市場で見かけた小さなイノベーション

カカオツアーでインドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県に滞在していた際、ツアー参加者と一緒に地元の市場を訪問しました。

市場を訪問するのは、参加者に、カカオのことだけでなく、カカオを生産する地域の経済活動の一端を見ていただき、地域経済全体の中でのカカオの位置付けを認識してもらいたい、という密かな狙いがありました。

訪問したのは、ウォノムルヨ市場。この市場は、言ってみれば、ポレワリ・マンダール県の経済活動の中心地なのですが、地元のマンダール族に加えて、ジャワ族が中心を担っています。

ウォノムルヨ地区はジャワ族が多く住んでいるのですが、彼らの先祖は、オランダ植民地時代からこの地へ移住してきました。飛び地のように、このウォノムルヨ地区にジャワ族が集中して住んでいます。

この市場で、今回、ハッとする光景を目にしました。

何の変哲もないような、地べたに置かれた品物。でも、よく見ると、一つの塊の中に幾つかの品物が積み重ねられています。

塊の中にあるのは、洗剤、石鹸、蚊取り線香など。この塊一つをセットとして販売しているのです。

私もこれまでインドネシアの様々な市場を歩いてきましたが、このように、塊をセットとして売っているのを見たのは初めてでした。

ただそれだけのことなのですが、これもまた、市場で売る商人の工夫といってよいのではないかと思います。これまで、個々に品物を購入してきた人々が、セットでも買えるだけの購買力を持ち始めた証左と見ることもできるでしょう。

また、この売り方は、通常の店ではなかなか難しく、地べたに品物を広げて売るからこそできる売り方、ということもできます。

市場で見かけた小さなイノベーション。そんな小さな変化の中に、インドネシアの社会が確実に変化している様子がうかがえます。

マンダール地方のローカル・バドミントン「レディ・パパン」

今回、カカオツアーで訪問した西スラウェシ州はマンダール族の世界です。

マンダール族は、南スラウェシ州出身のマカッサル族やブギス族、トラジャ族と並ぶ、スラウェシ島南部の有力種族です。とくに、世界一速いと言われる帆船「サンデック」を操り、巧みに漁を行う海の民としても知られてきました(サンデックについては、別途、触れてみたいと思います)。

このマンダール地方で盛んに行われているスポーツが「レディ・パパン」という、バドミントンの一種です。しかも、インドネシア中で、レディ・パパンが行われているのは、なぜか、このマンダール地方だけなのです。

今回のツアー中、参加者と歩いていた村の中で、レディ・パパンをしている若者を見かけました。

手に持っているのは、バドミントンのラケットではなく、羽子板のような木製のラケットです。この木製のラケットで、バドミントン用のシャトルを打ち合うのが、レディ・パパンです。

レディは英語のready、パパンはインドネシア語のpapan、すなわち板です。まあ、羽子板のようなものです。

マンダール地方のとくにポレワリ県、マジェネ県、マムジュ県という西スラウェシ州南部の3県で、レディ・パパンが盛んに行われ、地区対抗トーナメント方式の試合もあるようです。

この日も、「夜に試合があるので観にこないか?」とそばにいたおばさんに誘われました。

振り返れば、今から17年前、夕方から夜にかけて、マムジュからポレワリへ向けて車で通った際、道沿いの至る所で、バドミントンのようなものをやっているのを目撃したのが、レディ・パパンとの出会いでした。その時、夜9時を過ぎても、人々は、レディ・パパンに夢中でした。

2000年6月にマジェネの街中で、レディ・パパンの木製ラケットとシャトルが売られているのを写真に撮りました。

今回も、ツアー参加者とウォノムルヨ市場を見学した際、レディ・パパンの道具を探すと、すぐに見つかりました。

ツアー参加者の一人が木製ラケット2本とシャトル1個を5万ルピアで購入しました。そして、早速、レディ・パパンを始めると、学生の参加者を中心に、その輪がどんどん広がっていきました。

