本邦研修が無事終了

JICA案件で、インドネシアの地方政府からの参加者を招いて行ってきた本邦研修が昨日、無事に終了しました。

この案件は、インドネシアの地方政府と日本の地方自治体とが農業・畜産業分野で連携できるかどうかをサーベイすることを目的にしています。

9月11〜13日は福島市を訪問しました。福島市民家園では、福島で盛んだった養蚕業が実は6次産業(1次+2次+3次)だったことを改めて確認できました。

福島市役所では、急遽、小林香・福島市長を表敬することができ、インドネシアからの参加者はとても感激した様子でした。

JAふくしま未来では、直売所、資材センター、JAバンク支店、共選場などを見学し、インドネシアと日本の農業協同組合の違いなどを学びました。

最後に訪れたあづま農園では、福島のリンゴとインドネシア(バトゥ)のリンゴとの違いを比較するとともに、農業者による観光農園の運営の様子を学びました。

研修の合間には、飯坂の旧堀切邸で足湯も堪能。

親切で優しい福島の人々と触れ合って、福島の印象がとても良いものになりました。宿泊したホテルでは、インドネシア人の女性従業員と会い、楽しそうにインドネシア語で話が弾んでいました。

最後の夜は、東京・目黒のインドネシアレストラン「チャベ」で、久方ぶりにインドネシア料理を堪能し、とても嬉しそうでした。

ともかく、1週間にわたった本邦研修は無事に終了。でも早速、週末までに仕上げなければならない急な仕事が入り、ゆっくり休む気分になれないままです。

13年ぶりに馬路村を訪ねて思ったこと

9月8日から、本邦研修の一環として、インドネシアから招聘した地方政府の役人の方々と一緒に、高知県に来ています。

9月8日は、高知龍馬空港に着いてすぐ、馬路村へ向かいました。私自身、馬路村を訪れるのは、2003年以来、13年ぶりのことでした。

当時、2004年にJICA短期専門家として、日本の地域おこしの事例をインドネシアで紹介するために、馬路村を訪れ、馬路村農協でヒアリングを行い、馬路温泉に1泊しました。ゆず関連商品を2万円ほど買い込み、それをかついで、インドネシアのポンティアナク、マカッサル、メダン、ジャカルタでのJICAセミナーで、馬路村の話をしたのでした。

農地に恵まれない馬路村は、1970年代に主要産業の林業が衰退し、米も野菜もほとんど生産できない状況の中で、地域資源として活用できそうなのは自生のゆずしかなく、ゆずの加工に村の将来を賭ける選択をしたのでした。自生のゆずは不格好で商品価値を見出せないものでしたが、見方を変えれば、無農薬で化学肥料も使っておらず、加工原料として安心安全のものでした。マイナスをプラスに変える発想の転換で、馬路村はゆずの加工を進め、多種多様な加工品を作り上げていきました。

人口わずか1200人の山村がどうやって地域おこしを進めていったのか。馬路村の話は、日本でも、インドネシアでも、多くの村々に希望と勇気を与えるものでした。

今回、13年ぶりに訪問した馬路村は、さらなる発展を遂げていました。前回、1箇所だったゆずの加工工場は5箇所に増え、そのうちの1つは見学コースも備えた立派な施設となっていました。営林署の跡地は「ゆずの森」と呼ばれる素敵な森として整備されていました。13年前、始まったばかりのパン屋はまだあり、より素敵な店になっていました。

しかし、13年経って、村の人口は930人に減っていました。人口は減っているのに、馬路村農協の生産規模・多角化はさらに進んだ様子で、機械化はもちろんのこと、村外からの労働力の受け入れも必要な状態になっているようでした。

馬路村のゆずグッズのファンは日本中に広がり、その評判は揺るぎないものとなっています。その一方で、馬路村がブランド化され、そのファンが増え、需要が拡大すると、馬路村農協の生産体制は、それへの対応を益々進めなければならなくなっているように見えました。村の人口減の中で、機械化を究極まで高め、従業員の生産性も上げていかなければならない、効率性をもっと追求しなければならない・・・。

そんなことを思いながら、ちょっと無理をしているのではないか、と思ってしまいました。通りすがりのよそ者の無責任な感想にすぎないですし、懸命に活動されている方々を決して批判するつもりはないのですが、そんなことを思ってしまったのです。そして、馬路村にそれを強いているのは、マーケットであり、我々消費者の行動なのではないか、と思うに至りました。

村の人口が減り、村の生き残りをかけて、市場需要に呼応して懸命に生産をしているうちに、自分たちのできる能力の限界にまで至ってしまってはいないか。市場の圧力は、それでもまだ馬路村に生産増を強いていくのではないかと危惧します。

「日本全国の心のふるさと」になろうとしてきた馬路村の人々が、市場からのプレッシャーでストレスを感じ、生活の幸福感を味わえないようになってしまったら、やはりまずいのではないか。ワーク・ライフ・バランスは、人間だけでなく、地域にも当てはまるのではないか。

地域おこしの成功事例として取り上げられてきたからこそ、その潮流からはずれてしまうことへの恐怖もあるかもしれません。でも、大好きな馬路村には、あまり頑張り過ぎて欲しくはありません。

村のキャパシティに見合った適正な規模で、市場に踊らされることなく、持続性を最大限に重視しながら、人々が幸せを感じられる悠々とした経済活動を主体的に行っていってほしいのです。

こんなことを言っても、それは、通りすがりのよそ者の、馬路村の現実をおそらく踏まえていない、勝手な感想に過ぎません。何か誤ったことを述べてしまったとすれば、深くお詫び申し上げます。

Visit Umaji Village

Visit Umaji Village in Kochi Prefecture. Umaji is Uma (horse) plus ji (road). It means we must reach Umaji by horse. But it is old story. Now we can enjoy smooth car drive to Umaji even though the road is narrow and winding.

