佐伯の宝、カフェ・ド・ランブル

7月23日、24日の2日間、大分県佐伯市へ行っていましたが、その2日とも、知人に連れられてお邪魔したのが、カフェ・ド・ランブルという古い珈琲店でした。

市内のやや大きめの通りから狭い路地に入り、ちょっと行った先にある蔵造りの建物、気がつかなければ通り過ぎてしまう場所にその店はありました。

ガラガラっと木戸を開けて入ると、そこは、むっとして暑い外とは全く違う、薄暗いけれども何となく温かい空間が広がっていました。

もう40年も佐伯の地元の人々に愛されてきたコーヒーの名店でした。マスターが黙々とコーヒー豆を選り分け、グラインドしたコーヒー豆をネルドリップで丁寧に一杯一杯淹れてくれます。

少しでも悪い豆があればそれを除きます。淹れたコーヒーは必ず一口味見をし、もしも味が正しくなければ、それを捨てて、もう一度最初から作り直す、という徹底ぶりです。

圧巻は、アイスコーヒー。やはりネルドリップで丁寧に淹れたコーヒーを金属容器に入れ、それを氷の上に置いて、容器をぐるぐる回します。マスター曰く、これが一番早く冷えるのだとか。このアイスコーヒーの、例えようのない美味しさといったら・・・。

実は、この店のマスターは、東京・銀座八丁目にあるカフェ・ド・ランブルで学んだ方でした。東京での修行を終わる際、店の名前を使う許可を得て、故郷の佐伯へ戻って店を開いたのだそうです。

マスターによれば、珈琲店の系列には、例えば、カフェ・バッハで修行したバッハ系とここのようなランブル系、といったものがあるそうですが、時間と労力を惜しまないランブル系は、珈琲店ビジネスとしては利益重視にできない、ということです。

佐伯という場所であることから、価格も高く設定せず、常連さんを中心に、適度な人数の来客を相手に、細く長くやってきた、ということでした。

それにしても、本当に居心地の良い空間です。そして、丁寧に淹れられた極上のコーヒー。この店の存在を知っただけでも、佐伯に来た甲斐があった、といって過言ではありません。佐伯に来たばかりなのに、宝のような大事な場所を得たような気分になりました。

佐伯に来たら、またうかがいます。宝のような大事な場所。

日本のローカルのあちこちに、こんな場所を持てたら嬉しいなあ。

そうそう、佐伯での仕事の話も、もちろん有益に進みました。また何度も、佐伯へ足を運ぶことになりそうです。

30代のご夫婦の遺志をどう継いでいけるか

昨日のNHKスペシャルでは、村の再生のために頑張っていた30代のご夫婦が自ら命を絶つという選択をしたという話が、まだ心に刺さったままの状態です。

彼らのところへは、当初、震災ボランティアがたくさんやってきて、一緒に汗を流し、米づくりを始めたという話でした。しかし、時が経つにつれて、ボランティアは少なくなり、ほとんど来ないような状態になったということでした。

その話を見ながら、よそ者が寄り添うというのはどういうことなのか、どこまで寄り添えばよいのか、私自身も関わることの多い外国援助の現場のことと重ね合わせて考えていました。

30代のご夫婦にとって、ボランティアの方々が来てくださるのは、本当に嬉しかったのだと思います。と同時に、いつまでもボランティアの方々が来続けるわけではないこともわかっていたと思います。むしろ、いつまでもボランティアに来てもらっている間はまだ本当の復興ではない、と思っていたかもしれません。

でも、徐々にボランティアの来訪数が減るにつれて、自分たちの支持者が減っていくような、寂しさも感じていたことでしょう。でも、きっと、それでも頑張らなければ、と頑張ったのだと思います。

ボランティアで来ていた方の中には、昨日の放送をご覧になった方もいたことでしょう。そして、ずっと30代のご夫婦のところへ行き続けなかったご自分を責めていらっしゃる方もいるかもしれません。自分がもしそのボランティアだったら、きっとそうするだろうなと思います。

ボランティアなんだから気にする必要はない、という考え方もあるでしょう。でも、そうやって本当に割り切れる人はいないと思います。

かわいそうだから行ってあげるボランティアから、好きで面白いから行くボランティアへの転換が進まなかった、ということでしょうか。

でも、亡くなられた30代のご夫婦にとって、一番辛かったのは、自分たちの同世代の仲間で、一緒に村へ戻って、ともに農業で再生を果たそうとする仲間が、ほとんどいなかった、増えなかったということではないかという気がします。

