アートへのアクセスを民主化させたい(追記あり)

田谷さんのベビーリーフが届いた!

昨日(5/3)、いつものように夜、NHKのEテレの「日曜美術館」を観ていた。

番組で取り上げられていたのは、オラファー・エリアソン氏の「ときに川は橋となる」という名の展覧会。東京都現代美術館で開催されているはずだった。

展覧会の詳細はこちらから → https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/olafur-eliasson/

オラファー氏のアートは、どれも魅力的であるとともに、いずれにも、なぜこのようなアート表現をするのか、という彼の思想や哲学が明確に存在する。

そして、ディーテールまで計算して創りあげるというよりも、むしろ、自然の光や風が、二度と再現できないような、その瞬間瞬間の偶然の美しさが自ずと現れてくる。湧き上がってくる、といったほうがいいかもしれない。

その彼が番組の中で語っていた言葉に惹かれて、書き取っていた。

 アートへのアクセスを民主化させたい
 アートはプラットフォームのような場所である
 社会的につながれるアートという場所で何ができるかを考えたい

アート作品を誰がどのように感じようと、それは自由であり、観ている人たちも、実はその瞬間瞬間にアート作品の一部と化している、ということか。

様々な見方や、様々な感覚や、様々な解釈がそこで出会い、そしてそれぞれがそのまま混ざり合う。そのなかの何物も否定されない。誰がどう観ても否定されない。そういった様々なものがそのまま存在する。

場としてのアート、ということか。今、様々な場をつくるということがよく言われるが、アートもまたそんな場所を作れるのだ。

アートのアクセスを民主化させたい、ということは、まだ民主化されていないということなのか。もしかすると、民主化させていないのは、アートを何か特別なものと意識している私たちなのかもしれない。そんなことに気づいた。

<追記(2020年5月12日)>
2020年5月12日付『朝日新聞』朝刊の「折々のことば」にオラファー・エリアソンの「私はアートとのつながり方を民主化したいのです。」が、以下のように取り上げられています。
制作者と鑑賞者という関係を離れて、お年寄りから子どもまでそれぞれに楽しみ、また何が大事なのかをいっしょに考える。アートは人びとが行き交うプラットフォームのような場だと、デンマーク出身の美術家は語る。文学もそう。物理的に離れていても本さえあれば、人は何百年も前に生きた異国の人とも一対一で向きあえる。NHK・Eテレ「日曜美術館」(4月26日)から。

市原湖畔美術館のイベント「宮本常一から学ぶこと」

2020年1月11日、市原湖畔美術館で開催されたトークイベント「いま、宮本常一から学ぶこと~つくり手たちの視点から~」に出席した。合わせて、開催中の企画展「サイトスペシフィック・アート~民俗学者・宮本常一に学ぶ~」も見てきた。

市原湖側から見た市原湖畔美術館

このイベントの知らせを知ったのが2019年12月下旬で、その情報を見てすぐに申し込んだ。その後、市原湖畔美術館の場所を探して、小湊鐵道に乗らないと行けないと知り、それなら、ますます行かなければならないと思った。

私自身は、これまでに、地域研究者(フィールドワーカー)とファシリテーターの両方を併せ持つ存在としての宮本常一から学ぶことが多く、インドネシアや日本の地域を歩きながら、彼の実践にほんの僅かでも近づきたい(でも、できていない)と思いながら過ごしてきた。

今回のイベントは、映像や写真を含めたアートの観点に立って、宮本常一から何を学ぶのか、というテーマだった。近年、地域づくりにおけるアートの役割を意識するようになったこともあり、個人的にとても興味のあるテーマとなった。

しかも、イベントのスピーカーとして、数々の芸術祭を創り上げてきた北川フラム氏(会場の市原湖畔美術館の館長だと初めて知った)、宮本常一の足跡を丹念に追い続けてきた歴史民俗学者の木村哲也氏、戦中までの宮本常一を題材とする戯曲「地を渡る舟」を上演したてがみ座主宰の長田育恵氏、そして、開催中の企画展を監修した多摩美術大学の中村寛氏が出席したことも魅力的だった。

北川フラム氏については彼の著作を何冊か読み、そのなかから宮本常一との関連性を意識していたこともあり、一度お会いしたいと願っていた。また、木村哲也氏は、2006年3月に周防大島の宮本常一記念館を訪問した際にお会いして、色々な示唆を受けた方だった。長田育恵氏の「地を渡る舟」は、実際に東京芸術劇場で観ていて、ご本人に是非お会いしたいと思っていた。

その意味では、宮本常一つながりでの私のややミーハーな希望は、今回のイベントに参加することで満たされたことになる。

トークイベントは、北川フラム氏の挨拶から始まった。越後妻有での「大地の芸術祭」を始めたいきさつ、現代の宮本常一としてのヤドカリのような活動の村上慧氏の紹介、アートを箱物のホワイト・キューブから解き放つ必要性、そのための自然文明と人間との関係が重要であり、その先駆を宮本常一に見出していること、などが語られた。

そして、時代はアートが地方(田舎)との結びつきへ向かっていること、世銀UNESCOが国家から(競争力と持続性を兼ね備えた)創造都市の形成へ関心が移ってきていることを指摘し、アーティストが地方へ入り地方に希望を見出しているとし、地方、農業、非先進国の3つが重要なキーワードになる、と締められた。

地方、農業、非先進国。それらは、まさに、私が何年も前から意識して活動してきたテーマ。私はこの北川フラム氏の挨拶に大いに勇気づけられた。

続いて、中村寛氏の司会で、長田育恵氏と木村哲也氏のトークが行われた。長田育恵氏が「地を渡る舟」を書いた背景の説明があり、もともとサンカをテーマにした作品を書く予定だったのが、そのために読んだ宮本常一の『山に生きる人びと』から影響を受け、三田にあったアチックミュージアムに通いつつ、民俗学の視点から戦争を見るために、戦時中までの宮本常一をテーマとする作品を書くに至った、ということだった。

木村哲也氏は、高校生のとき、岩波文庫60周年を記念した『図書』で司馬遼太郎が「私の3冊」の一つに宮本常一『忘れられた日本人』が挙げられていたのに興味を持ち、大学入学前の春、故郷の宿毛へ帰省する前に、『土佐源氏』の舞台となった梼原に立ち寄るなどした。大学入学後、宮本常一全集を全部熟読し、宮本常一が出会った人々あるいはその子孫に会いに行った。当時はまだ宮本常一に関する評伝がなかったので、自分で彼の足跡を確かめたいと考えたということである。その成果が『「忘れられた日本人」の舞台を旅する—-宮本常一の軌跡』や『宮本常一を旅する』に結実した。

二人とも、宮本常一の持っていた原風景は周防大島の白木山からみた、本州、四国、九州がすべて島として見え、それらを海が道として結んでいる風景だった、と語っていた。それは実際にお二人とも白木山に登って確認したということである。宮本常一の視線は、移動する個人への視線であり、それが故に、比較の眼を持っていたと評していた。

話題は、宮本常一の写真の撮り方(芸術性を捨象して目の前にあるものを好奇心に基づいて撮る、しかし連続して撮った何枚もの写真からあたかも絵巻物のようにその土地の様々な個々の具体的な情報が全体として読み取れるように写真を撮っている手法)、誰も真似できそうでできない宮本常一の平易で対象への優しい眼差しを感じられる文体、抽象化も一般化もしない態度(学問的でないとの批判を受けつつも)、そして宮本常一が文学者やアーティストなど民俗学以外へ及ぼした影響(谷川雁、荒木経惟、石牟礼道子、安丸良夫、本多勝一、鶴見俊輔、網野善彦、宮崎駿、草野マサムネなど)についても話が進んだ。

それらのなかで、やはり心にじ~んと来たのは、木村哲也氏が引用した、司馬遼太郎の宮本常一を評した際の次の言葉だ。

人の世には、まず住民がいた。…国家はあとからきた。忍び足で、あるいは軍鼓とともにやってきた。国家には興亡があったが、住民の暮らしのしんは変わらなかった。…そのレベルの「日本」だけが、世界中にどの一角にいるひとびととも、じかに心を結びうるものであった。

あれだけの大量の記録を残した宮本常一だが、長田育恵氏によれば、彼は「国のために」とは一切書かなかった。宮本常一が見ていたのは人間だった。長田育恵氏の言葉を借りると、「人間は会って数秒でこの人が信頼できるかどうか決めてしまう」「宮本常一はこの出会いの一発勝負に勝つ突破力を持っていた」と宮本常一の微笑みの秘密を読み解いた。

なぜ宮本常一は市中の人々から、行政や公式発表に現れない、あれだけの情報を読み取れたのか。パネリストはその不思議について語ったが、この分野こそが、私の学んできたファシリテーションの技法が有効で、少しでもそれに近づけることを目指すべきではないかと思った。

