機種変更の顛末、日野まで行って3万円引き

日本でもう2年半以上使っているauの携帯電話(アンドロイド)。1年ぐらい前から電池の持ちが著しく悪くなり、日中使うと画面が明るくならないなど、使いづらくなってきたので、機種変更をすることにしました。

6月はおそらく福島にいる時間が長くなるので、5月中に機種変更しようと思っていたのですが、ずるずると末日までずれ込んでしまいました。

まず、東京の自宅近くのauの店へ行ったら、待ち時間が60分。午後2時頃から、都内で用事があったので、時間がかかるので止めて、某量販店へ向かいました。

某量販店で機種変更の代金を出してもらったら、私がインターネットのauサイトのシミュレーションの価格よりも1カ月あたり145円高い! そこで、量販店の係員にその理由を質しました。しかし、しどろもどろで説明ができず、彼らの持っているタブレットに組み込まれたシステム上、そのような額になる、とのわけのわからない説明をされました。

結局、その理由は解明されませんでしたが、私のような客は稀で、ほとんどはタブレットで説明するとそのまま購入してくれるのだそうです。それでいいのでしょうか。

知らない客のおかげで携帯電話会社がきちんと説明せずに「ラッキー」となるような商売のしかたならば、それは日本の外では全く通用しないというしかありません。auや量販店には、きちんと消費者に対してなぜインターネット・サイトと店頭で価格が違うのか、きちんと公に説明しなければならないと思うのです。

埒があかないので、その量販店で機種変更するのは諦めて、その近くの別のau販売店へ行きました。その店でも待ち時間は60分ぐらい。半分諦めかけていたら、係員から「月末ということで、機種本体価格を2万円安くする特売りをやっているau販売店がありますが、ご紹介しますか」と聞かれました。

場所を聞くと、日野とのこと。ちょっとびっくりしましたが、都内での用務を終えてから、夕方に、au日野店へ出向くことにしました。

そこでは、たしかに機種本体価格が2万円引き。これまで使ってきた携帯を下取りに出してさらに1万円引き。ポイントも全部使ったので、3万円引きとなりました。機種変更もスムーズに終わりました。

それにしても、競争相手のはずの同じ販売店が客を紹介するなんて・・・。どうも、紹介してくれた販売店の方が日野の販売店へ異動したらしく、それで紹介してもらえるのだそうでした。

機種変更に振り回された1日の顛末でした。

インドネシア語や英語でも発信したい

今年は、このぐろーかる日記をここまでなんとかほぼ毎日更新してきています。今日のように、何もなかったわけではなくても、あえて書く材料がない日もあります。

毎日更新し始めて、もうすぐ半年になりますが、こうなると、これを書かずに1日を終えてしまうと、物足りなさというか、罪悪感というか、そんなことを感じてしまうほどです。毎日の生活の一部になっているかのような気分です。
これまでの傾向を見ると、インドネシアの政治に関する話を書くと、アクセスがぐーんと増える傾向にあります。その他の話でも、まあそこそこアクセスがあり、毎日読んでくださる殊勝な読者の皆さんがある程度はいらっしゃる様子がうかがえます。
本当は、もっとゆるーく書いていきたいのですが、やっぱり、日によっては力が入ってたくさん書いてしまうことも少なくありません。写真一枚でおしまい、という日もあっていいし、これからそんな日もあると思います。そんな日は、まあ、お許しください。
日本語でこのブログを書いているわけですが、やっぱり、インドネシア語や英語でもブログを書いたほうがいいのだろうな、と思っています。欲張りかもしれませんね。

でも、日本語で毎日書くだけでも続けるのはけっこう大変なのに、さらにインドネシア語や英語で書くのは、さらに大変になるかもしれません。
それでも、とくに、福島のことをインドネシア語や英語で伝えていくことはとても重要だと思うし、場合によっては、インドネシアに関する私なりの意見をインドネシア語で書くことがあってもいいのではないかとも思うのです。
というわけで、できれば1日おきぐらいで交互に、インドネシア語と英語で、自分の身近な様子を伝えるブログを書いてみようかと思っています。いや、週にインドネシア語と英語を2本ずつでもいいかな。
外国の友人のなかには、このブログをグーグル翻訳などを使って読んでくださっている方もいるようです。翻訳ソフトを使って、ガーッと訳してしまうのも一計ではありますが、ニュアンスが異なってしまうので、拙くとも、オリジナルで書くほうがいいのではないかと思っています。
ちなみに、私の会社のサイト( http://matsui-glocal.com )では、活動状況を日本語、英語、インドネシア語の3か国語で書くようにしていますし、フェイスブックの会社ページもそのようにしています。よろしければ、のぞいてみてください。
まずは続けること、そして、福島の様子を発信することを目的にして、インドネシア語や英語で、簡単なブログを6月から書いていこうと思います。よろしければ、そちらもよろしくお願いいたします。

草間彌生展へようやく行けました

今日は、午前中にアポイントメントが1本あった後、夕方から、妻と一緒に、国立新美術館で草間彌生展を観てきました。

明日からインドネシアで、帰国したときにはもう終わってしまっているので、どうしても今日を外したら観に行けないという状況でした。でも、年齢のせいか、昨日の福島日帰りの後遺症なのか、今日は疲れからか、ちょっと体がきつく感じたので、草間彌生展へ出掛ける前に、駅で栄養ドリンクを1本飲みました。

それが聞いたかどうかはわかりませんが、草間彌生展を観ている間、なぜか軽い興奮状態になり、眠気も吹き飛び、しっかり観ることができました。彼女自身の声が入っている音声解説は、彼女の詩の朗読や歌も入っており、一聴の価値があります。

金曜の夜ということでしたが、混雑ぶりは予想の範囲内。それでも、夜遅くなるにつれて、人の数がむしろ増えたように感じました。

色使いや抽象的な形象から、可愛らしさや明るさを感じる人もいるかと思いますが、音声ガイドでの草間彌生自身の話では、そんなものは一切なく、彼女の頭の中に浮かんだイメージや湧いてきたものを一心不乱に制作するという、むしろ彼女自身の様々な苦しみの成果であるということがとても印象に残りました。

そして、彼女が今に至るまでに辿った様々な経験、精神的な葛藤、生と死を見る真剣な眼差しなどが背景となり、彼女の中の思いが唸りを上げながらカンバスに描かれていく、2〜3時間で一つの作品を描いていく、その集中力と瞬間技のような表現の凄みが作品から迫ってくるのでした。

