「ふるさと」をいくつも持つ人生

「ふるさと」を狭義で「生まれた場所」とするなら、どんな人にも、それは一つ鹿ありません。しかし、自分の関わった場所、好きな場所を「ふるさと」と広義に捉えるならば、「ふるさと」が一つだけとは限らなくなります。

人は、様々な場所を動きながら生きていきます。たとえ、その場所に長く居住していなくとも、好きになってしまう、ということがあります。それは景色が美しかったり、出会った人々が温かかったり、美味しい食べ物と出会えたり、自分の人生を大きく変えるような出来事の起こった場所であったり・・・。

どんな人でも、自分の生まれた場所以外のお気に入りの場所や地域を持っているはずです。転校や転勤の多かった方は、特にそんな思いがあるはずです。そんな場所や地域の中には、広義の「ふるさと」と思えるような場所や地域があるはずです。

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筆者自身、「ふるさと」と思える場所はいくつもあります。

筆者の生まれた場所であり、昨年法人登記した福島市。家族ともう30年近く暮らす東京都豊島区。地域振興の調査研究で長年お世話になっている大分県。音楽を通じた町おこしの仲間に入れてもらった佐伯市。留学中に馴染んだジャカルタ。かつて家族と5年以上住み、地元の仲間たちと新しい地域文化運動を試みたマカッサル。2年以上住んで馴染んだスラバヤ。

まだまだ色々あります。

今までに訪れた場所で、いやだった場所は記憶にありません。どこへ行っても、その場所や地域が思い出となって残り、好きという感情が湧いてきます。

単なる旅行者として気に入ったところも多々ありますが、そこの人々と実際に交わり、一緒に何かをした経験や記憶が、その場所や地域を特別のものとして認識させるのだと思います。

そんな「ふるさと」と思える場所が日本や世界にいくつもある、ということが、どんなに自分の励ましとなっていることか。

あー、マカッサルのワンタン麺が食べたい。家のことで困っている時に助けてくれたスラバヤのあの人はどうしているだろうか。佐伯へ行けば、いつまでも明るく笑っていられるような気がする。由布院の私の「師匠」たちは、まだ元気にまちづくりに関わっているだろうか。ウガンダのあの村のおじさんとおばさんは、今日作ったシアバターをいくら売ったのだろうか。

そんな気になる場所がいくつもある人生を、誰もが生きているような気がします。

昔見たマカッサルの夕陽(2003年8月10日、筆者撮影)
マカッサルといえば思い出す「ふるさと」の光景の一つ
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地域よ、そんな人々の「ふるさと」になることを始めませんか。自分たちの地域を愛し、好きになってくれるよそ者を増やし、彼らを地域の応援団にしていきませんか。

筆者がそれを学んだのは、高知県馬路村です。人口1000人足らずの過疎に悩む村は、ゆず加工品の顧客すべての「ふるさと」になることを目指し、商品だけでなく、村のイメージを売りました。何となく落ち着く、ホッとするみんなの村になることで、村が村民1000人だけで生きているわけではない、村外の馬路村ファンによって励まされて生きている、という意識に基づいて、合併を拒否し、自信を持った村づくりを進めています。

もしも、地域の人口は1000人、でも地域を想う人々は世界中に10万人だと考えたとき、そこにおける地域づくりは、どのようなものになるでしょうか。

その地域が存在し、生き生きとしていくことが、世界中の10万人の「ふるさと」を守り続け、輝くものとしていくことになるのではないでしょうか。

私たちは、そんな広義の「ふるさと」をいくつも持って、それらの「ふるさと」一つ一つの応援団になっていけたら、と思います。

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それは、モノを介した「ふるさと納税」を出発点にしても構わないのですが、カネやモノの切れ目が縁の切れ目にならないようにすることが求められるでしょう。

正式の住民票は一つしかありません。でも、「ふるさと」と思える場所はいくつあってもいいはずです。

いくつかの市町村は、正式の住民票のほかに、自らのファンに対してもう一つの「住民票」を発行し始めています。飯舘村の「ふるさと住民票」は、そのような例です。以下のリンクをご参照ください。

 飯舘村ふるさと住民票について

「ふるさと住民票」を10枚持っている、50枚持っている、100枚持っている・・・そんな人がたくさん増えたら、地域づくりはもっともっと面白いものへ変化していくことでしょう。地域はそうした「住民」から様々な新しいアイディアや具体的な関わりを得ることができ、さらに、その「住民」を通じて他の地域とつながっていくこともあり得ます。

