自分が自分で居られる場所を求める若者たち

先日、インドネシアに興味を持っているある大学生と会いました。そして、2時間ほどいろんな話をしました。

その方は、卒業論文の準備として、私が昔書いた書きものを読んでくださっていたようで、どこでどう知ったのか、ツイッターを通じてコンタクトをしてきました。私も、これまで関わってきた仕事の原稿をほぼ書き終えたし、ヘルペスからも順調に回復してきたので、お会いすることにしました。

その方はインドネシアにも滞在したことがある様子で、住んだ人でないと知らないようなマニアックな地名や食べ物の名前の連発で、けっこう盛り上がりました。

だんだんと打ち解けてきたと見えて、その方は大学の話をし始めました。その中心は、自分の思っていることや考えていることを友だちや先生と自由に話すことができない、というものでした。そして、本当はそういうことができるのが大学だと思っていた、とも言いました。

もしかしたら、その方は、周りを見回しながら、「したいけれども、そういうことができない」と自分で思い込んでいるだけなのかもしれません。でも、先生や友だちから言われると、それに反論することなく、黙ってしまうようなのです。

また、先輩からは、「就職したらすべては損得で動くのだから、そうではない大学時代を満喫しろよ」とも言われたそうです。

その方は、自分の思ったことを話せない大学、損得ですべて動く将来、が正しいこととは思っていない様子ですが、それを受け入れずに社会人になることはできないと思い込んでいました。

この方のような大学生は多いことでしょう。自分の周りから色々指を指されないように、周りに合わせて過ごしている、あるいは過ごさざるをえないと思っている彼ら。そんな彼らを否定的にみる大人も少なくないことでしょう。

でも、話しながら思ったのですが、彼らをそうさせているのは、我々大人なのです。大人が彼らの話を聞かない、彼らを従わせようとする、のではないか。彼らに自由に意見を述べさせ、それを幼稚だとか稚拙だとかいって否定せずに、一人の人間の言動として聞いてあげる、そんなことが大人にはできていないのではないか、と思いました。

きっと、大学や職場だけでなく、家庭や自分の家族とも、そんな状況になっていて、彼らが自分を取り戻せる場所を失ってしまっているのかもしれません。

「もしも、自分の意見を自由に言えるような場所や機会があったら、参加してみたい?」とその方に聞いてみました。「ぜひ参加したい」とその方は言いました。自分をさらけ出せる場所、自分が自分のままでいていい場所、そんな場所が必要なのでしょう。

鯖江市のJK課を思い出しました。おそらく日本で唯一の、女子高校生が行政に意見を言えるJK課。そこで一番大切にされているのは、女子高校生が本音で安心して話のできる空間を用意することでした。

そうした場所を見つけられない若者たちは、ネットの中のバーチャル空間に居場所を求め、そこで出会う見ず知らずの人たちに引き寄せられてしまうのではないか。そこには、そうした彼らを引き寄せる悪意を持った人物やカルトなどが跋扈して、無防備な彼らを待ち受けているのかもしれません。

昔から、素の自分を受け入れてくれる人に出会えたと思ったら、カルトの勧誘だった、もう抜けられない、といった話はよくありました。一歩間違えると、実は私もまた、そんな不審者と思われるかもしれない、と思いました。

損得で動いていると、そんな若者たちの相手をする時間の対価さえも求めがちになりそうです。でも、自分を自分として認めてくれる、安心できる場所と機会を求めている若者たちは多いはずです。大人がそうした若者たちに向き合い、大人自身の生き方や関わり方を変えていく必要があるのではないかと思います。

でも、どんなふうにして?

今回お会いした方は、自分と同じように思っている友だちが5人ぐらいいると言っていました。もし、彼らが私を信用してくれるなら、とりあえず、その5人と自由にむだ話のできる時間を作ることから始めるのかなあと思います。そのうち、テーマを決めて、自由に議論ができる「私ゼミ」をやってみようかなとも夢想します。

それにしても、自我を形成するはずの大学が、他人に合わせることを第一にするような考え方や態度を学生たちに直接・間接に促しているとするならば、とても残念です。

東京のど真ん中のヤシの木

東京のど真ん中にヤシの木がありました。

場所は、日比谷公園。第一花壇の真ん中にシュロの木があるのですが、その東側にヤシの木が植えられています。

ヤシの木で目立つのは一本だけですが、よく見ると、その下のほうに何本か小さいヤシの木が植えられている様子がうかがえます。

やはり、ヤシの木を見ると心が躍ります。しかも、東京のど真ん中。

日比谷公園といえば、この二羽も忘れられません。今日も、口から水を噴き続けています。

お酉さまで甘酒

11月11日は一の酉。毎年の恒例で、東京・巣鴨の大鳥神社にお参りし、1年間家に置いてあった熊手をお返しし、新しい熊手を手にしました。

お神酒を飲んで、奥を見ると、お休みどころがあります。

一の酉はいつも混んでいるので、お休みどころへは行かずに済ませてきました。でも、今回は空いているので、お休みどころへ行ってみました。

お休みどころでは、甘酒が売られていました。大鳥神社の自家製甘酒ということで、早速いただくと、これがまあ美味しい。そして気分はほっこり。

机の上には、なぜか、醤油瓶に入った黄色い液体とお漬物が置かれています。大きめの柑橘類は、おそらく飾りでしょう。

醤油瓶に入っていたのは、ショウガ液でした。これを甘酒の中に入れて飲んでみたら、オリジナルに輪をかけて美味しい! しかも、この漬物がまた甘酒に合うこと!

