下北沢の不思議な店でスープカレー

本当に久しぶりに、東京・下北沢へ行きました。

何を食べようか迷った末、スープカレー屋へ。実は、下北沢は有名なスープカレー屋が3〜4軒もある、スープカレー好きにはたまらない町でした。

寒い風が吹き付けるなか、今回訪れたのは、スープカレー・ポニピリカ。下北沢の北、肉屋直営のバルの上の2階にある、なかなか居心地の良い店でした。

スープカレー自体は、皮カリカリのチキン、チキンと野菜、野菜、ベーコンと野菜などから選び、ザンギ(タレに染み込ませた鶏の唐揚げ)、焼きチーズ、きのこ4種などからトッピングを選び、辛さのレベルとご飯の量を選びます。スープは、トマト、魚、エビの3種類のベースから一つを選びます。

今回は、特別メニューであるエゾシカ肉のハンバーグと野菜に、ザンギときのこ4種をトッピングし、辛さはやや辛の3、ご飯は普通盛り、スープはトマトベースを頼みました。

これまで、スープカレーというものをほとんど食べたことがなかったので、どう食べたらいいのか、よくわからなかったのですが、店のテーブルに食べ方が紹介されていました。

それによると、(1)スープを味合う、(2)ご飯をスプーンに乗せて、スープに浸して食べる、(3)スープの具を食べる、(4)最後にご飯をスープの中へ入れて、おじやのようにして食べる、ということのようです。まあ、どのようにして食べてもよいのでしょうが・・・。

この店のスープカレーは、注文を受けてからスパイスを配合するため、出てくるまで時間がかかるとされていますが、出てきたものは、予想よりもしっかりスパイスが効いていて、丁寧に作ってある印象があります。なかなかの美味しさでした。

この店は居心地がよく、すっかり落ち着いてしまったのですが、店の中に色々面白いものがありました。たとえば、画面に映し出されたクイズに全問正解するとカレーがタダになるとかいう「クイズBOX」というのがあり、他の客が挑戦して、ピンポーン、ピンポーン鳴っていました。今やレアな品らしいです(下写真の右側、カップルが遊んでいる機械)。

他には、次のようなラクダの人形。

吊る下げられたポーチからちょこんと顔を出しているなあ、と思って、中から取り出すと・・・。

ゼンマイ仕掛けの動くラクダさんでした。これはどの外国製のおもちゃなのでしょう?

机の上には、ヨーロッピアンな男の子の像がありました。他の机の上には、また別々の似たような像が置かれていました。

丁寧に作られたスープカレーを美味しくいただき、食後に飲んだオーガニックスパイスのチャイ(ホット)もいい味でした。

この店のホームページも、なかなか面白いです。

 スープカレー ポニピリカ

下北沢では、小田急線が地下になり、ガード下に密集していた商店が撤去され、駅前がきれいになって、昔の面影が失われつつあるように感じました。それでも、ちょっと北側を歩くと、シモキタらしさがまだ少し感じられるのでした。

「バレンタインデーを祝わないように」との通達

明日2月14日はバレンタインデー。日本で最もチョコレートの売れる時期でもありますが、インドネシアも、今ではバレンタイデーが有名になりました。

そして、毎年のように、「バレンタインデーを祝わないように」という呼びかけが出されます。

たとえば、首都ジャカルタの南隣にあるデポック市は、優秀で想像力に富み、宗教的で競争力のある人材を作り、将来に活躍する最良の世代を準備するため、2017年2月8日付市教育局回状を通じて、次のことを求めました(元のDetikの記事はこちら)。

1.生徒に対しては、学校内外でバレンタインデーを祝わずに、インドネシアの東洋的な文化価値に沿ったポジティブな活動に勤しむことを期待する。
2.生徒の親に対しては、子供たちを誘って家の中あるいは外で、家族の調和やつながりを高めるレクリエーションなどで一緒に過ごすことを望む。
3.すべての学校関係者は、学校内におけるインドネシア民族の代々伝えられてきた文化価値を踏まえた性格や態度を根付かせることを願う。

この通達の文面を見る限り、デポック市は、イスラム的価値にふさわしくないからバレンタインデーを祝ってはならない、と言っている訳ではないことがわかります。

この通達は、バレンタインデーそのものを批判している訳ではありません。そうではなく、最近の若者たちのバレンタインデーの過ごし方が尋常ではなくなっていることへの懸念が強く表れています。

以前聞いた話では、バレンタインデーに異性と食事やデートするだけならともかく、未成年どうしで外泊したり、バイクで走り回ったり、アルコールを飲んで騒いだり、とにかく風紀がものすごく乱れているということでした。どうやら、若者たちが自分たちの行動を自制できない事態が多々起こっているようなのです。

話は変わりますが、インドネシアのコンビニでビールが売られなくなり、在留邦人や日本人出張者の間でずいぶん話題になったのを覚えている方も多いと思います。

それを「イスラム教の影響が強くなっているから」と解釈する向きもありましたが、必ずしもそうではありません。

実は、コンビニが未成年者へアルコール類を売ってしまい、それを飲んだ若者が騒ぎを起こすという事件が相次ぎ、なかには、メチルアルコールにまで手を出して飲んで死んでしまう事件が起こるに至り、アルコール類の販売禁止策が出されるに至った、という経緯があります。

コンビニでのアルコール販売禁止も、今回のバレンタインデーを祝わないようにという通達も、自制できない若者たちを鑑み、彼らが欧米の真似をしてそれにうつつを抜かしている状況を懸念した、風紀の乱れ対策と見るのが適当かと思います。

しかし、この風紀の乱れに歯止めがかけられないと、イスラム法で治める以外に手段はない、という声が出てきてしまいます。すなわち、頼れる規範がイスラムしかないと考える向きが強まるのです。本当に風紀の乱れ対策をいろいろ考えてやったかどうかは分かりませんが、イスラムを出すほうが手っ取り早い、と考える人々も多いと思われます。

かつて、汚職撲滅が進まないのは世俗法で処しているからであって、イスラム法の世界になれば汚職は摘発できる、と汚職構造の抜本的改革にはイスラム主義で処するしかないという考えが現われたことがありました。インドネシアで10数年前、イスラム国家か世俗国家という議論が現れた背景には、こうした汚職対策への無力感がありました。

そして、イスラムの名を使いながら、そのような状況を利用しようとする政治勢力も現れてきます。

うがった見方をすれば、バレンタインデー反対に象徴されるのは、己を忘れ、欧米から入ってきた風習を無批判に無節操に受け入れ、それを自分でコントロールできないように見える若者たちを、東洋的とか土着文化とかいう曖昧な概念を用いて、インドネシアという国家に引き止める方策にも見えます。

本当に重要なのは、自制できる若者をどのように作っていくか、ということでしょう。それは、自分で分別をわきまえ、節度ある行動のできる若者になっていくことであり、それは今の教育のあり方と深く関わってくると思われます。

でも、どうしてこんな風になってしまったのか、とても不思議な気がします。

というのは、私がジャカルタに住んでいた1990年頃は、キリスト教徒以外は、誰もバレンタインデーなど祝っていなかったからです。それも、好きな相手に花束を贈る(多くの場合は男性から女性へ)のが一般的で、「日本では女性が男性にチョコレートを贈るのが流行っているんだ」というと、皆んなから「変なの!」と言われたものでした。

今では、インドネシアでも、バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るのは普通のこととなりました。これは日本の真似なのでしょうか。

東京・銀座のリンツカフェの
チョコレートアイス&クレープ

イッツベジタブルは日本で一番新しい台湾料理の店 !?