かつて村で農業を生業としていた人々が村へ戻らない、戻れない中で、よそ者のボランティアに定住して一緒に農業をするように促すこと、お願いすることは現実的ではなかった、のでしょう。

日本中、一部を除いて、ほとんどの山村で人口が減少し、若者の多くが都会へ行ってしまっています。一部では、都会の若者が山村へ移住し、新しい生き方を始めているケースもあります。

それに加えて、原発事故による風評の消えないところへ、わざわざ行く、移住するというのは、とても勇気のあることです。そんな動きが少しでも現れれば、30代のご夫婦の遺志も生かされるのではないか。希望はほんの少しでも、そんな動きが起こるきっかけを作ることに自分も微力ながら関わっていきたい。そんな風に思います。

そんななか、この30代のご夫婦が生きてきた川内村に、昨年11月、タイ最大の珈琲店チェーンである「カフェ・アマゾン」の日本1号店が開店したというニュースを聞きました。このことが、これから川内村の風評イメージを反転させ、どんな変化を創り出していくのか、興味を惹かれます。

全村避難となった飯舘村には、椏久里(あぐり)というスペシャリティ・コーヒーの名店がありましたが、震災後に閉店を余儀なくされ、福島市で開店、再出発しました。

福島でのコーヒーをめぐる動きが、新しい福島を創り出すストーリーの一つになれば、と祈っています。

よそ者の自分が軽々しく言うべきではないとは思いますが、コーヒーがきっかけとなって、小さな希望が生まれ、それが少しずつ膨らんでいくことを願いつつ、それを膨らませる一人に自分もなれれば、と思います。

明日からカカオ・ツアー!

昨日はコーヒーのことを書きましたが、明日から1週間、ダリケー株式会社のカカオ・ツアーのお手伝いで、インドネシア・スラウェシへ行きます。行先は西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、行きと帰りにマカッサルに1泊します。

このツアーのお手伝いをするのは今年で3年目です。私の目的は、ツアーに参加された方々が楽しく充実した時間を過ごし、色々な学びを得て、インドネシアやスラウェシを好きになってくれることです。

参加される方々の不安を和らげ、好奇心を引き出し、新しいワクワクが毎日感じられるような、そんなツアーにできたらいいなあと思っています。

現地のカカオ農家にとっても、自分たちの作ったカカオを原料とするチョコレートを食べてくれる方々がやってくるのは、私たちの想像以上に嬉しいことのようです。そう、カカオ農家の方々も、ツアー参加者の方々も、それぞれ相手に対して感謝の気持ちが行き交うのです。年に一度のその日を、カカオ農家の方々も楽しみに待っているようです。

でも、このツアーはそれで満足はしません。こうした生産者と消費者との心理的なつながりの先に、カカオをめぐる次の物語が生まれてくることを密かに期待し、そう促していきたいのです。

さて、今年のツアーでは、どんなドラマが起こってくるでしょうか。そして、ツアー参加者の方々とこれからの長いお付き合いが始まるのだと思うと、私自身もワクワクしてきます。

今回、参加されなかった皆さん、次回のカカオ・ツアーでは、ぜひご一緒いたしましょう。

昨日提示した、コーヒー産地をめぐるツアーも、インドネシアのコーヒー産地の方々と日本のコーヒー愛好家の方々との間で、そんな展開が始まっていったらうれしいです。

今晩の便でマカッサルへ向かいます。では、行ってきます。

インドネシアにコーヒー文化が根付き始めた

インドネシアはコーヒーでも名の知れた場所です。日本でよく聞くのは、トラジャ、マンデリンなどでしょうか。この30年で、インドネシアのコーヒーは大きく変わりました。もしかすると、東南アジアでコーヒー文化が最も根付く場所になるかもしれません。

私がインドネシアに行き始めた30年前、インドネシアでお茶のほうがコーヒーよりもメジャーでした。しかも、砂糖のたっぷり入ったお茶です。コーヒーもありましたが、ネスカフェなどのインスタントが主流で、これもやはり砂糖をたっぷり入れて飲みました。

