マカッサルに着きました

5月16日の夕方4時半過ぎに、マカッサルに到着しました。やっぱり、マカッサルに来ると、気分が高揚していきます。

ホテルに荷物を置いて、我々の仲間が運営しているRuma’ta Art Spaceへ向かいました。

すでに紹介したかもしれませんが、このRuma’ta Art Spaceは、マカッサル出身の作家Lily Yulianti(福島の当社オフィスへの来客第1号)と同じくマカッサル出身でインドネシアを代表する映画監督のRiri Rezaが主宰し、地域の若手文化人・芸術家たちの活動空間となるような場を設け、その場を通じて新しい地域主体の文化創造活動を促す運動を行っています。

Ruma’ta Art Spaceに関しては、私も初期段階から少なからず関わっており、今も大事な仲間としての関係を続けています。

今回のマカッサル訪問は、このRuma’ta Art Spaceが主催するマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に出席することが目的です。今年で7回目、政府から一切の補助金を受けず、独自に民間からのスポンサー収入で運営しています。

MIWFの話はこれからブログで紹介していくとして、マカッサルについて早々、インドネシアの詩人Supardi Djoko Damonoの若い頃に書いた自筆の詩の書簡が発見されたということで、彼の1958〜1968年の詩作を回顧する展覧会のオープニングセレモニーがRuma’ta Art Spaceで夕方開催されているというので、Ruma’ta Art Spaceへ向かったわけです。

会場にはSupardi氏ご自身も来られていました。彼が1958年から1968年へとどのように詩作が変わっていったのか、書簡にある詩と出版された詩とが違っているのはなぜか、などが興味深く説明されていました。

そして、夜は、場所をロッテルダム要塞公園へ移し、「映画のなかの詩」というテーマで、Yosep Angi Noen監督のIstirahatlah Kata-Kata(2016年作品)を夜空の下で鑑賞しました。この作品は、1998年7月以降(誘拐されたと見られています)、今も行方不明のままの活動家Widji Thukulのカリマンタンでの逃亡生活に焦点を当てた映画で、詩人でもあった彼の詩が映画の中で使われています。

反政府の先頭に立った激しい活動家という一般的なイメージとは別の、警察や軍に怯える、生身の人間としての彼が描かれていました。おそらく、激しい活動家であった彼の姿が焼き付いているからこそ、この映画で描かれた一人の人間としての彼の姿がずしりと迫り、今も行方不明の彼の生きざまが今を生きる我々に何かを訴えてくるのだと感じました。なぜ今、この映画なのか、という点がおそらく大事なのだと思いました。

展覧会と映画会の間にさっと夕飯を食べようと、昔から馴染みの店で福建風ミーゴレンを頼んだら、30分経っても出てこないという事態に呆れ、時間も迫っているのでキャンセルして映画会に行ったので、空腹でしかたなかった(昼食もスニッカーズをかじっただけだったので)、ということはありましたが、無事にマカッサル初日を終えました。

美人鍋で雑談会

今日の夜は、美人鍋を食べながら雑談会でした。

集まったのは私を入れて4人。当初、中華しゃぶしゃぶを考えていたのですが、参加者のうちの2人の友人がマネージャーをしているという、この店に変更しました。

美人鍋は、日本の塚田農場が出店した店です。何が美人鍋なのか、鍋を食べている間に美人が現れて鍋の具を取り分けてくれるのか、はたまた鍋の中から美人が現れるのか。想像力豊かな4人があれこれ勝手に思いつきで楽しんでいましたが・・・。

現れたのはコラーゲンでした。美人鍋はコラーゲン鍋、水やお湯や出汁は一切入れないで、プリップリッの鶏のコラーゲンのみを惜しげもなく鍋に入れ、さらに具を入れていきます。

この鶏のコラーゲンは、鹿児島の地鶏からとったもので、インドネシアへ輸入しています。一方、鍋に入れる地鶏はインドネシア産とのこと。

鶏の味がしみる、こってりとしたコラーゲンたっぷりの鍋は、すぐにでもお肌がツルツルになりそうな気がしました。

まだできて間もない店ですが、それでも、土日には満席になるのだとか。店はジャカルタのプラザスナヤン内Studio 21の向かい、一番端っこにあります。

美人談義から始まった雑談会は、それこそ、四方八方へ脱線しまくりながら、楽しく過ごすことができました。

ジャカルタでアポ4本

今日は、日曜日にもかかわらず、朝から夜まで4本もアポが入ってしまいました。いまも、最後の1本の最中なのですが、まもなく日本時間の日付が変わってしまうので、ビールを飲んで半分酔っ払いながら、書き付けているところです。

4本のアポでも、、話題はアホックと今後の政治がどうなるか、という話題が中心でした。これについては、別の機会にきちんと書こうと思っていますが、今後、2019年の大統領選挙へ向けて、必ずしも楽観できない事態が起こる可能性がある、とだけ、ここでは申し上げたいと思います。

今日は酔っ払ってしまっているので、とりあえず、ここまでということでご勘弁ください。

ジャカルタの宿舎に無事到着(「雑談会」の予告付き)

先ほど、現地時間の夜7時過ぎにジャカルタに着きました。

JAL Global Club (JGC) のメンバーになったので、成田空港で、搭乗10分前なのに、サクララウンジで「朝カレー」を食べました。これはJGCになったら是非やりたいと思っていたこと。

今回はマレーシア航空でしたが、いつからなのか不明ですが、ワンワールド加盟会社なので、JGCサファイヤのステータスが適用されます。そのせいか知りませんが、ジャカルタに着いたら、荷物が2番目に出てきてびっくりしました。

タクシーでジャカルタの宿舎(昔のインドネシア大学留学時代の私の下宿)に到着。このところ、ずっとジャカルタに泊まる用事がなかったので、この宿舎に来るのも久しぶりです。

下宿のおばさんは、また少し足が弱ったようでした。私が来なくなったせいもあるかな、と少し心配になりました。

今日はゆっくり休んで、明日、明後日とジャカルタで動きます。

<予告>
5月15日(月)夜、ジャカルタの某所で、何か美味しいものを食べながら「雑談会」をしたいと思います。先着8名としたいと思います。ご希望の方は、早めに松井(matsui@matsui-glocal.com)までご連絡ください。