このレディ・パパン、もともとは、バドミントンのラケットが高価で購入できないという理由で、誰かが手製の木製ラケットで始めたのが最初のようです。

2000年頃が最も盛んだったようですが、その後は、しばらく流行らなかったように記憶しています。2004年に、南スラウェシ州から西スラウェシ州が分立し、レディ・パパンが盛んだった3県は、西スラウェシ州へ編入されました。

そして、おそらく、レディ・パパンは再び盛んになってくるようなのですが、2000年頃と比べて、大きな変化は、コートのネットが手製だったのがバドミントン用に変わったぐらいで、基本的に大きな変化はないように見えます。

それにしても、このレディ・パパンは、どうしてマンダール地方以外の他の地域へは広がっていかないのでしょうか。今でも、マンダール地方のローカル・スポーツのままなのはなぜなのでしょうか。

いつの日か、その不思議を解明してみたいものです。

カカオツアーから帰国しました

8月20〜27日、ダリケー株式会社主催のカカオツアー2017のお手伝いを終えて、27日朝、帰国しました。

ツアー中は、通訳兼コーディネーターとして、総勢55名のツアー参加者+スタッフと様々なアクティビティを行いました。

今回の参加者は、高校生や大学生のほか、チョコレート愛好家、会社役員、大学教授など、バラエティに飛んだメンバーでしたが、年齢や立場を超え、互いに自分を高め合う、素敵な仲間となることができました。

カカオの生産者とチョコレートの消費者とを結ぶこのツアー。生産者と消費者との信頼は、国境など軽く超えていくことができるのではないか、という確信を強くしました。

現場を見ることの重要性とともに、日本人とインドネシア人が信頼し合うとはどういうことなのかを全身で感じてもらえたのではないかと思います。

たとえば、地元の小学校で、参加者は、小学生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作る小さなワークショップを行いました。

地元のカカオで生まれて初めてチョコを作った小学生たちは、「また自分でチョコを作ってみたい」と目を輝かせました。そこには、これまでカカオ豆を作るだけだった生産地で何かが変わる兆しがありました。

一緒に、共に。これがキーワードだったと思います。

ツアーへの参加前と後とで、人生観が変わった、とまで言い切った参加者もいました。それはなぜなのでしょうか。

百聞は一見に如かず。ぜひ、来年、このツアーにご参加ください。カカオツアー、という枠を軽く超えてしまうかもしれません。

よりどりインドネシア第4号発行

昨日(8/21)、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリに着きました。今年も、カカオツアーのお手伝いに来ています。8/27に帰国します。

カカオツアーの最中ではありますが、情報ウェブマガジン「よりどりインドネシア第4号」を発行しましたので、お知らせいたします。

今回は、カソワミ、カーニバル、海の高速と我らの家、そして、よりどり情報サーチ法の4本です。

東南スラウェシ州ワカトビ列島のカレドゥパ島で以前、カソワミを食べました。どんな食べ物なのでしょうか。

娯楽が少ないと言われたインドネシアで、カーニバルを活かしたまちおこしが広まりつつあります。それは、東ジャワ州の小さな地方都市ジュンブルから始まりました。

国内物流コストを下げるための「海の高速」と「我らの家」、いったいどんなものなのでしょうか。少し解説しました。

中央統計庁とインドネシア銀行のサイトで統計情報を探す方法をお教えします。

現在、会員募集中です。毎月7・22日に発行。日本ではあまり報道されない様々な地方のインドネシア、違った視点からのインドネシアの話題を提供中です。お楽しみに!