妻と待ち合わせて、どこで夕食をとるか色々悩んだ末、錦糸町の台湾料理屋に行きました。総武線の高架下にある、その店の名前は、イッツベジタブル(苓々菜館<りんりんさいかん>)。

実は、台湾では精進料理も有名らしいのですが、台湾へ行っても、まだ食べたことはありませんでした。どんな精進料理なのか、楽しみに行ってみました。

肉、魚、卵だけでなく、ネギもニンニクも使わない、調理にアルコールも使わない(注:ただしビールなどアルコール飲料は置いてある)、全素、完全素食、ベジタリアンの台湾料理を出す店です。この店では、大豆のたんぱく質を使って、肉・魚風の料理を再現しているのです。

せっかくなので、野菜ではなく肉・魚風のものを注文してみました。まず、次の3品を注文しました。

「豚肉とセロリの炒めもの」のようなもの 

「ローストチキン」のようなもの

「揚げ魚の豆鼓ソース」のようなもの

これらをおかずに、玄米ご飯を食べました。

脂っ気があまりなく、あっさり味なのですが、ソースが絶妙に美味しく、とくに、「ローストチキン」のようなものは、鶏肉のような肉の細い筋があるような歯ごたえで、本物と変わらない味わいでした。

ちょっと物足りなかったので、さらに2品を追加しました。

「肉シューマイ」のようなもの

担仔麺(チャーシューのようなもの+肉味噌のようなもの)

テーブルの上には、素食がいかに素晴らしいかについて書かれた「苓々菜館の気持ち」と、「なぜネギもニンニクも使わないのか」の説明が書かれた紙がラミネートされて置いてありました。

たとえば、ネギやニンニクには薬効があっても、それは薬である以上、摂りすぎるのは毒になる、と書かれてありました。また、「感謝の気持ちをもって食事をいただく」といった、素食を食べるときの作法についても書かれていました。

この苓々菜館は、東京に住む台湾人留学生らがよく集まる場所にもなっているようで、レジには「台湾で中国語を学ぼう」という本も売られていました。高雄に留学した若者が2年間でマンダリンと福建語をマスターした、と店の主人が言っていました。

そして、最後の1個だったこの店の手作りの特製パイナップルケーキをゲットして、店を後にしました。台湾のお菓子も色々出しているようです。

台湾素食といえば、この店とは違う店ですが、私が大学生の頃、通っていたキャンパスの近くに、やはり台湾素食の小さな店があり、ヘルシーな弁当などで知られていました。中一素食店という名前の店ですが、今では、六本木にも支店を出す有名店になっていました。

店の外に出ると、いくつもの標語の書かれた看板がありました。

日本で一番新しい台湾料理。世界一安全な食事。野菜がいっぱい。大豆がいっぱい。

このバイクで、「ダイエット弁当」を配達してくれるようです。

店の雰囲気も家庭的で、居心地も良いので、オススメです。台湾高山烏龍茶もとても美味しくいただきました。

さて、次回の錦糸町は、こちらの予定。

福島のあんぽ柿をいただく

月曜日の会でご一緒した、元飯舘村、今は避難先の福島市の椏久里コーヒー店のマスターから、お土産であんぽ柿をもらいましたので、早速いただきました。

あんぽ柿というのは、福島では干し柿のことを指します。渋柿を硫黄で燻蒸して、屋根の軒先に吊るして、吾妻山系から吹きつける北西の冷たい風にさらして乾燥させます。普通の干し柿だと、乾燥させると黒く固くなって糖分の粉を吹きますが、あんぽ柿はそうならず、半生のような感じで、甘くて柔らかいのです。なお、硫黄は揮発するので、毒性はありません。

主産地は、宮城県境に近い福島県伊達市梁川町五十沢(いさざわ)地区で、11〜2月が収穫・出荷の最盛期となります。

もともと、この地域は幕末の頃から養蚕が盛んでしたが、大正期になると生糸産業が衰退へ向かいました。その頃、五十沢の有力者たちが養蚕に代わる農産物を探し求め、その結果、あんぽ柿をはじめとする果樹産品への転換が進んでいったとのことです。

あんぽ柿の袋には、検査済みマークが貼られています。福島県あんぽ柿産地振興協会が放射性物質の検査を行い、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)を満たすものだけを出荷しています。

あんぽ柿の放射性物質検査情報は毎週更新され、以下のサイトで見ることができます。

 あんぽ柿検査情報

東京電力福島第一原発事故から2年9カ月後の2013年12月になって、あんぽ柿の出荷は再開されました。しかし、あんぽ柿は、柿を乾燥させるため、乾燥に伴って柿の中の放射性物質濃度が高まる恐れがあるため、出荷にあたっては、これまで細心の注意が払われてきました。

実際、福島県は、2016年12月15日付で、「あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について」という通達を出しました。現状で基準値を超えるものはほとんど出ていないものの、さらなる万全を期すために、監視を続けていく姿勢を示しています。

 あんぽ柿・干し柿等の「カキ」を原料とする乾燥果実の加工自粛と一部出荷再開について

あんぽ柿の出荷が再開されたとはいえ、基準値を上回るものは市中に全く出回っていないとはいえ、まだまだ監視の目を緩めるわけにはいかないのです。

福島県は、「基準値を超える可能性があると判断した市町村は加工自粛するように」と呼びかけていますが、今のところ、そのような市町村はないようです。これも万が一に備えての呼びかけであって、もうすでに危ないから自粛を呼びかけているのではありません。

あんぽ柿の検査プロセスは、以下のサイトに図解されています。すべてのあんぽ柿が全量非破壊検査を受け、食品衛生法に定める一般食品の基準値(キロ当たり100ベクレル以下)よりもずっと厳しいスクリーニングレベル、すなわちキロ当たり50ベクレルを超えたものがトレーに混じっていれば、そのトレーの柿はすべて廃棄する、としています。

