春の訪れをいつの日か分かち合いたい

春を感じさせる穏やかな一日でした。午後のイベントへ出掛ける前に、自宅の庭で春を見つけました。

福寿草やモクレンが咲いていました。

温かな日差しに照らされながら、花が可憐に咲いていました。

こうして、平和に春の訪れを感じることができる日常の何気ない幸せを、今日は改めて感じなければならないことになりました。

午後9時から放映されたNHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」。反アサド勢力の最後の砦とされたアレッポ東部に最後まで残った人々と、死傷者を受け入れなければならない、最後まで残った病院・クドゥス病院の、凄まじい状況を市民のカメラ映像で追った、見るのが辛くなる番組でした。

一言で言うならば、地獄。目の前で次々と人々が亡くなっていく。医師や看護士の能力を超える数の人々が運び込まれ、生存可能性の高い人々を優先せざるを得ない、助けようにも助けられない、そんな現実が次々に映し出されていきます。

アレッポを制圧するアサド政権からは反政府のレッテルを貼られた人々。でも、もはやアサド打倒のために最後まで戦うような状況にはなく、かといって、投降しても命の保証があるとは思えないほどの不信感のなか、次の瞬間での死を意識しながら生きる人々の姿には、今の瞬間瞬間を生きるしかない、究極の状況が映し出されていました。

絶望しかない世界。でも、絶望に打ちひしがれている暇すらないのでした。そして、医師や大人たちがわずかな希望を託せるのは子供たちしかなく、それが子供たちを助けようとする尋常ではないエネルギーになっているかのようでした。

何が何でも生き延びるためには、どんな酷い権力者であっても、従順で馬鹿なふりをして権力者へ尻尾を振らなければならないと思って、さっさと降伏し、投降するしかない、そういう選択をしてしまうだろうし、その選択を後世で「仕方なかった」と納得しながら生きていくしかない、という面はあるかもしれません。

安全で安心して暮らせる状態にある後世の人々が、そうした行為を批判し、愚弄したとしても、そうして自分を偽ってでも生き延びた人々は、それを甘んじて受けざるをえないでしょう。きっと、日本もまた、そうして生きてきた人々が少なくなかったはずです。

アレッポのクドゥス病院の人々は、たとえ反アサドの活動家でなかったとしても、様々な理由で、そこから脱出できなかった人々も少なくなかったかもしれません。そういう人も含めて、アサド政権から反政府のレッテルを貼られたのでしょう。

テロリストのように、他人の生きる権利を一方的に踏みにじる人でなければ、その人の生きる権利は何としてでも尊重されなければならないはずです。クドゥス病院の人々は、少なくとも人間の命をできる限り救おうと懸命だったのに、彼らを「反政府=テロリスト」と一方的に決めつけて爆撃するのは、主義主張やイデオロギーを超えて、犯罪以外の何物でもない、ということは明確にしておかなければならないでしょう。

そのような状況を、国際社会は見て見ぬ振りをしてきたことを、彼らは糾弾しています。私もその国際社会の一部であり、個人として深く反省しなければなりません。しかしながら、国際社会がその現実を見たとして、祈る以外に、何が一体できたのか、という気持ちもあります。それでも、それを見てしまった者は、少なくともその情報を広めるなど、何かをしなければならなかったのでしょう。

このNHKスペシャルを観た後では、庭の福寿草やモクレンに春の訪れを感じていた自分の呑気さをちょっと後ろめたく感じてしまいます。

でも、そう感じられる自分の今の瞬間瞬間に感謝しつつ、不躾かもしれませんが、アレッポの人々と春の訪れをいつの日か分かち合いたい、という気持ちが不意に湧き上がってきました。きっと、それがあって始めて、自分が何かをしていけるのではないかと感じます。実際に何ができるのかはまだわからないのですが・・・。

相馬・原釜で記念植樹

今日は、弟に誘われて、相馬市の原釜尾浜海岸で行われた記念植樹の会へ行って来ました。

この原釜は、小学生の頃、家族で海水浴に来たことのある海岸です。先の東日本大震災では、津波の被害を受け、ここでも多くの人々が犠牲となりました。

海岸から少し入ったところには、高さ約5メートルの堤防が築かれ、その堤防の上の公園で記念植樹が行われました。

開会式での相馬市長の挨拶などの後、各班に分かれて、苗木を植え始めました。海岸側にはクロマツの苗木を、内陸側には市民が選んだ広葉樹の苗木を植えました。私の班はクロマツの植樹、小さいシャベルで苗木を10本ぐらい植えました。

植樹を終了後、いったん集まった後、自分の名前を書いた杭を立てて欲しいと言われましたが、もはやどこに植えたのかわからない状況でした。やむなく、自分が植えたと思しき1本の横に杭を立てました。

慣れない作業で、シャベルを持った右腕が痛くなってしまいましたが、天候にも恵まれ、楽しいひとときとなりました。

でも、この植えた苗のどれぐらいが本当に育つのでしょうか。この堤防の土は山から削ってきた山砂で、栄養分がほとんどないそうです。今後、関係機関が手入れをしていく際に栄養分の補給もするのでしょうが、何とかうまく育って欲しいと思いました。

4月からのために

今回、福島へ帰ったのは、4月からの準備の最終確認のためでした。

4月からのために、まず、実家にいる母や弟たちと話をし、色々と了解してもらいました。さらに、関係する方々にも会って、了解をもらいました。

あとは、もう少し、準備を進めるだけ。

始めます。4月から。ここで。楽しく、面白く、そして本質的に。

今週の後半は福島

3月16日から18日までは、福島市の実家に来ています。

もう少し早く東京の自宅を出る予定だったのですが、ちょっと色々もたもたして、福島に着いたのはもう夕方でした。

実家の周りは、数ヶ月前からアパート2棟の建設工事中。この土地を持つ地主さんが、実家の敷地を除く土地にアパートを建てています。それ以前は、何軒かの貸家があったのですが、それを全部壊して、アパートを建てているのです。

