FAX番号を用意しました

網戸を入れて事務所を整え、法人銀行口座を開き、法人インターネットバンキングの準備をし、法人用クレジットカードを用意して、ようやく仕事をきちんとできる体制が整ってきました。

でも、FAXを用意していませんでした。今どき、FAXを使ってビジネスを行うケースは少なくなったとはいえ、何かとFAXが必要になる場合がまだあるかもしれません。かといって、今さら、固定電話を敷設して、FAX機を置くというのも、非効率です。

なぜなら、ハードのコストがかかるうえに、FAXが届いても、FAX機のある場所にいないと送られてきた書類を受け取ることができないからです。私のように、東京、福島、インドネシアといった形で、あちこちを動き回るのでは、固定されたFAX機はあまり意味がないようにさえ感じます。

では、どうするか。やはり、名刺などにFAX番号が書いてあるほうが心象がいいような気もするし。

そこで、今回、使ってみることにしたのが、インターネットFAXです。

これは、FAX機がなくとも、送られてきたFAX原稿がPDF化されて、指定のメールアドレスへ送られてきて受信されます。また、こちらからFAXを送信する際にも、原稿をPDF化して、指定のFAX番号へ送ることができます。

もちろん、インターネットFAXのソフトウェアやアプリを介して、送受信が行われます。

このインターネットFAXのメリットは3つあります。

第1に、世界中どこにいても、インターネットに接続でき、メールが使える状態ならば、FAX送受信ができることです。モバイルに動く自分にはとても都合のいい状態です。

第2に、インターネットを介するので、固定的なFAX機を設置したり、固定電話回線を引く必要がありません。FAX番号は、インターネットFAX会社の提供する番号を使えばいいのです。

第3に、インターネットを介するので、電話代のような通信費がかかることはなく、基本的に、インターネットFAX会社への支払いのみが必要となります。例えば、送受信を1カ月に各々150ページ以下であれば、1カ月1500円、1年ならば割引がついて15,000円で済みます。

これにより、インターネットをやられていない方でも、私とFAXでやり取りができるようになります。送受信の原稿は全てPDFで保管できます。インドネシアにいても、問題なくFAX送受信可能です。

このサービス、昨日から始めました。私宛のFAX番号は以下のとおりです。

 024-505-4294
 (海外からの場合は、+81-245-505-4294

FAXで何かを送られる場合は、上記の番号まで、よろしくお願いいたします。

オフィスに網戸を入れてから東京へ

今日は、オフィスの3つの窓に網戸を入れてもらいました。

私のオフィスは、木々に囲まれ、草が茂っている、緑豊かな環境にありますが、このところ、蚊がたくさん飛ぶようになり、窓を開けておくと、蚊がどんどんオフィスの中に入ってきて、私の血を吸ってくれます。これではなかなか机での仕事に集中できないので、オーナーの許可を得て、網戸を入れてもらったのでした。

たまたま、弟が福島で長年、建築資材商社に勤めており、弟の高校時代の友人のサッシ関連メーカーの福島営業所長に頼んでくれました。6月1日に、まず弟が来て窓の寸法を測り、その後、弟の友人が来て再度寸法を測り直しました。

そして今日、弟の友人があらかじめ作った3つの網戸を持参し、3つの窓にきっちりとはめてくれました。

あっという間に作業は終わり、請求書を後ほど送ってくれることになったのですが、親友の兄ということで、大幅にまけてもらうことになりました。そんな額でいいのか、とも思うのですが、弟と話をつけてある様子です。商売上、弟と弟の友人は頻繁に取引しているようで、今回のような破格の値段でもいいようなのです。

なんだか、思いっきり、地元であるがゆえのメリットを感じてしまいます。近いうちに、弟と弟の友人と一度はお酒を飲むこと人るような気がします。そんな風にして、地元でのお付き合いが深まっていくのでしょう。

網戸の入ったオフィスは、風が通っても蚊は飛んで来ず、とても快適で、居心地の良い空間になりました。

網戸を入れてオフィス環境が整い、年金保険などの手続もほぼ終えて、活動のための準備はほぼ終了という感じです。

夕方、高速バスでいったん東京へ戻りました。でも来週も後半は福島の予定です。

FUKUSHIMARTを訪問、若手農業生産者と会う

今日は、友人のM氏の紹介で、彼がプロデュースに協力したFUKUSHIMARTを訪問してきました。

FUKUSHIMARTは、三春ハーブ花ガーデン(郡山駅からタクシーで約15分)の一角にあり、6月1日にオープンしたばかりの施設です。12人の農業生産者が自ら加工品を生産し、それをこの場所に陳列して、販売しています。12人でローテーションを組んで、生産者自らが売り場に立ち、来客者と直接コミュニケーションし、自分の作った商品の魅力を伝えています。

他には見かけない、ちょっと工夫した商品としては、瓶の中に果物やバラなどがあらかじめ入っていて、それに炭酸水やアルコール飲料を加えて冷やすと、美味しいサングリアや果実酒になる、といった商品(自家製サングリアの素、自家製果実酒の素)がありました。

また、福島県ではもう珍しくなってしまった、昔ながらの製法で作った醤油やそれをベースにした油醤油(にんにく味、唐辛子味、カツオ味)などもありました。

これらの他にも、君のためのマヨネーズ、僕のためのマヨネーズ、娘のためのたまご、妻のためのたまご、東和の桑のほうじ茶、蜜入り紅玉りんごジュース、あだたら山のミルクジャム・ジンジャーシロップ、奥川源流米、食べるバラ・コンフィチュール、カレーのお米、玄米コーヒー、食べる紅茶、もろみふりかけ、ヨーグルトシュガー、西洋野菜(カーボロネロ、黒大根。黄金カブなど)、創作麺(つるつる菜っ葉麺、ゴンボ麺、アカモクうどん)などが陳列されています。
FUKUSHIMARTに来れば、これらを作った農業生産者から直接、商品に関する説明を受けることができます。説明はとても丁寧なので、10分も15分も彼らと話し込んだりしてしまいます。
この場所は、モノを売る場所であると同時に、来客者とのつながりを作る場でもあるのです。12人の農業生産者は一つのチームとして組織されており、各人が自分の売上だけを考えているわけではありません。若い自分たちが先頭に立って、震災後の福島において、積極的に6次化に取り組み、農業の新しい方向性を作っていこうと前へ動き始めたように見えました。
彼らの商品の一部は、東京及びその周辺で開かれるマルシェに出品されるほか、福島県のアンテナショップである日本橋ふくしま館MIDETTEでも販売されています。
今日は、地元テレビ局の生放送が入るということで、残念ながら、彼らとゆっくり話をすることはできませんでしたが、また次回訪問したときには、改めてゆっくり話を聞けたらと思います。
とりあえず、創作麺は福島市で製造し、食べさせてくれるところがあるので、近いうちに、創作麺を食べに出向くことを生産者のS氏と約束しました。