 平成28年度あんぽ柿の検査イメージ

福島県から出荷されるあんぽ柿は、全量、サンプルではなくて全量、放射性物質検査を受けています。その数は、2016年11月〜2017年1月で314万7768個です。そのうち、キロ当たり50ベクレルのスクリーニングレベルを超えたものはわずか1955個(すべて廃棄)で、キロ当たり25〜50ベクレルが4万6320個、測定下限値のキロ当たり25ベクレル未満が309万9493個でした。

特筆できるのは、上記について、その検査結果がすべてデータとして残されている、ということです。どこから出荷されたあんぽ柿のいつの放射性物質検査結果がどうだったのか、というデータがすべて残されているのです。

福島県では、米の全量全袋検査が今も継続されていますが、たとえば、平成26年産米では、2014年12月31日までに1077万点以上を検査し、基準値超えは0点でした。これも、すべてデータが残されています。

日本の他の都道府県・市町村で、福島県よりも厳しい放射性物質検査を行っているところはあるでしょうか。それらが福島県のものよりも安全だと客観的に示せるデータを持っているでしょうか。

外国へ日本から農産品を輸出する際、放射性物質に関する客観的なデータを求められることがありますが、それに日本で対応できるのは、実は福島県だけなのではないでしょうか。

言われのない中傷や風評がなくならず、避難した子どもがいじめに遭うなど、福島をディスる動きはまだなかなか消えませんが、そんな中で、農産物の放射性物質検査を根気強く行い、データを残すという、地道な努力を続けてきた福島は、市場の評価とは裏腹に、いつの間にか、客観的な安全安心のトップランナーになりつつあるのです。

こうした安全安心への地道な取り組みを見ているのは、日本国内だけではありません。世界のバイヤーが見ています。安全安心を求める世界の農業関係者が見ています。

福島の農産物を食べないのはけしからんとは思いません。食べてくださいと懇願するつもりもありません。食べるか食べないかは個々人の自由な判断によるからです。

でも、何の客観的根拠もなく、福島を心配するようなふりをして、福島のものを食べる人をディスるのはやめてほしいのです。心の中で福島をディスるのは個人の自由ですが、それを口に出す必要はないはずです。

今は検査結果が良くても、来年も再来年も大丈夫だとは言えない。その思いは、未来に対して謙虚だからこそ、なのです。それゆえに、万が一に備えた条件付きの「加工自粛」を呼びかけたり、膨大な検査データを残し続けているのです。

もしかすると、この福島の安全安心への地道な取り組みが、世界の安全安心へのモデルとみなされていくかもしれません。

あんぽ柿を作っている農家さんの姿を想像しながら、そんなことを思いました。そして、がぶっとかじった柿は、甘くてとても美味しいのでした。

35年ぶりのどら焼き

今日は午後、独立ジャーナリストとして活躍中の友人に、ジャカルタで知り合ったインドネシア人のコンサルタントである友人を紹介しました。そして、これから一緒にやっていけそうな幾つかのアイディアを一緒に話し合う、という刺激に満ちた会合となりました。

また、別の友人夫妻と新宿で夕食をご一緒することになっていたのですが、それを前にした夕方、どうしても小腹が空いてしまい、でも食事を摂るほどではない、という状況になりました。

そのとき、ふと目の前に現れたのが時屋。新宿西口の昔からある甘味喫茶店で、有名なのはどら焼きです。そうだ、久々に時屋でどら焼きを食べよう、と店に入りました。

店内の客は1人のみ。店の外ではたくさんの人々が行き交っているのに、時屋の店内は、まるで別世界のように静かで、店内も昔と全く変わっていませんでした。

そう、昔、35年前、まだ大学生だった頃、この店に入りました。当時、大学のサークルで渉外を務めていて、女子大との合コン1次会の後、2次会への参加者約15人を引き連れて、店に入りました。

お目当ては、時屋のジャンボどら焼きです。この店のどら焼きは、普通サイズでも一般のものより大ぶりなのですが、ジャンボどら焼きは普通サイズのざっと見て10倍ぐらいの大きさで、これを参加者全員で分けて食べたのでした。

ジャンボどら焼きは、もちろん今もまだ健在でした。

今回注文したのは、苺クリームどら焼き。苺の甘酸っぱさ、クリームとつぶあんの絶妙なハーモニー、そしてふわっとしたどら焼きの生地(時屋という焼印があります)。これにお茶を付けて、美味しくいただきました。

35年ぶりのどら焼きを食べた時屋は、刻々と姿を変えていく新宿西口の喧騒をよそに、本当に昔の雰囲気を保ったままでした。自分にとってはホッとする場所、と思ってしまうのは、自分もまたその齢を重ねてきたことの証拠なのかもしれません。

ボリューム感いっぱいのどら焼きを食べた後の夕食は、どら焼きは別腹の如く、しっかり楽しくいただきました。その店からきっかり2時間で追い出されましたが。

新宿でハラル・ラーメンを食べる

先週、インドネシア・マカッサルから来訪した友人一家と一緒に、富士山、山中湖、御殿場プレミアムアウトレットモールへのツアーに参加した後、新宿のハラル・ラーメン桜花に連れて行きました。

この店のことは前から気になっていて、いつか食べに行こうと思っていたのですが、なかなか機会がなく、今回、友人を連れて行くという名目で食べに行くことができました。

午後7時、東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑駅近くにあるこの店に到着。すでに、店の外で5〜6人が待っていました。おー、人気店なのか。

冷たい風に吹かれながら、友人一家と待つしかありません。店の外には椅子が4つ置かれ、寒さよけの毛布も用意されていました。

お客さんはマレーシアから観光で来たカップル、インドネシア人の家族、そして我々。店の前に順番待ちの名前を書いていると、中から女性店員が出てきました。

すると、私の顔を見て、何の躊躇もなく、「今まだ時間がかかります」とインドネシア語(マレーシア語ではない!)で話しかけてきました。あれ?と気づくまで、しばし時間がかかりましたが。都内の某大学で勉強している留学生でした。

満員の店内をのぞくと、客はインドネシア人がほとんどで、他に中東系のグループ。ラーメン店なのに、なかなか席が空きません。

寒風のなか、待つこと40分。ようやく中に入れました。そして、なぜ席がなかなか開かなかったのかがわかりました。

この店の夜のメニューは3つのコース・セットしかなかったのです。スパイシーコース、普通コース、ベジタリアンコースの3つで、ラーメン以外に、鶏つくね(+80円で牛つくねも可)、ラーメンのトッピング用の鶏の焼肉・煮卵・ベビーコーン、麺を食べた後のスープをかけるご飯、がつくセットでした。

普通のような、ラーメンだけさくっと食べて店を出る、というものではありませんでした。

このセットの出てくるのに、意外と時間がかかるのでした。そして、客は、飲み物を飲みながら、このセットメニューをゆっくり食べるというスタイル。これなら、なかなか席が空かないのも無理はありません。