いくつものインドネシアへ。ぜひ、読者登録(会員登録)のうえ、全文をご高覧ください。

スラウェシの過去をもっと知るために

今日は、第2次世界大戦中、日本占領下のインドネシア・マカッサルの歴史や当時の日本人の足跡を調べている方々が定期的に集まる「スラウェシ研究会」に出席しました。

この研究会は、当時、民政府の官吏としてマカッサルにおられた方、スラウェシ島情報マガジンというサイトを運営されている方、日本政府関係者としてマカッサルに滞在された方、などが参加し、戦時中の在留邦人の活動や証言などを掘り起こしています。

この方々は、最高齢90歳の後期高齢者となられていますが、独立以前のスラウェシのことをできるだけ後世へ伝え残したいと思いながら、自分の趣味を兼ねて、情報収集に当たられています。

今年は、できれば、マカッサルで彼らの調査研究の成果をマカッサルの人々へ還元したいと考えています。実は、インドネシアの人々も、昔のマカッサルがどうだったかということを意外に知らないのだと言います。インドネシアの歴史を教わる際、始まりはインドネシアの独立であり、それ以前の細かな実態については、ほとんど知られていないようなのです。

参考になるサイトを以下に挙げておきます。

 スラウェシ島情報マガジン
  スラウェシ研究会のメンバーW氏の力作です。
  とくに戦前のセレベス、太平洋戦争の記録、軍政下のマカッサルは圧巻です。
  彼の調べた新事実も多数含まれており、頻繁に改訂を加えておられます。

 北スラウェシ日本人会ホームページ (会報タルシウス
  マナドを中心とした北スラウェシ州在住日本人会のホームページです。
  とくに、会報「タルシウス」は創刊号から最新号までpdfでダウンロード可能。
  貴重な論稿が多数含まれ、私も、創刊号、第2・6・8号に寄稿しました。

スラウェシと鰹節との関係、ベチャ(輪タク)はマカッサル発祥?、敗戦後の収容所での暮らしの様子、スラウェシと関わりのあった人物紹介、などなど、興味深い内容が溢れています。

ぜひ、これらのウェブサイトを訪れていただき、日本人がかつてどのようにスラウェシと関わってきたのかを少しでも知っていただければと思います。

そして、そうした先人たちの膨大な努力のうえに、我々は今、スラウェシやインドネシアと関わらせてもらっているのだということを忘れてはならないと思うのです。

マカッサルの夕陽の美しさは、あの頃も今も、
変わらないことだろう(2016年8月27日撮影)

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

マラッカの興奮も冷めやらぬ中、1月13日昼前、無事、マカッサルに着きました。雨季のマカッサルということで、雨模様でした。

ホテルにチェックインして、まずは、もちろん、ワンタン麺を食べに行きました。マカッサルに着いたら真っ先に食べたくなるのが、これです。

そして、ホテルに戻ってから、インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

サゴやしデンプンのつくり方

昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。

まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。

繊維状に切ったものは下のような形状をしています。

ここから必要量を取り出します。

サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。

樋(とい)には水が流れています。

そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。

サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。

樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。

これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。

昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。

インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。

緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。

しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。

17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代

先週のカカオツアーで、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリのコンビニに行ったら、サゴやしデンプンが売られていました。

まず、アルファマートで売られていたのがこれです。

製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。

次は、インドマレで売られていたもの。

こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。

ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。

なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。

小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。

参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。

 マサンバのバゲアは一味違う(2008年10月29日)

 レバランでおいしいもの(2008年10月3日)

 パペダとクラディ(2007年12月12日)

 ジャヤプラの味「パペダ」(2007年6月16日)

カカオツアーを終えて

昨日(8/28)、マカッサル空港で、シンガポール経由で帰国する、ダリケー主催カカオツアーの参加者を見送り、私はジャカルタへ来ました。今回のツアーも、昨年に劣らず、とても楽しい一時でした。

(盛り上がったチョコレート作りのワークショップ)

この前のブログで、3年前に植えたカカオの木に再会できたことを書きました。今回も、参加者全員が西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県にカカオの苗を植えました。ほとんどすべての参加者が、3年後、自分が植えたカカオの木を見にきたいと言っていました。

