先週のマカッサル国際作家フェスティバルに出席した後、数日間帰国し、今また、インドネシアに来ています。ちょっと時間の空いた黄昏どきのジャカルタで、マカッサル国際作家フェスティバルを振り返っています。
声とノイズ、というテーマは、単なる意味どおりの声とノイズだけでなく、声がノイズに変わって無視されると同時に、ノイズが声に変わって世論を動かしていく、という両面性を意識する機会となりました。
我々が聞いていると思っている声は誰の声なのか、ノイズに埋もれさせてはいけない声とは何なのか、忘れ去られた声は全てノイズだったのか、色んなことを思います。ただ、確実にひとつ言えることは、声は決してひとつではない、という当たり前の事実であり、もし声が一つしか聞こえないとするならば、様々な声を聞こうとしない、聞こえないと思っている、聞いてはいけないと思っている、明らかに社会が自らを押し殺している状態に他ならないのではないか。
マカッサル国際作家フェスティバルでは、実にたくさんの参加者が即興で自作の詩を読みました。誰かのものではなく、自作の詩を。自作の詩を声を出して人々の前で読む、朗読するということは、自分の声を出していることに他ならず、それが朗読として成立しているのは、その声を聴く人々がちゃんと存在しているからです。
そして、その詩に社会への不満や不正への怒りが込められ、共感した聴衆が声を上げ、拍手をして反応する。それはまさに、声が出ている、届いている空間でした。
彼らの詩に込められているのは、まさに言葉の力。その言葉にそれぞれの詩を作った自分の魂が込められ、それが声として発せられ、聴衆に届いていく。マカッサル国際作家フェスティバルの空間は、そうした言葉の力をまだまだ信じられると確信できる空間でした。
福島から参加してくださった和合亮一さんは、そうしたなかで日本語で自作の詩を朗読しました。日本で最も朗読している詩人と自称する彼ですが、時として、自分を環境に合わせてしまっているのではないか、という気持ちがあったそうです。
自作の詩を誰もが読める空間に和合さんが遭遇したとき、何が起こるかは個人的にある程度想像していました。そして、和合さんには、思う存分朗読してほしい、爆発してくださってもいい、と申し上げました。
和合さんの日本語の詩を聴衆が理解できたとは思いません。でも、今回、言葉の力は意味の理解以上のものを含むのだということを、和合さんの眼前で理解しました。朗読の力は。想像以上のものでした。自分で声を出す者どうしの、言葉の力と力を投げ受けしあう同士の、生き生きした空間が生まれていました。
それは、ある意味、いい意味で、福島を理解してもらいたい、というレベルをいつのまにか超えていたように思います。和合さんの興奮する姿がとても新鮮に見えました。
日本における自作の詩の朗読の世界は、こんな空間を作れているでしょうか。
自分たちの声を出し、それを聴こうとする人々との相互反応が起こる社会は、何となく、まだまだ大丈夫、健全だと思ったのです。たしかに、マカッサル国際作家フェスティバルがそんな空間を作り続けることに一役買っている、と確信しました。
5月5日の夜、フェスティバルのフィナーレで、壇上に上がった主宰者のリリ・ユリアンティが「壇上からはライトで皆さんの姿が分からない。携帯電話を持っている人はそのライトをつけて、降ってほしい」と呼びかけました。そして、無数のライトが壇上のリリに向かって振られました。
その光景は、とても美しいものでした。
ノイズではない、一人一人の声が携帯電話の光となって、互いの存在を認め合っているかのように感じられたからです。
こんな光景を日本で、福島でつくりたい。恥ずかしがることなく、自分の思いを、自分の考えを、自作の詩を、声に出せる、そしてそれに耳を傾けてくれる人々のいる空間。和合さんを福島から招いたことで、そんなことを思い始めた、今回のマカッサル国際作家フェスティバルでした。