恩人であるTさんの思い出
梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。
今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。
その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。
それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。
当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。
元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。
Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。
私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。
Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。
Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。
Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。
Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。
今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。
Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。
とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。
晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。
おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。
私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。
どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。