高僧を敬えという声の陰で

昨今のインドネシアの状況を憂う人々がかなりいる様子です。

政治目的のために、社会の分断を煽り、敵を作り出して攻撃する。もっとも、そうした状況を理解し、そうした手法の浅はかさを見抜いている人々も少なくはありません。

しかし、見抜いていたとしても、それを声高に言いにくい雰囲気が生まれている気配があります。

その一例は、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張の流布です。イスラム教の世界で、彼らは敬われる存在で、彼らの言うことはありがたく受け止めるものである、という一般常識があります。

しかし、彼らの一部には、政府や国家イデオロギーを批判するような説教をモスクで行なう者がいるようです。これまでも、そうした説教の中身が過激で、説教を聞く者たちを煽る内容として問題視され、過激な考え方へ促すとみなされる面もありました。

「政府高官が共産党に関係している」と説教した説教師が5月30日、警察に拘束されました。先の大統領選挙では、ジョコウィ候補(現大統領)の家族は元共産党員であるという噂が流布しました。言論の自由を逆手にとって、こうした言説を正当化する動きが出てくるのではないかとも危惧します。

聖なる断食月ラマダーンには、静かに穏やかにイスラムの教えを深く理解するような説教が行われるものですが、どうも、今回の断食月には、先のジャカルタ州知事選挙の影響が残っているのか、政治的な匂いのする説教も引き続き行われている様子です。

そうしたなかで、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張のもとで、説教で何を言ってもかまわないかのような雰囲気が出てきてはいないか、とちょっと心配になります。録音などで明らかな証拠が残っていれば別ですが、そうでない場合、説教の内容を批判することがイスラム高僧らへの冒涜と取られてしまう恐れがあるのではないか。ウラマーやイマームを敬え、という声が聞こえてきます。

これは何もイスラム教に限ったことではないでしょう。どんな宗教でも、信者から偉いと思われている高僧の言うことを批判することは難しく、逆に、偉い者たちは、それをいいことに、他者から批判されないことを前提に、自分の言いたいことを神の言葉として語ってしまうのでしょう。

しかし、真実を明らかにしようとする者たちに対しては、偉い者たちはその「偉さ」への尊敬を求め、自らの行為を認めようとはせず、反抗者として従わせようと試みます。その「偉さ」に宗教や権力が備わると、真実を明らかにしようとする者たちは、一転して危険人物、反逆者のレッテルを貼られることになります。

今後、こうした動きがインドネシアで広まっていくのかどうか、注意深く見守る必要があると思います。

しかし、これはインドネシアだけの話ではありません。我々にとっても、他人事ではないはずです。

たとえ、公に批判することを許されないような状況に陥った場合でも、どのような形で必要な批判を続けていけるのか。私は、スハルト時代のインドネシアでメディアが採った間接的な批判手法を参考にしたいと個人的に思っています。

でも、そんな手法を使う必要のない世の中にするために、まだまだ尽力し続けなければならないのです。

インドネシア語や英語でも発信したい

今年は、このぐろーかる日記をここまでなんとかほぼ毎日更新してきています。今日のように、何もなかったわけではなくても、あえて書く材料がない日もあります。

毎日更新し始めて、もうすぐ半年になりますが、こうなると、これを書かずに1日を終えてしまうと、物足りなさというか、罪悪感というか、そんなことを感じてしまうほどです。毎日の生活の一部になっているかのような気分です。
これまでの傾向を見ると、インドネシアの政治に関する話を書くと、アクセスがぐーんと増える傾向にあります。その他の話でも、まあそこそこアクセスがあり、毎日読んでくださる殊勝な読者の皆さんがある程度はいらっしゃる様子がうかがえます。
本当は、もっとゆるーく書いていきたいのですが、やっぱり、日によっては力が入ってたくさん書いてしまうことも少なくありません。写真一枚でおしまい、という日もあっていいし、これからそんな日もあると思います。そんな日は、まあ、お許しください。
日本語でこのブログを書いているわけですが、やっぱり、インドネシア語や英語でもブログを書いたほうがいいのだろうな、と思っています。欲張りかもしれませんね。

でも、日本語で毎日書くだけでも続けるのはけっこう大変なのに、さらにインドネシア語や英語で書くのは、さらに大変になるかもしれません。
それでも、とくに、福島のことをインドネシア語や英語で伝えていくことはとても重要だと思うし、場合によっては、インドネシアに関する私なりの意見をインドネシア語で書くことがあってもいいのではないかとも思うのです。
というわけで、できれば1日おきぐらいで交互に、インドネシア語と英語で、自分の身近な様子を伝えるブログを書いてみようかと思っています。いや、週にインドネシア語と英語を2本ずつでもいいかな。
外国の友人のなかには、このブログをグーグル翻訳などを使って読んでくださっている方もいるようです。翻訳ソフトを使って、ガーッと訳してしまうのも一計ではありますが、ニュアンスが異なってしまうので、拙くとも、オリジナルで書くほうがいいのではないかと思っています。
ちなみに、私の会社のサイト( http://matsui-glocal.com )では、活動状況を日本語、英語、インドネシア語の3か国語で書くようにしていますし、フェイスブックの会社ページもそのようにしています。よろしければ、のぞいてみてください。
まずは続けること、そして、福島の様子を発信することを目的にして、インドネシア語や英語で、簡単なブログを6月から書いていこうと思います。よろしければ、そちらもよろしくお願いいたします。