草間彌生展へようやく行けました

今日は、午前中にアポイントメントが1本あった後、夕方から、妻と一緒に、国立新美術館で草間彌生展を観てきました。

明日からインドネシアで、帰国したときにはもう終わってしまっているので、どうしても今日を外したら観に行けないという状況でした。でも、年齢のせいか、昨日の福島日帰りの後遺症なのか、今日は疲れからか、ちょっと体がきつく感じたので、草間彌生展へ出掛ける前に、駅で栄養ドリンクを1本飲みました。

それが聞いたかどうかはわかりませんが、草間彌生展を観ている間、なぜか軽い興奮状態になり、眠気も吹き飛び、しっかり観ることができました。彼女自身の声が入っている音声解説は、彼女の詩の朗読や歌も入っており、一聴の価値があります。

金曜の夜ということでしたが、混雑ぶりは予想の範囲内。それでも、夜遅くなるにつれて、人の数がむしろ増えたように感じました。

色使いや抽象的な形象から、可愛らしさや明るさを感じる人もいるかと思いますが、音声ガイドでの草間彌生自身の話では、そんなものは一切なく、彼女の頭の中に浮かんだイメージや湧いてきたものを一心不乱に制作するという、むしろ彼女自身の様々な苦しみの成果であるということがとても印象に残りました。

そして、彼女が今に至るまでに辿った様々な経験、精神的な葛藤、生と死を見る真剣な眼差しなどが背景となり、彼女の中の思いが唸りを上げながらカンバスに描かれていく、2〜3時間で一つの作品を描いていく、その集中力と瞬間技のような表現の凄みが作品から迫ってくるのでした。

おそらく、掲げられているタイトルは後付けのものでしょう。2011年を境に、作品の描き方が大きく変わった印象を受けました。戦争や平和、心の奥底からの悲しみが表出しているような作品が多くなり、同時に、閉塞感を感じさせる現代のなかで、若者たちへの期待とともに、制作活動を通じて、草間彌生が闘い続けることを高らかに宣言しているかのように感じました。

真剣に生きるとはどういうことなのか。本当に闘うとはいかにして言えるのだろうか。私自身の人生への本気度や闘争心をもう一度思い起こさせる、真剣な時間を過ごすことができて、大変満足しました。

明日5月13日から23日朝帰国まで、インドネシアへ行ってきます。17〜20日は、私の大事な仲間が大きく育んできたイベント、マカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)に参加してきます。

急遽日帰りで福島へ、その理由は

今日5月11日は、急遽、東京から福島へ日帰りしました。昨晩、事務所の件でお世話になっているオーナーから電話があり、福島地方法務局に出向いて確かめなければならない用事が出来たためです。

オーナーによると、その電話は「定款が提出されていない」という内容でした。まさか、登記手続を終えて、国税庁から法人番号も通知されて、銀行法人口座の開設を進めるなど、事業開始の準備を進めているのに、その根本たる定款が未提出とは、一体どうなっているのか、最初は見当がつきませんでした。

3つの可能性が考えられました。第1に、電子定款で申請したのに、法務局が「紙の定款がない」と勘違いした可能性。第2に、電子定款で申請した際のCD-Rに私がファイルをきちんと焼き付けていなかったのでファイルが見当たらないという可能性。第3に、これは大変失礼なのですが、オーナーが何か聞き間違えた可能性。

そこで、昨晩は、もう一度きちんとCD-Rに焼き付けるとともに、それをプリントアウトした「紙の定款」を用意しました。CD-Rに焼き付けたファイルをMacでもWindowsでも読めることを確認しました。

それらを持参して、今朝、東京の自宅を出発。山手線に乗ったら、「新橋駅と浜松町駅の間で人が線路に立ち入った」という理由で電車が15分以上動かず、予定よりも30分以上遅い新幹線で福島へ向かいました。

東京は夏のような暑さになったということですが、今日の福島は最高気温が20度に届かず、小雨もぱらつく肌寒い1日でした。

福島地方法務局へ直行し、事情を説明しました。係員は当社の登記関連資料を精査し、「電子定款できちんと申請され受理されており、登記上の不備は全くなく、そのような状況で法務局から電話をすることはありえない」と答えました。焼き付け直したCD-Rも「紙の定款」も全く不要でした。狐につままれたような気分になりましたが、登記上の問題が何もないことを確認できてホッとしました。

もしかして、法務局の方が勘違いしたのかもしれません。それならいいのですが、仮に、誰かが法務局を名乗って何かを企てようとしたのなら、ちょっと怖いです。真相は藪の中となりました。

今回の日帰りは、この法務局での確認が主目的だったのですが、それ以外に、オーナーに預かってもらっていた、国税庁からの法人番号通知書や、T銀行の法人口座キャッシュカードや法人インターネットバンキングの開始手続案内などを受け取ることも目的の一つでした。

それらを受け取って、T銀行のインターネットバンキング開始手続をしました。まず、個人口座のインターネットバンキングの開始手続はすぐに終わりました。

面倒だったのは、法人口座のインターネットバンキングの開始手続です。どうしても分からないので、電話をかけてやり方を聞きました。この電話での担当者(女性)の説明が懇切丁寧でわかりやすく、ずっと順を追ってやり方をガイドしてくれました。途中、私のMacBookでは使えない機能などがあり、最初から戻って根気よく手続きをし直す際にも、ずっとお付き合いいただけました。

正直言って、地方銀行ということで、T銀行を都市銀行ほどサービスはよくないと勝手に思っていたのですが、この法人口座のインターネットバンキングのガイダンスはとても素晴らしいものでした。おかげで、何とか法人口座でもインターネットバンキングが使えるようになりました。

さらに、嬉しいラッキーは、3月末にスラバヤ中央郵便局から船便で送った荷物が今日届いたことでした。ただし、5箱送ったうちの3箱だけでした。税関検査などがあるので6月末ぐらいに届くかと思ったのが、1カ月半かからずに届きました。後は、残りの2箱が届くのを祈るのみです。