おそらく、掲げられているタイトルは後付けのものでしょう。2011年を境に、作品の描き方が大きく変わった印象を受けました。戦争や平和、心の奥底からの悲しみが表出しているような作品が多くなり、同時に、閉塞感を感じさせる現代のなかで、若者たちへの期待とともに、制作活動を通じて、草間彌生が闘い続けることを高らかに宣言しているかのように感じました。

真剣に生きるとはどういうことなのか。本当に闘うとはいかにして言えるのだろうか。私自身の人生への本気度や闘争心をもう一度思い起こさせる、真剣な時間を過ごすことができて、大変満足しました。

明日5月13日から23日朝帰国まで、インドネシアへ行ってきます。17〜20日は、私の大事な仲間が大きく育んできたイベント、マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に参加してきます。

法人口座開設の顛末

事業の準備として、これまで3つの銀行(T銀行、M銀行、R銀行)で法人口座の開設を進めてきました。今回は、その顛末について、少しお知らせしたいと思います。これから会社設立を考えている方の参考になれば幸いです。

まず、会社を登記した福島市に1つ開設しました。事務所から歩いて2分のところにあるT銀行の支店です。福島県ではナンバーワンの地方銀行です。

この支店は、私がお世話になっている古民家のオーナーが懇意にしており、オーナーには今回ずいぶんと助けていただきました。

口座開設の開設を申し込んだのが4月21日でした。翌週、本社住所の状況をみて、口座開設の可否を判断する、ということで、実際に事務所へ来られたのは4月26日朝でした。なんと、支店長と次長が二人でお出ましになり、びっくりしました。

事務所の様子を確認し、古民家のオーナーを交えて色々話をした後、再度、支店へ出向いて書類を整え、翌4月27日に無事法人口座を開設できました。

古民家のオーナーのおかげに加えて、次長が高校の後輩というつながり、支店長も交えて自分たちの中学・高校時代の話題で盛り上がれる、あの親近感は他ではなかなか味わえないものでしょう。

その後、先方のミスで書類の誤りを1箇所訂正するために捺印する必要が生じたのですが、担当者の指示通り、営業時間外だったので支店の裏口から中に入らせてもらいました。地域密着というのは、まさにこういうことを言うのだととても嬉しい気持ちになりました。

2つ目は、東京の自宅近くの都市銀行であるM銀行に法人口座を開設しました。4月21日にオンラインで法人口座開設を申し込み、連休を挟んで、本日5月9日に支店へ出向き、開設手続を行いました。
前もってメールで指示された書類を持参し、いくつかの表記ミスを訂正する作業などをした後、しばらく待たされましたが、「事業内容について少し詳しく教えてください」と言われたので、定款のコピーも提出してお話ししたら、あっさりと了解されました。

そして、そのまましばらく待った後、法人口座が無事に開設されました。きっと、また後日出向く必要があるのだろうと思っていたので、今日の午前中で開設できたのはちょっとびっくりでした。

なお、T銀行でもM銀行でも、法人向けのインターネットバンキングを申し込んだのですが、こちらの手続は、後日、キャッシュカードやトークン(乱数表を発生させる小さな道具)が届いてからインターネット上で手続きをする、ということで、まだしばらくお預けです。M銀行は、オンライン申込だと通帳が発行されないので、しばらく何も取引ができない状態です。

最後の3つ目は、インターネットバンキングで有名なR銀行です。4月28日に法人口座申込書類を送付しましたが、連休中のせいか、「受け取った」というメールの後に「まだ申込されていない」というメールが来るなど、ちょっと混乱しました。

そしてようやく本日(5月9日)、先方から電話があり、いくつか事業内容等について質問がありました。一つ一つ誠実に答えていたのですが、ちょっとカチンとくることがありました。

それは、事業実施状況の分かる資料(契約書など)を送ってほしい、というのです。こちらは設立してまだ1カ月弱で、銀行口座も整えている段階で、法人としての事業などまだ実施できる状況ではないのに、事業実施状況の分かる資料などはあるはずがないのです。それでも、先方は、「それがないと手続ができない」の一点張り。

R銀行は、法人口座の新規開設がしやすい銀行として、ネット上では推奨されていますが、実は、事業実施状況の資料がないと法人口座を作れないようなのです。つまり、全く初めて事業を始めるスタートアップの起業家、ビジネスは初めて、という方々は、R銀行での法人口座開設は難しいと思ったほうが良さそうです。

この点について、電話をかけてきたR銀行の担当者には何度も確認しましたが、答えは「法人口座開設はできない」でした。

初めてビジネスに挑戦される方で法人口座を開設したい方々には、ネット上の「開設しやすい」という評判や情報とは裏腹に、実はR銀行では難しい、R銀行に法人口座を作りたいならば設立後1年程度たってからのほうが良い、ということをお知らせしたいです。

私の場合は、個人事業主のときの事業での契約書1つを送ってくれれば良い、ということになりました。

でも、さらに驚いたのは、その追加資料を「ファックスで送ってほしい」と言われたことでした。店舗を持たない、インターネットバンキングのR銀行が、まさか前時代的なファックスでの送付を求めてくるとは。

R銀行にはこれまで個人口座等でずっとお世話になり、使い勝手の良さを認識してきましたが、今回のやりとりで、ちょっとガッカリな気分になりました。この銀行は、自分たちのグループで派手にEC事業を行っている一方で、新規スタートアップや初めてのビジネスを行う方々を応援してはいない、と認識しました。残念です。

R銀行へ追加資料を送ったからといって、口座開設が進むかどうかは分かりません。電話をかけてきた担当者は、1ヶ月ぐらいかかるときっぱり言いました。R銀行の法人口座が開設しやすい、というネット情報は嘘のような気がしてなりません。

というわけで、今のところ、サービスでは最もクラシックに見える福島のT銀行に一番の親近感を覚えてしまいます。また、都市銀行のM銀行にも法人口座を持てたのはありがたいです。残りのR銀行がどうなるかわかりませんが、とりあえずの法人口座開設の顛末でした。

成長しなかった子供のように常に原点へ戻る

大学を卒業して初めて就職した研究所にインドネシア研究者として23年間奉職し、退職してからすでに9年が経ちました。大学を卒業して社会人になったとき、これからの人生でこんなことをしたい、と思ったことがありました。

それは、地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。援助とかではなく。ものすごく抽象的ですが、そんなことを思いました。

ではどうして研究所に入所したのかというと、まずは、世界中のどこか、自分が最も深く付き合っていけるところのことを知らなければならない、できればそこのところに関するプロフェッショナルになりたい、と思ったからでした。

