福島高校合唱団第60回定期演奏会を聴いて

昨晩は仙台に1泊し、イモニウォークの疲れをとって(?)、朝、JR普通電車で福島へ移動しました。実家で昼食をとって少し休憩した後、ママチャリに乗って向かった先は、福島市音楽堂。

今日は、ここで、福島県立福島高等学校合唱団第60回定期演奏会を聴きに行きました。私の母校であるだけでなく、実は、私もかつて、所属していました。当時の福島高校は男子校でしたので、所属していたのは、もちろん男声合唱団。そう、当時は福島高等学校男声合唱団でした。
今は男女共学となったため、男声がとれて、福島高校合唱団となっている様子。実際、現在の団員は、圧倒的に女性のほうが多く、福島高校といえば男声合唱団だった自分としては、正直言って、最初からちょっと違和感を感じる雰囲気がありました。
今回は、合唱団創団70周年記念演奏会も兼ねており、OB(共学後のOGも含む)がかつて演奏した曲目を現役団員も入って歌う特別ステージがあり、それを聴くのも目的の一つでした。

私が所属していた時の高麗先生に学んだ団員たちは今も「梅声会」という親睦組織を作っており、そのメーリングリストで、今回のステージに参加するメンバーの募集や練習日程などが案内されていました。
私も同期の友人たちから参加を勧められたのですが、長年歌わなかった間に声がもう本当に出なくなってしまい、かつ、直前までインドネシア出張が入っていて練習に出られそうもなかったため、参加しませんでした。でも、節目の演奏会ということで、演奏会だけは聞きに行こうとは思っていたのです。
現役団員のステージは、混声ということで、最初はちょっと面食らったのですが、徐々に慣れ、彼らの一生懸命で若々しい様子を微笑ましく聴けるようになりました。
続いて、OB(OG)を交えたステージが3本。まず、男声合唱ではおなじみの「月光とピエロ」はさすがに年齢の高さを感じさせる演奏でした。次は、10〜20年前の混声になってからの後輩メンバーによるモンテベルディ「マドリガル」から3曲。相当練習したのでしょう、予想以上に素晴らしい演奏で、とても良かったです。
そして、我々の世代を含む男声時代のメンバーによるケルビーニ「レクイエム」からの「ディエス・イレ」と「オフェルトリウム」の2曲。これは福島高校管弦楽団のオケ付きでの演奏で、指揮はかつて指導を受けた高麗先生。
写真がちょっとピンボケですが、雰囲気は伝わるでしょう。私が団員だったとき、先輩は「オフィルトリウム」で合唱コンクール全国大会金賞を取り、我々は高校1年のとき、「ディエス・イレ」で先輩とともに2年連続金賞受賞を狙ったのですが、東北大会で金賞を取ったものの、1点差で全国大会へ行けなかったのでした。
当時と比べれば、合唱もオケもまだまだという感じではありましたが、コーラスの厚みの部分に往年の輝きが随所に感じられ、あっという間に、高校時代の自分にタイムスリップし、いろんな記憶が瞬時に蘇ってきました。
演奏後、ステージに乗った同期から「歌いたかっただろ?」と聞かれたのですが、なぜか歌いたかったとは思えませんでした。物理的にあんな声はもう出ないのもありますが、合唱って、自分にとっては大事な宝物のようなものだけど、今の自分の現実世界とは別の世界にある、という気がしてしまったのです。
振り返ってみると、私が団員だった頃の男声合唱団は、文化系というよりも体育会系に近い組織だったような気がします。目標は合唱コンクールで金賞をとること。そのために、部活では毎日校内をランニングし、腹筋を鍛え、週5日練習し、夏には鬼のような合宿を1週間続け、コンクールが全てに優先する日々でした。
我々のときだって、定期演奏会ももちろん開催しましたが、コンクール優先なので、楽しかったという思い出があまり浮かんできません(でも、女子高校の女声合唱団とのジョイントコンサートを何回か開いたのは楽しかったかな)。
今日の後輩たちの定期演奏会を見ていると、団員たちが色々と工夫をしながら、自分たちも楽しみつつ、お客さんに楽しんでもらおうという姿勢がよく伝わってきました。高校生らしい、と言ってしまえばそうなのですが、ポップス・ステージなんて、私の頃にはまずありえないステージだったけれど、なんだかとても楽しそうで、本当に微笑ましかったです。これも、男女共学になったからなのかもしれません。
真面目で一生懸命な様子がうかがえた現役団員の姿が、私にとっては最大の収穫でした。我々の時代とは違う、新しい時代の君たちの合唱団を作っていってほしいと思いました。
それはそうと、きっと、今日の観客の中には、私と同じ頃に合唱をやっていた方々、もしかすると私の知っている方々が、もちろんシニア世代として、来ていたのではないか、という気がしました。でも、何十年ぶりかで再会するといったサプライズはありませんでした。
長い間、福島から、そして合唱から遠ざかっていた私を知っている人など、おそらくいないはずなのに、もしかしたらいるのではないか、なんて余計なことを思ってしまうのは、やはりここが福島だからなのかもしれません。
さて、人恋しさや郷愁はそこへ置いて、私は前へ進むことにしよう。そう決めて、ママチャリに乗って、さっと実家へ戻りました。