こうした「住民」が、今、よく言われる関係人口の一端を担うことになります。それは緩いものでかまわないと思います。

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世界中から日本へ来る旅行者についても、インバウンドで何人来たかを追求するよりも、彼らの何人が訪れたその場所を「ふるさと」と思ってくれたか、を重視した方が良いのではないか、と思います。

それがどこの誰で、いつでもコンタクトを取れる、そんな固有名詞の目に見えるファンを増やし、それを地域づくりの励みとし、生かしていくことが、新しい時代の地域づくりになっていくのではないか。

奥会津を訪れる台湾人観光客を見ながら、その台湾人の中に、もしかすると、台湾で地域づくりに関わっている人がいるかもしれない、と思うのです。そんな人と出会えたならば、その台湾人と一緒に奥会津の地域づくりを語り合い、その方の関わる台湾の地域づくりと双方向的につながって何かを起こす、ということを考えられるのではないか、と思うのです。

飯舘村の「ふるさと住民票」を登録申請しました。そして、私が関わっていく、日本中の、世界中の、すべての地域やローカルの味方になりたいと思っています。

「ふるさと」をいくつも持つ人生を楽しむ人が増え、地域のことを思う人々が増えていけば、前回のブログで触れた「日本に地域は必要なのですか」という愚問はおのずと消えていくはずだと信じています。

奥会津をまわりながら考えたこと

先週、奥会津の只見、金山、三島、柳津とまわりましたが、それぞれに個性が違っていて、とても興味深いものがありました。

東京23区よりも広い面積の只見町は、「自然首都」と宣言し、ユネスコエコパークの認証を得て、全国有数規模のブナの原生林をも生かしたまちづくりを進めています。

只見ブナセンターが運営する「ただみ・ブナと水のミュージアム」(下写真)は、只見の自然を理解するのにとても有用な場所で、展示もなかなか見ごたえのあるものでした。なかでも、熊などの狩猟具や昆虫標本、生活民具などの展示は本当に充実していました。

金山町は、天然炭酸水が湧き出す町で、全国有数の炭酸泉の温泉がいくつもあります。この炭酸水は瓶詰めにして売られていて、飲むと微炭酸のとても美味しいものでした。今回は行けませんでしたが、大塩地区には炭酸水が湧き出す井戸があり、そこで汲んだ炭酸水の美味しさは言葉にできないほどだそうです。

三島町の中心にある会津宮下駅を降りると、下のようなボードがありました。

2017年12月以来の外国人観光客がつけたシールですが、台湾からの観光客が圧倒的に多く、その次が香港、そしてタイが続きます。こんなに来ているんですよ!びっくりです。

三島町宮下地区では、町おこしの一環として、屋号サインボード・プロジェクトが行われ、町並み保存に貢献しています。

会津宮下駅のすぐそばには、宮沢賢治の「アメニモマケズ」の詩の文面を題材にした壁面アートも。

三島町では、「山村社会に革命を。人とものが集まる拠点が福島県三島町にOPEN」と題するReady Forのクラウドファンディングを行っているSAMPSON株式会社の佐藤綾乃さんに会いに行きました。私も少額ながら協力したのですが、どんな人がやっているのか、一度、会ってみたかったのです。

まだ準備中でしたが、とても素敵な空間を製作中でした。そもそも、近所の知り合いの高齢の農家さんが農作物を作りすぎて、多くを捨ててダメにしているのが忍びなく、その有効活用を考えたかったという話から始まり、地元のおじいさんやおばあさん、若者、よそ者などがゆるく集まれる場作りへ発展していった様子。

地域おこし協力隊員としての任期を終えた後、三島町に残って、しっかりじっくりと活動していく彼女をますます応援したくなりました。

そして、三島町でどうしても会いたかった人がもう一人。アポなしダメもとで、向かったのは奥会津書房。奥会津で地道に良質な出版活動を行っている出版社です。15年以上前、「会津学」シリーズで知った出版社は、素敵な三角屋根の建物にありました。

お会いしたかったのは、奥会津書房の遠藤由美子さん。突然の訪問にもかかわらず、お時間を作っていただき、色々とじっくりお話をうかがうことができました。お話を聞きながら、奥会津の人々の生活とインバウンド観光とが違う次元で進んでいるような感じを持ちました。

遠藤さんは、これまでに様々な聞き書き活動を通じて、奥会津の人々が継承してきた生活文化や伝統技術を書き残してきましたが、近年は、子供たちによる祖父母からの聞き書きに力を入れていらっしゃいます。その聞き書きは通常の大人による聞き書きとはずいぶん違う効果をもたらすと言います。