福島=岐阜=東京の移動は疲れたが有意義だった

今日は、福島→岐阜→東京と移動の日でした。

福島から岐阜までは669キロあり、片道601キロ以上だと往復運賃割引(1割引)となるので、福島=岐阜間の往復乗車券を購入しました。有効期間は5日間の2倍なので、10日間、5月28日から6月6日まで有効です。6月1日からまた福島の予定なので、岐阜から戻る今日は、東京都区内で途中下車、という形にしてあります。

昨日は、福島で「風評被害」に関する勉強会に出ましたが、今日は、岐阜で、正会員になっている認定NPO法人ムラのミライの年次総会に出席してきました。

ムラのミライの年次総会に出席したのは初めてで、これまではいつも委任状で済ませていました。

今回、わざわざ岐阜まで来て総会に出席したのは、前から一度総会に出席したいと思ったこともありますが、ムラのミライの事務局メンバーでまだお会いしていない方に実際に会いたかったことと、今後の私の福島での活動との関連で、ムラのミライの活動や手法を地域づくりの現場に引きつけたい、と考えたためでした。

ムラのミライは、対話型のメタファシリテーションという手法を広める活動をしています(オンライン・コーチングオンライン・レッスン自主学習ブログもあります。興味のある方はぜひ、トライしてみてください)。

ただ、その手法を学ぶ前に、日本の地域づくりの現場の現実を理解し、手法を云々する前の状況把握をする必要があると思います。私自身は、それを実際に福島で試みてみたいと考えています。

その意味で、今回、ムラのミライの本拠地であった飛騨高山に根付いて、地域づくりの活動を地道に続けてきた、創設メンバーのYTさんとお会いでき、しかも、1対1で色々とゆっくりお話できたのはとてもラッキーでした。そして、YTさんも、コミュニティの直面する課題には、ユニバーサルな共通性があるという認識を持っていらっしゃることもわかり、個人的にはとても勇気づけられました。

行きの新幹線の中で、今、話題になっている、Facebook創始者ザッカーバーグ氏のハーバード大学卒業式でのスピーチをネットでじっくり聴いたのですが、そこでも、ローカル・レベルでのコミュニティ再生からの出発、誰もが目的を持てる世界の構築、世界レベルで繋がって課題を解決していく、といった内容が、これから自分がやりたいと思っている活動やYTさんの考えとも関わる面がかなりあると改めて思いました。

それにしても、今日の移動は、やはり体にこたえました。明日から3日間は東京です。

福島で「風評被害」の勉強会に出席

今日5月27日、福島市曽根田のアオウゼで、NPO法人ふくしま30年プロジェクトの主催する「風評被害」の勉強会に出席しました。講師は福島大学の小山良太氏で、とても納得できる話を聞くことができました。

風評被害については、つい最近、NHKのクローズアップ現代で取り上げられ、少し前の私のブログで、米の全量全袋検査のことを書きました。また同じ内容の番組をNHK東北版で放映したそうで、小山氏は東北版のコメンテーターを務めたとのことです。

小山氏によれば、風評被害の原因は消費者の買い控えではなく、流通における取引順位の低下(最下位になったこと)にある、という点です。

果樹のように、希少性や時限性の高い旬のある産品はあまり影響がない一方、米や肉のように、年間を通じて安定供給される産品において、福島産の取引順位、すなわち市場で取引される順番が最も後になってしまった点が原因である、という見解です。

米について言うと、福島の米はもともと品質が高いため、家庭用として売られてきましたが、震災後、市場での取引順位が最下位となってしまい、業務用として扱われるようになっていきました。現在、JAと民間とを合わせて、福島米の6割程度が業務用になっているようです。

福島米が最も流通しているのは首都圏ですが、その次に多いのが沖縄県です。その沖縄でも、福島米の取引順位は大きく下がり、価格が下がりました。それを受けて、ある沖縄のお弁当屋さんが米を福島産へ変えたところ、「弁当が急に美味しくなった」と評判になり、作る先から売れてしまうのだそうです。

牛肉でも、福島産の取引順位は最下位で、和牛枝肉価格でキロあたり全国平均よりも500円低い状態で推移しています。畜産農家のマージンはキロあたり500円と言われていて、全国平均より500円低い福島の畜産農家は損益分岐点、儲けが全く出ていない状態ですが、畜産を止めてしまうと肉の供給に支障をきたすため、生かさず殺さずの状態になっているという話でした。

福島産の米や牛肉の取引順位をどのように上げていくか。市場による評価を上げていくか。これが風評被害を克服するために重要だというお話でした。

そして、振り返ってみると、福島産の農産物は品質がよかったので、とくに取引順位をあげることを震災前まではほとんど考える必要がなかったということが想起されました。北海道や山形が、必死になって取引順位を上げるために懸命なマーケティングを行っていたのとは対照的に、福島はそんなことをしなくても売れたのでした。

震災前と比べて、福島産の農産物の品質が落ちたということはありません。それでも市場で売れないのは、消費者が買わないというよりも店頭で売られていない。それは、流通段階での取引順位が最低になっているためで、それは流通業者が消費者には売れないと勝手に忖度しているためなのでした。

