SQでもやはり無理なことはある

10月30日ジャカルタ20:20発、シンガポール23:05着。シンガポール23:55発、成田10月31日7:30着。定刻通りならこのように乗り継ぐ、シンガポール航空で、今回のインドネシア出張から帰国しました。

実際には、ジャカルタ→シンガポール便の出発が20分ほど遅れ、それでも挽回して、シンガポール到着は10分弱の遅れで到着しました。

到着したのは第2ターミナルの一番端。成田便は第3ターミナルなので、スカイトレインに乗って移動です。

ジャカルタでチェックインしたときに、係員が気を利かせて、できるだけ出口に近い席を取ってくれたので、エコノミークラスとしては早く機外へ出ることができたのですが、ともかく小走りに速足でひたすら第3ターミナルへ向かいました。

成田便の搭乗口に着いたのは23:30過ぎ。すでに搭乗はほとんど終わっていました。高速歩行で大汗をかきましたが、何とか滑り込みで無事乗り込むことができました。

ふと、気になったのは預入荷物。でも、世界一という評判のシンガポールのチャンギ空港だから、きっと大丈夫、と思い込みました。

成田到着。ブリッジを進んだ先に掲示板があり、そこに私の名前が出ています。なぜ?

係員から、預入荷物がまだシンガポールにあることを告げられました。この短い乗継時間でも可能だから、この便の乗り継ぎをブッキングできるようにしているはずだ、と勝手に信じていたのは私です。

でもすぐに、やっぱり、無理だったんだね、SQ、無理してるんだね、と思いました。

地上係員の女性はANAの方で、ひたすら平謝りされてしまい、かえって恐縮してしまいました。別にこの係員がミスったわけでもないのに。でも、きっと、このような場合、激怒して怒鳴り散らす乗客が少なくないのでしょう。

預入荷物は、SQが費用負担して、東京の自宅まで送ってくれるということで、ゴロゴロ引いていく必要がなくなってラッキーでした。でも、この段階では、どの便に乗ってくるのかが分かりません。「31日の昼便に乗ってくる」という連絡があったのは、31日の午後でした。

また、税関で中を開けられるかもしれないということで、鍵の番号も教えなければなりませんでした(教えないと私が成田まで出向くことになるのでしょう)。念のため、税関で荷物を開けられた場合には、その場で私に連絡するようにお願いしました。万が一、中身が紛失した場合のことを考えたのです。

とりあえず、手ぶらで東京の自宅へ戻りました。午後、「31日の昼便に乗ってくる」という連絡とともに、11月1日の午前中に東京の自宅へ配送される、ということが告げられました。その後、何も連絡はなく、税関で荷物も開けられることはなかったのだなと思いました。

11月1日の午前中、荷物が来るのを自宅で待っていました。約束の正午を過ぎても、荷物は届きません。連絡も何もありません。少しゆっくり間をとり、午後1時半過ぎに、今回担当してくれている成田空港のANA手荷物サービスセンターに電話をし、事情を聴きました。荷物が確かに成田に届いたのかどうか、成田から配送されたのかどうか、を確認したかったのです。

しばらくして、ANA手荷物サービスセンターから電話があり、荷物は成田から配送されたこと、その荷物が1日の午前9時に東京の自宅の近くにある最寄りの営業所にあったことが分かりました。となると、今度は配送会社で何が起こっているのか、どうしてすぐそこなのに配達されないのか、が気になります。

すると、ANA手荷物サービスセンターから連絡があり、配送会社の仕訳ミスで荷物が違う場所へ送られたことが判明しました。それでも現在配達中とのことで、配送車のドライバーから連絡が来るという話でした。

その電話を終えて5分も経たないうちに、荷物は無事に届きました。中身もすべてそのままで、まずはめでたし、めでたし。

なのですが、SQでもやはり無理なことはある、というのは認めなければなりません。乗継時間が1時間未満の場合には、「乗継できる」と表示しないようにしてほしいものです(現段階でもまだ表示されています)。もっとも、私たち利用者のほうで、乗継時間を2時間程度とるようにすべきなのかもしれません。SQもちょっと無理をしているのではないか、と思います。

それと、配送会社のミスについてですが、ANA手荷物サービスセンターが状況を説明してくれたからいいものの、配送会社からは何の説明も謝罪もありません。事情の良く分かっていない配送ドライバーが、ともかく謝ればいいという感じで謝るのみです。

「午前指定」が午後2時過ぎに配送されたのですよ。直接、会社へ抗議してもいいのですが、「またクレーマーかよ」と真摯に受け取ってもらえないような気がするし、実害もとくにないので、まあこれで済ませることにします。これもまた、日本の様々な劣化を助長することになってしまうのかもしれませんが。

ともかく、真摯に対応してくださった、成田空港のANA手荷物サービスセンターの係員の方に、感謝申し上げます。

ジャカルタのコワーキングスペースは快適

今回のインドネシア出張も終盤を迎え、農業省での中間報告準備や現地調査でのヒアリングメモなどをまとめていたため、なかなかブログを更新できずにいました。でも、この週末で何とか目途がつきそうなので、気分転換を兼ねて、久々に書いています。

