それでも生きて欲しいー原発事故から5年の福島を観て

9日夜、NHKスペシャル「それでも、生きようとしたー原発事故から5年・福島からの報告」を観ました。重く、つらく、簡単に言葉を紡げません。それでも、少しは書かなければならない、という気がします。

人間は、何か自分の打ち込めるものがあったり、将来こうしたいという希望を持ち続けたり、誰かのためになっていると思えたり、そんな感情を生きるエンジンにしているように思います。それを生きがいと言ってもいいかもしれません。

その生きがいが、たとえば東電原発事故のような、何らかの理由で断たれてしまうと、その原因を作った対象をいかに憎み、恨み、糾弾し、裁判に訴えようとも、それ自体が生きがいになっているうちはいいのですが、たとえ裁判に勝ったとしても、その後の生きるエンジンにはなれないかもしれません。生きがい自体が喪失し、それに変わる短期的な生きがいも終焉し、新たな生きがいが生まれていないからです。

それに追い打ちをかけるような、相手のことを気にかけない誹謗、中傷。誹謗、中傷を行っている本人には、それで相手が傷つくということを理解できないばかりか、そう言い続けることが彼らの生きがいになっているかのような、そんな状況も加わります。

自分の土地のほぼ近くにおびただしい数の除染廃棄物のプレコンバッグがあるのを見たら、故郷へ戻る夢が断たれたと絶望的な気持ちになるのは理解できます。その土地はただの土地ではなく、かつて、農産物を育てただけでなく、その人にとって様々な思い出の積み重なった土地に違いないからです。

村に戻って、自分たちが頑張って農業で村を元気に復興させたいと、本当に頑張っていた30代のご夫婦。放送されたことだけが原因なのかどうかは分かりませんが、米価低落や外からの関心の低下、同じ若い世代が戻ってこないという現実などを前に、自分たちの頑張りって一体何だったのだろうか、という疑問が深く湧いてきてしまったと察します。

こんな状態で、自分は何のために生きているのだろうか、という気持ちが現れる。一人で頑張っていればいるほど、自分が惨めになる。意味があるんだろうか、生きていたって。面白いことなんか何もない。分かってくれる人なんてこの世の中にはいない。そんな気持ちが湧いていたのではないかと思うのです。

人様の迷惑にならない。これは、亡き父から私が生前よく聞かされました。NPO「なごみ」の方が訪問しても、構わないでほしい、もう来ないでほしい、と言ったお年寄りの気持ちが何となくわかるような気がします。自分が生きていることで、人様に迷惑をかけたくない、と思っているのではないかと思うのです。

長生きしてごめんね、と心の中で思っているお年寄りは少なくないのではないか。最近、そんなことをよく思います。

そして、年金や介護保険の世代間負担の格差が拡大するにつれ、なんとはなしに、そうしたお年寄りを内心では迷惑がる風潮も感じられる気がします。

福島の自殺が増えているという問題もそうですが、日本全国どこでも、自殺の問題は、こうした気持ちや状況がその背景に横たわっていると感じます。

自分が生きていることになんの意味があるのだろうか、という人たちが欲しいものは、生きていることに意味がこんなにある、ということをなんらかの形で示してあげること、それ以外にないと思います。

人様に迷惑をかけられない、といって面会を拒否する方には、いかにお節介を焼いたり、迷惑をかけてもらいたいと思っているかを他人が態度で示すことから始めるしかないでしょう。そして、その方の話を、一切否定せずに、ひたすら聞く。ずっとずっと聞く。一人でも心を開く相手がいるだけで、その他人に話を聞いてもらうことが生きがいのようになってくる、というのでもよいのではないでしょうか。

7日のNHKスペシャルの「ばっちゃん」も、そうやって若者たちに居場所を何十年も提供している方の話でした。

人の話を否定せずにじっくり聞いてあげる。そんなことを、自分の身の回りの人から始めてみてはどうでしょうか。

ツイッターでこの番組が話題になっていたのですが、それは福島の話として特別視したり、悪いのは東電・政府だ、だから原発再稼働反対と言ったり、どことなく、遠い他人の可哀想な話として受け止めているような印象を持ちました。

でも、状況背景や環境は違っても、自殺するのは、自分がこの世の中で必要のない、意味のない人間だと思うのが原因のような気がします。だとするならば、自分が苦しいときに話を聞いてくれる人間が存在し、また他人が苦しいときに自分が話を聞いてあげる存在になることから始めるしかないのではないかと思うのです。

福島の自殺者が増えているという現状は、もちろん重大です。たとえ他の地域よりも件数や率が低いからといって、「大したことはない」と軽視できるものではありません。自殺する人にとって、地域ごとに多いか少ないかは、関係ないからです。

