市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。

ふくしま百年基金設立発起人になりました

少し前の話ですが、4月7日、郡山市民文化センターの会議室で開催された、ふくしま百年基金設立発起人会に出席しました。

ふくしま百年基金の話は、3月7日にふくしま連携復興センターの山崎氏と斎藤さんに出会い、設立発起人となることを強く勧められました。そして、趣旨に賛同し、その場で登録用紙に必要事項を記入し、ささやかな額の出資金を払って、簡単に設立発起人になったのでした。

ふくしま百年基金とは何か。ホームページはこちらです。

 ふくしま百年基金

簡単に言えば、コミュニティ財団というか市民ファンドというか、市民の寄付によって集めた資金を市民のために使うための基金、ということになります。

ふつう、財団とかファンドとかいうと、企業のフィランソロピーやCSRの一環として、企業が収益の一部を基金とし、それを市民活動などへ使ってもらう、という形が一般的ですよね。

このふくしま百年基金は、企業の収益金を基にするのではなく、これからの福島の未来に役立ててほしいという志を持った市民の浄財を広く集め、それを福島のために貢献したい市民や団体などが活用できるしくみづくりなのです。

自分のお金を福島のために使ってもらいたいけれど、どこに託していいか分からない。他方、今後の福島のためになる活動をしたいけれども、どこから資金を調達できるか分からない。そんな両者をつなぐ仕組み、といってもいいかもしれません。

この仕組みだと、誰かが上に立って自分の思うとおりに仕切る、ということは起こらず、設立発起人の誰もが平等な同じ立場で、この基金をどのように運営していくか、率直に知恵を出し合えます。特定の誰かが牛耳ることもできない、ということも、筆者が心惹かれた要因でもあります。

なぜ百年なのか。これは、この基金が目の前のことだけではなく、自分の子どもや孫の世代にとってよりよい福島になっていくための役目を果たし続けてほしい、という願いから出たものです。

と同時に、浪江町出身の発起人の方がおっしゃっていましたが、原発事故で避難を強いられた地域が本当に復興するには残念ながら百年はかかるのではないか、という思いもそこに含まれていることを改めて思いました。

私自身は、この基金が「福島のためだけ」「福島さえよければいい」というようなものになってほしくはありません。この基金を活用した様々な市民活動が、日本の、そして世界のためにもユニークかつ有益な活動事例となり、福島発の様々な貢献につながるものになることを期待します。そして、新しいコミュニティ財団の在り方を世界に向けて提案できるような役目も果たしていければとも思います。

この基金への賛同者を増やし、規模を大きくして、様々な市民活動を促していけるように、ふくしま百年基金をじっくりと育てていかなければならないと思っています。

福島で百年の単位で有益な新たな何かを生み出したい、創っていきたい、そんなモノやコトが起こることを期待して自分もその仲間に加わりたい、と思われる方は、是非、ご賛同いただき、仲間に加わってほしいです。

4月7日現在、設立発起人は174名、寄付総額はまだ720万円にすぎません。そして、4月11日、一般財団法人ふくしま百年基金として正式に登記されました。くしくも、弊社松井グローカル合同会社と同じ設立日となり、何かの縁を感じます。

まだ設立したばかりで、どこへどのように寄付をするのがよいのか、まだインターネット上でははっきりしていないようですので、分かり次第、お知らせするようにいたします。引き続き、ふくしま百年基金にご注目ください。

Co-minkan 第1号を訪問しました

9月30日の夜に帰国して、翌10月1日の朝、Co-minkan 第1号のオープニングを見るために、横浜市保土ヶ谷区まで行ってきました。

Co-minkan 第1号になったのは、保土ヶ谷区役所の近くにある峰岡公園の向かいのカフェ「見晴らしのいい場所」という小さな場所です。元はスナックだったというこじんまりとした場所で、Co-minkanが始まったのでした。

Co-minkan というのは、もちろん公民館から来ているのですが、行政が運営する公民館ではなく、民間で作る「こうみんかん」を企図しています。

地元の人が気軽に立ち寄り、お茶でも飲みながら、いろいろおしゃべりをする。そこに行けば悩みや相談を聞いてくれる人がいる。わいわいやっている間に新しいアイディアが浮かんだり、面白いことを思いついたりする。なんだか楽しくなる。

そんな空間を、気軽にみんながあちこちで作り始めたら、もっと温かい人と人とのつながりを意識できる世界が広がっていくのではないか。

Co-minkan は、誰でもそんな空間を作れるようなノウハウを広げることを目的としているようです。どこに作るか、どんな内装デザインにするか、どれぐらいの頻度で開くか、誰を誘うか。いくつかの事例を想定しながら、空間のつくり方を一緒にゆるーく伝えていこうとしています。