大きな松ぼっくりの落ちる庭

今日、オフィスへ出かけたら、同じ敷地内の古民家のオーナーが手招きするので、何があるのかと見に行くと、そこには立派な松ぼっくりがありました。

この松ぼっくりを使って、どなたか工芸品などを作ってみたい方はいませんか。左側の小さく見える松ぼっくりが普通の大きさなので、ずいぶんと大きい松ぼっくりです。

松ぼっくりに興味のある方、是非ご連絡ください。

この古民家のある庭には、大きな松の木やら竹やらがいろいろ生えていて、いろんなものがとれます。

敷地内のこの広い庭を見ていると、心が落ち着くとともに、ここを使っていろんなことをしてみたいと思ってしまいます。色々なことを仕掛けてみたいと思っています。

阿武隈川のほとりにて

福島市を流れる阿武隈川。今日も北西の風が強い涼しい日でしたが、ふと、阿武隈川を見たくなり、実家からママチャリで出かけました。

福島県庁の隣の阿武隈川沿いにあるのが板倉神社と紅葉山公園。ここで少しゆっくり本を読もうかな、と思ったわけです。そして、しっかり見ることができました。

阿武隈川をしばらく堪能した後、すぐそばの板倉神社へ行きました。

板倉神社は、18〜19世紀に167年にわたって福島を領地とした藩主・板倉氏を祀る神社です。板倉氏の福島藩は3万石、小さな大名でした(ちなみに二本松藩は10万石)。明治維新の頃、官軍が攻めてきたときに、二本松藩は会津藩とともに最後まで抵抗したのですが、福島藩が強硬に抵抗した様子はうかがえません。明治になって福島県の県庁所在地に福島が選ばれ、二本松が衰えていったのは、それを象徴しているかもしれません。

東日本大震災で板倉神社も被害を受けましたが、福島市の復興のシンボルにしたいという氏子の皆さんの尽力で、きれいに修復されました。神社の周りもきれいに整備され、神社にしては珍しく、くつろげるスペースとなっていました。

板倉神社からすぐ下に目を移すと、紅葉山公園があります。秋になると紅葉がたくさん色づくだろうと想像できる公園です。福島城があった頃は、素敵な日本庭園だったようです。新緑がきれいでした。

でも、残念ながら、紅葉山公園はしばらく整備の手が入れられていないようでした。雑草が生え、放置されているように感じました。秋までには手入れをして、きれいな紅葉を楽しめるように整備するのでしょうね。

紅葉山公園を後にして、阿武隈川にかかる大仏橋(おさらぎばし:下写真の右側)と松齢橋(しょうれいばし:左側)を見に行きました。同じ場所から違う方向へ架かる2つの橋です。

私が子供の頃は、松齢橋しかなく、この橋を渡って、渡利地区にある弁天山や花見山へ行ったものでした。国道4号線のバイパスができたときに、大仏橋がドーンと阿武隈川にかかり、その開通を祝うパレードがあったと記憶しています。

ここは、私の高校時代の淡く切ない思い出の場所。今や、あの頃の面影はほとんど残っていませんが、あの時の自分のことは、今でも鮮明に思い出されます。

ここに来ると、あの時へタイムスリップしてしまうのではないか、とドキドキしてしまうのです。ちょっとだけあの時に戻ってみたいような、でも今さら恥ずかしいような、そんな気持ちを抱きながら・・・。

ようやく「看板」をつけました

今日、ようやく、オフィスの入り口ドアに、「看板」をつけました。これだけでも、少しはオフィスらしくなったのではないかと思います。

写真を撮っている自分が写り込んでしまうので、少し斜めにして撮ったら、ややピンボケになってしまいました。

午前中は、亡き父の遺した洋服を取っ替え引っ替え試着しました。色褪せてしまったものも少なくありませんでしたが、まだ大丈夫なものもけっこうありました。

もう少し痩せると履けそうなスラックスも何本かありましたし、そのまま履けるのもありました。もう少し頑張って痩せたほうがいい、と改めて思いました。

試着しながら気づいたのですが、父の寸法と私のがほとんど同じなのです。私は腕が短いので、既製の長袖シャツを着ると袖が余ってしまうのですが、父のシャツの袖の長さはほぼピッタリでした。また、足も短いので、スラックスを買うときには詰めてもらうのですが、それもピッタリ。寸法を直す必要がほぼないのです。

母にそういったら、「これはどう?あれはどう?」と、別の場所から父の洋服を次々に出してきて、試着させてくれます。

そうして、スラックスとジャケットをいくつかクリーニング店へ持ち込みました。来週から、父の洋服を着るのがちょっと楽しみです。

今日の福島も、昨日と同様、北西の風は強く吹き、涼しいというか寒い1日でした。半袖で通したので、ちょっと体も冷えたみたいです。夕方、少々気分が悪くなりました。

6月1日から、英語とインドネシア語でブログ「Glocal from Fukushima」を始めました。インドネシア語で書いた昨日のブログをたくさんのインドネシア人の友人たちが読んでくれて、福島へ行きたいと言ってくれています。嬉しいことです。

名刺を作ろうと思ったのだけれども

今日の福島は、早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、その後も、晴れていたかと思うと急に曇って激しい雨が降る、というのが何回か繰り返されました。そして、だんだんに気温も下がり、肌寒いぐらいの涼しさになりました。

早朝に雷を伴った大雨が降ったらしく、というのは、私自身は全く気がつかずにグーグー寝ていたのでした。

いったん寝たら普通は起きない母でも起きたというのに、私が寝続けていたのは、よほど疲れていたのか、おニューの布団がとても寝心地がよかったからなのか、よくわかりませんが・・・。