木村哲也氏は、晩年の宮本常一について、故郷の周防大島へ戻って私塾を起こし、既存の枠にとらわれない、自分たちで企画する新たな知を生み出すことを目指していた、と指摘された。宮本常一の姿勢で最も学ぶべきことは、人々を信じ、人々の主体性を何よりも重視したことだった。

私は今、地域の人々が主体的に自分たちの地域について学び、足元から新たな知を自ら生み出せるような働きかけをしていきたいと考えていた。その意味でも、移動に移動を重ねてきた末の、晩年の宮本常一の私塾への思いからも、大いなる勇気を与えられた気がしている。

ローカルとローカルが繋がって、そのなかから新しい価値を生み出す。移動する良質のよそ者が他のローカルの事例を伝えて比較の眼を与え、その地の人々に主体的な知の創造を自ずと促していく。抽象化や一般化ではなく、そこにある事実をしっかりと記録し、記憶し、その事実からすべてが始まる。

偉大なる人物としての宮本常一を崇拝することを、本人は絶対に望んでいないと思う。そうではなく、地域に生きる本人が意識するとしないとに関わらず、宮本常一が願った主体的な地域づくりをたくさんの無名の「宮本常一」が担っていくことなのではないかと思う。

自分の役割は、自分がローカルとローカルをつなげるだけではなく、そうした仲間を増やし、無名の「宮本常一」をしっかりと地域に根づかせていくことなのではないか。

学び、ということを意識した自分にとって、その方向性が決して誤ったものではない、宮本常一が願った未来へ向けて動くために自分が担う次のステップなのだ、ということを、今回のトークイベントを通じて改めて理解した。

併せて、その文脈で、アートや写真の役割についても、これまで以上に、十分な注意と理解を進められるように、少しでも努めていきたいと思った。

わずか1時間半のトークイベントだったが、出席して本当に良かった。

未来の祀りふくしま2019、オーストラリア・チームとの3日間

8月8日朝、インドネシア出張からの帰国早々、東京の自宅にしばし寄った後、福島へ移動し、詩人の和合亮一さんと合流して、今年の「未来の祀りふくしま2019」を構成する二つのアーティスト・グループと会いました。

二つのアーティスト・グループですが、オーストラリア・チームとシアトル大学チームの二つです。実は、2018年12月28日、大雪の日、和合さんの誘いを受けて、この両チームの関係者とお会いし、福島でどのようなアート活動を行うのか、一緒にブレーンストーミングをしておりました。

そして、8月10日にはいわき市立美術館、11日には飯舘村の山津見神社で、オーストラリア・チームと和合さんとのコラボ・イベントに参加しました。これら一連の流れのなかで、地域とのアートの関わり方について、自分なりに色々と考えることができました。

今回は、オーストラリア・チームとの3日間について書きたいと思います。

8月11日、飯舘村・山津見神社でのコラボレーション・パフォーマンス

オーストラリア・チームは、和歌山大学の加藤久美先生、サイモン・ワーン先生、アダム・ドーリング先生が中心となり、ブリスベーンからパフォーミング・アーティストのジャン・ベーカー・フィンチ(Jan Baker Finch)さんとパーカッショニストのジョイス・トー(Joyce To)さんの2名を招聘しました。

チームは8月2日から9日まで、主に飯舘村に滞在して、どのような表現を作っていくかを練っていきました。飯舘村という地に根差した様々な場所(ひまわり畑、御影石加工所、製材所、廃材置き場など)を訪れ、関係者の方々から色々な話をお聴きし、その話とその場所にある音、色、匂い、風などを感じ踏まえながら、その場にて即興でパフォーマンス+パーカッションを試みました。

飯舘村での経験を踏まえ、それを咀嚼したうえで、8月10日、いわき市立美術館で「福島ー新しい光をさがして」と題するアートイベントに結実させました。このイベントは、ブリスベーンからの二人に和合さんを交えた3人によるもので、いわき市立美術館は、「人々が自然とともに生きる音や風景をテーマにした、ダンス、音楽、詩によるコラボレーション。三人のアーティストが、福島の風景、歴史、伝統、人々の暮らし、そこに込められた思いなど、『福島の美しさ(光)』を再発見し、表現します」と紹介しています。

 いわき市立美術館の紹介チラシ

パフォーミング・アートを含む現代アートを重視するいわき市立美術館の通路などの空間を利用して、このイベントが行われました。

美術館の入口から始まり、徐々に中へ中へ通路を移動し、その後、再び、入口のほうへ通路を戻り、最後は、階段の上で詩を詠む和合さん、そのすぐ下の通路で踊るジャンさん、階段の入口で音を奏でるジョイスさん、という動き。

観客が場所を移動する、という動きは面白かったのですが、実はいわき市立美術館では割と普通のことなのだそうです。

この3人、事前に大まかな流れを確認したのみで、入念な打ち合わせもリハーサルもなく、即興で演じていきました。

日本語が全く分からないジャンさんは、和合さんの詩の抑揚や声の大小、間の取り方から何を表現しているかをつかむ。そのジャンさんの動きが和合さんの詩の朗読のしかたに影響を与える。それを把握してジョイスさんのパーカッションが奏でられ、3人があたかも一緒に呼吸しているかのような、感じ、感じられる、誰かが誰かにただ合わせるのではない、3人の間の何とも形容しがたい緊張と共鳴の1時間が演じられていきました。

後で彼らに訊いたところ、ジャンさんは和合さんの詩の朗読における意図をかなり正確に把握していました。また、ジャンさんやジョイスさんのパフォーマンスの背景にある飯舘村の素材について、和合さんもそれを感じながら朗読をしていたとのことでした。

パフォーマンスの後は、オーストラリア・チームが飯舘村でどんな活動をしてきたか、映像を交えて紹介され、観客の皆さんと対話が行われました。

8月10日のいわき市立美術館のイベントについては、以下のような、いくつかのメディアで報じられました。

 鎮魂と再生願う「祀り」 詩、ダンス、音楽で表現 いわき(福島民報)
 福島第1原発事故 鎮魂と再生祈り 詩朗読とダンスコラボ いわき(毎日新聞)

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翌日の8月11日は、同じくこの3人で、飯舘村の山津見神社の社殿にて、コラボレーション・パフォーマンスを同神社へ奉納するアートイベントが行われました。

山津見神社は虎捕山津見神社とも呼ばれ、1051年に創建された伝統のある神社です。産業の神、交通安全の神、海上安全・豊漁の神、良縁結びの神、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳があり、地元の人々から信仰を集めてきました。山頂の本殿は、海上の漁船にとっての道標にもなったといいます。また、山神の神使としての狼に対する信仰が篤く、社殿の天井には、狼を描いた242枚の天井絵がありました。

震災後の2013年4月1日、社殿が火災により焼失しました。もちろん、天井絵もすべて焼失しました。

その後、地元の方々の深い思いを受けて、山津見神社を再建することになるのですが、天井絵の再現は不可能と思われました。しかし、天井絵が写真で残されていることが分かりました。

その写真は、焼失の数日前にたまたま神社を訪れた、前述の加藤先生とサイモン先生によって撮られていたのでした。二人は、写真をもとに天井絵を復元させたいと動き、東京芸術大学保存修復日本画研究室の荒井経先生に働きかけ、荒井先生と学生たちが「山津見神社オオカミ天井絵復元プロジェクト」として取り組みました。

そして、2015年6月、山津見神社の社殿は再建され、天井絵の復元作業も進められ、2016年8月11日、オオカミの天井絵242枚が神社へ奉納されました。

そうなのです。2019年8月11日は、復元されたオオカミの天井絵がや山津見神社へ奉納されてからちょうど3年目なのでした。加藤先生とサイモン先生は、天井絵が奉納されてから3年間実施してきたアートプロジェクトの集大成として、この日に、ブリスベーンからの二人と和合さんの3人によるコラボレーション・パフォーマンスを奉納したのでした。

加藤先生やサイモン先生の招きで、今回お世話になり、オオカミの天井絵の復元に注力してきた飯舘村の方々が社殿に入り、オオカミの天井絵の下で、パフォーマンスを観賞しました。

和合さんの締めくくりの詩は「狼」。彼もまた、山津見神社の焼失、再建、オオカミの天井絵復元の一連の流れをずっと注視してきました。人と自然とのつながり、人々を結びつける力、震災によって帰らなかった命、翻弄された人々の思い、残された自分たちの故郷への思い。そんな様々な思いを胸に、山津見神社の狼をイメージして作られた「狼」。和合さんは、ずっと前から、この山津見神社で「狼」を朗読したいと願ってきました。

この「狼」、実は2018年5月、和合さんをインドネシア・マカッサル国際作家フェスティバルに招待したときに、夜のメインイベントで、壇上で日本語のまま朗読し、会場で大反響を呼んだ詩でした。私が聴くのはそのとき以来2度目でした。

彼ら3人は、ここでも即興ベースで演じました。ジャンさんのまるで何かが乗り移ったかのような舞、ジョイスさんの絶妙なパーカッション、そして、復元されたオオカミの天井絵の下で和合さんが朗読する「狼」。

