遊志庵を訪ねる

今回の大分・佐伯訪問の一つの目的が、佐伯にある遊志庵を訪ねることでした。

この遊志庵は、研究者である岩佐礼子さんという方がご親族の実家の古民家を改修し、地域の人々の憩いの場、よそから来た人たちとの交流の場にしようと運営されている場所です。詳しくは、以下の遊志庵のページをご覧ください。

 遊志庵

ゆったりとくつろげる雰囲気の空間で、しばし、岩佐さんと語り合いました。よそ者、古民家、地元学など、様々な共通用語が出てきました。

語り合いのなかで、地域と交わるといっても、それぞれの地域によって交わりやすさの温度差があり、こうした場所が必要だという認識がどう生まれてくるのか、といったことを考えていました。

急がず焦らず、自分自身も土の人の地域社会になじませつつ、風の人でもある自分の特性を生かしながら、土の人とともに、そこの風土自体と日常生活の中にある価値を認識していけるような活動になるといいなあ、と、私自身の今後の活動のことも含めて、思いました。

福島市の私の事務所と同じ敷地内にある古民家を、どのように地元の公共の場として生かしていくか。それが今後の私の活動の課題の一つだからです。

ともかく、皆さんも是非、遊志庵を訪れてみてください。ここから何かが始まるような気がしてくる場所です。

それにしても、JR代行バスで着いた海崎駅前から遊志庵までの道は、青空が映え、秋の深まりを感じさせる、とても素敵な風景が広がっていました。

技能実習制度を本物にする

以前から気になっているのは、外国人技能実習制度の問題です。

この制度は、本来、技能実習生へ技能等の移転を図り、その国の経済発展を担う人材を育成することを目的としており、日本の国際協力・国際貢献の重要な一躍を担うものと位置づけられています。

しかし、こんな立派な建前があるにもかかわらず、現実に起こっていることは、メディアなどで取り上げられているとおりです。すなわち、日本の受入企業側は労働力の不足を補ってくれる者として外国人技能実習生を受け入れ、外国人技能実習生は3年間日本にいて得られる収入を目当てにやってきます。

ときには、日本の受入企業は、コスト削減圧力のなかで、相当に厳しい条件を強制して外国人技能実習生を受け入れ、それに耐えられなくなった実習生はいつの間にか姿を消してしまう、という話さえ聞こえてきます。

ここで大きな問題となるのは、日本でどのような技能を身につけるのか、実習期間を終えてそれがどれだけ身についたのか、に関する明確な評価とモニタリングが見えないことです。あるいは、形式的にそれがあったとしても、誰がどう評価・モニタリングしたのか、送り出し国へ正確に伝える仕組みが整っているのか、という問題です。


そもそも、日本の受入企業にとっては人手不足が最大の問題です。日本人よりも賃金が安くできるから外国人技能実習生を使っているのでは必ずしもなく、日本人でも働き手がいない、あるいはいても長く働いてくれない、という実態があります。ある工場では、1ヵ月ぐらいでどんどん辞めていくそうです。また、少し注意しただけで、キレる日本人の若者もよくいるそうです。

そんな状況になれば、1~3年という長期にわたって、ずっと作業をしてくれる外国人技能実習制度は、とてもありがたい制度に違いありません。工場などの人員配置計画が立てられるので、安心して生産することができるからです。そうであれば、日本人のアルバイトよりも高いコストを払ってでも、外国人技能実習生を使おうという気になります。

他方、インドネシア人技能実習生にとって、日本は今でも憧れの国です。たくさん稼げる国というイメージが根強く、難民申請でも何でも、どんな手段を使ってでも、何度も行きたいという人が少なくありません。

しかし帰国後、日本で得た技能を生かして何かを始める者はいても、それは多数派ではありません。日本滞在中に得た収入をもとに、日本語を生かせる事業を行ったり、元手をあまり必要としない食堂を開いたり、様々です。

もちろん、自ら会社を起業し、日本で学んだ技能を生かして、かつての日本の受入企業と取引を行っている者もいます。彼らは成功者として、技能実習生OB組織であるインドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という団体を自ら立ち上げ、後輩たちの活動を積極的に支援しています。IKAPEKSIの立ち上げには、日本政府もインドネシア政府も何も関わっていませんが、今では両者は積極的に協力関係を構築しています。

ちなみに、私は、2015年から、このIKAPEKSIのアドバイザーを務めています。なぜか、彼らから請われて、承諾したものです。

IKAPEKSI総会にて(2015年3月8日、ブカシ)