そんな不安定な天候なので、出かけるタイミングを間違えると、ママチャリで動いているので、びしょ濡れになる可能性が高いのです。幸い、そうなることはありませんでした。

そろそろ名刺をきちんと印刷所に頼んで作ってもらおうと思い、ママチャリで何軒かまわってみました。

まず、オフィスからすぐの印刷所。閉まっていました。

次に、実家からすぐの印刷所。弟の会社の名刺を作っているということなのですが、閉まっていました。

これら2軒とも、印刷機が動いている音もしなければ、人の気配もありません。

雲行きが怪しそうなので、もう1軒、フランチャイズらしき店へ行きました。そこはやっていたのですが、値段を聞いて、そんなに安くなかったので、やめました。

これまで、自分の名刺は、自分で好きなようにデザインして、自分のプリンターで両面印刷したものを使っていました。正式にきちんと名刺を作る前の暫定のつもりだったのですが、店に持ち込むよりも、自分でプリントしたほうが効率的で、カラーならばコストもあまり変わらないかむしろ安い、と判断しました。

おそらく、今や、名刺もネットで手早く作ってしまうのが主流となっているのでしょう。

せっかく福島市で会社を立ち上げたのだから、できるだけ地元の昔からやっている企業とお付き合いしていきたいと思い、多少のコストアップは覚悟して、印刷所をまわってみたのですが、今日まわった2つの印刷所は閉まっていました。

福島市でも、業績好調な規模の大きな印刷所はいくつかあります。どうも、一握りの好調な印刷所のみが生き残っていき、小さな印刷所は淘汰されていく運命のようでした。

印刷所に限らず、福島市内の小さな店がどんどんなくなっている気がします。そして、残っていくのは、高級品や付加価値の高い製品を作る企業とフランチャイズ系の店。

この風潮に抗えるようなどんなまちづくりが可能なのか。たたかいはこれから、と少し力が湧いてきました。

昼下がりののどかな福島交通・飯坂電車の車内
(本文とは関係ありません)

6月の半分以上は福島で過ごす予定

今日から9日まで福島です。何とか少しずつ、事業準備が進んできました。

3月末にスラバヤから送った5箱のダンボール箱は、無事、福島のオフィスへ到着し、今日はそれらを開けました。なお、下の写真の冷蔵庫はオーナーの持ち物で、ずいぶん長い間使われていないものです。

箱を開けると、懐かしい書籍や書類とともに、おそらくダニの類も現れたのでしょう、インドネシアでと同じように、急に首のあたりが痒くなってきました。

緊急に必要なものは、長年使っていなかったノート類や文具なので、それを取り出した後は、しばらく、ダニさんとともに箱の中でお休みしてもらうこととしました。

オーナーのところから私宛の郵便2通を引き取りました。1通はM銀行からのインターネットバンキング用トークン、1通はクレジットカードでした。

銀行からトークンは届いたのですが、肝心の法人向けインターネットバンキングへのログインが何度やってもできない状況になりました。ログインできないのでは、トークンを使う場面も出てこないわけです。

私のパソコンがMacBook Airだからログインできないのかもしれません。今や、法人口座向けのインターネットバンキングでは、セキュリティ対策の面から電子証明書の使用が一般的なようですが、その発行はWindowsでしかできないのです。

やはり、仕事用はいっそのこと、思い切って、Windowsノートパソコンに変えてしまうほうがいいのでしょうかね。好みは、レッツノートかThinkpadなのですが。

以前のブログでも書きましたが、前に29,800円のWindowsノートパソコンを買ったのですが、反応が遅すぎて使えませんでした。でもちょうど、たまたまパソコンが壊れてしまった妻に代用品として取られたのでした。

もう1通のクレジットカードはアメックスのグリーンで、最初にゲットした法人向けビジネスカードです。とても嬉しかったのですが、一つ大事なものが欠けていることに気づきました。振替銀行口座届が同封されておらず、カードを銀行口座に紐つけられないのです。

そこでアメックスへ電話をし、事情を話したところ、1週間以内に振替銀行口座届を送ってくれることになりました。

法人口座のインターネットバンキングの手続がけっこう厳しく、オンラインの会計ソフトでの読み込みもなかなか難しいので、クレジットカード決済でしばらくはしのごうと思ったのですが、カードは届いても、まだそこまでには至れていません。

おそらく、6月はその半分以上を福島で過ごすことになりそうです。インドネシアは断食月で、6月の出張予定はありませんが、7・8・9・10・11・12月と毎月のようにインドネシア出張が入る可能性が出ています。

その前に、福島での活動拠点・生活拠点づくりを進め、年後半を見据えて活動の基礎固めをしておきたいと思っています。

福島=岐阜=東京の移動は疲れたが有意義だった

今日は、福島→岐阜→東京と移動の日でした。

福島から岐阜までは669キロあり、片道601キロ以上だと往復運賃割引(1割引)となるので、福島=岐阜間の往復乗車券を購入しました。有効期間は5日間の2倍なので、10日間、5月28日から6月6日まで有効です。6月1日からまた福島の予定なので、岐阜から戻る今日は、東京都区内で途中下車、という形にしてあります。

昨日は、福島で「風評被害」に関する勉強会に出ましたが、今日は、岐阜で、正会員になっている認定NPO法人ムラのミライの年次総会に出席してきました。

ムラのミライの年次総会に出席したのは初めてで、これまではいつも委任状で済ませていました。

今回、わざわざ岐阜まで来て総会に出席したのは、前から一度総会に出席したいと思ったこともありますが、ムラのミライの事務局メンバーでまだお会いしていない方に実際に会いたかったことと、今後の私の福島での活動との関連で、ムラのミライの活動や手法を地域づくりの現場に引きつけたい、と考えたためでした。

ムラのミライは、対話型のメタファシリテーションという手法を広める活動をしています(オンライン・コーチングオンライン・レッスン自主学習ブログもあります。興味のある方はぜひ、トライしてみてください)。

ただ、その手法を学ぶ前に、日本の地域づくりの現場の現実を理解し、手法を云々する前の状況把握をする必要があると思います。私自身は、それを実際に福島で試みてみたいと考えています。

その意味で、今回、ムラのミライの本拠地であった飛騨高山に根付いて、地域づくりの活動を地道に続けてきた、創設メンバーのYTさんとお会いでき、しかも、1対1で色々とゆっくりお話できたのはとてもラッキーでした。そして、YTさんも、コミュニティの直面する課題には、ユニバーサルな共通性があるという認識を持っていらっしゃることもわかり、個人的にはとても勇気づけられました。