麺は茹で加減がちょうどよく、具がスープの中に入っていないので、スルスルと食べることができました。スープはあっさり系の海鮮味ですが、煮干やエビの味が前面に出るタイプとは一線を画していました。

私は普通セットを頼んだのですが、日本の一般的なラーメンを食べている身からすると、今ひとつ、味がおとなしすぎて、飽きてしまうような味でした。クセになるような味ではなかったです。

カウンターだけの店ではありますが、回転率の早い一般的なラーメン店とは違う店でした。お客さんは皆外国人で、日本人の客をターゲットにしている感じはありませんでした。おそらく、ハラルだからという理由で通う客はいても、常連客を狙っているようにも見えませんでした。

それでも、友人一家は大変満足し、とても感謝されました。自分一人で食べに行くことはないと思いますが、次回、また、ムスリムの友人が来訪し、希望があれば連れて行きたいと思います。

ラーメン桜花のホームページはこちら。http://www.m-ouka.jp/

今回マレーシアで食べたもの

昨日1月18日、クアラルンプールから東京へ戻りました。今回、マレーシアで食べたものは、次のようなものでした。

まずは、1月12日、マラッカの昼食で食べたカレーセット。マラッカの有名店Selvamにて。

バナナの葉の上にご飯、アチャール、野菜カレー、パパドなどが載せられ、チキンカレー、マトンカレー、豆カレー(ダル)から選んだ1つをご飯の上にかけてもらいます。合わせて、イカのサンバル煮、揚げ魚、ゆで卵カレー、マトンカレーを追加でチョイス。

飲み物はマンゴーラッシーを注文、食べた分だけ支払う仕組みです。食べ終えたら、バナナの葉を半分に畳みます。

インドのターリーとインドネシアのパダン料理のミックス、のような形に思えました。

次は、1月16日、マカッサルからクアラルンプールに夜着いて、11時半頃に食べたマトン・ブリヤニ。

長粒米のブリヤニにキャベツの炒め物とゆで卵が添えられ、その上から豪快にマトン・カレーがかけられた一品。これで11.5リンギ。ご飯の上にゆで卵が載っているのは、マカッサルの定番ナシ・チャンプルを思い出させます。
1月17日のランチは、NUセントラルのDolly Dimsum。この店は、ハラールの飲茶レストランで、ランチをご一緒した友人(イスラム教徒の女性)は前から興味があったとのこと。でも、インドネシアでは、ショッピングモールに入っている中華系レストランは、すでにほとんどがハラールなので、ちょっとびっくりしました。マレーシアの中華系レストランは、まだイスラム教徒を客としてあまり認知していない様子がうかがえます。
そして、その彼女が持ってきたモナカアイスも賞味しました。

ソルティーキャラメル味とイチゴミルク味。皮がサクサクしていて、なかなかの味でした。保冷バッグに入れてこられたのですが、食後に食べたせいか、中身が溶け始めていたのがちょっと残念。でも、このモナカアイス、クアラルンプールではけっこう受け入れられるのではないでしょうか。現在、ハラール認証申請中で、将来はフランチャイズを志向しています。インドネシアやシンガポールなどへも広がるといいな、と思います。

1月17日の夕食は、友人と一緒に新峰肉骨茶(Sun Fong Bak Kut Teh)。クアラルンプール在住者ならきっと必ず知っている、1971年創業の有名店です。今回が二度目ですが、しっかりと堪能しました。

まずは、ニラのような青菜ともやしの炒め物。シャキシャキ感がたまりません。

次は、オリジナル肉骨茶。レタスなどが入っていない、肉骨茶のなかの肉骨茶という感じの美味しさ。

ドライ肉骨茶というのも注文しました。これもなかなかいけますが、やはり、薬草などが入ったスープと一緒の肉骨茶のほうが好みです。

インドネシア・マカッサルの名物料理に、骨つき牛肉を煮込んだコンロというのがあります。通常はスープ・コンロとして汁付きですが、汁なしのコンロ・バカールがジャカルタで発明され、マカッサルに逆輸入されるということが起こりました。前々から、このコンロと肉骨茶とは、牛と豚という肉の違いはあれ、何らかの関係があるのではないかと考えています。

新峰肉骨茶での最後の締めは、豚肉ビーフン。この豚肉が三枚バラ肉で、柔らかくてとろけそう。病みつきになりそうな美味しさでした。

新峰肉骨茶を出てすぐのところに、ドリアン屋の屋台が出ていました。

猫山王というドリアンを食べさせる屋台です。この猫山王ドリアン、後で知ったのですが、黄色みを帯びて味が濃く、ドリアンの中でも最も美味しい部類のドリアンとのこと。

たしかに、ドリアンとしては小ぶりなのですが、肉厚で、味がとても濃厚でした。うーん、至福のとき。でも、1キロ60リンギと高く、これは1.5キロだったので90リンギ。結局、80リンギにまけさせて賞味しました。

クアラルンプール最後は、1月18日、KLIA2のフードコートで、チキン土鍋飯(Claypot Chicken Rice)を食べました。

タマゴが載っていて、熱々をタレ付きご飯と混ぜ混ぜして食べる、この幸せな気分。おこげもまた、カリカリしていい感じでした。

食べることで、自分が楽しく、元気になれるような気がします。今回も、「どうだ、私を食べてみよ」と言われているような勢いのある食べものたちと出会えて、元気に前向きに一層慣れたような気がします。

また、食べにきます!!

今回マカッサルで食べたもの

今回のマカッサル滞在で食べたもの(の一部)は、以下のとおりです。今回は、うんちくなしです。

Coto NusantaraのCoto Makassar

Kios Muda MudiのEs Pisang Hijau

Toarco Toraja Cafeのリングシュークリーム

Kios Ratna JuwitaのGado-Gado

Roemah PojokのNasi Kuning Ambon

他にもいろいろ食べましたが、とりあえず、今回は以上のようなものをマカッサルで食べました。皆さんのお好きなものはありましたか。

クアラルンプールで夕食中

毎日更新を目標にしているこのブログ。

日本時間で間も無く日付けが変わります。でも、まだ、クアラルンプールで友人たちとベトナム料理レストランで夕食中です。

今日は、マラッカへ行って、たくさんの写真を撮ったのですが、時間がないので、別のブログでご案内することにします。ごめんなさい。

今日は、マラッカでもクアラルンプールでもよく食べました。やっぱり、こちらへ来ると食事へのテンションが上がります。でも食事の写真を撮るのを忘れました。

夕食会の会場は、Bukit Bintangの
Sao Nam Fine Vietnamese Restaurant

入れなかったジョグジャのきのこレストラン

ジョグジャカルタの郊外、スレイマン県にきのこ料理のレストランがあるというので、知人と一緒に昼食に出かけました。

このレストラン「ジェジャムラン」(Jejamuran)、全てのメニューがきのこづくしということで、まあ、よくある地方のちょっとしたレストランだろうな、というような、あまり期待もしない、軽い気持ちで行ったら、とんでもない状況でした。

