101年の歴史に幕

3月14日、妻と一緒に、東京都心の小さなメガネ屋さんを訪れた。妻の頼んでいたメガネを取りに行くためだった。この日に必ず行かなければならなかったのだ。

この日が、メガネ屋さんの最後の日だった。

1920年にメガネ卸商として開業し、今年で101年目。店主のおじさんは2代目。80歳代後半となり、病気もあり、体力的に店を続けるのが難しくなったとのこと。

妻の亡き父親が、かつて知人から腕のいいメガネ屋さんとして紹介され、それ以降、妻の家族がずっとお世話になってきた店で、店主のおじさんは、妻のまだ幼い頃からずっと知り合いだった。

私も30年前、一度、ここでメガネを作ったことがある。ずっとよかった視力が落ちて、運転免許証の更新ができるかどうか不安になり、年のためにつくってもらったのだ。

その後、ジャカルタに2年間滞在している間に、あまり仕事をしなかったせいか、視力が回復し、メガネを日常的にかけることはなくなった。

そのまま今に至るが、今は、細かい数字や地図を見るときなどに、このメガネをわずかの時間だけかけることがある。

店主のおじさんのメガネのプロとして歩んだ人生と、彼を支え続けてきた温厚なおばさんの人生を思い、心から「ごくろうさま」の言葉をお二人にかけた。

都心の名もなき小さなメガネ屋が一つ、101年の歴史を閉じた。

店の外の気温は2度。水気を多く含んだ春の雪が降り続いていた。

歳を一つ重ね、父の早期退職の歳を思い出す

1月26日、歳を一つ重ねた。亡き父が定年2年前に早期退職したときの歳と同じ歳になった。

あのとき、父はなぜ早期退職を決意したか。それは私が大学を卒業し、就職するからだった。区切りが一つ付いた、と言った。

定年まで辞めなければ、県内のある組織の会長になっていたことだろう。でも、父は、そうした会長という職務に名誉や価値を感じていなかった。面倒くさい、と言った。

第二の人生を送りたい、とも言っていた。その頃の父は、中国やタイからの留学生の世話をし始めていた。退職後は、そうしたささやかな国際交流をしたいと願っていた。

その時から亡くなるまで、約25年間、留学生などと触れ合い、元気だった頃は、年に1回程度、友人たちと海外へ旅行に出かけていた。とても楽しそうだった。

そんな父が、人生における一つの区切りをつけた歳に、私も届いた。

退職という意味では、父の歳よりずっと前、今から12年前に私は自分で早期退職した。そこで自分なりの区切りをつけた。

自分のやりたいことの、第二のステップへ向かうために。

でも、この12年は、決して順風満帆ではなかった。ときには、自分なりの区切りをつけたことを後悔もした。生き方が下手だと自分を責めさえした。

父が早期退職した歳と同じ歳になった自分は、今でも現在進行形のままだ。自分の判断や生き方が正しいのか、適切なのかも確証を持てないまま、もがき続けながら、前へ進もうとする毎日を送っている。

他人とは比べない。もう比べられない。自分の道を歩むしかない。

父よ、私はまだ終わらない。前へ進む。やるべきことはまだまだたくさんある。まだまだ心細いかもしれない私だが、どうか、ほほえみながら見守っていて欲しい。

変わりゆくマカッサルの夕陽の移ろい

8月23日、ダリケーのカカオツアーの最後は、参加者と一緒に、マカッサルで夕陽を見ました。この日はやや曇り気味で、水平線に落ちる夕陽は期待薄だったのですが・・・。

日が落ちる前、日が落ちる瞬間、そして日が落ちてしまった後、その移り変わりをじっくりと味わうことができました。

わずか30分ぐらいの間に、刻々と変化していく色。海も空も。
光が放射状に見えたのがとても印象的でした。
これまで30数年の間に、この愛すべきマカッサルの街で、いったい何度、夕陽を見たことでしょう。
この海岸からわずか5分程度の場所に住んでいた約20年前、幼い娘を抱きながら、妻と3人で毎日毎日、眺めていた夕陽。
今から10数年前、私を訪ねてきた父と父の友人たちと、ゆったりと眺めた夕陽。その数年後、父が亡くなりました。マカッサルで夕日を眺めていた父の晴れ晴れした顔の写真を遺影にしました。
何百回、何千回とながめたマカッサルの夕陽は、この街で過ごした様々な思い出をよみがえらせてくれます。
そんな夕陽のなかでも、今回の夕陽の移ろいは、また格別なものでした。
この一瞬にしか出会えない、自然の創り出す一期一会の芸術作品にすっかり酔っていました。