カカオの木とともに自分も成長する、そんな言葉も聞こえました。

発酵したカカオの入った木箱へ手を入れて温度の高さを実感したり、カカオ・ポッドを使ったバイオガス装置の実験の様子を見たり、農家のお母さんも一緒になってチョコレート作りのワークショップをし、でき上がったチョコレートを試食したり・・・。

カカオ以外にも、村の人々の生活を垣間見たり、海岸でマングローブを植林したり、伝統芸能を楽しんだり、そして農家のお母さんたちの手料理の数々に興奮したり、と今年も盛りだくさんの内容でした。

(ゴンダ海岸でのマングローブ植林)

貧しいと思い込んでいたインドネシアの村の家々のたたずまいの美しさに感動した方、100年以上かけて出来上がったマングローブ林の悠久の時間に思いをはせる方、地元の方にメーキャップしてもらって着飾った衣装で「踊る馬」(Kuda Pattudu)に乗った参加者の女の子たち。

ここに来る前には思いもつかなかった、地域の豊かさや人々の温かさに触れ、それらがカカオを作り出す背景にあることを知ったのでした。きっと、参加者の周りの人たちに、彼らが体験したことやものをいろいろ話してくれることでしょう。そして、そのなかから、来年のツアーに参加される方々が出てくるかもしれません。

カカオを通じて世界を変える、を信条としている主催者のダリケー株式会社ですが、実は、こうした体験を通じて、自分自身が変わることが世界を変えることにつながっている。そのことを参加者の皆さんが自分の体験を通して納得できたとすれば、それがこのツアーの一番の目的なのかもしれない、と改めて確信しました。

スラウェシの各地をもっともっと歩いてみたい。コーヒーの産地へ行ってみたい。参加者の皆さんの好奇心をさらに高められた様子です。違うことを面白がり、プラスの強さを作っていく。そんな機会をまだまだいろんな方とご一緒していきたいです。

3年前に植えたカカオの木と再会

8月22日から、40人の参加者と一緒に、インドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県へ、カカオ農園訪問ツアーに来ています。ポレワリ2泊目となりました。

8月24日は、カカオ農園を訪問しました。ツアー参加者の皆さんには、恒例のカカオの木の植樹をしていただきました。みなさん、大変嬉しそうでした。

そんななか、ツアーを一緒にお手伝いしているイチャルさんが案内してくれて、私が3年前に植えたカカオの木を見に行くことができました。

次の写真は、2014年8月、初めてカカオ農園ツアーを開催した際、記念に植えた時のものです。

今回、3年ぶりに出会った、私の植えたカカオの木は、ひょろひょろっと育っていました。

左のパパイアの木のほうが育ちがよいのでした。カカオの葉は、少し虫に食われていました。果たして、カカオの実はこれから実るのでしょうか。

今回のツアー参加者の方々も、来年、再来年と自分の植えたカカオの木がどんな風に育っていくのか、楽しみにされていくことと思います。

ツアーは8月29日まで続きます。

明日からカカオ・ツアー!

昨日はコーヒーのことを書きましたが、明日から1週間、ダリケー株式会社のカカオ・ツアーのお手伝いで、インドネシア・スラウェシへ行きます。行先は西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、行きと帰りにマカッサルに1泊します。

このツアーのお手伝いをするのは今年で3年目です。私の目的は、ツアーに参加された方々が楽しく充実した時間を過ごし、色々な学びを得て、インドネシアやスラウェシを好きになってくれることです。

参加される方々の不安を和らげ、好奇心を引き出し、新しいワクワクが毎日感じられるような、そんなツアーにできたらいいなあと思っています。

現地のカカオ農家にとっても、自分たちの作ったカカオを原料とするチョコレートを食べてくれる方々がやってくるのは、私たちの想像以上に嬉しいことのようです。そう、カカオ農家の方々も、ツアー参加者の方々も、それぞれ相手に対して感謝の気持ちが行き交うのです。年に一度のその日を、カカオ農家の方々も楽しみに待っているようです。