Umaji, whose population is 930 persons,  is now famous as success case of local revitalization by processing of yuzu, very good smelling citrus. JA Umaji has 5 factories to process many kinds of yuzu goods, as yuzu drink, yuzu ponzu source, yuzu jam, yuzu chili, yuzu pepper, yuzu liqueur, yuzu cosmetics, yuzu ‘aromatics, and so on. Yuzu seed becomes good material for cosmetics.

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Amazing, isn’t it? Only 930-populated tiny village in mountainous area has 5 factories. Most of products are sold through mail order or internet to all areas in Japan, with increasing the number of fans of Umaji. Umaji offers the status of special villager to those fans.

This has been promoted by JA Umaji. JA Umaji has its very unique and impressive business model to revive tiny mountainous village, through the integration of production of yuzu, processing, and marketing.

However, as other villages in Japan, Umaji also faces to depopulation and aging. How is the way to satisfy with increasing market demand for yuzu products under decreasing of labor? Mechanization is one of the answer with 5 factories. But, is it sustainable in the future? Is it overcapacity or not?

The challenge of Umaji will be severer.

 

Business Trip to Kochi & Fukushima (8-13 Sep. 2016)

In the name of “JICA Program on Data Collection Survey on Public-Private-Partnership for Activating Agricultural Promotion in Indonesia”, I will visit Kochi and Fukushima with local government officials from Indonesia in 8-13 September, 2016.

This JICA Program studies on the possibility to create partnership and cooperation in agriculture and/or livestock sector between local government in Indonesia and Japan, and between government and private sector. The key is how to realize win-win partnership between them.

So, even in the name of JICA, this is not pure assistance or aid program from Japan to Indonesia.

I will visit Kochi in 8-10 September and Fukushima in 11-13 September.

 

自分の知らない東京

東京に住みながら、これまで見たことのなかった東京に出会うと、なんだかとても嬉しい気持ちになります。

昨日の夕方、夕暮れに向かう赤坂で、ふと見上げたときの一枚。

工事現場の2台のクレーンの間の青空と雲。秋の気配を感じるような、雲の形と流れ。きっと、あと1年もすると、ここには大きなビルが建てられ、こんな光景は見られなくなることでしょう。

ちょうど、「土木展」を観たあとだったせいか、珍しく、ちょっと無機質な写真を撮りたくなったのでした。

続いて、夜。

ふと、勝どき橋へ向かって、隅田川沿いを歩いてみました。

スマホ写真なので、ボケてしまいましたが、東京タワーを臨み、その手前に築地市場。築地市場は隅田川沿いに立地しているのだ、と改めて納得し、でも、今や隅田川を通しての水産物のやり取りはないのだなあ、とふと思いました。

勝どき橋には緑色の装飾がありました。

海からの風に吹かれながら、勝どき橋から南のほうへ歩いて行くと、もう一つ橋がかかっています。でも、暗いままで、何も明かりが点いていません。この橋を渡って、新橋のほうへ行けるのだろうか。と思って、近づいてみると。

なるほど、今、築地市場移転問題で話題になっている、例の橋でした。工事は11月30日まで、と書かれています。もちろん、渡れないので、勝どき橋へ戻りました。

この橋の向かって左側にも築地市場の一部があります。そう、この橋が築地市場の中を突き抜いている形になっています。なるほどね。

築地市場移転問題は、まだしばらく紆余曲折ありそうですが、結局は、新たな打開策なく、世論の関心が落ち着いた頃を見計らって、収まってしまうシナリオでしょうか。

それはそうとしても、東京タワーを背に、隅田川の反対側から見る築地市場の風景は、なかなか絵になるような気がしました。

サゴやしデンプンのつくり方

昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。

まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。

繊維状に切ったものは下のような形状をしています。

ここから必要量を取り出します。

サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。

樋(とい)には水が流れています。

そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。

サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。

樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。

これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。

昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。

インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。

緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。

しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。

17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代

先週のカカオツアーで、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリのコンビニに行ったら、サゴやしデンプンが売られていました。

まず、アルファマートで売られていたのがこれです。

製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。

次は、インドマレで売られていたもの。

こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。

ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。

なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。

小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。

参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。

 マサンバのバゲアは一味違う(2008年10月29日)

 レバランでおいしいもの(2008年10月3日)

 パペダとクラディ(2007年12月12日)

 ジャヤプラの味「パペダ」(2007年6月16日)