研究所に初めて出勤したときに、上司から「君はインドネシア」と担当国を告げられ、私のインドネシアとのお付き合いが始まりました。インドネシアのことを全く知らないゼロからの出発でした。インドネシア語を学び始め、インドネシアで発行された英字紙を毎日読んでメモを取り、上司から指示された課題図書を読み、「何も知らないからすべて勉強」と納得して、自分の能力のなさを痛感しながら日々を過ごしていきました。

仕事は調査研究でしたから、先輩や同僚のほとんどは、研究所を退職すると大学の先生になっていきました。過去、私にも数件のオファーがありましたが、タイミングが合わず、結局、お断りしました。

研究所に入って間もない頃、ある尊敬する先輩ベテラン研究者の方が「どうしてみんな大学へ移ってしまうのだろう。専門性を活かしてジャーナリストやビジネスの世界へ行ったっていいはずなのに」とおっしゃっていたのを今も鮮明に覚えています。

私自身、あまのじゃくのせいか、いつも本流ではなく傍流、アウトロー、人とは違うことをしたいと思っていたからかもしれませんが、自分が他の先輩や同僚のように大学へ移ることに疑問を持っていたことは確かです。

研究所を退職してからは、決して順調というわけではありませんでした。専門家の仕事を受けてはいましたが、収入が不安定になると、毎月決まった給料を得られるということがいかに安心だったかということをしみじみ感じました。

教えることが好きな自分は、やはり大学への就職を考えたほうが良いのか。そんなことも思って、教員公募に応募したこともありますが、幸か不幸か、採用されることはありませんでした。他の方よりも能力が劣っているからだと自分を卑下し、そんな自分が嫌になることもありました。でも、幸運にも、どんなときでも家族が支えてくれました。

そして、自分はまだ、研究所に入ったときに思った原点へ戻ることができました。地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。まるで成長しなかった子供のままであるように、今でもまだ、それを追い求めているのでした。

これまでの人生には、色々な選択がありました。その一つ一つを考えたとき、正直、後悔することもなかったとは言えません。でも、これまでの選択が最良だったと自分に言い聞かせて前に進むしかない、と、ようやく、本当に思えるようになりました。誰かの真似でも後追いでもなく、自分にしかできない人生を歩んでいく。最近、そのように悟れるようになった気がします。

福島市を拠点に松井グローカル合同会社を立ち上げたのも、その悟り、というか、区切りのように思います。世間では定年を意識する年齢になりましたが、その意味での私の定年は9年前に終わっています。ちょっとここまでくるのにのろのろしましたが、むしろこれからが本番、という気持ちです。

ダイアローグ・イン・ザ・ダークを初体験

前々から絶対に参加したいと思っていたダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)。視覚障害者のアテンダントの声を頼りに、何人かのグループで、視覚以外の全感覚を使いながら、真っ暗な暗闇空間で一緒に過ごすイベントです。

 ダイアローグ・イン・ザ・ダークのホームページ

これまで、タイミングがなかなか合わず、参加できていなかったのですが、比較的時間のあるゴールデンウィーク中の今日、お一人さまで参加できるプログラム「一期一会」に参加してきました。下の写真は、DIDの会場への入口です。

定員8名に対して、参加者は7名。全くの見ず知らずの参加者どうし、本名も名乗らず、ニックネームで呼び合い、そのニックネームもなかなか覚えられない、という状態でスタートしました。

まず、薄暗い部屋に入って、参加者は自分の使う白杖を選び、アテンダントから白杖の使い方を学びます。そして、すぐに真っ暗な空間へ入っていきます。

アテンダントの声のする方向や場所を推しはかり、自分の持つ白杖と近くにいる参加者の存在を頼りにしながら、少しずつ前へ進んでいきます。周りは真っ暗で本当に何も見えません。アテンダントの励ましの声、音や匂い、参加者の人間の体のあたたかさを感じながら、徐々に暗闇に放り出された不安が少なくなっていきます。

暗闇の中で、参加者どうしでいくつかのゲームというか遊びのようなことをやり、それが意外に盛り上がったのですが、何をやったかはここではあえて書きません。コースや季節によっても中身が色々変わるようですので、興味のある方は、ぜひ、ご自分でDIDに参加して、体験してみてください。

個人的に、DIDにはずいぶん前から興味を持っていましたし、彼らの活動やそれについて書かれた書物から様々な学びを得てきました。

そうした予備知識が前もって色々入っていたせいか、今回のDID初体験でも、私自身の人生観が変わるほどのインパクトを得たようには感じませんでした。ただ、このDIDのエッセンスをどのように自分の今後の活動に生かせるか、ということを考えていました。

私の福島市のオフィスのある敷地内には、中がほぼ真っ暗になる蔵があります。そこを使って何かできそうな予感がしています。

DIDを行うには物理的な広さや建物の構造、アテンダントの育成など、様々な条件があるでしょうから、そう簡単にどこでもやれるわけではありません。DIDのための適切な場所を探すのも簡単ではないと思われます。

でも、このDIDは一度はすべての人が体験したら良いのではないかと思いました。ささやかな時間ではあっても、日頃、人間としての自分が忘れかけていた何かをきっと思い出すことができるひとときになり、それをふとした機会に思い出すのではないかと思います。

そして、もうすでに取り組まれているのかもしれませんが、外国人留学生とかインバウンドで外国から来る観光客の方も、気軽に体験できるといいなと思いました(たとえば、東京観光ツアーの中にオプショナルとして組み入れるとか)。そんな参加者のなかから、自分たちの国でもやってみたいと思う人が出てこないとも限りません。彼らと一緒に外国語プログラムを検討してみることもできるかもしれません。たとえば、今、宗教的なものを見た目で判断しがちなインドネシアに導入できないかな、とも思いました。

DIDは進化し続けます。今年になって、高齢者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・ウィズ・タイム」、聴覚障害者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・イン・サイレンス」を開始しています。こちらの今後の展開も大いに注目されます。

大事なことは「ダイアローグ」です。勝ち負けを重視するディベートではなく、勝ち負けにつながりがちなディスカッション(議論)でもなく、すべての話者が互いを尊重して気づきやインスピレーションが促されるダイアローグ(対話)こそが、これから益々重要になってくると確信します。私の活動でも、このダイアローグを最重視していきます。

ともかく、今日、DIDを初めて体験できて、ようやく本当にDIDのサポーターになれたような気分です。ぜひ、皆さんもご自分で体験されて、ダイアローグの力を感じ取っていただければと思います。