そして、今日のランチは、前々から行きたいと思っていた福島駅東口のサイトウ洋食店にいくことができました。これまで3度試みましたが、定休日だったり、貸切だったりで、行けてなかったのです。今日は11時半に一番乗りで店内へ入り、牛タンのカレーライスセットをいただきました。新鮮な地元野菜をふんだんに使っていて、なかなか美味しいカレーでした。この店には、これからもよく来るような予感がします。

というわけで、急な日帰りの割には、満足できるものもいろいろあって、新幹線代はかかったけれども、まあ、良かったのかな、という感じです。

アホック有罪判決で思ったこと

昨日、ジャカルタ首都特別州のアホック州知事がイスラム教を冒涜したとされることに関する裁判(一審)が結審し、禁固2年の判決が下されました。アホック州知事はすぐにそのままチピナン拘置所に収監されました。アホック側は控訴する意向を示しました。

実は、この裁判で、検察は禁固1年、執行猶予2年を求刑していました。判決はこの求刑よりも重いものです。日本では、一般に求刑よりも厳しい判決が出ることはまずあり得ませんが、インドネシアでは、なぜかわかりませんが、求刑よりも厳しい判決が下されることが割とよくあります。
現職のアホック=ジャロット組は、先のジャカルタ首都特別州知事選の決選投票でアニス=サンディ組に敗れたばかり。それに今回の禁固刑の判決が追い打ちをかけ、アホックの政治生命もこれで終わりか、という気配もうかがえます。
アホックを毛嫌いしてきた勢力にとって、今回の有罪判決はまさに希望したものでした。彼らにとって、アホックは邪魔者なのです。彼らの権益を侵すような行動をとり、汚職にも厳しい、万が一、アホックが大統領になったら、なんて考えるだけでもおぞましい。とにかく、何でもいいから、アホックをディスる材料を血眼になって探したのでした。

イデオロギーや政策上の意見対立ではなく、アホックが嫌い、という一点集中。嫌いな理由は、態度が直情的で粗野、華人でキリスト教徒のくせに偉そうにしている、といったものでした。アホックの欠点を血眼になって探してはみたものの、汚職疑惑も女性問題も見つけることができず、困っていたわけです。

そこに例のビデオが出てきました。

そのビデオでは、プロウ・スリブの住民と会った際に、アホックが「皆さんがコーラン食卓章51節に嘘をつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べたように見えたのですが、それは意図的に編集したものでした。注意深く読んで欲しいのですが、アホックは、本当は、「皆さんがコーラン食卓章51節を使って嘘もつかれて私を選ばないとしても、それは皆さんの権利である」と述べていたのでした。

このビデオが火元となって、アホックがイスラム教を冒涜したという話が広まり、この機に乗じて、「アホックはイスラムの敵」と積極的に煽る人々も現れました。アホックの独走かと思われたジャカルタ州知事選挙は、これで急に風向きが変わりました。

結局、嫌アホック派が血眼になって探したアホックの弱点は、これ一つでした。華人=金持ち、キリスト教徒=欧米寄り、というイメージが膨らみ、アホックは金持ちの味方で庶民の気持ちがわからない、と喧伝されました。

インドネシアのメディアはビジュアル重視に変わってきていますが、一番インパクトのあるのが大衆動員です。大衆動員をかけるための材料はイスラム、しかも「アホックはイスラム教を冒涜した」というメッセージは、有効な宣伝材料でした。大衆動員をかけるには、ジャカルタ以外から動員する必要があり、それに便乗して、イスラム強硬派グループが影響力を拡大させようと主導していきました。

その他の詳細は、決選投票の前の段階で、私が書いた有料記事が4本ありますので、よろしければ、ご購読ください。

 ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む(1〜4)

ここまで書いてきて、私が何を言いたいかというと、今回のアホックの州知事選敗北、有罪判決といった事態が引き起こしている本質は、必ずしもイスラムの問題ではないということです。誰でもあれだけのイスラム教徒が動員されれば、イスラムの影響を過大に見てしまうことでしょう。でも、問題の本質は、まずアホックを政治の舞台から引き摺り下ろすことであり、そのためには、示威行動と恐怖心の植え付けによって、有権者の投票行動を変えることでした。

アホックが当選したら、毎日毎日デモが起こるのではないか、イスラム強硬派が暴れるのではないか、1998年5月のような反華人暴動が起こるのではないか。そんなことになったら、日々の生活に支障が出るし、安心して暮らせなくなる。

「コーラン食卓章51節に従って非イスラムの指導者を選ぶな」という呼びかけも盛んに行われ、「アホックを支持する者はモスクに入るべからず、冠婚葬祭も受け付けない」といったところも現れるとなると、日常生活の場にあるモスクと共生する住民は、それでもアホックに投票するという行動はとりにくくなることでしょう。

忘れてならないのは、デモに参加したり、恐怖心を広めたり、差別意識を前面に出したりした人々は、自分達の信ずるイスラム教のために行動したのではなく、一人のけしからん気にくわないアホックを糾弾するために動いてしまったのです。

そして、それは有権者だけでなく、アホックを有罪とした裁判所にも少なからず影響した可能性があります。アホック無罪の判決を出そうものなら、裁判所が焼かれてしまうかもしれない、ジャカルタのあちこちで騒乱が起きるかもしれない、そのとき、無罪判決を出した裁判所の治安悪化の責任が問題になるのではないか。それぐらい、裁判所は、州知事選挙のときの有権者と同じく、嫌アホック派からの圧力や同派への恐怖を感じていたかもしれません。

おそらく、アホック支持者のほうが自制心があり、暴力的行為を行う可能性が少ないのではないか。もしかしたら、そんな計算もあったかもしれません。

「アホックの裁判に対する態度は誠実で協力的だった」と評した裁判所が、なぜ検察の求刑よりもかなり厳しい判決を下したのかは、裁判所が示した理由を見ても、納得できるものではありません。アホックがイスラム教を冒涜したと断罪する根拠についても、重刑を課すに値する新事実があったわけでもなく、それまでの裁判での議論を踏まえているように見ることは難しいものがあります。