とにかく、店が広い。そして、その店が満員で、たくさんの人々が並んで待っているのでした。

きのこだらけ

きのこづくし

「しめじ」の看板

「舞茸」?の看板

奥では拡張工事中

たまたま、今日は「全国先生の日」(Hari Guru Nasional)のようで、学校がお休みらしいのと、ちょうどムスリムの金曜礼拝が終わった後、ということで混んでいたのかもしれません。でも、第一駐車場も、第二駐車場も、第三駐車場も満杯なのです。

このレストランは、様々なきのこ料理を出すだけでなく、値段も安いのが特徴のようです。今では、ジョグジャカルタ周辺だけでなく、ジャカルタや外国からも客が来る、観光スポットの一つとなっているようです。

きのこだけで、これだけ人が集まるとは驚きです。

このレストランの経営者ラティジョ氏は、1968年からきのこ栽培を始め、ディエン高原にきのこ栽培会社を立ち上げて、一時は7000人を雇用し、海外へ輸出していました。

そういえば、1993年にディエン高原へ行ったときに、大きなマッシュルーム栽培加工を行う会社があったのを思い出しました。当時のディエンでは、マッシュルーム・チップスが有名なお土産品でした。

しかし、ディエン高原の会社は、その後、経営が悪化して倒産してしまいます。ラティジョ氏は1997年、机一つで道端できのこ料理を売り始めました。客の多くはトラック運転手や田んぼから帰って来る途中の農民でした。これがレストランとなるのは2006年でした。

料理人には地元のお母さんたち、その他の従業員には、当時、砂などを運搬する人夫だった地元の若者たちに声をかけ、一人一人面接しながら雇っていったということです。他にも同業のきのこレストランができたそうですが、結局、途中で消えていったようです。

それにしても、ラティジョ氏のきのこ一筋の波乱万丈の人生を思いつつも、このレストランの繁盛ぶりはすごいとしか言いようがありません。

結局、我々は入るのをあきらめました。

たかがきのこ、されどきのこ。いつかまた、訪れてみたいと思います。

ジョグジャのワンタン麺は・・・

11月24日の夜、ジョグジャカルタでワンタン麺のはしごをしました。

ジョグジャカルタで麺を食べる、というのはある意味邪道かもしれません。というのも、ジョグジャカルタなどでこれまでに食べた麺は、コシのない麺ばかりで、美味しいと思ったものは皆無だったからです。

ミー・ジャワ(Mie Jawa)というジャワの麺があり、ガジャマダ大学の学生たちに「おいしいところがある」というので連れて行ってもらったことがあるのですが、やっぱりコシのないベチャッとした麺で、それを嬉々として食べている学生たちの味覚は違うのだ、と自分を納得させようとしたものでした。

今回食べた2箇所のワンタン麺は、その意味でいうと、麺のコシはそれなりにあり、シコシコと食べられました。どちらも、値段は1杯1万ルピア程度と、ジョグジャカルタということもあって、かなり安かったです。でも、実際に食べてみたら、その安いということの別の意味がわかってしまったのです。

その意味とは・・・。ワンタンの中に具が入っていない!! ゆでワンタンもあげワンタンも、ワンタンの皮だけなのでした。おーっ、ワンタン麺よー。

他の店は知りませんが、少なくとも今回食べた2軒とも、ワンタンの具がなかったのでした。もしも、これがジョグジャカルタのワンタン麺の標準なのだとしたら、値段は安くとも、ちょっと残念です。

バトゥでカンビンづくし

先週、仕事で行った東ジャワ州バトゥ市は、標高1000メートル弱の高原都市。富士山と同じ、コニーデ型の山々が見える、風光明媚な涼しい街です。

バトゥは、東ジャワ州随一の観光都市でもあるのですが、話によると、インドネシア国内の年間訪問観光客数でジョグジャカルタを抜いて、バリに続く第2位の地位を獲得したのだとか。しかも、そのほとんどは国内観光客、所得上昇によるインドネシア国内の観光ブームが続いていることがうかがえます。

それでも、東南アジアでは珍しいりんご狩りができるとあって、マレーシアや台湾などからの観光客がバスを連ねて観光農園へりんご狩りに来る様子もよく見られるようになりました。

仕事では、高原野菜や優良果物の大産地でもあるバトゥから、インドネシアの農業の未来を作れないか、と密かに思っているところですが、その話はとりあえず置いておいて・・・。

カンビンです。

カンビンとは、インドネシア語で山羊のこと。高原都市バトゥの夜は涼しく、気温20度以下になることもよくあります。そんなとき、体を温めてくれるのがカンビンです。

たまたま、9月に日本へ研修に行ったときに一緒だった方々とバトゥで再会し、夜、みんなでカンビンを食べに行きました。行く先は、メシール食堂(Rumah Makan Mesir)。メシールとはインドネシア語でエジプトのことです。

さっそく頼んだのが、サテ・カンビン。山羊肉の串焼きですが、東ジャワや中ジャワのさて・カンビンは、子ヤギの肉を使うので、ジャカルタで食べる硬いサテ・カンビンとは違って、柔らかいのです。

この店では、ピーナッツソースで出てきましたが、個人的には、ケチャップ・マニス(甘くてドロッとした黒豆由来のソース)と赤わけぎ+ジュルック、のほうが好みです。

サテ・カンビンに引き続いて、グライ・カンビン。ジャワ風の山羊カレー、といった趣ですが、ココナッツミルクのたっぷり入ったトンセン・カンビンよりはあっさり系です。

インドネシアと関わりだした駆け出しの頃、といえば今から30年近く前ですが、ジャカルタでよく、カンビンづくしをしていました。当時、サテ・カンビンを10串とソプ・カキ・カンビン(山羊の脚肉・臓物のスープ)という、見るからにコレステロール満載、健康に悪いよね、という見本のような食事をしました。その結果もあって、長年にわたり、高脂血とお友達状態が続いてしまっています。

さすがに、30年経った今となっては、そんな食べ方はできないのですが、それでも、バトゥの夜には、サテ・カンビンを7串も食べてしまいました。まだけっこういける?と浅はかにも思ってしまうのですが。

今回の出張前半は、体調がすぐれず、調子が良くなかったのですが、ここに来て、体調は回復し、いつもの元気が戻ってきました。カンビンのおかげもあるに違いない、と勝手に思っています。