甘酒にショウガ液+漬物。なかなかの取り合わせでした。

この後は、近くのパン屋がこういう時にしか売らないケーキドーナッツを15個買いました。これは、一の酉に来ると必ず買う物です。

そして、千石自慢ラーメンで肉そばを食べて、大鳥神社の一の酉への参詣を終えました。

トランプ氏が嘘をついても不思議ではない

アメリカ大統領選挙が終わり、トランプ氏が第45代大統領になることが決まりました。メディアのほとんどがヒラリー・クリントン候補の圧勝を予想していたので、この2日間、なぜ予想が当たらなかったのか、トランプになって大丈夫なのか、といった話がメディアで盛り上がっていました。

トランプ氏が大統領になったら何をするか分からない。そんな不安が世界中を駆け回っています。選挙運動中の彼の言動がその不安の元になっているのですが、それが全て本当に実行するかどうかは、これからの彼の様子を見て判断するしかありません。

例えば、トランプ氏は、アメリカが世界の警察官であり続けることを止めたいという主張をしているように見えます。一説では、退役軍人はトランプ氏を支持し、軍需産業はクリントン氏を支持したとか。好戦的なのはむしろクリントン氏だったのではないか、という話もあるようです。でも、それが本当なのかどうかはよくわかりません。

トランプ氏は嘘をついても不思議ではないのです。そして、それが誰かにとってプラスならば嘘は許容され、マイナスであれば批判されるでしょう。

政治家は嘘をつきます。それを「冗談」で済ませようとする人もいます。

今日のTPPもそうでしたが、我が国の政治を見ても、選挙運動中に「絶対」と叫んでいた公約とは正反対の政策を何が何でも「強行」するという、一貫性も何もない政治家がたくさんいるではありませんか。彼らはそうした行動を恥ずかしいとも何とも思っていないように見えます。でも、彼らは我々の代議員なのです。

きっと、選挙中の絶叫は「冗談」だったのでしょう。我々は、そんな「冗談」に騙されやすいチョロい有権者と本当に甘く見られているのではないか。だって、そんな嘘をつかれ続けても、従順な子羊のように、大人しくしているのですから(自分も含めて?)。そして、選挙になると、また「冗談」で有権者をだます、そして有権者はだまされる(あるいはだまされたフリをし続ける)のです。

そして「嘘つき!」と言おうものなら、「まだまだ子供よのう」「大人になりなさい」などと言われるかもしれません。でも、嘘つきを黙って見過ごすのが大人なのでしょうか。

そう思うと、トランプ氏が豹変したからといって、誰も責めることはできないと思うし、選挙運動中に主張していたことを本当にやるかどうかは分からないのではないでしょうか。我々は誰もトランプ氏のことをよく分かっていないのですから。

為政者が、政府が、自分のために何をしてくれるのか、を考えるのはもうやめました。とくに、東日本大震災以来、政治家の言うことは嘘や「冗談」ばかり。それを信じて右往左往した挙句、見捨てられるような扱いをされたくはないからです。そして、改めて、自分の頭で考えて行動しなければいけない、といつも思うようになりました。

福島とバトゥ、農業分野で連携へ

今年は、JICA案件で、何度も福島市とインドネシア・東ジャワ州のバトゥ市とを行き来しました。

そして、この案件での最後のインドネシア出張(10/30-11/5)で、福島市の銀嶺食品を中心に、バトゥ市と農業分野で連携していく方向性が明確になりました。

11/8付の福島民報が以下のリンクで報じています。

6次化福島モデル世界へ インドネシアに農業支援 銀嶺食品

なお、インドネシアのバトゥ市での面会は、複数の現地紙で報道されています。

Datang ke Kota Batu, Pejabat Jepang: Apel Batu Belum Seperti Apel Fukushima

(バトゥ市へ来た福島の高官:バトゥのリンゴはまだ福島のリンゴのようではない)10/31付 Surya Malang

Fukushima Kembangkan Apel Batu

(バトゥのリンゴを福島が発展させる)10/31付 Malang Post

Kota Fukushima-Kota Batu Jajagi Kerjasama Peningkatan Branding Buah Apel

(福島市とバトゥ市、リンゴのブランディングを高める協力を進める)10/31付 Malang Voice

いよいよ、これからです。

img_1883

バトゥ市長とともに。

帰国し、しばし静養中

10月30日〜11月5日、今年関わっているJICA案件最後のインドネシア出張を終えて、帰国しました。

今回は、福島市チームとともに、東ジャワ州バトゥ市とマラン市を訪問しました。福島市との間で、農業関係の今後のよい連携関係が生まれそうな確信を得ることができた、有意義な出張でした。