それでも、裁判所の判決を尊重し、それに反対するならば、きちんと法的なプロセスを経て進める、ということは、国民一般の了解事項になっている様子です。イスラムを政治的に利用し、示威行動と恐怖心である一定の考え方を強要する一方で、司法での汚職が問題視される状況はあるにせよ、制度としてのそれを尊重できる社会の成熟さも生まれています。

判決が禁固2年となったことも注目されます。求刑の禁固1年執行猶予2年だと、アホックは2018年地方首長選挙にも2019年大統領選挙にも出ることができます。しかし、禁固2年が確定した場合、そのどちらに出ることも無理です。アホックの政治生命を断つ結果となります。そして、それは嫌アホック派の目指すところでもありました。

日本を含む海外メディアの報道を見ると、インドネシアの多数派イスラムが増長して「多様性の中の統一」に黄信号が灯ったという内容を散見します。でも、イスラムの影響力云々が問題の本質、とは思いません。これまで多数派の行動を自制させてきた箍が外れた、それは政治家が自分の野心のためにイスラムを政治利用する傾向が強まったためだと思います。何かを決めるのに、ムシャワラ(協議・熟議)の社会から多数決の社会へ移り始めているのかもしれません。

空気を読みながら、言いたいことも言えなくなる。日本にとっても、インドネシアの話は決して他人事ではありません。でも、ジャカルタでは、まだアホック支持者が声を上げています。声を上げない日本の我々よりもまだ健全だと思えてしまいます。

法人口座開設の顛末

事業の準備として、これまで3つの銀行(T銀行、M銀行、R銀行)で法人口座の開設を進めてきました。今回は、その顛末について、少しお知らせしたいと思います。これから会社設立を考えている方の参考になれば幸いです。

まず、会社を登記した福島市に1つ開設しました。事務所から歩いて2分のところにあるT銀行の支店です。福島県ではナンバーワンの地方銀行です。

この支店は、私がお世話になっている古民家のオーナーが懇意にしており、オーナーには今回ずいぶんと助けていただきました。

口座開設の開設を申し込んだのが4月21日でした。翌週、本社住所の状況をみて、口座開設の可否を判断する、ということで、実際に事務所へ来られたのは4月26日朝でした。なんと、支店長と次長が二人でお出ましになり、びっくりしました。

事務所の様子を確認し、古民家のオーナーを交えて色々話をした後、再度、支店へ出向いて書類を整え、翌4月27日に無事法人口座を開設できました。

古民家のオーナーのおかげに加えて、次長が高校の後輩というつながり、支店長も交えて自分たちの中学・高校時代の話題で盛り上がれる、あの親近感は他ではなかなか味わえないものでしょう。

その後、先方のミスで書類の誤りを1箇所訂正するために捺印する必要が生じたのですが、担当者の指示通り、営業時間外だったので支店の裏口から中に入らせてもらいました。地域密着というのは、まさにこういうことを言うのだととても嬉しい気持ちになりました。

2つ目は、東京の自宅近くの都市銀行であるM銀行に法人口座を開設しました。4月21日にオンラインで法人口座開設を申し込み、連休を挟んで、本日5月9日に支店へ出向き、開設手続を行いました。
前もってメールで指示された書類を持参し、いくつかの表記ミスを訂正する作業などをした後、しばらく待たされましたが、「事業内容について少し詳しく教えてください」と言われたので、定款のコピーも提出してお話ししたら、あっさりと了解されました。

そして、そのまましばらく待った後、法人口座が無事に開設されました。きっと、また後日出向く必要があるのだろうと思っていたので、今日の午前中で開設できたのはちょっとびっくりでした。

なお、T銀行でもM銀行でも、法人向けのインターネットバンキングを申し込んだのですが、こちらの手続は、後日、キャッシュカードやトークン(乱数表を発生させる小さな道具)が届いてからインターネット上で手続きをする、ということで、まだしばらくお預けです。M銀行は、オンライン申込だと通帳が発行されないので、しばらく何も取引ができない状態です。

最後の3つ目は、インターネットバンキングで有名なR銀行です。4月28日に法人口座申込書類を送付しましたが、連休中のせいか、「受け取った」というメールの後に「まだ申込されていない」というメールが来るなど、ちょっと混乱しました。

そしてようやく本日(5月9日)、先方から電話があり、いくつか事業内容等について質問がありました。一つ一つ誠実に答えていたのですが、ちょっとカチンとくることがありました。

それは、事業実施状況の分かる資料(契約書など)を送ってほしい、というのです。こちらは設立してまだ1カ月弱で、銀行口座も整えている段階で、法人としての事業などまだ実施できる状況ではないのに、事業実施状況の分かる資料などはあるはずがないのです。それでも、先方は、「それがないと手続ができない」の一点張り。

R銀行は、法人口座の新規開設がしやすい銀行として、ネット上では推奨されていますが、実は、事業実施状況の資料がないと法人口座を作れないようなのです。つまり、全く初めて事業を始めるスタートアップの起業家、ビジネスは初めて、という方々は、R銀行での法人口座開設は難しいと思ったほうが良さそうです。

この点について、電話をかけてきたR銀行の担当者には何度も確認しましたが、答えは「法人口座開設はできない」でした。

初めてビジネスに挑戦される方で法人口座を開設したい方々には、ネット上の「開設しやすい」という評判や情報とは裏腹に、実はR銀行では難しい、R銀行に法人口座を作りたいならば設立後1年程度たってからのほうが良い、ということをお知らせしたいです。

私の場合は、個人事業主のときの事業での契約書1つを送ってくれれば良い、ということになりました。

でも、さらに驚いたのは、その追加資料を「ファックスで送ってほしい」と言われたことでした。店舗を持たない、インターネットバンキングのR銀行が、まさか前時代的なファックスでの送付を求めてくるとは。

R銀行にはこれまで個人口座等でずっとお世話になり、使い勝手の良さを認識してきましたが、今回のやりとりで、ちょっとガッカリな気分になりました。この銀行は、自分たちのグループで派手にEC事業を行っている一方で、新規スタートアップや初めてのビジネスを行う方々を応援してはいない、と認識しました。残念です。