今いるのは、ジャカルタのコワーキングスペースHUB2U。私のアジトは外国人のほとんどいない東ジャカルタにあるのですが、アジトにはインターネットWifiがないので、長時間、高速インターネットに接続できる一時的な仕事場として使えるスペースを求めていました。

ラッキーなことに、私のアジトのすぐ近くに1軒ありました。先週行ってみたのですが、雑居ビルの3階と4階、窓のない部屋に安い机と椅子があるだけの殺風景な場所ですが、インターネットはとても速く、快適でした。まさか、歩いて行けるところにこんな場所があるとは思わなかったので、驚きでした。

今日は、私のアジトからはちょっと離れてはいるけれども、比較的近くにあるこのコワーキングスペースで快適にインターネットにつなげています。

たまたま土曜日ということもあり、私以外に利用しているのは1名のみ。このジャカルタとは思えない静寂な環境で、先ほど、来週月曜日に農業省で発表するプレゼン資料を仕上げたところです。

ただし、WifiのIDとパスワードは1つのデバイスのみ有効。複数のデバイスをつなげていると、つながらなくなってしまうので注意が必要です。

1日利用は12万ルピア、約1000円です。コーヒーや飲み物があり、今だけ、ランチ無料サービスをしているようですが、ランチの時間はいつの間にか過ぎてしまいました。でも、この辺りは、ジャカルタでも有数のグルメ地区で、仕事が終わったら、しっかり楽しんで帰るつもりです。

昨日は、Wifiが速いと有名なトラフィック・カフェで、アイス・カフェラテ1杯で3時間ぐらい居ました。でもここは、1時間ごとにログインをし直さなければならないのが、ちょっと面倒でした。

他にも、モールに入っているカフェでどこのインターネットが速いかなどの情報も得たので、また今度試してみたいと思います。

久々のプンチャック越えで出逢った光景

10月17~19日は、西ジャワ州チアンジュール県を訪れました。ここでは、園芸農業を中心とした農業の現状に関する情報収集を行いました。

ジャカルタからボゴールを通り、プンチャックを越えて、チアンジュール県へ向かいましたが、このルートを通るのは、おそらく約20年ぶりのことだと思います。
インドネシアに初めて来た1985年8月、このルートを通って、バスに乗って、インドネシア語の先生の実家のあるチマヒへ行きました。チマヒはバンドンの一つ手前の町です。
あの時は、プンチャックを越えて、道路沿いの食堂で昼食。どこを見渡してもスプーンもフォークも見当たらず、うろうろしていると、周りの人が皆、手で食べているのに気がつき、見よう見まねで、手で食べたのを思い出します。スンダ料理の店だったのでした。
1990年代前半までは、この道を何度も通って、ジャカルタとバンドンを行き来しました。4848という会社の車をよく使いました。4848の運転手は道を熟知しており、ものすごいスピードで走ったものでした。
その後、1990年代半ば以降、スラウェシ島のマカッサルを中心に、インドネシア東部地域に深くかかわることになって、かつ、ジャカルタからチカンペック経由でバンドンへ行く高速道路ができたことで、自分がこのルートを通ることはほとんどなくなってしまいました。
20年ぶりのこの道は、道幅があまり変わらないのに、交通量はものすごく増えていて、あちこちで渋滞に巻き込まれました。沿道にはたくさんの店ができていて、とても賑やかになった印象があります。
先週のことですが、プンチャックを越えたチパナス付近で、沿道の多くの簡易建物がチアンジュール県政府によって強制的に取り壊されました。そして、それに抗議する簡易建物の関係者が怒り、路上で抗議運動を行い、治安当局に激しく抵抗しました。
今回、その残骸を沿道で見ることになりました。
交通量の増加したこの街道の道幅を広くするため、沿道の不法占拠した簡易建物を撤去した、ということなのでしょう。おそらく、政府は何度も警告して、それに従わなかったので、強制撤去に踏み切ったという話と思われます。
かつて、暴動が起こった町でこんな光景を見ました。それと同じように、見事なまでに破壊されていました。この人たちには、代替地が用意されていたのでしょうか。どこへ行ってしまったのでしょうか。
この辺りは、ただでさえ、その場所に暮らしていないよそ者によって土地が奪われ、その土地はよそ者の別荘などの不動産や飲食店などに代わっている場所です。首都ジャカルタからさほど離れていないがために、そうした影響を昔から大きく受けてきた場所でした。
20年ぶりのプンチャック越えで出逢った光景は、いろんな意味で、考えさせるものでした。そして、きっと、変わったのは光景だけでなく、ここに暮らす人々もまたそうなのだとそうなのだと感じました。

サンシャワー展は本当に良かった!

明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。

この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。

東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。

彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。

適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。

様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。

映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。

サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。

近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。

ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。

目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。

そんなの、やってみたい!!