ポレワリで出会ったこんなモノ

今回のカカオツアー中、滞在先のインドネシア、西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、こんなモノに出会いました。

ポレワリ・マンダール県のウォノムルヨ市場で見たのですが、頭の上にリボンの付いたヒジャブが2体並んでいます。
リボン付きを見たのは初めてで、しかも、右のはキティちゃん(偽物?)の柄です。
「見てるんじゃないわよ!」とでも言いたげな眉毛のマネキンさんも、ちょっとした迫力です。
リボン付きのヒジャブを身につけた女性をまだ見たことはありません。もし、街中で見かけた方がいらしたら、私にもお知らせください。

カカオツアーを終えて

昨日(8/28)、マカッサル空港で、シンガポール経由で帰国する、ダリケー主催カカオツアーの参加者を見送り、私はジャカルタへ来ました。今回のツアーも、昨年に劣らず、とても楽しい一時でした。

(盛り上がったチョコレート作りのワークショップ)

この前のブログで、3年前に植えたカカオの木に再会できたことを書きました。今回も、参加者全員が西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県にカカオの苗を植えました。ほとんどすべての参加者が、3年後、自分が植えたカカオの木を見にきたいと言っていました。

カカオの木とともに自分も成長する、そんな言葉も聞こえました。

発酵したカカオの入った木箱へ手を入れて温度の高さを実感したり、カカオ・ポッドを使ったバイオガス装置の実験の様子を見たり、農家のお母さんも一緒になってチョコレート作りのワークショップをし、でき上がったチョコレートを試食したり・・・。

カカオ以外にも、村の人々の生活を垣間見たり、海岸でマングローブを植林したり、伝統芸能を楽しんだり、そして農家のお母さんたちの手料理の数々に興奮したり、と今年も盛りだくさんの内容でした。

(ゴンダ海岸でのマングローブ植林)

貧しいと思い込んでいたインドネシアの村の家々のたたずまいの美しさに感動した方、100年以上かけて出来上がったマングローブ林の悠久の時間に思いをはせる方、地元の方にメーキャップしてもらって着飾った衣装で「踊る馬」(Kuda Pattudu)に乗った参加者の女の子たち。

ここに来る前には思いもつかなかった、地域の豊かさや人々の温かさに触れ、それらがカカオを作り出す背景にあることを知ったのでした。きっと、参加者の周りの人たちに、彼らが体験したことやものをいろいろ話してくれることでしょう。そして、そのなかから、来年のツアーに参加される方々が出てくるかもしれません。

カカオを通じて世界を変える、を信条としている主催者のダリケー株式会社ですが、実は、こうした体験を通じて、自分自身が変わることが世界を変えることにつながっている。そのことを参加者の皆さんが自分の体験を通して納得できたとすれば、それがこのツアーの一番の目的なのかもしれない、と改めて確信しました。

スラウェシの各地をもっともっと歩いてみたい。コーヒーの産地へ行ってみたい。参加者の皆さんの好奇心をさらに高められた様子です。違うことを面白がり、プラスの強さを作っていく。そんな機会をまだまだいろんな方とご一緒していきたいです。

3年前に植えたカカオの木と再会

8月22日から、40人の参加者と一緒に、インドネシア・西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県へ、カカオ農園訪問ツアーに来ています。ポレワリ2泊目となりました。

8月24日は、カカオ農園を訪問しました。ツアー参加者の皆さんには、恒例のカカオの木の植樹をしていただきました。みなさん、大変嬉しそうでした。

そんななか、ツアーを一緒にお手伝いしているイチャルさんが案内してくれて、私が3年前に植えたカカオの木を見に行くことができました。

次の写真は、2014年8月、初めてカカオ農園ツアーを開催した際、記念に植えた時のものです。

今回、3年ぶりに出会った、私の植えたカカオの木は、ひょろひょろっと育っていました。

左のパパイアの木のほうが育ちがよいのでした。カカオの葉は、少し虫に食われていました。果たして、カカオの実はこれから実るのでしょうか。

今回のツアー参加者の方々も、来年、再来年と自分の植えたカカオの木がどんな風に育っていくのか、楽しみにされていくことと思います。

ツアーは8月29日まで続きます。

明日からカカオ・ツアー!

昨日はコーヒーのことを書きましたが、明日から1週間、ダリケー株式会社のカカオ・ツアーのお手伝いで、インドネシア・スラウェシへ行きます。行先は西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県で、行きと帰りにマカッサルに1泊します。

このツアーのお手伝いをするのは今年で3年目です。私の目的は、ツアーに参加された方々が楽しく充実した時間を過ごし、色々な学びを得て、インドネシアやスラウェシを好きになってくれることです。

参加される方々の不安を和らげ、好奇心を引き出し、新しいワクワクが毎日感じられるような、そんなツアーにできたらいいなあと思っています。

現地のカカオ農家にとっても、自分たちの作ったカカオを原料とするチョコレートを食べてくれる方々がやってくるのは、私たちの想像以上に嬉しいことのようです。そう、カカオ農家の方々も、ツアー参加者の方々も、それぞれ相手に対して感謝の気持ちが行き交うのです。年に一度のその日を、カカオ農家の方々も楽しみに待っているようです。

