採る。ただ、よく見ると、アルコール飲料の販売禁止は、若者が密造酒をガブ飲みして死亡する事件が相次いでいたことが背景にある。ドリーの閉鎖も、宗教上の問題よりもそこで育つ子どもの将来を思うリスマ市長の真っ直ぐな気持ちが突き動かしたものだ。でも売春婦たちは別の形で残っていくだろう。ドリー閉鎖への反対運動は起こったが、ビール愛好家によるアルコール飲料販売禁止への反対運動も起こっていないし、ビールも普通に飲まれている。そのへんも何となくゆるく落ち着いているように見える。

環境先進都市を目指すスラバヤは、ゴミの少ないきれいな街と言われるが、実はゴミのポイ捨てをよく見かける。他の都市よりも頻繁に清掃しているからきれいなのであって、決して市民の意識が高まってゴミを捨てなくなったからではない。これもスラバヤのゆるさの別の側面と言えるかもしれない。

 

(2014年6月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-27】不動産を中心に変貌するマカッサル

先日、久しぶりにマカッサルへ行った。マカッサルはスラウェシ島唯一の人口100万人を超える都市で、南スラウェシ州の州都である。筆者は、これまでに合計8年半マカッサルに居住した。筆者にとってマカッサルは「故郷」のような大事な場所である。

この街の変貌は、行くたびに凄まじく感じる。南スラウェシ州の経済成長率はここ数年、7〜8%と全国の数字を大きく上回り、しかも州都マカッサルがそれを牽引している。なかでも不動産が活況で、地価は過去15年にわたって一本調子で上がり続けており、市の中心部の地価はジャカルタの一等地と遜色ないレベルの高さにまで跳ね上がった。

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1990年代にリッポー・グループが市西南部の海を埋め立てて開発したニュータウン「タンジュンブンガ」は、1998年の通貨危機の頃には閑古鳥が鳴いていたのに、今や最も人気の住宅地となった。リッポーはまた、市東部の高級住宅地パナクカン地区に高級コンドミニアム「セント・モリッツ」を建設中である。そこにはかつて、筆者も家族とよく行った会員制スポーツクラブがあったが、通貨危機の影響で倒産し、10年以上も放置されていた。

リッポーの競争相手であるチプトラ・グループは、パナクカン地区のさらに東の水田地域を買収し、高級住宅地「チトラランド」を開発した。この「チトラランド」は募集がかかったその日に全戸が売り切れた。また、リッポーと同じく、チプトラもパナクカン地区に高級コンドミニアムを建設した。これらの買い手には、地元だけでなく、スラウェシ、マルク、パプアなど東インドネシア地域の実業家や地方官僚などがかなりいると聞いた。

ホテルの建設ラッシュも尋常ではない。市内の至る所に3〜5つ星のホテルが建設中である。マカッサル市がMICE都市を目指していることや、州内や東インドネシア地域からの政府関係者の会議や研修をホテルで行う傾向が近年急増していることもあり、コンベンション施設や参加者の宿泊収容能力が急速に高まっている。この傾向はマカッサルだけでなく、どの州都でも見られ、いくつもの中級ホテルの全国チェーンが広がっている。

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マカッサルでは、通貨危機後から1階を店舗、2階を住宅にするルコと呼ばれる物件が市内のあちこちに乱立し、「ルコの町」という異名さえあった。今や、それにホテルやカフェが加わり、無秩序さに拍車がかかっている。 経済が上り坂の状況ではやむを得ないのかもしれないが、マカッサルはずいぶんとガサツな町へ変わってしまった観がある。街としての景観への配慮という点ではスラバヤを見習って欲しいが、もう手遅れかもしれない。

 

(2014年6月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-26】アイスクリームとブンクル公園

2014年5月11日朝、スラバヤ市内を行き交う人々は皆がみんな赤い服を着ている。シンボルカラーが赤の某政党のイベントか何かと思ったら、違った。赤い服を着て行くと無料でアイスがもらえるらしい。そんな噂を聞きつけた人々が、イベント会場となるブンクル公園を目指していた。スラバヤ市制721周年を記念して、ユニリバー社が自社アイスクリーム『ウォールズ』を無料配布するイベントが行われたのである。

しかし、予想以上に人が集まったため、主催者は赤い服でも『ウォールズ』のロゴを付けた者のみに配布すると急遽変更した。すると、アイスクリームをもらえない人々が怒り出した。彼らの怒りの矛先は、ブンクル公園やその周辺へ向けられ、あっという間に、大勢の人々によって花壇は荒らされ、草花は踏みつけられてしまった。

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ブンクル公園は、スラバヤ市が誇る名公園である。2013年12月、ブンクル公園は、福岡市に本拠のある国連ハビタットからアジア都市景観賞を受賞した。この賞はアジアの優れた建造物や街並みを表彰するもので、ブンクル公園は、草花のきれいな単なる公園にとどまらず、無線インターネット接続や免許証書き換え出張所など、複合的な機能を持つ公園として評価された。受賞は公園整備に費やした長年の努力の賜物であるが、それがわずか数時間のイベントで台無しになってしまったのである。

