美しく寂しい長泥の桜

昨日、2人目の来客として私の福島のオフィスを訪問してくれたのは、ジャーナリストの友人でした。この友人が飯舘村へ行くというので、今日は、それに便乗して私も付いて行きました。

行先は、飯舘村長泥。飯舘村の中で唯一、まだ帰還困難区域に指定されたままの地区です。2013年11月27日と2014年3月10日の2回、「NHKニュースウォッチ9」で長泥地区の現状を伝える特集が組まれており、それをご覧になった方もいるかと思います。

ジャーナリストの友人の知人である長泥地区から福島市へ避難されている方と一緒に、長泥地区へ入りました。入ってすぐに、信じられない光景が目の前に広がりました。

誰もいない、静かな空間に、今を盛りと咲き誇る満開の桜でした。それはそれは、本当に見事な桜でした。

花の里・長泥。この街道沿いの桜は、長泥の人々が育て、育んできた大事な桜でした。そして、帰還困難区域となった今も、人々は避難先から集まって、ずっと手入れを続けてきました。その人々の桜に込めた気持ちと献身を思わずにはいられません。

この桜を見ながら、長泥の人々が集まって、みんなで一緒に飯舘牛の焼肉を食べるのが夢だ、と案内してくださったSさんがポツリとつぶやきました。

長泥地区には、そこに住んでいた住民の方のほか、線量を継続的に計測している大学の先生方、報道関係者、中央や県の役人、工事関係者など、許可を得た方々が訪れるといいます。そうした方々への長泥の人々の感情は、思いの外、複雑な様子です。

でも、長泥地区の除染を行うのか、行うならば除染の対象は地区全体なのか部分的なのか、いつ除染を始めるのか、現在に至るまでまだはっきりと決まっていないようです。

帰還困難区域の長泥地区の除染を本格的に開始すると、同じ帰還困難区域でもっと面積の広い浪江町や大熊町の除染も行わなければならなくなるのではないか、予算は確保できるのか、といった懸念があるのかもしれません。

その一方で、長泥地区の住民は除染をしたらここへ戻ってくるのだろうか、という問いもあります。効率性を第一にするなら、住民が戻らないところを除染する意味があるのか、という声も聞こえてきそうです。でも、住民からすれば、元に戻してもらうことが先決で、長泥へ戻るかどうかはそれから考えるというのが筋とも言えます。

飯舘村の大半の地区が住民帰還や復興事業の話へ傾斜していくなかで、帰還困難区域の長泥地区だけが取り残され、置いていかれるような感情を抱くのは当然のことのように思えます。でも、長泥が元どおりになることを、半ば諦めてしまうような気持ちも伺えます。

長泥地区の未来をどのように描くのか。いつまでに除染を行う、このような順番で除染を進める。それが本当時実現できるかどうかは別としても、未来への不確実性を少しでも減らす努力をしていかなければならないでしょう。

長泥の桜は、信じられないくらい美しく、そして寂しく咲いていました。

福島の当社への最初の来客はマカッサルの親友

松井グローカル合同会社を立ち上げて、福島のマイ・オフィスへの最初の訪問客が今日4月30日にありました。その客は、私のマカッサル時代からの親友であるリリ・ユリアンティ(Lily Yulianti)さんでした。

彼女は現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいますが、もともとはインドネシアのマカッサルの出身で、新聞記者、NHKラジオジャパンのインドネシア語アナウンサーなどを経て、小説家、エッセイスト、ジャーナリストとして活躍しています。

彼女は、若い世代への質の高い執筆に関する指導も続けてきました。2011年からは、インドネシアの著名な映画監督であるリリ・レザ氏と一緒にマカッサルで立ち上げた「ルマタ文化スペース」を母体に、マカッサル国際作家フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF)を主宰してきています。

今年のMIWF2017は、マカッサルで5月17〜20日に開催されますが、私もフルで参加する予定です。「ルマタ文化スペース」の設立には私も協力し、MIWFでも5年前からささやかながら1セッションのスポンサーを務めています。

福島に着いて、すぐに詩人の和合亮一さんと面会しました。東日本大震災後の日本現代文学の動向に関心を寄せるリリ・ユリアンティさんが福島へ来ると聞いて、どうしても会って欲しかったのが和合さんでした。幸い、今回の面会は大変有意義なひとときとなり、今後の双方の活動にとっても多くの示唆を得ることができました。

