いったん帰国しました

10月23日朝、日本へいったん帰国しました。東京の自宅で家族で鍋を囲んで少しほっこりしました。

JICA案件のインドネシア出張は、まだ7日残っており、その出張が10月30日〜11月5日まであります。

今回の帰国は、日本からお連れする福島市チームの日程がどうしてもそこでないと難しいということで、こちらの日程を合わせた形です。福島市チームと東ジャワ州バトゥ市との農業分野での連携可能性を探る2回目の訪問をお世話します。

もっとも、今回のわずか1週間の帰国中、10月28日(金)午後、名古屋にて、愛知県立大学主催の「インドネシア現地経済事情講習会」で講演することにもなっています。講演会のお知らせは以下のページに出ていますので、ご希望の方はどうぞお申し込みください。

 インドネシア現地経済事情講習会

帰国中の残りの日々は、とくに予定が入らなければ、JICA案件での報告書の担当箇所の執筆に充てることになります。ちょっと書き過ぎてしまった和文原稿(A4で30枚ほど)を自分で英訳もしなければならず、これがけっこう面倒で四苦八苦しています。

4月から続いてきたJICA案件もあと1〜2カ月で終了となり、次の新たな展開へ向けて動いていくことになります。少なくとも、このJICA案件でお付き合いを始めた日本の地方自治体とインドネシアの地方政府とは、引き続き、様々な形で長くお付き合いを続けていくことになりそうな気配ですし、すでにそう覚悟を決めています。

とりあえず、(一時)帰国のご報告でした。

ロンボク島のスンギギビーチでみた夕陽。
右にうっすらとバリ島のアグン山を臨む。
(10月16日撮影)

センバルンの夜は寒かった

東ロンボク県のセンバルンは、このブログでも取り上げたように、標高1000メートル以上の高原に立地しています。高原野菜の産地で、あらゆる野菜が栽培されています。

とくに盛んなのは、トウガラシ、ジャガイモ、シャロット(赤ワケギ)、ニンニク、キャベツ、レタス、ナス、トマト、ブロッコリー、スイートコーンなどの野菜。イチゴ、メロン、オレンジなどの果物。

メロンとスイートコーンは、BSDのイオンモールで売られていますので、きっと見たことのある方も多いことでしょう。センバルン産とはどこにも書いてありませんけれども。

センバルンは、リンジャニ山への登山口でもあり、土日ともなると、登山の観光客などで賑わいます。観光客が帰る前に、畑へ行くと、実は、そこで野菜や果物を直接買うことができるのです(土日のみ)。

畑への入場料として15,000ルピアを払い、好きなだけ摘み取って、キロ当たりいくらで買うことができます。観光農園ではないのですが、フツーの畑でそれをやっています。

センバルンの農地は火山灰土で水はけが良く、土中に病原菌がないというニュージーランドの専門家の調査があるようです。ジャガイモもニンニクも、インドネシア各地で病気にやられていたときに、センバルンでは病気が発生しなかったということです。

ジャガイモの大半は大手食品メーカーのインドフードと契約栽培していますが、インドフードはこの病気フリーのジャガイモというところに目をつけたものと思われます。

畑地では、次々に栽培する作物を変えながら連作障害を避ける工夫をしています。

もっとも、有機栽培というわけではなく、化学肥料をけっこう使用していました。かつては肥料も農薬も使わなかった、ということなのですが。

それはそうと、今回は、初めてセンバルンに泊まりました。センバルンには、何軒か宿泊できる宿があり、意外に清潔で新しいところがあります。私が泊まったのは、Pesona Rinjaniという宿で、コテージで1泊50万ルピアでした。

宿の前には広い敷地があり、コテージがいっぱいになると、そこにテントを張ってお客さんに泊まってもらうこともあるのだそうです。

宿の目の前には、リンジャニ山がドーンとそびえていて、雄大な眺めです。

しかし、センバルンの夜を侮っていました。夜の気温は、おそらく10度前後まで下がり、部屋にある毛布1枚ではとても寒い。長袖のウィンドブレーカーを着ていても、夜風が冷たく、寒くて仕方ありませんでした。

お連れした兵庫県の方々も、「まさかロンボクでクーラーなしでもこんな寒い経験をするとは思わなかった」と言っておられました(怒っていたわけではないので助かりましたが・・・)。

そして、朝8時過ぎになると、急速に気温が上がり、汗ばんできます。この昼夜の気温の差がまた野菜栽培に適しているのかもしれません。

インドネシアで涼を求める方には、センバルンでの宿泊をお勧めします。ただし、寝袋や温かいオーバーなどを忘れずに。

疲労困憊の日々

10月13〜17日は、兵庫県職員の方2名を東ロンボク県へお連れしていました。この2名がとても素晴らしい方々で、東ロンボク県では大変よい経験とアドバイスをされました。

内容については省きますが、東ロンボク県の方々も大変嬉しく感じ、とてもよい交流のひとときになったと思います。兵庫県にとっても、東ロンボク県にとっても、いい形で末長く交流が続くことを祈っています。

さて、今回の出張は体調が思わしくなく、風邪気味だったのに加えて、鼻と喉がやられてしまい、お客様のアテンドをしたこともあって、毎日のように疲れを感じてしまいました。しんどいのですが、歳のせいだとは思いたくありません。

そんなわけで、ブログの更新もなかなかできず、日記の体裁を取れずに来ましたが、そろそろ本来の日記に戻したいと思います。これまでの出張中の出来事や雑多なことをまた書いていこうと思います。よろしくお付き合いください。

仕事のほうは、いよいよ大詰めに近くなり、報告書の担当箇所の執筆締め切りが迫ってきました。和文に加えて英訳もしなくてはならず、和文部分をかなり長く書いてしまったことを後悔しています。