いつもそうやって、自分はこれまで、インドネシアの食べ物に支えられてきたような気がします。

サゴやしデンプンのつくり方

昨日のブログで取り上げたサゴやしデンプンですが、いったい、どんな風に作られるのでしょうか。1999年8月、インドネシアの北スラウェシ州にあるサンギル島に行ったときの写真がありますので、それで簡単に紹介してみます。

まず、サゴやしの木を切り、細く繊維状にします。

繊維状に切ったものは下のような形状をしています。

ここから必要量を取り出します。

サゴやしデンプンを作る作業所は下のようなものです。

樋(とい)には水が流れています。

そこへ、細かく切ったサゴやしの繊維を入れます。

サゴやしの繊維がさらされた水は、白く濁って、樋(とい)を流れていきます。

樋(とい)の底に沈殿した白いもの、それがサゴやしデンプンです。後は、これを乾燥させれば終わり、なのでしょう。

これらの写真は、今から17年前のものですが、おそらく、村では、今もこんな風にしてサゴやしデンプンを作っているのではないかと思います。

昨日のブログで紹介した、最初のサゴやしデンプン(アルファマートで売られていたもの)は、実は、私の友人の友人が関わって製造しているものであることが、フェイスブックを通じて分かりました。おそらく、上の写真よりも近代的な方法で製造していることでしょう。

インドネシアのサゴやしのほぼすべては、栽培ではなく、自然に生えてきたものです。しかし、サゴやしを食べる人々は「遅れている」「未開だ」とみなされたり、あるいはそう自分で思い込んだりして、だんだん食べなくなり、代わって、米を食べるようになっていきました。

緑の革命以前のインドネシアでの主食に占める米の比率は半分ぐらいだったのですが、今ではその比率が95%に達しています。米を食べることは、近代化の象徴とも捉えられていたのかもしれません。

しかし、先のアルファマートで売られているサゴやしデンプンを製造する私の友人の友人たちのように、地域資源としての地元の伝統食の良さを見直し、もう一度、体に良いものを自分たちの食生活の中に生かしたいと動き始めた人々もいます。彼らは、日本のO教授らと一緒に、インドネシアでのサゴやし栽培の可能性をも追及しています。

17年前にサンギル島へ行ったときは、お土産にどっさりサゴやしデンプンをもらい、当時住んでいたマカッサルまで持ち帰りました。サンギル島のサゴやしデンプンは、南スラウェシ州パロポのそれよりも目が細かく、品質が良いという話で、わが家分を取り置いた後、サゴやしデンプンでお菓子を作りたいという友人たちに小分けしました。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代

先週のカカオツアーで、インドネシアの西スラウェシ州ポレワリのコンビニに行ったら、サゴやしデンプンが売られていました。

まず、アルファマートで売られていたのがこれです。

製造元は、南スラウェシ州パロポ市にある業者。パロポといえば、サゴやしデンプンを使った料理や菓子の開発が盛んなところです。

次は、インドマレで売られていたもの。

こちらは、製造元がジャカルタの業者です。サゴやしデンプンを「茨粉」と中国語で書くのを初めて知りました。

ちなみに、1999年8月に、北スラウェシ州のサンギル島の市場で見たときは、サゴ椰子デンプンはこんな感じで売られていました。今も、一般の市場では、このように売られています。

サゴやしデンプンがコンビニで売られる時代になったのだなと感心するとともに、近代化の中で、廃れるのではないかと思っていたサゴやしデンプンが、こうして近代的なコンビニの中に入り込んでいるということを興味深く思いました。

なぜなら、(とくに東インドネシア地域の)多くの人々が、「サゴやしデンプンを食べているのは未開だ、遅れている」と思い込んで、サゴやしデンプンを食べるのを止め、緑の革命で増産した米を食べるようになっていったからです。

小麦粉や片栗粉のように、手軽に買えるサゴやしデンプンを使うことで、健康食材であるサゴやしデンプンがもっと注目されてもいいのではないかと思いました。

参考までに、過去の私のブログで、サゴ椰子デンプンについて書いた主なもののリンクを貼っておきます。お時間のあるときにでも、ご笑覧ください。

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カカオツアーを終えて

昨日(8/28)、マカッサル空港で、シンガポール経由で帰国する、ダリケー主催カカオツアーの参加者を見送り、私はジャカルタへ来ました。今回のツアーも、昨年に劣らず、とても楽しい一時でした。

(盛り上がったチョコレート作りのワークショップ)

この前のブログで、3年前に植えたカカオの木に再会できたことを書きました。今回も、参加者全員が西スラウェシ州ポレワリ・マンダール県にカカオの苗を植えました。ほとんどすべての参加者が、3年後、自分が植えたカカオの木を見にきたいと言っていました。

カカオの木とともに自分も成長する、そんな言葉も聞こえました。

発酵したカカオの入った木箱へ手を入れて温度の高さを実感したり、カカオ・ポッドを使ったバイオガス装置の実験の様子を見たり、農家のお母さんも一緒になってチョコレート作りのワークショップをし、でき上がったチョコレートを試食したり・・・。

カカオ以外にも、村の人々の生活を垣間見たり、海岸でマングローブを植林したり、伝統芸能を楽しんだり、そして農家のお母さんたちの手料理の数々に興奮したり、と今年も盛りだくさんの内容でした。

(ゴンダ海岸でのマングローブ植林)

貧しいと思い込んでいたインドネシアの村の家々のたたずまいの美しさに感動した方、100年以上かけて出来上がったマングローブ林の悠久の時間に思いをはせる方、地元の方にメーキャップしてもらって着飾った衣装で「踊る馬」(Kuda Pattudu)に乗った参加者の女の子たち。

ここに来る前には思いもつかなかった、地域の豊かさや人々の温かさに触れ、それらがカカオを作り出す背景にあることを知ったのでした。きっと、参加者の周りの人たちに、彼らが体験したことやものをいろいろ話してくれることでしょう。そして、そのなかから、来年のツアーに参加される方々が出てくるかもしれません。

カカオを通じて世界を変える、を信条としている主催者のダリケー株式会社ですが、実は、こうした体験を通じて、自分自身が変わることが世界を変えることにつながっている。そのことを参加者の皆さんが自分の体験を通して納得できたとすれば、それがこのツアーの一番の目的なのかもしれない、と改めて確信しました。

スラウェシの各地をもっともっと歩いてみたい。コーヒーの産地へ行ってみたい。参加者の皆さんの好奇心をさらに高められた様子です。違うことを面白がり、プラスの強さを作っていく。そんな機会をまだまだいろんな方とご一緒していきたいです。

インドネシアにコーヒー文化が根付き始めた

インドネシアはコーヒーでも名の知れた場所です。日本でよく聞くのは、トラジャ、マンデリンなどでしょうか。この30年で、インドネシアのコーヒーは大きく変わりました。もしかすると、東南アジアでコーヒー文化が最も根付く場所になるかもしれません。