自分の身の回りから話を聞く、聞いてもらう関係を作り始めること。それがたとえ昔のようなコミュニティの復活につながらなかったとしても、今よりはもう少し生きていてよかったと思えるような世の中へ近づいていくのではないかと思います。

色々と思うことはあるのですが、今はこの程度のことしか書けません。ご容赦のほど。

あなたの「故郷」はいくつありますか

ずっと前から、故郷は一つでなければならないのだろうか、と考え続けています。

生まれた場所は一つしかないので、生まれ故郷は一つだけです。でも、「故郷」と呼べるような場所は、生まれ故郷と同じ場所である、とは限りません。

私にとっては、生まれ故郷は福島県福島市、その後、父の仕事の関係で福島県二本松市原瀬に2年、二本松市内に1年住んで、また福島市へ戻りました。

高校卒業まで福島市にいて、大学浪人中は埼玉県川口市、大学入学後は東京都東村山市、国立市、就職後は再び川口市、小金井市、そして、東京都区内に移りました。

さらに、インドネシアのジャカルタに2年、東京に戻った後、マカッサルに5年、また東京に戻った後、マカッサルに1年半、1ヶ月おいて再びマカッサルに2年、ジャカルタに3年、スラバヤに2年、そして今は東京に・・・、というふうに、点々としてきました。

これまでに挙げた場所はどこも、自分にとって、懐かしく愛おしい大事な場所になっています。何度か再訪するたび、そこで生きていた、生活していた自分(たち)を臨場感を感じながら思い出します。就職前までに住んだ家は、全てが跡形もなく無くなっており、自分(たち)がそこに居たという物理的な証は、もはや見つけることはできません。それでも、そこに行けば、いや、行かなくとも、行けなくとも、その場所とそこに居た自分(たち)を思い出すのです。

東日本大震災後に訪れた母校・
二本松市立原瀬小学校(2012年3月)

危険建築物として取り壊された
二本松市立原瀬小学校跡(2013年8月)

長く住んだ場所以外に、出張などでたくさんの場所を訪れ、色々な人々に会い、色々な思い出を作ってきたのですが、なぜか、それらの場所で思い出したくもない、嫌いになった場所を一つも思い出せないのです。

そんななかで、故郷は一つじゃなくていいのではないか、と強く思うようになりました。そのきっかけは、東日本大震災に伴う原発事故で突如故郷を失った人々の存在でした。自分の意思ではなく、ある日突然に、自分の居場所を去らなければならない、それも自然災害ではなく人災によって、というのは本当に理不尽なものです。それに加えて、自らの判断で自主的に避難した人々もいました。そんな様子を見ながら、自分の故郷でもある福島のことを思っていました。

強制的にせよ、自発的にせよ、避難した方々は、自分の生活の場である故郷を離れたわけです。新しい生活の場所をいずれ戻るための一時的な滞在場所と捉えるか、元の場所での生活を断念して新しい生活の場所と捉えるか、それは人によって、世代によって、場合によっては同じ家族の中でも、異なることでしょう。

でも、一時的な滞在にせよ、定住にせよ、今、生活している場所を「故郷」と思えるならば、そのほうが楽しいだろうし、気持ちも楽になるのではないか、という気がします。第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生も楽しいのではないか、と。

状況や立場は異なりますが、サラリーマン転勤族も、自分の意思とは必ずしも関係なく、あちこちへ移動します。彼らもまた、第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生になれば楽しいのではないか、と思います。

自分にとっての「故郷」がたくさんあればあるほど、自分の関わった人々が増え、自分のことを思ってくれる人々が増えていく。そんな場所が世界中いたるところにあれば、どこへ行くにも安心した気持ちになれるような気がします。

戸籍や住民票といった公式書類ではなく、そこを故郷と思ってくれる人を増やすような、ファンクラブのような試みを、日本中、世界中でやってみたら面白いかもしれません。それは、ふるさと納税の豪華賞品を介在させるようなものではなく、言葉にできないような、個々人にとっての愛おしさや思い出を大切にする、多くの人々に「故郷」と思ってもらえるような場所になる、ということです。

故郷を愛おしむのは同じ日本人に限ったことではありません。アニメやポップカルチャーの愛好者とは別に、日本に住んだことがあり、日本のために何かをしたいと思っている外国の方々は少なくありません。そんな方々のための「故郷」に日本が、日本の地方がなる、ということはできないでしょうか。

逆に私のように、インドネシアとの関係が切れなくなって、インドネシアのあちこちの地方を愛おしく思い、そこのために何かを一生懸命やりたい、と思ってしまう外国好きの日本人も多いことでしょう。

高知県馬路村は、ユニークな手法で村のマーケティングに成功した場所ですが、そこには、日本人全員の「故郷」になりたい、という彼らの願いが込められているのでした。

自分の「故郷」を増やすのは、ふるさと納税で興味を持った市町村から始めてもいいかもしれません。商品だけでなく、実際にその市町村へ行き、人々と出会う中で、本当の「故郷」になるかもしれません。物理的に人口が減っても、「故郷」と思う人が増えていくのは、それが新しい何かを生み出すきっかけになるかもしれないと思うのです。