とはいえ、やらなければならない、ということで、ジャカルタの「アジト」を離れ、今晩からホテルに4泊し、おこもりすることにしました。22日の昼までジャカルタの某ホテルにこもって、少しでも原稿を書くことにします。

でも、とりあえず、今日はここで寝ます。原稿の合間に、ちょこちょこと「日記」を書ければと思っています。おやすみなさい。

このホテルのインターネット、建物が古いせいか、ちょっと遅いなあ。

バトゥでカンビンづくし

先週、仕事で行った東ジャワ州バトゥ市は、標高1000メートル弱の高原都市。富士山と同じ、コニーデ型の山々が見える、風光明媚な涼しい街です。

バトゥは、東ジャワ州随一の観光都市でもあるのですが、話によると、インドネシア国内の年間訪問観光客数でジョグジャカルタを抜いて、バリに続く第2位の地位を獲得したのだとか。しかも、そのほとんどは国内観光客、所得上昇によるインドネシア国内の観光ブームが続いていることがうかがえます。

それでも、東南アジアでは珍しいりんご狩りができるとあって、マレーシアや台湾などからの観光客がバスを連ねて観光農園へりんご狩りに来る様子もよく見られるようになりました。

仕事では、高原野菜や優良果物の大産地でもあるバトゥから、インドネシアの農業の未来を作れないか、と密かに思っているところですが、その話はとりあえず置いておいて・・・。

カンビンです。

カンビンとは、インドネシア語で山羊のこと。高原都市バトゥの夜は涼しく、気温20度以下になることもよくあります。そんなとき、体を温めてくれるのがカンビンです。

たまたま、9月に日本へ研修に行ったときに一緒だった方々とバトゥで再会し、夜、みんなでカンビンを食べに行きました。行く先は、メシール食堂(Rumah Makan Mesir)。メシールとはインドネシア語でエジプトのことです。

さっそく頼んだのが、サテ・カンビン。山羊肉の串焼きですが、東ジャワや中ジャワのさて・カンビンは、子ヤギの肉を使うので、ジャカルタで食べる硬いサテ・カンビンとは違って、柔らかいのです。

この店では、ピーナッツソースで出てきましたが、個人的には、ケチャップ・マニス(甘くてドロッとした黒豆由来のソース)と赤わけぎ+ジュルック、のほうが好みです。

サテ・カンビンに引き続いて、グライ・カンビン。ジャワ風の山羊カレー、といった趣ですが、ココナッツミルクのたっぷり入ったトンセン・カンビンよりはあっさり系です。

インドネシアと関わりだした駆け出しの頃、といえば今から30年近く前ですが、ジャカルタでよく、カンビンづくしをしていました。当時、サテ・カンビンを10串とソプ・カキ・カンビン(山羊の脚肉・臓物のスープ)という、見るからにコレステロール満載、健康に悪いよね、という見本のような食事をしました。その結果もあって、長年にわたり、高脂血とお友達状態が続いてしまっています。

さすがに、30年経った今となっては、そんな食べ方はできないのですが、それでも、バトゥの夜には、サテ・カンビンを7串も食べてしまいました。まだけっこういける?と浅はかにも思ってしまうのですが。

今回の出張前半は、体調がすぐれず、調子が良くなかったのですが、ここに来て、体調は回復し、いつもの元気が戻ってきました。カンビンのおかげもあるに違いない、と勝手に思っています。

いつもそうやって、自分はこれまで、インドネシアの食べ物に支えられてきたような気がします。

今年2回目のセンバルン訪問

リンジャニ山の東側に広がるセンバルン地区。今回は2回目の訪問でした。

標高1000メートル以上の高原地帯で、涼しい気候を利用した高原野菜・果樹栽培が盛んです。肥沃な火山灰土のおかげで、ほとんどの種類の野菜を作ることができ、しかも、病気フリー。それに目をつけたインドフードなどの大企業が契約栽培を手広く行っています。

ここで栽培されたメロンは、ジャカルタ近郊のイオンモールでも販売されているとか。甘い、です。

酸っぱくないイチゴ、甘さはイマイチですが。アメリカ原産の苗で栽培。

センバルンは、リンジャニ山へ登る登山者たちの中継地点でもあり、土日ともなると、登山を終えた人々が帰る前に畑に寄って、直接、野菜や果物を買う光景も見られるといいます。そうした畑では、入場料1万ルピアを払ってもらい、自分で摘んでキロ単位いくらで購入し、お土産にするのだそうです。

センバルンで宿泊できるゲストハウスのようなところがいくつかあります。設備の面からはホテル並みとは言えませんし、Wifiがあるわけでもないのですが、意外にとt乗っている印象でした。最近できた小ホテルの部屋はこんな感じです。

まだまだ設備は貧弱ですが、あと10年もすると、ゲストハウスがたくさん道沿いに現れていくのでしょうか。

東ロンボク県の県都セロンからセンバルンへ向かう途中に、ロンボク植物園の看板があります。この植物園は国立ではなく、東ロンボク県政府が音頭をとって、小スンダ列島の植生を研究するセンターとして育てたい意向です。開業は2017年です。