福島税務署で残りの諸手続

今日は福島市です。今週は東京で色々と予定が入ってしまったので、福島市にいるのは今日と明日の1泊2日。しかも、明日の夕方5時に東京で予定が入っているので、それに間に合うように、東京へ向かいます。

今回の用事は、税務署です。松井グローカル合同会社を4月に福島市で登記し、色々と手続を済ませてきたのですが、9月分の役員報酬の支払いに伴う源泉徴収所得税納付書を10月10日までに福島税務署へ提出しなければならなかったのでした。

通常、源泉徴収所得税は金融機関の窓口か税務署で期日までに支払うのですが、私の場合は、税務署へ行かなければならないのです。なぜかというと、実は源泉徴収所得税がゼロだからです。

役員報酬額が低いので、ゼロになっているのです。しかし、たとえ源泉徴収所得税がゼロであっても、ゼロであるということを明記した源泉徴収所得税納付書を提出しなければならず、それは金融機関ではなく、税務署へ行く必要があるのです。

もっとも、毎月「ゼロ」の納付書を税務署へ提出に行くのも面倒なので、すでに6ヵ月に1度まとめて提出できるようにするための手続を9月中に終えました。でも、9月分だけは10月10日までに提出する必要があるので、今日、提出してきたという次第です。

次回は来年1月20日までに2017年10~12月の3ヵ月分の「ゼロ」の納付書を提出することになり、その後は、6ヵ月分ずつまとめて、7月と1月の年2回、提出です。

福島税務署で担当してくださった職員の方が、とても懇切丁寧に対応してくださり、すっかり気分の良い一日となりました。「早くきちんと納税できるようにならなきゃ!」と私に思わせるかのような対応でした。

今日の福島市は、晴れているのに時々小雨が降る時雨模様の肌寒い一日でした。お昼に食べた鴨のつけそばがけっこう美味しかったのも収穫でした。

Co-minkan 第1号を訪問しました

9月30日の夜に帰国して、翌10月1日の朝、Co-minkan 第1号のオープニングを見るために、横浜市保土ヶ谷区まで行ってきました。

Co-minkan 第1号になったのは、保土ヶ谷区役所の近くにある峰岡公園の向かいのカフェ「見晴らしのいい場所」という小さな場所です。元はスナックだったというこじんまりとした場所で、Co-minkanが始まったのでした。

Co-minkan というのは、もちろん公民館から来ているのですが、行政が運営する公民館ではなく、民間で作る「こうみんかん」を企図しています。

地元の人が気軽に立ち寄り、お茶でも飲みながら、いろいろおしゃべりをする。そこに行けば悩みや相談を聞いてくれる人がいる。わいわいやっている間に新しいアイディアが浮かんだり、面白いことを思いついたりする。なんだか楽しくなる。

そんな空間を、気軽にみんながあちこちで作り始めたら、もっと温かい人と人とのつながりを意識できる世界が広がっていくのではないか。

Co-minkan は、誰でもそんな空間を作れるようなノウハウを広げることを目的としているようです。どこに作るか、どんな内装デザインにするか、どれぐらいの頻度で開くか、誰を誘うか。いくつかの事例を想定しながら、空間のつくり方を一緒にゆるーく伝えていこうとしています。

Co-minkan 普及実行委員会共同代表の横山太郎さんは地元のお医者さんですが、最近、自分が患者さんに伝えてきたことが、実はよく理解されていなかったことに気づきました。それは自分の伝え方に問題があったのではないか、と自問し、もっとじっくりと肩肘張らずに対話のできる空間を作りたいと思い始めたそうです。そこへ、コミュニティ・デザインで地域づくりを支援してきたStudio-Lが関わって、この Co-minkan を始めてみようということになったのだそうです。

オープニングには、近所の皆さんも集まり、ゆるーくいろいろおしゃべり。

子供たちは、公園でシャボン玉飛ばしをして遊んでいます。カフェのスペースは狭いのですが、目の前の公園に飲み物を持ち込んで、実質的に公園もカフェの一部になってしまうような場所です。

この取り組みが興味深いのは、何か場所を作っておしまいなのではなく、こうした空間の作り方を興味深く伝えることで、「自分でもつくれそう」「つくってみようかな」と思わせ、そうした動きを日本各地、いや世界各地へ広げて行こうとしていることです。

そんな Co-minkan のつくり方のゆる〜い「マニュアル」を製作するために、クラウドファンディングを募っています。下記のページを参照のうえ、できれば是非ご協力ください。

 毎日を楽しくするために「こうみんかん」をあなたの地域に!

オープニングに参加しながら、いろんな Co-minkan のあり方に想像を巡らせていました。時限的なものもいいし、山間地域ならば移動式のもありうるし、毎月順繰りに地域の方の家の一角をそうしてもいいし・・・。

でも、一番大事なことは、「対話」ではないでしょうか。相談事だけなら、ネットに投げれば誰かが答えてくれます。でも、面と向かって対話をすることで、より一層の安心感と満足感が得られるのではないでしょうか。