自宅で上棟式

2019年8月29日、朝から大工さんとトビの方々が入って、作業をしていたと思ったら、夕方には、棟上が終わって、上棟式となりました。

設計士の先生、建築会社の方々、大工の棟梁、トビの皆さんにお赤飯とお茶を振る舞い、お祝いのお酒をいただいて、新しい我が家の上棟式は無事に終わりました。

これから少しずつ、中身が埋められていきます。来年初めには、完成する予定です。

ここ数日、体調がすぐれず、今日は医者に行って抗生物質も処方されました。明日までゆっくり休養します。

先週のダリケー・カカオ農園ツアーの様子は、元気になったら書くことにします。ご容赦ください。ブログもぼちぼちと書いていきます。

今年も東京でお盆の季節

東京の我が家は、今年もお盆の季節を迎えました。

東京は、7月13〜16日頃までの新暦でお盆を迎えるのが一般的のようですが、日本の多くの地域では、8月半ばに旧暦でのお盆を迎えるところが大半ではないかと思います。

我が家では、今年も、提灯をつけ、行灯を灯し、野菜などのお供え物と、キュウリとナスで作った馬と牛を作りました。それらをマコモの筵の上に置きます。

キュウリの馬とナスの牛は精霊馬、精霊牛と呼ばれ、前者は、ご先祖さまの霊ができるだけ早く戻ってくるための乗り物であり、後者は、できるだけこの世に留まっていられるようにという意味を込めたあの世に戻る時の乗り物なのだそうです。

日が暮れた後、迎え火をしました。皮を剥いだ麻である「おがら」を折って、焙烙(ほうろく)と呼ばれる平たい素焼きの皿の上に置き、それに火をつけて煙を出し、ご先祖さまの霊が迷わずに戻ってこれるようにします。

このときには、家の入口のドアを開けて、ご先祖さまの霊を迎え入れます。

おがらを焼き終わって、煙が出なくなったら、禊萩(みそはぎ)という草木に水を含んでおがらの上に水をふりかけ、火を消します。そして、家のドアを閉めます。

これから数日、お盆が終わるまで、ご先祖さまの霊と一緒にいる、ということになります。ご先祖さま、今年もよろしくお願いいたします。

それにしても、精霊馬・精霊牛と一緒に、トラジャのトンコナン・ハウスのミニチュア、アルパカのぬいぐるみ、昔マカッサルにいた20年前に撮った家族写真、イノシシのイヤープレート、象さんのお皿などが写り込んでいるこの写真は、まさに、我が家の愛すべき混沌を表していますね。

我が家では、毎年、ちょうどこの時期、妻の父親と伯母の命日が重なります。この場所で生まれ、人生を歩んできた妻にとっては、今は亡き両親、祖母、伯母など、かつてともに過ごした大切な人々を想う、とても大事なひとときなのだと思います。

他所からやってきた、マスオさん状態の自分にとっても、最後は、ここが自分の帰るべき場所になっていくのだなという思いを強くする毎年のお盆です。

自宅の地鎮祭を行いました

私的な話で恐縮ですが、東京の自宅を新築することになり、本日(7/5)、地鎮祭を執り行いました。

これまで約2年をかけて、建築事務所とゼロから中身をじっくり話し合ってきて、先月、ようやく旧宅を解体し、地鎮祭にこぎつけた次第です。

我が家が氏子となっている天祖神社の神主さんの指導に従い、施工者の建設会社さんを中心に場所が設営され、スルメの結び方なども教授されました。

神さまをお呼びし、建設の進捗と家の安全を祈り、妻と私の施主2名で鍬入れを行いました。神さまにお帰りいただいた後、建設区域の四隅に、米と塩をまき、区域に沿って酒を注ぎました。