スマランの「古い町」

9月29日からスマランに来ています。今回のJICA案件においては役割分担があり、私はスマランの担当ではないにもかかわらず、なぜか同行させられています。

仕事の話は置いておいて、改めてスマラン市内のコタ・ラマ(古い町)を訪れたら、前回来た3年前よりもずいぶんときれいになっていて、ちょっとびっくりしました。

まずは、現代アート美術館。2階建ての家をリノベして、白を基調とした素敵なアート向けの空間が作られていました。

近くには、古い建物を利用したカフェもありました。カフェ・シュピーゲルという名前の素敵なカフェです。でもその横をたくさんの車が通り過ぎていきます。

カフェから少し歩いたところには、古いプロテスタント教会があります。丸みを帯びた屋根が特徴的です。この教会、パイプオルガンも設置されていました。

このパイプオルガンですが、実は使われていません。老朽化したからではなく、戦後すぐから鍵盤がなくなっているためです。

古い建物の間にある公園では、若者たちがセルフィーに夢中でした。

コタ・ラマといえば、この店。

若山羊の串焼き(Sate Kambing Muda)で有名な29番。今回は、ここで食べずに、ルンピア屋へ行ってしまいました。

またまたインドネシアへ

今年何回めのインドネシア出張になるのでしょうか。9月27日から、またまたインドネシアへ出張します。

今回は、10月23日にいったん帰国し、28日に名古屋で講演した後、30日から11月5日まで再びインドネシアへ行きます。

今年はこれでインドネシア出張は打ち止め、と思っていましたが、11月の後半に1週間程度、ジョグジャカルタへ出張することになりそうです。

今年は当初、次のステップへ向けてじっくりと日本で会社設立しようと思っていたのですが、3月からJICA案件に関わり、それが11月まで続き、思ったよりも自分が関わらざるをえない部分が大きかったので、じっくりと言うわけにはいかなくなってしまいました。

でも、そのJICA案件は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府を農業・畜産業分野で連携させることは可能かどうかを実際に調査する内容。国境を越えて、ローカルとローカルを結びつけて新しい何かを起こす、を今後の仕事の使命と考えている自分にとっては、願ってもない内容の案件でしたので、関わることにしたのでした。

案件自体の中身やプロセスの是非はともかくとして、自分にとっては良い機会になったと思います。5年以上前から、ローカルとローカルをつなげて新しい何かを起こすことを考えてきたのですが、それが果たして、今後の世界にとって有用なことなのか。

砂糖の山に群がるアリのように、美味しいところに入って行って他の人のようにやった方が楽だったのではないか。そんなことを思いながら、これがコンサルタント・ビジネスとして成り立つのだろうか、という疑問を抱き続けてきました。

そして今、少しずつ、それが確信に変わり始めています。

砂糖の山でいっぱいの国や中央ではなく、なぜローカルなのか。そしてなぜ、自分はいったん知り合いとなって触れ合ったローカルと一生付き合う覚悟をするに至ったのか。

そう、自分の顧客となったローカルとは、先方から「もういいです」とお引き取り願われた場合を除いて、プロフェッショナルとして、一生ずっとお付き合いをしていく覚悟を決めました。ローカルの味方として生きていく覚悟を決めました。

よろしくお願いいたします。

では、またインドネシアへ行ってきます。

(上写真)本邦招へいプログラムを終えた、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市農林業局長、マラン市農業局アグリビジネス部長とインドネシア料理レストラン「チャベ」で会食。バトゥ市、マラン市と福島市とを結んで、新しい何かを生み出す中長期的な連携を関係者とともに構想中です。今回の出張中に、バトゥ市とマラン市で彼らと協議を進めていきます。

便利屋にはならない、とちょっと愚痴る

この1週間、雨模様の日が続いたこともありますが、ちょっと不快なことがいくつかあって、悶々としていました。まあ、そんなこともあるものです。

このところ、JICA案件でのインドネシアの皆さんの招聘などに関連して、日本語からインドネシア語に訳された資料の翻訳チェックをするという仕事がありました。それも、招聘プログラムが始まる前、プレゼン資料8本(1資料には15本前後のスライド)のインドネシア語訳をチェックする、それも超特急の2日間で、といった話です。

資料が全部テキスト形式なら楽なのですが、地方自治体のプレゼン資料なので、画像形式が満載。グラフィックや図表も画像だったりすると、そこにある日本語の一つ一つに、テキストボックスを貼り付けていく作業を延々行うことになります。

テキストボックス内はあらかじめ地の色に合った色で塗りつつ、下の日本語文字が見えないように隠さなければなりません。地方自治体のプレゼン資料は字が細かく、プレゼン資料なのに平気で4ポイントとか5ポイントとかいう小さい文字が画像として貼り付けられていたりします。

これらを根気よく進める作業をわずか2日で終わらせるのは、けっこうしんどいです。しかも、今回のは、訳が誤っているものがあり、全部翻訳し直しというのも含まれていました。2日間、朝から夜中まで集中して、何とか締め切りまでに間に合わせられましたが、疲労困憊、ヘトヘトで食事もとらずに眠ってしまいました。

でも、依頼主は、どんなに面倒で骨の折れる作業かは分からないことでしょう。だって、自分でやったことのない人には分からないものだからです。今回のも、下手をすると、タダ働きになるところでした。皆さんだったら、このような手の込んだ作業に報酬をいくら払いますか。

問題は、それを約束通り、期限を守ってやってしまったこと。「ほう、できるじゃないか」ということになって、もっと厳しい条件で仕事が降ってくる可能性もありえます。

誰でもはできない仕事の多くが、誰でもできる仕事と同じように扱われているのではないか、そんな気がします。

この仕事が終わった後、JICA案件とは別の仕事で、同じようにプレゼン資料の日本語からインドネシア語への翻訳を依頼されました。これもやはり、画像形式の部分がかなりあり、細かなテキストボックス貼りを続けました。

報酬を受け取る段になって、突然、別のプレゼン資料の翻訳が追加されました。そして、私がやるかどうかの返事をする前に、この別の追加分も含んだ報酬が一方的に銀行口座へ振り込まれてしまいました。こうなると、「やらない」とは言わせない、と強制された気分になり、依頼主に強く抗議しました。