実家の近辺には、こうして新しく建てたアパートやこれから新しく建てるアパートが幾つも見られます。

ピークの時期はもう過ぎたようですが、福島市では、原発のある相双地区から避難してこられた方々の住宅やアパートの建設が数年前から盛んに行われてきました。除染関係者などの需要もあるかもしれません。実際、福島市でアパートなどの賃貸物件を探すのがけっこう大変だという話が数年前から聞こえていました。

この土地の地主さんは亡き父の幼なじみで、その由で、ずっと前から、借地に建てられた我が実家に対して、とてもよくしてくださっています。本当ならば、我が家の借地もアパート建設のために取り上げられていたに違いありません。

すでに、地主さんの息子さんと、実家の近くに住む私の弟との間で、土地に関する話もきちんと了解しており、母もしばらくは安心して実家で暮らすことができそうです。

今回の里帰りは、実家にいる母と色々と相談することが目的です。今後、福島にいる時間がこれまでよりも長くなるため、この実家にお世話になることも多くなりそうだからです。さっそく、色々と助言や要望を聞くことができました。

帰国した夜の素敵な出会い

帰国した3月14日の夜、友人の紹介でとても素敵なご夫妻と新宿でお会いし、4人で美味しいタイ料理を食べました。

このご夫妻は建築家で、友人は、このご夫妻が中心になって催している街歩きの会で親しくなったということです。建築家の目から見ると、東京の街がどのように見えるのか、個人的にはとても興味があるので、そのうち、私も会に参加していたいと思います。
このご夫妻と色々な話をしました。私は、彼らが家を建てる技巧的な面を強調する、家を建てるまでが仕事と割り切るタイプの建築家かもしれないと警戒していました。依頼主の希望にそうというそぶりを見せつつも、結局は自分の好きなように建て、かなりの報酬を要求するタイプではないか、と勝手に妄想していました。
実際、ハウスメーカーが家を建てるのと、建築家が建てるのとの差がどこにあるのか、本当の部分はよく分かっていないのです。でも、このご夫妻とお話ししているうちに、なんとなくわかってきたような気がしました。
話をしているうちに、ご夫妻も私をかなり警戒されていたことに気づきました。最近の客は、コストの話ばかりで、できるだけ安くアパートを建てて、どれだけ効率的に儲けられるか、そんなことばかりを気にするタイプが多いからだそうです。
依頼主と建築家が同じ方向を向いていれば、互いに信頼することができ、利益や儲けの話を超えた部分で共感しあえる、そんな風に思いました。
私が口にした「街並が崩れていく」という言葉にお二人は強く反応し、私はお二人が言った「そこに住まう人の生活やこれまでの営みを大切にするため、依頼主の内面に深く入っていかなければならない」という言葉にうなづきました。
全く違う分野どうしなので、こんな機会でもなければ、おそらく互いに会うこともないでしょう。でも、友人のおかげで、本当に素敵な出会いの夜となりました。私自身も、そんなつなぎ役をもっともっと果たしていきたいと思いました。

新たに訪れたジャカルタの麺店2店

ジャカルタの夕陽と汚水を「堪能」(?)すると同時に、せっかくプルイットやPIKを通るのだから、この際とばかりに、麺の店を2軒、回りました。

でも、プルイットの麺店は、その多くは夕方4時か5時頃には閉まってしまいます。そこで、夕陽の前に1軒、夕陽の後に1軒、行くことにしました。

最初の店は、Asli Mie Keriting P. Siantarという店。この周辺には、北スマトラのトバ湖に近い小都市プマタン・シアンタルの名前の付いた縮れ麺を出す店が何軒もありますが、ここは1954年創業で、それらの元祖を名乗っています。

飾り気のない素朴な店構えですが、「こういう店が美味しい」という自分の直感が当たりました。

麺は自家製で、コシがあり、いい具合にスープと絡み合いますが、普通の麺よりも、ここの麺のほうが、主役は麺である、と強く主張しているように感じます。麺の上にのせられた具も、麺の主張を壊さないような控えめな味付けですが、よく味が付いています。

この店は、実は2006年にじゃかるた新聞でF記者によって紹介されており、その新聞の切り抜きが貼られていました。きっと、麺好きの日本人の間でも知られた店なのでしょう。

次に訪れたのは、PIK(Pantai Indah Kapuk)の飲食店街にあるBakmi Aloiという店。

以前、友人に連れられて、PIKのBakmi Siantarという店へ行き、そこで食べたカレー麺(カレー麺の上に豚の血の塊がのっているもの)をまた食べたいと思って探したのですが、見つけられず、その店があったと思しきところにあるBakmi Aloiに入ってしまいました。

入ってメニューを見て、「まずった」と思いました。先に食べたAsli Mie Keriting P. Siantarと同じような内容だったからです。カレー麺が食べたかったのにー。

ともかく、なんでものせ、を注文。出てきた麺を見てちょっとびっくりしました。

小丼ではなく、皿に入って出てきたのです。これは、マレーシアやシンガポールや香港でおなじみのドライ麺、汁なし麺の系統だな、と思いました。

早速、麺を食べてはスープをすすり、というふうに食べ始めました。麺はストレートですが、茹で加減が絶妙で、麺に絡ませたと思われる油もあっさり。具がとても美味しく、麺と一緒に食べて、スープをすすると、なんとも言えない美味しさなのです。