その後、お茶は瓶入りの甘い茶飲料(Teh Botol、Teh Kotak、Teh Sosroなど)が主流となりました。コーヒーは、コーヒー+砂糖+ミルクパウダーの三位一体型インスタントコーヒーが主流となり、ジャカルタの渋滞緩和策Three in One(朝夕の決まって時間に決まった道路へ乗り入れるには自家用車1台に3人以上乗車する決まり。今は廃止)に因んで、3 in 1などと呼ばれていました。

おそらく10年ぐらい前からだと思いますが、ジャカルタでインドネシア産のコーヒーをパーパードリップで入れるカフェが現れ始めました(それまでのコーヒーは、コーヒー粉に熱湯を注いで、粉が沈殿した上澄みを飲むものでした)。スターバックスがインドネシアで展開し始めてすぐぐらいだったと思います。その後、スターバックスを模したカフェのフランチャイズチェーンが現れるとともに、居心地のいいカフェがジャカルタのあちこちにできていきました。

5年前、私はジャカルタに新たなカフェ文化が根付き始めた、と思い、エッセイも書きました。その後、カフェ経営者はバリスタ認証(どのように取得しているかは定かではありませんが)を競って取り始め、インドネシア各地のコーヒー豆をペーパーフィルターを使って淹れて飲ませるようになっていき、若者たちが集うようになりました。

インドネシアのコーヒー産地は、実はたくさんあります。それも、2000メートル級の高地が多く、各々の土地の土壌や気候の違いから生まれたアラビカ種が出回っています。

ガヨ(アチェ)、マンデリン(北スマトラ)、リントン(西スマトラ)、ランプン、トラジャ(南スラウェシ)、バリ、フローレス、パプアなどなど、インドネシア国内だけでいくつもの産地があり、それらがブランド化しています。ガヨ・コーヒーなどは、地理的表示保護(GI)認証をとって、ブランドを守り始めてもいます。

ジャワ島でも、南バンドンやバニュワンギなどで、オランダ植民地時代からに激賞された高品質コーヒーの復活やよりローカルなブランド化などの試みが次々出始めています。

一国の中でこれほどたくさんのコーヒーの銘柄を楽しめるところは、世界中でもあまりないのではないかという気がします。

この現象は当初、ジャカルタに限られていました。しかし、次第にスラバヤなどの地方都市へも広がっていきました。そして、今では、コーヒー産地にも、そこで採れたコーヒーを淹れて飲ませるカフェが展開し始めました。

アチェ州中アチェ県のタケゴンは、ガヨ・コーヒーの生産集積地ですが、この素敵な高原都市にも、ガヨ・コーヒーを楽しめる何軒かのカフェがありました。コーヒー商がカフェも経営している様子です。

この店にもバリスタの認定証がありました。

別の店は、アチェ州の州都バンダアチェの近くにも支店を出していて、そこでも美味しいガヨ・コーヒーを飲むことができました。

ガヨ・コーヒーも出している豆が3〜4種類あり、それを上澄み、ペーパーフィルター、サイフォンのどれで淹れるかを選ぶようになっています。もちろん、味はなかなかのものでした。

北スマトラ州ダイリ県の県都シディカランは、マンデリン・コーヒーの集荷地ですが、ここにも数軒のカフェがあり、若者たちで賑わっていました。

以前、コーヒー産地ではいいコーヒー豆はすべて輸出し、自分たちはインスタントコーヒーを飲む、とよく言われていたものでした。今では、コーヒー産地でも、いやそこでこそ、地元の人々が地元産のいいコーヒーを飲む、ということがインドネシアで起こっているのです。

植民地支配が長く、外部勢力に搾取されて従属させられている、という風潮が根強いインドネシアの人々が、自分たちの生産物を自分たちでも楽しむようになってきたことで、コーヒー文化がいよいよインドネシアの人々のものになり始めた、と思うのです。

そこで、来年あたり(夏ですかね?)から、インドネシアの複数のコーヒー産地をめぐり、コーヒー産地で地元の方々と一緒にコーヒーを味わうツアーをしてみたいと考えています!! もちろん、ジャカルタなどでのカフェ巡りもしたいと思います。

コーヒー産地はたくさんあるので、期間は1週間、毎年2〜3箇所の産地をまわることにしようかなと思っています。

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