行きの新幹線の中で、今、話題になっている、Facebook創始者ザッカーバーグ氏のハーバード大学卒業式でのスピーチをネットでじっくり聴いたのですが、そこでも、ローカル・レベルでのコミュニティ再生からの出発、誰もが目的を持てる世界の構築、世界レベルで繋がって課題を解決していく、といった内容が、これから自分がやりたいと思っている活動やYTさんの考えとも関わる面がかなりあると改めて思いました。

それにしても、今日の移動は、やはり体にこたえました。明日から3日間は東京です。

福島で「風評被害」の勉強会に出席

今日5月27日、福島市曽根田のアオウゼで、NPO法人ふくしま30年プロジェクトの主催する「風評被害」の勉強会に出席しました。講師は福島大学の小山良太氏で、とても納得できる話を聞くことができました。

風評被害については、つい最近、NHKのクローズアップ現代で取り上げられ、少し前の私のブログで、米の全量全袋検査のことを書きました。また同じ内容の番組をNHK東北版で放映したそうで、小山氏は東北版のコメンテーターを務めたとのことです。

小山氏によれば、風評被害の原因は消費者の買い控えではなく、流通における取引順位の低下(最下位になったこと)にある、という点です。

果樹のように、希少性や時限性の高い旬のある産品はあまり影響がない一方、米や肉のように、年間を通じて安定供給される産品において、福島産の取引順位、すなわち市場で取引される順番が最も後になってしまった点が原因である、という見解です。

米について言うと、福島の米はもともと品質が高いため、家庭用として売られてきましたが、震災後、市場での取引順位が最下位となってしまい、業務用として扱われるようになっていきました。現在、JAと民間とを合わせて、福島米の6割程度が業務用になっているようです。

福島米が最も流通しているのは首都圏ですが、その次に多いのが沖縄県です。その沖縄でも、福島米の取引順位は大きく下がり、価格が下がりました。それを受けて、ある沖縄のお弁当屋さんが米を福島産へ変えたところ、「弁当が急に美味しくなった」と評判になり、作る先から売れてしまうのだそうです。

牛肉でも、福島産の取引順位は最下位で、和牛枝肉価格でキロあたり全国平均よりも500円低い状態で推移しています。畜産農家のマージンはキロあたり500円と言われていて、全国平均より500円低い福島の畜産農家は損益分岐点、儲けが全く出ていない状態ですが、畜産を止めてしまうと肉の供給に支障をきたすため、生かさず殺さずの状態になっているという話でした。

福島産の米や牛肉の取引順位をどのように上げていくか。市場による評価を上げていくか。これが風評被害を克服するために重要だというお話でした。

そして、振り返ってみると、福島産の農産物は品質がよかったので、とくに取引順位をあげることを震災前まではほとんど考える必要がなかったということが想起されました。北海道や山形が、必死になって取引順位を上げるために懸命なマーケティングを行っていたのとは対照的に、福島はそんなことをしなくても売れたのでした。

震災前と比べて、福島産の農産物の品質が落ちたということはありません。それでも市場で売れないのは、消費者が買わないというよりも店頭で売られていない。それは、流通段階での取引順位が最低になっているためで、それは流通業者が消費者には売れないと勝手に忖度しているためなのでした。

他方、福島側は、消費者や流通業者へ「品質が良い」ことをアピールし、だから正当な価格で売って欲しいとお願いするのみで、自分たちが取引順位を上げるためにどのような戦略をとるのか、がまだ欠けているように見えるのです。

北海道の夕張メロンがどのように静岡のマスクメロンに勝っていったのか。山形のつや姫が取引順位を上げるために県がどのような政策をとったのか。

小山氏は、もしかすると、原発事故が仮になかったとしても、福島の農業は同様の問題に直面していたかもしれない、とも考えていたようです。すなわち、高品質という評判を受けて、従来通りのやり方を続けていくなかで、厳しい市場競争において取引順位を落とした可能性もあったのではないか。

風評被害というピンチだからこそ、それをチャンスと捉え、新しい戦略を考えなければならないのかもしれません。たとえば、業務用の米の需要が伸びていくなかで、これまで家庭用を前提に作ってきた米を業務用を前提に作るとした場合、どのような戦略をとるか。大手コンビニとの契約栽培もありではないか。

また、旧来のブランドに縛られるのではなく、むしろ、全く新しいブランドを立ち上げて、それも用途別・機能別のブランド化を考えるほうが効果的ではないか。

山形のように、つゆ姫のような高級ブランド米を作る地域と業務用米を作る地域とを明確に分ける戦略も考えられるのではないか。

小山氏は、風評被害を克服するためには、福島の農業自体が自ら変わる必要があるということを強調していました。食管制度に守られた農業の感覚からまだ抜けられていない、とも指摘しました。

他にも、福島市で初めて行なった米コンテストの効果が予想以上だった(農家どうしが競うことを嫌う風潮もあり、他の農家の米作りを学び合う機会がなかったようです)、という話も、若干の驚きをもって聞きました。

最後に、外国、とくにアジア諸国では、福島産農産物へのマイナスイメージが極めて高いという問題に触れられました。そして、状況説明を福島県が行っているものの、国家として政府が外国へ向けて、原発事故の影響を何も総括していない、総括報告書を出していない、という事実を指摘されました。

そう、そうなのです。外国政府から求められているのは、日本政府としての総括報告書なのです。ところが、日本では、福島県がその総括をやる立場になっています。その一方で、東京オリンピック招致の際には、国レベルで「東京は福島から270キロ離れているから安全だ」などとスピーチしてしまうのです。総括はしたのか?と言いたくなります。

産物の取引順位を上げるために、産地対策に力を入れ、きちんとした戦略を作る。国に原発事故後の農業の状況に関する外国向けの総括報告書を作らせる。そして、農家は、他の農家といい意味で競い合いながら、粛々と真面目に農業を行っていく。

福島の農業にとって必要なのは、良質な刺激と適切な戦略を作っていくためのしっかりした実態調査なのかもしれません。小山氏の講演から様々な学びを受けました。さらに、しっかりと見続けていきたいと思いました。

高校時代の友人と38年ぶりに再会

今夜は、高校時代の部活の仲間3人と一緒に飲みました。彼らと会うのは高校を卒業して以来、実に38年ぶり。3人のうちの1人は、小学校、中学校、高校と一緒の友人です。

我々は高校時代、福島県立福島高校の男声合唱団に属していました。高校時代の話はもちろん、当時の友人たちや恩師の消息についても色々と情報交換しました。けっこう、たくさんの友人たちが東京周辺にいるようでした。