和合さんとの面会の後、福島在住でインドネシア語の先生を務めるレニーさんと弟のチェジェさんと一緒に、昼食の後、私のオフィスと敷地内の古民家を見学してもらいました。ちょうど古民家のオーナーもいらっしゃったので、古民家の内部も丁寧にご案内いただきました。

リリ・ユリアンティさんが「どこかで桜を見たい」ということで、私のオフィスを見学した後、一路、米沢へ向かい、上杉神社で桜を眺めました。上杉神社の桜は、屋台の出ている表側はもうずいぶん散ってしまっていましたが、裏側へ行くと、まだけっこう残っていました。

リリ・ユリアンティさんらと一緒に、気持ちの良い風が桜の花を散らし、花吹雪となって舞い散るさまを、静かにゆっくりと眺めていました。

駆け足ではありましたが、震災後からずっと「福島へ行きたい」「東北へ行きたい」といっていたリリ・ユリアンティさんの夢は、叶うことができました。そして、これから新しい何かが始まる予感をたしかに感じるのでした。

私の原点、福島市天神町を再訪

昨日、法人登記に関係する諸手続を終えた後、私が産まれてから幼稚園を卒業するまで過ごした場所、福島市天神町を再訪しました。

舗装されていない小さな路地の両側に小さな家が3軒ずつ並んでいた場所です。荷物の配達でオート三輪が入ってくる路地でした。

今回訪ねると、その路地の面影は残っているものの、両側は駐車場になっていました。

最初に家族で住んでいた家は、上の写真の「路地」の右側、黒い車が停まっているあたりに建っていました。その手前には大きな銭湯がありました。

上の写真の「路地」の左側、正面の建物の左あたりに、次に家族で住んでいた家がありました。路地を挟んで一度引越しをしたのです。

当時の家には、家族5人に加えて、父の知り合いのお婆さんとその娘さんが同居していました。娘さんはもうずいぶんな年齢の独身でした。このお二人に遊んでいただいたり、ずいぶんとお世話になったものです。

上の写真の一番左手前、路地を出るところ、銭湯の向かいには、清水屋というお店がありました。

4歳か5歳の誕生日のとき、お祝いになんでも好きなものを清水屋で買いなさいと母に言われて買ったのは、棒付きのあずきアイスでした。これをずっと食べたかったのです。でも、私の誕生日は1月、寒い中でアイスを食べたせいか、すぐにお腹を壊しました。優しいおばさんが店番をしていました。その清水屋は、今はもうありません。

路地を出た正面に時計屋さんがあり、その時計の針を見ながら、夕方まで遊びました。

母がいつも買い物に行っていた地元スーパーの信夫屋も、今はありません。お酒をたくさん売っている店でした。

でも、清水屋の隣のふとん屋とその隣の魚屋は、今もまだ残っていました。銭湯の斜め前にあった床屋は、私が生まれて初めて行った床屋ですが、それもまだ残っていました。

清水屋の隣のふとん屋に立ち寄り、その4代目社長と子供の頃の話をしました。彼は私よりも7歳年下の高校の後輩でした。私が小学校に上がる際に二本松へ移った後に彼は産まれたので、直接の面識はなかったのですが、この界隈の共通話題で盛り上がりました。

そんな話をしていたら、ふとん屋の社長から「本当にここがあなたの地元なんですね」と話しかけられました。そう、ここが自分の「地元」、原点・・・。

この場所を離れてもう半世紀にもなるというのに、あの頃のことがどんどん思い出され、オート三輪や、あずきアイスや、時計屋さんや、床屋さんや、バキュームカーや、スーパーカブで出勤していく父や、家の庭にスイカや柿の種を蒔いたことや、ボロボロの服を着て毎日リヤカーを曳いていたクズ拾いの怖そうな老婆や、私をよくいじめた銭湯の息子のYちゃんや隣家のHちゃんのことや、諸々のことが次々に頭から溢れてきます。なるほど、ここは自分にとっての「地元」なのだと思い起こしました。

もしタイムマシンがあったなら、半世紀前の、私たちの遊び場だった舗装されていない路地や、人が行き交っていた賑やかな通りを、もう一度見てみたい、あの頃のより良い未来を信じて疑わなかった人々のいた空間をもう一度体験してみたい、と素直に思いました。

私という存在がこの世で始まった場所である福島市天神町が、自分にとって大切な「地元」であることを改めて実感できたのは、とても幸せなことでした。

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