この店の本店は南スマトラのパレンバンにあり、実は、ジャカルタには多くの支店があると後でわかりました。

麺店を2軒まわって満足し、スカルノハッタ空港でチェックインを済ませて、無事に、帰国JAL便に乗りました。ラッキーなことに、プレミアムエコノミーにアップグレードされていたし、気分良く乗りました。

さあ、朝食でオムレツ、と思ってウキウキしていると、「お食事です」の客室乗務員の声。えっ? 朝食は? と聞くと、朝6時過ぎに成田に着くこの便では、朝食は出さずに、離陸後すぐに夕食を出すように変更されたとのこと。

夕食を出したすぐ後に、パンも配られ、そのパンが、適当な時間にスナックとして食べていただければ、という話でした。朝到着前に朝食で起こされたくない乗客と、サービスを一回で済ませられる客室乗務員側の利害が一致した、サービス変更でした。

今回の夕食はミーゴレン。麺店を2軒まわって大満足の自分には、とても食べられる余裕はなく、夕食は辞退しました。

ちなみに、一緒に麺店、夕陽、汚水を堪能した若い友人は、機内でも夕食をしっかり食べたとのこと。さすが若者、という感じですね。

ジャカルタの夕陽と汚水(追記済)

出張最後の今日は、ジャカルタでいくつかの用務を行い、夕方から、たまたま一緒に便で帰国する友人とジャカルタの北海岸をまわってから、空港へ向かいました。

ジャカルタ市内にいると渋滞に巻き込まれるので、帰国便への搭乗時間まで、ジャカルタの北海岸にできた新しいスポットへ行ってみました。北海岸沿いのプルイット・シティというモール+高層アパートです。

ちょうど、日の入りの時間に近かったので、あまりいいポイントではありませんでしたが、夕陽を眺めました。

マカッサルの海に沈む大きな夕陽は何者にも代えがたく好きなのですが、ジャカルタの夕陽もまた別の趣がありました。

振り返ってみると、ジャカルタで生活していた時には、夕陽なんて見たことも気に留めたこともなかったように思います。でも、マカッサルでは、1990年代の滞在のときには、毎日のように、仕事を終えて帰宅後、幼い娘を抱っこしながら、家族3人で一緒に夕陽を眺めたものでした。

ジャカルタの友人たちが、フェイスブックやツイッターにジャカルタの夕陽の写真をアップしていますが、今日だけはその仲間に少し慣れたような気がします。

夕陽を満喫していると、突然、ドボドボドボ・・・という音が聞こえて、下の海を見ると・・・。

黄色く濁った水が海へ放出されていました。色や匂いからして、汚水ではないかと思います。その下の菅からは、色の付いていない水が放出されていました。

おそらく、このモールやアパートからの汚水でしょうか。汚水処理がきちんと施された後の水であることを祈るしかありません。

ジャカルタの意外に素敵な夕陽と、ドボドボと排水される黄色い汚水。その両方ともが、ジャカルタという街を象徴しているように感じられました。

マカッサルでの用務を終了

3月10日からのマカッサルでの用務を首尾よく終了しました。

物件探しでお世話になった方々にご挨拶をし、今後の活動に関する様々な助言をいただくことができました。

おそらく、今年から今までよりも頻繁にマカッサルへ、スラウェシへ、東インドネシアへ来ることになりそうな予感がします。こうありたい、という自分の希望する方向へ、状況が徐々に動いているのが嬉しいです。

これからジャカルタへ飛びます。2時間のフライトです。

明日、ジャカルタでいくつかの面会を終えた後、夜便で帰国します。

今日のブログはここまでで失礼します。

震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

食なくしてマカッサルを語れず

ほとんど一睡もしていないジャカルタからの2名と合流し、マカッサルでの用務を開始しました。今回の用務は、我々で新しいことを始める準備のためです。

ルコ(店舗兼住宅)街から観た夕日

とは言うものの、マカッサルに来て忘れてはならないのが食事。食なくしてマカッサルを語ることはできません。

金曜礼拝中に、中華街で名物のワンタン麺を味わった後、となりの店で、華豆腐を食べました。私が好きだったやし砂糖シロップは不人気でもうなく、白砂糖の普通のシロップをかけていただきました。

すると、20年知り合いのギター弾きが現れました。というか、店の前にいたので、呼んできました。彼は、私がマ カッサルのこの界隈で昼食を食べていると必ず現れる、不思議なギター弾きなのです。昼食の場所は変えるのに、なぜ必ず彼と会うのか、不思議でたまりません。

オヤツで食べるココビーンアイス+好きなアイスは別腹。

夜は夜で、マカッサルで忘れてはいけない大きな蟹、スーパークラブを食べに行きました。

そして、果てしなき暴飲暴食。今回の2名のうちの1名は初マカッサル、ということで、用務の合間に濃密な食の時間を提供しました。いや、食の時間の合間に、少し用務をしたというべきかもしれませんが。

ジャカルタでトランジット中

ついこの間、土曜朝に東京へ戻ったばかりでしたが、今日、再びインドネシアへ入国しました。いまは、ジャカルタでマカッサル行きのライオンエア便へ乗り継ぎ中です。

夕食の時間が中途半端になるので、やむなく第2ターミナルのSolaliaで蟹肉入りナシゴレンを食べました。この店のナシゴレンは全般に油っぽいのですが、今回のはそれほどくどくはありませんでした。

マカッサルに着くのが中インドネシア時間の23:50、ということは、日本との時差が1時間なので、日本時間だと3月10日になってしまう。このブログを毎日更新するという目標を達成し続けるには、このトランジットの時間に何か書いておくしかないというわけです。