でも、このツアーはそれで満足はしません。こうした生産者と消費者との心理的なつながりの先に、カカオをめぐる次の物語が生まれてくることを密かに期待し、そう促していきたいのです。

さて、今年のツアーでは、どんなドラマが起こってくるでしょうか。そして、ツアー参加者の方々とこれからの長いお付き合いが始まるのだと思うと、私自身もワクワクしてきます。

今回、参加されなかった皆さん、次回のカカオ・ツアーでは、ぜひご一緒いたしましょう。

昨日提示した、コーヒー産地をめぐるツアーも、インドネシアのコーヒー産地の方々と日本のコーヒー愛好家の方々との間で、そんな展開が始まっていったらうれしいです。

今晩の便でマカッサルへ向かいます。では、行ってきます。

断食中の機内食、ガルーダの場合

今回のゴロンタロ州ボアレモ県訪問は、断食中の用務でした。

断食明けは7月6日と予定されていますが、通常、月が新月かどうか、実際に見て判断するので、直前まで決まりません。というわけで、イスラム教徒の皆さんは、「もういくつ寝ると・・・」という感じで、指折り数えて断食明けを待っているところです。

断食中でも、私たち非イスラム教徒は通常通り飲食をしてかまいません。もちろん、断食中の方には一応「食べさせていただきます」と断わりを入れるのが礼儀でしょうね。

イスラム教徒としては、異教徒に断食を強制させることは罪という意識があります。昔、役所の職員と一緒に地方出張したとき、たまたまタイミングを逃して飲まず食わずとなり、気がつくともう夕方の4時でした。職員たちは「お願いだから食べてくれ」と懇願され、カーテンのかかった小さな食堂へ押し込まれてしまいました。

今回も、一緒に動いてくださったカカオ栽培指導のコンサルタントの方と運転手が、気を遣って、田舎なのでなかなかないのですが、いつも昼食の場所を探してくださいました。おかげで、昼食をとることができました。

ところで、断食中の飛行機の機内食ですが、今年は少し例年と変わった光景を目にしました。これまでは、通常通りの食事が供され、断食中の人には食事が供されませんでした。

今回、ガルーダ・インドネシア航空で目にしたのは、紙の箱に入った食事です。1時間程度の短距離飛行の時にはパンなどの入った紙の箱が渡されますが、通常の食事もまた、紙の箱に入って渡されたのです。中を開けると・・・。

ガルーダのマーク入りのポリ袋が1枚入っています。この袋、紙の箱をお持ち帰りするための袋なのでした。断食中の客も、紙の箱に入った食事をお持ち帰りできるようにしたのでした。機内で見ていると、ほとんどの客が紙の箱をポリ袋に入れて持ち帰っていました。

工夫しましたね、ガルーダ・インドネシア航空。5つ星航空会社と認定された自信が、こうしたちょっとしたサービス向上に結び始めたような気がしました。

山頂までトウモロコシ畑

ボアレモ県に滞在3日目の7月2日は、県南東部の村を訪問しました。本当は6月30日の午前中に訪問予定だったのですが、「雨がひどくて、道路状況が良くないので、来ないほうが良い」と言われて、行けなかった村です。ゴロンタロ空港へ向かう途中での寄り道でした。

スラウェシ島のマカッサルからマナドまで通じるトランス・スラウェシ道路から一本入ると、その道は、舗装されてはいるものの、穴だらけで、中には舗装が剥がれてガタガタになっている、急なアップダウンの道でした。上り下りが相当に急で、たしかに、これでは、大雨の中、行くのはかなり危険だと思わざるをえない道でした。

標高は上がっていきますが、道の両側はトウモロコシ畑が広がり、しかも遠くに見える山々の頂までトウモロコシ畑が広がっている様は圧巻でした。トウモロコシ畑を広げるために、削られた山肌があちこちに見られます。