Co-minkan 普及実行委員会共同代表の横山太郎さんは地元のお医者さんですが、最近、自分が患者さんに伝えてきたことが、実はよく理解されていなかったことに気づきました。それは自分の伝え方に問題があったのではないか、と自問し、もっとじっくりと肩肘張らずに対話のできる空間を作りたいと思い始めたそうです。そこへ、コミュニティ・デザインで地域づくりを支援してきたStudio-Lが関わって、この Co-minkan を始めてみようということになったのだそうです。

オープニングには、近所の皆さんも集まり、ゆるーくいろいろおしゃべり。

子供たちは、公園でシャボン玉飛ばしをして遊んでいます。カフェのスペースは狭いのですが、目の前の公園に飲み物を持ち込んで、実質的に公園もカフェの一部になってしまうような場所です。

この取り組みが興味深いのは、何か場所を作っておしまいなのではなく、こうした空間の作り方を興味深く伝えることで、「自分でもつくれそう」「つくってみようかな」と思わせ、そうした動きを日本各地、いや世界各地へ広げて行こうとしていることです。

そんな Co-minkan のつくり方のゆる〜い「マニュアル」を製作するために、クラウドファンディングを募っています。下記のページを参照のうえ、できれば是非ご協力ください。

 毎日を楽しくするために「こうみんかん」をあなたの地域に!

オープニングに参加しながら、いろんな Co-minkan のあり方に想像を巡らせていました。時限的なものもいいし、山間地域ならば移動式のもありうるし、毎月順繰りに地域の方の家の一角をそうしてもいいし・・・。

でも、一番大事なことは、「対話」ではないでしょうか。相談事だけなら、ネットに投げれば誰かが答えてくれます。でも、面と向かって対話をすることで、より一層の安心感と満足感が得られるのではないでしょうか。

対話の場を簡単にゆる〜くあちこちに作っていけたら、今よりも少しは温かい気持ちを広げていくことができるのではないかなあ。まずは自分の身近なところから。

私は、Co-minkan の取り組みに賛同し、自分もそんな空間をつくっていきます。そして、そんな仲間を日本各地に、世界各地に増やしていきたいと思います。

リボーンアート・フェスティバルを垣間見る

ずっと行きたくてなかなか行く機会がなかった、リボーンアート・フェスティバルにようやく行くことができました。

開催地は、宮城県石巻市と牡鹿半島で、「アート・音楽・食の総合祭」と自ら呼んでいます。特色としては、小林武史氏を中心とするAPバンクが資金提供し、行政が主導していないことです。それゆえ、アーティストが自由に様々な表現に挑戦することができる、ということのようです。

本当は一つ一つじっくりと作品を味わいたいところですが、そうも言っていられないので、今回は、手っ取り早く、1日ツアーに申し込みました。このツアー、東京から日帰りでくる人を想定し、11:20に開始、18:00に終了します。私も、朝、東京を出て、ツアーに参加しました。

なお、ツアー代は昼食込みで5000円、さらに2日間有効のフェスティバル・パスポートを購入する必要があります。

平日で、ネット上ではまだ定員に余裕があるようだったので、参加者は少ないかなと思っていたのですが、実際には、バスの座席全てが埋まる、25人の満員でした。

今日は天気にも恵まれましたが、8月中は雨や曇りの日が多く、ツアーガイドによれば、こんな天気の良い日は滅多になかったとのことでした。

そのせいか、予想以上の数のアートを効率的に見ることができました。

まず、リボーンアート・ハウス(関係者やスタッフの事務所兼宿泊所。旧病院)で小林武史×WOW×Daisy Balloonの”D-E-A-U”という不思議なアートをみました。

その後、牡鹿半島へ向かい、牡鹿ビレッジで、昼食をとりながら、フェスティバルのシンボルにもなっている白い鹿のオブジェを見学。なぜか、ドラゴン・アッシュのメンバーの一人が、トランペットの音色に合わせて、白い鹿の周りで踊る、というパフォーマンスもありました。

白い鹿の近くの洞窟には、牡蠣漁のブイを縄で結びつけ、その縄がはるか森まで結びつき、牡蠣の生育には森の健全な成長が不可欠であることを訴えるアートがありました。

白い鹿の後は、牡鹿半島の南端、ぐるっと海を一望できる御番所公園へ行き、草間彌生のオブジェを見ました。この場所でこれを見ると、なんとも言えない力強さを感じました。

草間彌生の後は、金華山を目の前にするホテルニューさかいへ行き、全身の穴から水を出し、その水がまた体内に戻ってくるという循環を示す緑の人間像を見ました。

さらに、ホテルニューさかいの屋上へ出る前に怪しげな看板が。

屋上では、金華山を見ながら、カラオケを楽しんでいました。これもアート!?