私がインドネシアに行き始めた30年前、インドネシアでお茶のほうがコーヒーよりもメジャーでした。しかも、砂糖のたっぷり入ったお茶です。コーヒーもありましたが、ネスカフェなどのインスタントが主流で、これもやはり砂糖をたっぷり入れて飲みました。

その後、お茶は瓶入りの甘い茶飲料(Teh Botol、Teh Kotak、Teh Sosroなど)が主流となりました。コーヒーは、コーヒー+砂糖+ミルクパウダーの三位一体型インスタントコーヒーが主流となり、ジャカルタの渋滞緩和策Three in One(朝夕の決まって時間に決まった道路へ乗り入れるには自家用車1台に3人以上乗車する決まり。今は廃止)に因んで、3 in 1などと呼ばれていました。

おそらく10年ぐらい前からだと思いますが、ジャカルタでインドネシア産のコーヒーをパーパードリップで入れるカフェが現れ始めました(それまでのコーヒーは、コーヒー粉に熱湯を注いで、粉が沈殿した上澄みを飲むものでした)。スターバックスがインドネシアで展開し始めてすぐぐらいだったと思います。その後、スターバックスを模したカフェのフランチャイズチェーンが現れるとともに、居心地のいいカフェがジャカルタのあちこちにできていきました。

5年前、私はジャカルタに新たなカフェ文化が根付き始めた、と思い、エッセイも書きました。その後、カフェ経営者はバリスタ認証(どのように取得しているかは定かではありませんが)を競って取り始め、インドネシア各地のコーヒー豆をペーパーフィルターを使って淹れて飲ませるようになっていき、若者たちが集うようになりました。

インドネシアのコーヒー産地は、実はたくさんあります。それも、2000メートル級の高地が多く、各々の土地の土壌や気候の違いから生まれたアラビカ種が出回っています。

ガヨ(アチェ)、マンデリン(北スマトラ)、リントン(西スマトラ)、ランプン、トラジャ(南スラウェシ)、バリ、フローレス、パプアなどなど、インドネシア国内だけでいくつもの産地があり、それらがブランド化しています。ガヨ・コーヒーなどは、地理的表示保護(GI)認証をとって、ブランドを守り始めてもいます。

ジャワ島でも、南バンドンやバニュワンギなどで、オランダ植民地時代からに激賞された高品質コーヒーの復活やよりローカルなブランド化などの試みが次々出始めています。

一国の中でこれほどたくさんのコーヒーの銘柄を楽しめるところは、世界中でもあまりないのではないかという気がします。

この現象は当初、ジャカルタに限られていました。しかし、次第にスラバヤなどの地方都市へも広がっていきました。そして、今では、コーヒー産地にも、そこで採れたコーヒーを淹れて飲ませるカフェが展開し始めました。

アチェ州中アチェ県のタケゴンは、ガヨ・コーヒーの生産集積地ですが、この素敵な高原都市にも、ガヨ・コーヒーを楽しめる何軒かのカフェがありました。コーヒー商がカフェも経営している様子です。

この店にもバリスタの認定証がありました。

別の店は、アチェ州の州都バンダアチェの近くにも支店を出していて、そこでも美味しいガヨ・コーヒーを飲むことができました。

ガヨ・コーヒーも出している豆が3〜4種類あり、それを上澄み、ペーパーフィルター、サイフォンのどれで淹れるかを選ぶようになっています。もちろん、味はなかなかのものでした。

北スマトラ州ダイリ県の県都シディカランは、マンデリン・コーヒーの集荷地ですが、ここにも数軒のカフェがあり、若者たちで賑わっていました。

以前、コーヒー産地ではいいコーヒー豆はすべて輸出し、自分たちはインスタントコーヒーを飲む、とよく言われていたものでした。今では、コーヒー産地でも、いやそこでこそ、地元の人々が地元産のいいコーヒーを飲む、ということがインドネシアで起こっているのです。

植民地支配が長く、外部勢力に搾取されて従属させられている、という風潮が根強いインドネシアの人々が、自分たちの生産物を自分たちでも楽しむようになってきたことで、コーヒー文化がいよいよインドネシアの人々のものになり始めた、と思うのです。

そこで、来年あたり(夏ですかね?)から、インドネシアの複数のコーヒー産地をめぐり、コーヒー産地で地元の方々と一緒にコーヒーを味わうツアーをしてみたいと考えています!! もちろん、ジャカルタなどでのカフェ巡りもしたいと思います。

コーヒー産地はたくさんあるので、期間は1週間、毎年2〜3箇所の産地をまわることにしようかなと思っています。

この件で、何かご意見、アイディア、参加意思表明、協力表明などありましたら、メール、フェイスブック、ツイッター、このブログのコメント欄など、お気軽にお知らせいただければと思います。

 メールアドレス

福島で亡き父の墓参

旧盆も終わりですが、8月16〜18日は福島市の実家へ帰省しています。久々に、家族3人揃っての帰省となりました。

台風が来る前に、亡き父の墓参に行きました。父は、東日本大震災の前年に亡くなり、今年が七回忌に当たります。とくに七回忌の特別な法要は行わない予定ですが、こうして、しばしの間でも、父の墓前で亡き父と対話をするのが自分にとっての務めの一つだと思っています。
果たして、自分がどこまで父が望んだような人生を歩んでいるのか、心もとないのですが、人生の節々で、父が語った言葉を改めてかみしめて、前へ進んでいこうと思います。
それにしても、実家で食べる地元・福島産の桃2品種、どちらも美味しいことといったら、本当にたまりません。

銀座・東急プラザのアイスクリームに注目

今日(8/11)は、夕方から、妻と一緒に銀座へ。買い物と散歩、冷やし中華を食べに行ったのですが、絶品の冷し中華を食べた後、急にアイスクリームが食べたくなりました。

選択肢は二つ。不二家へ行くか、新しいアイスクリーム屋を探すか。

もう半年も銀座へ来ていなかった妻が行ってみたいというので、東急プラザを探検しに行ってみました。アイスクリーム屋があるかもしれない、という希望を持って。

そうしたら、地下に1軒ありました。

店の名前は「ハンデルスベーゲン」。名前から、これはきっとドイツから来たアイスクリーム屋だ、などと勝手に思い込んで、行ってみました。

注文したのは、好きなアイスクリーム2種類(通常の半分の量ずつ)を入れたサンデー。サンデーはもちろん、アイスクリームもなかなかの美味しさでした。

新しいお店を開拓できて、今日はラッキーだった、と二人で話しながら、帰宅して確かめたら、ハンデルベーゲンは、京都発のアイスクリーム屋さんでした。しかも、アイスクリームと和食の共通点を「素材と旬を生かす」とした、京都プレミアムのアイスクリームを提供しているのでした。

 ハンデルベーゲンのホームページ

また一つ、ユニークなお店に出会えました。

サンバルはどこへ行った?