ものすごかった・・・。

場の力・・・。まさしく、ここで、この場所で演じられなければならなかったのだ、と実感しました。和合さんの「狼」はここで朗読されなければならなかったのでした。

天井絵のオオカミたちが3人に乗り移っていたのかもしれません。3人の間の緊張と共鳴に加えて、即興なのに、何かが彼らを導いていたような、そんな不思議な気分になりました。

いつの間にか、自分の左目から、すうっとひとすじの涙が・・・落ちていきました。

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即興と即興のせめぎ合いが、緊張と共鳴と結合を生み出す。あらかじめ作られた何かではなく、そのとき、その場所だからこそ作られた、奇跡のパフォーマンス。

それは、どうやっても、二度と同じには再現できない。その瞬間に立ち会うことでしか得られない、はかなく消え、しかし、ずっと心にのこるもの。

あれはいったい、なんだったのだろう。ずっとそれを思い続けています。

ブリスベーンからの二人が飯舘村での滞在から得たものがあるからこそ、それがいわき市立美術館や山津見神社でのパフォーマンス表現に結実し、だからこそ、飯舘村の方々にとってもよそよそしくない、自分たちのどこか深いところに、心地よく突き刺さってくるような、言葉にならない何かを感じていたのかもしれません。

そこではもう、演じる人と観る人という垣根がいつのまにか溶けて、両者とも同じ時間、同じ場所を共有して一緒に何かを創っている、という感覚になるのではないかとさえ感じました。

一緒に何かを創る。地域とのアートの関わり方の神髄もまた、そこにあるのだということを実感した3日間でした。

渋谷敦志「まなざしが出会う場所へ」写真展をみて

どうして
見つめ返すのか
困難を生きる
人びとの眼を

今日(6/8)、友人である写真家・渋谷敦志さんの「まなざしが出会う場所へ~渇望するアフリカ」という写真展を観に行ってきました。場所は、東京・ミッドタウンのフジフィルム・スクエア1階の富士フィルム・フォトサロンです。

写真展の詳細は、以下のサイトをご覧ください。

 困難を生きる人びとのまなざしに向き合う
 【写真家たちの新しい物語】
 渋谷敦志写真展「まなざしが出会う場所へ —渇望するアフリカ—」

この展覧会は、2019年1月に出版された彼の著書『まなざしが出会う場所へ ― 越境する写真家として生きる』を踏まえて、とくにアフリカで出会った様々な「まなざし」を伝える写真展でした。


ちょうど今日は、午後3時から、渋谷さんのギャラリートークがありました。トークでは、彼のこれまでの写真家としての人生、写真にかける思い、アフリカで出会った様々なまなざしとその背景、これからのことなどが話され、写真展に来られた方々が熱心に耳を傾けていました。

飢餓や戦闘の現場で、写真家としての無力感を感じ、実際に現場で役に立つことをしなければならないとして、写真をやめようと思ったこと。

それを何度も繰り返しつつも、写真家として、そのまなざしが出会う場所に、自分が居ること自体に重要な意味があると納得できるようになったこと。

渋谷さんは、そうした苦しみのなかから、自分なりのオリジナルな写真家としてのスタイルを確立しようとし続けていました。

掲げられた写真にある一人一人のまなざしと向かい合いながら、彼らの人生を思っていました。そして、彼らにとって、ふと現れた一人の写真家のまなざしはどのように受けとめられたのか、考えていました。

決して言葉で理解し合えるわけではない。でも、そこで出会ったまなざしが、出会った双方の人生にとって、何らかの意味を持つということはあるかもしれない。

少なくとも、まなざしの相手のことを思える想像力は持ち続けていたい、と思いました。

写真展は、東京では6月13日まで、その後は、富士フィルム・フォトサロン大阪で6月21日~7月4日まで開催です。

皆さんも是非、アフリカの方々の様々なまなざしに出会いに行かれてみてください。そして、渋谷さんの著書『まなざしが出会う場所へ ― 越境する写真家として生きる』も、是非、読んでみてください。

椏久里珈琲で美味しいコーヒー&お菓子と突然の弾き語り

6月1・2日は、福島市で東北絆まつりが開催されて、多くの観客でにぎわったようです。友人の話だと、市内は交通規制がかかっていて、メイン会場の市役所へ行くのも大変だった様子。

というわけで、常にメジャー路線を避けて行動する、あまのじゃくな私は、絆まつり見物には行きませんでした。その代わり、6月1日は、友人からの誘いを受けて、今月のケーキとコーヒーを味わうため、椏久里珈琲へ行きました。

椏久里珈琲には、毎月変わるケーキをいただくため、最低でも、1ヵ月に1回は顔を出すようにしているのですが、今回は、それに加えて、友人が「紹介したい人がいる」ということで、いそいそと出かけたのでした。

その方は、福山竜一さんという、シンガーソングライターでした。これまでにも、椏久里珈琲で何度かミニコンサートを開いている方です。

今回は演奏が目的ではなかったようですが、やはりギターは担いで来られており、椏久里珈琲のマスターご夫妻からの要請により、急遽、生の弾き語りをしていただきました。

いきなり「やれ」と言われたせいか、最初はあまり声が出ていませんでしたが、徐々に声が出始め、とくに高温のファルセットがとてもきれいで、やさしい感じの素敵な歌い方でした。

椏久里珈琲のマスターご夫妻をイメージして作った「アグリの大地で」、福山さんの故郷をイメージして作った「トマト色の黄昏」、どちらも、歌とともに歌詞がジーンと来ました。

福山さんを紹介してくれた友人のために歌った「ケセラセラ」、実は、私にとっても、歌ってもらってよかったと思えるものでした。歌に救われた気分でした。

福山さんのCDを1,000円で購入しました。もちろん、サイン付きで。

CDは、椏久里珈琲の店内、またはオンラインショップで購入できます。オンラインでの購入はこちらから。

福山さんのブログはこちら → ヤングの秘密の小部屋

福山さんの歌を聴いていたので、うっかり食べ忘れそうになったのが、椏久里珈琲の今月のケーキ。今回のセレクションは、コンヴェルサシオン。

曰く、「サクッ」とバターの甘い風味、「しっとり」とアーモンドのかぐわしい香り。異なる食感と風味が一つになった完成度の高いフランス菓子です。

あまり奇をてらっていない、庶民的なお菓子ですが、香ばしくてコーヒーにぴったりの美味しさでした。

いつもなら、満席で座れないのが椏久里珈琲の土曜の午後なのに、絆まつりのためか、珍しく、店内はお客さんもまばらで、マスターご夫妻も交えて、ゆったりと過ごすことができました。生の弾き語りも堪能できて、なんだか、思いがけず、ちょっと贅沢な土曜の午後になりました。

福山さん、ありがとうございました。そのうち、また、歌を歌いにいらしてください。もっとたくさんの人に聴いてもらいたいです!

Kucumbu Tubuh Indahku (Memories of My Body) を観て

4月19日、エアアジアの夜行便乗り継ぎで、午後1時半頃、ジャカルタに到着。

アジトでしばし昼寝をして、いつものように、携帯電話のインターネット用SIM利用分の追加をしました。

その後、モールのフードコートでハズレのTongseng Kambingを食べながら、今日からガリン・ヌグロホ監督の作品”Kucumbu Tubuh Indahku”、英語名”Memories of My Body”が上映されることを思い出しました。

上映館を調べると、ちょうど19時15分から、チキニのタマン・イスマイル・マルズキ(TIM)で上映されることが分かりました。急いでフードコートのある5階から1階へ降り、停まっていたよく知らないタクシーに乗り込んで、一路、TIMへ。上映まで30分しかなく、大雨の後で、果たして間に合うのか・・・。

タクシーの運ちゃんが頑張ってくれて、TIMに着いたのが19時15分。チケット売り場の受付嬢は「まだ大丈夫」という返事。最後に残っていた最前列の1席をゲットし、満席の会場で観ることができました。

前評判は聞いていたものの、どんな内容なのかは全く知らずに、とにかくガリンの新作を観る、ということで観たのですが・・・。

すごい作品でした。映像はガリンらしくとても美しく、音楽も明るく軽妙。でも、それが故に、人間の暗さや絶望や行き場のない怒りなどが際立ってしまうのでした。

踊り手となるジュノという男性の子供時代から青年になっていくまでの多難な人生を、彼や彼に関わる人々の身体を通じて描いていく内容で、物語としての一貫性といった分かりやすさを目指したものではありませんでした。

ジャワの狭い社会のなかで、ジュノの家族が置かれた状況とそれがジュノに強いる様々な苦悩が描かれ、ときにはそれが身体から現れる血を象徴として、ジャワの伝統社会のもつ陰の部分が色濃く表されていました。

ジュノの人生は、救われることのない厳しい試練の連続ではあるけれども、今は踊り手として生きている、様々なトラウマを抱えながらも、身体は生き続けている、というメッセージを受け取ったような気がしました。