すなわち、その聞き書きを通じて、地域を継承してきた祖父母に対する子供たちの尊敬や敬愛の気持ちが強まってくるのです。おそらく、それがまた、地域を大事に思い、それを次の世代が継承していく力になっていくのだと思います。

ところが、遠藤さんは最近、この子供たちによる聞き書きの中に見られる変化に危機感を抱いているとおっしゃいます。すなわち、祖父母への聞き書きを通じて、昔と今との比較、その事実の理解で終わってしまい、かつてのような聞き書きを通じた祖父母への尊敬や敬愛の気持ちが見られなくなってしまった、というのです。

それは子供たちの変化というよりも、子供たちへ聞き書きを促す学校の先生や親たちの態度に基づくものではないか、という話でした。大人の問題ではないか、というのです。

何かを行うときに、机上で想定できる範囲内で目標を達成できればそれでよい、ということなのでしょうか。机上では想定できなかった、むしろその想定自体を根幹から問い直すような展開にさえなることを許容できない、ということなのか。

遠藤さんと別れた後、そんなことを考えながら、中心街を無効に見ながら、只見川沿いの道を歩いて行きました。

もう一度中心街へ戻る前に、中心街側の対岸へ渡る橋の近くにある小さなカフェ「ハシノハシ」に立ち寄りました。温かいはちみつラテをいただきました。おいしい!

この店を経営する方は、よそから来た方かと思いきや、地元の若い女性で、夜になると、地元の顔なじみのおじさんたちがお酒を飲んだりもするそうです。

彼女もまた、地元の人たちがふらっと集まれる場所を作りたかったとのこと。前述のSAMPSON株式会社の佐藤綾乃さんとはお友達だそうです。学校時代の友人たちは皆他所へ通勤していて、ここには昼間は地元の人はあまりいないそうです。そのため、三島町によそからきた佐藤さんらとのつながりのほうが今は身近に感じているのだとか。

こうやって、三島町でも、ふらっと訪れるよそ者が、自然に地元の方々と交われる場所を作る動きがいくつか見られましたが、これまで訪れたいくつもの日本の地域で、同様の動きがありました。素敵な場所が全国の地域に続々と出現しているように感じます。

只見、金山、三島とまわってきて、それぞれ程度や状況の差はあるにせよ、よそ者やUターン組が静かに地域で根を張り始めている様子がうかがえました。そこで求められているのは、地元と外だけでなく、地元の中でも、関係人口や交流人口、というよりも、人々の関係や交流の機会をどう作り、それをどう広げていくか、ということのように思えました。

誰かが誰かを助ける、という、ともすると上から目線になりがちな関係ではなく、互いが互いの存在を認め、尊敬し合い、信頼し合い、その互いに認められているという関係づくりから、様々なモノやコトが、それに関わる方々の波長やペースに応じて生まれてくる。その基底には、奥会津の地域を継承してきた人々の分厚い生活文化や民族技術の蓄積があることを認識する。

実はただただ当たり前な、そんなことが、奥会津では自然と可能な状況になっているのではないか、と思いました。でもそれは、今の組織や都会のなかでは、なかなか感じられない、作れない状況になっているのではないか。そんな気がします。

そんな奥会津でも、役場などで働いている若者で、精神的にまいってしまう者が意外に多いという話も聞きました。地方創生といった名の下に、行政で上から降ってくる仕事の処理が間に合わないからのようです。彼らの地元への思いが自分を殺すことにならなければ良いのですが。彼らは地元にとって大事な人材だからです。

こうしたことを感じ入りながら、会津柳津の花ホテル滝のやで、「グローカルに奥会津・只見線を考える」という講演を行いました。どんな講演だったのか、ご興味のある方は、以下のサイトでご視聴可能です。

 グローカルに奥会津・只見線を考える

奥会津にはまり始めたかも

3月20日に会津柳津の花ホテルで講演する前に、同じ奥会津の只見町、金山町をまわっています。主催者から、講演のテーマに只見線のことを入れてほしいと言われており、まずは、只見線に乗らなければ、と思った次第です。

そこで、3月18日、まず、小出から只見まで、只見線に乗りました。今回の車両は2両編成、1両は「縁結び」をテーマとしたラッピング車両でした。

この日は東京から新幹線を使わず、在来線乗継で小出まで来たのですが、水上あたりから雪が見え始め、清水トンネルを過ぎたら、本当に雪国でした。小出駅でも、除雪した雪が高く残っていました。