私の「故郷」は、これからまだまだ増えていくことでしょう。というか、増やしていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか。そして、「故郷」の数をこれから増やしていきませんか。

帰国し、しばし静養中

10月30日〜11月5日、今年関わっているJICA案件最後のインドネシア出張を終えて、帰国しました。

今回は、福島市チームとともに、東ジャワ州バトゥ市とマラン市を訪問しました。福島市との間で、農業関係の今後のよい連携関係が生まれそうな確信を得ることができた、有意義な出張でした。

バトゥ市の水耕栽培用ジャガイモの育苗所にて

とくにバトゥ市では、市長表敬に留まらず、市の農業政策アドバイザーの大学教授から、極めて前向きの見解が示され、今後の展開を積極的に進めていこうという機運が強まっています。これらの内容については、いずれ、時期を見てお知らせしていきたいと思います。

9月27日〜10月22日のインドネシア出張に続いて、帰国後も報告書執筆に集中し、10月28日に名古屋で講演した後、今回の出張となりましたが、この間、私にしては珍しく、体調がすぐれない状況がずっと続いていました。

チーム内にはインドネシア語で仕事のできるメンバーが他にいないため、本業のサーベイ以外に、アポ取り、車両アレンジ、ホテル手配などのロジや、福島市を含む日本の地方自治体からのお客様のケアもしました。

自分では、それら自体を負担に感じたことはありませんでしたが、自分の体は嘘をつけなかったようです。

出張中に足、手、顔などに水泡を伴った吹き出物が出てしまいました。それが出ているところは、赤く火照って痛いのです。こんな状態になったのは、これまでで初めてだったので、すぐ治るだろうと放置しておいたら、どんどんひどくなっていきます。

頭痛も続きました。ときおり、ぼーっとして、何もやりたくない状態になり、とにかく眠くてしかたがない。そんな日が長く続きました。

自分では意識していませんでしたが、ストレスと過労だったのでしょうか。過労というほど、たいした量の仕事をしているとは思わなかったのですが。

帰国後、皮膚科で診てもらったら、ヘルペスという診断でした。まさか、という気がしましたが、専門医がいうのですから受け入れるしかありません。医師の指示に従い、点滴を受け、抗生物質を含む薬を処方してもらい、東京の自宅でしばらく静養することにしました。こんなことはこれまでで初めてのことです。

この数日間、ゆっくり寝て、休んでいる間に、症状は徐々に良くなってきました。頭痛もなくなってきました。今週中には復活できると思います。というか、報告書原稿の最終締切があるので、復活しなければなりません。

11月20日から一週間は、別件で、またインドネシア(ジョグジャカルタ)へ出張します。おそらく、今年最後のインドネシア出張になると思います。

体は嘘をつかない、ですね。自分の年齢のことも考えて、仕事と休養のコントラストをうまく作っていくこともこれからの課題だと改めて感じ入りました。

いったん帰国しました

10月23日朝、日本へいったん帰国しました。東京の自宅で家族で鍋を囲んで少しほっこりしました。

JICA案件のインドネシア出張は、まだ7日残っており、その出張が10月30日〜11月5日まであります。

今回の帰国は、日本からお連れする福島市チームの日程がどうしてもそこでないと難しいということで、こちらの日程を合わせた形です。福島市チームと東ジャワ州バトゥ市との農業分野での連携可能性を探る2回目の訪問をお世話します。

もっとも、今回のわずか1週間の帰国中、10月28日(金)午後、名古屋にて、愛知県立大学主催の「インドネシア現地経済事情講習会」で講演することにもなっています。講演会のお知らせは以下のページに出ていますので、ご希望の方はどうぞお申し込みください。

 インドネシア現地経済事情講習会

帰国中の残りの日々は、とくに予定が入らなければ、JICA案件での報告書の担当箇所の執筆に充てることになります。ちょっと書き過ぎてしまった和文原稿(A4で30枚ほど)を自分で英訳もしなければならず、これがけっこう面倒で四苦八苦しています。

4月から続いてきたJICA案件もあと1〜2カ月で終了となり、次の新たな展開へ向けて動いていくことになります。少なくとも、このJICA案件でお付き合いを始めた日本の地方自治体とインドネシアの地方政府とは、引き続き、様々な形で長くお付き合いを続けていくことになりそうな気配ですし、すでにそう覚悟を決めています。

とりあえず、(一時)帰国のご報告でした。

ロンボク島のスンギギビーチでみた夕陽。
右にうっすらとバリ島のアグン山を臨む。
(10月16日撮影)