イモニウォーク奥松島2017は楽しかった!

昨日(7/15)の朝、ジャカルタから東京へ戻り、自宅でちょっと休憩してから、新幹線と仙石線を乗り継いで東松島市へ向かって、同市矢本の宿に宿泊(ここがとても居心地良かった!)。そして今日(7/16)は、イモニウォーク奥松島2017というイベントに参加してきました。

イモニウォークは、東松島市の野蒜駅を出発点として、宮戸島にある松島自然の家までの約10キロのコースを歩く「イモニウォーカー・ルート」と、自転車で宮戸島の名所8カ所をまわる「新宮戸八景ルート」のいずれかを選びます。各コースにはチェックポイントが設けられ、それぞれのポイントでスタンプを押して周り、完走して全部スタンプが押されたら、景品がもらえます。

また、途中では、インドネシア・アチェのコーヒーを飲めるスタンドや、アチェのカレーを食べられるスタンドがあり、かつ農産物直売所を兼ねた複合施設「あおみな」で地元の特産品を味わえるマルシェに立ち寄ります。

東松島市はJICAによる震災復興を通じた経験共有協力の事業を通じてインドネシアのアチェ州の州都バンダアチェ市と協力関係があり、ちょうど今、バンダアチェ市から2名の漁師さんが1カ月間の研修に来ています。彼らと東北大学のインドネシア人留学生が上記のスタンドでコーヒーやカレーを振る舞うほか、アチェのサマンダンスのパフォーマンスも披露してくれます。

そうそう、イモニの説明を忘れていました。これは芋煮のことで、南東北で秋の恒例行事である芋煮会で振舞われる食事です。ゴールした後、この芋煮が振舞われます。そこで、このイベントをイモニウォークと名付けたようです。

野蒜駅は真新しく変わっていました。仙石線が野蒜駅付近で津波で寸断されて再建できないため、住民移転を行った内陸側へ線路を付け替え、駅も新築して、2015年5月30日に復旧し、運転が再開されました。

ちなみに、昔の野蒜駅は、今は震災復興伝承館とコンビニが一緒の建物となっています。震災復興伝承館では、震災時の津波による被害とその後の復興の様子が映像も含めた資料として展示されています。

受付で、予想通り、私は外国人の参加者と一緒に歩くことになりました。全員が東北大学の留学生で、マレーシア2名、インドネシア、モロッコ、モザンビーク各1名、私を含む日本人3名の8名で、イモニウォーカー・ルートに参加しました。