「こんなやり方でビジネスをしているのか」と問いただすと、今回が初めてだと言います。本当かなあ。「このぐらいなら嫌とは言わないだろう」と、私のことを甘く見ていたに違いありません。この依頼主には、これまで色々と親切にしてきたのですが、それが甘く見られる要因になったのだと思います。

結局、この追加分も仕上げて納品しましたが、この依頼主との関係は今後、再検討しなければならないと思うに至りました。

インドネシアに関する情報が欲しい、といってくる人はいますが、その多くがタダで情報を取ろうとしてきます。そうした方の多くはタダで情報をもらえてラッキー、と思っていることでしょう。経費節約の折り、そのようなやり方を奨励する企業も少なくないかもしれません。

通訳や翻訳などの作業に対してもそうです。通訳や翻訳をどこか一段下に見ている、そんな印象を受けることもあります。何というか、相手に対する尊敬の気持ちを持っているようには見受けられないのです。

通訳や翻訳については、原則として私は請け負いません。なぜならば、専門の通訳者や翻訳者がおり、彼らがプロフェショナルとしてやるべき仕事だからです。私自身、通訳や翻訳の技術を学んだことはなく、彼らの領分に分け入るつもりはありません。

しかし、前述のように、2日間で膨大な量の作業をどうしても済ませなければならない、予算の都合で外部にはどうしても頼めない、といったのっぴきならない諸事情があれば、引き受けざるをえないと感じます。それでも、依頼主から感謝の気持ちを受けることは稀です。

一人のプロフェショナルとして活動している以上、便利屋にはなりません。こちらが親切にしているのをいいことに、タダで情報が取れてラッキー、ささっと作業終わらせてくれてラッキー、と軽く思うような方々とは、仕事を一緒にするつもりもありません。こうやって、少しずつ、自分がすべき仕事、自分でなければできない仕事の比重を高め、仕事と成果の価値を高めていきたいと思うのでした。

愚痴ってしまいました。ふー。

それにしても、福島市の老舗・喜多屋さんのそばはずっと昔から美味しい!(本文とは何の関係もありません。悪しからず)

ジャカルタお掃除クラブの5年間

発展途上国の多くの都市が直面する最大の問題の一つがゴミ問題です。インドネシアもその例外ではありません。

首都ジャカルタの大きな目抜き通りは街路樹の緑に溢れ、色とりどりの花が咲き乱れています。広めの歩道も完備した大通りを通りながら、「インドネシアも発展したなあ」と感じた方々も多いことと思います。

でも、外国人があまり通らない裏通りに入った途端、様相は変わります。下水道の普及率が数%というインドネシアの大都市で、平気で川や側溝にゴミを捨てている人を見かけます。高級車の窓から道の真ん中に堂々とゴミを捨てる人を見たこともあります。

そんな姿を見ながら、一つの仮説を思いつきました。インドネシアと日本では、公園や道路のような「公共の場所」についての認識が違うのではないか、と思ったのです。

日本での「公共の場所」とは、みんなの場所。一方、インドネシアでの「公共の場所」とは、誰のものでもない場所。

みんなの場所だから、次に使う人のことを考えてきれいにするのでしょう。でも、誰のものでもない場所なら、きれいにしようと思うでしょうか。ゴミはそういうところへ捨てられるのではないでしょうか。

実際、インドネシアの低所得層の方々の住むところを訪れると、家の中や周りはみんなきれいにしています。でも、その集落の入口や他の集落との境、あるいは目の届かない隠れた場所は、ゴミでいっぱいです。

誰でも、自分のいるところ(自分のものであるところ)はきれいにしておきたいので、誰のものでもないところ(政府所有のものも含む)へゴミを捨てるように思うのです。

目に見えないところ、みんなのものとは見なさないところだったら、きっと日本でも、分からないようにゴミを捨てるのではないでしょうか。

そして、日本でもインドネシアでも、誰も見ていないときにゴミを捨てるのです。インドネシアでよく見るのは、誰も見ていないと思った人がポロリと路上へ、タバコの吸い殻などのゴミを(捨てるではなく)落とす光景です。たまたま、私がそれを見ていて、落ちたものを「落ちましたよ」と言って拾ってあげると、すごくバツが悪そうです。

みんなの場所の指す範囲や数が日本では広く、インドネシアでは狭いのかもしれません。

また、インドネシアのあるイベントでゴミを拾っていたら、「拾うな」と言われました。ゴミ拾いを職業としている人がいるので彼らの仕事を奪うな、というのです。そういう考え方の人は、きっと大多数なのだと思います。

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このようななかで、ジャカルタをきれいにしたいと思う人々が始めた「ジャカルタお掃除クラブ」の活動が、様々な紆余曲折を経て、5年目を迎えました。

「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」セミナー」
(2015年1月28日)に登場したジャカルタお掃除クラブの面々

人口1000万人の大都市のゴミ問題とゴミに対する人々の認識を考えると、彼らの活動が意味を持つのか、という疑問が湧くのもうなずけてしまいます。日本関連のイベントなどで活動すると、他人のゴミを拾ってくれる清掃員と捉える人が多くいたようです。

でも、5年の間に、いろいろな変化が起こり始めました。まず、日本人だけで始めた活動が今ではインドネシア人が中心の活動へ変わり、参加者も徐々に増えてきています。ジャカルタだけだったのが、スラバヤ、メダン、バニュワンギなどの他都市へ広がり始めました。そして、別の名前のグループが、同様の活動を始めました。