またまたインドネシアへ

今年何回めのインドネシア出張になるのでしょうか。9月27日から、またまたインドネシアへ出張します。

今回は、10月23日にいったん帰国し、28日に名古屋で講演した後、30日から11月5日まで再びインドネシアへ行きます。

今年はこれでインドネシア出張は打ち止め、と思っていましたが、11月の後半に1週間程度、ジョグジャカルタへ出張することになりそうです。

今年は当初、次のステップへ向けてじっくりと日本で会社設立しようと思っていたのですが、3月からJICA案件に関わり、それが11月まで続き、思ったよりも自分が関わらざるをえない部分が大きかったので、じっくりと言うわけにはいかなくなってしまいました。

でも、そのJICA案件は、日本の地方自治体とインドネシアの地方政府を農業・畜産業分野で連携させることは可能かどうかを実際に調査する内容。国境を越えて、ローカルとローカルを結びつけて新しい何かを起こす、を今後の仕事の使命と考えている自分にとっては、願ってもない内容の案件でしたので、関わることにしたのでした。

案件自体の中身やプロセスの是非はともかくとして、自分にとっては良い機会になったと思います。5年以上前から、ローカルとローカルをつなげて新しい何かを起こすことを考えてきたのですが、それが果たして、今後の世界にとって有用なことなのか。

砂糖の山に群がるアリのように、美味しいところに入って行って他の人のようにやった方が楽だったのではないか。そんなことを思いながら、これがコンサルタント・ビジネスとして成り立つのだろうか、という疑問を抱き続けてきました。

そして今、少しずつ、それが確信に変わり始めています。

砂糖の山でいっぱいの国や中央ではなく、なぜローカルなのか。そしてなぜ、自分はいったん知り合いとなって触れ合ったローカルと一生付き合う覚悟をするに至ったのか。

そう、自分の顧客となったローカルとは、先方から「もういいです」とお引き取り願われた場合を除いて、プロフェッショナルとして、一生ずっとお付き合いをしていく覚悟を決めました。ローカルの味方として生きていく覚悟を決めました。

よろしくお願いいたします。

では、またインドネシアへ行ってきます。

(上写真)本邦招へいプログラムを終えた、インドネシア・東ジャワ州バトゥ市農林業局長、マラン市農業局アグリビジネス部長とインドネシア料理レストラン「チャベ」で会食。バトゥ市、マラン市と福島市とを結んで、新しい何かを生み出す中長期的な連携を関係者とともに構想中です。今回の出張中に、バトゥ市とマラン市で彼らと協議を進めていきます。

本邦研修が無事終了

JICA案件で、インドネシアの地方政府からの参加者を招いて行ってきた本邦研修が昨日、無事に終了しました。

この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。

9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。

福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。

JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。

最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。

研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。

親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。

最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。

ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。

エドワード・ゴーリーは面白い

今回の福島への帰省の目的の一つは、福島県立美術館で開催されている「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」を観に行くことでした。前から観に行きたいといっていたのは娘で、家族3人と東京から帰省中の姪の4人で観に行きました。

左側が福島県立美術館。右側は福島県立図書館

観る人を不安にさせる絵。無表情な人物の顔。シュールな話。ナンセンス。脈絡のなさ。作品から何かポジティブなものを無理やり読み取ろうとすると、それは軽く肩透かしを食らう。

何にでも意味を見い出そうとする人は、何のための作品なのか分からない、と思うかもしれません。でも、作品を作品として純粋に楽しめばよいのであって、むしろ、何にでも何かしらの意味を見出さなければならないという態度のほうが、時には実は意味がないのかもしれない、なんてことを思わせるようなひとときでした。

とりわけ、招かざる客として描かれたうろん君の、食事だけでなく皿まで食べてしまう姿はとても気に入りました。

うろん君!

展示されていた作品は比較的サイズが小さく、近寄ってみることで、絵の中にいろいろと面白い発見がありました。ゴーリーはどんな表情で、どんなことを考えながら、作品を作っていたんだろうか、なんてことが、クスッと思い浮かびました。

エドワード・ゴーリーはなかなか面白い! 予想していたほど、不安で暗い気持ちにはなりませんでしたが、あの乾いた面白さは得難いものでした。

福島県立美術館での「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」は8月28日までで、そのあとは、下関市立美術館で9月8日〜10月23日に開催されます。2年間、日本国内の各地で巡回展を行う予定だそうです。

福島で亡き父の墓参

旧盆も終わりですが、8月16〜18日は福島市の実家へ帰省しています。久々に、家族3人揃っての帰省となりました。

台風が来る前に、亡き父の墓参に行きました。父は、東日本大震災の前年に亡くなり、今年が七回忌に当たります。とくに七回忌の特別な法要は行わない予定ですが、こうして、しばしの間でも、父の墓前で亡き父と対話をするのが自分にとっての務めの一つだと思っています。
果たして、自分がどこまで父が望んだような人生を歩んでいるのか、心もとないのですが、人生の節々で、父が語った言葉を改めてかみしめて、前へ進んでいこうと思います。
それにしても、実家で食べる地元・福島産の桃2品種、どちらも美味しいことといったら、本当にたまりません。