他方、福島側は、消費者や流通業者へ「品質が良い」ことをアピールし、だから正当な価格で売って欲しいとお願いするのみで、自分たちが取引順位を上げるためにどのような戦略をとるのか、がまだ欠けているように見えるのです。

北海道の夕張メロンがどのように静岡のマスクメロンに勝っていったのか。山形のつや姫が取引順位を上げるために県がどのような政策をとったのか。

小山氏は、もしかすると、原発事故が仮になかったとしても、福島の農業は同様の問題に直面していたかもしれない、とも考えていたようです。すなわち、高品質という評判を受けて、従来通りのやり方を続けていくなかで、厳しい市場競争において取引順位を落とした可能性もあったのではないか。

風評被害というピンチだからこそ、それをチャンスと捉え、新しい戦略を考えなければならないのかもしれません。たとえば、業務用の米の需要が伸びていくなかで、これまで家庭用を前提に作ってきた米を業務用を前提に作るとした場合、どのような戦略をとるか。大手コンビニとの契約栽培もありではないか。

また、旧来のブランドに縛られるのではなく、むしろ、全く新しいブランドを立ち上げて、それも用途別・機能別のブランド化を考えるほうが効果的ではないか。

山形のように、つゆ姫のような高級ブランド米を作る地域と業務用米を作る地域とを明確に分ける戦略も考えられるのではないか。

小山氏は、風評被害を克服するためには、福島の農業自体が自ら変わる必要があるということを強調していました。食管制度に守られた農業の感覚からまだ抜けられていない、とも指摘しました。

他にも、福島市で初めて行なった米コンテストの効果が予想以上だった(農家どうしが競うことを嫌う風潮もあり、他の農家の米作りを学び合う機会がなかったようです)、という話も、若干の驚きをもって聞きました。

最後に、外国、とくにアジア諸国では、福島産農産物へのマイナスイメージが極めて高いという問題に触れられました。そして、状況説明を福島県が行っているものの、国家として政府が外国へ向けて、原発事故の影響を何も総括していない、総括報告書を出していない、という事実を指摘されました。

そう、そうなのです。外国政府から求められているのは、日本政府としての総括報告書なのです。ところが、日本では、福島県がその総括をやる立場になっています。その一方で、東京オリンピック招致の際には、国レベルで「東京は福島から270キロ離れているから安全だ」などとスピーチしてしまうのです。総括はしたのか?と言いたくなります。

産物の取引順位を上げるために、産地対策に力を入れ、きちんとした戦略を作る。国に原発事故後の農業の状況に関する外国向けの総括報告書を作らせる。そして、農家は、他の農家といい意味で競い合いながら、粛々と真面目に農業を行っていく。

福島の農業にとって必要なのは、良質な刺激と適切な戦略を作っていくためのしっかりした実態調査なのかもしれません。小山氏の講演から様々な学びを受けました。さらに、しっかりと見続けていきたいと思いました。

発行予定ウェブマガジンへの投稿者募集

様々ないくつものインドネシアを日本語で伝えたい、という思いから、2017年7月に、有料会員制のウェブマガジン(月3回程度)の発行を考えています。

また、このウェブマガジンの購読者(会員)向けに、会員どうしで情報交換のできる掲示板(フォーラム)を敷設することも検討中です。

日本で流れているインドネシア情報は、ビジネスを行う上での指南本や観光ガイドが多く、また、バリやジャカルタの情報がほとんどです。

日本人が住むところで売れるもの、日本人に身近なもの、と考えるとそのようになってしまうのでしょうが、9割以上のインドネシアが知られていない、という状況にあります。またメディアの情報も、インドネシアの過去の出来事や歴史や文化を踏まえられておらず、表面的な情報となってしまっている印象があります。

そこで、このウェブマガジンでは、インドネシアにディープに関わっている皆さんのご協力をいただき、インドネシアをより広く深く知り、いくつものインドネシアを伝えたいと考えます。

このような趣旨に賛同していただける方で、ウェブマガジンに原稿を投稿してくださる方を大募集したいと思います。

条件は以下のとおりです。

・投稿者の国籍、年齢、性別は不問。
・使用言語は日本語。内容により、英語やインドネシア語でも受け付ける場合あり。
・原稿の長さの目安は、800〜1,000字程度。写真(イラストも)付きを歓迎。
・原稿料は掲載1回ごとにお支払いします(1回あたり4,000円程度。ただし、会員数が一定数以上に増えるごとに原稿料を引き上げる予定)。
・投稿頻度はお任せします。毎月でも、1年1回でもかまいません。
・いただいた原稿は、当方で読ませていただき、修正の必要がある場合には、当方から投稿者へ提案します。また、どの号に掲載するかは、当方の判断にお任せください。
・原稿はオリジナル、書き下ろしでお願いします。
・文字原稿のほか、写真(+キャプション)の投稿も歓迎します。

私のほうでも「ぜひこの方に書いてもらいたい」という方は何人かおり、その方々には別途、原稿執筆をお願いしたいと思いますので、その節にはよろしくお願いいたします。

なお、とくに歓迎したい投稿は、以下のようなものです。

・インドネシアの地方に住んでいらっしゃる方、または地方に長く滞在した経験を持っていらっしゃる方に、その地方での生活に関する軽いエッセイを書いていただきたい。
・インドネシア人の方と結婚された方、付き合っていらっしゃる方に、お互いに感じたカルチャーショック的なことを書いていただきたい。
・知る人ぞ知るというような、衣・食・住などの穴場的な話題、オタクな話題