彼ら自身は、時々、年に数回、高校時代の友人たちと会っているようでしたが、海外へ行っていることの多い私とはほとんど接点がありませんでした。あるとき、友人のアカウントをフェイスブックで見つけ、連絡を取るようになって、今回のような、38年ぶりの再会となったのでした。

不思議な気分です。いったん会うと、38年の年月があっという間に消え、昔の自分に戻っていました。お互いに名前を呼び捨てにできる、高校時代の仲間との出会いというのは、やはり何ものにも代えがたいように感じました。

1000万袋以上の福島県産米を全量全袋検査、基準値越えは無し

マカッサルからいきなり福島の話へ移ります。

夜のテレビで、福島米の風評被害の話を取り上げていました。安全安心なのに、なぜ売れないのか、という話でした。

福島県では、出荷販売用だけでなく、自家用も含めて、県産米の全量全袋検査を2012年8月から実施しています。ここで採られている方法は、「ベルトコンベア式放射性セシウム濃度検査器」によるスクリーニング検査で、30キログラムの玄米袋を毎年1000万袋以上、検査しています。

スクリーニング検査について、福島県は以下のページで説明しています。

 全量全袋検査のスクリーニング検査

そして、2014年以降、すべての袋が基準値(100 Bq/kg)以下となっています。1000万袋以上のすべてが基準値以下、ということになります。そして、基準値の半分を超えるものについては、さらに、ゲルマニウム半導体検出器による詳細検査を行っていますが、その対象となったのは、2014年で、1000万袋以上のうちのわずか2袋でした。

日本で、福島県以外でこれと同じレベル以上の検査を行っている都道府県は、ほかにあるでしょうか。いや、世界であるでしょうか。

福島県産の米は、日本一、いや、もしかすると世界一、安全安心の米であると言えるでしょう。

農家Aさんの何年何月何日に出した玄米袋の米は基準値以下だった、というデータが2012年から蓄積されています。膨大な量の「基準値以下」データを福島県は取り続けています。

自分のところから基準値以上の米が出てしまったら、世間から「やっぱり福島は」と言われてしまう。風評被害が本当だったと思われてしまう。他の頑張っている農家から目の敵にされてしまう。

そんなことを思っていたかどうかはわかりませんが、全量全袋検査での基準値以下が当たり前となる状態を作るため、福島県の農家の方々は懸命に努力を重ねてこられたに違いありません。その努力は、私たちが認め、敬うべきものだと思います。

にもかかわらず、こうした現実を一切認めたくない人々が存在します。土壌が汚染されていないはずがない。スクリーニング検査の機械の精度がおかしい。データを捏造しているに違いない。

このような人々は、もう何を言ってもお手上げです。そういう人の何人が実際に福島の現場を訪れているでしょうか。自分の言っていることの間違いを認めればいいだけなのに。間違いを認めたくないがために、風評を流し続けているようにさえ見えます。

風評は、反論してなくなるものではないとも思います。データをきちんと残し、地道にコツコツと事実を積み上げて示していくしかないものです。その意味で、福島県が今もずっと米の全量全袋検査を続けていることは、面倒ではあっても、やらざるをえないことだと考えます。

この日本一、いや世界一厳しいかもしれない、福島県の検査手法は、おそらく、食の安全安心を確保するうえで、時代の最先端をいくものかもしれません。もしそうならば、日本が世界に誇るべき食の安全安心を確保する手法として、世界に輸出できるようなものではないか、と思ったりもします。

風評被害に悩む福島県の食の安全安心対策が、実は世界最先端であるかもしれないと考えると、この手法が世界で受け入れられることが、世界の他国での食の安全安心に貢献し、かつ、国内の風評被害を一掃することにつながるのではないか、と思うのです。

オセロのように、風評被害対策の一発逆転があるような気がします。

急遽日帰りで福島へ、その理由は

今日5月11日は、急遽、東京から福島へ日帰りしました。昨晩、事務所の件でお世話になっているオーナーから電話があり、福島地方法務局に出向いて確かめなければならない用事が出来たためです。

オーナーによると、その電話は「定款が提出されていない」という内容でした。まさか、登記手続を終えて、国税庁から法人番号も通知されて、銀行法人口座の開設を進めるなど、事業開始の準備を進めているのに、その根本たる定款が未提出とは、一体どうなっているのか、最初は見当がつきませんでした。

3つの可能性が考えられました。第1に、電子定款で申請したのに、法務局が「紙の定款がない」と勘違いした可能性。第2に、電子定款で申請した際のCD-Rに私がファイルをきちんと焼き付けていなかったのでファイルが見当たらないという可能性。第3に、これは大変失礼なのですが、オーナーが何か聞き間違えた可能性。

そこで、昨晩は、もう一度きちんとCD-Rに焼き付けるとともに、それをプリントアウトした「紙の定款」を用意しました。CD-Rに焼き付けたファイルをMacでもWindowsでも読めることを確認しました。

それらを持参して、今朝、東京の自宅を出発。山手線に乗ったら、「新橋駅と浜松町駅の間で人が線路に立ち入った」という理由で電車が15分以上動かず、予定よりも30分以上遅い新幹線で福島へ向かいました。

東京は夏のような暑さになったということですが、今日の福島は最高気温が20度に届かず、小雨もぱらつく肌寒い1日でした。

福島地方法務局へ直行し、事情を説明しました。係員は当社の登記関連資料を精査し、「電子定款できちんと申請され受理されており、登記上の不備は全くなく、そのような状況で法務局から電話をすることはありえない」と答えました。焼き付け直したCD-Rも「紙の定款」も全く不要でした。狐につままれたような気分になりましたが、登記上の問題が何もないことを確認できてホッとしました。

もしかして、法務局の方が勘違いしたのかもしれません。それならいいのですが、仮に、誰かが法務局を名乗って何かを企てようとしたのなら、ちょっと怖いです。真相は藪の中となりました。

今回の日帰りは、この法務局での確認が主目的だったのですが、それ以外に、オーナーに預かってもらっていた、国税庁からの法人番号通知書や、T銀行の法人口座キャッシュカードや法人インターネットバンキングの開始手続案内などを受け取ることも目的の一つでした。

それらを受け取って、T銀行のインターネットバンキング開始手続をしました。まず、個人口座のインターネットバンキングの開始手続はすぐに終わりました。

面倒だったのは、法人口座のインターネットバンキングの開始手続です。どうしても分からないので、電話をかけてやり方を聞きました。この電話での担当者(女性)の説明が懇切丁寧でわかりやすく、ずっと順を追ってやり方をガイドしてくれました。途中、私のMacBookでは使えない機能などがあり、最初から戻って根気よく手続きをし直す際にも、ずっとお付き合いいただけました。