バトゥ市の水耕栽培用ジャガイモの育苗所にて

とくにバトゥ市では、市長表敬に留まらず、市の農業政策アドバイザーの大学教授から、極めて前向きの見解が示され、今後の展開を積極的に進めていこうという機運が強まっています。これらの内容については、いずれ、時期を見てお知らせしていきたいと思います。

9月27日〜10月22日のインドネシア出張に続いて、帰国後も報告書執筆に集中し、10月28日に名古屋で講演した後、今回の出張となりましたが、この間、私にしては珍しく、体調がすぐれない状況がずっと続いていました。

チーム内にはインドネシア語で仕事のできるメンバーが他にいないため、本業のサーベイ以外に、アポ取り、車両アレンジ、ホテル手配などのロジや、福島市を含む日本の地方自治体からのお客様のケアもしました。

自分では、それら自体を負担に感じたことはありませんでしたが、自分の体は嘘をつけなかったようです。

出張中に足、手、顔などに水泡を伴った吹き出物が出てしまいました。それが出ているところは、赤く火照って痛いのです。こんな状態になったのは、これまでで初めてだったので、すぐ治るだろうと放置しておいたら、どんどんひどくなっていきます。

頭痛も続きました。ときおり、ぼーっとして、何もやりたくない状態になり、とにかく眠くてしかたがない。そんな日が長く続きました。

自分では意識していませんでしたが、ストレスと過労だったのでしょうか。過労というほど、たいした量の仕事をしているとは思わなかったのですが。

帰国後、皮膚科で診てもらったら、ヘルペスという診断でした。まさか、という気がしましたが、専門医がいうのですから受け入れるしかありません。医師の指示に従い、点滴を受け、抗生物質を含む薬を処方してもらい、東京の自宅でしばらく静養することにしました。こんなことはこれまでで初めてのことです。

この数日間、ゆっくり寝て、休んでいる間に、症状は徐々に良くなってきました。頭痛もなくなってきました。今週中には復活できると思います。というか、報告書原稿の最終締切があるので、復活しなければなりません。

11月20日から一週間は、別件で、またインドネシア(ジョグジャカルタ)へ出張します。おそらく、今年最後のインドネシア出張になると思います。

体は嘘をつかない、ですね。自分の年齢のことも考えて、仕事と休養のコントラストをうまく作っていくこともこれからの課題だと改めて感じ入りました。

Business Trip to Batu (31 Oct – 1 Nov)

I visited Kota Batu again in 31 October – 1 November. This is the last visit this year to complete the cooperation and collaboration direction between Kota Batu and Fukushima City in agriculture sector.

A proposal was submitted from Fukushima to Batu and we discussed it together. Because the proposal was satisfied with needs from Kota Batu, generally we agreed.

Fukushima team was welcomed by Mayor of Kota Batu, too. Fukushima team appreciated very much on very warm acceptance and positive response from the mayor on the cooperation and collaboration direction.

We will start next step to long-term partnership between Kota Batu and Fukushima City.

img_1883

Fukushima Team with Mayor of Kota Batu

 

トウガラシの花、ジャガイモの花

インドネシア・東ロンボク県センバルン郡の野菜畑を歩きながら、出会ったのは野菜だけでなく、野菜の花たちでした。

トウガラシの花を初めて見ました。小さな白い花でした。

あまり目立たない、白い色の控えめな佇まいでした。質素な感じもします。

周りは、見渡す限りのトウガラシ畑。そういえば、トウガラシのことをロンボクともいうのです。ロンボク島はトウガラシの島、なのです。

続いて、ジャガイモの花。

あの不恰好な形のジャガイモからは想像もつかない、素敵な花でした。

このジャガイモ畑から獲れるジャガイモは、インドネシアの食品大手企業との契約栽培です。かつてはニンニクの第産地として名高かったセンバルン郡でしたが、政府によるニンニク輸入拡大政策の影響で、ニンニクから他作物への転作が必要になったとき、転作作物として、東ロンボク県政府が食品大手企業とのジャガイモの契約栽培の話を持ってきたそうです。

それにしても、こうした花が咲くからこそ、実がなるのだ、という当たり前のことに気づかされます。そう思うと、野菜の花の可憐さが愛おしく感じられます。

今週は、とにかく報告書原稿を仕上げなければなりません。そんな合間に、こんなブログも書いてみたくなります。

いったん帰国しました

10月23日朝、日本へいったん帰国しました。東京の自宅で家族で鍋を囲んで少しほっこりしました。

JICA案件のインドネシア出張は、まだ7日残っており、その出張が10月30日〜11月5日まであります。

今回の帰国は、日本からお連れする福島市チームの日程がどうしてもそこでないと難しいということで、こちらの日程を合わせた形です。福島市チームと東ジャワ州バトゥ市との農業分野での連携可能性を探る2回目の訪問をお世話します。