これまで、新築へこぎつけるまでには、様々なハードルがありましたが、これで建設へ向けての一つの区切りを終えることができました。

私たちの家族の色々な思いが詰まった新しい自宅、どんな家になるのでしょうか。順調に行けば、来年初めに完成の予定です。楽しみに見守っていきます。

久々に素敵なイタリアン・ランチ

6月18日は、久々に、二人で素敵なイタリアン・ランチを楽しみました。

場所は、高田馬場の老舗イタリアン。もう何十年もよく行く店です。ちょっと時間をずらして行ったせいか、待たずに席に座ることができました。

最初は冷たいジャガイモのスープ。ジャガイモの味がよく出ていて美味。

前菜3種盛り合わせ。これも美味しい。以前は、5種だったような・・・。

パスタは、イタリア国旗をイメージしたニョッキと色々な肉の手打ちパスタ。

メインは、魚介類のスープと山形豚のソテー。これも絶品でした。

食後にカプチーノを頼んだら・・・。

飲むのが惜しい、可愛いライオンさんでした。きっと、この絵を見ていたからでしょうね。

すっかり満喫した久々のイタリアン・ランチ。

この後、小石川後楽園で、見ごろを過ぎたものの、花菖蒲を堪能しました。

二人が一緒になって、30年の記念日なのでした。おわり。

東京の我が家の桜が満開、来年の今頃は・・・

東京の自宅には、妻方の先代が戦後すぐに植えた桜(ソメイヨシノ)の木が一本あります。おかげさまで、毎年、自宅の庭でお花見を楽しむことができます。

ほかにも、我が家の近くには、ネットには載らない、穴場的な桜並木があります。昨日通ったら、ちょうど満開でした。

この桜並木では、地元の商店会がさくらまつりをするのですが、なぜか、いつも満開から1週間後に開催なのです。

でも、この桜並木の見どころは、満開の桜だけではありません。散るときの桜吹雪が、それはそれは見事なのです。さくらまつりは、実は桜吹雪を楽しむためなのかもしれません。

我が家の庭にも、近くの桜並木にも、今は桜が咲き誇り、とても気持ちのいい季節になりました。

我が家の庭には、桜以外にも、様々な花が咲き始めています。

来年の今頃も、きっと、また家の庭の桜の木を見ながら、ささやかなお花見をしていることでしょう。

私たちの家族だけでなく。

ここに集う、インドネシアなどからの新しい友人たちと一緒に・・・。

もし、シェアハウスが完成していたなら・・・。

完成しているかどうか? それは、神のみぞ知る・・・ですね。

ジャカルタの「父」を見舞う

9月3日、ジャカルタに到着後、そのまま、ジャカルタの「父」を見舞いに行きました。

筆者には、インドネシアに複数の「父」「母」がいるのですが、そのなかでも、最も高齢で、最も世話になった「父」を見舞いに行きました。

見舞い、というのは、一週間ほど前、それまで家族と散歩するなど元気だった「父」の容態が突然変化して入院、集中治療室に入ったという連絡があったためです。意識も衰え、大量出血したそうです。「父」は87歳、家族もいったんは覚悟しました。

その後、病院側の献身もあって、奇跡的に「父」の容態は回復し、出血も止まり、意識も回復して、集中治療室から通常の病室へ移り、「なぜこんなところにいるのだ」「カプチーノが飲みたい」などと言うようになり、ほどなく、退院することになったのでした。

「父」は娘夫婦の家で受け入れ、静かに療養中でした。姪によれば、「ガドガド(茹で野菜をピリ辛のピーナッツソースであえたもの)が食べたい」などと繰り返していたそうです。

空港から「父」のいる娘夫婦の家に到着、休んでいた「父」が現れて、会うことができました。退院したばかりで、ちょっと疲れが出ている様子でしたが、娘夫婦や、さらにかけつけた姪夫婦らと一緒に、夕飯の食卓を囲みました。

「父」はまだ普通の食事は制限されていて、やわらかいご飯に辛くない薄味の柔らかくした野菜などをまぜた別メニューを「母」が食べさせてあげました。

一週間前に聞いた情報からすると、こうして一緒に食卓を囲んでいることがなんだか本当に奇跡のように思えました。「父」と「母」と記念の写真を撮ってもらいました。

思い返せば、「父」と初めて出会ったのは、最初の勤務先である研究所に入所した33年前でした。その頃、「父」はインドネシア中央政府の某官庁で次官を務める高級官僚。歴代の研究所の先輩研究者たちが世話になった大事な方でした。先輩研究者たちがまだペーペーの筆者に「父」を紹介してくださったのです。

その後、折に触れて、「父」に支えられました。研究所の海外調査員として2年間ジャカルタに滞在し、インドネシア大学大学院で学んだときには、「父」が身元保証人になってくれました。もっとも、そのとき「父」は研究所の客員研究員として日本に滞在しており、ビザ更新のレターなどは、前もってフォーマットをお送りして署名していただき、ジャカルタへ送り返してもらっていました(インターネットなどというものがなかった時代の話です)。