今回の東京からのジャカルタ便はJALでした。昨年の度重なるインドネシア出張により、めでたくJGCに入会でき、今回の安いエコノミー料金でも、色々と、時には恭しく、列に並ばずにセキュリティチェック、優先搭乗など、早速の恩恵を得ることができました。

サクララウンジも使えました。ただ、今回は昨日までに終えるのを忘れた書類1通を作成し、送付するという作業があり、ビジネスサービスがあると期待してのラウンジ利用でした。

ラウンジではWifiが飛び、プリントアウト用のコピー機もありました。でも、今回の私のような、書類をプリントアウトして署名・捺印し、それをPDF化して、メールで送付する、ということはできませんでした。備え付けのパソコンはUSBメモリが使えるという話だったのですが、どこにも端子が見当たりませんでした。

結局、飲み物もとらず、朝カレーも試さず、色々とはできないことだけを確認して、ラウンジを後にしました。

今回の機材はボーイング787。エコノミー席はタッチパネルのみでした。

機内で今回観た映画は、「ラ・ラ・ランド」と「湯を沸かすほどの熱い愛」の2本。

前者は、予想通り、夢を追いかける二人の男女の淡い恋物語で、印象としては古きアメリカを彷彿させる現代が舞台の映画でした。悪人が出てこないとても健全で分かりやすいストーリーで、今のアメリカが昔を懐古する気分が満ちていました。音楽は全てオリジナルとのことですが、名だたるジャズ・ミュージシャンへのオマージュも込めたようで、その筋の方が観るときっともっと深く観れるのだろうな、と思いました。

でも、これが日本で受けるかどうかは疑問です。こういうネアカで真っ直ぐな話が日本ではもう受けないのではないかと感じました。

後者は、親子、家族というものを深く問い直す意味での秀作でした。宮沢りえが演じる主人公を含め、出てくる家族が様々な事情を抱えていて、しかもそれを自分では知らないという設定で、きっと、世の中にはそんな家族が本当は少なくないのだろうな、と思わずにはいられませんでした。今の自分たちの生活を守るために、そうした秘密を持ちながら行きていく、ということなのでしょう。

前回のガルーダでの機内映画が不作だったので、今回は良かったです。いつもは観る韓国映画やインド映画を観ずに終わりました。

というわけで、この後、いつも乗ると後悔する、ライオンエアでマカッサルへ飛びます。

「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

確定申告とバッテリー交換

今日は午前中、税務署へ出向いて、確定申告を済ませてきました。

昨日のうちに書類を用意し、証票や領収証などを貼付し、必要書類を揃えて、確定申告会場へ。

最終日の15日までまだ日があるためでしょうか、20人ぐらいしか並んでおらず、10分も待たずに、係官のブースへ行けました。係官は書類を確かめると、控え書類に判を押して、あっけないぐらいすぐに提出は終了しました。

他の係官のブースを見ると、身分証明書の提示を求められていたり、マイナンバーの説明を受けていたり、なかなか一発で済む感じの人はいないようでした。でも、係員の対応はとても丁寧で、年配の方にも優しい声で根気よく説明していました。

今回の確定申告での還付金は、来月ぐらいに指定銀行口座へ振り込まれるようです。

研究所に勤めていた頃は、ピンとこなかった確定申告ですが、今は、パソコンソフトを使って、経費になりそうなものは全て打ち込み、収支を把握するのが普通になりました。まだまだシロウトですが、パソコンソフトのおかげで、青色申告で申告しています。

確定申告があっという間に済んだので、3年以上使っているiPhone 5sのバッテリー交換も済ませました。

かなり前からバッテリーの持ちが悪くなっていたのですが、今回調べてもらうと、やはり消耗していました。バッテリーの寿命は一般に2年だそうです。こちらも30分もかからずに、すぐに交換してもらえました。

愛機iPhone 5sの復活はやはり嬉しいものです。この愛機には、インドネシアのTelkomselのSIMが入っています。この携帯番号もすでに10年以上使っていて、LINEやWhatsAppにはこのインドネシアの番号を使っています。

確定申告にせよ、バッテリー交換にせよ、今日はやろうと思ったことが予想以上にスムーズに済んだ1日でした。

「福島は大丈夫」「福島は危ない」の福島とはどこか

あの日から間もなく6年。福島という地名は、原発事故で思いもかけず世界中に知られるようになりました。そして今でも、「福島は大丈夫」「福島は危ない」という、両論が飽きもせずに言論界を賑わせています。

学生時代に地理学を少しかじった自分から見ると、「福島は大丈夫だ」の福島、「福島は危ない」の福島、それがどこかという話があやふやなまま話がふわふわと宙に浮いているような気がして、白か黒かの議論を相手にする気が失せてしまいます。

そこで述べられている福島とは、福島県のことでしょうか。福島市のことでしょうか。福島第一原発のことでしょうか。

広島や長崎がカタカナで表記されるように、福島もカタカナで表記されるのですが、広島や長崎が点であるのに対し、福島は点ではなく面である、という違いが明確にあります。福島は広がりを持った空間なのです。

もし、広島や長崎のように福島を点として捉えるならば、それは福島市のことを指すはずです。たしかに、原発事故の直後、南東から風に乗った放射性物質が福島市のある福島盆地にも流れてきて、その濃度が一時尋常ではない値にまで上昇しました。その後、時間が経つにつれて、放射性物質濃度は下がり、今、市民は普通の生活を営んでいます。