スタンプを押すポイントになった場所は、上記の震災復興伝承館のほかは、まず鳴瀬二中跡地。校歌の碑の裏には、廃校に至るまでの軌跡が年表として綴られていました。

防災盛土。防災盛土の上から、海を見渡しながら歩きます。

アチェのカレーのスタンドの裏には、津波の犠牲となった子供たちを含む身元不明の方々を祀るたくさんのお地蔵さまがありました。

多目的施設のあおみな。

ここで食べたかき汁と東松島ドッグは、美味しかったですよ。

ルートのポイントがあるかと間違って皆んなを登らせてしまった、大高森山の山頂から見た奥松島の景色は、まさに絶景でした。

奥松島縄文村。好奇心旺盛なメンバーは、中の展示もしっかり見ていきました。イベント参加者は、スタンプを押すカードを見せれば、無料で見学できます。

観音寺の手前にある津波の碑。

結局、途中でなんだかんだと休みながら、また、ハーハー息を切らせながら大高森山を登るなど余計な行動も入ってしまい、午前9時に出発して、ゴールにたどり着いたのは、イベント終了の午後4時少し前でした。それでも、イモニウォーカー・ルートの10チェックポイントはすべてまわることができました。

何事もポジティブに明るく捉えてくれる楽しいメンバーと一緒に歩けたせいか、けっこう体力的に疲れているはずの私も、最後まで元気に過ごすことができました。というか、ずっと私が彼らをリードして連れていく役目を果たしたので、疲れてヘロヘロになるわけにはいかなかった、というほうが正しいのかもしれません。

すでに何度も実施されているためか、このイモニウォーク奥松島は、予想以上によく作られているイベントだと思いました。東松島市の人々が外から来た方々に見て欲しいと思う場所がうまく組み合わされ、結局は、いろいろ見ながら歩く、という形になるように組まれていました。また、東松島市がバンダアチェ市と協力しているということが、コーヒーやカレーやサマンダンスの形で組み込まれ、参加者へ自然に認知されるようになっていたのもうまいやり方だと思いました。

一部にはチェックポイント間の距離がかなりあって間延びしたところがあったり、間違って大高森山の山頂まで登ってしまわないような指示など、いくつか改善点は指摘しましたが、ともかく、楽しく過ごすことができました。

とはいえ、メンバーと別れ、一人になると、けっこう疲れを改めて感じるものです。そんな時は、と思って、夜は、エスパルの青葉亭でしっかりと牛タン定食をいただきました。評判通り、ここの牛タンはとても美味しく、大満足。柚子胡椒味にワサビを添えて食べる牛タンが特に秀逸でした。

さあ、明日は朝、福島へ移動します。おやすみなさい。

25年ぶりにジャカルタの恩人の一人と再会

ジャカルタでの用務を終え、帰国便まで時間が取れたので、ジャカルタの恩人の一人のお宅を訪問し、25年ぶりに再会しました。

つい最近、日本の携帯のLINEにこの方からメッセージが入りました。ジャワ人によくある名前であり、何人か同じ名前の知り合いがいるので、それまでの一番最近連絡のあったバニュワンギ県会議員かと思って尋ねたら、恩人の方でした。

彼と出会ったのは、前の職場に入った年なので、1985年です。インドネシア中央統計局の最後は副長官を務めた方で、私がインドネシア研究に携わり始めた駆け出しの頃、ずいぶんと可愛がってもらいました。

日本にも何度か招聘し、地方視察へご一緒して、温泉に入ったり、いろんなエピソードがあります。職場の先輩のリクエストで、彼の奥様と温泉ホテルで「ブンガワン・ソロ」のデュエットをさせられたのも、今となっては懐かしい思い出です。

4年前に、心筋梗塞で倒れ、手足がうまく動かなくなってしまったと聞いていたので、お会いしてよいものか、ちょっと迷っていました。

お会いしてみると、とても元気そうで、昔と同じように、「お前は子供だったよな」「ずいぶん太ったじゃないか」「こどもはいるのか」などと、冗談を交えながら、とにかく大声でよくしゃべられました。