この手の作品は、最初は人気を博しても、すぐに上映が終わってしまう傾向があります。明日から火曜までは映画館へ行ける時間が取れなさそうだったので、まだまだ眠い目をこすりながらも、観に行ったのでした。

感動作、というのではありません。問題作、というのでもありません。でも、このような作品は、おそらくガリンしか作れないのではないか。彼はもうそんな域に達したのかもしれない、と思える作品でした。

伊藤若冲展を観に行く

今回の福島滞在中に行きたいと思っていたのが、福島県立美術館で開催中の「伊藤若冲展」。ようやく時間の取れた4月13日(土)、気合を入れて、開場時間の午前9時半に合わせて実家を出ました。

実家から会場までは自転車でわずか5分。今回はすごく混んでいるし、土曜日だし。でも、朝早くだったら、入れるかも。

でも甘かったです。

開場前、すでに長い列。ともかく、列に並びました。

雲一つない青空、快晴。天気がよくて良かったです。

行列に並んでから約30分経って、ようやく、美術館の中に入れました。

展示会場は5つに分かれ、若冲の作風の変化を順に追って観られるように配置されていました。でも、入館者がとても多くて、作品をじっくりと観ることができないほどでした。

屏風絵や襖絵などは、少し遠くから全体をゆったり眺めたいのですが、とにかく人が多くて、無理でした。

サクッと1時間程度で観るのを切り上げましたが、入館者はその後も次々にやって来ていました。バスを仕立てたツアーで来たお客さんもたくさん。すごいなー、若冲の人気。

個人的には、サクッと観るのを切り上げたせいかもしれませんが、前回の「若冲が来ました」のときよりはややインパクトが薄く感じました。

それでも、若冲の描く直線・曲線、線を組み合わせた構図の的確さ、迷いのなさがとても印象的でした。それ故に、作品の一つ一つが驚くほどシンプルに、観る人の心に迫ってくるのだと感じました。

穴のあいた蓮の葉。立ち上がっていくその姿を、福島の復興になぞらえて、力を与えてもらっている、という風に感じている、ようです。

若冲展の前半は今週いっぱいで終了し、一部の展示を入れ替えた後半が来週以降となるようです。

常設展を観て美術館らしさを少し味わった後、ふたつやま公園へ行って、雪を被った吾妻連峰と安達太良連峰に会いに行きました。

福島にいた子どもの頃、毎日見ていた吾妻と安達太良。今も福島に帰ると再会できて、ほっとした気分になります。私自身の脳裏に焼き付いた原風景がなのです。

隣の森合運動公園の桜が見事でした。

先週までの東京での桜に続いて、福島でも桜を楽しめました。

そして、毎月1回は行きたいと思っている常連の椏久里珈琲で、今月のケーキとコーヒーを味わいました。

焼きたてクロワッサンも追加!

おだやかな、春の福島の一日でした。

佐伯で再びMALTA

9月22日、さいきミュージック・アートクラブ主催のMALTAコンサートのため、大分県佐伯市に来ました。

同クラブは昨年11月にMALTAコンサートを開催しましたが、今回は、MALTA氏の2度目の佐伯でのコンサートです。

筆者は、なぜか同クラブの会員にされてしまっており、今回のコンサートでも、会場でのポスター貼りやコンサート終了後の跡片付けなどに関わりました。

今回のMALTAコンサートですが、1回目よりも演奏する姿が元気で、ずいぶんノッていたように見えました。この1年で、佐伯がだいぶ気に入った様子で、演奏自体も、なかなか熱いものを感じる、とても充実したものでした。MALTA氏のほかの6人の演奏のレベルの高さも、改めて感じられたひとときでした。

観客の反応も昨年よりもずっとよく、楽しめたコンサートでしたが、観客数自体は昨年より少なかったのが残念でした。

今回の目玉は、コンサート終了後の「晩餐会」。会場を移し、MALTA氏とメンバー6人を招いて、彼らに対する慰労会のような催しです。

佐伯在住・出身、あるいは佐伯にゆかりのある声楽家、サックス奏者、ビオラ奏者、女性ダンサー・グループ、大分の有名な変面パフォーマーなどが次々に演じていき、それをMALTA氏やその他この会に出席した方々が一緒に楽しむ、という趣向でした。

下の写真は、会の終了時に、挨拶をするMALTA氏です。最後は、MALTA氏による三本締めでした。

おんせん県の大分県で温泉のない佐伯市は、市民有志が音楽で街を元気にする「音泉」都市を標榜して、昨年、任意団体である「さいきミュージック・アートクラブ」を立ち上げました。

佐伯は大分県の一番南端に位置して交通も不便なので、コンサートをしたアーティストは必ず1泊せざるを得ません。このため、それを逆手に取り、コンサートが終わった後に、地元のファンとの懇親の機会を作り、アーティストにとって思い出に残る場所として記憶に残したいという狙いがあります。

前回の佐伯での寺田尚子さんのコンサートの後も、懇親会があり、寺田さんが懇親会の場でいきなりバイオリンを弾き始め、ちょうど誕生日だった友人の前でハッピーバースデーを奏でる、といったハプニングも起こりました。アーティストにとっても、地元の方々にとっても、単に音楽を楽しむだけでない、一緒に触れ合える機会が作れるのは、地理的に悪条件だからこそなのかもしれません。

MALTA氏は本当に佐伯が気に入った様子で、コンサートのアンコール終了後、ステージから「佐伯に来年も来るよ!」と叫んでいました。

商業的な興行に留まらない、心と心のふれあいが生まれ、アーティストに愛着を持ってもらえるような街になることも、これもまた、一つの地域づくりの在り方だろう、と思い、支持していきたいです。何よりも、それは楽しいから。アーティストも地元の人々も楽しくなって愛し合えるような、佐伯がそんな街へ育っていく可能性を見つめています。

明日(9/23)は午前4時半の高速バスで大分空港へ発ち、羽田経由でスラバヤまで飛びます。今月3回目のインドネシア出張です。

声とノイズ、言葉の力、詩の文化

先週のマカッサル国際作家フェスティバルに出席した後、数日間帰国し、今また、インドネシアに来ています。ちょっと時間の空いた黄昏どきのジャカルタで、マカッサル国際作家フェスティバルを振り返っています。

声とノイズ、というテーマは、単なる意味どおりの声とノイズだけでなく、声がノイズに変わって無視されると同時に、ノイズが声に変わって世論を動かしていく、という両面性を意識する機会となりました。

我々が聞いていると思っている声は誰の声なのか、ノイズに埋もれさせてはいけない声とは何なのか、忘れ去られた声は全てノイズだったのか、色んなことを思います。ただ、確実にひとつ言えることは、声は決してひとつではない、という当たり前の事実であり、もし声が一つしか聞こえないとするならば、様々な声を聞こうとしない、聞こえないと思っている、聞いてはいけないと思っている、明らかに社会が自らを押し殺している状態に他ならないのではないか。

マカッサル国際作家フェスティバルでは、実にたくさんの参加者が即興で自作の詩を読みました。誰かのものではなく、自作の詩を。自作の詩を声を出して人々の前で読む、朗読するということは、自分の声を出していることに他ならず、それが朗読として成立しているのは、その声を聴く人々がちゃんと存在しているからです。

そして、その詩に社会への不満や不正への怒りが込められ、共感した聴衆が声を上げ、拍手をして反応する。それはまさに、声が出ている、届いている空間でした。

彼らの詩に込められているのは、まさに言葉の力。その言葉にそれぞれの詩を作った自分の魂が込められ、それが声として発せられ、聴衆に届いていく。マカッサル国際作家フェスティバルの空間は、そうした言葉の力をまだまだ信じられると確信できる空間でした。

福島から参加してくださった和合亮一さんは、そうしたなかで日本語で自作の詩を朗読しました。日本で最も朗読している詩人と自称する彼ですが、時として、自分を環境に合わせてしまっているのではないか、という気持ちがあったそうです。

自作の詩を誰もが読める空間に和合さんが遭遇したとき、何が起こるかは個人的にある程度想像していました。そして、和合さんには、思う存分朗読してほしい、爆発してくださってもいい、と申し上げました。

和合さんの日本語の詩を聴衆が理解できたとは思いません。でも、今回、言葉の力は意味の理解以上のものを含むのだということを、和合さんの眼前で理解しました。朗読の力は。想像以上のものでした。自分で声を出す者どうしの、言葉の力と力を投げ受けしあう同士の、生き生きした空間が生まれていました。

それは、ある意味、いい意味で、福島を理解してもらいたい、というレベルをいつのまにか超えていたように思います。和合さんの興奮する姿がとても新鮮に見えました。

日本における自作の詩の朗読の世界は、こんな空間を作れているでしょうか。

自分たちの声を出し、それを聴こうとする人々との相互反応が起こる社会は、何となく、まだまだ大丈夫、健全だと思ったのです。たしかに、マカッサル国際作家フェスティバルがそんな空間を作り続けることに一役買っている、と確信しました。