ホテルニューさかいの後は、のり浜という海岸へ行き、海岸に打ち上げられた倒木や石などを立てる、というアートを見ました。ツアー参加者もその行為に参加することで、「起きる」「起こす」という意味をそこに見出す、ということのようでした。

のり浜の後は、旧桃浦小学校跡にある幾つかの作品を見ました。40年前まで、この場所に小学校があり、子供がいたことを思い出させる「記憶のルーペ」と、りんごが先に付いたけん玉とのアート。

そして、ここに住みながら、自然との共生を肌で感じながら制作した、住居のアートもありました。

今回のツアーの特色は、広域に散らばったこれだけの作品を効率よく回れることのほか、かなり歩くツアーである、ということです。アート作品はそれが最も強調される場所に作られるため、バス道路から15分程度の山道を上り下りするような場所にあります。短時間で何度も結構な上り下りをすることになりました。

というわけで、予想よりもずっと充実感のあるツアーでした。ただ、一緒に参加した方々は、アート作品には興味があるものの、その作品を作品たらしめている石巻や牡鹿半島の風景や人々には、あまり関心がない様子でした。石巻や牡鹿半島の人々からすれば、どのような動機であれ、域外から人が来てくれるのはありがたいことでしょうが、もう少し、土着のものとの連結を考えた方が良いのではないか、と感じました。

私自身、このツアーでアート作品を見て回りながらも、今ここで生きる人々の関係者であの震災で犠牲になった方々が、今もこの空気の中に存在しているかのような気配を感じていました。その方々の気配こそが、リボーン(Reborn)の背景にあるものだと感じたのです。

そんなことを思いながら、フェスティバルの公式ガイドブックを購入して、パラパラめくっていたら、このフェスティバルに深く関わっている人類学者の中沢新一氏が、似たような感覚について指摘していて、ちょっと驚きました。

その中で、中沢氏は、東北でリボーンアート・フェスティバルを行う意味として次のように語っています。

元々東北は・・・亡くなった人や見えない物を日常に感じながら作られていく世界でした。そこでは四次元の世界が生きている。(中略)そういう場所にあの大震災が起こったものだから、ますます東北は、「東北らしさ」が強まったと感じています。(中略)グローバルな経済活動に巻き込まれていないということは、別の意味では経済的に貧しいということでしょうが、(中略)むしろ、貧しいことの中に価値を見出していくことが、東京オリンピックが終わる2020年以降、不況がやってくる状況の中で日本が全体で抱える課題になると思います。(中略)その時にこそ大切になるリボーンの原理を見ておこう、作っておこう、というのが「リボーンアート・フェスティバル」の目的です。

今までとは違う新たな価値観を「リボーン」の名の下に提示したい。日本のリボーンの出発点は東北ではないか。そんな問題提起がこのフェスティバルの根底にあるのでした。

その意味では、今、日本のあちこちで、「リボーン」の芽は現れ始めていると感じます。いや、世界のあちこちで、それが現れ始めているのではないか。そのあちこちこそが、中心都市ではなく、ローカルであり、地域コミュニティであり、それらが繋がっていくことで、今までとは違う「リボーン」を実現していけるのではないか。

これもまた、私たちが目指す方向性に勇気を与えてくれるようなアートフェスティバルだった、と改めて確認したのでした。

市場で見かけた小さなイノベーション

カカオツアーでインドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県に滞在していた際、ツアー参加者と一緒に地元の市場を訪問しました。

市場を訪問するのは、参加者に、カカオのことだけでなく、カカオを生産する地域の経済活動の一端を見ていただき、地域経済全体の中でのカカオの位置付けを認識してもらいたい、という密かな狙いがありました。

訪問したのは、ウォノムルヨ市場。この市場は、言ってみれば、ポレワリ・マンダール県の経済活動の中心地なのですが、地元のマンダール族に加えて、ジャワ族が中心を担っています。

ウォノムルヨ地区はジャワ族が多く住んでいるのですが、彼らの先祖は、オランダ植民地時代からこの地へ移住してきました。飛び地のように、このウォノムルヨ地区にジャワ族が集中して住んでいます。