投稿ご希望の方は、私までメールにてふるってご連絡ください。また、ウェブマガジン自体へのご意見・ご提案もウェルカムです。

メールアドレスは、 matsui@matsui-glocal.com です。

マカッサルの揚げ焼きそば。ミー・ティティと呼ばれるその由来は?
(本文とは関係ありません)

高校時代の友人と38年ぶりに再会

今夜は、高校時代の部活の仲間3人と一緒に飲みました。彼らと会うのは高校を卒業して以来、実に38年ぶり。3人のうちの1人は、小学校、中学校、高校と一緒の友人です。

我々は高校時代、福島県立福島高校の男声合唱団に属していました。高校時代の話はもちろん、当時の友人たちや恩師の消息についても色々と情報交換しました。けっこう、たくさんの友人たちが東京周辺にいるようでした。

彼ら自身は、時々、年に数回、高校時代の友人たちと会っているようでしたが、海外へ行っていることの多い私とはほとんど接点がありませんでした。あるとき、友人のアカウントをフェイスブックで見つけ、連絡を取るようになって、今回のような、38年ぶりの再会となったのでした。

不思議な気分です。いったん会うと、38年の年月があっという間に消え、昔の自分に戻っていました。お互いに名前を呼び捨てにできる、高校時代の仲間との出会いというのは、やはり何ものにも代えがたいように感じました。

1000万袋以上の福島県産米を全量全袋検査、基準値越えは無し

マカッサルからいきなり福島の話へ移ります。

夜のテレビで、福島米の風評被害の話を取り上げていました。安全安心なのに、なぜ売れないのか、という話でした。

福島県では、出荷販売用だけでなく、自家用も含めて、県産米の全量全袋検査を2012年8月から実施しています。ここで採られている方法は、「ベルトコンベア式放射性セシウム濃度検査器」によるスクリーニング検査で、30キログラムの玄米袋を毎年1000万袋以上、検査しています。

スクリーニング検査について、福島県は以下のページで説明しています。

 全量全袋検査のスクリーニング検査

そして、2014年以降、すべての袋が基準値(100 Bq/kg)以下となっています。1000万袋以上のすべてが基準値以下、ということになります。そして、基準値の半分を超えるものについては、さらに、ゲルマニウム半導体検出器による詳細検査を行っていますが、その対象となったのは、2014年で、1000万袋以上のうちのわずか2袋でした。

日本で、福島県以外でこれと同じレベル以上の検査を行っている都道府県は、ほかにあるでしょうか。いや、世界であるでしょうか。

福島県産の米は、日本一、いや、もしかすると世界一、安全安心の米であると言えるでしょう。

農家Aさんの何年何月何日に出した玄米袋の米は基準値以下だった、というデータが2012年から蓄積されています。膨大な量の「基準値以下」データを福島県は取り続けています。

自分のところから基準値以上の米が出てしまったら、世間から「やっぱり福島は」と言われてしまう。風評被害が本当だったと思われてしまう。他の頑張っている農家から目の敵にされてしまう。

そんなことを思っていたかどうかはわかりませんが、全量全袋検査での基準値以下が当たり前となる状態を作るため、福島県の農家の方々は懸命に努力を重ねてこられたに違いありません。その努力は、私たちが認め、敬うべきものだと思います。

にもかかわらず、こうした現実を一切認めたくない人々が存在します。土壌が汚染されていないはずがない。スクリーニング検査の機械の精度がおかしい。データを捏造しているに違いない。

このような人々は、もう何を言ってもお手上げです。そういう人の何人が実際に福島の現場を訪れているでしょうか。自分の言っていることの間違いを認めればいいだけなのに。間違いを認めたくないがために、風評を流し続けているようにさえ見えます。

風評は、反論してなくなるものではないとも思います。データをきちんと残し、地道にコツコツと事実を積み上げて示していくしかないものです。その意味で、福島県が今もずっと米の全量全袋検査を続けていることは、面倒ではあっても、やらざるをえないことだと考えます。

この日本一、いや世界一厳しいかもしれない、福島県の検査手法は、おそらく、食の安全安心を確保するうえで、時代の最先端をいくものかもしれません。もしそうならば、日本が世界に誇るべき食の安全安心を確保する手法として、世界に輸出できるようなものではないか、と思ったりもします。

風評被害に悩む福島県の食の安全安心対策が、実は世界最先端であるかもしれないと考えると、この手法が世界で受け入れられることが、世界の他国での食の安全安心に貢献し、かつ、国内の風評被害を一掃することにつながるのではないか、と思うのです。

オセロのように、風評被害対策の一発逆転があるような気がします。

マカッサルをバイクタクシーで歩く

今回のマカッサル滞在中、愛用したのがバイクタクシーでした。バイクタクシーはインドネシア語でオジェック(Ojek)と呼ばれ、バイクの後ろにまたがって移動するものです。

ジャカルタなどと比べると、マカッサルはこれまでオジェックが相対的に少ない町でした。1980年代ぐらいまで交通手段はベチャ(輪タク)と乗合(ペテペテ)が主で、あとは白タクをチャーターするという形でした。マカッサルにメータータクシーが現れるのは1990年代初めで、その後、タクシー会社の数は2000年代に入って急速に増えました。