でも、このツアーはそれで満足はしません。こうした生産者と消費者との心理的なつながりの先に、カカオをめぐる次の物語が生まれてくることを密かに期待し、そう促していきたいのです。

さて、今年のツアーでは、どんなドラマが起こってくるでしょうか。そして、ツアー参加者の方々とこれからの長いお付き合いが始まるのだと思うと、私自身もワクワクしてきます。

今回、参加されなかった皆さん、次回のカカオ・ツアーでは、ぜひご一緒いたしましょう。

昨日提示した、コーヒー産地をめぐるツアーも、インドネシアのコーヒー産地の方々と日本のコーヒー愛好家の方々との間で、そんな展開が始まっていったらうれしいです。

今晩の便でマカッサルへ向かいます。では、行ってきます。

インドネシアにコーヒー文化が根付き始めた

インドネシアはコーヒーでも名の知れた場所です。日本でよく聞くのは、トラジャ、マンデリンなどでしょうか。この30年で、インドネシアのコーヒーは大きく変わりました。もしかすると、東南アジアでコーヒー文化が最も根付く場所になるかもしれません。

私がインドネシアに行き始めた30年前、インドネシアでお茶のほうがコーヒーよりもメジャーでした。しかも、砂糖のたっぷり入ったお茶です。コーヒーもありましたが、ネスカフェなどのインスタントが主流で、これもやはり砂糖をたっぷり入れて飲みました。

その後、お茶は瓶入りの甘い茶飲料(Teh Botol、Teh Kotak、Teh Sosroなど)が主流となりました。コーヒーは、コーヒー+砂糖+ミルクパウダーの三位一体型インスタントコーヒーが主流となり、ジャカルタの渋滞緩和策Three in One(朝夕の決まって時間に決まった道路へ乗り入れるには自家用車1台に3人以上乗車する決まり。今は廃止)に因んで、3 in 1などと呼ばれていました。

おそらく10年ぐらい前からだと思いますが、ジャカルタでインドネシア産のコーヒーをパーパードリップで入れるカフェが現れ始めました(それまでのコーヒーは、コーヒー粉に熱湯を注いで、粉が沈殿した上澄みを飲むものでした)。スターバックスがインドネシアで展開し始めてすぐぐらいだったと思います。その後、スターバックスを模したカフェのフランチャイズチェーンが現れるとともに、居心地のいいカフェがジャカルタのあちこちにできていきました。

5年前、私はジャカルタに新たなカフェ文化が根付き始めた、と思い、エッセイも書きました。その後、カフェ経営者はバリスタ認証(どのように取得しているかは定かではありませんが)を競って取り始め、インドネシア各地のコーヒー豆をペーパーフィルターを使って淹れて飲ませるようになっていき、若者たちが集うようになりました。

インドネシアのコーヒー産地は、実はたくさんあります。それも、2000メートル級の高地が多く、各々の土地の土壌や気候の違いから生まれたアラビカ種が出回っています。

ガヨ(アチェ)、マンデリン(北スマトラ)、リントン(西スマトラ)、ランプン、トラジャ(南スラウェシ)、バリ、フローレス、パプアなどなど、インドネシア国内だけでいくつもの産地があり、それらがブランド化しています。ガヨ・コーヒーなどは、地理的表示保護(GI)認証をとって、ブランドを守り始めてもいます。

ジャワ島でも、南バンドンやバニュワンギなどで、オランダ植民地時代からに激賞された高品質コーヒーの復活やよりローカルなブランド化などの試みが次々出始めています。

一国の中でこれほどたくさんのコーヒーの銘柄を楽しめるところは、世界中でもあまりないのではないかという気がします。

この現象は当初、ジャカルタに限られていました。しかし、次第にスラバヤなどの地方都市へも広がっていきました。そして、今では、コーヒー産地にも、そこで採れたコーヒーを淹れて飲ませるカフェが展開し始めました。

アチェ州中アチェ県のタケゴンは、ガヨ・コーヒーの生産集積地ですが、この素敵な高原都市にも、ガヨ・コーヒーを楽しめる何軒かのカフェがありました。コーヒー商がカフェも経営している様子です。

この店にもバリスタの認定証がありました。

別の店は、アチェ州の州都バンダアチェの近くにも支店を出していて、そこでも美味しいガヨ・コーヒーを飲むことができました。

ガヨ・コーヒーも出している豆が3〜4種類あり、それを上澄み、ペーパーフィルター、サイフォンのどれで淹れるかを選ぶようになっています。もちろん、味はなかなかのものでした。

北スマトラ州ダイリ県の県都シディカランは、マンデリン・コーヒーの集荷地ですが、ここにも数軒のカフェがあり、若者たちで賑わっていました。

以前、コーヒー産地ではいいコーヒー豆はすべて輸出し、自分たちはインスタントコーヒーを飲む、とよく言われていたものでした。今では、コーヒー産地でも、いやそこでこそ、地元の人々が地元産のいいコーヒーを飲む、ということがインドネシアで起こっているのです。

植民地支配が長く、外部勢力に搾取されて従属させられている、という風潮が根強いインドネシアの人々が、自分たちの生産物を自分たちでも楽しむようになってきたことで、コーヒー文化がいよいよインドネシアの人々のものになり始めた、と思うのです。