この市場で、今回、ハッとする光景を目にしました。

何の変哲もないような、地べたに置かれた品物。でも、よく見ると、一つの塊の中に幾つかの品物が積み重ねられています。

塊の中にあるのは、洗剤、石鹸、蚊取り線香など。この塊一つをセットとして販売しているのです。

私もこれまでインドネシアの様々な市場を歩いてきましたが、このように、塊をセットとして売っているのを見たのは初めてでした。

ただそれだけのことなのですが、これもまた、市場で売る商人の工夫といってよいのではないかと思います。これまで、個々に品物を購入してきた人々が、セットでも買えるだけの購買力を持ち始めた証左と見ることもできるでしょう。

また、この売り方は、通常の店ではなかなか難しく、地べたに品物を広げて売るからこそできる売り方、ということもできます。

市場で見かけた小さなイノベーション。そんな小さな変化の中に、インドネシアの社会が確実に変化している様子がうかがえます。

米国でも中国でもなくインドネシア?

私の友人のフェイスブックページに、「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」という英語記事が紹介されていました。以下のサイトがそれです。

 Indonesia: Country of the Future

これは、今後の経済成長の話を言っているのではありません。たしかに、15〜64歳の生産年齢人口の増加があと10年以上は続くインドネシアは、成長市場として、日本のビジネス界も有望市場として力を入れています。そういう文脈で、日本では「成長著しいインドネシアで儲けよう」というような紹介がけっこうされています。

でも、ここで取り上げるのは違います。

だいたい、掲載されているのはArtists & Climate Changeというサイトで、経済やビジネスとはあまり関係がありません。いったい、芸術や環境問題に関連してそうなサイトがどうして「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」などと言っているのでしょうか。

興味のある方は、ぜひ、この内容を直接読んでいただきたいのですが、ここでのキーワードは「コモンズ」です。コモンズとは、コミュニティが共同で管理する資源のことであり、誰か個人の所有権の集合体というよりも、コミュニティが所有するという形です。言い換えると、所有ではなく共有(シェア)を重視するアプローチになります。

今や、世界中のアーティスト、都市プランナー、環境保護活動家などが、資本主義や商業主義に対するアンチテーゼとして、このコモンズの考え方に親近感を抱き、コミュニティと協働しようとしています。

そうした彼らから見ると、インドネシアのゴトンロヨン(相互扶助)といった根強い考え方のなかにコモンズ的なものを強く感じるようです。

インドネシアでも商業主義の影響は村落部にまで広まり、都市ではゴトンロヨンが形骸化しつつある状況も見受けられます。このサイトの書き方はちょっと過大に高評価しているようにも思えます。でも、先日、ジョグジャカルタ市の隣のスレマン県の村へ行った際、農民が村の決まりごとを皆んなで決めて皆んなで守る、本当の意味でのゴトンロヨンがまだしっかりと機能しているのを確認しました。

そのジョグジャカルタなどでは、建築家がコミュニティのイニシアティブや助言を基にして制作活動を行う動きもあるようです。アーキテク・コミュニタスという建築家グループは、地元の人々を信じること、コミュニティとの相互信頼が必要条件である、と明言しています。

インドネシアでのアーティストのユニークな創造性、連帯意識、豊かな資源といったものに加えて、コモンズに関わるローカル・ナリッジ(地元の知恵)が息づいていて、それが持続的な社会を作っていく。とするならば、我々は、気候変動や環境悪化の最前線にあるインドネシアの彼らからもっと学ばなければならないのではないか、とここでは主張しています。

このサイトでは、2016年の流行語「ポスト真実」から、2017年は「コモンズ」へ、というメッセージも込められていました。

日本でも、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内芸術祭にもそれらと共通した動きを見ることができるし、それらのイベントをコミュニティとともに作り上げる努力を長年続けてきた北川フラム氏らの活動からも、同様の意識を読み取ることができます。

そう、こうした動きは、インドネシアでも、日本でも、世界でも、同時代的に起こっているのです。とするならば、日本でもまた、「ポスト真実」から「コモンズ」への動きが起こってほしいし、起こしていきたいと思うのです。

マングローブ保全とビジネスの両立

12月7〜11日、今年最後のインドネシア出張として、スラバヤへ行ってきました。

今回は、地球環境戦略研究機関(IGES)の研究員の方からの依頼で、持続可能なコミュニティを目指すための政策を考えるための前提として、環境と共生するスラバヤの地元での活動の現場などを案内する、という仕事でした。

今回は、わずか2週間前に依頼された急な用務でしたが、実質2日間で、スラバヤのいくつかの場所を案内できました。

そのうちの一つは、マングローブ保全活動とコミュニティ開発を両立させているルルット女史のグループの活動です。彼女とお会いするのは、今回で4回目になります。

最初にお会いしたのは、2009年、スラバヤで開かれていたとある展示会の場でした。そのときの様子は、かつてブログに書きましたので、興味ある方は、以下のリンクをご参照ください。