対話の場を簡単にゆる〜くあちこちに作っていけたら、今よりも少しは温かい気持ちを広げていくことができるのではないかなあ。まずは自分の身近なところから。

私は、Co-minkan の取り組みに賛同し、自分もそんな空間をつくっていきます。そして、そんな仲間を日本各地に、世界各地に増やしていきたいと思います。

今週は福島、来週はスラウェシ

久々の投稿となってしまいました。

8月15〜17日は、妻と一緒に福島へ行っていました。

まずは、実家の母や弟たちと一緒に、亡き父の墓参りへ行きました。

翌日は、盆休み中の弟と妻と一緒に私のオフィスへ行きましたが、床が汚れていると言って、さっそく掃除。ホームセンターで必要な備品を買い物した後、オフィス入口の床板が腐食していたので、応急措置をしました。

オフィスと同じ敷地内にある、雨上がりの古民家。古民家のオーナーに挨拶し、妻を紹介して、しばし歓談しました。
8月15〜16日は盆休みの弟が、そして17日は弟の嫁が我々の相手をしてくれました。
実家に帰る途中で、季節も終わりかけの桃「あかつき」を箱買いして、実家で食べました。もちろん、硬くて甘い桃でした。
福島から東京へ戻り、18日は都内でなかなか有意義な会議を終え、明日20日からは、ダリケー株式会社による、インドネシア・スラウェシへのカカオ農園ツアーのお手伝いに行ってきます。
帰国は27日。今年はどんなツアーになるか、どんな面白い方々とお会いできるか、楽しみです。

やたら知人に出会う、今回のジャカルタの宿

昨日(7/10)からジャカルタに来ています。いつもは、東ジャカルタの私のアジトに泊まるのですが、今回は、調査団の一員としてなので、他の団員と同じホテルに宿泊しています。

このホテルに初めて泊まったのは1980年代後半で、それ以来、何度か泊まっているのですが、昔よりもいろんな面で進歩が見られます。とくに食事は、以前はとにかく美味しくなかったという記憶したなかったものです。今も決してものすごく美味しいとは思いませんが、そこそこ食べられるレベルになりました。

部屋が広いのがこのホテルの特徴ですが、かつてはバスタブ付きの部屋が少なかったのです。今はほとんどの部屋にバスタブが付いています。ベッドもよくなりました。

近年、日本の関係オフィスがジャカルタの中心部よりも南へ移ってきたせいか、日本からの出張者の滞在ホテルも南へ移ってきている様子があります。

今回のこのホテル、見た目だけでも、日本人客の比率が高いです。昔のプレジデント・ホテルほどではありませんが。

そして、そのせいか、知人に必ずと言っていいほど出くわします。昨晩のチェックイン時、今朝、朝食をとるためにエレベーターを降りた時、外での仕事を終えてホテルに戻ったロビーで、別々の知人に複数会いました。

今までの経験からしても、相当な確率です。というか、いつもはアジトに宿泊なので、日本人に会わないジャカルタライフが普通だったので、ビックリしているだけなのですが。

今日の夕食で食べた、ランデブーのゴーヒョン(肉詰め巻き揚げ)は相変わらずのおいしさでした。このたびスラバヤに着任されたT氏とこの店でご一緒したことを思い出しつつ。

恩人であるTさんの思い出

梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。

今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。

その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。

それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。

当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。

元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。

Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。

私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。

Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。

Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。

Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。

Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。

今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。

Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。

とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。

晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。

おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。

私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。

どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

紫陽花の花を眺めていたい

福島から東京の自宅へ戻りました。大雨に合わずにすみました。

福島のオフィスのすぐ前で咲いていた紫陽花の花の写真を、ただただ、眺めていたい。そんな気分の日もあります。

色々なことを思いながら。あの人のことを想いながら。紫陽花の花に何かを託しつつ。

生まれて初めて行った床屋を再訪

今日は、この世に生まれて初めて行った床屋さんを再訪しました。実に50年ぶり、福島市天神町の理容アサヒです。

たしか、生まれて初めて床屋へ行ったのは2歳か3歳のころ。室内はピンクっぽい色の内装で、椅子が4つか5つあり、5~6人ぐらいの女性従業員がいました。一番端の椅子に座らされて、ものすごく泣いて、女性従業員になだめられた記憶があります。

店はまだありました。今は、81歳になるおじさんが一人で経営しています。

おじさん曰く、3人の客を続けてやると体がかなりきついそうですが、客が一人も来ない日もあるとのこと。一日に5人ぐらい来てくれるといいんだけどな、とおっしゃっていました。

私の記憶はけっこう正しかったようです。周辺の居住人口が減り、客が減ったので、従業員はみんな辞めてもらい、奥様と一緒に店をやってきたのですが、数年前、奥様が体を悪くしてからは、一人で店をやっているそうです。

すぐ近所にあった銭湯、時計屋、スーパーなど、今はもうなくなった店々の話に花が咲き、おじさんも話が止まらなくなってきます。

おじさんで3代目なのですが、おじさん夫婦には子供がおらず、おじさんの代で店を閉めることになるそうです。

髪の毛を切っていても、かつての若い時のようには体が動かず、同じことをするにも時間がかかるようになったのが悔しいと言っていました。でも、まだしばらく、おじさんの体が動くうちは働いて、利益を光熱費などの支払いに充てるのだそうです。

店には、平成18年の近所の商店会加盟店のすごろくが貼ってありました。私の知っている懐かしい店がまだたくさん残っていました。でも、その商店会の中心メンバーだった店はすでになくなり、今や、商店会は解散状態となってしまったそうです。