そこで、来年あたり(夏ですかね?)から、インドネシアの複数のコーヒー産地をめぐり、コーヒー産地で地元の方々と一緒にコーヒーを味わうツアーをしてみたいと考えています!! もちろん、ジャカルタなどでのカフェ巡りもしたいと思います。

コーヒー産地はたくさんあるので、期間は1週間、毎年2〜3箇所の産地をまわることにしようかなと思っています。

この件で、何かご意見、アイディア、参加意思表明、協力表明などありましたら、メール、フェイスブック、ツイッター、このブログのコメント欄など、お気軽にお知らせいただければと思います。

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エドワード・ゴーリーは面白い

今回の福島への帰省の目的の一つは、福島県立美術館で開催されている「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」を観に行くことでした。前から観に行きたいといっていたのは娘で、家族3人と東京から帰省中の姪の4人で観に行きました。

左側が福島県立美術館。右側は福島県立図書館

観る人を不安にさせる絵。無表情な人物の顔。シュールな話。ナンセンス。脈絡のなさ。作品から何かポジティブなものを無理やり読み取ろうとすると、それは軽く肩透かしを食らう。

何にでも意味を見い出そうとする人は、何のための作品なのか分からない、と思うかもしれません。でも、作品を作品として純粋に楽しめばよいのであって、むしろ、何にでも何かしらの意味を見出さなければならないという態度のほうが、時には実は意味がないのかもしれない、なんてことを思わせるようなひとときでした。

とりわけ、招かざる客として描かれたうろん君の、食事だけでなく皿まで食べてしまう姿はとても気に入りました。

うろん君!

展示されていた作品は比較的サイズが小さく、近寄ってみることで、絵の中にいろいろと面白い発見がありました。ゴーリーはどんな表情で、どんなことを考えながら、作品を作っていたんだろうか、なんてことが、クスッと思い浮かびました。

エドワード・ゴーリーはなかなか面白い! 予想していたほど、不安で暗い気持ちにはなりませんでしたが、あの乾いた面白さは得難いものでした。

福島県立美術館での「エドワード・ゴーリーの優雅な秘密展」は8月28日までで、そのあとは、下関市立美術館で9月8日〜10月23日に開催されます。2年間、日本国内の各地で巡回展を行う予定だそうです。

福島で亡き父の墓参

旧盆も終わりですが、8月16〜18日は福島市の実家へ帰省しています。久々に、家族3人揃っての帰省となりました。

台風が来る前に、亡き父の墓参に行きました。父は、東日本大震災の前年に亡くなり、今年が七回忌に当たります。とくに七回忌の特別な法要は行わない予定ですが、こうして、しばしの間でも、父の墓前で亡き父と対話をするのが自分にとっての務めの一つだと思っています。
果たして、自分がどこまで父が望んだような人生を歩んでいるのか、心もとないのですが、人生の節々で、父が語った言葉を改めてかみしめて、前へ進んでいこうと思います。
それにしても、実家で食べる地元・福島産の桃2品種、どちらも美味しいことといったら、本当にたまりません。

ニュー南池袋公園へ散歩

夕方、自宅から池袋へ散歩に出かけました。最初の目的地は南池袋公園。最近、リニューアルしたというので、見に行くことにしました。

南池袋公園といえば、その周辺はカラオケ屋や飲食店が集まる歓楽街で、ちょっと偏見かもしれませんが、夜、女性や子供が一人で歩くにはちょっとふさわしくないような場所、というイメージを持っていました。

それが、行って見てイメージがガラッと変わりました。この変わり様は一体、何なのでしょう。

広々とした芝生。そこに横たわるカップルや家族連れ。端には実にモダンな形の卓球台が二つ。脇の緩やかな壁は子供たちの滑り台に。隅には、鶏の照り焼きをグルグル回しながら炙る機械も備えたオシャレなカフェ。その周りを、サンシャイン・ビルなどが取り囲んでいます。

公園が開いているのは午前8時から午後10時まで。さすがに、夜は警備員のおじさんが何人か配置されるそうです。

それにしても、南池袋の従来のイメージはどこへ行ってしまったのでしょうか。公園ひとつで街のイメージは大きく変わりうるのかもしれない、と思いました。

まちづくりのなかで、公園の果たす役割というのは意外に無視できないものかもしれません。日本のまちづくりのなかで、住民と公園とのもっとゆるやかな関係づくりを模索しながら、自分たちの居心地のよい+防災等の機能を果たせる公園を、行政と住民が一緒につくっていけたらいいなあと思いました。

インドネシアでは、どんなまち、どんな村へ行っても、中心部に大きな公園があり、そこを中心にまちが作られています。しかし、その公園の多くはただの広場、というか野原に過ぎませんでした。最近になって、スラバヤ市のように、公園に様々な機能を持たせる試みが行われ始めました。

様々な要素を検討していないので、ニュー南池袋公園のあり方が理想的かどうかを判断する能力はまだ持ち合わせませんが、これからのまちづくりのなかで、住民にとっての公園、あるいは公園的な空間の機能や役割をじっくり考えていきたいと思いました。