正直言って、地方銀行ということで、T銀行を都市銀行ほどサービスはよくないと勝手に思っていたのですが、この法人口座のインターネットバンキングのガイダンスはとても素晴らしいものでした。おかげで、何とか法人口座でもインターネットバンキングが使えるようになりました。

さらに、嬉しいラッキーは、3月末にスラバヤ中央郵便局から船便で送った荷物が今日届いたことでした。ただし、5箱送ったうちの3箱だけでした。税関検査などがあるので6月末ぐらいに届くかと思ったのが、1カ月半かからずに届きました。後は、残りの2箱が届くのを祈るのみです。

そして、今日のランチは、前々から行きたいと思っていた福島駅東口のサイトウ洋食店にいくことができました。これまで3度試みましたが、定休日だったり、貸切だったりで、行けてなかったのです。今日は11時半に一番乗りで店内へ入り、牛タンのカレーライスセットをいただきました。新鮮な地元野菜をふんだんに使っていて、なかなか美味しいカレーでした。この店には、これからもよく来るような予感がします。

というわけで、急な日帰りの割には、満足できるものもいろいろあって、新幹線代はかかったけれども、まあ、良かったのかな、という感じです。

法人口座開設の顛末

事業の準備として、これまで3つの銀行(T銀行、M銀行、R銀行)で法人口座の開設を進めてきました。今回は、その顛末について、少しお知らせしたいと思います。これから会社設立を考えている方の参考になれば幸いです。

まず、会社を登記した福島市に1つ開設しました。事務所から歩いて2分のところにあるT銀行の支店です。福島県ではナンバーワンの地方銀行です。

この支店は、私がお世話になっている古民家のオーナーが懇意にしており、オーナーには今回ずいぶんと助けていただきました。

口座開設の開設を申し込んだのが4月21日でした。翌週、本社住所の状況をみて、口座開設の可否を判断する、ということで、実際に事務所へ来られたのは4月26日朝でした。なんと、支店長と次長が二人でお出ましになり、びっくりしました。

事務所の様子を確認し、古民家のオーナーを交えて色々話をした後、再度、支店へ出向いて書類を整え、翌4月27日に無事法人口座を開設できました。

古民家のオーナーのおかげに加えて、次長が高校の後輩というつながり、支店長も交えて自分たちの中学・高校時代の話題で盛り上がれる、あの親近感は他ではなかなか味わえないものでしょう。

その後、先方のミスで書類の誤りを1箇所訂正するために捺印する必要が生じたのですが、担当者の指示通り、営業時間外だったので支店の裏口から中に入らせてもらいました。地域密着というのは、まさにこういうことを言うのだととても嬉しい気持ちになりました。

2つ目は、東京の自宅近くの都市銀行であるM銀行に法人口座を開設しました。4月21日にオンラインで法人口座開設を申し込み、連休を挟んで、本日5月9日に支店へ出向き、開設手続を行いました。
前もってメールで指示された書類を持参し、いくつかの表記ミスを訂正する作業などをした後、しばらく待たされましたが、「事業内容について少し詳しく教えてください」と言われたので、定款のコピーも提出してお話ししたら、あっさりと了解されました。

そして、そのまましばらく待った後、法人口座が無事に開設されました。きっと、また後日出向く必要があるのだろうと思っていたので、今日の午前中で開設できたのはちょっとびっくりでした。

なお、T銀行でもM銀行でも、法人向けのインターネットバンキングを申し込んだのですが、こちらの手続は、後日、キャッシュカードやトークン(乱数表を発生させる小さな道具)が届いてからインターネット上で手続きをする、ということで、まだしばらくお預けです。M銀行は、オンライン申込だと通帳が発行されないので、しばらく何も取引ができない状態です。

最後の3つ目は、インターネットバンキングで有名なR銀行です。4月28日に法人口座申込書類を送付しましたが、連休中のせいか、「受け取った」というメールの後に「まだ申込されていない」というメールが来るなど、ちょっと混乱しました。

そしてようやく本日(5月9日)、先方から電話があり、いくつか事業内容等について質問がありました。一つ一つ誠実に答えていたのですが、ちょっとカチンとくることがありました。

それは、事業実施状況の分かる資料(契約書など)を送ってほしい、というのです。こちらは設立してまだ1カ月弱で、銀行口座も整えている段階で、法人としての事業などまだ実施できる状況ではないのに、事業実施状況の分かる資料などはあるはずがないのです。それでも、先方は、「それがないと手続ができない」の一点張り。

R銀行は、法人口座の新規開設がしやすい銀行として、ネット上では推奨されていますが、実は、事業実施状況の資料がないと法人口座を作れないようなのです。つまり、全く初めて事業を始めるスタートアップの起業家、ビジネスは初めて、という方々は、R銀行での法人口座開設は難しいと思ったほうが良さそうです。

この点について、電話をかけてきたR銀行の担当者には何度も確認しましたが、答えは「法人口座開設はできない」でした。

初めてビジネスに挑戦される方で法人口座を開設したい方々には、ネット上の「開設しやすい」という評判や情報とは裏腹に、実はR銀行では難しい、R銀行に法人口座を作りたいならば設立後1年程度たってからのほうが良い、ということをお知らせしたいです。

私の場合は、個人事業主のときの事業での契約書1つを送ってくれれば良い、ということになりました。

でも、さらに驚いたのは、その追加資料を「ファックスで送ってほしい」と言われたことでした。店舗を持たない、インターネットバンキングのR銀行が、まさか前時代的なファックスでの送付を求めてくるとは。

R銀行にはこれまで個人口座等でずっとお世話になり、使い勝手の良さを認識してきましたが、今回のやりとりで、ちょっとガッカリな気分になりました。この銀行は、自分たちのグループで派手にEC事業を行っている一方で、新規スタートアップや初めてのビジネスを行う方々を応援してはいない、と認識しました。残念です。

R銀行へ追加資料を送ったからといって、口座開設が進むかどうかは分かりません。電話をかけてきた担当者は、1ヶ月ぐらいかかるときっぱり言いました。R銀行の法人口座が開設しやすい、というネット情報は嘘のような気がしてなりません。