奥様によると、相変わらず、よくしゃべり、よく食べるそうで、お会いしてホッとしました。お子さんたちも皆独り立ちされ、孫にもたくさん恵まれ、幸せそうでした。

何年経っても、こうして相手にしてもらえるなんて、私もとても幸せな気分でした。

次回は、彼とコンビを組んでいたもう一人の恩人、元中央統計局の長官だった方とも一緒にお会いしたいと思いました。

ジャカルタの恩人は、数えたことはありませんが、けっこうたくさんいます。本当にたくさんの方にお世話になり、それが今の自分を支えているのだということを改めて感じました。

ジャカルタで用務を遂行中

今回のジャカルタ滞在、近畿経産局とチーム・E関西によるエネルギー・環境ビジネスに関するビジネスマッチングの可能性を探ると題して、用務を遂行中です。

7月12日夜は、ネットワーキングカフェinジャカルタにおいて、「インドネシアにおけるビジネス展開」と題して、1時間弱の講演を行いました。久々のジャカルタでの講演だったので、少々緊張しましたが、何とか無事に終えることができました。

13日は、午前中、タンゲラン県営ティルタ・クルタ・ラハルジャ水道会社を見学しました。この水道会社は、オランダ植民地時代の1923年に設立された水道会社が母体となっており、その時に建てられた建物が今も残されています。

水道会社の構内に小さな浄水場があり、近くのチサダネ川から取水された水が砂などによるろ過で予想以上にきれいに浄化されていました。

この水道会社は11の浄水場を持ち、タンゲラン県、タンゲラン市、南タンゲラン市へ給水するだけでなく、全体の5分の3の浄水をジャカルタ首都特別州へ売っているそうです。
早いもので、今回のジャカルタ滞在はあと1日を残すのみとなりました。

やたら知人に出会う、今回のジャカルタの宿

昨日(7/10)からジャカルタに来ています。いつもは、東ジャカルタの私のアジトに泊まるのですが、今回は、調査団の一員としてなので、他の団員と同じホテルに宿泊しています。

このホテルに初めて泊まったのは1980年代後半で、それ以来、何度か泊まっているのですが、昔よりもいろんな面で進歩が見られます。とくに食事は、以前はとにかく美味しくなかったという記憶したなかったものです。今も決してものすごく美味しいとは思いませんが、そこそこ食べられるレベルになりました。

部屋が広いのがこのホテルの特徴ですが、かつてはバスタブ付きの部屋が少なかったのです。今はほとんどの部屋にバスタブが付いています。ベッドもよくなりました。

近年、日本の関係オフィスがジャカルタの中心部よりも南へ移ってきたせいか、日本からの出張者の滞在ホテルも南へ移ってきている様子があります。

今回のこのホテル、見た目だけでも、日本人客の比率が高いです。昔のプレジデント・ホテルほどではありませんが。

そして、そのせいか、知人に必ずと言っていいほど出くわします。昨晩のチェックイン時、今朝、朝食をとるためにエレベーターを降りた時、外での仕事を終えてホテルに戻ったロビーで、別々の知人に複数会いました。

今までの経験からしても、相当な確率です。というか、いつもはアジトに宿泊なので、日本人に会わないジャカルタライフが普通だったので、ビックリしているだけなのですが。

今日の夕食で食べた、ランデブーのゴーヒョン(肉詰め巻き揚げ)は相変わらずのおいしさでした。このたびスラバヤに着任されたT氏とこの店でご一緒したことを思い出しつつ。

日本橋ふくしま館MIDETTEでビックリな出会い

先日、福島県三春町のFUKUSHIMARTで知り合ったSさんから、「今、東京です」という電話をもらいました。

Sさんは、福島市でゴボウやモロヘイヤなどを練りこんだうどんを製造している方なのですが、東京の日本橋ふくしま館MIDETTEで、その自慢のうどんを出しているので、食べに来てほしい、ということでした。