R銀行へ追加資料を送ったからといって、口座開設が進むかどうかは分かりません。電話をかけてきた担当者は、1ヶ月ぐらいかかるときっぱり言いました。R銀行の法人口座が開設しやすい、というネット情報は嘘のような気がしてなりません。

というわけで、今のところ、サービスでは最もクラシックに見える福島のT銀行に一番の親近感を覚えてしまいます。また、都市銀行のM銀行にも法人口座を持てたのはありがたいです。残りのR銀行がどうなるかわかりませんが、とりあえずの法人口座開設の顛末でした。

2020年について改めて思う

今から4年近く前の2013年9月5日、私は以前のブログで、東京オリンピックへの立候補プレゼンテーションに関連して、少し書きました。よろしければ、以下のリンクをご覧になってください。

 「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

私の東京オリンピックへの感じ方は、あのときからあまり変わっていません。心から歓迎する気持ちには今でもどうしてもなれません。

その後、ロゴの剽窃疑惑やら、国立競技場の建て替え問題やら、テニス会場を巡る都市間での諍いやら、オリンピックというビッグ利権に群がるハイエナたちの様子が感じられます。

オリンピックとは直接関係なくとも、オリンピックを理由にした様々な思惑もどんどん出てきています。築地市場の移転問題も、オリンピックに間に合うように環状2号線の建設を進めたいということも事の一端だったと思います。

オリンピックが開催される2020年を新しい日本の門出の年にしたい、と勝手に思う野心的な政治家たちが正々堂々と現れ出しました。

最も驚いたのは、5月3日、日本のメディアがこぞって、安倍首相の「2020年の憲法改正を目指す」という発言を一大事としてトップで取り上げたことです。

この発言は、改憲を目指すグループの集会へのビデオレターの中でなされたもので、素直に考えれば、国民全体へ向けたものではなく、自分のお仲間の仲良しさん向けに話したものと思われます。

しかし、必然的にそれは、国民全体へ向けたものになることは明らかでしたし、その効果を狙っていたはずです。そろそろ「空気」を作ってもいい頃だ、メディアも国民も「忖度」し始める頃だろう、というタイミングでしょう。たとえそれが自民党総裁としてでも首相としてでもなく、一改憲論者の個人として話したものだったと言い訳しても、それは通らないことは明らかです。

実際、自民党の憲法改正の議論の結果として出てきた内容ではなく、今後の政治運営上の政党間連立として他政党を取り込むための便宜的な内容でした。たとえば、自民党は民主党政権時代に高校教育無償化には批判的だったのに、今回の発言では、高校教育無償化をするために憲法改正をするかのような、よく訳の分からない話になっています。

そもそも、憲法を遵守すべき首相です。その首相が、自分が総裁を務める政党内での議論を踏まえず、自分で勝手に、憲法改正を目指すことにとどまらず、そのスケジュールまで明言するというのは、明らかにやりすぎではないかと思うのです。

メディアは、共謀罪の話をチラつかせながら、何となくこれから言いたいことも言えなくなってきそうだ、という「空気」を世間に振りまき、自分の首をどんどん閉め始めて自分で苦しくなっています。何となく自分の意見を言いづらいような、誰かに監視されるという恐怖をこれから感じるようになるのか、といった不安を掻き立てています。

たくさんの、ときには国家や組織ぐるみの嘘が巧妙に組み込まれ、嘘と分かっていてもそれを受け入れざるをえない、そうしなければ国家がいつ自分を犯罪者扱いしないとも限らない、という空気。一握りの人間が自分だけを守るために嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

東日本大震災のあと、原発事故が起こったとき、権力者や大企業はそこに住む人々に嘘をつき、守ってくれませんでした。その後、取ってつけたように、国民を守るフリをしました。あのとき本当は何があったのか、その真実を明らかにしてしまったら、今までの全てが無意味になってしまう。そう思った一握りの人間が嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

あのときの福島が、今では日本になってしまったのでしょうか。嘘だと分かっても仕方ないと割り切って従順になることが大人になることなのでしょうか。私たちはそのように子供たちを教育していくのでしょうか。

そんな教育を受ける子どもが自分の夢を語れますか? 嘘をついてはいけないよ、と子どもに言えますか?

そのように嘘の連続ををつかれてきたということでは、沖縄も、水俣も、他の国家権力に立ち向かわなければならなかったところも同じだと思います。

2020年の東京オリンピックで日本が変わるのではありません。私たちが子供たちの夢を叶えさせてあげたい、正直で真面目に生きたものが報われるような社会にしていきたい、そういう思いが否定されない世の中。それを大人が子供の鏡となって子供に見せられる世の中を作っていく。そうした日々の積み重ねが社会をより良い方向へ変えていくはずです。

そんなのはもう無理なんだ、諦めてくれ、と子供に言いたくはありません。

Kami Membantu Studi Banding dari Indonesia ke Jepang

Kepada Bapak/Ibu di perusahaan, pemerintah daerah, perguruan tinggi dll, saya membantu studi banding Bapak/Ibu dari Indonesia ke Jepang !

Kami berkonsultasi dengan Bapak/Ibu tentang tujuan kunjungan (terutama kota/desa mana di Jepang), jadwal, transportasi, tempat menginap, perdampingan, penerjemah dan macam-macam terkaitan dengan kunjungan ke Jepang.

Kami bisa menerima “perencanaan, kontak dengan pihak Jepang, perdampingan sekaligus penerjemah pada rombongan di Jepang, dan diskusi selama di Jepang” sebagai satu paket konsultasi.

Kami bisa mencari dan membawa rombongan Bapak/Ibu ke kota lokal di Jepang yang cocok sebagai tujuan kunjungan.

Jika ada yang berminat, silahkan kontak saya lewat message atau email.