環境美化に取り組んできたスラバヤ市のリスマ市長は、メディアを前に、鬼のような形相で怒りを爆発させた。イベント終了後、すぐに主催者へ抗議し、裁判所を通じてユニリバー社へ損害賠償請求をすると息巻いた。そして、職員に予備の草花を至急用意させ、自ら率先して花壇の草花の植え替え作業に取り掛かった。ユニリバー社は正式に謝罪し、弁済費用を負担すると約束した。

このイベントは市長から正式許可を取っていなかったことが発覚し、主催者が主張する許可書の真偽が問われる事態となった。主催者は、州副知事が出席したことで、許可は問題ないと思い込んでいた様子である。

売春街ドリーの閉鎖や動物園管理などの問題を抱え、副市長を始めとする政治家や実業家からのリスマ市長への風当たりは益々強くなっている。彼らにとっては、リスマ市長の評判をどう落とすかが最大の関心事だろう。その意味で、今回のアイスクリーム騒動は、格好の契機となり得たかもしれないが、逆に、リスマ市長の不退転の姿勢がさらに強調される結果となった。

 

(2014年5月29日執筆)

 

【インドネシア政経ウォッチ】第133回 内閣改造に潜む様々な思惑(2015年7月9日)

6月末になって、ジョコ・ウィドド(ジョコウィ)大統領周辺から内閣改造を示唆する発言が頻繁に聞かれるようになった。メディアによる世論調査で政権への支持率が35%前後へ落ち込み、ジョコウィ大統領が焦っている様子がうかがえる。

大統領の批判の矛先は経済閣僚に向けられた。通貨ルピアの下落が止まらず、物価上昇が続き、経済成長率が4%台へ低下して、国内の経済活動が減速し始めた。マクロで見れば、これは、中国の経済成長低下などによる世界的な景気後退の影響をインドネシアも受けているに過ぎないのだが、インドネシア国内での対策が遅れていることは否めない。

支持率の低下を背景に、ジョコウィ大統領は、何らかの成果とともに自身の指導力も国民に見せる必要があることだろう。各閣僚の実績評価に基づき、評価の低い閣僚を新閣僚に入れ替える内閣改造は、その格好の機会と言える。

もっとも、ジョコウィ大統領による各閣僚の実績評価が客観的かは疑問である。各政党や業界団体などは、気に入らない閣僚を落とすための情報リークとともに、自薦他薦の閣僚候補を大統領周辺にささやき始めている。

一例を挙げると、「大統領を無能呼ばわりした」との理由でリニ国営企業大臣の更迭が噂される。リニ大臣は国営企業幹部人事で自身に近い人物を配置したことで、それらポストを欲する与党各党などから痛烈に批判された。とくに、リニ大臣に近いとされた闘争民主党のメガワティ党首や他の党幹部は、彼女を裏切り者呼ばわりしている。

一方、闘争民主党など与党との軋轢に悩むジョコウィ大統領側には、野党から閣僚を入閣させて自身の政治基盤強化へ動き出そうという思惑もある。すでに、国民信託党や民主党などからの入閣を示唆し始めている。

ジョコウィ大統領が批判する経済閣僚にはプロフェッショナル出身者が多い。彼らが内閣改造で更迭されれば、プロフェッショナル重視の「働く内閣」の看板が色褪せ、政党以外の大統領支持者からの批判が高まることは間違いない。

 

【インドネシア政経ウォッチ】第132回 ジャカルタで複数のLRT建設計画(2015年6月25日)

ジャカルタの渋滞解消のための次世代交通輸送システム(LRT)建設計画が、中央政府と州政府からそれぞれ発表された。

6月15日、国営建設会社アディカルヤ社が発表した計画は、第1期として東ブカシ〜チャワン〜クニンガン〜ドゥクアタス間とチャワン〜チブブール間を建設し、2018年開業を目指す。第1期工事の総工費は12.56兆ルピア(約1,170億円)である 。

その30%(3.77兆ルピア)を自社株で、2.09兆ルピアを2015年の新規株式発行で、1.68兆ルピアを政府資本注入または他のパートナーを組む国営企業から調達する。国営企業省はすでに1.4兆ルピアの政府資本注入に同意した。

一方、ジャカルタ首都特別州のアホック州知事は6月8日、州が計画するLRT7路線のうち、クラパガディン〜クバヨラン・ラマ間(1号線)建設のため、2015年度州補正予算から5,000億ルピアを投じることを明らかにした。

州のLRTは、ほかにタナアバン〜プロマス間、ジョグロ〜タナアバン間、クラパガディン〜プシン間、プシン〜スカルノハッタ空港間、チュンパカプティ〜アンチョル間など6路線が計画され、上記アディカルヤ社のLRTと接続する。

LRT建設計画で懸念されるのは、資金調達である。アディカルヤ社のLRT建設の資金計画では、まだ5.02兆ルピアの調達先が未公表である。国営企業省の支持を受けたが、運輸省が未承認のため、現時点では大統領まで上がっていない。

また、ジャカルタ首都特別州の計画でも、州議会への説明はこれからで、州予算で賄うにしても今後継続的に資金調達が可能かどうかは明らかではない。アディカルヤ社が州のLRT建設も担う可能性もある。

資金計画に不安を残すなかで、LRT事業に中国からの資金を活用する可能性が示唆されている。3月のジョコウィ大統領の訪中時に、国営企業が担うインフラ関連16事業へ中国開発銀行が238億ドルの融資を行うことに合意したが、アディカルヤ社はこの国営企業のなかに含まれている。

ジャカルタのLRT建設は本当に着工するのか。やはり中国に頼ることになるのか。

 

 

【スラバヤの風-25】国内唯一のリンゴの運命は?