詳細は省きますが、あるとき、筆者が心折れて、絶望したくなるようなことがありました。そんなときに、なぜか「父」がたまたま現れ、一緒に食事をし、筆者の話を微笑みながら聴いてくれました。「父」と会ったことで、筆者は救われたのでした。

インドネシアにいるたくさんの恩人のなかでも、「父」はとくに大事な恩人でした。

そんな「父」だから、何としてでも会いに行きたかったのです。そして、会うことができて、あまり言葉は発しませんでしたが、「父」は、疲れ気味ながら、うれしそうでした。

4日朝、姪から「父」の様子を伝えるメッセージが来ました。筆者があったときとは打って変って、「父」は元気になり、よくしゃべり、筆者のことを「どこへ行った、どうしてる?」と尋ね続けたそうです。筆者の来訪がきっと「父」を元気にしたんだね、と姪は綴っていました。

よかった。よかった。本当によかった。

まだまだ容態はアップダウンあることでしょうが、元気でいてほしい。もうすぐ、以前の通り、「父」はガドガドを楽しく食べられることでしょう。

今週、「父」は、米寿をむかえます。

夕焼け空を母と見上げた

6月24~26日は、福島です。

先ほど、夕方、福島に着きました。今日の日中の福島は東京よりも熱かったようですが、夕方になると、さわやかな風が南から吹いて、歩いていて気持ちのいい陽気でした。

実家へ歩いて帰る途中、ふと西の空をみると、空が赤くなり始めていました。吾妻連峰のシルエットが映えています。福島製作所前の交差点で、空がパッと広くなり、上空を飛行機雲が通っていき、その線がぼやけていきました。

三河踏切を渡って、振り返ってみた線路(奥羽線)と高架(山形新幹線)を背にした夕焼けも、きれいでした。

自宅そばの小学校の校舎を包むような、やわらかな夕方の陽のひかり。

実家に着いて、すぐに母を呼びました。何事かとバタバタかけてきた母と、一緒に空を見上げました。

しばし、無言で、空を見上げ続ける母と私。

人間がおそらく絶対に創り出せない色合いや形状、そしてこのマジックアワーの何とも言えない雰囲気。

「まだ子供だった頃、毎夕、屋根の上から、一番星が出るまでずっと夕焼け空を眺めていたのよ」 ポツリと母がつぶやきました。

筆者も、今から20年以上前、家族3人で、マカッサル沖に沈む夕日を海岸から眺めていた日々を思い出しました。

世界のどこかで、おそらく必ず、今、この瞬間に、それぞれの夕日を眺めている人々がいることでしょう。そんなことを思います。

夕日を眺める豊かで美しい時間を、決して失いたくない、他の人のそれも決して失ってほしくない、と思いました。

夏至を過ぎたばかりの福島の夕焼けでした。

今週は福島、来週はスラウェシ

久々の投稿となってしまいました。

8月15〜17日は、妻と一緒に福島へ行っていました。

まずは、実家の母や弟たちと一緒に、亡き父の墓参りへ行きました。

翌日は、盆休み中の弟と妻と一緒に私のオフィスへ行きましたが、床が汚れていると言って、さっそく掃除。ホームセンターで必要な備品を買い物した後、オフィス入口の床板が腐食していたので、応急措置をしました。

オフィスと同じ敷地内にある、雨上がりの古民家。古民家のオーナーに挨拶し、妻を紹介して、しばし歓談しました。
8月15〜16日は盆休みの弟が、そして17日は弟の嫁が我々の相手をしてくれました。
実家に帰る途中で、季節も終わりかけの桃「あかつき」を箱買いして、実家で食べました。もちろん、硬くて甘い桃でした。
福島から東京へ戻り、18日は都内でなかなか有意義な会議を終え、明日20日からは、ダリケー株式会社による、インドネシア・スラウェシへのカカオ農園ツアーのお手伝いに行ってきます。
帰国は27日。今年はどんなツアーになるか、どんな面白い方々とお会いできるか、楽しみです。

台風の最中に涼を求めて長野へ(1)

夏休みと宣言して、8月6〜9日、妻と二人で長野市と志賀高原へ行ってきました。娘がちょうど長期で不在となっているこの時期、本当に久しぶりに、東京の自宅を離れて、二人で旅に出ました。