形だけかもしれませんが、可燃ゴミと不燃ゴミとを分けたゴミ箱がジャカルタなどで一般的に見られるようになりました。「ゴミ箱はどこにあるのか」と聞かれることが多くなりました。地方都市などでは、地方政府がリサイクル・ゴミを収集して業者へ売るゴミ銀行の運営にかかわり、住民に「ゴミはお金になる」という意識を植えつけ始めました。

インドネシア第2の都市スラバヤは、ジャカルタとは違ってきれいな街、という評判があります。たしかに街を歩くとそう感じます。でも、それは、今のリスマ市長が環境美化局長だったときから予算を十分にとり、朝も夜も、頻繁に市政府が人員を配して清掃活動を行なっているからなのです。市民のゴミに対する意識が他よりも進んでいるからではないのが残念です。先はまだ長いと言わざるをえません。

ジャカルタお掃除クラブの活動は、市民の意識改革を目指しています。設立者である芦田氏は大事な友人ですが、彼の活動にエールを送りつつ、お掃除クラブが必要でない世の中になることがお掃除クラブの最終目標だよね、とずっと言い続けてきました。

5年経って、意識改革へ向けたその活動は、根っこをしっかり生やし始めたのだと感じています。そして、彼らの真摯な活動から、日本の我々自身が学ぶことも大きいのではないかと確信します。

ジャカルタお掃除クラブが日本を視察した際の活動を振り返るビデオ(インドネシア語版)が完成しました。以下のフェイスブックのサイトで予告編を見ることができます。

 予告編

なお、日本語版全編をご覧になりたい方は、芦田氏(ts_ashida@yahoo.co.jp)までご連絡ください。DVDを無料でお送りするそうです(インドネシア国内のみかどうか、ご本人にご確認ください)。

本邦研修が無事終了

JICA案件で、インドネシアの地方政府からの参加者を招いて行ってきた本邦研修が昨日、無事に終了しました。

この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。

9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。

福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。

JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。

最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。

研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。

親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。

最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。

ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。

サゴやしデンプンのつくり方

昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。

まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。

繊維状に切ったものは下のような形状をしています。

ここから必要量を取り出します。

サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。

樋(とい)には水が流れています。

そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。

サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。

樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。

これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。

昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。

インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。

緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。

しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。

17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代

先週のカカオツアーで、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリのコンビニに行ったら、サゴやしデンプンが売られていました。

まず、アルファマートで売られていたのがこれです。

製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。

次は、インドマレで売られていたもの。

こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。

ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。

なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。

小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。

参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。

 マサンバのバゲアは一味違う(2008年10月29日)

 レバランでおいしいもの(2008年10月3日)

 パペダとクラディ(2007年12月12日)

 ジャヤプラの味「パペダ」(2007年6月16日)

ポレワリで出会ったこんなモノ

今回のカカオツアー中、滞在先のインドネシア、西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、こんなモノに出会いました。

ポレワリ・マンダール県のウォノムルヨ市場で見たのですが、頭の上にリボンの付いたヒジャブが2体並んでいます。
リボン付きを見たのは初めてで、しかも、右のはキティちゃん(偽物?)の柄です。
「見てるんじゃないわよ!」とでも言いたげな眉毛のマネキンさんも、ちょっとした迫力です。
リボン付きのヒジャブを身につけた女性をまだ見たことはありません。もし、街中で見かけた方がいらしたら、私にもお知らせください。

カカオツアーを終えて

昨日(8/28)、マカッサル空港で、シンガポール経由で帰国する、ダリケー主催カカオツアーの参加者を見送り、私はジャカルタへ来ました。今回のツアーも、昨年に劣らず、とても楽しい一時でした。

(盛り上がったチョコレート作りのワークショップ)

この前のブログで、3年前に植えたカカオの木に再会できたことを書きました。今回も、参加者全員が西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県にカカオの苗を植えました。ほとんどすべての参加者が、3年後、自分が植えたカカオの木を見にきたいと言っていました。

カカオの木とともに自分も成長する、そんな言葉も聞こえました。

発酵したカカオの入った木箱へ手を入れて温度の高さを実感したり、カカオ・ポッドを使ったバイオガス装置の実験の様子を見たり、農家のお母さんも一緒になってチョコレート作りのワークショップをし、でき上がったチョコレートを試食したり・・・。

カカオ以外にも、村の人々の生活を垣間見たり、海岸でマングローブを植林したり、伝統芸能を楽しんだり、そして農家のお母さんたちの手料理の数々に興奮したり、と今年も盛りだくさんの内容でした。

(ゴンダ海岸でのマングローブ植林)

貧しいと思い込んでいたインドネシアの村の家々のたたずまいの美しさに感動した方、100年以上かけて出来上がったマングローブ林の悠久の時間に思いをはせる方、地元の方にメーキャップしてもらって着飾った衣装で「踊る馬」(Kuda Pattudu)に乗った参加者の女の子たち。

ここに来る前には思いもつかなかった、地域の豊かさや人々の温かさに触れ、それらがカカオを作り出す背景にあることを知ったのでした。きっと、参加者の周りの人たちに、彼らが体験したことやものをいろいろ話してくれることでしょう。そして、そのなかから、来年のツアーに参加される方々が出てくるかもしれません。

カカオを通じて世界を変える、を信条としている主催者のダリケー株式会社ですが、実は、こうした体験を通じて、自分自身が変わることが世界を変えることにつながっている。そのことを参加者の皆さんが自分の体験を通して納得できたとすれば、それがこのツアーの一番の目的なのかもしれない、と改めて確信しました。

スラウェシの各地をもっともっと歩いてみたい。コーヒーの産地へ行ってみたい。参加者の皆さんの好奇心をさらに高められた様子です。違うことを面白がり、プラスの強さを作っていく。そんな機会をまだまだいろんな方とご一緒していきたいです。