寒冷な地方で育つリンゴが熱帯のインドネシアでも栽培されているのをご存知だろうか。国内で唯一、リンゴ栽培の行われているのが東ジャワ州バトゥ市周辺である。

バトゥ市は面積202平方キロメートル、人口約20万人。標高2000メートル以上の山々の裾に位置する、平均海抜827メートルの高原都市である。市内には洞窟、温泉、プール、動物園、観光農園、遊園地などのほか、ホテルや別荘が多数あり、週末や祝休日には多くの観光客が訪れる。その数は年間約300万人、国内有数の観光都市でもある。

バトゥ市は2001年にマラン県から分立した。このため、バトゥで栽培されるリンゴは、今も「マラン・リンゴ」(Apel Malang)と呼ばれることが多い。

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バトゥでリンゴが栽培され始めたのは植民地時代の1930年代で、涼しい気候に目をつけたオランダ人が苗木を持ち込んだ。その後、リンゴ栽培は拡大し、リンゴを使ったドドール(日本の羊羹に似た菓子)、クリピック(スナックせんべい)、リンゴ酢などが作られ、リンゴを自分で摘める観光農園も広がった。

しかし、1980年代頃から、他の果物や高原野菜、花卉など、より儲かる産品への転換が急速に進んだ。たとえば、ブミアジ郡では、最盛期に約300ヘクタールあったリンゴの栽培面積が今では60〜70ヘクタールへ減少し、ミカンへ15〜20ヘクタール、サトウキビへ約20ヘクタールと転換し、10年前から宅地化も進行した。

バトゥで栽培される野菜には有機肥料を使うのが一般的で、リンゴもそうだった。しかし成果が上がらず、リンゴだけは再び化学肥料へ戻ってしまった。リンゴの木は剪定されずに空高く伸び、果実は直径約5〜6センチと小さい。価格はキロ当たり2500ルピア(約22円)程度と安く、甘みが少ないため、質でも量でも輸入リンゴに対抗できない。

リンゴはもうダメだ、と地元の人は言う。大量のリンゴ輸入のせいだとする声もある。しかし、厳しい言い方をすれば、これは、付加価値を上げる栽培・加工上の工夫を追求できなかった結果である。国内唯一のリンゴは、果たして復活できるのだろうか。

 

(2014年5月10日執筆)

 

 

【スラバヤの風-24】出稼ぎ送り出し県からの脱却

中ジャワ州南部のウォノギリ県は、水が乏しく農業にあまり適さない山間部にあり、ジャワ島有数の貧困県と見なされてきた。多くのウォノギリ出身者が、以前から建設労働者や家事労働者として、その後は工場労働者として、ジャカルタなどへ出稼ぎに出ていた。ウォノギリ県の人口は120万人、そのうちの少なくとも2割が出稼ぎ人口である。今でも、ジャカルタとウォノギリとの間にはたくさんの直行バスが運行している。

この貧しい出稼ぎ送り出し県を、今では、毎日のように投資家が訪れている。とくに、韓国系ビジネスマンが熱心に通い詰める。ジャカルタ周辺の賃金高騰の影響で、繊維や縫製などの企業が中ジャワ州南部で工場移転の可能性を探っている。近くのボヨラリ県には、韓国政府の資金で繊維・縫製向けの工業団地の建設が始まっている。ボヨラリ県の2014年最低賃金(月額)は111万6000ルピア、ウォノギリ県のそれはさらに低い95万4000ルピアであり、これが投資家を工場移転に誘う要因となっている。

ウォノギリ県では、今年7月までに合板工場と女性下着工場が操業を開始する。いずれもインドネシア地場企業で、両工場を合わせて4100人の雇用機会が生まれる。このうち、700人がジャカルタでの出稼ぎから戻って就職すると見られる。加えて、韓国系の繊維工場やカバン製造工場がウォノギリ県への立地へ向けた最終段階に入っている。

ウォノギリ県ではダナル・ラフマント県知事が先頭になって動く。前述の女性下着工場の用地買収では、36人の地権者を説得し、わずか2週間で用地買収を成功させた。また、県知事自ら村々をまわり、工場で働く女性労働者の募集さえも行なった。

南海岸に建設されるセメント工場と合わせた港湾整備、複数の工業団地建設計画。出稼ぎ送り出し県からの脱却を熱く語る県知事の姿は、まさに、1970年代の日本の高度成長期、企業誘致にかけた地方の熱気を思い出させる。最貧県のイメージを一新するような変化がウォノギリ県で起こり始めている。

 

(2014年4月25日執筆)

 

【スラバヤの風-23】ムルヨアグン村のゴミ処理場

今日もまた、マラン県ムルヨアグン村へ視察者が訪れる。国内ばかりではなく、日本をはじめとする外国からも来る。目的地は、村の中心部からやや離れた、ムルヨアグン統合ゴミ処理場である。この処理場は地元住民グループによって管理運営されている。