とにかく、涼しいところへ行きたい!という妻のリクエストもあり、東北海道なども検討したのですが、最終的には、志賀高原へ行くことにしたのでした。

個人的には、本当は、久々に香港か台湾へ行って、存分に食べまくりたかったのですが・・・。涼しいところが優先、でした。

6日は長野市で1泊。その目的は、ここでした。

長野駅前のちょっと路地を入ったところにある映画館「長野千石劇場」。東京で観そびれた香港映画「コール・オブ・ヒーローズ」を観るためでした。

映画を観る前から、この映画館に昭和の風情を感じて興奮する二人。入替制で、開始15分前にならないとチケットを売ってくれない、というので、ぴったり15分前に窓口で購入して、中へ。中へ入ると、そこは「昭和」の世界でした。

映写室の看板も。

外壁の映画の予告掲示も、時代を感じさせる趣がありました。

最初に入った第3ホールは、傾斜のない、小さなスクリーンの部屋。明らかに増設したような雑な作りの部屋でしたが、観客は我々2人ともう1人の3人。

もうすぐ開始、と思ったら、係員が来て「客がいないので、隣の第2ホールへ移ってくれ」とのこと。第2ホールで上映する予定だった作品は、観客がいなくて上映中止となったようでした。

というわけで、より大きな第2ホールで、我々を含む観客3人が「コール・オブ・ヒーローズ」を鑑賞しました。

隣の第1ホールで上映している映画の音声が聞こえる、ボロいつくりの会場でしたが、アクションものだったせいか、それなりに集中して観ることができました。

サモハン・キンポーがアクション監督を務めた「コール・オブ・ヒーローズ」は、黒澤明監督の「七人の侍」の影響を受けているということで、あまり期待はしていなかったのですが、予想以上の内容で、十分に楽しむことができました。

それにしても、長野市内には、長野千石劇場以外にも、昔ながらの映画館がいくつか残っている様子。そして、7日以降の志賀高原でも、別な意味で、「昭和」を感じさせる部分のある旅となったのでした。

もちろん、映画を観る前に、長野東急にある竹風堂のカフェ「さろん・ど・まろん」で、忘れずに、栗クリームあんみつ(抹茶アイスクリームのせ)をいただきました。

(その2へ続く)

花見客のいない桜の「名所」

東京都心の桜は満開をそろそろ過ぎ、ちらほらと花が一つ二つと散り始めました。

花見といえば、酒を酌み交わし、楽しく過ごすたくさんの人々が満開の桜の下に集っています。花見の名所ともなれば、場所取りの競争も激しく、夜の会のために、朝早くから場所取りをするのが、新入社員の最初の仕事、なんていう話もありました。

花を見に行くのか、人を見に行くのか。そんな風景が花見の名所では見られます。

幸いなことに、私の東京の自宅には、古くからの桜の木があり、自宅で花見ができるのが嬉しいです。ちょっとぜいたくではありますが。

でも、自宅から歩いて数分のところの坂には、それは見事な桜並木があります。しかも、地面に敷物をひいて宴会を楽しんでいる人はいません。通りすがりの数人の人たちが、桜の木を見上げて、盛んに写真を撮っていました。

坂なので、坂の上のほうへ行くと、桜の花がすぐ近く、目の前、手の届くところに咲いています。

遠くから見てもよし、近くから見てもよし。花見客がいないので、ゆっくりのんびり、じっくり桜の花を楽しむことができる場所です。

東京の自宅や自宅近くで桜の花を楽しめるのもあと数日。そのあとには、それはそれは見事な花吹雪をこの坂で見ることができます。

そして、来週は、福島で桜の花を楽しむ予定です。

今週の後半は福島

3月16日から18日までは、福島市の実家に来ています。

もう少し早く東京の自宅を出る予定だったのですが、ちょっと色々もたもたして、福島に着いたのはもう夕方でした。

実家の周りは、数ヶ月前からアパート2棟の建設工事中。この土地を持つ地主さんが、実家の敷地を除く土地にアパートを建てています。それ以前は、何軒かの貸家があったのですが、それを全部壊して、アパートを建てているのです。