爽やかな季節、皇居東御苑を初めて散歩

法人登記関連でバタバタしていた昨今ですが、今日は久々にオフの1日。気持ちのいい風を感じながら、妻と一緒にツツジの花を求めて散歩に出ました。

行先は、皇居東御苑。ずっと東京に住んでいながら、訪れたのは今回が初めてです。東京メトロ東西線の竹橋駅で降りて、北桔橋門から入り、江戸城跡の天守台へのぼりました。

天守台から見下ろすと、広い緑の広場が見渡せます。

西側の堀沿いにある富士見多聞にも行きました。多聞というのは見張り台の意味ですが、倉庫や他の目的でも使われていたそうです。御休息所前多聞という別名があります。なお、この富士見多聞は4月から新たに公開されたばかりでした(午後4時15分で閉館)。

様々な植物が植えられているだけでなく、いろんな種類の竹の植えられた竹林や、マルチの敷かれた茶園(下写真)もありました。

うっそうと生い茂るレンゲ。

そして、ツツジは本丸公園よりも二の丸公園が見事でした。

東京のど真ん中で、様々な植物を見ながら、静かにゆったりと過ごせる空間でした。サツキや菖蒲はまだこれからで、いつ来ても何かが咲いていることでしょう。

外国人の皆さんにも、気軽にジャパンを味わえる空間なのかもしれません。大手門の前では、たくさんの人々が写真を撮っていました。

明日(4/30)から火曜まで、再び福島です。

法人口座開設と「吾妻の雪うさぎ」

本日、無事に法人銀行口座を開設することができました。

一般に、法人口座開設には2〜3週間かかると言われておりますが、今回は、申請してから1週間で開設できました。

これは、古民家のオーナーがこの銀行支店のお得意さんで、全面的にバックアップしてくれたためだと思います。また、この銀行支店で対応してくれた次長が高校の後輩、といった地方ならではの人的関係もものを言っているのかもしれません。

この銀行支店は、私のオフィスから歩いて2分、この近さは得難いものです。私の中学・高校の友人たちは、すでにこの銀行の理事や支店長になっている者が多数いますが、今回は彼らの助けは求めませんでした。

とにかく、今回の法人口座開設にあたっては、この銀行の支店の皆さんに本当によくしていただいて、深く感謝しています。

オフィスを出て、西のほうを見ると、吾妻連峰がいつもと同じようにそびえ立っています。吾妻連峰は私の中に焼き付けられた風景で、東京で暮らし始めた若い頃、近くに山が見えないことをとても寂しく思ったものでした。

吾妻連峰のなかに、小さな富士山型の吾妻小富士という山があります。磐梯吾妻スカイラインでドライブすると、浄土平というところがあり、そこから吾妻小富士へ徒歩で簡単に登ることができます。

この季節だと、吾妻小富士の山すその残雪の姿がうさぎに似ていることから、地元ではこれを「吾妻の雪うさぎ」と呼んで親しまれています。

この雪うさぎがはっきり見えてくるようになると、それが農作物の種まきを始めるサインとなります。

私の活動も、この吾妻の雪うさぎの頃に始まるのだなあ、とちょっと感慨を覚えました。

先ほど、東京の自宅へ戻りました。明日は東京で用事があるためです。

連休中は東京でゆっくりするつもりだったのですが、4月30日〜5月2日に福島へ戻ることになりました。さっそく、インドネシアから、群馬から、福島へ行くという友人からの連絡があったためです。

読者の皆さんも、ぜひ、福島へどんどんいらしてください。本物の福島をご案内します。

福島の本社オフィス環境が整いました

昨日、義妹に手伝ってもらって、福島のオフィスで使う備品を買い出しし、今日、ようやくオフィス環境が整いました。

松井グローカル合同会社の本社の所在地は、福島市泉字清水内3番地です。ここには、明治6年に建てられた大きな古民家があります。しみずの里、という名前です。

(2015年1月4日撮影)

(2016年6月22日撮影)
この古民家の隣に古民家のオーナーの家がありますが、そのオーナーの家の傍に独立した小さなプレハブの小屋(下の写真の右側の建物)があり、そこを、松井グローカル合同会社の本社オフィスとして使わせてもらうことになりました。

プレハブ小屋にある既存の机や棚などを使わせていただけるほか、今日は、昨日買い出した椅子やら電気スタンドやらを搬入しました。部屋の中は、下のような感じになりました。
何となく、ちょっとオフィスっぽくなったような気がします。でも、周りにある木々や草花の緑に囲まれ、窓を開けると、風が三方から出入りして、今の季節ということもあって、気持ちがよいです。散り始めた桜の花びらが風に乗って部屋の中へ入ってくるのは、なかなか趣きがあります。夏は暑く、冬は寒いかもしれませんが。
当初、古民家に隣接した屋敷蔵をオフィスとして使わせてもらう計画だったのですが、まだそこが使える状態になっていないのと、母屋から独立していたほうが気楽ではないかというオーナーの配慮もあって、とりあえずこのような形で整えることになりました。
来客がある場合には、母屋の古民家でゆっくりと応対してもよいし、作業する場合には、このオフィスで一緒に作業してもよいかなと思います。
この古民家をどのように活用していくか、オーナーや関係者と一緒に考え、活用していくことも、ここに本社所在地を定めた大事な理由です。個人的に色々なアイディアを考えています。読者の皆さんも、機会があれば是非、この古民家と私のオフィスを訪ねてください。福島駅から飯坂電車に乗り、泉駅から徒歩5分です。
とはいえ、私の活動は、この福島を主拠点としつつ、東京、インドネシア、日本・世界のローカルを動き回ることになると思います。ですから、このオフィスにずーっと留まることにはならず、基本的に、モバイルで動いていくことになるでしょう。

ママチャリでまわる福島市での法人登記関連手続

今日は午前中、1時間遅れの東北新幹線で東京の自宅から福島に着き、4月11日に行なった松井グローカル合同会社の法人登記申請の続きを進めました。

とりあえず、福島駅構内の蕎麦屋でソースカツ丼セットの早めの昼食。

その後、いったん、実家に寄って、コーヒーを飲んで一服した後、実家のママチャリで出発です。

まず向かったのは、福島地方法務局。昨日の法務局からの電話で指摘された部分を修正した書類を持参し、4月11日にすでに提出した申請書類の一部と差し替えました。

15分ぐらい待った後、申請書類にOKが出て、事前に申請していた(法人の)印鑑カードを受け取りました。

そのまま、別室へ移り、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書を多めに発行してもらいました。申請の前に、必要額の印紙を買って、申請書に貼り付けて提出します。10分もかからずに、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書が発行されました。