福島県は、日本の都道府県で北海道、岩手県に次いで3番目に面積の広い県です。よく知られるように、海岸沿いの浜通り、中央部の中通り、山沿いの会津地方の3つに大きく分かれます。そして、その3者の間の有機的なつながりは薄く、互いに別世界と認識していました。

中央部を走る奥羽山脈に遮られたためか、会津地方は放射性物質の影響を大きく受けませんでした。それでも、「福島」ということで、風評被害に苦しみ、観光客も大きく減少しました。

放射性物質という広がりを持ったものが流れた影響で、空間としての「福島」が汚染されたかのような印象ができてしまったのでしょう。しかし、その空間には「福島」と隣接するその他の場所を物理的に区別するものはありません。

福島という地名が様々に使われるようになった根本は、福島第一原発という命名にあったのかもしれません。なぜかここだけは、大熊原発とか双葉原発とか、原発の名前にその立地場所の地名を使わず、面を示す「福島」という名前を冠したのでした。

たしかに、原発の立地する双方地区は福島県の一部ではありますが、福島市とは60キロ以上離れており、福島市民が特別な感情を持つ場所ではありません。福島第一原発という命名が、福島という地名が様々に解釈される根本原因であるようにも思えます。

震災と原発事故が契機となって、今まで他人行儀だった浜通り、中通り、会津地方の間につながりが生まれてきた気配もあります。同じ福島県民としての意識が以前よりも強まったのだとすれば、それは、外部者によって「福島」の名の下にひとくくりにされ、風評被害や誹謗中傷さえ受けたという共通体験に基づくものなのかもしれません。

福島が大丈夫だという人は、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話で希釈して、大丈夫だと言っているのかもしれません。また、福島は危ないという人も、同じように、浜通りや相双地方のミクロな地域の話を福島県全体の話へ演繹して、福島県全体が危ないかのように煽っているのかもしれません。

外部者が自分の議論に都合のいいように、「福島」という地名が使われているのではないでしょうか。そこには、福島県内の様々な現場のミクロな地域の存在が無視されて、あたかも福島という共通空間があるかのように取り扱われている、という気がします。

福島が大丈夫か危ないか、といったあやふやでふわふわした話に、何か重要な意味があるのでしょうか。そのどちらかを議論することで、現場のミクロな地域で何がプラスになるのでしょうか。

そんな言葉遊びに付き合う必要はありません。それより大事なことは、大丈夫か危ないかを知りたければ、福島県のミクロな地域で、放射性物質がその地域のどこでどれだけの濃度があり、それが人間が生活していくうえで危険なのかどうか、といったことを具体的に知ることです。

人がそこに住み続けるかどうか、避難するかどうかは、それぞれの人々がそれぞれの判断と責任で決断していることであり、外部者がとやかく言うことではない。個人ではどう思ったとしても、そこの地元の個人が判断し決定したことを尊重するしかない、と思うのです。

それは、原発事故による避難がなくても、過疎に悩む村の人々が村の長い歴史に幕を閉じる決断をする、というような場面でも同じだと思います。

福島県を見ながらも、安易に「福島」という言葉を使わない。福島県の様々なミクロな地域の営みを、人々の活動を、しっかりと受け止め、そこにある人々の言葉をして語らしめる。すると、「福島」が何かとてつもなく特別で大変なものではない、普通の当たり前のローカルな場所であることに改めて気づくのではないでしょうか。

福島県、福島市という地名は使います。しかし、「福島は●●だ」という議論を目の前にしたとき、その福島とはどこのことなのか、を明確にするよう求めたいと思います。議論を進めたいのならば、それが相馬市のことなら相馬市に、相馬市小高のことなら小高に地名を変えて、具体的に話を進めたいものです。

明治神宮の芝生とポニー公園

午後、用事があって、妻と一緒に代々木の某所を訪れた後、久々に、北参道から明治神宮の広い芝生へ行ってみました。

それほど寒くない陽気の中、数は少ないものの、人々が思い思いに芝生でくつろいでいました。

スタスタと早歩きでやってきたジャージ姿の男性は、芝生に寝転んだかと思うと、いきなり足を曲げたり伸ばしたり、ストレッチを始め、終わるとまた、何事もなかったかのようにスタスタと去って行きました。

まだ枯れたままの芝生の白とも黄ともいえぬ淡い色合いと、薄いグレーの広い空を眺めながら、少しずつ冬が終わり始めている気配を感じました。

神宮本社にお参りせずに、そのまま参宮橋のほうへ抜けると、明治神宮の敷地を出たところに、代々木ポニー公園という場所がありました。小柄な馬と子供たちが触れ合える公園に、一緒に散歩していた一名が引き寄せられて行きました。

なぜか、カラスへの注意を喚起する張り紙も(下写真では左側)。

この代々木ポニー公園は、東京乗馬倶楽部に隣接した渋谷区の施設でした。小学生までの子どもが馬と楽しく過ごせる場所です。

東京での日常の何気ない散歩の一コマでした。

ジャカルタでの国際線と国内線の乗継(お役立ち情報)

3月4日朝、東京へ戻りました。到着が午前9時で、それほど気温が低くもなく、極度な温度差で体が戸惑うこともありませんでした。飛行機のなかでそれなりに眠ったはずなのに、眠くてしかたのない一日でした。

今回、往復に利用したのは、インドネシアのガルーダ・インドネシア航空でしたが、ジャカルタのスカルノハッタ空港での国際線と国内線の乗継について、ちょっと気をつけておいたほうが良い点があるので、以下、メモとして残しておきます。

羽田空港のガルーダ・インドネシア航空機
(ボーイング777-300)