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ムルヨアグン村のゴミ処理場

地元住民グループは2010年に結成された。ムルヨアグン村にはブランタス川水系の河川が流れており、それまで20年以上にわたり、1日当たり30立方メートルのゴミが投棄されてきた。2008年、当時の村長が一念発起し、「河川へのゴミ投棄をさせない」と宣言、2009年に住民全員を集めて土地利用計画を話し合って説き伏せた。住民グループ結成後、村は2,000平方メートルの土地を用意し、2010年12月までに国家予算や州予算などを使って処理場を建設し、2011年2月から運用を開始した。今や、広さは8,676平方メートルに拡張されている。

現在、この処理場では、1日当たり64立方メートルのゴミを処理している。これはムルヨアグン村の5,656家屋、7,600世帯のゴミに相当する。ゴミの内訳は無機ゴミが45%、有機ゴミが39%で、前者は、食べかすなどがアヒルや豚の餌となり、その他は洗浄・加工して業者へ売る。分別は細かく、硬質プラスチックが61種類、オモチャが74種類、ガラスが13種類、アルミ缶が22種類、といった徹底ぶりである。

一方、後者は40日かけてコンポストにし、さらに55日かけて有機肥料にする。有機肥料を作る過程では、県畜産局から進呈されたヤギ11頭の糞も混ぜる。これらのゴミ処理で、ハエの発生率が95%減少したという。

住民からは1世帯・1ヵ月当たり5,000〜1万2,000ルピアのゴミ収集費を徴収するので、毎月3,500万ルピア程度の収集費収入がある。他方、従業員の給与や機器の維持管理などの運営コストが毎月8,000万ルピアかかるが、処理ゴミの業者への売却益を合わせると収支は黒字になる。ただし、用地拡張が難しいため、処理能力の拡大には限界があるとのことである。

住民は河川へのゴミ投棄を止め、ゴミ処理場で働くことによって雇用機会が生まれ、収入が上がり、生活が豊かになった。河川も以前よりきれいになった。ムルヨアグン村の挑戦は、インドネシア国内の様々な地方政府から注目を集めているが、政府に頼らず、地元住民グループによって自立したゴミ処理ビジネスを成立させたことが重要なのである。

 

(2014年4月11日執筆)

 

 

【スラバヤの風-22】マラン市のゴミ銀行

「ゴミで貯金しよう」「ゴミで日用必需品を買おう」「ゴミで電気代を払おう」。マラン市のゴミ銀行のオフィスを訪ねると、そんな標語があちこちに掲げられている。

マラン市のゴミ銀行は、ゴミ処理場への家庭ごみの削減を目的に、市政府が2011年10月に設立した。オフィスは市内の墓地管理事務所にあり、オランダ植民地時代には遺体安置所だった。ゴミ銀行とゴミ処理場を同一視した市民が猛反対したため、ゴミ銀行の立地場所を決められず、結局、墓地管理事務所にオフィスを置くことになったのである。

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マラン市の「ゴミ銀行」オフィス窓口

ゴミ銀行で扱う家庭ごみはプラスチック、紙類、金属、ガラス瓶など70種類に分類され、その各々に引取価格が設定されている。ゴミを持ち込んだ顧客は、現金または貯金の形で対価を得るが、貯金のほうが現金よりも高く対価が設定される。たとえば、カップ麺の空カップは現金だと300ルピアだが、貯金だと400ルピアになる。

ゴミ貯金には普通貯金、教育資金用貯金、レバラン用貯金のほか、現金ではなく現物で引き出す日用必需品貯金、奨学金やモスク建設補助のための社会義援貯金、リサイクル関連の設備購入のための環境貯金、健康保険料を支払うための健康保険貯金がある。

ゴミ銀行の顧客には、直接ゴミを持ち込む個人顧客と、ゴミ銀行が出向いてゴミを引き取るグループ顧客の2つがある。グループ顧客には町内会、学校、パサール(市場)などがあり、それぞれ最低でも住民20人、生徒40人、商人5人の会員で構成する。

グループ顧客は1〜2週間に1回、重量50キロ以上になるようにゴミを収集し、計量・分類する。そこへゴミ銀行の職員が出向いて再度計量・分類し、梱包した後、軽トラックでゴミ銀行へ運ぶ。収集したゴミの内訳・重量・預金額などはゴミ銀行で集計・記録し、グループ顧客の通帳にも口座情報として細かに記録される。現在までに個人顧客が約400人、グループ顧客が約320グループ、うち参加学校は175校である。

ゴミ銀行の収益は、収集したゴミを廃品回収業者へ売ることで得られる。現在、毎月2億ルピア程度の売り上げと2000万ルピア程度の収益がある。マラン市のゴミ銀行の1日当たりの収集量は約2.5トンで、市全体から見ればまだごくわずかであり、家庭ごみ処理に関する市民への啓蒙の役割を果たす段階といってよい。

しかし、ゴミをお金に変える試みは珍しく、マラン市のゴミ銀行の動きは全国の地方政府から注目を集めていくことだろう。

 

(2014年3月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-21】出稼ぎの民、マドゥラ人

マドゥラ島を出自とするマドゥラ人は、インドネシアではジャワ人、スンダ人、バタック人についで4番目に人口の多い種族集団である。2010年人口センサスによると、国内のマドゥラ人の人口は718万人で、そのうち東ジャワ州に居住する者が644万人である。マドゥラ島にある4県の人口が合計362万人で、そのすべてをマドゥラ人と仮定すれば、マドゥラ人の分布は、マドゥラ人の2人に1人はマドゥラ島外へ出ていることになる。