銀座・東急プラザのアイスクリームに注目

今日(8/11)は、夕方から、妻と一緒に銀座へ。買い物と散歩、冷やし中華を食べに行ったのですが、絶品の冷し中華を食べた後、急にアイスクリームが食べたくなりました。

選択肢は二つ。不二家へ行くか、新しいアイスクリーム屋を探すか。

もう半年も銀座へ来ていなかった妻が行ってみたいというので、東急プラザを探検しに行ってみました。アイスクリーム屋があるかもしれない、という希望を持って。

そうしたら、地下に1軒ありました。

店の名前は「ハンデルスベーゲン」。名前から、これはきっとドイツから来たアイスクリーム屋だ、などと勝手に思い込んで、行ってみました。

注文したのは、好きなアイスクリーム2種類(通常の半分の量ずつ)を入れたサンデー。サンデーはもちろん、アイスクリームもなかなかの美味しさでした。

新しいお店を開拓できて、今日はラッキーだった、と二人で話しながら、帰宅して確かめたら、ハンデルベーゲンは、京都発のアイスクリーム屋さんでした。しかも、アイスクリームと和食の共通点を「素材と旬を生かす」とした、京都プレミアムのアイスクリームを提供しているのでした。

 ハンデルベーゲンのホームページ

また一つ、ユニークなお店に出会えました。

自宅でオリンピック観賞

ちょうど私が帰国した8月6日から、リオデジャネイロ・オリンピックが始まりました。

このところ、ずっとインドネシアにいたせいもありますが、もう10年以上、オリンピックというものをほとんどテレビで観ていませんでした。日本のテレビでは、日本選手の活躍が中心の番組構成になっていて、それが繰り返されるので、ちょっと辟易してしまったこともあります。

今回は、自宅で家族一緒にオリンピックを観ているのですが、我が家の場合、日本選手の活躍云々はあまり興味がなく、「こんな種目があるんだ」とややマイナーな種目を楽しむ傾向があります。

たとえば、エアピストルとか、カヌーカヤックとか、アーチェリーとか。重量挙げもなかなか面白いものでした。

重量挙げ女子48キロ級は、タイのSopita Tanasan選手が金、インドネシアのSri Wahyuni Agustiani選手が銀、日本の三宅宏実選手が銅でしたが、日本のテレビでは三宅選手しかスポットが当てられません。他の選手はどうだったのか。

実は、インターネットで、オリンピックのすべての試合を観ることができるサービスをNHKがやっていて、我が家ではそれに、はまり始めています。これを使えば、タイやインドネシアの選手の様子も観ることができます。

それだけでなく、重量挙げだと、選手の体力を見せつけられるだけでなく、舞台袖で選手を見守るコーチの喜怒哀楽や舞台裏での選手とコーチの様子、何キロのバーベルに挑戦するかのチーム間の駆け引き、といったものも観ることができます。重量挙げが実は心理戦であることを初めて知ったりもしました。

エアピストルでのベトナムの選手とブラジルの選手との駆け引きも、なかなか見ごたえのあるものでした。

テレビ以外に、パソコンでインターネットをつけながら、あまり知らない種目を観る、という楽しみが、オリンピックを通じたスポーツの新たな面白さを感じさせてくれるような気がします。

スカルノハッタ空港でプライオリティパス

8月5日、心配していたロンボク島のリンジャニ山噴火もなく、ロンボクからジャカルタに到着。利用したのはバティック・エアでしたが、定刻の15分前にロンボク空港を出発するという、遅延がフツーのライオン・エア系列としては珍しいことでした。

ジャカルタ・スカルノハッタ空港に着いたのが午後3時、ジャカルタから東京へ向かう夜便まで6時間の待ち時間があります。でも、わざわざ渋滞を体験しながらジャカルタ市内まで行く用事もないので、空港で時間つぶしをすることにしました。

バティック・エアの着いた第1ターミナルCからは、無料のシャトルバスで、東京行き国際線の出る第2ターミナルDへ移動。このシャトルバス、車高が高く、スーツケースを持って中に入るのがいつも大変になります。今回は、割と軽かったので、あまり負担は感じませんでしたが。

第2ターミナルDに到着。第2ターミナルにあるエアポートホテルは、改修のためずっと閉まっていましたが、つい最近再オープンしたので、そこのレストランで時間つぶしをしようと向かいました。以前、このレストランからよく飛行機の発着の様子を眺めていたものです。

スーツケースをセキュリティチェックに入れて、入ろうとしたら、従業員から「マッサージですか?」と聞かれました。なんか変。それで「レストランに行きたいんだけれど」と答えると、今オープンしているのは、客室とマッサージだけとのこと。レストランは9月以降になる、と言われガックリ。

しかたなく、冷房の効いた出発ロビーの背もたれのないベンチに座り、スーツケースを横にして、その上にビジネスリュックを配置し、その上にパソコンを置いて叩き始めてみました。やっぱり、グラグラして叩きづらいし、だんだん腰は痛くなってくるし。15分で我慢できなくなり、向かいのカフェに入ると、パソコン電源はレジのところにしかない、とそっけない返事。諦めました。