 マングローブからの贈り物

その後、2014年12月には、ジェトロの仕事で、新しいビジネスを志向する中小企業家のインタビューの一環で、お会いしました。以下はそのときの写真です。

彼女の活動の特徴は、マングローブ林の保全・拡大から始まり、マングローブの実や種を使った商品開発を行うことで、環境保護とビジネスとを両立させる活動を実際に実現したことにあります。その代表例として、先のブログ記事にも書いたように、マングローブから抽出した様々な色素を使った、バティック(ろうけつ染め)を作り出したのでした。

ルルットさんは、マングローブの実や種などの成分を分析し、健康によいと判断したものを飲料や食品などに加工し、販売してきました。ジューズ、シロップ、せんべいなどのお菓子やその成分を刷り込んだ麺を開発したほか、石鹸、バティック用洗剤などにも加工してきました。マングローブ加工品はすでに160種類以上開発したということです。

2009年に林業省と契約し、スマトラやカリマンタンでのマングローブ保全とマングローブ活用製品開発のコンサルティングを開始したのをきっかけに、全国各地で、ルルットさんの指導を受けたマングローブ保全グループが立ち上がっていきました。なかには、ルルットさんの指導から自立して、独自に製品開発を行い、それらの製品を外国へ輸出するグループも現れているとのことです。

「これまで何人を指導したのですか」とルルットさんに尋ねると、「数え切れないわ」と言いつつ、ちょっと恥ずかしそうにしながら「数千人」と答えました。

インドネシア全国で、ルルットさんの教えを受けた数千人がマングローブ保全活動とマングローブの恵みを活かしたコミュニティ開発に関わっている、と考えただけで、私たちの目の見えないところで、様々な環境を守り、再生させる努力が地道に行われていることを想像しました。

ルルットさんは、今でも「活動の第一目的はマングローブ保全だ」ときっぱり言います。彼女によれば、マングローブを活用するコミュニティ・ビジネスとして成り立たせていくには、最低でも2haぐらいのマングローブ林が必要で、それまではとにかくマングローブを植え続けることが重要だそうです。

そうでないと、住民はマングローブ林を伐採し始めるのだそうです。彼女が先日行った東南スラウェシ州クンダリの状況は、本当に酷く破壊されていて、まだまだ頑張らねば、とのことでした。

もっとも、ビジネスとして大きくしていくつもりは、あまりないそうです。マングローブ産品の売り上げやルルットさん自身のコンサルタント報酬のほとんどは、マングローブ保全の活動に使っているので、利益はほとんどないと言います。少なからぬ民間企業が共同ビジネスを持ちかけてくるそうですが、全部断っているとのこと。彼女が持っているマングローブ加工のノウハウや成分の活用法などは、門外不出だそうです。

もっとも、彼女は、民間企業がマングローブ保全活動を行うように働きかけてもいます。マングローブ林を破壊したり、海を汚染したりする企業に対して反対運動を仕掛けるのではなく、むしろ、それらの企業のコンサルタントとなって、「マングローブ保全を行うほうが、漁民や住民による反対運動やデモを避けることができる」と説き、排水・廃棄物処理の方法などを企業側にアドバイスする、そうしてコンサルタント報酬もちゃっかりいただく、というなかなかしたたかな側面も見せていました。

それにしても、なぜ彼女はそこまでしてマングローブ保全にのめり込んでいるのでしょうか。その理由が今回初めてわかりました。20年以上前、ルルットさんは難病を患い、体が動かなくなり、歩けなくなって、死を覚悟したそうです。真摯に神に祈りを捧げると、不思議なことに、動かなかった足が少しずつ動き始め、その後2年間のリハビリの末、日常生活へ復帰することができました。

この経験をきっかけに、自分が取り組んできた環境保全の道を命ある限り進んでいこう、と決意したそうです。そんなルルットさんは、本当に、マングローブ保全活動に命をかけているように見えました。

政府からは様々な支援の申し出があるそうですが、ルルットさんはその多くを断り、自前資金で活動を進めることを原則としています。メディアへは、マングローブ保全のさらなる普及のために積極的に出ていますが、それに流されることはありません。

ルルットさんのような方が現場でしっかり活動しているのは、とても心強いことです。我々のような外国の人間は、ともすると、インドネシア政府やメディアでの評判を通じて良い事例を探しがちですが、それは本物を見間違える可能性を秘めています。

私自身、ルルットさんの活動を今後も見守り続けるとともに、彼女のような、地に足をつけて活動している本物をしっかり見つけ出し、他の活動との学び合いの機会を作っていければと思っています。