私が小学校の時に通っていた英語学校のポスターも。こちらはまだあるみたいです。

店にはおじさんがたった一人しかいないはずなのですが、私には、お姉さんたちが私をあやす声をふっと聞こえてくるような気がしてならないのでした。昭和30年代後半のあの頃にタイムスリップしてしまいそうな・・・。

おじさん、また来ますね。

コンサルタントと名乗ることについて

自分がなりたいのは、ローカルの足元の生活から物事を発想し、ローカルが他のローカルとつながりながら、新しいモノやコトが創り出されるための黒子、です。

でも、法人クレジットカードの申込や銀行での法人口座開設で、それを職業や職種で一言で何というか、と問われると、どう言っていいのか分からなくなります。「その他」というのが該当するのでしょうが、それだとさらに具体的な説明を求められて、面倒になります。

それで、「コンサルタント」と名乗ることにしています。でも、世の中のいわゆる正統なコンサルタントとはちょっと違うような気がしています。

一般に、コンサルタントは、顧客(クライアント)からの相談を受けて、助言や解決策を教え、その対価をもらう仕事と考えられます。ですから、顧客の意向がどのような理不尽なものであっても、それに合わせる必要が出てきます。

これまでのいくつかの経験で、そのような振る舞いが必要な場面があるということを十分に学びました。契約書や仕様書に書かれていなくとも、顧客から指示されたことは、断ってはならないし、顧客の気分を害するような態度を決して示してはならない、ということを。なぜなら、そんなことをして顧客から仕事がもらえなくなったら大変だから。

それに見合う見返り収入が十分にあるのならば、それはそれと割り切って、ニコニコしながら、うまく対応するのも大人の対応なのだろうな、と思います。まだ、収入が不安定な時には、そうした収入がやはり必要だと実感します。

でも、できることならば、そのような仕事だけをする人生など送りたくありません。私がやりたいことは、教えないコンサルティング。顧客に教えるのではなく、顧客が自分で気づき、自分で問題を解決するために動く、そのように促すやり方です。

数日前の記事で、東京から東北へやってくるコンサルタントに関する記事が載っていました。曰く、復興や地方創生で困っている自治体などへ、そうしたコンサルタントが乗り込んでいって自分のアイディアを売り込む。東京から来たコンサルタントさんだからといって自治体側もなぜか期待して、多額の報酬を支払ってしまう。その実、後から振り返ると、何が自治体にとって役に立ったのか分からない、といった話でした。

コンサルタントと名乗ると、そんな輩と一緒にされてしまうのだろうか、なんて思ったりもします。ちょっとこわいです。

しかしこの構図、実はインドネシアでさんざん見てきた構図と全く同じなのです。そして、ある意味、自分もそうした外部専門家の立場にいたこともあるわけです。そんな立場の自分なのに、「よそ者に騙されるな(私もよそ者だけどね)」とインドネシアの村人たちに言い続けていた自分は、やっぱり他のコンサルタントさんから見ると、異様だったのだなと今にしてよくわかります。

インドネシアでは外国援助。日本では復興や地方創生という名の補助金。これらに頼った仕事しかしないコンサルタントならば、やはり顧客であるそれらの資金元の意向に沿わざるを得ないのは当然です。

でも、それらのコンサルタントの仕事をいちいち業績評価しているのかどうか。評価しているとしても、誰がどのように評価し、その結果を受入側へも含めて公開しているのかどうか。事業を作れば予算が増えるという仕事のしかたならば、自分の予算でやった仕事が無駄だった、国民の皆さんごめんなさい、とは言いにくいし、別の形でうまく言っているように見せるのだろうな、と思ってしまいます。

私が福島で起業した理由の一つは、東京のコンサルタントにならないためです。親切な地元の方々は、客人の意向にできるだけ合わせてくれます。客人が教えることにも分かったふりをしてくれます。でも、事業が終わると、客人が机上で描いたようには変わりません。事業を金づると思っている客人にとっては、次の事業が取れればいいのです。

そんなコンサルタントと一緒にされたくはありません。でも、収入を安定させるためには、お面を被って、外国援助や補助金の仕事もします。その仕事の過程で得るものはゼロではないし、次の自分オリジナルの仕事につながる部分もあるからです。

自分にしかできないコンサルティングがある、と確信しています。あえて教えないコンサルティング。学び合いを促して自分も学ぶコンサルティング。「後は自分でやれるからもういいよ」と顧客から言われることを常に覚悟しているコンサルティング。「何でもいいから何か仕事をください」と言いまくらないコンサルティング。

まずは、顧客とどこまで真の信頼関係を築けるか。一歩一歩、進んでいきたいと思います。

高速バスでの移動に慣れたけれど

昨日今日と、1泊2日、東京から福島へ高速バスで往復しました。

昨日の東京→福島は、初めてウィラー・エクスプレスを使ってみました。例のピンクのバスです。

バスタ新宿を午前10時半に出発。福島と山形を経由し、天童温泉が終着でした。運転手さんは、キビキビした素敵な女性でした。
首都高速が渋滞で15分程度遅れましたが、「遅れは挽回しませんのでご容赦ください」とのアナウンス。安全運転を堅持するという姿勢に好感が持てました。