正午に用事があったので、午後1時過ぎに行くと返事をしたら、「大丈夫ですよー」という答え。あんまり人が入っていないのかなあ、と思いながら、行ってみました。

日本橋ふくしま館MIDETTEというのは、神田と日本橋のちょうど中間あたりにある、福島県のアンテナショップです。

MIDETTEというのは、外国語ではなく、実は福島弁で、「見ていって(ね)」という意味です。

さっそく、Sさんご自慢のゴボウうどんセットをいただきます。

ゴボウうどんの真ん中に、何か、ワカメのようなものが載っています。よく見えないので、ご飯の上に載せたら、分かりました。

レーザーで切断したのだそうです。そりゃあ、ずいぶんコストがかかったね、と言うと、「そうなんですよー。でもうどんの値段には転嫁できないです」と嬉しそうに答えてくれました。
うどんにゴボウが練りこまれていて、それにさらにゴボウが載り、ゴボウの和え物とゴボウのかりんとうが付く、というまさにゴボウづくし、でした。ゴボウの香りを感じながら、うどんを美味しくいただきました。
Sさんは、むろうどん製麺所を経営していますが、福島市の公設地方卸売市場の敷地内で、「お福さんのひっぱりうどん」というお店も出しています。ただし、昼過ぎには営業終了となるので、早めのお昼を食べに行くことになります。
さあ、うどんを食べ終えたので、店を出ようとしたら、どこかで見かけたものが売られていました。
郡山市の西北にある石筵地区の蜂蜜でした。数年前、私は友人たちと一緒に、石筵地区を訪れたことがあります。石筵地区は、コミュニティによる共有林管理をずっと続けてきた集落で、そのときは、水田に水を入れる前に水路の清掃を集落成員総出で行う「堰上げ」の様子を見に行ったのでした。つい最近、NHKの番組でも全国放送されたので、ご覧になった方もいると思います。
今回は、そのときにお世話になったGさんの奥様がMIDETTEに来られていて、蜂蜜を売っていました。その時の話をしばらくして、Gさんがお元気でいらっしゃる様子をお聞きした後、あの時にお土産でいただいたのと同じ大きさの蜂蜜を1瓶購入しました。
とてもおいしい高品質の蜂蜜なのですが、残念ながら、福島市の街中ではお目にかかったことがありません。郡山市では売っているのでしょうか。福島の地元で買えないのがちょっと残念です。いしむしろ養蜂園のリンクはこちらです(https://www.fukulabo.net/shop/shop.shtml?s=6334)。
さらには、高校時代の親友で今は福島県庁の高官として地域復興の先頭に立っている友人Nさんにも、店内で偶然に会い、お互いにビックリでした。
ただ単にSさんのうどんを食べに行っただけだったのに、こんなビックリな出会いがあるとは、思いませんでした。うーん、やっぱり、動くと出会いますねえ。
おいしい福島に出会いに、皆さんも是非、MIDETTEにいらしてみてください。楽しい気分になること、間違いなしです。福島県は、知られざる美味しいモノの宝庫なのです。

恩人であるTさんの思い出

梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。

今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。

その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。

それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。

当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。

元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。

Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。

私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。

Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。

Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。

Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。

Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。

今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。

Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。

とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。

晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。

おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。

私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。

どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

来週はジャカルタ

6月中はずっと日本でしたが、来週は久々にインドネシア出張、ジャカルタです。

今回は、チームでの活動になりますので、いつものアジトではなく、他のメンバーと一緒にホテルに泊まります。

10日にジャカルタ到着、11日は3件のアポ、12日はネットワーキングカフェで講演、13日は視察、14日はビジネスマッチングセミナー、14日夜ジャカルタ発で、15日朝に東京へ戻ります。

皆さんにお会いできるといいのですが・・・。

紫陽花の花を眺めていたい

福島から東京の自宅へ戻りました。大雨に合わずにすみました。

福島のオフィスのすぐ前で咲いていた紫陽花の花の写真を、ただただ、眺めていたい。そんな気分の日もあります。

色々なことを思いながら。あの人のことを想いながら。紫陽花の花に何かを託しつつ。

生まれて初めて行った床屋を再訪

今日は、この世に生まれて初めて行った床屋さんを再訪しました。実に50年ぶり、福島市天神町の理容アサヒです。

たしか、生まれて初めて床屋へ行ったのは2歳か3歳のころ。室内はピンクっぽい色の内装で、椅子が4つか5つあり、5~6人ぐらいの女性従業員がいました。一番端の椅子に座らされて、ものすごく泣いて、女性従業員になだめられた記憶があります。