実家の近辺には、こうして新しく建てたアパートやこれから新しく建てるアパートが幾つも見られます。

ピークの時期はもう過ぎたようですが、福島市では、原発のある相双地区から避難してこられた方々の住宅やアパートの建設が数年前から盛んに行われてきました。除染関係者などの需要もあるかもしれません。実際、福島市でアパートなどの賃貸物件を探すのがけっこう大変だという話が数年前から聞こえていました。

この土地の地主さんは亡き父の幼なじみで、その由で、ずっと前から、借地に建てられた我が実家に対して、とてもよくしてくださっています。本当ならば、我が家の借地もアパート建設のために取り上げられていたに違いありません。

すでに、地主さんの息子さんと、実家の近くに住む私の弟との間で、土地に関する話もきちんと了解しており、母もしばらくは安心して実家で暮らすことができそうです。

今回の里帰りは、実家にいる母と色々と相談することが目的です。今後、福島にいる時間がこれまでよりも長くなるため、この実家にお世話になることも多くなりそうだからです。さっそく、色々と助言や要望を聞くことができました。

明治神宮の芝生とポニー公園

午後、用事があって、妻と一緒に代々木の某所を訪れた後、久々に、北参道から明治神宮の広い芝生へ行ってみました。

それほど寒くない陽気の中、数は少ないものの、人々が思い思いに芝生でくつろいでいました。

スタスタと早歩きでやってきたジャージ姿の男性は、芝生に寝転んだかと思うと、いきなり足を曲げたり伸ばしたり、ストレッチを始め、終わるとまた、何事もなかったかのようにスタスタと去って行きました。

まだ枯れたままの芝生の白とも黄ともいえぬ淡い色合いと、薄いグレーの広い空を眺めながら、少しずつ冬が終わり始めている気配を感じました。

神宮本社にお参りせずに、そのまま参宮橋のほうへ抜けると、明治神宮の敷地を出たところに、代々木ポニー公園という場所がありました。小柄な馬と子供たちが触れ合える公園に、一緒に散歩していた一名が引き寄せられて行きました。

なぜか、カラスへの注意を喚起する張り紙も(下写真では左側)。

この代々木ポニー公園は、東京乗馬倶楽部に隣接した渋谷区の施設でした。小学生までの子どもが馬と楽しく過ごせる場所です。

東京での日常の何気ない散歩の一コマでした。

侠女と龍門客桟を堪能

今日は、某新聞社のシンポジウムに行きたかったのですが、応募抽選結果が当選とも落選とも知らされなかったので、あ、落ちたんだな、と思って、ちょっと残念だったのです。

でも、その代わりに、渋谷のユーロスペースで、キン・フー監督の映画「侠女」と「残酷ドラゴン血闘龍門の宿(龍門客桟)」の2本を堪能することができました。

この2本の台湾映画は、2013年に台湾政府の資金援助を受けて、デジタル修復されたものです。キン・フー監督の作品を見るのはおそらく初めてだと思いますが、聞いていた評判に違わず、時代を感じさせない見ごたえのある作品でした。

制作年代では、「龍門客桟」が1967年、「侠女」が1971年なのですが、今回の上映では、「侠女」「龍門客桟」の順でした。「侠女」は英語の題名が A Touch of Zen、「龍門客桟」は Dragon Gate Inn なのですね。

両作品とも、正しい政治を行おうとした側が悪事を働こうとする側に策略で嵌められて罪人となり、お家取り潰しになるものの、その親族や子孫が逃げ延びて、お家の再興を図ろうとするものの、支配者(悪事)からの追っ手が追いかけてきて、それと戦い続ける、といった割とわかりやすいストーリーです。

映画に出てくる急峻な山や谷、急流の川のシーンは、2つ続けて観ると、同じ場所で映していると思しき場所がけっこう出てきます。きっと、当時は中国本土で撮影することは不可能で、台湾の中の限られた場所での撮影を余儀なくされていたのだろうな、と思いました。

その自然の撮り方の美しいこと。有名な竹林での戦いのシーンもそうですが、真ん中のススキを払いながら人間が出てくるシーン、道に煙がいつも上がっているシーンなど、印象的な場面がたくさんありました。

もちろん、売り物ともいえる剣を使った戦闘シーンは、CGを使わないとこんなにも俳優の演技に迫力が出るのか、と思えました。キーン、キーンという剣が重なり合う音が耳に残っていきます。

主人公たちと悪役との戦いが終わってすぐに劇終となる「龍門客桟」と、戦いが終わっても戦うことの虚しさが強調される「侠女」。制作年の異なる4年間の間に、キン・フー監督の中に何か心境の変化があったのかもしれません。