すなわち、マドゥラ人は出稼ぎの民といってよい。歴史的に見ると、マドゥラ人の出稼ぎのきっかけは17世紀にさかのぼる。当時、ジャワ島を支配するマタラム王国に対して、マドゥラ人の英雄トゥルノジョヨが反乱を起こしたが、オランダ東インド会社をバックにしたマタラム王国に敗北した。その際、トゥルノジョヨに従ったマドゥラ人多数が島から逃げ出し、生計を立てるため、逃亡先で様々な雑業に就いたとされる。もっとも、マドゥラ島自体が農業に不向きな、塩田に頼る貧しい土地だったことも要因として挙げられる。

彼らの就く雑業といえば、たとえば、ジャカルタなどの都市で見かけるサテ(串焼き)屋やソト(実だくさんスープ)屋、住宅地などを歩きまわる移動式屋台(カキリマ)や自転車にインスタント飲料とお湯を乗せた売り子などである。ほかには、マドゥラ人の理髪師のネットワークがあり、西ジャワ州のガルット出身者と並んで知られる。マッサージ業界でも、マドゥラ人のマッサージ師は一大勢力となっている。雑業以外にも、中央政界・財界で活躍するマドゥラ人は少なくない。

スラバヤには、人口の約4分の1に当たる80万人ものマドゥラ人が居住し、とくに市の北部に集中している。様々な雑業のなかでも、とくに目立つのがクズ鉄や古紙などの廃品回収やゴミ収集・分別に従事する者や、市場(パサール)や路上で商品売買をする商人などである。商人については、スラバヤだけでなく、マドゥラ人居住者の多い北東海岸部に加えて、マランなどの内陸部の市場に入ると、そこはマドゥラ語が支配的な世界である。

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スラバヤ市北部のくず鉄・廃品市場。ありとあらゆる廃品が売買されている。ここもマドゥラ人が牛耳っている。

このように、マドゥラ人は東ジャワ経済にとって不可欠な存在である。温厚で感情を露わにしないジャワ人とは対照的に、より敬虔なイスラム教徒であるマドゥラ人は、感情をストレートに表現することで知られる。出稼ぎの民・マドゥラ人は、そのバイタリティを発揮しながら、東ジャワやスラバヤ、インドネシアにおける経済の基底を支えている。

 

(2014年3月14日執筆)

 

 

【スラバヤの風-20】スラマドゥ大橋は悲願だったのか

スラバヤ市とその目と鼻の先にあるマドゥラ島とは、スラマドゥ大橋で結ばれている。建設したのはインドネシアの国営企業ワスキタ・カルヤと中国系2社(中路公司、中港公司)のコンソーシアムで、約6年かけて2009年6月に開通した。全長5438メートル、インドネシア最長の橋であり、総工費は4.5兆ルピア(約390億円)とされる。開通式でユドヨノ大統領は「50年前からの悲願が達成された」と述べた。

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インドネシアでは、1960年代から島々を橋やトンネルで結ぶ構想があり、スハルト時代には、ハビビ科学技術国務大臣(当時)を中心に「トゥリ・ヌサ・ビマ・サクティ計画」という名で現実化が進められた。スラマドゥ大橋とその周辺の工業団地建設は、その一環として1990年に国家プロジェクトとなった。これに関するフィージビリティ調査や計画立案で日本が重要な役割を果たし、日本企業を含む形で建設に取り掛かる予定だった。しかし、通貨危機によって計画は延期され、地方分権化で権限を移譲された東ジャワ州政府が主導して新たなコンソーシアムを立ち上げ、建設が再開された。

識者たちは、スラマドゥ大橋の完成により、島外から投資が来ることで、後進地域のマドゥラ島でも開発が一気に進むことを期待した。スラバヤの対岸で橋のかかるバンカラン県では600ヘクタールの土地を用意し、工業団地と港湾開発を進める計画だった。

しかし、スラマドゥ大橋を渡ってすぐ先には、広大な荒地が広がる。値上がりを見越して法外な地価を要求する地権者からの土地収用が困難を極めているのだ。橋の完成前と比べて200倍に高騰した土地もある。そして、ここでも、政府の役人らが土地をめぐる投機的な動きに陰で関わっていると言われる。

それとは対照的に、スラマドゥ大橋から遠く離れたマドゥラ島東部のスムナップ県では、以前よりも商業活動が活発化し、ホテルの数が増え、空港整備も進むなど、経済的に好ましい変化が起きていると言われる。

実は、スラバヤ市とマドゥラ島を結ぶ連絡フェリーはまだ存続している。「スラマドゥ大橋の通行料が従来のフェリーに比べて高い」という声も聞く。そんな状況を見ると、スラマドゥ大橋は本当にマドゥラの人々の悲願だったのか、という疑問が湧いてくる。むしろ、ただでさえ出稼ぎの多いマドゥラの人々の島外への移動に、さらに拍車をかけただけだったのではないかとさえ思えてくる。

 

(2014年2月28日執筆)

 

 

【スラバヤの風-19】スラバヤ市長「辞任」騒動

2014年2月に入り、地元マスコミは、「スラバヤ市のリスマ市長が辞任を表明した」とのニュースを流した。清廉潔白で知られる彼女に汚職疑惑やスキャンダルが急に湧いたわけではない。これまで積み重なってきた議会や政党との対立がここに来て一気に噴出したのである。