日本の多くの中小企業では、後継者の不在により、これから廃業せざるを得ない企業がかなり出てくるものと思います。そうなると、それらの企業がこれまでに培ってきた技能、技術、ノウハウなどは当然消えていきます。それら中小企業の立地する地域にとっても、地域産業が衰えていくことになります。

しかし、インドネシアをはじめとするアジア諸国の企業は、日本の中小企業がどのような技能、技術、ノウハウを持っているのか、それらがどのぐらいの水準で、自分たちにとって必要なものかどうか、ということに関心を持っています。日本ではなくなってしまうものでも、日本の外ではまだ必要とされる技能、技術、ノウハウがあるかもしれません。

もし、自分の持っているものがまだ日本の外では役に立つと分かったら、日本の中小企業はどうするのでしょうか。日本からは門外不出なのでしょうか。それとも、世界中のどこかで、自分が手塩にかけて築いてきた技能、技術、ノウハウが伝承され、それが次の展開へつながる、と思えるでしょうか。

後者もありだとするなら、そこで重要なのは、その日本の中小企業が手塩にかけて技能、技術、ノウハウを何年もかけて築いてきたことへの敬意、リスペクトではないでしょうか。その苦労や困難に思いを馳せ、本気で伝承を受ける者による心からの尊敬ではないでしょうか。

それまで見たことも聞いたこともない企業が突然現れて、札束をちらつかせながら、買収を持ちかけてきたら、日本の中小企業はどう対応するでしょうか。どうにもこうにもならないと諦めていた企業にとっては、大歓迎でしょうが、自分のしてきたことへの何の尊敬も示さない相手に対して不信感をもつ場合もあるのではないでしょうか。

では、日本の中小企業は、どういう相手なら、心を許せますか。たとえば、かつて3年間、一生懸命尽くしてくれた元外国人技能実習生が相手だったら、どうでしょうか。

インドネシア人技能実習生は、他国よりも長い歴史を持っており、プラスもマイナスも、様々な経験の蓄積があります。今のところ、帰国した技能実習生を会員とする団体であるIKAPEKSIが存在するのもインドネシアだけです。

IKAPEKSIのメンバーは、自分の仲間が日本の受入企業でどんな仕打ちを受けたか、なぜ日本で姿を消したか、帰国後どのように事業を成功させたか、そういったことをみんな知っています。日本側には報告しません(私にも言いません)が、仲間内ではそうした情報を常に交換・共有しています。

技能実習制度を安易に考えている関係者には、そのことをしっかりと認識してほしいです。IKAPEKSIのメンバーが「日本は素晴らしい」と口々に語るその裏には、幾重もの技能実習制度をめぐる出来事の蓄積が重なっているのです。

こうしたことを踏まえて、私は、技能実習制度を本物にすることに注力したいと考えています。

すなわち、本当の意味での技能、技術、ノウハウ等の移転を図り、それが送り出し国の経済発展につながるためにです。同時に、外国人技能実習生が、技能、技術、ノウハウ等を移転してくれる日本の中小企業のこれまでの軌跡に対して心からの敬意を示せるようにしたいのです。

それが故に、日本のどの中小企業のどのような技能、技術、ノウハウ等がインドネシアのどの地域のどの中小企業にとって有益なのかをあらかじめ意識し、日本側とインドネシア側がそれらの移転に同意したうえで、インドネシアから技能実習生を日本の中小企業へ送り出す。

日本の中小企業は3年間の移転カリキュラムとプログラムを作成し、その進捗を図る。終了時までに移転レベルに達したかどうかの試験を何度か行い、終了時には技能認定証を発行する。後は、その技能認定証をインドネシア側に認知させることで、技能認定証が帰国後の就職の際に効力を発揮する。これにより、インドネシア側に対して、日本側からの具体的な技能、技術、ノウハウ等の移転と人材育成の成果を示すことができる。

インドネシアと30年以上関わり、IKAPEKSIのアドバイザーでもある私は、そうした技能認定証をインドネシア側(中央・地方)に認知させるための働きかけを行うと同時に、帰国後の元技能実習生の活動をIKAPEKSIとともにモニタリングし続けることができます。

また、日本の中小企業での技能実習生の受入に当たっては、前もって、技能実習生に移転されるべき技能、技術、ノウハウ等についての説明や、インドネシア人との接し方やインドネシアに関する基本情報を、事細かくアドバイスすることが可能です。また、受入中も、技能実習生のよろず相談をインドネシア語で対応できます。対象実習生の人数が多くなれば、よろず相談のできる体制を整えます。