500円プラスで隣の席もキープできるので、そうしました。これで福島駅西口まで3200円。今回はしかも、楽天ポイントで全額支払ったので、タダで乗りました。

席はちょっと幅が狭いですが、座り心地はなかなかよく、快適でした。
途中休憩は、佐野サービスエリアと安達太良サービスエリアの2箇所で、佐野では30分、安達太良では15分の休憩でした。
佐野サービスエリアに着いたのは12時で、30分あるので、昼食をとりました。佐野と言えば、やはり佐野ラーメン、です。
うーん、まずくはありませんが、普通のラーメンでした。
安達太良サービスエリアでは、見つけました、酪王カフェオレ・ソフトクリーム。
食べているうちに気がつきました。酪王カフェオレ・ソフトクリームは、下り線でしか食べられない、のだそうです。
こうして、雨の降りしきる福島駅西口(駅からちょっと離れた東邦銀行の脇)に定刻より15分遅れで到着しました。
今日の福島から東京への帰りは、JRバス東北の「あぶくま号」。夕方5時過ぎに福島駅東口を出発し、夜10時過ぎに池袋駅東口に着きます。6月に入って、乗るのは3回目です。
こちらは、那須高原サービスエリアと羽生サービスエリアで15分ずつ休憩。食事をとるという感じではないし、時間が遅いので、店も閉まっていて、見るべきものはほとんどない、と学習しました。
6月はけっこう頻繁に東京と福島を往復したので、交通費を抑えるために高速バスを使ってみたのですが、意外に快適で、退屈もしませんでした。だいぶ慣れた気がします。時間的に余裕があるときには、高速バスを使う機会が増えそうです。
でも、今回は、昨晩、知人と深酒をしてしまい、今日は、けっこうつらい一日になってしまい、バスの中では、ひたすら寝ていました。くたびれました。

雨の中、花菖蒲を眺めにいく

6月18日、日曜日の東京は、一日中、雨が降ったり止んだりのあいにくの天気でした。でも、この日は私たち2人にとって特別の日。

そう、もう20何回も過ぎた結婚記念日。一緒に、紫陽花や花菖蒲を見に行こうということになって、雨の中、出かけました。

スマホ・アプリの気象レーダーで雨雲の動きを確かめながら動いたはずなのに、途中で何度も激しい雨に出くわしたのは、日頃の行いのせいかもしれません。

行先は明治神宮。北参道の入口に紫陽花があり、明治神宮の中には菖蒲園があるので、両方見られる、ということで行ったのですが。

北参道の入口の紫陽花はたしかにありました。でも、数株程度、ほんの少し。「明治神宮で紫陽花って聞いたことないなあ」という妻の言い分がまあ正しかったようです。

一人500円を払って、菖蒲園へ行きました。いやー、色とりどりの様々な花菖蒲が咲き誇っていて、なかなか見事でした。

雨滴に濡れた花菖蒲は、美しさがより際立つように感じました。

菖蒲田はゆるやかにカーブを描いていて、周りの鬱蒼とした緑あふれる木々とともに、ここが本当に東京のど真ん中とは到底思えないような風景を作っていました。

ちょうど、真ん中に橋が渡されていて、そこが写真撮影のスポットとなっています。
あいにくの雨のおかげで、菖蒲田を訪れる人の数も少なく、じっくりと味わうことができて、とてもよかったと、ここはやはり、物事をポジティブに捉えてしまいます。

南池へ行くと、夕方近いというのに、白い蓮の花が見事に咲いていました。

明治神宮の参道の木立は、雨で靄のように烟っており、訪問者の少なさも相まって、一段と厳かな雰囲気を感じました。

明治神宮での散策を終えて、二人ともとても空腹になったので、帰宅前に、原宿の南国酒家(英語表記だと South China Restaurant なのですね)で少し腹ごしらえ。

久々の五目焼きそばに大満足でした。

仕事用パソコンはやはりウィンドウズなのか

以前のブログで、手元のMacBook Airでは法人銀行口座のインターネットバンキングにアクセスできない、ということを書きました。ブートキャンプを使って、MacBook Air1台でMacとWindowsを切り替えて使うことも考えましたが、今一つ非力なのです。

そこで、29,800円という破格に安いASUSのWindowsノートパソコンを買ったのですが、これが実用に耐えるほどには処理が早くなく、イライラしてしまいそうで、購入を失敗したと後悔してしまいました。たまたま、妻のパソコンが動かなくなってしまい、これ幸いとASUSを譲ったのでした。
というわけで、この際、仕事用のノートパソコンはWindowsに戻そう、と決めました。軽めでCPUの処理能力が高く、イライラするようなことがないもの、予算は10万円前後、ということで、今回購入したのが、Thinkpad X260です。