5月5日の夜、フェスティバルのフィナーレで、壇上に上がった主宰者のリリ・ユリアンティが「壇上からはライトで皆さんの姿が分からない。携帯電話を持っている人はそのライトをつけて、降ってほしい」と呼びかけました。そして、無数のライトが壇上のリリに向かって振られました。

その光景は、とても美しいものでした。

ノイズではない、一人一人の声が携帯電話の光となって、互いの存在を認め合っているかのように感じられたからです。

こんな光景を日本で、福島でつくりたい。恥ずかしがることなく、自分の思いを、自分の考えを、自作の詩を、声に出せる、そしてそれに耳を傾けてくれる人々のいる空間。和合さんを福島から招いたことで、そんなことを思い始めた、今回のマカッサル国際作家フェスティバルでした。

予告:マカッサル国際作家フェスティバルに和合亮一氏が参加

インドネシア・スラウェシ島にある都市マカッサル。筆者ものべ8年半住んでいた、人口100万人のこの地方都市では、2011年から「マカッサル国際作家フェスティバル」(MIWF)が開催されています。

今年は8回目、5月2~5日、海に近いロッテルダム要塞公園をメイン会場とし、市内各所にサブ会場を設け、様々なセッションが繰り広げられます。下の写真は、昨年のフェスティバルの様子です。

マカッサルやその他のインドネシア国内のほか、オーストラリア、シンガポールなどの海外から様々な文学者が出席し、知的刺激に満ちた活発な活動が繰り広げられます。

筆者は、これまでほぼ毎年出席し、その様子は、ブログでこれまで紹介してきました。以下に、昨年のフェスティバルに関する記事のリンクを貼っておきます。

 国際作家フェスティバル、テーマは多様性

 2つのセッションでパネリスト

 動く動く移動図書館ほか

 国際作家フェスティバルのフィナーレ

今年のテーマは、Voice and Noise、です。2018年の統一地方首長選挙、2019年の大統領選挙と、政治の騒がしい季節を迎える中で、市民社会が批判的かつ明確な声を上げ続けていくことが必要だ、という主張を出していきます。

そして、今年のフェスティバルには、福島の詩人・和合亮一氏に参加していただくことになりました。和合氏には、フェスティバルのなかで、震災後から現在に至る福島の声を伝えていただき、詩の朗読もお願いする予定です。

上の写真は今年2月、マカッサル国際作家フェスティバルの主宰者であるリリ・ユリアンティさんを福島にお連れし、和合氏と面会したときのものです。
ちなみに、和合氏については、『現代詩手帖』2018年4月号で特集が組まれています。
福島とインドネシアをつなぐ・・・。今回はマカッサルですが。これが第1弾です。
併せて、実は、今年、マカッサルから文学者を福島へ招聘する計画もあります。
今回、和合氏が伝える福島がマカッサルでどう受け止められるか、そして和合氏はマカッサルから何を感じて福島へ何を持ち帰るのか。

筆者が震災後、ずっと願っていた、和合氏のインドネシアへの招聘を実現できることになり、言葉に表せない喜びと、何が起こるかとワクワクする気持ちが湧いてきます。

もちろん、来週開催のマカッサル国際作家フェスティバルの様子は、本ブログでしっかりお伝えしていきます。乞うご期待。

著名なジャズサックス奏者MALTA氏をインドネシア大使に紹介(動画付)

ひょんなことで、4月12日、日本の著名なジャズ・サックス奏者であるMALTA氏を在日インドネシア大使に紹介する機会を得ました。

MALTA氏と言えば、1970年代から活躍してきたサックス奏者であり、間もなく70歳になる今も、もちろん第一線のプレイヤーとして、各地を飛び回って意欲的な演奏活動を行っています。同時に、東京芸術大学や大阪芸術大学で教鞭をとる一方、全国各地で若手演奏家や子供たち向けにジャズ・サックスを指導して回ってもいます。

 MALTA Official Website

その意欲的な活動を見ていると、頭が下がる思いです。生涯現役を地でいくかっこいい先輩の一人と位置づけました。

筆者はMALTA氏自身を以前から存じておりましたが、実際にお近づきになったのは、昨年11月11日、大分県佐伯市での彼のコンサートでした。そのときの模様は、過去に本ブログの以下の記事で書きました(よろしければご一読ください)。

 音楽で街を魅力的に!音泉街を目指す佐伯の試みは始まったばかり

佐伯では昨年、さいきミュージックアートクラブという市民団体ができ、音楽を通じてまちおこしを進めているのですが、その第1回コンサートの演者として、MALTA氏が登場したのでした。

大分県の一番南端、宮崎県との県境にある佐伯で、MALTA氏の知名度もさほど高くない場所にもかかわらず、コンサートは大いに盛り上がり、成功裏に終えることができました。

MALTA氏のサックスを聴いて体が元気になった、という方がいるという噂も聞きましたが、本当に、体中がスイングしながらどんどん元気になっていくような、そんなMALTA氏の演奏でした。

ちなみに、MALTA氏も佐伯が気に入った様子で、今年9月22日、再び、さいきミュージックアートクラブ主催でMALTA氏のコンサートが実現するそうです。

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そんなMALTA氏が今、インドネシアに興味を持ち始めています。とくに、新しい若手ジャズ・ミュージシャンが続々と頭角を現し、アジア有数のジャズの盛んな場所として、注目されています。

MALTA氏は佐伯でのコンサートをきっかけに、さいきミュージックアートクラブの中心メンバーの一人である山中浩氏と親交を重ね、インドネシアに日系工場を持つ山中氏からインドネシアの魅力を教えられ、さらに興味を深めたようです。

そこで、MALTA氏側から「インドネシア大使館へご挨拶にうかがいたい」という相談を筆者が受け、今回の訪問につながったのでした。

在日インドネシア大使館のアリフィン大使は我々を大歓迎してくださいました。

大使ご自身もジャズがお好きとのことで、ご自分のスマホを取り出し、昔の級友らが結成して活動しているセミプロのジャズバンドや、史上最年少でグラミー賞を獲得したインドネシア人ジャズ・ピアニストのジョイ・アレクサンダー氏(15歳)などの映像をMALTA氏にお見せしては、楽しそうに英語で会話が弾んでいました。

そうしているうちに、大使から「今、ここでサックスを吹かれないんですか」という呼びかけがあり、なんと、MALTA氏は、大使の前で生のサックス演奏までしてしまうのでした。これには、大使も本当に大喜びの様子で、書記官にサックス演奏の様子をスマホで動画に撮らせ、すぐに友人たちへ動画を送るのでした。

わずか30分の面会ではありましたが、初対面にもかかわらず、アリフィン大使に大変歓迎していただき、ここに改めて感謝の意を表する次第です。

MALTA氏は、これまでの経験に基づいた自分の演奏を通じて、日本とインドネシアのさらなる友好関係深化に寄与したいと考えており、インドネシアで演奏の機会があることを願っています。

そして、演奏の機会があれば、併せて、インドネシアの子どもたちや若者たちにサックス演奏のレッスンなどもしてみたいそうです。

MALTA氏は縁やつながりをとても大切にされる方で、一度、インドネシアで演奏できたら、次からは毎年、インドネシアで演奏を続けていきたいとのことです。実際、佐伯には、昨年に続き、今年もコンサートを開催し、「毎年佐伯へ来る」とおっしゃっています。

たとえば、9月8~9日に予定されているジャカルタ・ジャパンまつり(JJM)などに出演できたらいいのではないか、と、元JJM関係者の一人だった筆者としては、個人的に思うのですが、いかがなものでしょうか。

このような機会を通じて、日本とインドネシアをつなげようとする方々のお手伝いができることをとても嬉しく思っています。まだまだ、つなげていきますよ!