小出=只見間は、1日に3本しか走っていません。その2本目に乗車。車内は、4人掛け椅子の進行方向窓側に一人ずつ、明らかに乗り鉄または撮り鉄の人たちが座っています。その多くは、青春18きっぷで乗車している様子でした。

途中、越後須原と入広瀬で、高校生ぐらいの若者が一人ずつ下りたほかは、車内は鉄道マニアの世界でした。

車内から撮ったのでピンボケですが、1階部分は雪に埋まっても、2階部分で出入りや生活ができるようになっているように見える家。雪の量を見て納得です。

大白川からは、いよいよ山越えです。六十里越という名のかつての厳しい難所は、六十里越トンネルで通過。トンネルに入ってから出るまで約9分もかかりました。

うっかりして、旧田子倉駅を通過したときに写真をうまく撮れませんでした。只見線を語るうえで、この田子倉のことを忘れてはなりません。只見線の敷設は、只見川電源開発における田子倉ダムとそのダム湖である田子倉湖のためでもあったからです。

そうこうしているうちに、只見に到着。

只見町の面積(747.5 km2)は東京23区よりも広い(東京23区は619 km2)のです!この只見町は、「自然首都・只見」を宣言し、ユネスコエコパークに登録されました。国内最大級の面積のブナの原生林があり、自然を生かしたまちづくりで、只見のブランド化を図っています。

只見町ブナセンターという組織があり、「ただみブナと川のミュージアム」や「ふるさと館田子倉」を運営しています。

ミュージアムの展示は、なかなかしっかりしたもので、とくにブナに関する学術的な展示のほか、動植物や昆虫に関するもの、そして民具や道具(とくに熊狩りなどの狩猟用具)と人々の生活に関する民俗的な展示にも見るべきものが多々ありました。調査研究成果が紀要として定期的に刊行されており、それが、只見町が発行する「只見おもしろ学ガイドブック」などにも反映されていました。

ふるさと館田子倉には、田子倉ダムの建設で湖底に沈んだ旧田子倉集落の生活・文化に関する記録や、田子倉ダム建設への反対運動や交渉に関する資料、田子倉ダム問題を題材にした文学作品等の展示がありました。

只見を含む奥会津では、かなり前から、子どもを含めた聞き書き運動が盛んに行われてきており、聞き書きを基にしたたくさんの出版物が残されてきました。その中心的役割を果たしたのが、三島町にある奥会津書房という小さな地方出版社ですが、行政も聞き書きに対する理解を示していたようです。

3月19日は、只見町からお隣の金山町へ移動しました。ここは、地中から炭酸水や炭酸泉が湧く場所で、大塩地区で取れた炭酸水を商品化して販売しています。甘くない微炭酸の炭酸水を味わいました。

今夜泊まっている玉梨温泉では、玉梨温泉の源泉のほかに、炭酸泉の源泉があり、町立のせせらぎ荘という施設でその炭酸泉に長い間浸かってきました。

炭酸泉と言えば、大分県の長湯温泉が有名ですが、東日本では、ここの炭酸泉(八町温泉)が有名なのだそうです。長湯ほど炭酸がバチバチ出てくる感じはありませんでしたが、温度が40度とわりに高い炭酸泉で、体中に粒々の炭酸の泡がたくさんついてきます。炭酸泉の源泉かけ流し、というのは初めて経験しました。

会津川口駅前では、有名な地元ソウルフードのカツカレーミックスラーメンを食べました。これは、ラーメンの上にカツカレーライスが乗っかっている、というものでした。福島県内の地元メディアがたくさん取材に来たということです。

これを出す「おふくろ食堂」の女将さんとは、なんだか色々話しこんでしまいました。20日の講演内容を考えるうえで、参考になる話を聞くことができました。

こうやって、実際に、短時間でも只見や金山を歩いただけで、具体的なイメージが少しずつ現れてきたような気がしています。明日20日は、柳津へ着く前に三島町を訪問しますが、さらに何か有益なインプットがあるのではないかと思っています。