インドネシアでバイクタクシーを初めてスマホで呼べる仕組みを入れたのは、ゴージェック(Gojek)という会社で、ジャカルタで開始したのは2011年頃でした。スマホのアプリで行く先を定めてバイクタクシーを呼ぶと、読んだ場所の近くのバイクタクシーが示され、あと何分で呼び出し場所へ着くか、行く先までの料金がいくらかがスマホ上に示されます。

マカッサルでゴージェックがサービスを開始したのは、この1〜2年ぐらいのことです。今回も、まずはゴージェックをスマホで呼んでみました。しかし、リクエストを出してからバイクタクシーを見つけるまでの時間が長すぎて、5分経っても見つからないような状況が何度もありました。

そこで、試しにグラブ(Grab)を使ってみました。

グラブだと、リクエストしてすぐにバイクタクシーが見つかり、しかも料金が同じ行く先でもゴージェックよりやや安く出ます。こちらの方がゴージェックよりも新しくサービスを始めたので、あまり知られていないということもあるかもしれません。

グラブだと、どんなに低い料金でも、終了後、以下のような形で、メールで領収証が送られてきます。

この領収証には、利用した時刻、バイクタクシーの運転手名、出発地と終了地の住所、料金の内訳と総額が明記されています。

ちなみに、ゴージェックだと、アプリには記録が残りますが、領収証はメールで送られてきませんでした。

ただし、アプリで呼んだときのナンバープレートの番号と実際のバイクのそれとが違うケースが多々ありました。グラブに登録したときの番号と違うのは、新しいバイクに買い換えた、たまたまその日は友人のバイクを借りた、といった理由でした。バイクタクシーは運転手のスマホで登録されているようなので、違う運転手が来るということはありませんでした。

今回は、マカッサル国際作家フェスティバルの会場までホテルから行くのに大変重宝しました。昨今のマカッサル市内は、ジャカルタほどではないにせよ、交通渋滞がひどくなっていて、バイクでの移動のほうが早いケースもよくありそうでした。

バイクタクシーに乗っていたおかげで、腕がけっこう日に焼けるということはありましたが、快適に市内を移動することができました。

他に、車を借りるグラブ・カーも使いましたが、こちらも通常のメータータクシーよりも半分ぐらいの料金でした。ただし、いくつかの場所に寄って、立ち寄った場所でしばし待ってもらうような場合は、行先変更が柔軟にでき、待たせることのできるメータータクシーのほうが適しているでしょう。

5月20日と21日に使った、私がいつも使っているレンタカーの運転手は、ゴージェックやグラブのようなシェアライドの普及で、商売あがったりと不満顔でした。彼とも長い付き合いがあり、なんとも複雑な気持ちになりました。

インドネシアのローカルとしての拠点はやはりマカッサル

今、クアラルンプール国際空港でトランジット中です。これから、成田行きのマレーシア航空機で帰国します。

久々にマカッサルで長い時間を過ごし、久々にマカッサル国際作家フェスティバルにしっかりと参加しました。これまで、時間の都合がつかず、参加できなかったり、2日程度しかいられなかった年もありました。今年は、3つのパネルでパネリストになるなど、よりコミットしたという満足感があります。
来年のマカッサル国際作家フェスティバルに関しては、自分もセッションを2つぐらい持ってみたいと思い始めました。1つは、東日本大震災後の東北の文学及び地域文化に関するセッション、もうひとつは、マカッサルにおける華人文学者と若手作家との対話を実現するセッションです。
具体的な内容はまだこれから考えていきますが、何らかの形で、このフェスティバルを通じてマカッサルと東北をつなぎ、マカッサルのなかの非華人と華人とをつないでみたいと今の段階では思います。
会社として、このフェスティバルをビジネスとしては考えることは難しいです。しかし、インドネシアにおける自分のローカルの拠点がやはりマカッサルだと改めて確認できた以上、マカッサルで今起こっているポジティブな動きを少しでも支え、他のローカルとそれを繋いでいくことが、私の役目ではないかと強く感じた次第です。少なくとも、有望若手作家セッションへのスポンサー役を続けていきたいと考えています。
そんなことを、数日前、マカッサルの夕陽を見ながら、思いました。今年は、別の用務で、マカッサルにはまだ何度か来ることになりそうです。

友人が主宰する「緑の館」を訪問

今日は日中、友人のDarmawan Daeng Nessa氏が主宰する「緑の館」(Rumah Hijau Danessa)を訪問しました。

場所はゴワ県ボントノンポ郡にあり、タカラールへ向かう街道から西へちょっと入ったところです。2007年に大学教師を辞めて、父親を説得して土地を譲り受け、緑の館を建設し始めました。現在では、図書館、集会所などの建物に加えて、森や緑地などを整備しています。

特筆すべきは、この地域でなくなった、あるいはなくなりつつある植物の種苗を保存し、実際に植えていることです。さらには、敷地内にある植物の一つ一つの名前や学名はもちろんのこと、その植物を地元社会がどのように活用してきたかを物語として伝えている点です。