もっとも、今回のわずか1週間の帰国中、10月28日(金)午後、名古屋にて、愛知県立大学主催の「インドネシア現地経済事情講習会」で講演することにもなっています。講演会のお知らせは以下のページに出ていますので、ご希望の方はどうぞお申し込みください。

 インドネシア現地経済事情講習会

帰国中の残りの日々は、とくに予定が入らなければ、JICA案件での報告書の担当箇所の執筆に充てることになります。ちょっと書き過ぎてしまった和文原稿(A4で30枚ほど)を自分で英訳もしなければならず、これがけっこう面倒で四苦八苦しています。

4月から続いてきたJICA案件もあと1〜2カ月で終了となり、次の新たな展開へ向けて動いていくことになります。少なくとも、このJICA案件でお付き合いを始めた日本の地方自治体とインドネシアの地方政府とは、引き続き、様々な形で長くお付き合いを続けていくことになりそうな気配ですし、すでにそう覚悟を決めています。

とりあえず、(一時)帰国のご報告でした。

ロンボク島のスンギギビーチでみた夕陽。
右にうっすらとバリ島のアグン山を臨む。
(10月16日撮影)

インドネシア(9/28-10/23)から帰国

インドネシア出張前半戦(9/28-10/23)を終え、今朝帰国しました。今回も地方中心で、スマラン、東ロンボク、マラン、バトゥなどで仕事をしました。今週は、10/28に名古屋で講演した後、インドネシア出張後半戦(10/30-11/5)ですので、一時帰国の気分です。

 

センバルンの夜は寒かった

東ロンボク県のセンバルンは、このブログでも取り上げたように、標高1000メートル以上の高原に立地しています。高原野菜の産地で、あらゆる野菜が栽培されています。

とくに盛んなのは、トウガラシ、ジャガイモ、シャロット(赤ワケギ)、ニンニク、キャベツ、レタス、ナス、トマト、ブロッコリー、スイートコーンなどの野菜。イチゴ、メロン、オレンジなどの果物。

メロンとスイートコーンは、BSDのイオンモールで売られていますので、きっと見たことのある方も多いことでしょう。センバルン産とはどこにも書いてありませんけれども。

センバルンは、リンジャニ山への登山口でもあり、土日ともなると、登山の観光客などで賑わいます。観光客が帰る前に、畑へ行くと、実は、そこで野菜や果物を直接買うことができるのです(土日のみ)。

畑への入場料として15,000ルピアを払い、好きなだけ摘み取って、キロ当たりいくらで買うことができます。観光農園ではないのですが、フツーの畑でそれをやっています。

センバルンの農地は火山灰土で水はけが良く、土中に病原菌がないというニュージーランドの専門家の調査があるようです。ジャガイモもニンニクも、インドネシア各地で病気にやられていたときに、センバルンでは病気が発生しなかったということです。

ジャガイモの大半は大手食品メーカーのインドフードと契約栽培していますが、インドフードはこの病気フリーのジャガイモというところに目をつけたものと思われます。

畑地では、次々に栽培する作物を変えながら連作障害を避ける工夫をしています。

もっとも、有機栽培というわけではなく、化学肥料をけっこう使用していました。かつては肥料も農薬も使わなかった、ということなのですが。

それはそうと、今回は、初めてセンバルンに泊まりました。センバルンには、何軒か宿泊できる宿があり、意外に清潔で新しいところがあります。私が泊まったのは、Pesona Rinjaniという宿で、コテージで1泊50万ルピアでした。

宿の前には広い敷地があり、コテージがいっぱいになると、そこにテントを張ってお客さんに泊まってもらうこともあるのだそうです。

宿の目の前には、リンジャニ山がドーンとそびえていて、雄大な眺めです。

しかし、センバルンの夜を侮っていました。夜の気温は、おそらく10度前後まで下がり、部屋にある毛布1枚ではとても寒い。長袖のウィンドブレーカーを着ていても、夜風が冷たく、寒くて仕方ありませんでした。

お連れした兵庫県の方々も、「まさかロンボクでクーラーなしでもこんな寒い経験をするとは思わなかった」と言っておられました(怒っていたわけではないので助かりましたが・・・)。

そして、朝8時過ぎになると、急速に気温が上がり、汗ばんできます。この昼夜の気温の差がまた野菜栽培に適しているのかもしれません。

インドネシアで涼を求める方には、センバルンでの宿泊をお勧めします。ただし、寝袋や温かいオーバーなどを忘れずに。

疲労困憊の日々

10月13〜17日は、兵庫県職員の方2名を東ロンボク県へお連れしていました。この2名がとても素晴らしい方々で、東ロンボク県では大変よい経験とアドバイスをされました。

内容については省きますが、東ロンボク県の方々も大変嬉しく感じ、とてもよい交流のひとときになったと思います。兵庫県にとっても、東ロンボク県にとっても、いい形で末長く交流が続くことを祈っています。