村に着くと、そこもまた、山の頂までトウモロコシ畑でした。山肌が削られ、新たにトウモロコシ畑となるであろう様子もうかがえます。

昨日訪問した別の村では、かつてはほとんどがトウモロコシを栽培していたのに、今は皆んな止めてしまい、カカオへ転作していました。曰く、種子や肥料などの代金を商人から借りても、収穫の時に返済すると儲けがほとんどでないかマイナスになる、化学肥料や殺虫剤の投与で農地がダメになるのに加えて自分たちにも健康障害が出る、といった理由でした。

ゴロンタロ州は、北スラウェシ州から2000年に分立してから、州を挙げてトウモロコシ生産を奨励し、「トウモロコシ州」としてゴロンタロ州の名前を売りました。それから15年、トウモロコシ生産の弊害が出ている一方で、この村のように、今もなお、山を裸にし、トウモロコシを植え続け、森がなくなっていく状況も併存しています。

トウモロコシ栽培のための森林減少を食い止めるため、代替物としてカカオを含めたアグロフォレストリーの奨励が試みられていますが、この村のトウモロコシ栽培の広範な拡大を見ていると、アグロフォレストリーの前途は相当に多難だと思わざるをえません。

こんな村でも、ゴロンタロの断食明け直前の風物詩トゥンビロ・トヘの準備が行われていました。

トゥンビロ・トヘとは、灯を照らすということで、元々は、夜のイスラム礼拝を人々に伝えるための道しるべの灯りとして使われたようです。昔のブログでトゥンビロ・トヘについて書いたことがありますので、参考までにリンクを貼っておきます。

ゴロンタロ「灯りの祭典」

トゥンビロ・トヘは、なかなか幻想的できれいなので、機会があれば見に行かれたらと思います。州全体で行われ、今回訪問したすべての村で、準備が行われていました。でも、膨大な数の灯りをつけるために燃やされる大量の灯油とそこから発せられる二酸化炭素のことを思うと、ちょっと複雑な気持ちになります。

発酵カカオ、未発酵カカオ

昨日は、午後、ようやく雨が上がり、再びカカオ農家を訪問することができました。

カカオは収穫後、実を割って中からカカオ豆を取り出し、それを発酵させてから、天日干しにして水分を飛ばし、加工へまわす、というのが一般的です。カカオを発酵させると、あのカカオ独特の芳醇な香りが生まれ、チョコレート原料となります。

上の写真はカカオ豆を半分に切った断面です。右から3番目付近の黒いのが発酵カカオです。一番右側は半分ぐらい発酵しています。残りの紫色のものはまだ発酵が十分でないカカオです。

ところが、ボアレモのカカオ農民の多くはカカオを発酵させず、未発酵のまま集配人に売ってしまいます。それはなぜでしょうか。

一つには、すぐにお金が欲しいからです。何はともあれ、現金がすぐに欲しいので、未発酵のまま天日干しして、すぐに売ってしまうのです。集配人も、天日干しして、水分を飛ばすことしか要求しません。

二つには、発酵は面倒くさいのです。発酵させる4〜5日間が無駄になるし、1日に何回かは発酵中のカカオを手でかき回さなければならないし、発酵してくるとカカオが熱くなるし、こんな手間暇かけたくない、という理由です。

そして、それらの理由の根本には、集配人から提示される価格は一つで、発酵してもしなくても、買い取り価格が同じ、という問題があります。

皆さんがカカオ農家だったら、それでも発酵させますか。しないですよね。

インドネシア産カカオは、世界市場では低品質のカカオとみなされており、しかも家畜のエサ用など低品質カカオの市場が存在するので、あえていいカカオを作らなくても済む構造ができ上がっています。

実は、発酵カカオと未発酵カカオの価格差がないという問題は、私がマカッサルでJICA専門家として地域開発政策アドバイザーを務めていた20年前から、全く変わっていないのです。それを今回、改めてボアレモのカカオ農家で確認しました。