というわけで、今のところ、サービスでは最もクラシックに見える福島のT銀行に一番の親近感を覚えてしまいます。また、都市銀行のM銀行にも法人口座を持てたのはありがたいです。残りのR銀行がどうなるかわかりませんが、とりあえずの法人口座開設の顛末でした。

成長しなかった子供のように常に原点へ戻る

大学を卒業して初めて就職した研究所にインドネシア研究者として23年間奉職し、退職してからすでに9年が経ちました。大学を卒業して社会人になったとき、これからの人生でこんなことをしたい、と思ったことがありました。

それは、地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。援助とかではなく。ものすごく抽象的ですが、そんなことを思いました。

ではどうして研究所に入所したのかというと、まずは、世界中のどこか、自分が最も深く付き合っていけるところのことを知らなければならない、できればそこのところに関するプロフェッショナルになりたい、と思ったからでした。

研究所に初めて出勤したときに、上司から「君はインドネシア」と担当国を告げられ、私のインドネシアとのお付き合いが始まりました。インドネシアのことを全く知らないゼロからの出発でした。インドネシア語を学び始め、インドネシアで発行された英字紙を毎日読んでメモを取り、上司から指示された課題図書を読み、「何も知らないからすべて勉強」と納得して、自分の能力のなさを痛感しながら日々を過ごしていきました。

仕事は調査研究でしたから、先輩や同僚のほとんどは、研究所を退職すると大学の先生になっていきました。過去、私にも数件のオファーがありましたが、タイミングが合わず、結局、お断りしました。

研究所に入って間もない頃、ある尊敬する先輩ベテラン研究者の方が「どうしてみんな大学へ移ってしまうのだろう。専門性を活かしてジャーナリストやビジネスの世界へ行ったっていいはずなのに」とおっしゃっていたのを今も鮮明に覚えています。

私自身、あまのじゃくのせいか、いつも本流ではなく傍流、アウトロー、人とは違うことをしたいと思っていたからかもしれませんが、自分が他の先輩や同僚のように大学へ移ることに疑問を持っていたことは確かです。

研究所を退職してからは、決して順調というわけではありませんでした。専門家の仕事を受けてはいましたが、収入が不安定になると、毎月決まった給料を得られるということがいかに安心だったかということをしみじみ感じました。

教えることが好きな自分は、やはり大学への就職を考えたほうが良いのか。そんなことも思って、教員公募に応募したこともありますが、幸か不幸か、採用されることはありませんでした。他の方よりも能力が劣っているからだと自分を卑下し、そんな自分が嫌になることもありました。でも、幸運にも、どんなときでも家族が支えてくれました。

そして、自分はまだ、研究所に入ったときに思った原点へ戻ることができました。地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。まるで成長しなかった子供のままであるように、今でもまだ、それを追い求めているのでした。

これまでの人生には、色々な選択がありました。その一つ一つを考えたとき、正直、後悔することもなかったとは言えません。でも、これまでの選択が最良だったと自分に言い聞かせて前に進むしかない、と、ようやく、本当に思えるようになりました。誰かの真似でも後追いでもなく、自分にしかできない人生を歩んでいく。最近、そのように悟れるようになった気がします。

福島市を拠点に松井グローカル合同会社を立ち上げたのも、その悟り、というか、区切りのように思います。世間では定年を意識する年齢になりましたが、その意味での私の定年は9年前に終わっています。ちょっとここまでくるのにのろのろしましたが、むしろこれからが本番、という気持ちです。

飲めないのに飲んでしまった福島の日本酒の美味しさ

5月1日の夜、福島のオフィスを訪れた2人目の来客であるジャーナリストの友人と夜、義妹が勧めてくれた福島市内の店「はりまや」にて、美味しい料理とともに、日本酒をゆったりと飲みました。

私はアルコールが苦手で、ビールをコップ1杯飲むだけで、顔がすっかり真っ赤になってしまいます。家でも晩酌をしたことはおろか、クリスマスの時のワインなどを除いて、アルコール類を飲むこともありません。

これまでは、アルコールを飲むと、持病の気管支炎のせいか呼吸が苦しくなることが多く、友人たちと飲むときも、ビール1杯程度で抑えるようにしていました。

しかし2月に、インドネシアのスラバヤへ出張した際、ご一緒した大阪の中小企業の社長さんがお酒が大好きで、毎日お付き合いすることになり、なんだかんだと飲まされてしまいました。その多くは日本酒で、しかも一升瓶を5本も机の上に並べ、スラバヤのウワバミのような華人の傍に無理やり座らされ、相手をさせられたのですからたまりませんでした。

でも、今回の日本酒は、本当に美味しいと思いました。福島の日本酒3本の飲み比べ、しかも頒布会のときだけに出された珍しい貴重なものとのことでした。

上写真の左から「写楽」純米吟醸短稈渡船、「天明」純米瑞穂黄金の生、「風が吹く」純米吟醸中取りの生、です。「写楽」はフルーティーな味わい、「天明」はスキッとした味わい、そして「風が吹く」はまろやかな味わいでした。いずれも、会津の歴史ある酒蔵で造られたものとのことでした。

ジャーナリストの友人も大の酒好きですが、食事も美味しく、話題も興味深かったせいか、頭がクラクラするような酔いにはならず、美味しい日本酒をいただいた満足感でいっぱいになりました。

そして、調子に乗って、もう一つの飲み比べもしてしまいました。こちらは、山形の酒2本と新潟の酒1本の、日本海側の酒蔵シリーズでした。これらの日本海の酒は、先に飲んだ福島の酒に比べると、キリッとした味わいが強いように感じました。

震災前から、福島では酒蔵同士がお互いに切磋琢磨しながら、時代に合った質の高い日本酒を造ってきました。その結果、国内外の日本酒コンクールでは最高位を連続してとるなど、自他共に認める日本酒の実力県として認知されており、風評被害を乗り越えるのに大きな役割を果たしています。関係者の苦労と努力はこれからも続いていくことでしょう。

今回、福島の日本酒は美味しいと素直に思えました。飲めないのに飲んでしまった自分ですが、福島の日本酒の美味しさを伝える役目も少しは果たせそうです。

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

美しく寂しい長泥の桜

昨日、2人目の来客として私の福島のオフィスを訪問してくれたのは、ジャーナリストの友人でした。この友人が飯舘村へ行くというので、今日は、それに便乗して私も付いて行きました。

行先は、飯舘村長泥。飯舘村の中で唯一、まだ帰還困難区域に指定されたままの地区です。2013年11月27日と2014年3月10日の2回、「NHKニュースウォッチ9」で長泥地区の現状を伝える特集が組まれており、それをご覧になった方もいるかと思います。