さて、今回の出張は体調が思わしくなく、風邪気味だったのに加えて、鼻と喉がやられてしまい、お客様のアテンドをしたこともあって、毎日のように疲れを感じてしまいました。しんどいのですが、歳のせいだとは思いたくありません。

そんなわけで、ブログの更新もなかなかできず、日記の体裁を取れずに来ましたが、そろそろ本来の日記に戻したいと思います。これまでの出張中の出来事や雑多なことをまた書いていこうと思います。よろしくお付き合いください。

仕事のほうは、いよいよ大詰めに近くなり、報告書の担当箇所の執筆締め切りが迫ってきました。和文に加えて英訳もしなくてはならず、和文部分をかなり長く書いてしまったことを後悔しています。

とはいえ、やらなければならない、ということで、ジャカルタの「アジト」を離れ、今晩からホテルに4泊し、おこもりすることにしました。22日の昼までジャカルタの某ホテルにこもって、少しでも原稿を書くことにします。

でも、とりあえず、今日はここで寝ます。原稿の合間に、ちょこちょこと「日記」を書ければと思っています。おやすみなさい。

このホテルのインターネット、建物が古いせいか、ちょっと遅いなあ。

バトゥでカンビンづくし

先週、仕事で行った東ジャワ州バトゥ市は、標高1000メートル弱の高原都市。富士山と同じ、コニーデ型の山々が見える、風光明媚な涼しい街です。

バトゥは、東ジャワ州随一の観光都市でもあるのですが、話によると、インドネシア国内の年間訪問観光客数でジョグジャカルタを抜いて、バリに続く第2位の地位を獲得したのだとか。しかも、そのほとんどは国内観光客、所得上昇によるインドネシア国内の観光ブームが続いていることがうかがえます。

それでも、東南アジアでは珍しいりんご狩りができるとあって、マレーシアや台湾などからの観光客がバスを連ねて観光農園へりんご狩りに来る様子もよく見られるようになりました。

仕事では、高原野菜や優良果物の大産地でもあるバトゥから、インドネシアの農業の未来を作れないか、と密かに思っているところですが、その話はとりあえず置いておいて・・・。

カンビンです。

カンビンとは、インドネシア語で山羊のこと。高原都市バトゥの夜は涼しく、気温20度以下になることもよくあります。そんなとき、体を温めてくれるのがカンビンです。

たまたま、9月に日本へ研修に行ったときに一緒だった方々とバトゥで再会し、夜、みんなでカンビンを食べに行きました。行く先は、メシール食堂(Rumah Makan Mesir)。メシールとはインドネシア語でエジプトのことです。

さっそく頼んだのが、サテ・カンビン。山羊肉の串焼きですが、東ジャワや中ジャワのさて・カンビンは、子ヤギの肉を使うので、ジャカルタで食べる硬いサテ・カンビンとは違って、柔らかいのです。

この店では、ピーナッツソースで出てきましたが、個人的には、ケチャップ・マニス(甘くてドロッとした黒豆由来のソース)と赤わけぎ+ジュルック、のほうが好みです。

サテ・カンビンに引き続いて、グライ・カンビン。ジャワ風の山羊カレー、といった趣ですが、ココナッツミルクのたっぷり入ったトンセン・カンビンよりはあっさり系です。

インドネシアと関わりだした駆け出しの頃、といえば今から30年近く前ですが、ジャカルタでよく、カンビンづくしをしていました。当時、サテ・カンビンを10串とソプ・カキ・カンビン(山羊の脚肉・臓物のスープ)という、見るからにコレステロール満載、健康に悪いよね、という見本のような食事をしました。その結果もあって、長年にわたり、高脂血とお友達状態が続いてしまっています。

さすがに、30年経った今となっては、そんな食べ方はできないのですが、それでも、バトゥの夜には、サテ・カンビンを7串も食べてしまいました。まだけっこういける?と浅はかにも思ってしまうのですが。

今回の出張前半は、体調がすぐれず、調子が良くなかったのですが、ここに来て、体調は回復し、いつもの元気が戻ってきました。カンビンのおかげもあるに違いない、と勝手に思っています。

いつもそうやって、自分はこれまで、インドネシアの食べ物に支えられてきたような気がします。

今年2回目のセンバルン訪問

リンジャニ山の東側に広がるセンバルン地区。今回は2回目の訪問でした。

標高1000メートル以上の高原地帯で、涼しい気候を利用した高原野菜・果樹栽培が盛んです。肥沃な火山灰土のおかげで、ほとんどの種類の野菜を作ることができ、しかも、病気フリー。それに目をつけたインドフードなどの大企業が契約栽培を手広く行っています。