 

インドネシア(とくに地方)へのツアーをお手伝いします

【インドネシアへの視察、研修、スタディツアーをお考えの企業、自治体、大学などの皆様】

●松井グローカル合同会社では、ツアー内容の企画、訪問先の選定、交通手段や宿泊先などのご相談、実際の同行・引率などのお手伝いをいたします。

●必要であれば、企画から実施・運営までを一括受託いたします。とくに、インドネシア国内の地方へのツアーに対応可能です。

●ご興味のある方は、お気軽にお問い合わせください。先着順で対応させていただきます。

成長しなかった子供のように常に原点へ戻る

大学を卒業して初めて就職した研究所にインドネシア研究者として23年間奉職し、退職してからすでに9年が経ちました。大学を卒業して社会人になったとき、これからの人生でこんなことをしたい、と思ったことがありました。

それは、地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。援助とかではなく。ものすごく抽象的ですが、そんなことを思いました。

ではどうして研究所に入所したのかというと、まずは、世界中のどこか、自分が最も深く付き合っていけるところのことを知らなければならない、できればそこのところに関するプロフェッショナルになりたい、と思ったからでした。

研究所に初めて出勤したときに、上司から「君はインドネシア」と担当国を告げられ、私のインドネシアとのお付き合いが始まりました。インドネシアのことを全く知らないゼロからの出発でした。インドネシア語を学び始め、インドネシアで発行された英字紙を毎日読んでメモを取り、上司から指示された課題図書を読み、「何も知らないからすべて勉強」と納得して、自分の能力のなさを痛感しながら日々を過ごしていきました。

仕事は調査研究でしたから、先輩や同僚のほとんどは、研究所を退職すると大学の先生になっていきました。過去、私にも数件のオファーがありましたが、タイミングが合わず、結局、お断りしました。

研究所に入って間もない頃、ある尊敬する先輩ベテラン研究者の方が「どうしてみんな大学へ移ってしまうのだろう。専門性を活かしてジャーナリストやビジネスの世界へ行ったっていいはずなのに」とおっしゃっていたのを今も鮮明に覚えています。

私自身、あまのじゃくのせいか、いつも本流ではなく傍流、アウトロー、人とは違うことをしたいと思っていたからかもしれませんが、自分が他の先輩や同僚のように大学へ移ることに疑問を持っていたことは確かです。

研究所を退職してからは、決して順調というわけではありませんでした。専門家の仕事を受けてはいましたが、収入が不安定になると、毎月決まった給料を得られるということがいかに安心だったかということをしみじみ感じました。

教えることが好きな自分は、やはり大学への就職を考えたほうが良いのか。そんなことも思って、教員公募に応募したこともありますが、幸か不幸か、採用されることはありませんでした。他の方よりも能力が劣っているからだと自分を卑下し、そんな自分が嫌になることもありました。でも、幸運にも、どんなときでも家族が支えてくれました。

そして、自分はまだ、研究所に入ったときに思った原点へ戻ることができました。地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。まるで成長しなかった子供のままであるように、今でもまだ、それを追い求めているのでした。

これまでの人生には、色々な選択がありました。その一つ一つを考えたとき、正直、後悔することもなかったとは言えません。でも、これまでの選択が最良だったと自分に言い聞かせて前に進むしかない、と、ようやく、本当に思えるようになりました。誰かの真似でも後追いでもなく、自分にしかできない人生を歩んでいく。最近、そのように悟れるようになった気がします。

福島市を拠点に松井グローカル合同会社を立ち上げたのも、その悟り、というか、区切りのように思います。世間では定年を意識する年齢になりましたが、その意味での私の定年は9年前に終わっています。ちょっとここまでくるのにのろのろしましたが、むしろこれからが本番、という気持ちです。

ダイアローグ・イン・ザ・ダークを初体験

前々から絶対に参加したいと思っていたダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)。視覚障害者のアテンダントの声を頼りに、何人かのグループで、視覚以外の全感覚を使いながら、真っ暗な暗闇空間で一緒に過ごすイベントです。

 ダイアローグ・イン・ザ・ダークのホームページ

これまで、タイミングがなかなか合わず、参加できていなかったのですが、比較的時間のあるゴールデンウィーク中の今日、お一人さまで参加できるプログラム「一期一会」に参加してきました。下の写真は、DIDの会場への入口です。

定員8名に対して、参加者は7名。全くの見ず知らずの参加者どうし、本名も名乗らず、ニックネームで呼び合い、そのニックネームもなかなか覚えられない、という状態でスタートしました。

まず、薄暗い部屋に入って、参加者は自分の使う白杖を選び、アテンダントから白杖の使い方を学びます。そして、すぐに真っ暗な空間へ入っていきます。

アテンダントの声のする方向や場所を推しはかり、自分の持つ白杖と近くにいる参加者の存在を頼りにしながら、少しずつ前へ進んでいきます。周りは真っ暗で本当に何も見えません。アテンダントの励ましの声、音や匂い、参加者の人間の体のあたたかさを感じながら、徐々に暗闇に放り出された不安が少なくなっていきます。

暗闇の中で、参加者どうしでいくつかのゲームというか遊びのようなことをやり、それが意外に盛り上がったのですが、何をやったかはここではあえて書きません。コースや季節によっても中身が色々変わるようですので、興味のある方は、ぜひ、ご自分でDIDに参加して、体験してみてください。

個人的に、DIDにはずいぶん前から興味を持っていましたし、彼らの活動やそれについて書かれた書物から様々な学びを得てきました。

そうした予備知識が前もって色々入っていたせいか、今回のDID初体験でも、私自身の人生観が変わるほどのインパクトを得たようには感じませんでした。ただ、このDIDのエッセンスをどのように自分の今後の活動に生かせるか、ということを考えていました。

私の福島市のオフィスのある敷地内には、中がほぼ真っ暗になる蔵があります。そこを使って何かできそうな予感がしています。

DIDを行うには物理的な広さや建物の構造、アテンダントの育成など、様々な条件があるでしょうから、そう簡単にどこでもやれるわけではありません。DIDのための適切な場所を探すのも簡単ではないと思われます。

でも、このDIDは一度はすべての人が体験したら良いのではないかと思いました。ささやかな時間ではあっても、日頃、人間としての自分が忘れかけていた何かをきっと思い出すことができるひとときになり、それをふとした機会に思い出すのではないかと思います。