いったん外に出て、BNIエメラルド・ラウンジの前を通り過ぎたとき、もしかしてプライオリティパスが使えるかもしれない、と思い出しました。ダメ元で入口を見ると、プライオリティパスの札がありました。中へ入ると、もちろん使えるとのこと。ただし、3時間まで、という時間制限がありましたが、とりあえず、3時間いられるだけでもありがたいので、使わせてもらいました。本当に助かりました。

こうなると、スカルノハッタ空港のどのラウンジでプライオリティパスが使えるのか、探索したくなります。出国手続の後、歩き回った結果、乗り場Dの端っこにある2つのラウンジでもプライオリティパスが使えることが分かりました。

ちなみに、プライオリティパスのホームページによると、ジャカルタ・スカルノハッタ空港の6カ所で使えるようです。インドネシアの地方空港でも意外に使えるようです。

 ジャカルタ・スカルノハッタ空港でプライオリティパスの使えるラウンジ

 インドネシアの空港でプライオリティパスの使えるラウンジ

今回は、プライオリティパスのおかげで、6時間の空き時間も有効に使うことができました。エアポートホテルのレストランがオープンしても、もう使うことはないことでしょう。ありがたや、ありがたや、でした。

サンバルはどこへ行った?

8月5日早朝、ジャカルタからロンボクへガルーダで飛びました。所要時間は2時間弱、数日前に起こったリンジャニ山の一部からの噴火の影響もなく、スムーズに中ロンボク県プラヤのロンボク国際空港に到着できました。

ガルーダでは、所要時間が1時間を超えると機内食が出るのですが、今朝のチョイスは、オムレツまたはナシゴレン。私はナシゴレンを選んで、食べ始めてすぐ、気づきました。

サンバルが付いていない!!!

サンバルというのはちょっと甘めのチリソースで、インドネシアの食にはなくてはならない調味料です。昔から、人々は何にでもサンバルをつけるので、ほとんどの食べ物の味がサンバル味になってしまい、「インドネシア人は味盲だ」などという人さえいました。

このサンバルの味、慣れるとこれがないと落ち着かなくなるような、ちょっと中毒になるような性質も持っていて、私にとっても、フライドチキンやフライドポテトを食べるときには、このサンバルが必需品になっています。

そのサンバルが機内食に付いていないのです。以前は、どんな機内食のときも必ず付いていたのに。ガルーダは、いつからサンバルを機内食に付けなくなったのでしょうか。

付けなくなったのには理由があるはずです。おそらく、機内食に付けていたサンバルが、だんだんにたくさん未使用のまま残されるようになったのかもしれません。経費削減に迫られてきたガルーダは、残されるサンバルもまた、見直しの対象になったのでしょう。

でも、もしそうだとするならば、それは、インドネシアの人々の間に味覚の変化が現れていることの証左かもしれません。サンバル味よりも、徐々にそれぞれの素材のもつ味へ嗜好が移り始めたのかもしれないのです。

そう考えると、普通のレストランでも、こちらからリクエストしないとサンバルを持ってこなかったり、ナシゴレンに最初から唐辛子が入っていたり、サンバルが前提の出し方から変わってきている印象があります。おそらく、健康ブームで、サンバルの取りすぎが良くないという認識も出てきていると思われます。

ここでいうサンバルとは、市販の大量生産によるサンバルのことです。この製品は、インドネシアに現れてから、マーケットの絶大なる支持を受けてきました。なぜか。それは、料理ごとに異なるサンバルを作る手間を省いてしまったからです。

実は、サンバルは本来、料理ごとに違うのです。フライドチキン用のサンバル、ソト・アヤム(実だくさん鶏スープ)用のサンバル、ソト・パダン(実だくさんのパダン風スープ)用のサンバル、茹で野菜用のサンバル。それぞれの料理にはそれぞれのサンバルを作らなければならなかったのです。

本来は別々なのに、何にでもそこそこ合う市販のサンバルで済ませてしまうようになると、市販のサンバルの味が何となく標準になっていったのでした。便利な市販のサンバルがインドネシアを「味盲」にさせていたのかもしれないのです。

それが今、市販のサンバルが付いてこないというのは、本来の料理の味へ戻り始めたことを示しているということになるでしょうか。

過去30年以上、インドネシアの食を実体験しているものから見ると、インドネシアの食は明らかにだんだん辛くなくなり、かつ甘くなくなっています。そして、素材の美味しさや香辛料の組み合わせの妙を感じさせるような方向に進んできたと思います。

明らかに、30年前よりもインドネシア料理は美味しくなっていると感じます。プロの料理人を目指す若者も増えているように見えます。

それは、経済発展に伴い、人々の生活の質や嗜好が変化していることとも関係があるはずです。

レトルト食品などの普及など、効率化の進行による食品の味の画一化、ファーストフード化がますます進行するでしょうが、その一方で、地方でのローカルフードの復活・食べ歩きの隆盛、などに見られるような、手間暇かけた料理への関心も高まっています。

これからさらにどのようにインドネシア料理が進化していくのか、ますます楽しみになってきました。それでも、あの市販のサンバルの味が時々恋しくなってしまうのは、やはり中毒なのでしょうか。