リスマ市長が辞任をほのめかした理由の一つは、ウィシュヌ副市長の就任である。リスマは2010年、 副市長候補であるPDIPの重鎮バンバン前市長と組み、闘争民主党(PDIP)の単独推薦で当選した。このときのPDIPスラバヤ支部長がウィシュヌ現副市長である。

バンバン副市長は、2013年8月の東ジャワ州知事選挙に州知事候補として立候補するため、副市長を辞任した。これを受け、スラバヤ市議会で副市長候補の選任が行われ、PDIP会派のウィシュヌ代表が選ばれた。この選任プロセスをめぐっては書類偽造の疑いがあり、リスマ市長は結果を認めようとしなかったが、内務省や東ジャワ州知事からの指令で、ウィシュヌ氏は副市長に就任した。リスマ市長は病気を理由に副市長就任式を欠席した。

実は、リスマ市長にとってウィシュヌ氏は怨念の相手である。リスマ市長は、すでに工事が始まっていた市内高速道路建設を「庶民のためにならない」と強硬に反対したほか、路上の広告や立看板を規制するために広告税の引き上げを図ったが、市議会がこれらへ強く反対した。2010年の市長就任から半年も経たないうちに、市議会は、リスマ市長を市長の座から引きずり降ろそうと画策したが、その先頭に立っていたのが、与党のはずのPDIP会派のウィシュヌ代表であった。

その後、PDIP党中央の指示で解任騒動は収まったが、市議会のリスマ市長への不信は増幅し続けた。最近では、ドリーと呼ばれる東南アジア最大規模の売春街の閉鎖や、スラバヤ動物園の管理運営でも、リスマ市長への批判が出ている。市議会は、開発事業を進めたい建設業界などと一緒に、 2015年スラバヤ市長選挙での彼女の立候補・再選を防ぐため、必ずしも必要とはされない副市長選出を強行し、ウィシュヌ副市長を据えたのである。

リスマ市長はまだ辞任報道を否定も肯定もしていない。辞任反対デモも起こった。リスマ市長をめぐる動きは、同様に政治的な思惑と離れた新タイプの政治家で、大統領候補人気トップのジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事の動きだけでなく、今後のインドネシア政治を展望するうえでも注目される。

 

(2014年2月16日執筆)

 

 

【スラバヤの風-18】スラバヤ動物園の悲劇

スラバヤ動物園で次々に動物が死んでいく、と話題になっている。2014年1月には、アフリカライオンが首を吊った不自然な形で死んでいるのが写真入りで報道された。「死の動物園」「世界最悪の動物園」と酷評されたスラバヤ動物園で、いったい何が起こっているのか。

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スラバヤ動物園の入口

スラバヤ動物園は、オランダ植民地時代の1916年に設立された国内最古の動物園であり、広さ15ヘクタールは東南アジア最大規模である。2014年1月末現在、197種、3459頭の動物が飼育されているが、84頭が病気や老齢で、うち44頭が危機的状態にある。

スラバヤ動物園で動物の死が問題視されたのは2010年頃からである。スマトラトラ、アフリカライオン、コモドオオトカゲ、バビルサなどが相次いで死んだが、飼育環境の悪化やエサの不足などの様々な問題は、現在まで、何ら解決には至っていない。

動物園を管轄する林業省の意向を受けて、スラバヤ動物園の管理運営はスラバヤ市政府へ移管されたため、批判の矛先はスラバヤ市のリスマ市長へも向けられている。しかし、市長は一切ひるまず、逆に、スラバヤ動物園の前経営者を汚職撲滅委員会へ告発するという行動に出た。地元の国立アイルランガ大学が監査を行った際、南京錠の付いた複数の金庫や現金入りの不審な袋が発見されたほか、スラバヤ動物園の動物を他の動物園と交換した際に、動物の代わりにバイクや自動車をもらっていたケースが発覚したのである。

スラバヤ動物園の管理運営をめぐっては、過去の歴代園長が率いる3グループの内部対立があり、ときには、特定グループの意向を受けた暴力団(隣のジョヨボヨ・バスターミナルを仕切る)が園内に入るケースさえあった。リスマ市長は、これら3グループを同じテーブルにつかせて、動物園の飼育環境や管理運営の改善に向けた話し合いを試みている。

スラバヤ市政府がスラバヤ動物園を管理運営することになったのは、実は動物園内部の問題だけではなかった。2011年頃、地元実業家が動物園を移転させ、元の敷地にホテルやレストランを建設する計画が浮上した際、それを断固認めさせたくないリスマ市長が、市政府による動物園の管理運営を強硬に主張したのである。 地元実業家は、動物園を移転させる口実として、動物の死が相次ぐ劣悪な飼育環境を利用したのかもしれない。2015年のスラバヤ市長選挙でリスマ市長の再選を阻むため、動物園事件絡みでの資金工作があるとの噂もある。スラバヤ動物園の悲劇には、どうしても人災の匂いが付きまとっている。

 

(2014年1月31日執筆)

 

 

【スラバヤの風-17】日本向け野菜生産の聖地となるか

熱帯に属するインドネシアは、日本など温帯産の農作物の栽培には適さないと考えられがちだが、それは一面的である。標高差を生かすと、温帯に近い高山気候のような環境で農作物の栽培が可能になる。しかも四季がないので、年間を通じて栽培できる。