3年前に植えたカカオの木と再会

8月22日から、40人の参加者と一緒に、インドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県へ、カカオ農園訪問ツアーに来ています。ポレワリ2泊目となりました。

8月24日は、カカオ農園を訪問しました。ツアー参加者の皆さんには、恒例のカカオの木の植樹をしていただきました。みなさん、大変嬉しそうでした。

そんななか、ツアーを一緒にお手伝いしているイチャルさんが案内してくれて、私が3年前に植えたカカオの木を見に行くことができました。

次の写真は、2014年8月、初めてカカオ農園ツアーを開催した際、記念に植えた時のものです。

今回、3年ぶりに出会った、私の植えたカカオの木は、ひょろひょろっと育っていました。

左のパパイアの木のほうが育ちがよいのでした。カカオの葉は、少し虫に食われていました。果たして、カカオの実はこれから実るのでしょうか。

今回のツアー参加者の方々も、来年、再来年と自分の植えたカカオの木がどんな風に育っていくのか、楽しみにされていくことと思います。

ツアーは8月29日まで続きます。

明日からカカオ・ツアー!

昨日はコーヒーのことを書きましたが、明日から1週間、ダリケー株式会社のカカオ・ツアーのお手伝いで、インドネシア・スラウェシへ行きます。行先は西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、行きと帰りにマカッサルに1泊します。

このツアーのお手伝いをするのは今年で3年目です。私の目的は、ツアーに参加された方々が楽しく充実した時間を過ごし、色々な学びを得て、インドネシアやスラウェシを好きになってくれることです。

参加される方々の不安を和らげ、好奇心を引き出し、新しいワクワクが毎日感じられるような、そんなツアーにできたらいいなあと思っています。

現地のカカオ農家にとっても、自分たちの作ったカカオを原料とするチョコレートを食べてくれる方々がやってくるのは、私たちの想像以上に嬉しいことのようです。そう、カカオ農家の方々も、ツアー参加者の方々も、それぞれ相手に対して感謝の気持ちが行き交うのです。年に一度のその日を、カカオ農家の方々も楽しみに待っているようです。

でも、このツアーはそれで満足はしません。こうした生産者と消費者との心理的なつながりの先に、カカオをめぐる次の物語が生まれてくることを密かに期待し、そう促していきたいのです。

さて、今年のツアーでは、どんなドラマが起こってくるでしょうか。そして、ツアー参加者の方々とこれからの長いお付き合いが始まるのだと思うと、私自身もワクワクしてきます。

今回、参加されなかった皆さん、次回のカカオ・ツアーでは、ぜひご一緒いたしましょう。

昨日提示した、コーヒー産地をめぐるツアーも、インドネシアのコーヒー産地の方々と日本のコーヒー愛好家の方々との間で、そんな展開が始まっていったらうれしいです。

今晩の便でマカッサルへ向かいます。では、行ってきます。

インドネシアにコーヒー文化が根付き始めた

インドネシアはコーヒーでも名の知れた場所です。日本でよく聞くのは、トラジャ、マンデリンなどでしょうか。この30年で、インドネシアのコーヒーは大きく変わりました。もしかすると、東南アジアでコーヒー文化が最も根付く場所になるかもしれません。

私がインドネシアに行き始めた30年前、インドネシアでお茶のほうがコーヒーよりもメジャーでした。しかも、砂糖のたっぷり入ったお茶です。コーヒーもありましたが、ネスカフェなどのインスタントが主流で、これもやはり砂糖をたっぷり入れて飲みました。

その後、お茶は瓶入りの甘い茶飲料(Teh Botol、Teh Kotak、Teh Sosroなど)が主流となりました。コーヒーは、コーヒー+砂糖+ミルクパウダーの三位一体型インスタントコーヒーが主流となり、ジャカルタの渋滞緩和策Three in One(朝夕の決まって時間に決まった道路へ乗り入れるには自家用車1台に3人以上乗車する決まり。今は廃止)に因んで、3 in 1などと呼ばれていました。

おそらく10年ぐらい前からだと思いますが、ジャカルタでインドネシア産のコーヒーをパーパードリップで入れるカフェが現れ始めました(それまでのコーヒーは、コーヒー粉に熱湯を注いで、粉が沈殿した上澄みを飲むものでした)。スターバックスがインドネシアで展開し始めてすぐぐらいだったと思います。その後、スターバックスを模したカフェのフランチャイズチェーンが現れるとともに、居心地のいいカフェがジャカルタのあちこちにできていきました。

5年前、私はジャカルタに新たなカフェ文化が根付き始めた、と思い、エッセイも書きました。その後、カフェ経営者はバリスタ認証(どのように取得しているかは定かではありませんが)を競って取り始め、インドネシア各地のコーヒー豆をペーパーフィルターを使って淹れて飲ませるようになっていき、若者たちが集うようになりました。

インドネシアのコーヒー産地は、実はたくさんあります。それも、2000メートル級の高地が多く、各々の土地の土壌や気候の違いから生まれたアラビカ種が出回っています。

ガヨ(アチェ)、マンデリン(北スマトラ)、リントン(西スマトラ)、ランプン、トラジャ(南スラウェシ)、バリ、フローレス、パプアなどなど、インドネシア国内だけでいくつもの産地があり、それらがブランド化しています。ガヨ・コーヒーなどは、地理的表示保護(GI)認証をとって、ブランドを守り始めてもいます。