例えば、沸騰水にサッパンという木を入れて冷ました水(下の上写真)は、やや赤みがかっていますが、抗酸化作用があるため、飲料に適するだけでなく、昔から地元料理のチョトなどに使われていて、コレステロール分を抑える働きをするそうです。このため、サッパンの木(下の下写真)は切られ、今では手に入れにくくなっているといいます。

友人の話を聞いていると、地元の人々がいかに薬草や植物の活用に関する知識を持っていたかに驚かされ、それを現物とともに後世へ残していこうとする友人の姿に驚かされました。
緑の館は、環境学習施設であると同時に、ワークショップや行事を通じて、様々な人々が集い、コミュニケーションを高め、仲よくなっていく場でもあります。
例えば、いずれ同じ中学校へ進む、地元の4つの小学校の児童を集めてワークショップを行うと、中学校へ進む前に仲良しになって、中学校に入ってからの出身小学校別のグループ化を防ぐ効果があるということでした。
友人は、こうした活動を地道に行なっており、外国人を含む様々な訪問者が訪れ、様々な活動を展開しています。親からの土地を活用できるとはいえ、友人は、大変興味深い活動をしていることで、私も大いに刺激を受けました。

国際作家フェスティバルのフィナーレ

マカッサル国際作家フェスティバルは、5月20日が最終日。私自身のパネリストとしての役割を終えたので、フェスティバルとは関係のない友人と面会し、その友人の関係する用事に付き合った後、友人も連れて、フェスティバルのフィナーレに参加しました。

たくさんの若者たちが静かに、騒ぎも起こさずに、芝生に座って、フィナーレの演目を見聞している姿が印象的でした。もちろん、途中で飽きて、退席する者もいました。せも、大多数は最後まで残って、しかも一部は、終了後にごみ拾いをしていました。

一緒に行った友人は、「マカッサルでないみたいな光景だった」と言いました。たしかに、学生デモなどでマカッサルの若者は騒ぐ、という一般的なイメージとはほど遠い光景だったかもしれません。

フィナーレで、詩について繰り返し述べられた印象的な言葉がありました。詩が政治を変える力を持つ、ということです。宗教よりも先に詩があり、詩のメッセージは政治を超えて行く。人々が同じ詩を謳いながら、政治を動かし、変えて行く力を持つ、と。

紙がなければ葉っぱに詩を書く。葉っぱがなければ壁に詩を書く。詩を書くことを禁じられたら自分の血で詩を書く。

少し前のブログで紹介した、行方不明状態の活動家Widji Thukulの詩には、このような表現があるそうです。フィナーレでは、多数派の横暴と多様性の否定につながるような昨今の動きを、詩の力によって変えていける可能性を訴えていたように聞こえました。

日本でも詩の力を期待することは、可能なのでしょうか。やはり、今回の多様性をテーマとしたマカッサル国際作家フェスティバルは、どうしても日本へも向けなければならない重要な要素を含んでいたと感じざるを得ませんでした。

動く動く移動図書館ほか

マカッサル国際作家フェスティバル3日目。私は午前中の”Book and Activism: Indonesia’s Moving Library”と題するセッション、すなわち、インドネシアの移動図書館について討論するセッションに、3つ目のパネラーとして参加しました。

一緒にパネラーとなったのは、馬に本を積むなどして辺境地へ本を届ける活動をしているNirwan Ahmad Arsuka氏、主に西スラウェシ州などで船やトラックやベチャ(輪タク)に本を積んで離島や農村を回る活動を続けているRidwan Alimuddin氏、西パプア州で辺境地へ本を届ける活動をしているグループNoken PustakaのSafei氏で、なぜか私もパネリストになっていました。

併せて、夕方には、パネラーの一人であるRidwan氏による3隻目の図書館船が披露されました(下写真)。

パネリストたちは、自分たちの活動とそこで遭遇したエピソードについて語りました。

たとえば、当初、本を運び込もうとしたら刃物を持った村人に行く手を阻まれそうになったこと。本を運び込むと子どもたちが群がって本に夢中になり、大人の言うことを聞かなくなるので、大人たちからは来ないように言われたこと。村人が理解してくれた後は、本を持ってきたお礼だと言ってたくさんの芋やガソリン代のお金などをもらったこと。

彼らは、単に本を運び込んで、子どもたちの読書意欲を高めることはもちろん、それから派生して、何かものを書く方向へ向かわせることも意識していました。

Nirwan氏とRidwan氏は先週、ジョコウィ大統領と面会する機会があり、大統領から移動図書館の活動を高く評価され、毎月17日は、郵便局からNirwan氏やRidwan氏の移動図書館宛に送るものはもちろん、その他、一般から辺境地へ本を送る郵便料金を無料とすることを決定したそうです。

私は、日本の公共サービスとしての移動図書館と紙芝居の話をしました。本へのアクセスを国民の権利と考えて、日本では行政が移動図書館を運営しているが、インドネシアでは今回紹介するような民間ボランティアが動いている点が異なること、紙芝居のように、本の内容を簡潔にして絵本化するような動きが必要になってくるのではないか、というような話をしました。

移動図書館で扱う本の内容や種類も考えていく必要があります。現在は、古本や不要な本を送ってもらっていますが、もちろん、それで量的にも質的にも十分とは考えていないようです。と同時に、移動図書館のような体裁をとって、特定の教えや政府に敵対するような思想が広まることを懸念する向きもあることでしょう。