店はまだありました。今は、81歳になるおじさんが一人で経営しています。

おじさん曰く、3人の客を続けてやると体がかなりきついそうですが、客が一人も来ない日もあるとのこと。一日に5人ぐらい来てくれるといいんだけどな、とおっしゃっていました。

私の記憶はけっこう正しかったようです。周辺の居住人口が減り、客が減ったので、従業員はみんな辞めてもらい、奥様と一緒に店をやってきたのですが、数年前、奥様が体を悪くしてからは、一人で店をやっているそうです。

すぐ近所にあった銭湯、時計屋、スーパーなど、今はもうなくなった店々の話に花が咲き、おじさんも話が止まらなくなってきます。

おじさんで3代目なのですが、おじさん夫婦には子供がおらず、おじさんの代で店を閉めることになるそうです。

髪の毛を切っていても、かつての若い時のようには体が動かず、同じことをするにも時間がかかるようになったのが悔しいと言っていました。でも、まだしばらく、おじさんの体が動くうちは働いて、利益を光熱費などの支払いに充てるのだそうです。

店には、平成18年の近所の商店会加盟店のすごろくが貼ってありました。私の知っている懐かしい店がまだたくさん残っていました。でも、その商店会の中心メンバーだった店はすでになくなり、今や、商店会は解散状態となってしまったそうです。

私が小学校の時に通っていた英語学校のポスターも。こちらはまだあるみたいです。

店にはおじさんがたった一人しかいないはずなのですが、私には、お姉さんたちが私をあやす声をふっと聞こえてくるような気がしてならないのでした。昭和30年代後半のあの頃にタイムスリップしてしまいそうな・・・。

おじさん、また来ますね。

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福島市も梅雨本番となってきました。

インドネシアへの研修・スタディツアーの相談をお受けします

学生・企業・地方公共団体・一般向けのインドネシア (全地域)への研修ツアーの企画・運営・実施支援、引率を承ります。ご相談はメールにて、matsui@matsui-glocal.comへ。またはFAXにて、024-505-4294へ。

コンサルタントと名乗ることについて

自分がなりたいのは、ローカルの足元の生活から物事を発想し、ローカルが他のローカルとつながりながら、新しいモノやコトが創り出されるための黒子、です。

でも、法人クレジットカードの申込や銀行での法人口座開設で、それを職業や職種で一言で何というか、と問われると、どう言っていいのか分からなくなります。「その他」というのが該当するのでしょうが、それだとさらに具体的な説明を求められて、面倒になります。

それで、「コンサルタント」と名乗ることにしています。でも、世の中のいわゆる正統なコンサルタントとはちょっと違うような気がしています。

一般に、コンサルタントは、顧客(クライアント)からの相談を受けて、助言や解決策を教え、その対価をもらう仕事と考えられます。ですから、顧客の意向がどのような理不尽なものであっても、それに合わせる必要が出てきます。

これまでのいくつかの経験で、そのような振る舞いが必要な場面があるということを十分に学びました。契約書や仕様書に書かれていなくとも、顧客から指示されたことは、断ってはならないし、顧客の気分を害するような態度を決して示してはならない、ということを。なぜなら、そんなことをして顧客から仕事がもらえなくなったら大変だから。

それに見合う見返り収入が十分にあるのならば、それはそれと割り切って、ニコニコしながら、うまく対応するのも大人の対応なのだろうな、と思います。まだ、収入が不安定な時には、そうした収入がやはり必要だと実感します。