8月5日早朝、ジャカルタからロンボクへガルーダで飛びました。所要時間は2時間弱、数日前に起こったリンジャニ山の一部からの噴火の影響もなく、スムーズに中ロンボク県プラヤのロンボク国際空港に到着できました。

ガルーダでは、所要時間が1時間を超えると機内食が出るのですが、今朝のチョイスは、オムレツまたはナシゴレン。私はナシゴレンを選んで、食べ始めてすぐ、気づきました。

サンバルが付いていない!!!

サンバルというのはちょっと甘めのチリソースで、インドネシアの食にはなくてはならない調味料です。昔から、人々は何にでもサンバルをつけるので、ほとんどの食べ物の味がサンバル味になってしまい、「インドネシア人は味盲だ」などという人さえいました。

このサンバルの味、慣れるとこれがないと落ち着かなくなるような、ちょっと中毒になるような性質も持っていて、私にとっても、フライドチキンやフライドポテトを食べるときには、このサンバルが必需品になっています。

そのサンバルが機内食に付いていないのです。以前は、どんな機内食のときも必ず付いていたのに。ガルーダは、いつからサンバルを機内食に付けなくなったのでしょうか。

付けなくなったのには理由があるはずです。おそらく、機内食に付けていたサンバルが、だんだんにたくさん未使用のまま残されるようになったのかもしれません。経費削減に迫られてきたガルーダは、残されるサンバルもまた、見直しの対象になったのでしょう。

でも、もしそうだとするならば、それは、インドネシアの人々の間に味覚の変化が現れていることの証左かもしれません。サンバル味よりも、徐々にそれぞれの素材のもつ味へ嗜好が移り始めたのかもしれないのです。

そう考えると、普通のレストランでも、こちらからリクエストしないとサンバルを持ってこなかったり、ナシゴレンに最初から唐辛子が入っていたり、サンバルが前提の出し方から変わってきている印象があります。おそらく、健康ブームで、サンバルの取りすぎが良くないという認識も出てきていると思われます。

ここでいうサンバルとは、市販の大量生産によるサンバルのことです。この製品は、インドネシアに現れてから、マーケットの絶大なる支持を受けてきました。なぜか。それは、料理ごとに異なるサンバルを作る手間を省いてしまったからです。

実は、サンバルは本来、料理ごとに違うのです。フライドチキン用のサンバル、ソト・アヤム(実だくさん鶏スープ)用のサンバル、ソト・パダン(実だくさんのパダン風スープ)用のサンバル、茹で野菜用のサンバル。それぞれの料理にはそれぞれのサンバルを作らなければならなかったのです。

本来は別々なのに、何にでもそこそこ合う市販のサンバルで済ませてしまうようになると、市販のサンバルの味が何となく標準になっていったのでした。便利な市販のサンバルがインドネシアを「味盲」にさせていたのかもしれないのです。

それが今、市販のサンバルが付いてこないというのは、本来の料理の味へ戻り始めたことを示しているということになるでしょうか。

過去30年以上、インドネシアの食を実体験しているものから見ると、インドネシアの食は明らかにだんだん辛くなくなり、かつ甘くなくなっています。そして、素材の美味しさや香辛料の組み合わせの妙を感じさせるような方向に進んできたと思います。

明らかに、30年前よりもインドネシア料理は美味しくなっていると感じます。プロの料理人を目指す若者も増えているように見えます。

それは、経済発展に伴い、人々の生活の質や嗜好が変化していることとも関係があるはずです。

レトルト食品などの普及など、効率化の進行による食品の味の画一化、ファーストフード化がますます進行するでしょうが、その一方で、地方でのローカルフードの復活・食べ歩きの隆盛、などに見られるような、手間暇かけた料理への関心も高まっています。

これからさらにどのようにインドネシア料理が進化していくのか、ますます楽しみになってきました。それでも、あの市販のサンバルの味が時々恋しくなってしまうのは、やはり中毒なのでしょうか。

パサール・サンタは今

このところ、出張中の雑務でなかなかブログ更新ができず、個人的にも少しまずいなと思っているのですが、まあ、やむをえません。できる範囲でゆるーく書き続けていこうと思います。

昨日(7/24)、久々にジャカルタのパサール・サンタへ行ってみました。

パサール・サンタといえば、近年、3階部分の区画を若者たちが借りて、様々な小ビジネスを始め、活況を呈していると話題になっていました。一時は、入居希望者が後を絶たず、半年ごとに入れ替えとするほどの盛況ぶりで、伝統的な市場の活性化モデルとして注目されていました。

とくに、平日はオフィスで働く若者たちが土日のみここで小ビジネスをする、というのも結構あったので、昨日の日曜日、またあの活況に会えると期待して行ったのです。

行ってみたら、シーンとしていました。ほとんどの区画はシャッターが閉まったまま。閑散としていました。

あのかつての土日の賑わいはどこへ行ってしまったのだろうか・・・と訝しがって、開いていた小さな本屋の店主に話を聞きました。

曰く、数年前までは賑わっていたが、その後、急速に客足が減ったとのこと。客足が減るにつれ、短期的利益を目的に事業を行っていた人々が継続できなくなり、どんどん撤退していったとのこと。今も残っているところは、短期的利益を求めるのではなく、しっかりした経営理念のもとで中長期的観点から事業を行っているところだ、ということでした。

その小さな本屋も、大手書店などの流通に乗りにくい地方の小さな出版社の出す良書を集めて、細々とながら、それらを世の中へ紹介していくことを使命としている、ということでした。スラバヤやマカッサルの私の友人たちの名前が何人も出てきて、ちょっとビックリでした。こんな本屋がまだ頑張っているところに、何となく救われる思いがしました。

熱し易く冷め易い。そんなインドネシアの人々の気質が思い浮かびました。

この本屋の向かいには、麺を出すスタンドがあり、そこで食べてみました。これがオリジナルのなかなかの麺でした。

見た目はただの麺ですが、汁がややカレー味で、独特の美味しさを醸し出しているのです。ワンタンも美味しく作ってあり、想像よりもずっと工夫して作られていました。

そう、ほかのどこにもない味でした。そうしたオリジナリティがこうした事業を支えているのでしょう。

この店を切り盛りするアンドゥリ君は大学生ですが、メルボルンにいた兄がこの味を開発したのだとか。本人は、フィリピンへ行ってパイロットになりたかったが、家族の反対で諦めたのだそうです。

この店は今度、スカルノハッタ国際空港の新第3ターミナルにも出店を予定しているそうです。今後の展開が楽しみです。

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