ジャワ島でも、南バンドンやバニュワンギなどで、オランダ植民地時代からに激賞された高品質コーヒーの復活やよりローカルなブランド化などの試みが次々出始めています。

一国の中でこれほどたくさんのコーヒーの銘柄を楽しめるところは、世界中でもあまりないのではないかという気がします。

この現象は当初、ジャカルタに限られていました。しかし、次第にスラバヤなどの地方都市へも広がっていきました。そして、今では、コーヒー産地にも、そこで採れたコーヒーを淹れて飲ませるカフェが展開し始めました。

アチェ州中アチェ県のタケゴンは、ガヨ・コーヒーの生産集積地ですが、この素敵な高原都市にも、ガヨ・コーヒーを楽しめる何軒かのカフェがありました。コーヒー商がカフェも経営している様子です。

この店にもバリスタの認定証がありました。

別の店は、アチェ州の州都バンダアチェの近くにも支店を出していて、そこでも美味しいガヨ・コーヒーを飲むことができました。

ガヨ・コーヒーも出している豆が3〜4種類あり、それを上澄み、ペーパーフィルター、サイフォンのどれで淹れるかを選ぶようになっています。もちろん、味はなかなかのものでした。

北スマトラ州ダイリ県の県都シディカランは、マンデリン・コーヒーの集荷地ですが、ここにも数軒のカフェがあり、若者たちで賑わっていました。

以前、コーヒー産地ではいいコーヒー豆はすべて輸出し、自分たちはインスタントコーヒーを飲む、とよく言われていたものでした。今では、コーヒー産地でも、いやそこでこそ、地元の人々が地元産のいいコーヒーを飲む、ということがインドネシアで起こっているのです。

植民地支配が長く、外部勢力に搾取されて従属させられている、という風潮が根強いインドネシアの人々が、自分たちの生産物を自分たちでも楽しむようになってきたことで、コーヒー文化がいよいよインドネシアの人々のものになり始めた、と思うのです。

そこで、来年あたり(夏ですかね?)から、インドネシアの複数のコーヒー産地をめぐり、コーヒー産地で地元の方々と一緒にコーヒーを味わうツアーをしてみたいと考えています!! もちろん、ジャカルタなどでのカフェ巡りもしたいと思います。

コーヒー産地はたくさんあるので、期間は1週間、毎年2〜3箇所の産地をまわることにしようかなと思っています。

この件で、何かご意見、アイディア、参加意思表明、協力表明などありましたら、メール、フェイスブック、ツイッター、このブログのコメント欄など、お気軽にお知らせいただければと思います。

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自宅でオリンピック観賞

ちょうど私が帰国した8月6日から、リオデジャネイロ・オリンピックが始まりました。

このところ、ずっとインドネシアにいたせいもありますが、もう10年以上、オリンピックというものをほとんどテレビで観ていませんでした。日本のテレビでは、日本選手の活躍が中心の番組構成になっていて、それが繰り返されるので、ちょっと辟易してしまったこともあります。

今回は、自宅で家族一緒にオリンピックを観ているのですが、我が家の場合、日本選手の活躍云々はあまり興味がなく、「こんな種目があるんだ」とややマイナーな種目を楽しむ傾向があります。

たとえば、エアピストルとか、カヌーカヤックとか、アーチェリーとか。重量挙げもなかなか面白いものでした。

重量挙げ女子48キロ級は、タイのSopita Tanasan選手が金、インドネシアのSri Wahyuni Agustiani選手が銀、日本の三宅宏実選手が銅でしたが、日本のテレビでは三宅選手しかスポットが当てられません。他の選手はどうだったのか。

実は、インターネットで、オリンピックのすべての試合を観ることができるサービスをNHKがやっていて、我が家ではそれに、はまり始めています。これを使えば、タイやインドネシアの選手の様子も観ることができます。

それだけでなく、重量挙げだと、選手の体力を見せつけられるだけでなく、舞台袖で選手を見守るコーチの喜怒哀楽や舞台裏での選手とコーチの様子、何キロのバーベルに挑戦するかのチーム間の駆け引き、といったものも観ることができます。重量挙げが実は心理戦であることを初めて知ったりもしました。

エアピストルでのベトナムの選手とブラジルの選手との駆け引きも、なかなか見ごたえのあるものでした。

テレビ以外に、パソコンでインターネットをつけながら、あまり知らない種目を観る、という楽しみが、オリンピックを通じたスポーツの新たな面白さを感じさせてくれるような気がします。

スカルノハッタ空港でプライオリティパス

8月5日、心配していたロンボク島のリンジャニ山噴火もなく、ロンボクからジャカルタに到着。利用したのはバティック・エアでしたが、定刻の15分前にロンボク空港を出発するという、遅延がフツーのライオン・エア系列としては珍しいことでした。

ジャカルタ・スカルノハッタ空港に着いたのが午後3時、ジャカルタから東京へ向かう夜便まで6時間の待ち時間があります。でも、わざわざ渋滞を体験しながらジャカルタ市内まで行く用事もないので、空港で時間つぶしをすることにしました。

バティック・エアの着いた第1ターミナルCからは、無料のシャトルバスで、東京行き国際線の出る第2ターミナルDへ移動。このシャトルバス、車高が高く、スーツケースを持って中に入るのがいつも大変になります。今回は、割と軽かったので、あまり負担は感じませんでしたが。

第2ターミナルDに到着。第2ターミナルにあるエアポートホテルは、改修のためずっと閉まっていましたが、つい最近再オープンしたので、そこのレストランで時間つぶしをしようと向かいました。以前、このレストランからよく飛行機の発着の様子を眺めていたものです。

スーツケースをセキュリティチェックに入れて、入ろうとしたら、従業員から「マッサージですか?」と聞かれました。なんか変。それで「レストランに行きたいんだけれど」と答えると、今オープンしているのは、客室とマッサージだけとのこと。レストランは9月以降になる、と言われガックリ。