これで、晴れて正式に、松井グローカル合同会社の法人登記が完了しました。設立日は、法人登記登録を申請した2017年4月11日となりました。

福島地方法務局で発行された証明書類を持って、関係機関への届出に移ります。

ママチャリに乗って、福島税務署へ出向きました。福島税務署では、法人設立届出書、青色申告の申請承認書、給与支払事務所等の開設届出書などの書類を提出しました。なお、この4月から、税務署への届出には法務局で発行された登記事項証明書(履歴事項全部証明書)の提出は必要なくなったとのことです。ただ、今回は念のためということで、コピーを取られました。

福島税務署の次は、東北福島年金事務所へ行きました。法人化すると、国民年金から厚生年金へ、国民健康保険から健康保険へ切り替わるのですが、そのための手続をするのです。ものの本には「設立後5日以内に」と書かれていたので、焦って行ったのですが・・・。

「役員報酬の支払は6月から」というと、報酬支払がない間は厚生年金料や健康保険料を徴収することはできないので、6月になってから改めて手続に来て欲しい、という回答でした。

役員報酬の額は設立後3カ月以内に決定して税務署へ報告する必要があるので、現段階ではまだ決めていなかったのです。今回の税務署への届出書に支払開始日を記入する必要があったので、6月30日と記載したのです。

年金事務所からは、法人設立した際の必要書類や説明書類の一式が入った「新規適用届」という1セットをいただいたので、じっくり読みながら、6月までに検討することにし、今回は手続をしませんでした。

年金事務所の後は、すぐそばにある福島市役所へ。市民税課で法人設立届を提出しました。

その後は、福島市役所から福島県庁へ、ママチャリで20分ぐらいかけて行きました。福島県庁内の県税事務所を目指したのですが、ここでは、県北地方振興局のなかの県税部へ出向いて、法人設立届を提出しました。

なお、これらの法人設立届出の捺印は、法人代表社員の印(丸印)となります。

というわけで、今日の午後だけで、法人登記後に行なう関係機関への届出は、つつがなく終えることができました。

インドネシアで経験したこの種の手続に費やす時間と労力に比べると、今回の手続がいかに楽で効率的か、行政側からの説明が懇切丁寧に的を得たものか、ということを実感します。

そして、福島市の旧市街は、ママチャリで簡単にまわることができるぐらい、コンパクトなのだなと改めて思いました。風はやや冷たいものの、穏やかな春の日和で、ママチャリで動くのがとても気持ちのいい1日でした。

週末にインド映画・パキスタン映画

この週末は、妻と一緒に、土曜日にインド映画の「バーフバリ:伝説誕生」、日曜日にパキスタン映画の「娘よ」を観ました。

インド映画「バーフバリ:伝説誕生」は、先週、新宿ピカデリーで上映されていたのですが、1週間しか上映せず、15日からは、MOVIX昭島で1週間、レイトショーで上映されています。そこでやむなく、4月15日の20時半からのレイトショーで観るべく、都心から昭島まで出かけました。23時に上映終了後、急いで電車で帰りましたが、幸運なことに、終電まで遅くはなりませんでした。

映画自体は、(ちょっと稚拙ではありますが)VFXやCGを駆使して、スケールの大きさを表現しようとした、大型娯楽映画でした。あらすじも掴みやすく、勧善懲悪をきちんと描いていて、分かりやすかったです。ネタバレになるので内容は省略しますが、インド映画に必須の踊りや歌の要素はかなり少なかったです。R15+指定となっていますが、その数少ないお色気シーンよりも、戦闘の残虐なシーンがその理由となっているように感じました。

映画の最後で、続編があることが仄めかされ、エンドロールの途中でしばらく音楽がなくなって無音状態隣、このまま終わるのかと思ったら、いきなり、続編「バーフバリ:完結」の日本語字幕付き予告編が上映される、というおまけ付きでした。この続編は、2017年4月28日からインドで公開されるそうで、日本でも公開されることを期待します。

インド映画といっても、「バーフバリ:伝説誕生」はテルグ語の映画でした。テルグ語は、インドのアーンドラ・プラデーシュ州やテランガーナ州の公用語であり、約8000万人が話す言葉です。テルグ語で造られた映画は言語別インド映画の中で最多らしく、娯楽性の強いものが多いようです。

その意味で、今回の「バーフバリ:伝説誕生」は、ラージクマール・ヒラニ監督の「きっとうまくいく」「PK」の社会風刺や、サタジッド・レイ監督の深い洞察などとは全く違う、純粋に娯楽映画として楽しめるものでした。

次に、今日4月16日、岩波ホールでパキスタン映画「娘よ」を観ました。部族間対立を収めるために部族長と婚姻させられそうになる10歳の少女を、その母親が連れ出し、命がけで逃げに逃げる、というシンプルな内容です。複雑な伏線などもなく、これもわかりやすい映画でした。

母親と娘が逃げていく中で色々なことが起こるのですが、その間に様々な人が殺されたり亡くなったり、結局、結婚が破談となって部族間対立は収まるどころかもっと激しくなり、といった絶望を感じさせる面もあります。娘のあどけなさと無垢さが、彼女が大人になる頃の未来への希望を示しているように感じました。

この映画を通じて、アフィア・ナサニエル監督が女性として訴えたかったことがひしひしと感じられました。この話は実話が元になっているとのことですが、映画の中でも、女性の解放といった話が実際には相当な壁に直面せざるをえない現実をまざまざと見せつけていました。

福島市で申請した法人登記手続が4月20日に終わると、福島市での活動拠点づくりなど、予定が色々と入ってくるので、映画にせよ何にせよ、先延ばしせず、時間のあるときに済ませておく、という態度で過ごすことが肝心と思っています。

心にもっと余白が必要なのだ

今日の朝日新聞の朝刊に載っていた「折々のことば」にハッとしました。

 僕たちが他者とつながり、世界への問いを共有するためには、僕たちの心にもっと
 余白が必要なのだ。 (小野正嗣)

同じ空間のなかに存在していながら、お互いにその存在を知ることもなく、だから気にとめることもない2つの集団。イタリアの島にたどり着いた難民とその島に元々住んでいる島民とが接することがない、のです。

鷲田清一氏は、小野氏のことばについて、「一つの大きな傘の下に集うのではなく糊代(のりしろ)で横に繋(つな)がることの意味を思う」と記しています。

これを読んで、昨日のブログで書いた、グローカルについての私なりの解釈に通ずるところがある、とピーンときたのでした。私のグローカルとは、まさに、糊代で横につなげようとすることだからです。

インターネットで容易に世界の様々な事柄を頭で知ったような気になっていても、人間の眼で見ている実際の視野は、逆に狭くなってきているのかもしれません。

一般的な人間社会の幸福と個人や家族や親しい友人の幸福とが一致できないような気分が支配的なのでしょうか。将来への不安が一般的な人間社会の今後への不安となり、他の人がどうなろうとも、せめて自分の身の回りの幸福だけでも確保したい、という気分が強まっているような気がします。