ジャワ島の高原地帯の多くは火山灰地帯であり、肥沃な土壌を生かして高原野菜が栽培されている。キャベツ、白菜、ニンジン、トマトなどが畑でトラックに積まれ、夕方から夜明け前頃までに大都市へ毎日運ばれてくる。ジャカルタではクラマット・ジャティ市場、スラバヤではクプトゥラン市場がそうした野菜の一大集積地である。

東ジャワでは、国内市場向けだけでなく、輸出向けの野菜生産・冷凍も行われている。最も有名なのは、ジェンブル県を中心に生産される枝豆で、その8割以上が日本向けである。中心となる国営合弁企業では、年間約5500トンの枝豆を生産するほか、オクラ、ナス、サツマイモ、大根、インゲンなども日本向けに生産している。

いくつかの日本企業も、東ジャワの高原地帯で野菜の委託生産を試みている。昨年9月に訪問したマラン市の野菜加工工場では、長ネギ、マッシュルーム、サツマイモ、ニラ、大根などを扱い、契約栽培された野菜を水洗いした後、乾燥、冷凍、チルド、水煮などの状態にして、日本及びシンガポール向けに出荷する。野菜加工工場の指導員が栽培農家を回り、圃場で野菜作りや農薬の使用方法などを細かく指導している。

たとえば、日本企業のスペックに合わせてカットされた野菜は、大腸菌の発生を防ぐため殺菌液に浸けられた後、急速冷凍され、半製品として日本へ輸出される。日本市場に受け入れられるよう、日本で味付けをしたり衣をつけたりしたものが、おでんセットの大根や、駅の立ち喰い蕎麦屋のイモ天となって市場に出る。インドネシアからの輸入量はまだわずかだが、すでにインドネシア産野菜が日本食材の一部となっているのである。

しかし、すべての日本向け野菜生産が成功している訳ではない。低コストを狙って委託生産を試みたある日本企業は、昨年初めに東ジャワから撤退した。品質管理や圃場管理の難しさに加え、5年契約で借地代の一括払を要求するといった、農民レベルでの拝金主義の横行も近年目立つという。そして、日本市場が要求する安全・安心への保証をどう確立するかが極めて重要な課題となるだろう。果たして、東ジャワは日本向け野菜生産の聖地となるのだろうか。

 

(2014年1月17日執筆)

 

 

【スラバヤの風-16】シドアルジョはエビの町

正月料理に欠かせない食材の一つは、めでたさを象徴するエビだが、2014年の正月は例年よりも出荷量が少なく、エビに出会えること自体がめでたいことだったかもしれない。昨年、主力のバナメイ・エビがタイなどで大量に病死し、国際価格が一気に高騰したからである。

幸い、インドネシアで病気は蔓延せず、バナメイ・エビの前に主力だったブラックタイガーが過去最高値で取り引きされた。2013年12月にスラバヤで会った華人系のエビ輸出業者は、ブラックタイガーの日本向け輸出で大いに稼いだ様子だった。

昔から、インドネシア産ブラックタイガーは日本における輸入冷凍エビの代名詞ともいえる存在だった。その養殖の中心地は、スラバヤの南隣にある東ジャワ州シドアルジョである。シドアルジョの海岸沿いはエビ養殖池で占められ、街中のあちこちに名物のエビせんべい(クルプッ・ウダン)の製造・販売業者が立地する。エビせんべいの値段の高低はエビの含有率に比例する。シドアルジョは「エビの町」と言ってもいいほどである。

シドアルジョのエビ養殖は、国内で最も近代的・集約的な管理方法で行われ、生産効率が追求された。その反面、いったん病気が蔓延すると容易に感染し、全滅に近い状況に陥る危険性を孕んでいた。シドアルジョでエビ養殖を学んだ者たちは、カリマンタン、スラウェシなどジャワ島外へエビ養殖を展開させていったが、そこでは、小骨は多いが脂の乗るミルク・フィッシュ(バンデン)の養殖と組み合わせた集約度の低い方式が採られた。インドネシアのエビ養殖は、シドアルジョの高集約型とジャワ島外の低集約型とを組み合わせながら、結果的に、全滅のリスクを回避する形で展開してきたと言える。

当初、養殖エビは日本向け輸出が多かったが、韓国や中国など他のアジア向け輸出に加えて、インドネシア国内向け供給も増えた。ただし、インドネシアでは、日本でお馴染みのエビフライやエビ天ぷらではなく、エビせんべいのほかではエビカツがフライドチキンと並ぶポピュラーな揚げ物として定着するといった展開がみえる。

日本の正月料理に欠かせないインドネシア産食材は、実はエビだけではない。たとえば、蒲鉾用の魚の練り物やおでんの具の大根などの野菜もインドネシア産かもしれない。カツオだしなどに使われるカツオの一部は北スラウェシ産である。ユネスコ無形文化遺産となった日本料理、そこへインドネシア産食材も少なからず関わってくる。

 

(2014年1月3日執筆)

 

 

【スラバヤの風-15】東ジャワから広がる地方自治賞

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目映い光を浴びたステージ上には、トロフィーを手に晴れやかな表情の県知事・市長が立ち並ぶ。11月30日、スラバヤで2013年地方自治賞表彰式典が開催された。