1970年代のインドネシアでは「新聞が村へ入る」(Koran Masuk Desa: KMD)という政府プログラムがあり、政府検閲を受けた新聞を村へ流通させ、それが唯一の読書媒体となった村レベルでの情報統制に大きな役割を果たしました。今は時代が違いますが、読書によって人々が批判的な思考を身につけることをまだ警戒する状況はあり得ます。

また、ユネスコによれば、「インドネシアでは1000人に1人しか本を読まない」と報告されています。しかし、Nirwan氏もRidwan氏も、村へ本を持ち込んだときの子どもたちの本へ群がってくる様子からして、ユネスコのデータは過ちではないか、という感触があるとのことです。おそらく、都市の子どもは、携帯ゲームなどの他の楽しみがあるため、本を読まないということを想像できますが・・・。

この移動図書館のセッションは、私が今回もスポンサーを務めた”Emerging Writers 2017: Discovering New Writing from East Indonesia”のセッションと重なってしまい、今回の「有望若手作家たち」の話を聞くことができませんでした(どうしてこういう日程調整をしたのか、とも思いますけど)。それでも、午後、有望若手作家たちから声がかかり、一緒に写真を撮ることができました。

こういうのは、本当に嬉しいです。松井グローカル合同会社名でのスポンサーとしての金額は大した額ではありませんが、これまでにこのセッションから巣立った若手作家たちは、今回のフェスティバルでも大活躍しており、この写真の彼らの今後の活躍ぶりが本当に楽しみです。

夜の部は、大して期待もしていなかったのですが、バンドンの新しい劇団POEMUSEの公演があり、これがなかなか良くてびっくりしました。

インドネシアの様々な有名詩人の詩を音楽(発声はオペラ風、ピアノはクラシック+現代音楽)に乗せ、さらに踊りを加えた幻想的な世界が広がりました。昨年立ち上げたばかりで、今回は2作目の公演ということですが、個々の演者の技術レベルはかなり高く、今後の活動を注目したいです。

2つのセッションでパネリスト

マカッサル国際作家フェスティバルの2日目、私は2つのセッションでパネリストを務めました。

一つ目は、”Asia in our Hands: Japan, Malaysia & Philippines”というセッションで、マレーシアとフィリピンから招待された若手作家に、今回、人形劇のワークショップを主宰したジョグジャカルタの女性アーティストを加えたセッションでした。

このセッションでは、実行委員長のリリ・ユリアンティからリクエストがあったため、福島の話をしました。様々な風評が世界中に流布しているが、帰還困難区域は福島県の一部であり、大半の地域では日常生活が営まれていること、除染や産品検査が行われて監視し続けていることなどを紹介したうえで、和合亮一氏の「詩の礫」の初期の作品で英訳されている「悲しみ」という詩の一節を、試みに日本語と英語で朗読しました。参加者はしっかりと聞いてくれました。

他のパネリストからは、どのように他国の文学への関心を引き起こすか、そのためのネットワークをどう作っていくか、といった話が展開しました。インドネシアの参加者はマレーシアやフィリピンの文学作品についてほとんど知らず、また、マレーシアでもフィリピンの文学作品はほとんど知られていない。その一方で、韓国ドラマはけっこう皆知っている、という状況であることを確認しながら、文学者どうしがこうしたフェスティバルのような場を通じて、もっとコミュニケーションを取り合うことが必要だという話になりました。

私からは、文学者どうしのコミュニケーションも必要だが、キュレーター間の交流をもっと進めていくことも合わせて重要ではないかという意見を述べました。

2つ目は、”How to Rise Readers in Your Family”というセッション、すなわち、本好きの子どもを育てるにはどうしたら良いのか、というテーマでのパネルディスカッションでした。

一緒にパネルをした方は、日本に長く滞在経験があり、自作の本を3冊書かれた方で、自身の無学で文字を書けなかった母親がどうやって自分に教育の機会を与え、博士を取るまでに育てたのか、という話をしてくれました。

私は主に、親による子どもへの読み聞かせの話をしました。声色を変えた読み聞かせを少し演じて見せて、読み聞かせが親子のコミュニケーションを深め、安心感を作り、子どもの想像力や好奇心を掻き立て、本に対するバリヤーを低くする効果がある、といった話をしました。

インドネシアでは、読書は知識を得るため、賢くなるために読むという傾向が今も強く、親が声色を変えて子どもへ読み聞かせをするというのは一般的ではない様子でした。親から本を与えられて、読むことを強制された経験を語る参加者もいました(でもその参加者は本好きになったそうです)。

質疑応答で、山奥の辺境地の学校で小さな図書館を作ったものの、子どもたちが本に見向きもしない、文字を読めないので本を読めない子どもが多い、本が紛失するとまずいから図書館に鍵がかけられてしまった、私はどうしたらいいのだろう、という質問がありました。

私は、知識や学びは必ずしも本だけから得られるものではない、先祖から伝えられてきた知識や学びが生活の中で生かされているはず、子どもがそこで生きる力はそうした知識や学びから生まれる(町の子どもにはないものである)、そうした知識や学びに対して外部から来た先生がどの程度これまで関心を持ち尊敬を示してきたのか、本はいずれ必要になれば読むようになるけれど読まないからといって落胆する必要はないのではないか、というような話をしました。