そして、もうすでに取り組まれているのかもしれませんが、外国人留学生とかインバウンドで外国から来る観光客の方も、気軽に体験できるといいなと思いました(たとえば、東京観光ツアーの中にオプショナルとして組み入れるとか)。そんな参加者のなかから、自分たちの国でもやってみたいと思う人が出てこないとも限りません。彼らと一緒に外国語プログラムを検討してみることもできるかもしれません。たとえば、今、宗教的なものを見た目で判断しがちなインドネシアに導入できないかな、とも思いました。

DIDは進化し続けます。今年になって、高齢者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・ウィズ・タイム」、聴覚障害者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・イン・サイレンス」を開始しています。こちらの今後の展開も大いに注目されます。

大事なことは「ダイアローグ」です。勝ち負けを重視するディベートではなく、勝ち負けにつながりがちなディスカッション(議論)でもなく、すべての話者が互いを尊重して気づきやインスピレーションが促されるダイアローグ(対話)こそが、これから益々重要になってくると確信します。私の活動でも、このダイアローグを最重視していきます。

ともかく、今日、DIDを初めて体験できて、ようやく本当にDIDのサポーターになれたような気分です。ぜひ、皆さんもご自分で体験されて、ダイアローグの力を感じ取っていただければと思います。

飲めないのに飲んでしまった福島の日本酒の美味しさ

5月1日の夜、福島のオフィスを訪れた2人目の来客であるジャーナリストの友人と夜、義妹が勧めてくれた福島市内の店「はりまや」にて、美味しい料理とともに、日本酒をゆったりと飲みました。

私はアルコールが苦手で、ビールをコップ1杯飲むだけで、顔がすっかり真っ赤になってしまいます。家でも晩酌をしたことはおろか、クリスマスの時のワインなどを除いて、アルコール類を飲むこともありません。

これまでは、アルコールを飲むと、持病の気管支炎のせいか呼吸が苦しくなることが多く、友人たちと飲むときも、ビール1杯程度で抑えるようにしていました。

しかし2月に、インドネシアのスラバヤへ出張した際、ご一緒した大阪の中小企業の社長さんがお酒が大好きで、毎日お付き合いすることになり、なんだかんだと飲まされてしまいました。その多くは日本酒で、しかも一升瓶を5本も机の上に並べ、スラバヤのウワバミのような華人の傍に無理やり座らされ、相手をさせられたのですからたまりませんでした。

でも、今回の日本酒は、本当に美味しいと思いました。福島の日本酒3本の飲み比べ、しかも頒布会のときだけに出された珍しい貴重なものとのことでした。

上写真の左から「写楽」純米吟醸短稈渡船、「天明」純米瑞穂黄金の生、「風が吹く」純米吟醸中取りの生、です。「写楽」はフルーティーな味わい、「天明」はスキッとした味わい、そして「風が吹く」はまろやかな味わいでした。いずれも、会津の歴史ある酒蔵で造られたものとのことでした。

ジャーナリストの友人も大の酒好きですが、食事も美味しく、話題も興味深かったせいか、頭がクラクラするような酔いにはならず、美味しい日本酒をいただいた満足感でいっぱいになりました。

そして、調子に乗って、もう一つの飲み比べもしてしまいました。こちらは、山形の酒2本と新潟の酒1本の、日本海側の酒蔵シリーズでした。これらの日本海の酒は、先に飲んだ福島の酒に比べると、キリッとした味わいが強いように感じました。

震災前から、福島では酒蔵同士がお互いに切磋琢磨しながら、時代に合った質の高い日本酒を造ってきました。その結果、国内外の日本酒コンクールでは最高位を連続してとるなど、自他共に認める日本酒の実力県として認知されており、風評被害を乗り越えるのに大きな役割を果たしています。関係者の苦労と努力はこれからも続いていくことでしょう。

今回、福島の日本酒は美味しいと素直に思えました。飲めないのに飲んでしまった自分ですが、福島の日本酒の美味しさを伝える役目も少しは果たせそうです。

ふと思い出した農林21号のこと

福島から戻って、東京の自宅で家族とのんびり過ごしていた憲法記念日。

何気なくテレビを観ていたら、「ラブ米」というアニメをやっていました。米を題材とした作品で、農林水産省ともタイアップしているアニメらしいのですが、それを見ながら、ふと、農林21号のことを思い出しました。

昔、子どもの頃、「一番うまい米だぞ。寿司米には最高なんだ」と父に言われて、たまに食べさせてもらったのが農林21号でした。福島では当時、最上級の品質の米で、私はずっと、一番美味しい米は農林21号だと信じてきました。その後、コシヒカリやらササニシキやらがメジャーになり、いつしか、農林21号という名前を聞かなくなっていきました。

もう今やないのかと思って、グーグルで検索すると、石川県加賀市で今、農林21号の復活を試みていることを知りました。詳細は以下のページを参照してください。

 農林21号について

農林21号は手植え時代の品種で、田植え機の普及などにより機械化農業では扱いにくい品種となり、機械化に適した品種へと変わっていくなかで、農林21号の出番はなくなっていったようです。(コシヒカリに関する記述は誤っていましたので削除しました)

記事によると、私にとってはおなじみだった農林21号は北陸地方が原産で、今では「幻の米」。かつての主生産地はやはり福島県でした。そして、東日本大震災を契機に、福島県での農林21号の生産が途絶えて、「幻の米」になってしまったと言うことです。

震災の翌年、農林21号の種籾を求めて、加賀市は福島県の生産地を訪れましたが、かつての生産者のもとにも県の試験場にも種籾は残っていなかったそうです。最終的に、つくば市の農業生物資源研究所に残っていた種籾を一握り加賀市へ持ち帰り、種々の検討の結果、小学校の学習用圃場で無農薬の化学肥料不使用で栽培しました。

すると、それを聞きつけた福島県の農家が2016年、地域活性化の起爆剤として、もう一度農林21号を植えたいとして、何とか種籾を分けてもらえないかと、加賀市を訪ねてきたそうです。結局、田植え学習をする小学生たちから、福島県の農家へ苗が渡されたのだそうです。