バトゥ市の若き農業後継者との出会い

7月27日、東ジャワ州バトゥ市での訪問の最後に、有機農業を進める若い農民に出会いました。彼は農民グループの中心人物で、見せてもらった約0.5haの畑で、様々な工夫をした有機農業を行っていました。

この畑はデモンストレーションと種苗用の畑で、様々な野菜やハーブが植えられていました。野菜のなかで、何種類ものケールが植えられていて、それらは一般用に出荷するのですが、それ以外の野菜やハーブは種苗用で、この畑以外の場所にある12カ所の別の畑で生産しているということです。

ケールや野菜の脇には害虫駆除用の植物が細かく植えられているほか、いくつかの野菜が注意深く組み合わされながら植えられていました。

ハーブなどの苗は、ヨーロッパなどから得られたものを色々と試験的に植えているようです。以前、日本から人参の苗を入手して植えてみたが、うまくいかなかったと言っていました。

この若き農民の父親は、バトゥ市にある農業高校の元校長先生で、退職後、地元に残って有機農業の実践を続けてきました。息子であるこの若き農民は、国営クラカタウ製鉄で機械エンジニアとして働いていましたが、それを辞めて故郷へ戻り、農業後継者として、父とともに、有機農業に取り組んでいます。

そんな彼を見ながら、日本でも優秀な若者たちの一部が地方へ移住して農業に取り組み始めていることを思い出しました。インドネシアでも、同じように、都会や有名企業から地方へ移り、農業を始める若者たちがいました。

これまでインドネシア、とくにジャワ島の農村部を歩きながら、どこでも農業後継者不足という話を聞いてきました。農業は儲からない。未来のない農業を子どもに継がせたくない。そんな声を聞いてきました。

また、ジャワのある地方政府では、後継者がいないので、中国からの大規模ライス・ファーミングの投資を歓迎する、といった話さえ聞こえました。目に言えないところで、インドネシアの農業が壊れていくのではないかという危機感さえ感じてきました。

今回、バトゥ市で出会った若き農業後継者の姿は、そんななかで、とても頼もしく見えました。単に儲けるためではなく、地域のための農業をしていこうという姿勢が鮮明だったからです。そして、自分の農民グループを通じて、その理念を実践する、地に足のついた態度がしっかりしていました。

もしかしたら、バトゥ市からもう一度インドネシアの農業を立て直せるのではないか。

私が福島市の皆さんをお連れしたとき、バトゥ市の農業局長は「農民と地域を守り、一緒にグローバリゼーションの荒波に対抗する農業を進めたい」と語りかけました。そのときの彼の真摯な潤んだ目を忘れることはできません。

バトゥ市の若き農業後継者をいつか日本の若き農業後継者たちとつなげ、お互いに意識し合わせながら、農民と地域を守る、安全安心の農業の未来をつくっていけたら・・・と思わずにいられませんでした。

大マラン圏のリンゴの運命

熱帯のインドネシアとは思えない光景をよく見かけます。そう、街中のスーパーや果物店、地方の街道沿いの屋台、村のパサール、どこでもリンゴを見かけるのです。

リンゴは、熱帯の果物ではないはず。もちろんそうです。これらのリンゴの大半は、ニュージーランド、アメリカ、オーストラリア、中国などから輸入されたリンゴなのです。

リンゴは健康によい果物、という話が広まっているためか、インドネシアではリンゴの消費が増えている様子です。

でも、実はインドネシアでもリンゴは作られています。そのほとんどは、東ジャワ州マラン市、バトゥ市、マラン県からなる大マラン圏(Malang Raya)産です。

なかでも、観光地のバトゥ市は、「リンゴの街」と自称するほどで、市内のあちこちにリンゴを形どった休憩所や標識を見ることができます。

でも、日本のリンゴのような大きくて立派なものは見かけません。ほとんどが小さく、垂直に伸びた枝にたくさん実っています。

これだと収穫するのは大変だろうなあと思っていたら、大きく立派にして収穫することはほとんどないという事実がありました。

すなわち、リンゴ畑は観光農園とし、入園料を払った観光客に好きなだけ摘んでもらうのです。観光客が摘んだ後、残った小さなリンゴは加工へまわし、リンゴジュース、リンゴチップス、リンゴサイダーなどになります。