しかし、状況は変わり始めました。ごくごく一部ですが、発酵カカオを未発酵カカオよりも高く買い取る動きが出始めました。その先陣を切った企業の一つがダリケーです。

ダリケーは発酵カカオを高く買い取るだけでなく、カカオ農民に対して、カカオの栽培・管理技術、発酵の方法などを指導し、それをマスターしてちゃんとした発酵カカオを作った農民からはプレミアムをつけた価格で買う、ということをスラウェシで行なっています。でもこれは、良いものを作った人には正当な価格で評価する、という商売として当たり前のことをやっているに過ぎないのです。

ボアレモ県のカカオ生産は年産わずか1000トンぐらいの少量生産ですが、県政府がカカオ栽培を奨励し、苗木や肥料などを無料で農民に配っています。このやり方だと、農民はオーナーシップを持たず、やる気も出ないのではないかと思いました。

ところが、現場へ行くと、過去にカカオ生産を経験した農民がリーダー格となり、他の農民を発酵カカオ生産へ誘っていました。

彼らの多くは、これまでトウモロコシ農家でした。気候変動の影響か、トウモロコシ生産が2期連続で不作となり、中間業者から借りた借金の返済に追われたと言います。トウモロコシで地獄を見た農民たちは、1回植えれば20〜30年持ち、毎週のように収穫でき、しかも初期費用は政府もち、というカカオへなびきました。そして、今、発酵させると、世界市場では高く売れるということを農民が知り始めました。

ボアレモ県のカカオ生産は、まだ緒につき始めたばかりで、生産量はごくわずかです。しかし、長年カカオを作ってきた農家とは違い、最初から発酵カカオの良さを理解し始めています。これからの戦略を間違えなければ、少量ではあるが、高品質の発酵カカオを生産できる場となり得るかもしれません。

これからのボアレモ県のカカオ農民の努力に注目していきたいです。

ボアレモは大雨だった

インドネシアのスラウェシ島にある、ゴロンタロ州ボアレモ県に来ています。今回は、ここで2日間、カカオ農家のヒアリングを行います。

今日と明日の2日間、なのですが、昨晩から強い雨が降り続き、今朝は8時に出発予定だったのが、訪問予定先のカカオ農家から「雨で道が悪くなっていて、土砂崩れが起こる可能性があるから、今は無理。しばらく様子を見て欲しい」と連絡があり、様子を見ながらホテルで待機しています。

本来であれば、今は乾季のはず。でも、昨日会ったカカオ農家の方によると、一週間前ぐらいから雨が降り出し、ずっと降っているとのことです。おかげで、そろそろ収穫期のカカオを乾燥させることができずに、困っていました。

しかもそのカカオですが、昨年12月の花がつく頃に雨が少なく、豆が例年よりも小さいそうです。本来ならば、12月は雨季で雨が多い時期だったはずなのですが。

寒気や雨季は、私たちが思っているほど、明確に分かれてもいないし、場所によっても異なります。ここは赤道よりも少し北側なので、赤道の南側のインドネシアの乾季・雨季とは逆になりそうな気もします。

他方、アルファベットのKの字をしたスラウェシ島は、場所によって乾季・雨季が入り乱れています。例えば、南スラウェシ州の州都マカッサルは今は乾季ですが、山を越えた東側、ボネ湾に面した地方は逆に雨季の真っ最中になります。今の時期は、西側は一般に乾季、東側は一般に雨季、といった様相ですが、では南側に面しているボアレモはどうか、というのはちょっとビミョーです。

ともかく、カカオ農家のヒアリングはうまく行われるのでしょうか。お天気の神様のみぞ知る、といったところです。

昨晩は、疲れ切ってしまって寝てしまい、ハッと気がついて起きたらすでに6月30日、本ブログの毎日更新の目標は破られてしまいました。しかも、停電が5時間以上続き、携帯電話の充電ができるかどうか不安な夜でした。

今日の写真は、昨日降り立ったゴロンタロ空港です。空港ビルが新しくなっていて驚きましたが、搭乗ブリッジはまだ使われていませんでした。

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