ここで栽培されたメロンは、ジャカルタ近郊のイオンモールでも販売されているとか。甘い、です。

酸っぱくないイチゴ、甘さはイマイチですが。アメリカ原産の苗で栽培。

センバルンは、リンジャニ山へ登る登山者たちの中継地点でもあり、土日ともなると、登山を終えた人々が帰る前に畑に寄って、直接、野菜や果物を買う光景も見られるといいます。そうした畑では、入場料1万ルピアを払ってもらい、自分で摘んでキロ単位いくらで購入し、お土産にするのだそうです。

センバルンで宿泊できるゲストハウスのようなところがいくつかあります。設備の面からはホテル並みとは言えませんし、Wifiがあるわけでもないのですが、意外にとt乗っている印象でした。最近できた小ホテルの部屋はこんな感じです。

まだまだ設備は貧弱ですが、あと10年もすると、ゲストハウスがたくさん道沿いに現れていくのでしょうか。

東ロンボク県の県都セロンからセンバルンへ向かう途中に、ロンボク植物園の看板があります。この植物園は国立ではなく、東ロンボク県政府が音頭をとって、小スンダ列島の植生を研究するセンターとして育てたい意向です。開業は2017年です。

スマランの「古い町」

9月29日からスマランに来ています。今回のJICA案件においては役割分担があり、私はスマランの担当ではないにもかかわらず、なぜか同行させられています。

仕事の話は置いておいて、改めてスマラン市内のコタ・ラマ(古い町)を訪れたら、前回来た3年前よりもずいぶんときれいになっていて、ちょっとびっくりしました。

まずは、現代アート美術館。2階建ての家をリノベして、白を基調とした素敵なアート向けの空間が作られていました。

近くには、古い建物を利用したカフェもありました。カフェ・シュピーゲルという名前の素敵なカフェです。でもその横をたくさんの車が通り過ぎていきます。

カフェから少し歩いたところには、古いプロテスタント教会があります。丸みを帯びた屋根が特徴的です。この教会、パイプオルガンも設置されていました。

このパイプオルガンですが、実は使われていません。老朽化したからではなく、戦後すぐから鍵盤がなくなっているためです。

古い建物の間にある公園では、若者たちがセルフィーに夢中でした。

コタ・ラマといえば、この店。

若山羊の串焼き(Sate Kambing Muda)で有名な29番。今回は、ここで食べずに、ルンピア屋へ行ってしまいました。

またまたインドネシアへ

今年何回めのインドネシア出張になるのでしょうか。9月27日から、またまたインドネシアへ出張します。

今回は、10月23日にいったん帰国し、28日に名古屋で講演した後、30日から11月5日まで再びインドネシアへ行きます。

今年はこれでインドネシア出張は打ち止め、と思っていましたが、11月の後半に1週間程度、ジョグジャカルタへ出張することになりそうです。

今年は当初、次のステップへ向けてじっくりと日本で会社設立しようと思っていたのですが、3月からJICA案件に関わり、それが11月まで続き、思ったよりも自分が関わらざるをえない部分が大きかったので、じっくりと言うわけにはいかなくなってしまいました。

でも、そのJICA案件は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府を農業・畜産業分野で連携させることは可能かどうかを実際に調査する内容。国境を越えて、ローカルとローカルを結びつけて新しい何かを起こす、を今後の仕事の使命と考えている自分にとっては、願ってもない内容の案件でしたので、関わることにしたのでした。

案件自体の中身やプロセスの是非はともかくとして、自分にとっては良い機会になったと思います。5年以上前から、ローカルとローカルをつなげて新しい何かを起こすことを考えてきたのですが、それが果たして、今後の世界にとって有用なことなのか。

砂糖の山に群がるアリのように、美味しいところに入って行って他の人のようにやった方が楽だったのではないか。そんなことを思いながら、これがコンサルタント・ビジネスとして成り立つのだろうか、という疑問を抱き続けてきました。

そして今、少しずつ、それが確信に変わり始めています。

砂糖の山でいっぱいの国や中央ではなく、なぜローカルなのか。そしてなぜ、自分はいったん知り合いとなって触れ合ったローカルと一生付き合う覚悟をするに至ったのか。

そう、自分の顧客となったローカルとは、先方から「もういいです」とお引き取り願われた場合を除いて、プロフェッショナルとして、一生ずっとお付き合いをしていく覚悟を決めました。ローカルの味方として生きていく覚悟を決めました。

よろしくお願いいたします。

では、またインドネシアへ行ってきます。

(上写真)本邦招へいプログラムを終えた、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市農林業局長、マラン市農業局アグリビジネス部長とインドネシア料理レストラン「チャベ」で会食。バトゥ市、マラン市と福島市とを結んで、新しい何かを生み出す中長期的な連携を関係者とともに構想中です。今回の出張中に、バトゥ市とマラン市で彼らと協議を進めていきます。

便利屋にはならない、とちょっと愚痴る

この1週間、雨模様の日が続いたこともありますが、ちょっと不快なことがいくつかあって、悶々としていました。まあ、そんなこともあるものです。

このところ、JICA案件でのインドネシアの皆さんの招聘などに関連して、日本語からインドネシア語に訳された資料の翻訳チェックをするという仕事がありました。それも、招聘プログラムが始まる前、プレゼン資料8本(1資料には15本前後のスライド)のインドネシア語訳をチェックする、それも超特急の2日間で、といった話です。