でも、できることならば、そのような仕事だけをする人生など送りたくありません。私がやりたいことは、教えないコンサルティング。顧客に教えるのではなく、顧客が自分で気づき、自分で問題を解決するために動く、そのように促すやり方です。

数日前の記事で、東京から東北へやってくるコンサルタントに関する記事が載っていました。曰く、復興や地方創生で困っている自治体などへ、そうしたコンサルタントが乗り込んでいって自分のアイディアを売り込む。東京から来たコンサルタントさんだからといって自治体側もなぜか期待して、多額の報酬を支払ってしまう。その実、後から振り返ると、何が自治体にとって役に立ったのか分からない、といった話でした。

コンサルタントと名乗ると、そんな輩と一緒にされてしまうのだろうか、なんて思ったりもします。ちょっとこわいです。

しかしこの構図、実はインドネシアでさんざん見てきた構図と全く同じなのです。そして、ある意味、自分もそうした外部専門家の立場にいたこともあるわけです。そんな立場の自分なのに、「よそ者に騙されるな(私もよそ者だけどね)」とインドネシアの村人たちに言い続けていた自分は、やっぱり他のコンサルタントさんから見ると、異様だったのだなと今にしてよくわかります。

インドネシアでは外国援助。日本では復興や地方創生という名の補助金。これらに頼った仕事しかしないコンサルタントならば、やはり顧客であるそれらの資金元の意向に沿わざるを得ないのは当然です。

でも、それらのコンサルタントの仕事をいちいち業績評価しているのかどうか。評価しているとしても、誰がどのように評価し、その結果を受入側へも含めて公開しているのかどうか。事業を作れば予算が増えるという仕事のしかたならば、自分の予算でやった仕事が無駄だった、国民の皆さんごめんなさい、とは言いにくいし、別の形でうまく言っているように見せるのだろうな、と思ってしまいます。

私が福島で起業した理由の一つは、東京のコンサルタントにならないためです。親切な地元の方々は、客人の意向にできるだけ合わせてくれます。客人が教えることにも分かったふりをしてくれます。でも、事業が終わると、客人が机上で描いたようには変わりません。事業を金づると思っている客人にとっては、次の事業が取れればいいのです。

そんなコンサルタントと一緒にされたくはありません。でも、収入を安定させるためには、お面を被って、外国援助や補助金の仕事もします。その仕事の過程で得るものはゼロではないし、次の自分オリジナルの仕事につながる部分もあるからです。

自分にしかできないコンサルティングがある、と確信しています。あえて教えないコンサルティング。学び合いを促して自分も学ぶコンサルティング。「後は自分でやれるからもういいよ」と顧客から言われることを常に覚悟しているコンサルティング。「何でもいいから何か仕事をください」と言いまくらないコンサルティング。

まずは、顧客とどこまで真の信頼関係を築けるか。一歩一歩、進んでいきたいと思います。

7月より、本格的に活動開始します

このところ、ちょっと体調がすぐれませんでしたが、休み休みしながら、少しずつ回復してきました。昨日、自宅のある区役所で健康保険の切り替え(国保→健保)を終えたことで、これまでちょっと時間はかかりましたが、法人としての活動準備をほぼ終えました。

私のオフィスと同じ敷地内の古民家(福島市)
この古民家の有益な活用法もオーナーと一緒に考えていきます

というわけで、7月からいよいよ、本格的に活動を開始します。すでに、いくつか、インドネシア出張がらみの仕事が今年後半に入ってきていますが、それ以外の通常の仕事も始めていきます。

内容については、以下のリンク「会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ」をご覧ください。

 会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ

まず、企業、団体、学校向けのコンサルティング、講演・講師、研修などをお引き受けします。インドネシアに関するものだけでなく、コミュニティや組織などへ外部者が入って活動していく際のコミュニケーションのしかたや問題発見・解決の手法も教授いたします。

私のやり方は、一言で言えば、「教えないコンサルティング」です。

外部者としての私が教えるのではなく、そこにいるコミュニティや組織の方々が自分で気づき、自分で行動し始めるように促すコンサルティングを行います。この手法は、インドネシアで村人や組織に助言・アドバイスを行う実践のなかで、身につけたものです。それを様々な分野で適用し、また、「教えないコンサルティング」のできる人材を育てていきたいと思っています。