<ビザ>

現在、インドネシアへの入国にあたっては、観光、親族訪問、社会訪問、芸術・文化活動、政府用務、講義・セミナー等参加、国際展示会参加、インドネシアでの本社または代理店の会議出席、他国への乗り継ぎを目的とする場合で、滞在期間が30日以内の場合には、滞在ビザが免除となります。

なお、上記目的で31日以上滞在する場合には、到着ビザ(Visa on Arrival: VOA)が必要になります。VOAは30日有効で、入国後1回のみ延長可能ですので、最長60日以内の滞在となります。VOAは1回あたり35米ドルの有料です。

なお、商業目的ではないスポーツ、研究・短期留学・短期トレーニング、商談(ビジネス・ミーティング)、物品購入を目的とする場合は、30日以内でもVOAが必要となります。

インドネシアへの入国ビザについては、在インドネシア日本大使館のホームページに詳しい情報が載っております。ビザなし入国後のVOAへの変更不可など、留意事項も詳しく説明されているので、ご参照ください。

 インドネシアへの入国・滞在(在インドネシア日本大使館ホームページ)

<入国審査>

ジャカルタのスカルノハッタ空港では、かつては到着ロビーへ向かう途中の左右で外国人向けの入国審査が行われましたが、現在は、到着ロビーへ向けて直進した先で行われるように変更されました。

ビザなしの場合はそのまま、あるいはVOAを支払い後、動く歩道等でまっすぐ到着ビーへ向かって直進します。直進すると、左側が「一般の外国旅券保持者」、右側が「長期滞在許可(KITAS)を持つ外国旅券保持者」「外交官等」に分かれます。

「一般の外国旅券保持者」のほうは、ジグザグに一列に並ぶように指定されていて、先頭から順番に、空いた入国審査官のブースへ進むようになっています。

入国審査官のブースでは、基本的には旅券を出すのみですが、帰国便のチケット控の提出を求められることもあります。滞在目的、滞在日数、宿泊先などを英語で質問されることもあります。

<ガルーダ国際線からガルーダ国内線への乗継>

ガルーダ・インドネシア航空で国際線から国内線へ乗り継ぐ場合には、通常は、スーツケースなど預け荷物は最終目的地までスルーで行きますので、ジャカルタでピックアップする必要はありません。入国審査後、そのまま税関検査へ向かいます。

税関検査では、検査官に税関申告書(機内で配られます)を渡し、乗り継ぎであることを伝えた後、求められた場合には手荷物をX線検査機へ通します(今回、私は求められませんでした)。

税関検査終了後、到着ロビーへは出ずに、左側へ向かうと、ガルーダ・インドネシア航空の乗り継ぎカウンターがあります。すでに国内線の搭乗券を持っている場合はスルーしてよいのですが、搭乗ゲートなどの情報を得るために乗り継ぎカウンターに立ち寄っても構いません。

乗り継ぎカウンターの後は、右へ曲がって、まっすぐ進みます。国内線第2Fターミナルに入り、そのまま進んで突き当りを左へ曲がり、向かって右側の通路をまっすぐ進むと、F6と表示された場所に「第3ターミナルへの乗り継ぎ(Transfer to T3)」と書かれた表示があり、そこを入ってまっすぐ行くと、椅子のたくさん並んだ場所があります。ここから、ガルーダの無料専用バスで、ガルーダ国内線の発着する第3ターミナルへ向かいます。このバスは、駐機場を見ながら、空港ターミナル敷地の中を走って行きます。

第3ターミナルに到着すると、手荷物検査の後、そのまま出発ゲートへ出ます。

<全日空からガルーダ国内線への乗継>

なお、全日空はガルーダ・インドネシア航空とコードシェア便を飛ばしていますが、ガルーダ国内線への乗り継ぎの場合、現在のところ、最終目的地まで預け荷物はスルーで行きません。いったん、ジャカルタで預け荷物を回収し、税関検査を受けた後、到着ロビー(1階)へ出ます

到着ロビーから外へ出てすぐのところに大きなエレベーターがあるので、それで2階へ。2階の着いたところのすぐそばに、無料ターミナル間連絡バスの乗り場がありますので、そこからバスに乗り、第3ターミナルへ向かいます。乗り口に段差のある小さなバスですので、預け荷物を車内へ持ち込む際にはご注意ください(下に荷物入れがある場合でももすでに荷物でいっぱいの場合があります)。

第3ターミナルでは、改めて、ガルーダ国内線のカウンターでチェックインし、回収して持ってきた預け荷物を預けなおします。

<日本航空その他で国際線からガルーダ国内線への乗継>

上記の全日空からガルーダ国内線への乗継の場合と同じです。

<<修正&再修正!!>>

ブログの読者の方から、ガルーダ・インドネシア航空以外の国際線からガルーダ国内線へ乗り継ぐ場合でも、到着ロビーへ出ずに、乗り継ぎカウンターで発券、チェックイン、荷物預入れが可能、との情報をいただきました(情報提供をありがとうございます!)。

その場合には、預け荷物をターンテーブルから受け取った後、すぐ近くの税関ではなく、「ガルーダ国内線へ乗り継ぐため」と言って、ガルーダ国際線到着時と同じ税関まで、ずーっと(到着ロビーへ出ずに)中を歩いて移動し、税関検査後、左へ向かって、乗り継ぎカウンターで対応してもらう、ということになります。乗り継ぎカウンターはガルーダ国際線到着時の1箇所のようです。

ちょっと裏技的ですが、お試しになられてください。

<ガルーダ国内線からガルーダ国際線への乗継>

この場合も、出発地で預けた荷物はスルーで最終目的地まで行くはずです。

ジャカルタ第3ターミナル内の「国際線への乗継」表示場所から、ガルーダ国際線の発着する第2ターミナルへ無料シャトルバスで向かいます。バスは、第2ターミナルのF6に到着します。到着後、左へ曲がるとエスカレーターがあり、それで2階へ上がります。