(本ブログの内容は近日中にインドネシア語ブログでも発信する予定です)

7年目の3月11日、佐伯で寺井尚子コンサート

3月7~9日は、神戸の震災復興を支援してきたNPO法人の友人らとともに、福島から浪江、小高、相馬、山元、閖上、荒浜、仙台とまわりました。3月10日に福島でのシンポジウムに出席した後、11日は大分県佐伯市へ飛びました。

友人らとまわった話は、別途、このブログに書きたいと思います。

そう、今年の3月11日は、東北で過ごしませんでした。大分県佐伯市へ行った目的は、さいきミュージック・アートクラブが主催する「寺井尚子コンサート」に出席するためでした。

高速バスで佐伯に着いたのが午後2時。ホテルへチェックインし、午後2時46分、ホテルの部屋で黙とうしました。これまで毎年、インドネシアにいるときは時差を考慮しながら、この時間に必ず黙とうしてきました。

部屋で黙とうしようとすると、突然、サイレンが鳴り始め、それは1分間続きました。東北から遠く離れた佐伯市でも、サイレンが1分間の黙とうを市民へ促しているのでした。

街中を歩くと、地元の高校に掲げられた国旗は半旗でした。

東日本大震災を忘れまい、という気持ちは、まだそれなりに強くあるのかもしれない、と信じたくなりました。

寺井尚子コンサートですが、さいきミュージック・アートクラブが昨年、招聘を計画してから、このジャズ・バイオリニストの名前を知りました。そして、何曲か聴いて、はまってしまいました。

とくに、「トワイライト」というアルバムの1曲目の「ブエノスアイレスの冬」を聴いて衝撃を覚え、そのメロディーが頭の中から離れなくなってしまいました。

その後、しんしんと雪の降るとある日に、さいきミュージック・アートクラブの友人が薦める「カッチーニのアヴェ・マリア」を聴いて、鳥肌が立ってしまいました。

そんな寺井尚子を生で聴く機会なのでした。自分では、彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていたのです。

実際のコンサートは、すごくパワフルなものでした。佐伯という地方都市だから手加減するということはなく、彼女の超絶技巧のバイオリンが、ピアノやベースやドラムと掛け合いながら、アドリブが際限なく続く、まさに真剣勝負のセッションでした。

録音された同じ曲でも、実際に生で聴くと、そのセッションの激しさがガンガンに響いてくるのでした。

後半になって、それまでのアップテンポな激しいセッションが続いた後、突然、静かに、そしてしんみりと、「カッチーニのアヴェ・マリア」が始まりました。

最初のバイオリンの入りの絶妙さ。単なる悲しさや寂しさや苦しさとは違う、いや、むしろそれらが複雑に被さり合い、混ざり合い、折り込み合っているような、何とも言葉に表せないような音色。

聴きながら、頬を涙が伝って落ちていきました。びっくりしました。初めての経験でした。

いろんなものやことを思い出していました。それは映像で観たものもあれば、かつて2012年に自分の目で見たもの、つい数日前に現場でお会いした方々と彼らが話してくれたお話、そして震災の前年に亡くなった父のことも。そしてそれらが混じっていきました。

コンサートでこんな気分になるなんて・・・。自分でも信じられない経験でした。

コンサートが終わった後、寺井尚子さんを囲んでの懇親会・ご苦労さん会が小さな洋食店でありました。ちょうど、今日11日が誕生日の出席者がいたのですが、寺井尚子さんはいきなりバイオリンを取り出し、ハッピーバースデーを弾き始め、弾きながら席の合間を歩き始めました。本人にとっては、超感激な誕生祝となりました。

私はどうしても寺井尚子さんに訊ねたいことがありました。3月11日に行うコンサートのどこかに、3・11への思いが込められていたのか、と。

幸運にも、彼女から直接答えがありました。3・11とあえて口には出さなかったけれども、震災の日だということに思いを込めて演奏していた、と。

彼女の音楽のなかに、震災で亡くなられた方々への鎮魂や残された方々への励ましを勝手に感じていた自分でしたが、それは寺井尚子さんに通じていたのでした。

魂を揺さぶる音楽。自分が最も大事にしている奥底に触れてくるのでした。それは、彼女の超絶技巧のバイオリンだからなのでしょうか。

生で聴いた彼女の「カッチーニのアヴェ・マリア」の衝撃を、当分、忘れることはないでしょう。5月の新アルバムのリリースが待ち遠しくなりました。

映画「おだやかな革命」の試写会に行った

ダメもとで応募したら、映画「おだやかな革命」の試写会に当たったので、11月21日に東京・銀座で観てきました。

この映画は、来年2月、ポレポレ東中野を皮切りに、全国での上映が予定されています。それに先駆けて、今回、観ることができました。

内容は、全国各地で起こり始めた、地域がエネルギー主権を取り戻すというお話ですが、単なるご当地エネルギーの話にとどまらず、それが地域のなかで引き起こす様々な新しい動きが、地域をより温かく、楽しくしていく、関わる人々の間に様々な学びと他者への尊敬を生み出していく、その様子を丁寧に描いたものでした。

取り上げられた事例自体は、日本の地域づくりに関わる人にはよく知られた事例かもしれません。でも、取り上げられた4つの事例を通じて流れるのは、未来へ向けての根本的なパラダイム転換であり、それを「おだやかな革命」と評しているように思えました。

この「革命」は、単におだやかであるだけでなく、私たち自身が未来に対して主体的に関わっていくことを促しているものです。為政者が声高に語る空虚な「革命」と対峙する愚をとらず、確実に、地に足をつけて、しっかりと広がり始めた「革命」です。

それは、雲のうえにあるかのような国家と、日々の暮らしに立脚したローカルとでは、観ている地平が違うということでもあります。富や名声ではなく、他と比べて優越を競うのでもなく、自分たちの暮らしとその基盤となる地域やコミュニティを温かく、楽しく、希望を感じる場所へと作り上げていく、あるいはもう一度そんな場所を取り戻そうとしていく日々の営みこそが、「おだやかな革命」とでもいうものであるような気がします。

この映画を作った渡辺智史監督と少しお話しする機会がありましたが、鶴岡市という地方に立脚しているからこそ、描けている部分もあると感じました。そして、渡辺監督自身もまた、「おだやかな革命」を遂行している一人であることを自覚しているはずです。

私も、そしてあなたも、自分自身を暮らしの中に取り戻そうと動いている人々は、「おだやかな革命」の遂行者なのだと思います。

映画を通じて、大丈夫、私たちはまだ大丈夫、そう信じていいのだ、というメッセージも受け止めました。

ぜひ、一人でも多くの方々にこの映画を観てほしいと思います。そして、私たちもまた、「おだやかな革命」の遂行者なのだということを意識し、おだやかにつながっていければと願うものです。

十条でバクテとポテヒ

11月4日は、友人と一緒に、東京の十条で、バクテとポテヒを堪能しました。

まず、バクテ。肉骨茶と書いたほうがいいのでしょうが、マレーシアやシンガポールでおなじみの、あの骨つき豚肉(スペアリブ)を様々な漢方原材料の入ったあつあつのスープで食べる定番料理。これを食べさせる店が十条にあるので、行ってみたのです。

味はオリジナルと濃厚の2種類。濃厚味はニンニクが効いていて、オリジナルのほうがマレーシアのものに近い感じがしました。

次の写真は、濃厚に豚足などを入れたバクテ。日本では、スペアリブより豚足のほうが入手しやすいからなのでしょうが、バクテといえば、やはりスペアリブですよねえ。

この店は、マレーシアのエーワン(A1)というバクテの素を売るメーカーと提携している様子です。エーワンのバクテの素は、我が家ではおなじみのもので、その意味で、今回のバクテは、とくに際立って美味しいという感じのするものではなく、フツーに美味しかったです。

さて、バクテを食べた後は、ポテヒです。ポテヒというのは、指人形劇のことで、東南アジアの各地で見られます。今回のポテヒは、マレーシア・ペナンの若者グループであるオンバック・オンバック・アートスタジオによるものでした。

演目は、おなじみの西遊記から「観音、紅孩児を弟子とする」と題した伝統作品と、創作作品の「ペナン島の物語」の2本。いずれも、30分程度のわかりやすい演目でした。

下部に翻訳や映像が映し出され、観客の後ろでは、パーカッションや管弦楽器による音楽が奏でられます。

下の写真は、伝統作品のもの。

「ペナン島の物語」は、ペナン島の多民族文化・社会の多様性と融合を、いくつかの場面を組み合わせながら示したものです。

マレーシアの地元の若者にとって、ポテヒは古臭く、人気のないもののようです。それでも、今回の公演はなかなか楽しめるものでした。

何よりも、ペナンの若者たちが、多民族文化・社会が共存するペナンのアイデンティティを大事にし、それを先の世代から受け継いで発展させていくという行為を、このポテヒを通じて示していたことが印象的でした。

こうしたものに対して、日本をはじめとする外国からの関心が高まることが、ポテヒを演じる若者たちを支えていくことになるのかもしれません。

11月5・6日は、池袋の東京芸術劇場「アトリエ・イースト」で公演とトークが行われます。5日は15:30から、6日は19:00からです。無料ですが、公演賛助金(投げ銭制)とのことです。よろしければ、ぜひ、見に行かれてみてください。

サンシャワー展は本当に良かった!