果たしてまた、福島県で農林21号が復活するかどうか。コシヒカリに比べて収量が少なく、機械化にも適さない、肥料も多投しない農林21号は、うまくいけば、差別化された付加価値の高い、安全安心の高級米としてよみがえるかもしれません。

いったん絶えた種籾を復活させ、地域おこしにつなげた例としては、宮城県大崎市の「鳴子の米プロジェクト」の「ゆきむすび」があります。寒冷地である鳴子地方の特有種で、餅米のように粘りが強いのが特色でしたが、高齢化・後継者不足による耕作放棄などで途絶えてしまいました。

 鳴子の米プロジェクト

それを、生産者と消費者と結びつけながら、耕作放棄された田んぼで生産を復活させ、おにぎりなどの地域の食の振興を通じた地域おこしへつなげていきました。

農業機械化とともに失われていった日本各地の米の固有種のなかには、農林21号のような優れた品種が少なくなかったことと思います。安全安心とともに、他と違う美味しさが価値として求められる時代を迎え、昔ながらの手をかけた固有種の復活の機会が出てきているようにも思います。それは、既存の機械化農業とは一線を画し、むしろ希少性を価値として、その価値のわかる消費者とつなげることで生きてくるのではないでしょうか。

つい最近、農林水産省は主要農作物種子法の廃止法案を国会へ提出し、可決されてしまいました。農林21号やゆきむすびの復活は、種子に関する主権を生産者が自分の手に持ち続ける動きの一つと見なせるかもしれません。

大きな流れからすれば小さな動きではありますが、こうした動きを地道に続けていくことで、諦めない農業を生産者と消費者が一緒に育んでいくことがこれからますます重要になる気がしています。

それにしても、もう一度、あの農林21号で美味しいお寿司を食べたいものです。本当に美味しいんですから。

美しく寂しい長泥の桜

昨日、2人目の来客として私の福島のオフィスを訪問してくれたのは、ジャーナリストの友人でした。この友人が飯舘村へ行くというので、今日は、それに便乗して私も付いて行きました。

行先は、飯舘村長泥。飯舘村の中で唯一、まだ帰還困難区域に指定されたままの地区です。2013年11月27日と2014年3月10日の2回、「NHKニュースウォッチ9」で長泥地区の現状を伝える特集が組まれており、それをご覧になった方もいるかと思います。

ジャーナリストの友人の知人である長泥地区から福島市へ避難されている方と一緒に、長泥地区へ入りました。入ってすぐに、信じられない光景が目の前に広がりました。

誰もいない、静かな空間に、今を盛りと咲き誇る満開の桜でした。それはそれは、本当に見事な桜でした。

花の里・長泥。この街道沿いの桜は、長泥の人々が育て、育んできた大事な桜でした。そして、帰還困難区域となった今も、人々は避難先から集まって、ずっと手入れを続けてきました。その人々の桜に込めた気持ちと献身を思わずにはいられません。

この桜を見ながら、長泥の人々が集まって、みんなで一緒に飯舘牛の焼肉を食べるのが夢だ、と案内してくださったSさんがポツリとつぶやきました。

長泥地区には、そこに住んでいた住民の方のほか、線量を継続的に計測している大学の先生方、報道関係者、中央や県の役人、工事関係者など、許可を得た方々が訪れるといいます。そうした方々への長泥の人々の感情は、思いの外、複雑な様子です。

でも、長泥地区の除染を行うのか、行うならば除染の対象は地区全体なのか部分的なのか、いつ除染を始めるのか、現在に至るまでまだはっきりと決まっていないようです。

帰還困難区域の長泥地区の除染を本格的に開始すると、同じ帰還困難区域でもっと面積の広い浪江町や大熊町の除染も行わなければならなくなるのではないか、予算は確保できるのか、といった懸念があるのかもしれません。

その一方で、長泥地区の住民は除染をしたらここへ戻ってくるのだろうか、という問いもあります。効率性を第一にするなら、住民が戻らないところを除染する意味があるのか、という声も聞こえてきそうです。でも、住民からすれば、元に戻してもらうことが先決で、長泥へ戻るかどうかはそれから考えるというのが筋とも言えます。

飯舘村の大半の地区が住民帰還や復興事業の話へ傾斜していくなかで、帰還困難区域の長泥地区だけが取り残され、置いていかれるような感情を抱くのは当然のことのように思えます。でも、長泥が元どおりになることを、半ば諦めてしまうような気持ちも伺えます。

長泥地区の未来をどのように描くのか。いつまでに除染を行う、このような順番で除染を進める。それが本当時実現できるかどうかは別としても、未来への不確実性を少しでも減らす努力をしていかなければならないでしょう。

長泥の桜は、信じられないくらい美しく、そして寂しく咲いていました。

<急募>主任日本語教師求む

私の友人がインドネシア人向けの主任日本語教師を探しています。

条件は日本国内の日本語学校で3年以上勤務経験あり。国籍問わず。勤務地は大分県佐伯市。待遇はかなり良いようです。勤務開始は2017年5月中。

興味のある方、心当たりのある方は、私までFBメッセージまたはメール( matsui@matsui-glocal.com )にて早めにご連絡ください。

2017年4月30日、福島

松井グローカル合同会社が福島で迎えた最初の来客は、4月30日、私の友人であるインドネシアの作家・ジャーナリストで、2011年からマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)を主宰するLily Yuliantiさん。彼女は、福島の詩人である和合亮一(Ryoichi Wago)氏と面会し、東日本大震災後の日本現代文学について意見交換しました。

30 April 2017 di Fukushima

Pada tanggal 30 April, tamu pertama untuk Matsui Glocal LLC di Fukushima adalah teman baik saya, Ibu Lily Yulianti, seorang penulis dan jurnalis Indonesia, dan penyelenggara Makassar International Writers Festival (MIWF) sejak 2011. Lily bertemu Mr. Ryoichi Wago, seorang penyair di Fukushima, untuk membahas tentang Sastra Kontemporer Jepang setelah bencana Gempa Bumi dan Tsunami Jepang Timur di 2011.

1 35 36 37 38 39 75