「国際線への乗継」表示に沿って歩いていくと、ガルーダ国際線チェックインカウンターに出ます。そこをまっすぐ進むと、イミグレ(出国審査場)があります。

<ガルーダ国内線からガルーダ以外の国際線への乗継>

まず、到着した第3ターミナルで預け荷物を受け取ります。それを持って、いったん到着ロビーから外へ出て、一番左端から無料ターミナル間連絡バスに乗り、国際線のある第2ターミナル(2Dまたは2E)へ向かいます。

<ジャカルタ・スカルノハッタ空港の航空会社別ターミナル>

参考までに、現時点での航空会社別のターミナルは以下のようになっています。

*国内線
ライオン(ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、バリ、ロンボク以外の東部地域) : 1A
ライオン(スマトラ各地、ロンボク) : 1B
バティック : 1C
シティリンク : 1C
スリウィジャヤ、ナム : 2F
エアアジア : 2F
ガルーダ : 3

*国際線
ガルーダ、中国東方、中国南方、エアアジア、エティハド、大韓航空、サウディア、ベトナム、アモイ:2E
上記以外:2D

なお、国際線は全て、いずれは第3ターミナルへ移転する計画のようです。また、各ターミナル間を結ぶトレインを現在建設中です。

スラバヤ出張を終えて帰国へ

2月26日に始まった今回のスラバヤ出張ですが、あっという間に終わりを迎えました。

日本ではきっとひな祭りの今日、午前中、インドネシア全国食品飲料事業者連合(GAPMI)のアディ・ルクマン議長がワークショップ会場を訪問し、今回使った食品加工機械を見て回りました。

やはり、彼も油を使わないせんべい菓子の製造に興味がある様子で、とても興味深そうに見ていました。

あっという間に終わった感のある今回の出張でしたが、食品加工機械に命をかけている中小企業経営者の生きざまと熱意に改めて心を打たれました。85歳を超える彼が、機械の間を立ち回りながら、スタッフに指示を出し、機械を操作し、説明をする、そのバイタリティーをただただ感嘆しながら眺めていました。

そして、彼が最大限に私にも気を遣ってくださるのでした。本当に、こちらが恥ずかしく思うほど、気を遣ってくださるのです。そして、それに十分に応えられていないのではないかという気がずっとしていました。

この食品加工機械に対する東ジャワ州の関係者の関心は高く、たしかに、日本側とインドネシア側に両者のニーズにマッチした案件なのだと改めておもいました。

これから、スラバヤから飛行機に乗り、ジャカルタで乗り継いで、明日の朝、東京へ戻ります。その後、3月9〜14日にまたインドネシアです。こんどは、マカッサルです。

ワークショップで嬉しかったこと

今回の食品加工機械に関するワークショップ、昨日から2日間、別の参加者によるワークショップが行われました。

ワークショップで取り上げるのは、せんべい焼き機とエクストゥルーダーです。せんべい焼き機は、上板と下板の二つの分厚い鉄板で型を押し、熱を加えてせんべいにする機械です。

一方、エクストゥルーダーは、2本のスクリューを組み合わせながら徐々に外へ物体を押し出す装置で、水と熱の力でフワッとした物体ができ、それを外へ押し出します。押し出された物体を切り、味をつけ、さらに乾燥機で熱風乾燥すると、油を使わずに、揚げせんべいのような、パリッ、サクッとした食感の「せんべい」を作ることができます。

昨日は、主に、せんべい機の使い方を学び、今日はエクストゥルーダーについて学ぶという内容でした。でも今日、開始時間の午前9時に会場へ入ると、参加者が皆、機械の周りに見当たりません。まだ来てないのかな、インドネシアではよくあることだし、と思っていたら、それは間違っていました。彼らはどこにいたのでしょうか。

彼らは全員、準備室に入っていました。

準備室は、実際にワークショップの機械で使う原材料を用意する場所で、昨日は、せんべいの素になるタネのレシピを丁寧に教え、そのタネを使ってせんべい機でせんべいを作ってみたのでした。

でも、彼らは昨日の復習をしていたのではありませんでした。昨日学んだことをもとに、自分たちでレシピを考案していたのでした。チョコレートを使ってみたい、ココナッツミルクを入れたい、レモン汁を加えてみたい、と、自らも菓子を製造販売している彼らは、幾つかの独自のレシピを作り、それをせんべい機で試そうとしていました。

教えられたことはその通りする、しかし自分たちで新しいものを創る能力は乏しい。これは、インドネシア人の特質として、日系企業などでよく言われていることです。しかし、彼らは、どうしても自分たちのレシピを試したいのでした。

我々のチームリーダーは、「こんなに積極的に自分たちで何かやりたいと言ってやってしまうワークショップ参加者は初めてだ」と目を丸くしながら、とても嬉しそうでした。

実際、彼らのレシピで作ったせんべいは、より香ばしく、レモンの微妙な酸っぱさが隠し味になっていて、とても美味しいものでした。自分たちのレシピを試し、我々のチームリーダーからその成果に二重丸をもらった彼らは、本当に嬉しそうでした。

ワークショップが終わって、反省会の中で、参加者のリーダー格の女性が質問しました。せんべい1枚の重量からすると、せんべい機で1日に何キログラムのせんべいを作れるか、エクストゥルーダーを使った場合と彼らの手作業とを比較した際の生産性がどれぐらい異なるか、等など、細かい技術的な質問をいろいろしました。