明日(10/11)から月末までのインドネシア出張の前に、前々からどうしても観ておきたいと思っていた「サンシャワー:東南アジアの現代美術展」へようやく観に行けました。

この展覧会は、国立新美術館と森美術館の2館同時開催で、しかも展示数が多いので、どうしても2日掛かりになってしまいます。夜遅くまで開いている森美術館を10月8日に、国立新美術館を翌9日に訪れました。

東南アジアのアーティストが色々と面白い試みを行っていることは知っていましたが、これだけの数を集めるとさすがに圧巻でした。しかも、その一つ一つに、アーティストのゆるさや柔らかさや軽さを感じつつ、その裏に何とも言えない深い闇やもやもやとして晴れない奥行きが浮かび上がる、そんな作品が多かったと感じました。

彼らの共通の特徴は、社会に対して自分の思想をぶつけていること。それは忘れられた歴史やアイデンティティを取り戻すことであったり、イデオロギーとは異なる人々の身近な生活の中からの政治・社会批判や風刺であったり、常識と思っていることへの疑問であったり・・・。

適当に考えているように見えて、実は深く考えぬいたものを軽やかに表現する。それは、表面的にみれば明るい東南アジアの社会を反映したものなのかもしれません。

様々な意味で自由な表現を虐げられてきた中で、それをあざ笑うかのように、しなやかに自らの表現力を練成させ、常に新しい表現方法で自分の社会への問いかけを表そうとしていく彼らの作品を、今の日本社会の文脈からみると、とても新鮮なものに見えることでしょう。

映像を使った秀逸なアート作品が多く、しかもそれぞれがとても興味深いものでした。自分がもっと時間を2倍ぐらい余裕だったならば、これらの映像作品を心ゆくまで楽しめたであろうに、と少し後悔しました。

サンシャワー展は、とにかく文句なしに面白く、刺激的でした。日本のアーティストともどんどんコラボしていってほしいなあ。まだ観に行っていない方は、ぜひ、時間をゆっくりとって、五感を使って味わってきてほしいです。東京では10月23日まで開催、その後は福岡で開催されます。

近年、地域づくりとアートとの親和性が注目されていますが、9月に行った石巻を中心とするリボーン・アートフェスティバルにも連なる、様々なヒントを個人的に得ることができたのは大きな収穫でした。シンガポールやチェンマイのアーカイブ活動は大いに参考になりました。

ふと、アジアを含む世界中の面白いアーティストたちが福島市に集まって、街の至るところでアート作品を動的に作成し、それを市民がただ観るだけではなくて体験しながら楽しんでいる。すると、市民が即興で自分のアート作品をつくり始める・・・。

目をつぶったら、そんな光景を思い浮かべていました。

そんなの、やってみたい!!

映画「アンダーグラウンド」完全版5時間を観に行く

台風18号が西日本で猛威をふるっていた9月17日の夜、まだ小雨程度で済んでいた東京・恵比寿ガーデンシネマで、エミール・クストリッツァ監督の映画「アンダーグラウンド」(1996年)の完全版を観てきました。

前編で3話、後編で3話の計6話から構成され、前編と後編は別々に鑑賞券が売られる、という形式でした。前編が16:15〜19:00、後編が19:25〜22:05、合わせておよそ5時間以上の作品でした。

時代設定は、ナチス・ドイツによるベオグラード爆撃からユーゴスラビア崩壊までおよそ50年以上のスパンでの物語でした。

しかし歴史大作というわけではなく、出演する人物は、ヒーローや偉人が活躍するわけでもない、人間味あふれたフツーの人々でした。人間のエゴや醜さ、友情と裏切り、信頼と背信などが、時には暴力を伴い、やや露骨に表現されていました。

そんな人々の姿は、基本的に、喜劇として描かれていました。そして、だからこそ、戦争に翻弄され、国家に裏切られ、挙げ句の果てにはその国家さえ失ってしまうということの無情さがかえって迫ってくるような印象を持ちました。

ネタバレになるので、具体的なあらすじは述べません。同じく長編の台湾映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」のような、様々な伏線が最後につながっていくようなストーリーの重厚さを感じることはありませんでしたが、手法は違うとはいえ、時代の闇をフツーの人々の目から表現しようとした作品だったのだと思いました。

映画終了後も、しばらく、ずっと作品の中で流れていたブラスバンドの曲が耳から離れませんでした。政治的に物議を醸した映画とも評されているようですが、ストーリーは単純でも、勧善懲悪からは程遠い筋書きでした。

ナチズムにせよ、共産主義にせよ、そして民族対立にせよ、結局はフツーの人々の生きざまとは関係のない話なのだ、という静かなメッセージが聞こえたような気がします。

この写真は結婚披露宴のシーンなのですが、本当の世界を知らないままで幸せを感じている人々の姿が描かれていて、現代を生きる我々自身の状況を示唆しているようにも感じてしまいました。

9月29日まで公開予定ですが、上映スケジュール等については、以下のサイトをご参照ください。

 アンダーグラウンド(完全版):恵比寿ガーデンシネマ

リボーンアート・フェスティバルを垣間見る

ずっと行きたくてなかなか行く機会がなかった、リボーンアート・フェスティバルにようやく行くことができました。

開催地は、宮城県石巻市と牡鹿半島で、「アート・音楽・食の総合祭」と自ら呼んでいます。特色としては、小林武史氏を中心とするAPバンクが資金提供し、行政が主導していないことです。それゆえ、アーティストが自由に様々な表現に挑戦することができる、ということのようです。

本当は一つ一つじっくりと作品を味わいたいところですが、そうも言っていられないので、今回は、手っ取り早く、1日ツアーに申し込みました。このツアー、東京から日帰りでくる人を想定し、11:20に開始、18:00に終了します。私も、朝、東京を出て、ツアーに参加しました。

なお、ツアー代は昼食込みで5000円、さらに2日間有効のフェスティバル・パスポートを購入する必要があります。

平日で、ネット上ではまだ定員に余裕があるようだったので、参加者は少ないかなと思っていたのですが、実際には、バスの座席全てが埋まる、25人の満員でした。

今日は天気にも恵まれましたが、8月中は雨や曇りの日が多く、ツアーガイドによれば、こんな天気の良い日は滅多になかったとのことでした。

そのせいか、予想以上の数のアートを効率的に見ることができました。

まず、リボーンアート・ハウス(関係者やスタッフの事務所兼宿泊所。旧病院)で小林武史×WOW×Daisy Balloonの”D-E-A-U”という不思議なアートをみました。

その後、牡鹿半島へ向かい、牡鹿ビレッジで、昼食をとりながら、フェスティバルのシンボルにもなっている白い鹿のオブジェを見学。なぜか、ドラゴン・アッシュのメンバーの一人が、トランペットの音色に合わせて、白い鹿の周りで踊る、というパフォーマンスもありました。

白い鹿の近くの洞窟には、牡蠣漁のブイを縄で結びつけ、その縄がはるか森まで結びつき、牡蠣の生育には森の健全な成長が不可欠であることを訴えるアートがありました。

白い鹿の後は、牡鹿半島の南端、ぐるっと海を一望できる御番所公園へ行き、草間彌生のオブジェを見ました。この場所でこれを見ると、なんとも言えない力強さを感じました。

草間彌生の後は、金華山を目の前にするホテルニューさかいへ行き、全身の穴から水を出し、その水がまた体内に戻ってくるという循環を示す緑の人間像を見ました。

さらに、ホテルニューさかいの屋上へ出る前に怪しげな看板が。

屋上では、金華山を見ながら、カラオケを楽しんでいました。これもアート!?

ホテルニューさかいの後は、のり浜という海岸へ行き、海岸に打ち上げられた倒木や石などを立てる、というアートを見ました。ツアー参加者もその行為に参加することで、「起きる」「起こす」という意味をそこに見出す、ということのようでした。

のり浜の後は、旧桃浦小学校跡にある幾つかの作品を見ました。40年前まで、この場所に小学校があり、子供がいたことを思い出させる「記憶のルーペ」と、りんごが先に付いたけん玉とのアート。

そして、ここに住みながら、自然との共生を肌で感じながら制作した、住居のアートもありました。

今回のツアーの特色は、広域に散らばったこれだけの作品を効率よく回れることのほか、かなり歩くツアーである、ということです。アート作品はそれが最も強調される場所に作られるため、バス道路から15分程度の山道を上り下りするような場所にあります。短時間で何度も結構な上り下りをすることになりました。

というわけで、予想よりもずっと充実感のあるツアーでした。ただ、一緒に参加した方々は、アート作品には興味があるものの、その作品を作品たらしめている石巻や牡鹿半島の風景や人々には、あまり関心がない様子でした。石巻や牡鹿半島の人々からすれば、どのような動機であれ、域外から人が来てくれるのはありがたいことでしょうが、もう少し、土着のものとの連結を考えた方が良いのではないか、と感じました。

私自身、このツアーでアート作品を見て回りながらも、今ここで生きる人々の関係者であの震災で犠牲になった方々が、今もこの空気の中に存在しているかのような気配を感じていました。その方々の気配こそが、リボーン(Reborn)の背景にあるものだと感じたのです。

そんなことを思いながら、フェスティバルの公式ガイドブックを購入して、パラパラめくっていたら、このフェスティバルに深く関わっている人類学者の中沢新一氏が、似たような感覚について指摘していて、ちょっと驚きました。

その中で、中沢氏は、東北でリボーンアート・フェスティバルを行う意味として次のように語っています。

元々東北は・・・亡くなった人や見えない物を日常に感じながら作られていく世界でした。そこでは四次元の世界が生きている。(中略)そういう場所にあの大震災が起こったものだから、ますます東北は、「東北らしさ」が強まったと感じています。(中略)グローバルな経済活動に巻き込まれていないということは、別の意味では経済的に貧しいということでしょうが、(中略)むしろ、貧しいことの中に価値を見出していくことが、東京オリンピックが終わる2020年以降、不況がやってくる状況の中で日本が全体で抱える課題になると思います。(中略)その時にこそ大切になるリボーンの原理を見ておこう、作っておこう、というのが「リボーンアート・フェスティバル」の目的です。