何となくですが、奥会津にもはまり始めたような気配を自分自身に感じています。

会津坂下の奇祭・大俵引きを見に行く

1月14日は、会津坂下町へ坂下初市と大俵引きを見にいきました。

会津坂下では、年の初めの4の付く日が初めて市の立つ日ということで、毎年、1月14日に「初市」が開催されます。この初市と合わせて行われるのが、大俵引きです。

会津坂下町が自ら「奇祭」と名付ける大俵引きですが、重さ5トンの大俵を真ん中に置き、東方と西方に分かれて、綱引きのように大俵を引き合うものです。

まずは、前座として、子どもが参加する俵引きが行われます。俵の大きさは1トン、男の子は上半身裸です。

子供の部が終わると、いよいよ大人の部です。

まず、5トンの大俵のお祓いをします。

続いて、東方(赤)と西方(白)のふんどしを絞めた裸の引き手計147人が登場、引き手もお祓いを受けます。引き手は地元の人だけでなく、全国、そして外国から参加した人もいました(例年、11月頃にネット上で一般参加者の登録ができるそうです)。
でも、小雪が舞い散る氷点下のなか、多くの引き手はすでにアルコールを飲んで体を温めてきている様子で、なかにはもう、顔が真っ赤で、目が血走り、ベロンベロンに酔っぱらっている者も。
大俵を動かして、道の真ん中に据えます。大俵の上には、東方に町長が、西方に商工会長が乗り、その間に軍配を持った行司が立ちます。
いよいよ、「引き方、始め~!」の声で、大俵引きが始まります。そして、「引き方、止め~!」で終了です。

1回目は東方の勝ち。2回目は西方の勝ち。そして、3回目に移る前に、参加した引き手の名前をズラズラと一人ずつ読み上げます。
そして、3回目。1分以上もかかる熱戦の末、西方の勝ち。これで、2勝1敗の西方が今年の大俵引きの勝者となりました。
この大俵引きでは、東方が勝つと米の値段が上がり、西方が勝つと米が豊作になる、といわれるため、今年は米が豊作となるという予想になりました。
この後、見物人を含めた誰でも参加できる大俵引きがありました。この大俵を引くということは、福や幸運を引き寄せることになる、ということで、大勢の人々が参加しました。
毎年、この坂下の大俵引きは、新年の恒例行事として、福島県内のテレビや新聞で必ず報道されます。
寒いなか、裸にふんどし一丁で参加した引き手たちは、厳寒のなか、写真撮影などしばらく現場に残された後、町内の温泉施設へ移動して体を温め、夜は盛大な懇親会で再びアルコールに浸る、ということです。
今回は、この奇祭を見に来たわけですが、それに合わせて、雪の会津坂下の街中を少し歩いてみました。わずかの時間でしたが、なかなか堪能できました。素敵なところでした。その内容はまた、明日以降のブログでお伝えすることにします。

柳津の「小さな宿の勉強会」は今回でなんと第484回

1月12日は会津坂下で用務を済ませ、さて次はどこへ行こうかと思っていたところ、今回案内してくれる友人が、柳津(やないづ)へ行くというので、付いて行きました。

友人が連れて行ったのは、柳津温泉の「花ホテル滝のや」という宿でした。なんでも、友人は私をこの宿のご主人に会わせたい、というのです。まあ、私自身、特別な予定もなかったので、そこまで言うならお会いしてみよう、ということで同行したのでした。

着いてしばらくすると、行政関係の別の来客があり、成り行き上、事情も分からないまま、私も同席することになりました。皆さんの話の内容は分かりましたが、これまでの経緯や中身については全く関知しないので、ともかく、じっと黙っていることにしました。

このときの私以外の方々の議論について、ここでは触れませんが、地域の現場でよく見かける様々なものの一端がここにもありました。

この宿に私を連れてきた友人は、夜、会津坂下で用事があるということで、私は急遽、この宿に1泊するということになりました。そして、たまたま、その夜はイベントがあるので、それにもぜひ顔を出してほしい、と言われました。

そのイベント、というのが、「小さな宿の勉強会」花ホテル講演会、というものでした。今回で第484回。えーっ、484回も続いている勉強会って、いったい、どんなものなのだろうか。しかも、柳津という小さな町の小さな宿でそれが続いているとは・・・。

急に興味がわいてきたので、この会に参加することにしました。

宿のご主人から渡された資料によると、この会の第1回は2001年2月2日に開催されて、毎月3~4回ぐらいのペースで、ずーっと継続されています。

今回の第484回は、いなわしろ民話の会に所属する鈴木清孝さんという方が「会津の民話:親父の冬がたり(冬だからこそ、語りのおもてなし)」と題する講演でした。

福島県内の会津地方より面積の狭い都府県が全国で21あることや、冬の雪多き気候が豊かな水を作り出す場所として会津の「津」という意味があることなど、会津に関する豆知識をお話しいただいた後、いくつかの冬に関係する唱歌を皆で歌い、冬に関するいくつかの民話を会津弁で語ってくださいました。