チームはその一つ一つに丁寧に答えていました。すると、一連の質疑応答の後、質問した参加者が謝り始めました。こんなに細かいことをいろいろ聞いて失礼ではなかったか、と。我々からは、そんなことは全く失礼ではなく、逆に、意味のない美辞麗句をもらうよりもずっと嬉しいし、とても良かったと答えました。

私は、相手が誰であろうと、聞きたいと思ったことは同じように聞いてほしい、と付け加えました。そんな質問を正々堂々とする参加者がいたことが、私もとても嬉しかったからです。

ワークショップの開会式で、参加者の自己紹介と自分の製品の説明をし合う、ということも、会場の飲食品・包装センターが取り入れていきました。

また、エクトゥルーダーのような価格の高い機械を中小企業がどうやって使えるようにするか、という議論も行われました。価格が高いけれど使ってみたい、なぜなら生産性が大幅に向上するからだ、原材料がたくさんあるのでもっと生産量を増やしたい、ではどうしたら、エクストゥルーダーをみんなで使えるか。

そんな議論をワークショップの最後のほうでしていると、「皆んなで協同組合を作ろう」「協同組合の組合員で資金を出し合い、銀行からの融資を受けたらエクストゥルーダーを買えるのではないか」「みんなが平等に機械を使えるように順番をはっきりさせる」、などなどの意見や考えが表明され、いつの間にか、参加者全員が等しくエクストゥルーダーを使ってみたいという雰囲気になっていきました。

もしかすると、高価な機械をいくつかの中小企業がシェアしながら活用する、というモデルは、彼らインドネシア人の中から現れてくるかもしれない、と思いました。もしそんなモデルがこの東ジャワから生まれたら、もちろん世界へ貢献することになり、シェアリング・エコノミーの新しい一つの形態となるかもしれない。そんなことまで、考えてしまうような、参加者の熱気に煽られていました。

そんな風に思われる、今回の機械たちとそれを製造した大阪の中小企業は、きっと幸せ者なのだと思いました。

クエティアウを食べながら、思わずハッとしたわけ

今回は、チームで一緒に夕食をとる日々です。今日の夜は、スラバヤの大手水産会社の重役L氏からのご招待がありました。

「道端の庶民的な食堂でクエティアウ(米粉で作った平たい麺)を食べよう」という話で、チームリーダーは、「ビールは多分ないだろうな」と少し落胆気味でした。今日はクエティアウを食べて、早々に引き上げるものとチームメンバーは思っていました。

L氏の指定した店に着くと、たしかに庶民的な飾り気のない食堂でしたが、道端の屋台のような場所とは違いました。

以前、スラバヤに住んでいるときに、こういう雰囲気の店でよく一人で夕飯を食べたよな、けっこう同じような雰囲気の店ってあるもんだな、よく行ったあの店はもうどこかへ移ってしまったな、などといい気分で過ごしていました。

「ここは、クエティアウとカエルと鳩がうまいんだ」とご満悦のL氏がどんどん注文していきます。L氏は気を利かせて、ビールも持ち込んでくれていました。チームリーダーは大喜びです。

あんかけクエティアウが出てきました。うーん、美味い。

そして、クエティアウを食べながら、ハッと気がつきました。もしかして・・・。

そう、昔よく行った、あの店だったんだ、と思い出しました。スラバヤの以前の自宅のすぐそばにあり、毎週のように食べに行ったDepot Purnama。

やっぱり!たしかに同じ名前の店です。

給仕のおねえさんがチラチラ私を見ています。声をかけると、もちろん覚えていると。調理場にはオーナーの親父さんがいて、すぐに私だと分かりました。

スラバヤに住んでいてくたびれたときに、Depot PurnamaのNasi Cap Cai Babi(豚肉入り中華飯)に何度救われたことか、数え切れません。これを食べると、不思議なことに元気になるのです。豚肉入り八宝菜とご飯の間に目玉焼きが敷かれていて、具の腸詰めや臓物の美味しかったこと。

そして、L氏との面会が初めてでないことも分かりました。3年前、彼ら一族の集まりになぜか招かれたとき、その集まりの主催者が彼で、挨拶をしていたのです。そして、共通の知人の名前が何人か出てきました。そして「趣味は食べること!」と一緒に叫んで、盛り上がりました。

L氏はまだまだ注文を続けます。カエルの唐揚げ、カエルの豆醤スープ、Cap Cai、炒めクエティアウ、焼きそば、ナシゴレン・・・。

Depot Purnamaは、私のスラバヤでの大切な場所の一つであり続けているのでした。

焼きそばも美味しかった!

食品加工機械のワークショップ

昨日から、食品加工機械のワークショップが始まりました。東ジャワ州飲食・包装研修センターが東ジャワ州内の県・市から選抜した中小企業12社が参加しました。

今回で、すでにワークショップを3回実施しており、1回あたり10数社が参加しますので、これまでに30社前後がワークショップを受けたことになります。

このワークショップでは、大阪の幸和工業の制作したエクストゥルーダー、乾燥機、回転式味付け機のほか、煎餅用の機械などを実際に使って、製品を作ってみる、というものです。

今回の食品加工機械の特徴は、油を使わないでサクッ、パリッとした製品を作るというもので、油で揚げたものの多いインドネシアで、健康ブームも相まって、ノンオイルの加工食品を普及させる一歩とも位置付けられるかと思います。

「機械はぜひ使いたいのだが、価格が高いので我々には無理」という声も聞かれました。高価な機械をどのようにシェアし、活用できるか、知恵を絞る必要があります。

ワークショップ参加者、政府、日本側が一緒になって知恵を絞り、この東ジャワ州から機械のシェア活用モデルを作っていければと思います。

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