心の余白が少なくなっているのです。それは、他者への想像力が衰えていること、と言い換えることができるかもしれません。

自分が他者の存在を認め、自分も相手からすると他者なのだと認識することは、当たり前のことです。世の中には様々な人がいる、のも当たり前のことです。でも、インターネットを通じて、そうした「他者」と出会って理解したような錯覚を起こしてはいないか、と思います。

自分が世の中で認められたい、という気持ちが、他者との競争をことさらに意識し、自分を認めてくれない他者や世の中に対して反感を抱く、そんな気持ちに由来する暴力や暴言や過激な行動が現れてきます。

心の余白がなくなる代償として得たものは一体何だったのでしょうか。地位、名声、あるいはカネなのでしょうか。

忙しく働いて頑張っていると「えらいね」と言われて嬉しい、といったことがまだあるのでしょうか。「えらい」と言ってもらいたいから頑張って忙しく振舞っているということはないでしょうか。そうしたことにエネルギーを費やすのがなぜか美徳とされる一方で、他者を想像する心の余白は無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと頭がくらくらっとしてきました。この辺で今日は筆を止めます。

花見客のいない桜の「名所」

東京都心の桜は満開をそろそろ過ぎ、ちらほらと花が一つ二つと散り始めました。

花見といえば、酒を酌み交わし、楽しく過ごすたくさんの人々が満開の桜の下に集っています。花見の名所ともなれば、場所取りの競争も激しく、夜の会のために、朝早くから場所取りをするのが、新入社員の最初の仕事、なんていう話もありました。

花を見に行くのか、人を見に行くのか。そんな風景が花見の名所では見られます。

幸いなことに、私の東京の自宅には、古くからの桜の木があり、自宅で花見ができるのが嬉しいです。ちょっとぜいたくではありますが。

でも、自宅から歩いて数分のところの坂には、それは見事な桜並木があります。しかも、地面に敷物をひいて宴会を楽しんでいる人はいません。通りすがりの数人の人たちが、桜の木を見上げて、盛んに写真を撮っていました。

坂なので、坂の上のほうへ行くと、桜の花がすぐ近く、目の前、手の届くところに咲いています。

遠くから見てもよし、近くから見てもよし。花見客がいないので、ゆっくりのんびり、じっくり桜の花を楽しむことができる場所です。

東京の自宅や自宅近くで桜の花を楽しめるのもあと数日。そのあとには、それはそれは見事な花吹雪をこの坂で見ることができます。

そして、来週は、福島で桜の花を楽しむ予定です。

帰国、花見に間に合い、夜は用事

ジャカルタからタイガーエア+スクートというLCC乗り継ぎ、しかもシンガポール、台北経由の成田着で帰国しました。

当初、シンガポール=成田間で座席指定したのに、なぜかシンガポール=台北間と台北=成田間の座席が異なるというので、おかしいと主張したら、改めて通しのシンガポール=成田間で席を用意してくれたのですが、その席が優先降機となる前方座席だったので、今回のスクートはなかなかラッキーでした。

初めて日本に来た外国人観光客の鉄道乗り換えの手伝いなどをして、帰宅したのは午後1時過ぎ。その後、自宅でしばし、庭の桜で花見をしました。花は8分咲き程度でしょうか。4月2日に「東京の桜は満開」との報道があり、今年は東京で花見は無理かなと思ったのですが、間に合いました。

しばし、庭に机と椅子を出し、桜を愛でながら、お茶の時間を過ごせました。

桜以外の庭の花々も、咲き始めて、まさに春が来た!という感じでした。

そして、午後5時からは、都内某所で用事があるため、出かけました。インドネシア・マルク州の訪日団の一員である州政府職員の友人から「ぜひ来てほしい」と言われたためです。でも、行ってみたら、知らない日本人のビジネスマンばかりで、場違いな雰囲気でした。

会場に現れたマルク州訪日団を見てびっくり。同州政府職員の友人から紹介された訪日団の団長は、昨年2月、20年近くぶりに再会した私の友人でした。今回は、マルク州官房経済開発投資部長としての来訪でした。

会議では、ただ出席するだけと思っていたのに、ひょんなことからインドネシア語の通訳をする羽目になり、結局、最後まで通訳のお手伝いをしてしまいました。でも、その結果、当初は全く面識のなかった日本人のビジネスマンたちともお知り合いになることができました。

それはともかく、さすがに、帰宅途中の電車の中では久々に相当の疲労感を感じてしまいました。

スラバヤの郵便局から船便

昨日で部屋の片付けが終わってホッとしていましたが、部屋を引き払う前にやらなければならないことが残っていました。スラバヤから日本へダンボール箱5個、ジャカルタへダンボール箱1個を送る作業です。

日本へ送るダンボール箱は、元をたどれば日本から送ってきていたものも含まれるのですが、地域振興、地域づくり、スラウェシ地域開発などの資料や本で、それに文房具などが追加されたものです。

ジャカルタへ送るのは、過去に記念品やお土産などでいただいたバティックなどの布地やシャツなどが主で、ジャカルタの「アジト」(昨年25年ぶりに舞い戻ったインドネシア大学大学院留学時代の下宿)へ送ります。

緊急に必要なものはないので、スラバヤの郵便局から日本宛のは船便で送ることにしました。ジャカルタ宛は、通常のトラック便です。

昨日、お世話になった友人から運転手と車を使わせていただき、郵便局へダンボール箱6個を運びました。スラバヤから海外へ送る場合には、近所の小さな郵便局ではなく、中央郵便局まで出向いて処理した方が良いようです。専用の窓口があります。営業時間は朝7時から夜10時まで、土日祝は休みです。

スラバヤ中央郵便局

まずは、ジャカルタへ送る分。これはすぐに窓口で手続きが終わり、重さも10キロ程度だったので、普通便で約1週間、料金は62,500ルピアで済みました。

さて、日本向けのダンボール箱です。

船便はPaket Pos Biasa Luar Negeri(外国向け普通小包)、航空便はPaket Pos Cepat Luar Negeri(外国向け速達小包)と呼ばれ、さらにEMSがあります。

ダンボール箱を持ち込むと、「中身は何か」と聞かれました。本、資料、文房具など個人用のもので商業用ではないというと、「本ということにしろ。それ以外の余計なことは書くな」と言われ、結局、すべて「本」ということになりました。何度も聞かれたのは、「バッテリーは入っていないだろうな」ということでした。