次に、日本の地方自治体・企業・団体とインドネシアの地方政府・企業・団体とをつなげて、意味のある連携事業を行えるように促していきたいと考えています。

日本側がインドネシアと関わりたいと思っても、インドネシアのどこと関わったらよいのかわからない、というケースは多いと思います。逆に、インドネシア側でも、日本と関わりたいが、どの地方自治体・企業・団体とコンタクトしたらいいか分からない、という話をよく聞きます。在日インドネシア大使館には、日本のどこかと姉妹都市提携をしたいという問い合わせがたくさんあるそうですが、大使館側はどこを推薦していいか困っている、ということです。

こうした日本側とインドネシア側に対して、どのような連携を目指しているのか、そこから何を生み出したいのかをしっかり聞いたうえで、双方にとって有意義なマッチングを果たせるお手伝いをしたいのです。

そして最後に、7月から、有料会員制のウェブマガジン「よりどりインドネシア」を月2回発刊します。

日本ではあまり知られていない、いくつものインドネシア、様々なインドネシアについての情報を提供していきます。とりわけ、ジャワ・バリ以外のインドネシアの地域や人々の生活に関わるような、広く深い情報を、独自の視点で切り取りながら解説します。もちろん、ときにはセンシティブな内容も含んだ、ビジネスに関わる政治経済分析も行なっていきます。

ウェブマガジンを購読いただいた方は会員となり、読者コミュニティの一員として、情報交換や意見交換に加わっていただき、会員フォーラムとしていきます。また、私に対するメール相談も回数無制限でお受けいたします。

上記に関する詳しい内容は、以下のサイトをご覧ください。コンサルティング等のご依頼やお問い合わせは、メールにて、お気軽にお寄せください。お待ちしています。

 会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ

 メールアドレス:matsui@matsui-glocal.com

会員制フォーラム及びサービス料金を定めました

松井グローカル合同会社の活動準備が整い、いよいよ本格的に始動することとなりました。

7月1日より、会員制フォーラムを開始するとともに、弊社の提供する各種サービス料金を定めました。詳細は、以下のページをご覧ください。

 

会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ

 

会員制フォーラムは、有料ウェブマガジン「よりどりインドネシア」(現在準備中)の購読者を会員とするフォーラムです。

このウェブマガジンは、「さまざまなインドネシア、いくつものインドネシアを知り、理解を深め、インドネシアと交わり、ともに未来へ向けて行動するための会員制ウェブマガジン」を目指します。

このため、他のメディアでは伝えられない様々な地域の社会文化や、他のメディアでは伝えられないインドネシアの人々の暮らしやそれに基づく本音の部分を深く理解し、日本語世界でのインドネシア理解がより広く、より深くなり、そして、様々なインドネシアをより近く感じられるようにお手伝いをしていきたい、と考えています。

7月から月2回発刊します。最初は私が執筆しますが、徐々に、色々な方に記事を執筆していってもらう計画です。インドネシア人の方からも投稿をお願いする予定です。このウェブマガジンでしか読めない記事を出していきます。

そして、このウェブマガジンを購読して会員になった方々は、マガジンに付随する読者コミュニティへ参加して、様々な質問・意見を会員間で出し合えるほか、私宛のメール相談を回数無制限・無料で行っていただけます。

ほかにも、面会コンサルティング料、講演料・講師料、企業・自治体・NPO等の顧問・アドバイザー料、研修ツアー等同行コンサルティング、インドネシアや地域づくりに関する調査・研究などについても、サービス料金を提示いたしました。なお、会員の方の料金を割引で提供させていただきます。

会員募集開始まで、もう少しお待ちください。この会員制フォーラムを通じて、たくさんの方が、いくつものインドネシアと広く深く近くお付き合いするようになっていくことを切に願っております。

 

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