「皆んな同じ」の日本、「皆んな違う」のインドネシア

一緒に活動していたチームメンバーが皆んな帰国し、私だけがインドネシアに残っています。そして残っていたために、明日明後日、急遽、ロンボクへ行くことになりました。

ロンボク島のリンジャニ山の一部が数日前に噴火し、ロンボク空港が閉鎖されましたが、2日朝に再開、ちょっと心配ではあります。そういえば、北マルク州のテルナテでも、火山の噴火で空港が閉鎖中です。地球はまさに活動中なのでしょう。

このところ、インドネシアでの内閣改造、東京都知事選挙、日本での内閣改造、と政治のニュースが目白押しです。とくに、日本での政治の動きについては、色々と思うところはあるのですが、それを言葉にすると軽くなってしまう気がして躊躇してしまいます。

でも、言葉にしていかないと、人間の存在がどんどん軽くなって、ふわふわと世の中の流れに乗り、一定方向へ飛んで行ってしまいそうな気もします。必要なのは、自分を自分たらしめている根っこをしっかりと地面に下ろし、強く這わせていくことなのでしょう。物事を批判的に見ていくための思索を止めてはならない、と自分に言い聞かせています。

そんなことを色々考えていたら、日本とインドネシアでは社会の基本が全く違うということに思い当たりました。すなわち、日本では同じこと、「皆んな同じ」ことが基本であるのに対して、インドネシアは違うこと、「皆んな違う」ことが基本なのではないか、とふと思いました。まあ、当たり前といって仕舞えば、それまでなのですが。

でも、「皆んな同じ」という感覚で日本(人)はインドネシア(人)を見ているのではないか、言い換えれば、「インドネシア人は皆んな同じ」というふうに見て、「日本人とは違う」という言い方がよく聞こえてきます。ともすると、「日本人のようにならなければならない」というニュアンスさえ感じられる対応もあります。

これに対して、多様性の中の統一を国是とするインドネシアは、違うのが当たり前、だから違う人々の存在を尊重するのは当たり前、という感覚があるように思います。そこには「いい」とか「悪い」とかの価値判断はなく、存在自体を否定しない、という態度です。「そういう人もいるよね」という感覚です。

相模原の事件を通じて、「役に立たない人間は存在価値がない」という感覚が日本社会の中に相当あることが改めて浮き彫りになりました。一体、「役に立つ人間」とはどのような人間なのでしょうか。あるいは、「自分は役に立っている人間だ」と胸を張れる人とは、どのような人なのでしょうか。

すべての人間が役に立たなければならない、という考えが「一億総活躍社会」といった言葉の裏に透けて見えます。でも、役に立つかどうかを判断するのは、国家なのでしょうか。政府なのでしょうか。誰が判断するかで、「役に立つ」ということが大きく変わってきます。そして、その価値判断基準を「皆んな同じ」にしたい、あるいは勝手に、場合によっては自発的に「皆んな同じ」になっていく、日本がそんな方向へ向かっているような気がしてしまいます。

インドネシアにいると、「たとえ歓迎されてはいないかもしれないけれども、存在は認めてもらっている」という実感があります。人間の存在は神によるもので、自らの手で存在を否定することは許されない、という考えは広く共有され、他人に危害を与えない限り、存在は放置されます。「皆んな違う」のが当たり前なのです。

世界を見渡すと、「皆んな同じ」の日本と「皆んな違う」のインドネシアとでは、どちらが適応しやすいか、一目瞭然ではないでしょうか。個々の人間は皆んな違うのに、「皆んな同じ」に合わせないといけないと思わせてしまう日本社会に馴染むことは、世界の違う人々と付き合うのにプラスでしょうか。

日本は特別、日本はすごい、世界は日本を見習うべき、といった言説は、「世界が日本を認めてくれなくなったのではないか」という自信喪失の裏返しに見えます。世界が日本を認めなくなったら、日本人は世界から忘れ去られるのでしょうか。でもそう思ってしまう日本人が、実は少なくないのではないかという気もします。

「皆んな同じ」の日本の人々が「皆んな違う」のインドネシアで様々な人々と触れ合うだけでも、自分自身を何かに合わせることなく、自分自身として生きていっていいのだという感覚をずいぶん取り戻せるように思います。その当たり前の感覚を取り戻せば、世界のどこへ行っても、「ここでは自分が異質なのだ」「でもその存在は否定されない」という安心感を感じ、自分と違う存在を当たり前と受け止められるようになるのではないかと思います。

日本が好きな人々は世界中にたくさんいて、日本で暮らしてみたい、日本で働いてみたい、という人も少なくないと思われます。そんな人たちを「皆んな違う」という感覚で日本は受け入れられる場所になっていけるのでしょうか。でも、そうならなかったら、「皆んな違う」世界の中で日本は生きていけなくなるような気がします。

「皆んな違う」のが当たり前の新しい日本になることが、社会をもっと面白く、楽しく、創造的にする活力になる・・・、違うからこそ力になる、そんな風になったらいいなあと思う私は、「皆んな同じ」の日本ではおかしいと思われるのでしょうか。

「皆んな違う」のが当たり前の世の中へ、と考えることは、自分が、国家ではなくローカルにこだわる一つの理由でもあります。

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