そして、中身を開けることを覚悟していたのですが、幸いなことに、それはなしですみました。

郵便局の職員から「会社名などが外に見えると商業用とみなされるので、その部分を全部テープで隠すように」と言われました。さらには、すべて茶色のテープで覆い隠し、下地の文字が見えないようにすべし、とも言われました。

今回のダンボール箱は前回使った引越会社のものを流用したので、結局、すべてを茶色のテープで覆い尽くすことになりました。でも、郵便局の職員が手際よくテープで隠していくのを見ていて、さすが慣れているな、と思いました。最後に、SEGEL(封印)と書かれたテープをぐるっと貼ります。

テープで覆い尽くされて梱包されたダンボール箱に差出人名・住所と受取人名・住所を油性マジックで書き、箱の重さを計ります。5箱のうち1箱が31キロありました。1箱の重さを30キロ以下にしなければならないとのことで、せっかく綺麗に「封印」した箱をもう一度開封し、中身の一部を別の軽そうな「封印」を解いたもう一つの箱へ入れ替え、何とか5箱とも30キロ以下に収めました。もちろん、もう一度「封印」テープを貼りました。

なお、1箱当たりの相当金額を書類に書かなければならないのですが、「個人用なのでできるだけ低く抑えたい」と言うと、郵便局職員は「最低は1箱50万ルピアだから、それでいこう」とアドバイスしてくれました。1箱4200円ぐらいの計算になります。

もうすでに金曜礼拝の時間が迫っていましたが、郵便局職員の配慮で、料金の支払いも済ませることができました。今回の料金の目安は、30キロで127万8000ルピア(約1万1000円程度)で、速達小包だとこの約3倍、EMSだと約5倍ぐらいの金額になるようです。

船便なので、日本の宛先に着くまでには約1〜2カ月程度かかるそうです。日本の税関がどれぐらいの関税をかけるかは分かりませんが、これでインドネシアで支払う分は終了です。

金曜礼拝の時間になり、友人の車の運転手も礼拝へ行ってしまったので、郵便局でぼーっと運転手が戻ってくるのを待っていました。この中央郵便局は、いつ来ても、本当に風情があって、ただいるだけでも気持ちがいいのです。

高い天井が居心地のいい空間を作っています

オランダ時代のものと思しき郵便ポスト像

この場所には初代スカルノ大統領が子供のころ通った学校がありました

郵便局から船便を出し終えて、昼食の後、アパートに戻ると、本当に部屋の中に何も物がなくなり、2年前、この部屋を始めてみた時と同じ状態に戻りました。アパートの事務所へ鍵を返して、この部屋とお別れとなりました。

部屋の片付けが済んでしまった

今日、アパートの部屋の片付けが概ね済んでしまいました。もう少し時間がかかるかと思っていたのですが。

荷造り作業中の地元NGOメンバーの一人

3月28日に友人が、29日に地元NGOが、それぞれアパートの部屋を見に来て、譲って欲しいものを物色していきました。荷物を運ぶトラックの用意などもあるだろうし、彼らが来るのは31日、アパート契約の最終日かな、と思っていました。

ところが昨日の夕方、両者から「明朝9時にうかがう」と連絡が来ました。こちらは31日だと思っていたので、ちょっとびっくりし、彼らが来る前に、昨晩、自分の必要なものを選り分ける作業を急遽しなければならなくなりました。

今朝、アパートの管理事務所に物品搬出願いを出し、台車を借りて、彼らが来るのを待ちました。ところが、今朝になって急に、業務用エレベーターが故障。一般用エレベーター2基のうち1基が故障中なので、3基あるエレベーターのうち1基しか動いていない状況となりました。

私の部屋は21階にあり、エレベーターなしには荷物を運び出せません。しかし、3基中1基しか動いていないため、エレベーターは超満員状態が続いていました。こんな状況で、荷物を搬出できるのか、焦りました。

最初に来たのは、28日に会った友人の運転手とその兄貴の2人。彼らは、本棚、机、椅子、プリンター、本、その他もろもろのものを持って行ってくれました。

彼らがまだ作業している間に、NGOメンバー3人もやってきました。私のインドネシア語の本を彼らの運営する図書館へ寄付する約束をしていたのです。彼らにも本棚、本、その他を譲りしました。

幸い、故障していたエレベーター1基が動き始めたため、荷物の搬出でものすごく困る事態にはならずに済みました。11時半前、両者とも荷物を積み終え、アパートを出て行きました。

引っ越しと同じかそれ以上の荷物を積んだかもしれません

荷物がほとんどなくなって、がらーんとした部屋に一人で佇んでいると、いかに自分の荷物が多かったかをしみじみと感じるのでした。

明日で、この部屋ともお別れ・・・。

iPhoneがとうとう死んだ、と思った

私のインドネシアなど海外で主に使う携帯電話は、iPhone 5s。アップルストアでSIMフリー64GBを買って以来、もう3年以上使っています。

2年ぐらい前から電池の持ちが悪くなったと感じていて、ようやくつい最近、電池交換を初めてしましたが、それ以後は、また昔のように快適に動いてくれています。

このiPhone 5sにインドネシアのキャリアのSIMを入れて、日本でも使っているのですが、海外ローミングはオフにしているので、日本ではWifiのあるところでのみSNSを使い、ないところでは、Wimaxの一番安いのを使ってつなげています。

この愛機ともいうべきiPhone 5sが今朝、突然動かなくなりました。なぜかマカッサルの帆船の写真が画面に写っていて、指でスライドしても、スリープ/スリープ解除ボタンを押し続けても、一向に画面は帆船のままで反応しません。

アパートの借りている部屋の片付けは佳境に入っており、明後日までに引き払わなければならないのに、よりによってこんな時に愛機が動かなくなるなんて・・・。iPhone 5sはとうとう死んでしまった、と思いました。

片付けをする気になれず、スラバヤのアップルストアがどこにあるのかも分からないので、とりあえず、携帯電話屋が集まっているWTCへ向かいました。

ウェブで見ても、アップル製品を売っている店はすぐ出てくるのですが、修理できる店は見当たらないのです。アップルストアという名の洋品店さえありました。

WTCに着いて、アップル製品を売っている店に行くと、店員は「うちは売っているだけだから」とつれない返事。まあ、修理はできないだろうと思っていたので、仕方ないなあと思い、アップル製品の修理ができるところはどこか尋ねると、スラバヤには2箇所あるとのことでした(マリナ・モールの3階とあともう一つは忘れました)。

でもその店員は優れていました。「リスタートすればいいんだよ。スリープ/スリープ解除ボタンとホームボタンを同時に押してさ。ちょっとやってみるね」と言って試みると、ちゃんと元どおり、動くようになりました。