このように、インドネシア人専門として丁寧に対応しながら、何としてでも、技能実習制度を本物にしたいと思います。そのために、技能実習生の送り出し・受け入れの双方へ具体的に関わる準備を進めていきたいと思います。

もし、日本にいるインドネシア人技能実習生がインドネシア語で相談できる窓口がなくて困っている方がいれば、とりあえず、私宛にご連絡ください。

おそらく、今後は、中小企業向けの技能実習制度だけでなく、農業や水産業、看護や介護での研修生でもまた、同様のアプローチや活動が必要になってくると思われます。日本にとっても、インドネシアにとっても、ウィンウィンになる形を目指す必要があります。

お仲間になっていただける方々も必要になってくると思います。その際には、よろしくお願いいたします。

十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

SQでもやはり無理なことはある

10月30日ジャカルタ20:20発、シンガポール23:05着。シンガポール23:55発、成田10月31日7:30着。定刻通りならこのように乗り継ぐ、シンガポール航空で、今回のインドネシア出張から帰国しました。

実際には、ジャカルタ→シンガポール便の出発が20分ほど遅れ、それでも挽回して、シンガポール到着は10分弱の遅れで到着しました。

到着したのは第2ターミナルの一番端。成田便は第3ターミナルなので、スカイトレインに乗って移動です。

ジャカルタでチェックインしたときに、係員が気を利かせて、できるだけ出口に近い席を取ってくれたので、エコノミークラスとしては早く機外へ出ることができたのですが、ともかく小走りに速足でひたすら第3ターミナルへ向かいました。

成田便の搭乗口に着いたのは23:30過ぎ。すでに搭乗はほとんど終わっていました。高速歩行で大汗をかきましたが、何とか滑り込みで無事乗り込むことができました。

ふと、気になったのは預入荷物。でも、世界一という評判のシンガポールのチャンギ空港だから、きっと大丈夫、と思い込みました。

成田到着。ブリッジを進んだ先に掲示板があり、そこに私の名前が出ています。なぜ?

係員から、預入荷物がまだシンガポールにあることを告げられました。この短い乗継時間でも可能だから、この便の乗り継ぎをブッキングできるようにしているはずだ、と勝手に信じていたのは私です。

でもすぐに、やっぱり、無理だったんだね、SQ、無理してるんだね、と思いました。

地上係員の女性はANAの方で、ひたすら平謝りされてしまい、かえって恐縮してしまいました。別にこの係員がミスったわけでもないのに。でも、きっと、このような場合、激怒して怒鳴り散らす乗客が少なくないのでしょう。

預入荷物は、SQが費用負担して、東京の自宅まで送ってくれるということで、ゴロゴロ引いていく必要がなくなってラッキーでした。でも、この段階では、どの便に乗ってくるのかが分かりません。「31日の昼便に乗ってくる」という連絡があったのは、31日の午後でした。

また、税関で中を開けられるかもしれないということで、鍵の番号も教えなければなりませんでした(教えないと私が成田まで出向くことになるのでしょう)。念のため、税関で荷物を開けられた場合には、その場で私に連絡するようにお願いしました。万が一、中身が紛失した場合のことを考えたのです。

とりあえず、手ぶらで東京の自宅へ戻りました。午後、「31日の昼便に乗ってくる」という連絡とともに、11月1日の午前中に東京の自宅へ配送される、ということが告げられました。その後、何も連絡はなく、税関で荷物も開けられることはなかったのだなと思いました。

11月1日の午前中、荷物が来るのを自宅で待っていました。約束の正午を過ぎても、荷物は届きません。連絡も何もありません。少しゆっくり間をとり、午後1時半過ぎに、今回担当してくれている成田空港のANA手荷物サービスセンターに電話をし、事情を聴きました。荷物が確かに成田に届いたのかどうか、成田から配送されたのかどうか、を確認したかったのです。

しばらくして、ANA手荷物サービスセンターから電話があり、荷物は成田から配送されたこと、その荷物が1日の午前9時に東京の自宅の近くにある最寄りの営業所にあったことが分かりました。となると、今度は配送会社で何が起こっているのか、どうしてすぐそこなのに配達されないのか、が気になります。

すると、ANA手荷物サービスセンターから連絡があり、配送会社の仕訳ミスで荷物が違う場所へ送られたことが判明しました。それでも現在配達中とのことで、配送車のドライバーから連絡が来るという話でした。