最新のもっと軽いThinkpad X1 Carbonにしようかとも思ったのですが、X260は後継のX270が発売されて型落ちとなり、価格が大きく下落していました。
CPUはCore i7、ハードディスクはSSDの192GB、有線LAN端子、SDスロット、3つのUSB端子があり、しかも、インターネット直販の米沢生産モデル、余計なソフトもほとんど付いていない、という形で、価格が消費税込みで10万円を少し超えるぐらいでした。
実際、使ってみると、なかなか快適です。反応速度も十分早く、キーボードも定評通り、やはりThinkpadは打ちやすいです。ただし、ちょっと厚めで重いです。
そして、ソフトとしては、Microsoft Office 365 Soloを入れてみました。オンライン上からインストールするのですが、PublisherやAccessを含む、Officeのほぼすべてのソフトウェアが使えるほか、クラウド上のOne Driveが1TB、無料でSkypeもついてきます。ただし、課金は毎月または毎年の支払いで、私は年払いにしました。1ヵ月あたり1,000円程度で、ソフトウェアは常に最新の状態に更新される、ということです。
電子メールソフトが今一つなのと、6,000件以上のアドレス帳をどのように活用するかが課題ですが、Googleを介することで、何とか使えそうです。
というわけで、2008年にWindowsからMacへせっかく変えたにもかかわらず、仕事用ということで、またWindowsを使い始めてしまいました。
今日は、夕方7時前に東京を発ち、高速バスの移動で、午後11時半過ぎに福島の実家に着きました。ある程度時間に余裕があるときには、高速バスでの移動も多用していくことになりそうです。

「食と農」の博物館を楽しんだ日曜日

今日は、姪の用事に付き合って、東京農業大学を訪問しました。ちょうど、芽吹祭という学園祭が行われていました。姪と別れてから、すぐ近くにある「食と農」の博物館を訪れました。

建物の周りでは、世田谷区の野菜直売イベントが行われており、朝採り野菜が人気を集めていました。

「食と農」の博物館では、大きな雄鶏の像に迎えられました。雄鶏の後ろには、キリンとゴリラが見えます。隈研吾氏の設計だそうです。

ちょうど今は、「微細藻類の輝かしき未来」という企画展が行われていました。イスラエルの死海で発見されたドナリエラ・バーダウィル、コッコミクサなど、門外漢の私には初めて聞く名前の微細藻類についての研究の現況がパネルで説明されていました。

βカロチンなど医薬品や機能性食品などに点火される微細藻類や、表土流失を抑える効果を持つ微細藻類、農業分野で肥料などに活用される微細藻類などが紹介されていました。
微細藻類の企画展の脇には、東京農業大学の設立者である榎本武揚や、初代学長で足尾鉱毒事件で(田中正造が関わる以前から)農民側に立って汚染状況を科学的に立証してきた横井時敬に関する説明展示がありました。
2階では、酒に関する展示があり、酒造りのほか、酒を嗜むための酒器、酒を楽しむ人々を描いた絵画、などがありました。他には、古くから使われてきた農具のほか、酉年にちなんでなのか、様々な鶏の剥製が展示されていました。

建物のすぐ外には、温室があり、熱帯の動植物がそこにおりました。

メガネザル
ゾウガメ
イグアナ
温室内の動植物は、よく世話をされていると見え、どれも元気にしていました。また、東京農業大学のキャンパス内の植物もよく手入れされている様子がうかがえました。
もしも、娘が小さい頃に、こんな博物館が近くにあったら、きっと毎週のように、メガネザルさんやカメさんに会いに通ってしまうことでしょう。
姪の用事に便乗して、楽しんでしまいました。

オフィスに網戸を入れてから東京へ

今日は、オフィスの3つの窓に網戸を入れてもらいました。

私のオフィスは、木々に囲まれ、草が茂っている、緑豊かな環境にありますが、このところ、蚊がたくさん飛ぶようになり、窓を開けておくと、蚊がどんどんオフィスの中に入ってきて、私の血を吸ってくれます。これではなかなか机での仕事に集中できないので、オーナーの許可を得て、網戸を入れてもらったのでした。

たまたま、弟が福島で長年、建築資材商社に勤めており、弟の高校時代の友人のサッシ関連メーカーの福島営業所長に頼んでくれました。6月1日に、まず弟が来て窓の寸法を測り、その後、弟の友人が来て再度寸法を測り直しました。

そして今日、弟の友人があらかじめ作った3つの網戸を持参し、3つの窓にきっちりとはめてくれました。

あっという間に作業は終わり、請求書を後ほど送ってくれることになったのですが、親友の兄ということで、大幅にまけてもらうことになりました。そんな額でいいのか、とも思うのですが、弟と話をつけてある様子です。商売上、弟と弟の友人は頻繁に取引しているようで、今回のような破格の値段でもいいようなのです。

なんだか、思いっきり、地元であるがゆえのメリットを感じてしまいます。近いうちに、弟と弟の友人と一度はお酒を飲むこと人るような気がします。そんな風にして、地元でのお付き合いが深まっていくのでしょう。