地方自治賞は、東ジャワ州の全38県・市を対象に、公共サービス部門、経済振興部門、政治その他部門の3分野で際立ったパフォーマンスを見せた県・市を公表・表彰するもので、2002年から毎年開催され、今年で12回目となる。地元紙『ジャワポス』のダハラン・イスカン社長(当時。現国営企業大臣)のイニシアティブで2001年に設立された、ジャワポス地方自治研究所(JPIP)が毎年のパフォーマンス調査・評価を担当してきた。

JPIPの調査員はあえて大学を出たばかりの若手が採用され、役人や政治家との繋がりのない人材が配置された。調査の過程では、県・市から手心を加えてもらうよう強要されたり、脅されたりするケースもあったそうだが、それでも12回も続いてきたのは、JPIPの調査結果や評価に一定の客観性が認められ、それが県・市に受け入れられたからであろう。なかには、地方自治賞の受賞を毎年の開発目標として位置づける県・市さえある。

2013年地方自治賞を受賞したのは、公共サービス部門ではマラン県(大賞)、シドアルジョ県、ジョンバン県、経済振興部門ではマラン市(大賞)、バニュワンギ県、サンパン県、政治その他部門ではバニュワンギ県(大賞)、スラバヤ市、ラモンガン県、パチタン県であった。若くエネルギッシュな県知事が率いるバニュワンギ県が2部門で受賞して際立ったが、各部門にノミネートされた件数が圧倒的に多かったのはスラバヤ市だった。個人的には、ゴミを貨幣のような決済手段にして生活必需品を買えるようにしたマラン市の取り組みが興味深いが、いずれ現場で調べてみたい。

地方自治賞は現在、東ジャワ州だけでなく、中ジャワ州、南スラウェシ州、東カリマンタン州、南カリマンタン州、西カリマンタン州へ広がり、JPIPの支援を受けながら、それぞれの州のジャワポス系列の地方新聞社が実施している。まだまだ改良の余地はあるにせよ、JPIPのような信頼された第三者が県・市間の善政競争を促す形になってきている。

日本でも、堺屋太一氏らが「全国自治体・善政競争・平成の関ヶ原合戦」を呼びかけたことがあるが、定着度と効果の面で地方自治賞はより実際的といえる。JICA専門家時代に地方自治賞の構想をJPIPと議論した身としては、今後のさらなる展開を期待したいところである。

 

(2013年12月13日執筆)

 

 

【スラバヤの風-14】スラバヤは物語を持っている

スラバヤでは、自分の街を愛する人々に多く出会う。「ジャカルタに行ってみたけれど数ヵ月でスラバヤへ戻ってきた」という人によく会うし、ものすごく優秀な人材なのにスラバヤからジャカルタへ行こうとしない者がいたりする。

街中には100年以上前に建てられた素敵なコロニアル風の建物がいくつも残り、今もその多くは現役である。スラバヤの古い写真を収集して保存する運動をしている団体や、自分たちの祖先の跡をたどる街歩きをする華人系のグループなどもある。

スラバヤは「英雄の町」とも呼ばれる。それは、1945年8月の独立宣言の後、再侵入してきたオランダなどの連合軍へ、全国で最初に市民蜂起した歴史を背景としている。そんな歴史もまた、スラバヤっ子が自分の街に誇りを持つ所以なのかもしれない。

10月末、スラバヤの街に関わる様々な人々や事象を書き留めた『スラバヤは物語を持っている』という本が出版された。著者はダハナ・アディ(通称・イプン)というフリーランスのジャーナリストで、11月2日の出版記念セミナーには私も顔を出した。

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本の中身は、昔にスラバヤで流行った様々な映画、戦時中に日本軍がプロパガンダで利用したことで知られるスリムラットと呼ばれる大衆娯楽劇、オランダで活躍した「ティルマン・ブラザース」というインドネシア人バンド、インドネシアン・ポップスの先駆者ゴンブロー、伝説的なジャズ音楽家ブビ・チェン、マス川のほとりを歩いた際の見聞録、トゥリ市場やジュアンダ空港の歴史など、スラバヤゆかりの人々や事象を取り上げている。この本は第1巻と銘打っており、今後続刊が期待される。

イプンは「次世代の子供たちにスラバヤをもっとよく知り、愛し、誇りを持ってもらいたいので、この本を書いた」と語る。私としては、そうしたイプンの活動自体に敬意を表する。と同時に、様々な人々が持つそれぞれのスラバヤの物語が生まれることも期待してしまう。

たとえば、以前住んでいたマカッサルでは2007年、若者たちがマカッサルに関わる様々な事象を調べた『マカッサル0キロメートル』という本を出版した。その後、一般市民が自分の身の回りの事象を調べて書いたエッセイから成る『パニンクル』という投稿サイトが生まれ、既存メディアに対抗する市民ジャーナリズムの先駆けとなった。

スラバヤではどうだろうか。イプンが語る「スラバヤ」を人々が受け止めるだけでなく、人々もまた自分たちの「スラバヤ」を自ら紡いでゆく。その結果、『スラバヤは物語を持っている』はより豊かになり、スラバヤの人々みんなのものとなっていくことだろう。

 

(2013年11月29日執筆)

 

 

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