この2本の映画が後のカンフー映画に大きな影響を与えたというのも良く分かる気がします。特撮や活劇シーンの進化には本当に驚かされますが、キン・フー監督が撮った人間の美しさ、演じる者たちの緊張感、といったものは、後続作品がやすやすと超えられない者のような気がします。

そういえば、昔、ジャカルタに住んでいた1991年頃、The Swordsman(笑傲江湖)を観て、とても気に入り、その後、ジェット・リーなどのカンフー映画を見るようになったのですが、調べたら、The Swordsmanもキン・フー監督作品でした。初めて観たのではなかったのでした。カンフー映画が好きになるきっかけを作ってくれた監督でした。

今日、この2本を観ることができて、なんだかとても満ち足りた気分になりました。

トルコ料理店のレディースコースが重量級

東京・有楽町にある、日本で最初のトルコ料理レストラン「イスタンブール」へ行ってきました。創業は1988年、意外にトルコ料理レストランの歴史は新しいという印象です。

今日は、2月の月曜日のせいか、有楽町周辺のショッピングセンターは休館が目立ち、最初のお目当の中華料理店も臨時休業、ということで、やむなく、「イスタンブール」へ行きました。

月曜日は、レディスコースが通常3500円が2800円へ割引になります。妻と娘と3人で行ったのですが、女性だけでなく、女性連れであれば男性もレディスコースを注文できるということで、3人揃ってレディスコースを注文しました。

ひよこ豆のポタージュスープの後、出てきた前菜盛り合わせ。厚手のトルコパンと一緒にいただきます。

この後に、メインのカルシュック・ケバブ(4種類のケバブの盛り合わせ)が出てきたのですが・・・。

これを3人で分けるのではなく、これが1人前なのです。チキン(左)、ビーフ(真ん中)、マトン(右)、ビーフとマトンの合挽き(下)で、レタス、酢漬けの赤キャベツ、マッシュドポテトとバターライスが添えられています。

とにかく、肉、肉、肉、という感じ。焼き具合はとてもよく、肉の旨みがしっかり味わえる逸品なのですが、これがレディースコースとは。他ではなかなか味わえないであろう重量級でした!

結局、3人で協力して、というか私が妻の残りもいただいて、完食。レディス・コースのボリュームに感服しました。

最後のデザートは、ちょっと固めの甘みを抑えたプリンと紅茶で締めました。

やっぱり、半分は食べ物ブログになってしまいますね(笑)。

トルコ料理レストラン「イスタンブール」(ウェブサイトリンク
銀座店は、地下鉄銀座駅 C2番出口 徒歩5分 
またはJR有楽町駅 銀座口 徒歩7分 

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ジャカルタ州知事選挙関連の分析レポート(有料)は、ただいま執筆中。明日には掲載できるといいのですが。

おそらく、私と同じような見解で書かれたものはまだないと思います。乞うご期待。

イッツベジタブルは日本で一番新しい台湾料理の店 !?

妻と待ち合わせて、どこで夕食をとるか色々悩んだ末、錦糸町の台湾料理屋に行きました。総武線の高架下にある、その店の名前は、イッツベジタブル(苓々菜館<りんりんさいかん>)。

実は、台湾では精進料理も有名らしいのですが、台湾へ行っても、まだ食べたことはありませんでした。どんな精進料理なのか、楽しみに行ってみました。

肉、魚、卵だけでなく、ネギもニンニクも使わない、調理にアルコールも使わない(注:ただしビールなどアルコール飲料は置いてある)、全素、完全素食、ベジタリアンの台湾料理を出す店です。この店では、大豆のたんぱく質を使って、肉・魚風の料理を再現しているのです。

せっかくなので、野菜ではなく肉・魚風のものを注文してみました。まず、次の3品を注文しました。

「豚肉とセロリの炒めもの」のようなもの 

「ローストチキン」のようなもの

「揚げ魚の豆鼓ソース」のようなもの

これらをおかずに、玄米ご飯を食べました。

脂っ気があまりなく、あっさり味なのですが、ソースが絶妙に美味しく、とくに、「ローストチキン」のようなものは、鶏肉のような肉の細い筋があるような歯ごたえで、本物と変わらない味わいでした。

ちょっと物足りなかったので、さらに2品を追加しました。

「肉シューマイ」のようなもの

担仔麺(チャーシューのようなもの+肉味噌のようなもの)