労働力を雇って丁寧に収穫するとなると、労賃コストがかかります。それを節約して観光客に摘んでもらうほうがコストもかからないし、楽です。

リンゴの観光農園には、大型バスで毎日たくさんの観光客がやってきます。国内だけでなく、マレーシアや台湾などからもやってきます。たしかに、東南アジアでリンゴ狩りのできるところなど、ここ以外にほとんどないようにも思えます。

結局、生食用のリンゴのほとんどは輸入リンゴで占められ、それが故に、ここで生食用のリンゴをつくる動機は生まれず、こうして観光農園+加工で十分やっていける、ということになります。

ある意味、経済合理的と言えなくもないのですが、こうなると、安全安心を確保するために手間暇かけるようなことはしなくなるでしょう。マラン市の果物加工業者は、「ほとんどの熱帯果物は化学肥料や農薬の心配をしなくてもいいが、リンゴは例外だ」と言っていました。

折しも、バトゥ市は有機農業を進めており、オレンジやグァバなどの有機認証を進め、生食用として売り出しています。リンゴも有機認証へ向けて手をつけたところですが、現状のままで果たしてうまくいくのか、疑問です。

インドネシア、いや東南アジアでも希少なリンゴ産地であるこの地で、生食用のリンゴが輸入リンゴを駆逐する、といったことはもはや起こりえないのでしょうか。それは、安全安心の果物というカテゴリーにリンゴは入るのだろうか、という問いでもあります。

インドネシアで見かける中国産のふじリンゴ。そうだ、自分が中学生ぐらいだった頃、たくさんの中国からの技術研修生が福島市のリンゴ農家に学びに来ていたっけ。このふじリンゴの技術は、もしかしたら、あの時の福島市で学んだ技術ではないのだろうか。

7月26〜28日、福島市の方々をこの地にお連れし、リンゴ園などをまわりながら、そんなことをふと思い出しました。今回の出張の簡単な活動報告を以下のリンクに書きました。

 福島市の皆さんとマラン市・バトゥ市へ

変わり行く季節の中で味わう桃とサクランボ

日本でもインドネシアでもそうなのですが、最近は季節の様子がだいぶ変わってきているように感じます。気候変動や温暖化の影響なのでしょうか。

たとえば、日本の梅雨は、雨がしとしと何日も降り続く、というイメージでしたが、最近の梅雨は、しばらく雨が降らないのに、降ると集中豪雨、という、なんだか熱帯の雨に様相がずいぶん似てきたような気がします。

他方、すでに乾季に入ってもおかしくないはずのインドネシアでは、ジャワ島を中心に相も変わらず雨が降って、洪水や鉄砲水まで起こっています。

こうした季節の様子の変化は、風情というものも時とともに変えてしまうのかもしれません。「梅雨の長雨」が消えて、「梅雨の豪雨」となる日が来るかもしれません。

そんななかで、四季を愛でる我々日本の人々は、これからどんなところに季節を感じていくのでしょうか。季節を感じる対象が変わってくると、季節感というものも自ずと変わってくることでしょう。

幸運にも、私自身は、このところ、初夏を感じさせる果物を味わうことができました。

福島の実家で食べた、品種はわかりませんが、おそらく早生の桃。でもこれが思った以上に美味しくて、びっくりしました。これから8月にかけて、赤みを帯びたあかつきや川中島を楽しめることでしょう。

こちらは、東京の自宅で食べたサクランボの佐藤錦。まだちょっと早いような気がしないでもないですが、赤く色づいたものは甘みが強く、美味しくいただきました。山形から送られてきたものですが、以前、福島がサクランボの大産地だったことがあったのです。

桃や佐藤錦で初夏の匂いや味を堪能して、さて、これから7月4日まで、またインドネシアへ出かけてきます。行先は、スラウェシ島、久々のゴロンタロ州ボアレモ県です。

未来の祀りカフェに参加

6月26日(日)は、午後から福島銀行ビル12階で行われた「未来の祀りカフェ第1回」に参加してきました。

この「未来の祀りカフェ」は、8月に行われる「未来の祀りふくしま」に並行して行われる行事で、「ふくしまに学ぶ、ふくしまで学ぶ」をモットーに、福島の伝統や文化を福島の地でより深く学び、これからの福島の未来を創っていくための礎の一つにしようという意気込みを感じるイベントでした。

8月の「未来の祀りふくしま」は、「昨年に引き続き、東日本震災の現実を伝え、鎮魂と再生の祈りを込め、伝承していく新しい表現としての現代の神楽「ふくしま未来神楽」第三番を創作し、福島の総鎮守である福島稲荷神社に奉納、発表する」(ホームページより引用)ものです。

今日のカフェでは、まず第1部で、福島の神楽について学びました。福島県文化財保護審議会委員の懸田弘訓氏が神楽の基礎知識をユーモアを交えて分かりやすく教えてくださった後、市内にある金沢黒沼神社の十二神楽のうち、剣の舞、猿田彦(四方固め)、三人剣の3神楽が演じられました。