ジャーナリストの友人の知人である長泥地区から福島市へ避難されている方と一緒に、長泥地区へ入りました。入ってすぐに、信じられない光景が目の前に広がりました。

誰もいない、静かな空間に、今を盛りと咲き誇る満開の桜でした。それはそれは、本当に見事な桜でした。

花の里・長泥。この街道沿いの桜は、長泥の人々が育て、育んできた大事な桜でした。そして、帰還困難区域となった今も、人々は避難先から集まって、ずっと手入れを続けてきました。その人々の桜に込めた気持ちと献身を思わずにはいられません。

この桜を見ながら、長泥の人々が集まって、みんなで一緒に飯舘牛の焼肉を食べるのが夢だ、と案内してくださったSさんがポツリとつぶやきました。

長泥地区には、そこに住んでいた住民の方のほか、線量を継続的に計測している大学の先生方、報道関係者、中央や県の役人、工事関係者など、許可を得た方々が訪れるといいます。そうした方々への長泥の人々の感情は、思いの外、複雑な様子です。

でも、長泥地区の除染を行うのか、行うならば除染の対象は地区全体なのか部分的なのか、いつ除染を始めるのか、現在に至るまでまだはっきりと決まっていないようです。

帰還困難区域の長泥地区の除染を本格的に開始すると、同じ帰還困難区域でもっと面積の広い浪江町や大熊町の除染も行わなければならなくなるのではないか、予算は確保できるのか、といった懸念があるのかもしれません。

その一方で、長泥地区の住民は除染をしたらここへ戻ってくるのだろうか、という問いもあります。効率性を第一にするなら、住民が戻らないところを除染する意味があるのか、という声も聞こえてきそうです。でも、住民からすれば、元に戻してもらうことが先決で、長泥へ戻るかどうかはそれから考えるというのが筋とも言えます。

飯舘村の大半の地区が住民帰還や復興事業の話へ傾斜していくなかで、帰還困難区域の長泥地区だけが取り残され、置いていかれるような感情を抱くのは当然のことのように思えます。でも、長泥が元どおりになることを、半ば諦めてしまうような気持ちも伺えます。

長泥地区の未来をどのように描くのか。いつまでに除染を行う、このような順番で除染を進める。それが本当時実現できるかどうかは別としても、未来への不確実性を少しでも減らす努力をしていかなければならないでしょう。

長泥の桜は、信じられないくらい美しく、そして寂しく咲いていました。

福島の当社への最初の来客はマカッサルの親友

松井グローカル合同会社を立ち上げて、福島のマイ・オフィスへの最初の訪問客が今日4月30日にありました。その客は、私のマカッサル時代からの親友であるリリ・ユリアンティ(Lily Yulianti)さんでした。

彼女は現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいますが、もともとはインドネシアのマカッサルの出身で、新聞記者、NHKラジオジャパンのインドネシア語アナウンサーなどを経て、小説家、エッセイスト、ジャーナリストとして活躍しています。

彼女は、若い世代への質の高い執筆に関する指導も続けてきました。2011年からは、インドネシアの著名な映画監督であるリリ・レザ氏と一緒にマカッサルで立ち上げた「ルマタ文化スペース」を母体に、マカッサル国際作家フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF)を主宰してきています。

今年のMIWF2017は、マカッサルで5月17〜20日に開催されますが、私もフルで参加する予定です。「ルマタ文化スペース」の設立には私も協力し、MIWFでも5年前からささやかながら1セッションのスポンサーを務めています。

福島に着いて、すぐに詩人の和合亮一さんと面会しました。東日本大震災後の日本現代文学の動向に関心を寄せるリリ・ユリアンティさんが福島へ来ると聞いて、どうしても会って欲しかったのが和合さんでした。幸い、今回の面会は大変有意義なひとときとなり、今後の双方の活動にとっても多くの示唆を得ることができました。

和合さんとの面会の後、福島在住でインドネシア語の先生を務めるレニーさんと弟のチェジェさんと一緒に、昼食の後、私のオフィスと敷地内の古民家を見学してもらいました。ちょうど古民家のオーナーもいらっしゃったので、古民家の内部も丁寧にご案内いただきました。

リリ・ユリアンティさんが「どこかで桜を見たい」ということで、私のオフィスを見学した後、一路、米沢へ向かい、上杉神社で桜を眺めました。上杉神社の桜は、屋台の出ている表側はもうずいぶん散ってしまっていましたが、裏側へ行くと、まだけっこう残っていました。

リリ・ユリアンティさんらと一緒に、気持ちの良い風が桜の花を散らし、花吹雪となって舞い散るさまを、静かにゆっくりと眺めていました。

駆け足ではありましたが、震災後からずっと「福島へ行きたい」「東北へ行きたい」といっていたリリ・ユリアンティさんの夢は、叶うことができました。そして、これから新しい何かが始まる予感をたしかに感じるのでした。

爽やかな季節、皇居東御苑を初めて散歩

法人登記関連でバタバタしていた昨今ですが、今日は久々にオフの1日。気持ちのいい風を感じながら、妻と一緒にツツジの花を求めて散歩に出ました。

行先は、皇居東御苑。ずっと東京に住んでいながら、訪れたのは今回が初めてです。東京メトロ東西線の竹橋駅で降りて、北桔橋門から入り、江戸城跡の天守台へのぼりました。

天守台から見下ろすと、広い緑の広場が見渡せます。

西側の堀沿いにある富士見多聞にも行きました。多聞というのは見張り台の意味ですが、倉庫や他の目的でも使われていたそうです。御休息所前多聞という別名があります。なお、この富士見多聞は4月から新たに公開されたばかりでした(午後4時15分で閉館)。

様々な植物が植えられているだけでなく、いろんな種類の竹の植えられた竹林や、マルチの敷かれた茶園(下写真)もありました。

うっそうと生い茂るレンゲ。

そして、ツツジは本丸公園よりも二の丸公園が見事でした。

東京のど真ん中で、様々な植物を見ながら、静かにゆったりと過ごせる空間でした。サツキや菖蒲はまだこれからで、いつ来ても何かが咲いていることでしょう。

外国人の皆さんにも、気軽にジャパンを味わえる空間なのかもしれません。大手門の前では、たくさんの人々が写真を撮っていました。

明日(4/30)から火曜まで、再び福島です。

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