資料が全部テキスト形式なら楽なのですが、地方自治体のプレゼン資料なので、画像形式が満載。グラフィックや図表も画像だったりすると、そこにある日本語の一つ一つに、テキストボックスを貼り付けていく作業を延々行うことになります。

テキストボックス内はあらかじめ地の色に合った色で塗りつつ、下の日本語文字が見えないように隠さなければなりません。地方自治体のプレゼン資料は字が細かく、プレゼン資料なのに平気で4ポイントとか5ポイントとかいう小さい文字が画像として貼り付けられていたりします。

これらを根気よく進める作業をわずか2日で終わらせるのは、けっこうしんどいです。しかも、今回のは、訳が誤っているものがあり、全部翻訳し直しというのも含まれていました。2日間、朝から夜中まで集中して、何とか締め切りまでに間に合わせられましたが、疲労困憊、ヘトヘトで食事もとらずに眠ってしまいました。

でも、依頼主は、どんなに面倒で骨の折れる作業かは分からないことでしょう。だって、自分でやったことのない人には分からないものだからです。今回のも、下手をすると、タダ働きになるところでした。皆さんだったら、このような手の込んだ作業に報酬をいくら払いますか。

問題は、それを約束通り、期限を守ってやってしまったこと。「ほう、できるじゃないか」ということになって、もっと厳しい条件で仕事が降ってくる可能性もありえます。

誰でもはできない仕事の多くが、誰でもできる仕事と同じように扱われているのではないか、そんな気がします。

この仕事が終わった後、JICA案件とは別の仕事で、同じようにプレゼン資料の日本語からインドネシア語への翻訳を依頼されました。これもやはり、画像形式の部分がかなりあり、細かなテキストボックス貼りを続けました。

報酬を受け取る段になって、突然、別のプレゼン資料の翻訳が追加されました。そして、私がやるかどうかの返事をする前に、この別の追加分も含んだ報酬が一方的に銀行口座へ振り込まれてしまいました。こうなると、「やらない」とは言わせない、と強制された気分になり、依頼主に強く抗議しました。

「こんなやり方でビジネスをしているのか」と問いただすと、今回が初めてだと言います。本当かなあ。「このぐらいなら嫌とは言わないだろう」と、私のことを甘く見ていたに違いありません。この依頼主には、これまで色々と親切にしてきたのですが、それが甘く見られる要因になったのだと思います。

結局、この追加分も仕上げて納品しましたが、この依頼主との関係は今後、再検討しなければならないと思うに至りました。

インドネシアに関する情報が欲しい、といってくる人はいますが、その多くがタダで情報を取ろうとしてきます。そうした方の多くはタダで情報をもらえてラッキー、と思っていることでしょう。経費節約の折り、そのようなやり方を奨励する企業も少なくないかもしれません。

通訳や翻訳などの作業に対してもそうです。通訳や翻訳をどこか一段下に見ている、そんな印象を受けることもあります。何というか、相手に対する尊敬の気持ちを持っているようには見受けられないのです。

通訳や翻訳については、原則として私は請け負いません。なぜならば、専門の通訳者や翻訳者がおり、彼らがプロフェショナルとしてやるべき仕事だからです。私自身、通訳や翻訳の技術を学んだことはなく、彼らの領分に分け入るつもりはありません。

しかし、前述のように、2日間で膨大な量の作業をどうしても済ませなければならない、予算の都合で外部にはどうしても頼めない、といったのっぴきならない諸事情があれば、引き受けざるをえないと感じます。それでも、依頼主から感謝の気持ちを受けることは稀です。

一人のプロフェショナルとして活動している以上、便利屋にはなりません。こちらが親切にしているのをいいことに、タダで情報が取れてラッキー、ささっと作業終わらせてくれてラッキー、と軽く思うような方々とは、仕事を一緒にするつもりもありません。こうやって、少しずつ、自分がすべき仕事、自分でなければできない仕事の比重を高め、仕事と成果の価値を高めていきたいと思うのでした。

愚痴ってしまいました。ふー。

それにしても、福島市の老舗・喜多屋さんのそばはずっと昔から美味しい!(本文とは何の関係もありません。悪しからず)

ジャカルタお掃除クラブの5年間

発展途上国の多くの都市が直面する最大の問題の一つがゴミ問題です。インドネシアもその例外ではありません。

首都ジャカルタの大きな目抜き通りは街路樹の緑に溢れ、色とりどりの花が咲き乱れています。広めの歩道も完備した大通りを通りながら、「インドネシアも発展したなあ」と感じた方々も多いことと思います。

でも、外国人があまり通らない裏通りに入った途端、様相は変わります。下水道の普及率が数%というインドネシアの大都市で、平気で川や側溝にゴミを捨てている人を見かけます。高級車の窓から道の真ん中に堂々とゴミを捨てる人を見たこともあります。