この金沢黒沼神社の神楽は、福島県内で最も古く(元禄10年頃)伝わったものらしいです。猿田彦の舞で使われた面は、鎌倉時代に彫られたもののレプリカで、オリジナルは大切に保管されているそうです。鎌倉時代にはまだここに神楽はなく、後に神楽を舞う際に猿田彦の面を流用したのだろうという解釈でした。

金沢黒沼神社には、蝦夷征伐という神楽があります。蝦夷征伐に来たヤマトタケルを酔わせてやっつけようとした村人たちが返り討ちにあう、というユーモラスな内容で、この神社にしか見られない珍しい神楽だそうです。

金沢黒沼神社はほぼ毎月のように神事や祭礼があり、地元の人々の信仰の厚さが偲ばれますが、他の神社と同様、氏子数の減少や後継者不足の問題に直面しているようです。

続く第2部では、福島県立博物館長の赤坂憲雄氏と詩人でこのイベントの仕掛け人である和合亮一氏との対談でした。

様々な内容がとめどなく話されましたが、言葉とは言葉に置き換えられないものがあることを理解するために存在するものであり、だからこそ言葉は大事にされなければならないのに、今は言葉が蔑ろにされているという危機感が示されました。言葉を大切にし、言葉を取り戻し、言葉へ戻っていく文化を新たな福島の文化として育てていく必要性が提示されました。和合氏は「人づくり、まちづくり、言葉づくり」を福島で取り組むべきものとまとめました。

第3部では、仙台を中心に、アートによるまちづくりに取り組んできたMMIX Labの村上タカシ氏が仕掛けてきた様々な取り組みが紹介されました。震災後にお年寄りがゆるく集える場所としての「おしるこカフェ」、津波が到達した学校に桜を植えていく桜3・11プロジェクトなどのほか、88歳の女性タツコさんがラップで歌う「俺の人生」も紹介されました。

88歳の新星ラッパーTATSUKO★88「俺の人生(HIP-HOP ver.)」

村上氏は、モノではなくコトのアート、建築型のアート、行為のアートがこれからますます必要になっていくという見解を示しました。イベント終了後に本人とも話しましたが、建物を建てない建築家としてコミュニティ・デザインを提唱する山崎亮氏に近いスタンスのように感じました。

この機会に、前からお会いしたかった赤坂憲雄氏や和合亮一氏とお会いできたのは良かったし、伝統芸能などを含めた形で、新しい福島を作っていくための本質的な部分に触れる良い機会になったと思いました。これから回を重ね、各回の内容を蓄積していくことで、このカフェが新しい何かを生み出す機会を創っていくような予感がありました。

なお、インドネシア出張と重なってしまったため、昨年に引き続き、今年も自分は8月の福島稲荷神社での「ふくしま未来神楽」の奉納を見ることができないのが残念です。まだ少し早いですが、今年の奉納の成功と盛会を心から祈念する次第です。

福島をダイバーシティ尊重の先進県に

昨晩、高知から東京の自宅へ戻ったのですが、今日は午前中に歯医者へ行った後、そのまま新幹線に乗って、再び福島へ舞い戻りました。

午後から訪ねたのは、「ふくしまダイバーシティシネマ&トーク」という催しです。22日に福島へ日帰り出張した際に知人から勧められ、急遽、参加を決めた催しでした。

まずは、「パレードへようこそ」というBBC制作の映画を鑑賞しました。1984年サッチャー政権下のイギリスを舞台に、性的マイノリティの若者たちがストライキを続ける炭坑労働者たちの支援へ動いた実際の話を描いた作品で、彼らに対する根強い社会の偏見とそれが少しずつ克服されていく可能性が映し出されている映画でした。

映画を観た後、アフタートークで性的マイノリティに関する基礎知識を確認し、感想を語り合う場が設けられました。

日本では、虹色で表現される「ダイバーシティ」は、一般に、性的マイノリティ(略して「セイマイ」というらしいことを知りました)を尊重することを指すようですが、性別だけでなく、宗教、種族、出自など様々な要素もダイバーシティの中に含まれてくると思われます。

セイマイは、本人がそうと打ち明けない限りは周囲が分からないので、それがしやすいような環境を作っていくことが求められるという特質があります。もっとも、それは、見た目ではなかなか分かり難い種族や出自や過去など、打ち明けた途端に差別や色眼鏡の対象となりうるようなものとも共通しているかもしれません。

たとえその人がどんな人であっても、性的マイノリティであっても、実は日本国籍を持っていなくとも、差別にさらされてきたコミュニティの出身だったとしても、忘れられないような屈辱や虐待を受けた過去を持っていたとしても、そうした方々が安心して暮らせる、安心して受け入れられる、そんな社会を作っていこうというのが、ダイバーシティの目指すところなのだと思います。