網戸の入ったオフィスは、風が通っても蚊は飛んで来ず、とても快適で、居心地の良い空間になりました。

網戸を入れてオフィス環境が整い、年金保険などの手続もほぼ終えて、活動のための準備はほぼ終了という感じです。

夕方、高速バスでいったん東京へ戻りました。でも来週も後半は福島の予定です。

大きな松ぼっくりの落ちる庭

今日、オフィスへ出かけたら、同じ敷地内の古民家のオーナーが手招きするので、何があるのかと見に行くと、そこには立派な松ぼっくりがありました。

この松ぼっくりを使って、どなたか工芸品などを作ってみたい方はいませんか。左側の小さく見える松ぼっくりが普通の大きさなので、ずいぶんと大きい松ぼっくりです。

松ぼっくりに興味のある方、是非ご連絡ください。

この古民家のある庭には、大きな松の木やら竹やらがいろいろ生えていて、いろんなものがとれます。

敷地内のこの広い庭を見ていると、心が落ち着くとともに、ここを使っていろんなことをしてみたいと思ってしまいます。色々なことを仕掛けてみたいと思っています。

阿武隈川のほとりにて

福島市を流れる阿武隈川。今日も北西の風が強い涼しい日でしたが、ふと、阿武隈川を見たくなり、実家からママチャリで出かけました。

福島県庁の隣の阿武隈川沿いにあるのが板倉神社と紅葉山公園。ここで少しゆっくり本を読もうかな、と思ったわけです。そして、しっかり見ることができました。

阿武隈川をしばらく堪能した後、すぐそばの板倉神社へ行きました。

板倉神社は、18〜19世紀に167年にわたって福島を領地とした藩主・板倉氏を祀る神社です。板倉氏の福島藩は3万石、小さな大名でした(ちなみに二本松藩は10万石)。明治維新の頃、官軍が攻めてきたときに、二本松藩は会津藩とともに最後まで抵抗したのですが、福島藩が強硬に抵抗した様子はうかがえません。明治になって福島県の県庁所在地に福島が選ばれ、二本松が衰えていったのは、それを象徴しているかもしれません。

東日本大震災で板倉神社も被害を受けましたが、福島市の復興のシンボルにしたいという氏子の皆さんの尽力で、きれいに修復されました。神社の周りもきれいに整備され、神社にしては珍しく、くつろげるスペースとなっていました。

板倉神社からすぐ下に目を移すと、紅葉山公園があります。秋になると紅葉がたくさん色づくだろうと想像できる公園です。福島城があった頃は、素敵な日本庭園だったようです。新緑がきれいでした。

でも、残念ながら、紅葉山公園はしばらく整備の手が入れられていないようでした。雑草が生え、放置されているように感じました。秋までには手入れをして、きれいな紅葉を楽しめるように整備するのでしょうね。

紅葉山公園を後にして、阿武隈川にかかる大仏橋(おさらぎばし:下写真の右側)と松齢橋(しょうれいばし:左側)を見に行きました。同じ場所から違う方向へ架かる2つの橋です。

私が子供の頃は、松齢橋しかなく、この橋を渡って、渡利地区にある弁天山や花見山へ行ったものでした。国道4号線のバイパスができたときに、大仏橋がドーンと阿武隈川にかかり、その開通を祝うパレードがあったと記憶しています。

ここは、私の高校時代の淡く切ない思い出の場所。今や、あの頃の面影はほとんど残っていませんが、あの時の自分のことは、今でも鮮明に思い出されます。

ここに来ると、あの時へタイムスリップしてしまうのではないか、とドキドキしてしまうのです。ちょっとだけあの時に戻ってみたいような、でも今さら恥ずかしいような、そんな気持ちを抱きながら・・・。

ようやく「看板」をつけました

今日、ようやく、オフィスの入り口ドアに、「看板」をつけました。これだけでも、少しはオフィスらしくなったのではないかと思います。

写真を撮っている自分が写り込んでしまうので、少し斜めにして撮ったら、ややピンボケになってしまいました。

午前中は、亡き父の遺した洋服を取っ替え引っ替え試着しました。色褪せてしまったものも少なくありませんでしたが、まだ大丈夫なものもけっこうありました。

もう少し痩せると履けそうなスラックスも何本かありましたし、そのまま履けるのもありました。もう少し頑張って痩せたほうがいい、と改めて思いました。

試着しながら気づいたのですが、父の寸法と私のがほとんど同じなのです。私は腕が短いので、既製の長袖シャツを着ると袖が余ってしまうのですが、父のシャツの袖の長さはほぼピッタリでした。また、足も短いので、スラックスを買うときには詰めてもらうのですが、それもピッタリ。寸法を直す必要がほぼないのです。

母にそういったら、「これはどう?あれはどう?」と、別の場所から父の洋服を次々に出してきて、試着させてくれます。

そうして、スラックスとジャケットをいくつかクリーニング店へ持ち込みました。来週から、父の洋服を着るのがちょっと楽しみです。

今日の福島も、昨日と同様、北西の風は強く吹き、涼しいというか寒い1日でした。半袖で通したので、ちょっと体も冷えたみたいです。夕方、少々気分が悪くなりました。

6月1日から、英語とインドネシア語でブログ「Glocal from Fukushima」を始めました。インドネシア語で書いた昨日のブログをたくさんのインドネシア人の友人たちが読んでくれて、福島へ行きたいと言ってくれています。嬉しいことです。

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