テーブルの上には、素食がいかに素晴らしいかについて書かれた「苓々菜館の気持ち」と、「なぜネギもニンニクも使わないのか」の説明が書かれた紙がラミネートされて置いてありました。

たとえば、ネギやニンニクには薬効があっても、それは薬である以上、摂りすぎるのは毒になる、と書かれてありました。また、「感謝の気持ちをもって食事をいただく」といった、素食を食べるときの作法についても書かれていました。

この苓々菜館は、東京に住む台湾人留学生らがよく集まる場所にもなっているようで、レジには「台湾で中国語を学ぼう」という本も売られていました。高雄に留学した若者が2年間でマンダリンと福建語をマスターした、と店の主人が言っていました。

そして、最後の1個だったこの店の手作りの特製パイナップルケーキをゲットして、店を後にしました。台湾のお菓子も色々出しているようです。

台湾素食といえば、この店とは違う店ですが、私が大学生の頃、通っていたキャンパスの近くに、やはり台湾素食の小さな店があり、ヘルシーな弁当などで知られていました。中一素食店という名前の店ですが、今では、六本木にも支店を出す有名店になっていました。

店の外に出ると、いくつもの標語の書かれた看板がありました。

日本で一番新しい台湾料理。世界一安全な食事。野菜がいっぱい。大豆がいっぱい。

このバイクで、「ダイエット弁当」を配達してくれるようです。

店の雰囲気も家庭的で、居心地も良いので、オススメです。台湾高山烏龍茶もとても美味しくいただきました。

さて、次回の錦糸町は、こちらの予定。

我々の結婚生活の原点

今日は、妻の用事に付き合って、東京都内の某市へ出かけました。

この某市は、我々が結婚して初めて生活した街でもあります。駅周辺はすっかり変わり、新しいショッピングセンターができていました。古ぼけた公会堂は、新しいコミュニティセンターに変わっていました。

反面、我々が毎日のように利用していたスーパーマーケットはなくなり、家電量販店に変わっていました。路地裏にあったはずの八百屋も総菜屋もなくなっていました。

さて、我々が結婚して最初に暮らしたアパートはどうなっているのか、気になって行ってみました。当時は新築、今や築27年の中古アパートです。

まだきれいに建っていました。このアパートの2階に住んでいました。2DKの小さな作りでしたが、二人で生活を始めるには十分な広さでした。

ここが我々の結婚生活の原点、ともいえる場所です。

ここでの生活はわずか1年で終わり、その後、インドネシアへ赴任したのでした。

久々に歩いたこの街、「とても住みやすかった」という思い出がよみがえります。路地裏の雰囲気はあの頃のままでした。

この某市がどこか、もう分かってしまった方もいるかもしれませんが・・・。

誕生日にガレット・デ・ロワ

昨日の誕生日の夜、ささやかなお祝いということで、リチュエルのガレット・デ・ロワを東京の自宅で味わいました。


リチュエルを知ったのは偶然です。昨年12月、クリスマス・イルミネーションに誘われて表参道へ向かい、その後、青山通りへ向けて小さな坂道を色々歩いていたとき、リチュエル青山店を見つけました。

美味しそうなパンが色々あったので、クロワッサンをはじめ、いくつか買って食べたのですが、見た目以上の美味しさ。とくに、細長くくるくる巻かれたピスタチオのパンは最高でした。

そのときに、店内で見たガレット・デ・ロワがとても美味しそうで、一緒に来た妻に「誕生日にはあれが食べたいな」とポロリと言った言葉を、彼女が覚えていて、買ってきてくれたのでした。

後で知ったのですが、リチュエルはフランスの有名なパン屋で、2014年にはパリで最も美味しいガレット・デ・ロワとして表彰されているようです。詳しく説明したブログはこちらです。

周りの生地がサクサクして、中のアーモンドクリームが甘すぎずくどすぎず、絶妙の味付けで、本当に美味しく、堪能しました。

本当ならば、ガレット・デ・ロワの中に入っているフェーブという陶器製の可愛い小さな人形や、それが当たったときにかぶる紙製の王冠も付いていました。中国正月でも、同じ風習があったような・・・。

ガレット・デ・ロワは1月6日の公現祭というお祭りで食べるお菓子らしいのですが、幸運にも、リチュエルでは1月中は販売しています。

1月生まれの特権(?)ということで、味わうことができました。

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