その電話を終えて5分も経たないうちに、荷物は無事に届きました。中身もすべてそのままで、まずはめでたし、めでたし。

なのですが、SQでもやはり無理なことはある、というのは認めなければなりません。乗継時間が1時間未満の場合には、「乗継できる」と表示しないようにしてほしいものです(現段階でもまだ表示されています)。もっとも、私たち利用者のほうで、乗継時間を2時間程度とるようにすべきなのかもしれません。SQもちょっと無理をしているのではないか、と思います。

それと、配送会社のミスについてですが、ANA手荷物サービスセンターが状況を説明してくれたからいいものの、配送会社からは何の説明も謝罪もありません。事情の良く分かっていない配送ドライバーが、ともかく謝ればいいという感じで謝るのみです。

「午前指定」が午後2時過ぎに配送されたのですよ。直接、会社へ抗議してもいいのですが、「またクレーマーかよ」と真摯に受け取ってもらえないような気がするし、実害もとくにないので、まあこれで済ませることにします。これもまた、日本の様々な劣化を助長することになってしまうのかもしれませんが。

ともかく、真摯に対応してくださった、成田空港のANA手荷物サービスセンターの係員の方に、感謝申し上げます。

ジャカルタのコワーキングスペースは快適

今回のインドネシア出張も終盤を迎え、農業省での中間報告準備や現地調査でのヒアリングメモなどをまとめていたため、なかなかブログを更新できずにいました。でも、この週末で何とか目途がつきそうなので、気分転換を兼ねて、久々に書いています。

今いるのは、ジャカルタのコワーキングスペースHUB2U。私のアジトは外国人のほとんどいない東ジャカルタにあるのですが、アジトにはインターネットWifiがないので、長時間、高速インターネットに接続できる一時的な仕事場として使えるスペースを求めていました。

ラッキーなことに、私のアジトのすぐ近くに1軒ありました。先週行ってみたのですが、雑居ビルの3階と4階、窓のない部屋に安い机と椅子があるだけの殺風景な場所ですが、インターネットはとても速く、快適でした。まさか、歩いて行けるところにこんな場所があるとは思わなかったので、驚きでした。

今日は、私のアジトからはちょっと離れてはいるけれども、比較的近くにあるこのコワーキングスペースで快適にインターネットにつなげています。

たまたま土曜日ということもあり、私以外に利用しているのは1名のみ。このジャカルタとは思えない静寂な環境で、先ほど、来週月曜日に農業省で発表するプレゼン資料を仕上げたところです。

ただし、WifiのIDとパスワードは1つのデバイスのみ有効。複数のデバイスをつなげていると、つながらなくなってしまうので注意が必要です。

1日利用は12万ルピア、約1000円です。コーヒーや飲み物があり、今だけ、ランチ無料サービスをしているようですが、ランチの時間はいつの間にか過ぎてしまいました。でも、この辺りは、ジャカルタでも有数のグルメ地区で、仕事が終わったら、しっかり楽しんで帰るつもりです。

昨日は、Wifiが速いと有名なトラフィック・カフェで、アイス・カフェラテ1杯で3時間ぐらい居ました。でもここは、1時間ごとにログインをし直さなければならないのが、ちょっと面倒でした。

他にも、モールに入っているカフェでどこのインターネットが速いかなどの情報も得たので、また今度試してみたいと思います。

南スラウェシ州ピンラン県、バンタエン県を訪問

2017年10月23~24日は南スラウェシ州ピンラン県、10月25~26日は同州バンタエン県を訪れ、農業の現状についての情報を得るとともに、県政府や農民グループとの意見交換を行いました。