しかたなく、冷房の効いた出発ロビーの背もたれのないベンチに座り、スーツケースを横にして、その上にビジネスリュックを配置し、その上にパソコンを置いて叩き始めてみました。やっぱり、グラグラして叩きづらいし、だんだん腰は痛くなってくるし。15分で我慢できなくなり、向かいのカフェに入ると、パソコン電源はレジのところにしかない、とそっけない返事。諦めました。

いったん外に出て、BNIエメラルド・ラウンジの前を通り過ぎたとき、もしかしてプライオリティパスが使えるかもしれない、と思い出しました。ダメ元で入口を見ると、プライオリティパスの札がありました。中へ入ると、もちろん使えるとのこと。ただし、3時間まで、という時間制限がありましたが、とりあえず、3時間いられるだけでもありがたいので、使わせてもらいました。本当に助かりました。

こうなると、スカルノハッタ空港のどのラウンジでプライオリティパスが使えるのか、探索したくなります。出国手続の後、歩き回った結果、乗り場Dの端っこにある2つのラウンジでもプライオリティパスが使えることが分かりました。

ちなみに、プライオリティパスのホームページによると、ジャカルタ・スカルノハッタ空港の6カ所で使えるようです。インドネシアの地方空港でも意外に使えるようです。

 ジャカルタ・スカルノハッタ空港でプライオリティパスの使えるラウンジ

 インドネシアの空港でプライオリティパスの使えるラウンジ

今回は、プライオリティパスのおかげで、6時間の空き時間も有効に使うことができました。エアポートホテルのレストランがオープンしても、もう使うことはないことでしょう。ありがたや、ありがたや、でした。

サンバルはどこへ行った?

8月5日早朝、ジャカルタからロンボクへガルーダで飛びました。所要時間は2時間弱、数日前に起こったリンジャニ山の一部からの噴火の影響もなく、スムーズに中ロンボク県プラヤのロンボク国際空港に到着できました。

ガルーダでは、所要時間が1時間を超えると機内食が出るのですが、今朝のチョイスは、オムレツまたはナシゴレン。私はナシゴレンを選んで、食べ始めてすぐ、気づきました。

サンバルが付いていない!!!

サンバルというのはちょっと甘めのチリソースで、インドネシアの食にはなくてはならない調味料です。昔から、人々は何にでもサンバルをつけるので、ほとんどの食べ物の味がサンバル味になってしまい、「インドネシア人は味盲だ」などという人さえいました。

このサンバルの味、慣れるとこれがないと落ち着かなくなるような、ちょっと中毒になるような性質も持っていて、私にとっても、フライドチキンやフライドポテトを食べるときには、このサンバルが必需品になっています。

そのサンバルが機内食に付いていないのです。以前は、どんな機内食のときも必ず付いていたのに。ガルーダは、いつからサンバルを機内食に付けなくなったのでしょうか。

付けなくなったのには理由があるはずです。おそらく、機内食に付けていたサンバルが、だんだんにたくさん未使用のまま残されるようになったのかもしれません。経費削減に迫られてきたガルーダは、残されるサンバルもまた、見直しの対象になったのでしょう。

でも、もしそうだとするならば、それは、インドネシアの人々の間に味覚の変化が現れていることの証左かもしれません。サンバル味よりも、徐々にそれぞれの素材のもつ味へ嗜好が移り始めたのかもしれないのです。

そう考えると、普通のレストランでも、こちらからリクエストしないとサンバルを持ってこなかったり、ナシゴレンに最初から唐辛子が入っていたり、サンバルが前提の出し方から変わってきている印象があります。おそらく、健康ブームで、サンバルの取りすぎが良くないという認識も出てきていると思われます。

ここでいうサンバルとは、市販の大量生産によるサンバルのことです。この製品は、インドネシアに現れてから、マーケットの絶大なる支持を受けてきました。なぜか。それは、料理ごとに異なるサンバルを作る手間を省いてしまったからです。

実は、サンバルは本来、料理ごとに違うのです。フライドチキン用のサンバル、ソト・アヤム(実だくさん鶏スープ)用のサンバル、ソト・パダン(実だくさんのパダン風スープ)用のサンバル、茹で野菜用のサンバル。それぞれの料理にはそれぞれのサンバルを作らなければならなかったのです。

本来は別々なのに、何にでもそこそこ合う市販のサンバルで済ませてしまうようになると、市販のサンバルの味が何となく標準になっていったのでした。便利な市販のサンバルがインドネシアを「味盲」にさせていたのかもしれないのです。

それが今、市販のサンバルが付いてこないというのは、本来の料理の味へ戻り始めたことを示しているということになるでしょうか。

過去30年以上、インドネシアの食を実体験しているものから見ると、インドネシアの食は明らかにだんだん辛くなくなり、かつ甘くなくなっています。そして、素材の美味しさや香辛料の組み合わせの妙を感じさせるような方向に進んできたと思います。

明らかに、30年前よりもインドネシア料理は美味しくなっていると感じます。プロの料理人を目指す若者も増えているように見えます。

それは、経済発展に伴い、人々の生活の質や嗜好が変化していることとも関係があるはずです。

レトルト食品などの普及など、効率化の進行による食品の味の画一化、ファーストフード化がますます進行するでしょうが、その一方で、地方でのローカルフードの復活・食べ歩きの隆盛、などに見られるような、手間暇かけた料理への関心も高まっています。

これからさらにどのようにインドネシア料理が進化していくのか、ますます楽しみになってきました。それでも、あの市販のサンバルの味が時々恋しくなってしまうのは、やはり中毒なのでしょうか。

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