そんな姿を見ながら、一つの仮説を思いつきました。インドネシアと日本では、公園や道路のような「公共の場所」についての認識が違うのではないか、と思ったのです。

日本での「公共の場所」とは、みんなの場所。一方、インドネシアでの「公共の場所」とは、誰のものでもない場所。

みんなの場所だから、次に使う人のことを考えてきれいにするのでしょう。でも、誰のものでもない場所なら、きれいにしようと思うでしょうか。ゴミはそういうところへ捨てられるのではないでしょうか。

実際、インドネシアの低所得層の方々の住むところを訪れると、家の中や周りはみんなきれいにしています。でも、その集落の入口や他の集落との境、あるいは目の届かない隠れた場所は、ゴミでいっぱいです。

誰でも、自分のいるところ(自分のものであるところ)はきれいにしておきたいので、誰のものでもないところ(政府所有のものも含む)へゴミを捨てるように思うのです。

目に見えないところ、みんなのものとは見なさないところだったら、きっと日本でも、分からないようにゴミを捨てるのではないでしょうか。

そして、日本でもインドネシアでも、誰も見ていないときにゴミを捨てるのです。インドネシアでよく見るのは、誰も見ていないと思った人がポロリと路上へ、タバコの吸い殻などのゴミを(捨てるではなく)落とす光景です。たまたま、私がそれを見ていて、落ちたものを「落ちましたよ」と言って拾ってあげると、すごくバツが悪そうです。

みんなの場所の指す範囲や数が日本では広く、インドネシアでは狭いのかもしれません。

また、インドネシアのあるイベントでゴミを拾っていたら、「拾うな」と言われました。ゴミ拾いを職業としている人がいるので彼らの仕事を奪うな、というのです。そういう考え方の人は、きっと大多数なのだと思います。

++++++++++

このようななかで、ジャカルタをきれいにしたいと思う人々が始めた「ジャカルタお掃除クラブ」の活動が、様々な紆余曲折を経て、5年目を迎えました。

「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」セミナー」
(2015年1月28日)に登場したジャカルタお掃除クラブの面々

人口1000万人の大都市のゴミ問題とゴミに対する人々の認識を考えると、彼らの活動が意味を持つのか、という疑問が湧くのもうなずけてしまいます。日本関連のイベントなどで活動すると、他人のゴミを拾ってくれる清掃員と捉える人が多くいたようです。

でも、5年の間に、いろいろな変化が起こり始めました。まず、日本人だけで始めた活動が今ではインドネシア人が中心の活動へ変わり、参加者も徐々に増えてきています。ジャカルタだけだったのが、スラバヤ、メダン、バニュワンギなどの他都市へ広がり始めました。そして、別の名前のグループが、同様の活動を始めました。

形だけかもしれませんが、可燃ゴミと不燃ゴミとを分けたゴミ箱がジャカルタなどで一般的に見られるようになりました。「ゴミ箱はどこにあるのか」と聞かれることが多くなりました。地方都市などでは、地方政府がリサイクル・ゴミを収集して業者へ売るゴミ銀行の運営にかかわり、住民に「ゴミはお金になる」という意識を植えつけ始めました。

インドネシア第2の都市スラバヤは、ジャカルタとは違ってきれいな街、という評判があります。たしかに街を歩くとそう感じます。でも、それは、今のリスマ市長が環境美化局長だったときから予算を十分にとり、朝も夜も、頻繁に市政府が人員を配して清掃活動を行なっているからなのです。市民のゴミに対する意識が他よりも進んでいるからではないのが残念です。先はまだ長いと言わざるをえません。

ジャカルタお掃除クラブの活動は、市民の意識改革を目指しています。設立者である芦田氏は大事な友人ですが、彼の活動にエールを送りつつ、お掃除クラブが必要でない世の中になることがお掃除クラブの最終目標だよね、とずっと言い続けてきました。

5年経って、意識改革へ向けたその活動は、根っこをしっかり生やし始めたのだと感じています。そして、彼らの真摯な活動から、日本の我々自身が学ぶことも大きいのではないかと確信します。

ジャカルタお掃除クラブが日本を視察した際の活動を振り返るビデオ(インドネシア語版)が完成しました。以下のフェイスブックのサイトで予告編を見ることができます。

 予告編

なお、日本語版全編をご覧になりたい方は、芦田氏(ts_ashida@yahoo.co.jp)までご連絡ください。DVDを無料でお送りするそうです(インドネシア国内のみかどうか、ご本人にご確認ください)。

Schedule in September to November 2016

My schedule in September, October, and November 2016 has been revised. Please see http://matsui-glocal.com/events/ . I will be in Indonesia next time from September 27 to October 23, and from October 30 to November 5.
9〜11月のスケジュールを更新しました。http://matsui-glocal.com/events/ をご覧ください。次のインドネシア出張は、9/27-10/23 及び 10/30-11/5 の予定です。
1 44 45 46 47 48 75