久々のプンチャック越えで出逢った光景

10月17~19日は、西ジャワ州チアンジュール県を訪れました。ここでは、園芸農業を中心とした農業の現状に関する情報収集を行いました。

ジャカルタからボゴールを通り、プンチャックを越えて、チアンジュール県へ向かいましたが、このルートを通るのは、おそらく約20年ぶりのことだと思います。
インドネシアに初めて来た1985年8月、このルートを通って、バスに乗って、インドネシア語の先生の実家のあるチマヒへ行きました。チマヒはバンドンの一つ手前の町です。
あの時は、プンチャックを越えて、道路沿いの食堂で昼食。どこを見渡してもスプーンもフォークも見当たらず、うろうろしていると、周りの人が皆、手で食べているのに気がつき、見よう見まねで、手で食べたのを思い出します。スンダ料理の店だったのでした。
1990年代前半までは、この道を何度も通って、ジャカルタとバンドンを行き来しました。4848という会社の車をよく使いました。4848の運転手は道を熟知しており、ものすごいスピードで走ったものでした。
その後、1990年代半ば以降、スラウェシ島のマカッサルを中心に、インドネシア東部地域に深くかかわることになって、かつ、ジャカルタからチカンペック経由でバンドンへ行く高速道路ができたことで、自分がこのルートを通ることはほとんどなくなってしまいました。
20年ぶりのこの道は、道幅があまり変わらないのに、交通量はものすごく増えていて、あちこちで渋滞に巻き込まれました。沿道にはたくさんの店ができていて、とても賑やかになった印象があります。
先週のことですが、プンチャックを越えたチパナス付近で、沿道の多くの簡易建物がチアンジュール県政府によって強制的に取り壊されました。そして、それに抗議する簡易建物の関係者が怒り、路上で抗議運動を行い、治安当局に激しく抵抗しました。
今回、その残骸を沿道で見ることになりました。
交通量の増加したこの街道の道幅を広くするため、沿道の不法占拠した簡易建物を撤去した、ということなのでしょう。おそらく、政府は何度も警告して、それに従わなかったので、強制撤去に踏み切ったという話と思われます。
かつて、暴動が起こった町でこんな光景を見ました。それと同じように、見事なまでに破壊されていました。この人たちには、代替地が用意されていたのでしょうか。どこへ行ってしまったのでしょうか。
この辺りは、ただでさえ、その場所に暮らしていないよそ者によって土地が奪われ、その土地はよそ者の別荘などの不動産や飲食店などに代わっている場所です。首都ジャカルタからさほど離れていないがために、そうした影響を昔から大きく受けてきた場所でした。
20年ぶりのプンチャック越えで出逢った光景は、いろんな意味で、考えさせるものでした。そして、きっと、変わったのは光景だけでなく、ここに暮らす人々もまたそうなのだとそうなのだと感じました。

穀倉地帯ならではの垂れ幕・看板たち

10月14~15日は、西ジャワ州カラワン県へ行ってきました。

カラワン県はインドネシア有数の米作穀倉地帯として知られており、今回の訪問の目的も、その米作農業の現状についての情報収集でした。

収集した情報についてはここでは披露しませんが、さすが、米どころのカラワン県らしい垂れ幕が店にかかっていたので、それを紹介します。

稲の害虫であるウンカの足に鍵がかかっているの図。ウンカは動けずにそのまま息絶えてしまうのでしょうか。

これも立派な農薬の看板。カラワン県の特約店の前です。

より早く防げば、農民は満足! 天誅(てんちゅう)という名前が付いています。

率直な印象としては、ここでの米作農業の現状は、私が知っていたものよりもはるかに変化していました。本当に、変化が激しいです。常にインドネシアの今を追いかけていけないと、変化についていけなくなりそうな気がしてきます。

今回は、この後、西ジャワ州チアンジュール県、南スラウェシ州ピンラン県、同州バンタエン県で、同様の農業の現況に関するサーベイを行う予定です。

サンシャワー展は本当に良かった!

明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。

この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。

東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。

彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。

適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。

様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。

映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。

サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。

近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。

ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。

目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。

そんなの、やってみたい!!

インドネシア出張(10/11-31)

2017年10月11〜30日、インドネシアです。

日程は、ジャカルタ(10/11-13)、カラワン(10/14-15)、ジャカルタ(10/16-17)、チアンジュール(10/18-19)、ジャカルタ(10/20-22)、ピンラン(10/23-24)、バンタエン(10/25-27)、ジャカルタ(10/28-30)です。今回は、インドネシア農業の現状についての情報収集です。帰国は10/31。

ご都合のよろしい方、インドネシアで是非お会いしましょう。

 

Oktober 11-30 di Indonesia

Saya berada di Indonesia pada tgl. 11-30 Oktober 2017.

Akan di Jakarta (11-13 Okt), Karawang (14-15 Okt), Jakarta (16-17 Okt), Cianjur (18-19 Okt), Jakarta (20-22 Okt) , Pinrang (23-24 Okt), Bantaeng (25-27 Okt) dan Jakarta (28-30 Okt) untuk mendapatkan informasi tentang situasi skrg di Indonesia. Kembali ke Jepang pada 31 Okt.

Sampai jumpa teman-teman di Indonesia.

 

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