参加された方々は高齢の方が多かったのですが、皆さん、民話が好きで、語り部をやっていらっしゃる方々でした。全会津民話の会という名前の下に、18団体、200人が会員となり、500~600話(基本は150話程度)の民話の語りを行っている、というのにも、軽く驚きました。会津ではまだまだ民話が愛されているように感じました。

鈴木さんの講演が終了すると、参加者が集って、オードブルや鍋を囲みながら懇親会へ移ります。今回は、県立会津大学の副学長を務めていらっしゃる程先生も参加されていて、とても熱心に皆さんのお話を聞いていましたし、私も個人的に色々とお話をすることができてとても有益でした。

間もなく500回を迎えようというこの「小さな宿の勉強会」を主宰している花ホテル滝のやのご主人である塩田恵介さん。まさに、地域な中で様々な人々をつなげ、それを地域に生かす種まきをずっと地道にされていることに深い感銘を受けました。それは、決してすぐに芽を出すものでも、成果主義に即した即効性のあるものでもないかもしれませんが、こうした営みが続いているということ自体に大きな意味があると感じました。

塩田さんはまた、柳津という一つの町に留まらず、奥会津地方の地域づくりに関わる方々のまとめ役も果たされていて、とくに、災害で一部不通となっているJR只見線の復旧に関して、沿線市町村と連携して動いていらっしゃる姿には、本当に脱帽です。まさに、奥会津、いや会津の地域づくりのキーマンの一人なのでした。

私の友人がなぜ、私を塩田さんに会わせたいと思ったのかがようやく理解できました。

そして、わずか数時間前にお会いしたばかりの私に、塩田さんはこの「小さな宿の勉強会」での講演を依頼するのでした。これは、快諾しないわけにはいきません。この3月に「グローカルな視点からみた地域づくり」(仮題)でお話しすることを約束しました。そして、塩田さんからは、只見線復旧と絡めて話してほしいとの注文も受けました。

宿の24時間かけ流しの快適な温泉に浸かりながら、この日の柳津での出会いの偶然と講演を含むこれからの柳津や奥会津との関わりのことをぼーっと考えていました。そして、やっぱり、現場に即すると、次から次へと色々なアイディアが湧き出てくることに改めて気づきました。

外は雪、マイナス13度の柳津で、温泉のせいもあるでしょうが、とても温かな、そしてしっかりやらなきゃ、という気持ちにさせてくれた一日でした。

柳津に連れて来てくれた友人と塩田さんはじめ、「勉強会」でお会いできた皆さんに感謝申し上げます。

会津バスの粋な計らい

昨日、1月11日から福島県会津に来ています。

同じ福島県といっても、福島市出身の自分にとって、会津はあまりよく知らない世界です。これまで、何度か来たことはありますが、土地勘が全くない場所です。

今回は、東京から会津バスの高速バスで会津若松駅前まで乗車しました。快適なバス旅で、所要時間は4時間弱。郡山まで雪はほとんどなく、車窓から見える枯れ木林が夕日に映えてとてもきれいでした。

郡山からいくつものトンネルを経て山を越え、猪苗代に入ると、そこはもう一面の銀世界。かなりの雪が積もっていました。会津若松市内は猪苗代ほどではないにせよ、それでもまだ道には雪がけっこう残っていました。

道中、会津バスの運転手から、乗継タクシーの割引券をもらいました。系列の会津タクシー限定ですが、会津バスで到着後、会津タクシーに乗り継ぐと、タクシー料金から500円割引となる券です。

途中のサービスエリアで、会津タクシーに電話をし、迎えに来るように頼むと、ちゃんと会津若松駅前で待っていてくれました。市内のホテルまで780円でしたので、280円の支払いで済んでしまいました。

タクシー以外に、喜多方方面などへの会津バスの路線バスに乗り継ぐ場合にも、割引券が提供されます。

会津観光には、2,670円で、2日間、指定域内の鉄道・バスが乗り放題となる「会津ぐるっとカード」というのもあり、利用しない手はありません。

もっとも、今回は、会津坂下の友人が案内してくれているので、私はまだ使っていませんが。

巷では「明治維新150年」とか言っていますが、会津では「戊辰戦争150年」という言葉をよく聞きます。あまり知られていませんが、会津は今、地域活性化の面白い取り組みが色々行われているところです。今回は、その一端に触れることができそうです。