今までとは違う新たな価値観を「リボーン」の名の下に提示したい。日本のリボーンの出発点は東北ではないか。そんな問題提起がこのフェスティバルの根底にあるのでした。

その意味では、今、日本のあちこちで、「リボーン」の芽は現れ始めていると感じます。いや、世界のあちこちで、それが現れ始めているのではないか。そのあちこちこそが、中心都市ではなく、ローカルであり、地域コミュニティであり、それらが繋がっていくことで、今までとは違う「リボーン」を実現していけるのではないか。

これもまた、私たちが目指す方向性に勇気を与えてくれるようなアートフェスティバルだった、と改めて確認したのでした。

音楽を愛する人々に満たされた佐伯での夜

7月23〜24日は,大分県佐伯市に来ています。23日の夕方から、佐伯の皆さんと音楽を楽しむイベントに参加しました。

場所は、市内のお医者さんのお宅に作られた音楽ホール。

そして、そのお医者さんの中学校時代からの同級生で、現在はドイツを拠点に活動している日野隆司氏のピアノコンサートでした。

プログラムは、モーツァルト、ベートーベン、シューマン、ショパンでした。一般のコンサートホールとは異なり、音だけではなく、わずか数メートルの距離にいる演奏者の息づかいさえ聞こえる、とてもいい空間を感じました。

集まった方々は、地元佐伯の音楽を愛する一般の方々でした。今年3月に立ち上がった、佐伯ミュージック・アート・クラブというグループの皆さんです。このフォーラムは、「おんせん県おおいた」にありながら温泉のない佐伯で、自分たちで楽しみながら音楽をもとにした地域おこしを進めていきたい、という趣旨で始まったものです。

すでに、佐伯出身の音楽家にコンタクトし、今回のように会員のお宅で開催したり、市民会館で開催したり、ホテルでディナーショーのような形で開催したりと、演奏会をかなり活発に計画しています。

日野隆司氏のコンサート、アンコールのシューマンの「子供の情景」が終わっても、しばらく残っていると、会場提供者のお医者さんと日野隆司氏との連弾が始まりました。

このお医者さん、実は日野隆司氏と一緒にピアノを学んだ仲だったのです。彼もまた玄人肌のピアノの腕前で、自分で楽しむために作った音楽ホールを、佐伯ミュージック・アート・クラブのイベントに提供したのでした。
とても楽しそうな連弾でした。きっと、何年かぶりの連弾だったのでしょう。こうした姿に、市民が自分たちで楽しみながら音楽を真ん中に置いた地域おこし、というものの一番大事なものを見たような気がしました。
ひょんな事から参加したイベントでしたが、自分にとっても色々と勉強になったひと時でした。この後の懇親会でも、日野隆司氏や会場提供者のお医者さん、ミュージック・アート・クラブの皆さんとの語らいも、とても楽しいものでした。

N. S. ハルシャ展を観れてよかった

今日は、昼と夜にミーティングの予定が入っていたので、その合間を利用して、森美術館で開催されている「N. S. ハルシャ展:チャーミングな旅」を観に行きました。

N. S. ハルシャは、インド南部カルナータカ州のマイスールに生まれ、今もこの地方の古都を拠点に活動するアーチストで、伝統文化や自然環境を踏まえつつ、開発に伴う農民の苦悩などに象徴される不条理、イメージの繰り返し、など独特の世界を表現していました。

有名人を含む2000人の人物が一面に描かれた「ここに演説をしに来て」と題された大作。今回の展覧会の目玉作品ですが、「ウォーリーを探せ」的にいろんなユニークなキャラクターを探す面白さに加えて、全体が醸し出すなんとも言えぬ雰囲気に飲まれていきます。

鏡張りの部屋には、床一面にハルシャの描いた人々の姿があり、そこへ寝転がって、天井を見ると、天井の鏡を通して、ハルシャの描いた人々と自分が一体になる、という不思議な空間がありました。スマホを掲げる私が写っています。

さらに行くと、そこには193台の足踏みミシン。これらのミシンの下には世界各国の国旗が置かれ、ミシンの間が糸で結ばれています。グローバリゼーションを表現したものですが、ミシンの下に敷かれた国旗の存在の薄さが印象的です。

「ふたたび生まれ、ふたたび死ぬ」と題された大作。勢いのある太い線の中には、宇宙を構成する星々が描かれ、観る者へ向けて、なんとも言えぬ光を放ってきます。

最後に掲示されていたのは、「道を示してくれる人たちはいた、いまもいる、この先もいるだろう」という作品。様々な所作の猿たちがすべて、上を指差しています。猿たちは、神の化身であるハヌマンなのでしょうか。

土曜日の午後だったせいか、森美術館の入口は大変な人出で、長い行列ができていました。前売券を買ったものの、窓口で入場券に引き換える必要があり、相当な混雑が予想されました。観るのをやめて引き返そうかとも思いました。

でも、11日までしかやっていないので、頑張って観ることにしました。そして、その決定で本当によかったと思います。ハルシャ展自体は、さほど混んではいませんでした。

ハルシャの作品のスケール感、そして、地方の生活に軸足を置き、地に足のついた社会に対する痛烈な批判と世界への警鐘。地域の子供たちなどとのワークショップを頻繁に行っている姿勢にも感銘しました。

森美術館は近年、アジアの埋もれたアーチストの発掘・紹介に力を入れているとは聞いていましたが、今回のハルシャ展は十分に満足いく内容でした。彼の活動拠点であるマイスールをいつか訪れ、彼自身といろんなことを話し合ってみたくなりました。

米国でも中国でもなくインドネシア?

私の友人のフェイスブックページに、「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」という英語記事が紹介されていました。以下のサイトがそれです。

 Indonesia: Country of the Future

これは、今後の経済成長の話を言っているのではありません。たしかに、15〜64歳の生産年齢人口の増加があと10年以上は続くインドネシアは、成長市場として、日本のビジネス界も有望市場として力を入れています。そういう文脈で、日本では「成長著しいインドネシアで儲けよう」というような紹介がけっこうされています。

でも、ここで取り上げるのは違います。

だいたい、掲載されているのはArtists & Climate Changeというサイトで、経済やビジネスとはあまり関係がありません。いったい、芸術や環境問題に関連してそうなサイトがどうして「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」などと言っているのでしょうか。

興味のある方は、ぜひ、この内容を直接読んでいただきたいのですが、ここでのキーワードは「コモンズ」です。コモンズとは、コミュニティが共同で管理する資源のことであり、誰か個人の所有権の集合体というよりも、コミュニティが所有するという形です。言い換えると、所有ではなく共有(シェア)を重視するアプローチになります。

今や、世界中のアーティスト、都市プランナー、環境保護活動家などが、資本主義や商業主義に対するアンチテーゼとして、このコモンズの考え方に親近感を抱き、コミュニティと協働しようとしています。

そうした彼らから見ると、インドネシアのゴトンロヨン(相互扶助)といった根強い考え方のなかにコモンズ的なものを強く感じるようです。

インドネシアでも商業主義の影響は村落部にまで広まり、都市ではゴトンロヨンが形骸化しつつある状況も見受けられます。このサイトの書き方はちょっと過大に高評価しているようにも思えます。でも、先日、ジョグジャカルタ市の隣のスレマン県の村へ行った際、農民が村の決まりごとを皆んなで決めて皆んなで守る、本当の意味でのゴトンロヨンがまだしっかりと機能しているのを確認しました。

そのジョグジャカルタなどでは、建築家がコミュニティのイニシアティブや助言を基にして制作活動を行う動きもあるようです。アーキテク・コミュニタスという建築家グループは、地元の人々を信じること、コミュニティとの相互信頼が必要条件である、と明言しています。

インドネシアでのアーティストのユニークな創造性、連帯意識、豊かな資源といったものに加えて、コモンズに関わるローカル・ナリッジ(地元の知恵)が息づいていて、それが持続的な社会を作っていく。とするならば、我々は、気候変動や環境悪化の最前線にあるインドネシアの彼らからもっと学ばなければならないのではないか、とここでは主張しています。

このサイトでは、2016年の流行語「ポスト真実」から、2017年は「コモンズ」へ、というメッセージも込められていました。

日本でも、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内芸術祭にもそれらと共通した動きを見ることができるし、それらのイベントをコミュニティとともに作り上げる努力を長年続けてきた北川フラム氏らの活動からも、同様の意識を読み取ることができます。

そう、こうした動きは、インドネシアでも、日本でも、世界でも、同時代的に起こっているのです。とするならば、日本でもまた、「ポスト真実」から「コモンズ」への動きが起こってほしいし、起こしていきたいと思うのです。

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