でも、今日出席したセッションの中で、一番引っかかったのは、午前中に一般参加者として出席した、”Narrations about Conflict and Resolution”というセッションでした。

このセッションでは、アンボンの宗教間抗争、マカッサルの反華人暴動、バンガイ群島の村落間抗争の経験談が語られました。しかし、それは、それらが起こった当時、まだ小学生ぐらいだった作家たちによる経験談で、本当は何が起こっていたのかを実感できているわけではなく、後追いで取材して映画や小説を作り上げようとしているのでした。

それ自体はある意味やむをえないことなのですが、私が頭を抱えたのは、彼らよりも上の世代のある参加者が発した問いかけでした。すなわち、「どうしてそれらの抗争や暴動は1990年代後半、スハルト政権崩壊前後に起こったのか、よくわからない」という質問でした。

スハルト時代を知らない世代がどんどん増えているだけではなく、あの時代を生きてきた世代でさえも、歴史上の出来事とその流れを捉えられなくなろうとしている、本当は何が起こったかを記憶できず、後追いで作られる「事実」に置き換えられてしまう可能性が高い、と思ったのです。

実際、1997年9月に起こったマカッサルの反華人暴動を題材とした映画を作って、華人と非華人との関係を考えたいという、華人の血の流れる若手映画監督は、当時のことを華人の方々が全く話してくれないことを嘆いていました。それを聞いて、私は「ある意味、当然だよな」と思いました。歴史とは、こうやって埃に埋もれていき、その時々の為政者にとって都合のいいように書き換えられていく、そのプロセスが綿々と続いていくのだな、と思いました。

私も、仕事柄、1990年代の抗争や暴動を、新聞記事などで丹念に追っていました。マカッサルの反華人暴動の時には、実際、マカッサルでそれを経験しました。何が起こったのかも私なりに記録に残さなければと書いてきました。それらを総合して、私なりの当時の歴史の流れと抗争や暴動との関係に関する大まかな仮説も持っています。

でも、それを精緻に再構成して、論文にして、あるいは本にして、英語版など作って、インドネシアの人々を含めた一般へ公開発表することがよいことなのか、ずっとずっと悩んできました。現段階では、発表しても誰も幸せにならないのではないか、と思い、「発表すべきかも」という思いを断ち切るために、自分をビジネス志向や会社設立の方向へ向けさせた面もあった、と気づきました。

今日のセッションの話を聞きながら、そして昨今のインドネシアの状況を考えながら、我々もインドネシアの方々も、1990年代の歴史の流れをもう一度学び直す必要性が出てきているのを痛感しつつも、自分は「もうそれはやらない」と断ち切ったはずではないか、と悶々としてしまうのでした。

1990年代の抗争や暴動の背景となる政治史の検証をやはり行うべきなのか、あるいは、外国人である自分がそこへ手を突っ込む必要はないのではないか、と、まだしばらく悶々としていかざるを得ないような気がしています。

国際作家フェスティバル、テーマは多様性

本日5月17日から、マカッサル国際作家フェスティバル2017が始まりました。20日まで開催されますが、私自身は、期間中、3つのセッションでパネラーを務めます。日本からの出席者は私ひとりとなりました。

今回の国際作家フェスティバルのテーマは「多様性」です。昨今のジャカルタ首都特別州知事選挙などを見てお分かりのとおり、インドネシアでも多数勢力が政治的な力を誇示する傾向が危惧されており、そうした状況を踏まえたテーマ設定となりました。

フェスティバル実行委員長である作家のリリ・ユリアンティは、開会イベントで、次のように演説しました。

政治的意思を持った同調圧力が強まっている。権力を狙う政治家がそれを主導している。このフェスティバルには、政府関係者は誰も招待していない。この種の会議では普通、政府高官の臨席を賜り、彼が来るまで開会できない。我々はそうではない。我々は普通の市民である。その市民が互いの違いを尊重し、敬意を示し、違うものの存在を認める。ここは批判的な意見を堂々と言える場である。ここに集まった皆さんにとって、このフェスティバルは自分の家のように感じてもらえるはずのもの。集まった誰もがこのフェスティバルを作って行くのだ。そのうごきはこれから10年も20年も30年も続いていくと信じたい。

力強い演説でした。同調圧力が強まるように見えるインドネシアで、市民がその多様性を身近なところでしなやかに守っていかなければならないことを、確信をもって訴えた演説でした。

そして、彼女の演説は、今の日本に対して、言っているかのように聞こえたのでした。同調圧力に屈するにはまだ早いのではないか。彼女が言うような当たり前の主張を、イデオロギーやレッテル張りを超えて、声をあげていかなければならないのではないか、と。

開会イベントに先立ち、このフェスティバルで発表された、東インドネシア出身の若手作家の作品をまとめた「東から」(Dari Timur)という本の出版記念セッションがありました。

彼らは、フェスティバルの中の「今後の有望作家たち」(Emerging Writers)というセッションで取り上げられた若手作家で、このセッションのスポンサーを、私は5年前から続けています。そのため、彼らの作品集が出版されたことを自分のことのように嬉しく思いました。

「東から」は第1巻と銘打たれており、今後も続けて出版されていくことが期待されます。まだしばらくは、スポンサーを続けていきたいと思いました。

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