開いているアプリが多すぎて、使用メモリがいっぱいになっていただけでした。「ちゃんと終わったらアプリをこまめに消してね」と微笑んで、店員は去って行きました。

そういえば、iPhone 5sの再起動って、これまでほとんどしたことがなかったと思いました。遅ればせながら、今日、強制的に再起動させる方法を知りました。

3年目に入った愛機との付き合いも、まだしばらくは続けられそうです。

ガルーダマイルからスカイマイルへ

飛行機に乗るときに重宝するマイレージカードですが、私はこれまで、JALカードでワン・ワールド、ANAマイレージカードでスター・アライアンス、そしてガルーダマイルでスカイチーム、を代表させてきました。

ガルーダ・インドネシアが発行するマイレージカードは、かつてGFF(ガルーダ・フリークエント・フライヤー)と呼ばれた時代から愛用し、今は、ガルーダマイルのシルバーです。

でも、いろいろ考えて、スカイチームのマイレージカードをガルーダマイルからデルタ航空のスカイマイルへ変えることにし、今日、スカイマイルJCBテイクオフカードが届きました。変えることにした理由は、次のようなものです。

第1に、ガルーダマイルが貯めにくくなったことです。スカイチームに加盟したのと同時に、GFFがガルーダマイルへ変わり、マイルの取得条件が厳しくなりました。ディスカウント・チケットではマイルがほとんどつかなくなっただけではありません。

かつて、GFFには、ECプラス・ゴールドというステータスがあり、長い間、愛用していました。これは、お金を払って、ラウンジ利用、優先チェックイン・搭乗、預け荷物上限増量などのゴールドのステータスを買うものです。

GFFの時は年間150万ルピア(前年に一定回以上利用した場合の継続は50万ルピアのみ)払えばECプラス・ゴールドに慣れたのですが、ガルーダマイルになってからはそれが600万ルピアへ引き上げられ、しかもサービス内容は同じ、と改悪されたので、すぐに解約しました。

第2に、ガルーダマイルは期限があり、マイル利用座席数が少なく、すぐに埋まってしまうことです。ウェブ上でマイル利用の航空便の予約ができず、必ずガルーダのオフィスへ出向いて予約しなければならないので、日本を拠点としている現在では、マイル利用で座席をとるのが事実上難しいためです。

第3に、インドネシア国内で飛行機を使う場合でも、シティリンクやスリウィジャヤ航空などの格安便に乗ることが多くなったので、自腹でガルーダに乗ることが本当に少なくなったためです。やむをえず乗るとしても、大抵は割引運賃で乗るので、マイルはつかないことが多いのです。

マイルがつきにくく、マイル利用座席数が少なく、マイルに期限がある、という状況では、ガルーダマイルで貯めても、ほとんど意味がないと感じました。

インドネシアへ渡航する際、その時期に応じて格安の便で行くことにしていますが、中華航空や大韓航空など、スカイチームの航空会社を使うこともあるので、スカイチームのマイレージカードを持っていたいとは思いますが、ガルーダマイルで貯めるメリットを感じられなくなりました。

そこで、色々探した末、デルタ航空のスカイマイルJCBテイクオフカードを入手することとしました。

このカードの特徴は年会費が1500円(初年度無料)と安く、マイルの期限がないことです。もちろん、最上位のアメックス・ゴールドにすれば、スカイマイルの「ゴールド・メダリオン」というステータスを自動的に手に入れられるというのは魅力的なのですが、26,000円という年会費の高さとそれに見合うだけの利用頻度はないと考えると、スカイマイルJCBテイクオフカードで十分、という判断になりました。

今回、申し込んでからカードが手元に来るまで約10日間でした。

ガルーダマイルにはまだマイルが多少残っていますが、今後、スカイチームの航空会社便を利用する際には、スカイマイルで少しずつ貯めていきたいと思います。

六本木で見つけた一味違う散歩道

今日は午後、六本木の某所で民間企業の方と面会した後、夜の飲み会まで時間があったので、赤坂アークヒルズ付近から国立新美術館まで歩いてみました。

渋谷へ向かう大通りである六本木通りをあえて通らず、一本、中へ入った細い道を歩いていきました。首都高が通って日陰の多い六本木通りとは違って、この細い一本道には日が当たり、しかも車が通らない、歩きやすい道でした。

永昌寺の前を過ぎて妙像寺の角を右へ曲がり、少し坂を上り、突き当たりを左へ曲がって、高級マンションを見ながらすぐに右へ曲がると、檜町公園に出ます。檜町公園では、親子連れが楽しそうに過ごしていました。

檜町公園には「富士山」もありました。

檜町公園からそれとつながったミッドタウンガーデンの前を通り、ふと振り返ると、つぼみが膨らみ始めた桜の木の向こうに、東京タワーが見えました。

ミッドタウンの西側へ出て、右へ曲がってしばらく外苑東通りを歩き、乃木坂郵便局の次の角を斜めに左へ入ります。この通りは高級マンションが多く、私道なので、車輌の通行は制限されているのですが、歩くのにはちょうどいい感じの気持ちのよい道です。

でも、前を見ると行き止まり。その行き止まりの先に、歩行者と自転車のみが通れる通路があり、その脇に丸い筒状・チューブ状の道路のようなものが。

そのまま進んでいくと、眼下に大通りが見え、階段を下りていくとすぐに乃木坂駅。

さらに100メートルほど進んで、国立新美術館に着きました。ここまでで、赤坂アークヒルズ付近から20分ほどでした。
入口から入ると、木々に赤い水玉模様の布が巻かれていました。すでに、草間彌生展の世界が始まっていました。

国立新美術館の斬新な建物。私も含めて、写真を撮る人がたくさんいました。

当日入場券を求めようとする人々がずらっと並んでいて(真ん中の木の後ろが入場券売場)、ちょっと萎えましたが、並んだら意外に早く入場券を買えました。

今回観たのは、草間彌生展ではなくミュシャ展のほうです。けっこうな数の人がいましたが、「スラブ叙事詩」は大作で絵が大きいので、じっくり見ることができました。ミュシャの奥深さを感じることができる展覧会でした。

会場を歩き回ってちょっとくたびれ、急激に空腹感を覚えたので、夜に宴会があるにもかかわらず、夕方に、有楽町の慶楽で牡蠣油牛肉炒麺を食べてしまいました(吉行淳之介の定番だったとか)。ここの炒麺はいつ食べても美味いです。

お腹もちょうど良くなり、夜の宴会に出席しましたが、午後の六本木の一味違う散歩道の面白さに比べれば、刺激は少なく感じられてしまいました。幹事さん、ごめんなさい。

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