頭の中でダイバーシティを勉強し、「そのような社会にすべきだ」と言っても、上記のような方々を受け入れる社会にはなりません。一人一人が、この世の中には様々な人々が存在し、もしかしたら今、自分が接している人がそうなのかもしれない、という想像力をできる限り豊かにする努力を常に続けることが重要なのではないかと思います。そして、「なるほどね」「そういうのもアリだよね」と、多様な人々の存在を当たり前のこととしてフツーに受け入れられる能力や寛容性を自分で高めていくことなのだと思います。

そしてその能力は、マジョリティと思っている人だけでなく、マイノリティと思っている人にも必要なものです。でも、まずはマジョリティと思っている人から動く必要があることは言うまでもありません。

ふと、親を喜ばせたい一心で好きでもない勉強を無理やり頑張ってしまう子どもや、空気を読まなければならないと思い込んでいる会社人間や、何かのために過度な我慢を自分に強いている人たちのことが頭をよぎりました。彼らはマイノリティではないし、差別の対象にもならないだろうけれども、本当の自分を打ち明けられないという意味では、ある程度は同じなのかもしれません。彼らが本当の自分を安心して表現できる社会もまた、ダイバーシティの目指す方向に包含され得るのではないでしょうか。

だとするならば、ダイバーシティ社会というのは、様々な他者を尊重しながら、自分らしさを安心して表現できる社会ということになるのかもしれません。それは、特定の思想や考え方に染まり、それに合わない人々を排除していく社会(誰にも要求されないのに率先して自らをそれに合わせようとする人々さえ出現します!)とは正反対の、インクルーシブな社会、ということになるでしょう。

多様性の中の統一。人と違うということが力になる。そんなことを日常的に見聞きする、ごった煮の国「インドネシア」のことを思い出していました。そんなインドネシアでも、国家の名の下に、ある一定の方向へ人々を向けさせようとする動きはしっかりと存在しているのです。

今回の催しを主催したダイバーシティふくしまは、福島を多様性(ダイバーシティ)尊重の先進県にし、その重要性を全国へ発信していくことを目標に活動を行っています。東日本大震災や原発事故の後、福島は様々な入り組んだ差別や偏見の対象となり続けています。そんな福島だからこそ、ダイバーシティが大事だということを発信していかなければならないという気持ちが感じられます。

椏久里のケーキとお気に入りの蕎麦屋

6月22日、福島市に日帰り出張しました。

肝心の福島市役所での会議は午前中で終わり、昼食を摂ってから、知人と椏久里(あぐり)でコーヒーを飲み、活動拠点とする予定の古民家の様子を見に行って、実家で夕食を食べてから、新幹線で東京へ戻ってきました。

椏久里でコーヒーを飲みながら、知人から「福島に活動拠点を作ってやるといったのに、全然福島に来ないじゃないの!」と追及され、「言わなきゃよかったのにね」などと諭され、今週末に強制的にまた福島へ来る予定が入ってしまいました。

インドネシア関連案件が11月ぐらいまであり、物理的になかなか福島に腰を落ち着けられない後ろめたさを感じつつ、でもマイペースで進めていくしかないよね、なんとかなっていくものさ、とちょっと呑気に構えてしまう今日この頃です。

椏久里の今月のケーキを2個も食べ、2つともとても美味しかったので、写真だけでも載せておきます。もちろん、椏久里の美由紀さんに聞いて、それぞれのケーキに合うコーヒーを勧めてもらい、満喫しました。

別にケーキを売り物にしている店ではないけれど、とにかく美味しいのです。ヨーロッパ、とくにウィーンのケーキ菓子に造詣が深く、研究熱心なのです。世界中のコーヒーから選りすぐったコーヒーはもちろん、ケーキもお忘れなく。

椏久里の店主・市澤秀耕さんの記事がありました。以下のリンクをご覧ください。

 (リレーおぴにおん)カフェより:3
  語り合い、苦しみ分かちあう 市澤秀耕さん

椏久里に行く前に昼食をとったのは、手打ち蕎麦屋のよしなり。福島市のパセオ通りにあるこじんまりとした店なのですが、店内の雰囲気がとてもよくて、居心地が抜群に良いのです。軽めのジャズ系の音楽が流れるなか、茹で加減が素晴らしい蕎麦が出てきます。

今日食べたのは、Cセット。ミニせいろ+ミニ天丼です。

店員さんの対応も気持ちがよく、今回が2回めですが、すっかり気に入ってしまいました。

昔ながらの蕎麦屋といえば、福島市内では喜多屋、喜多八、峰亀など、私が子どもの頃からある老舗の有名店があります。その後、他に何軒も新しい蕎麦屋ができています。

でも、よしなりは何といっても居心地が本当によくて、私の福島での大事な場所になるかもしれません。

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