新宿でハラル・ラーメンを食べる

先週、インドネシア・マカッサルから来訪した友人一家と一緒に、富士山、山中湖、御殿場プレミアムアウトレットモールへのツアーに参加した後、新宿のハラル・ラーメン桜花に連れて行きました。

この店のことは前から気になっていて、いつか食べに行こうと思っていたのですが、なかなか機会がなく、今回、友人を連れて行くという名目で食べに行くことができました。

午後7時、東京メトロ丸ノ内線の新宿御苑駅近くにあるこの店に到着。すでに、店の外で5〜6人が待っていました。おー、人気店なのか。

冷たい風に吹かれながら、友人一家と待つしかありません。店の外には椅子が4つ置かれ、寒さよけの毛布も用意されていました。

お客さんはマレーシアから観光で来たカップル、インドネシア人の家族、そして我々。店の前に順番待ちの名前を書いていると、中から女性店員が出てきました。

すると、私の顔を見て、何の躊躇もなく、「今まだ時間がかかります」とインドネシア語(マレーシア語ではない!)で話しかけてきました。あれ?と気づくまで、しばし時間がかかりましたが。都内の某大学で勉強している留学生でした。

満員の店内をのぞくと、客はインドネシア人がほとんどで、他に中東系のグループ。ラーメン店なのに、なかなか席が空きません。

寒風のなか、待つこと40分。ようやく中に入れました。そして、なぜ席がなかなか開かなかったのかがわかりました。

この店の夜のメニューは3つのコース・セットしかなかったのです。スパイシーコース、普通コース、ベジタリアンコースの3つで、ラーメン以外に、鶏つくね(+80円で牛つくねも可)、ラーメンのトッピング用の鶏の焼肉・煮卵・ベビーコーン、麺を食べた後のスープをかけるご飯、がつくセットでした。

普通のような、ラーメンだけさくっと食べて店を出る、というものではありませんでした。

このセットの出てくるのに、意外と時間がかかるのでした。そして、客は、飲み物を飲みながら、このセットメニューをゆっくり食べるというスタイル。これなら、なかなか席が空かないのも無理はありません。

麺は茹で加減がちょうどよく、具がスープの中に入っていないので、スルスルと食べることができました。スープはあっさり系の海鮮味ですが、煮干やエビの味が前面に出るタイプとは一線を画していました。

私は普通セットを頼んだのですが、日本の一般的なラーメンを食べている身からすると、今ひとつ、味がおとなしすぎて、飽きてしまうような味でした。クセになるような味ではなかったです。

カウンターだけの店ではありますが、回転率の早い一般的なラーメン店とは違う店でした。お客さんは皆外国人で、日本人の客をターゲットにしている感じはありませんでした。おそらく、ハラルだからという理由で通う客はいても、常連客を狙っているようにも見えませんでした。

それでも、友人一家は大変満足し、とても感謝されました。自分一人で食べに行くことはないと思いますが、次回、また、ムスリムの友人が来訪し、希望があれば連れて行きたいと思います。

ラーメン桜花のホームページはこちら。http://www.m-ouka.jp/

企業メセナ協議会のイベントに出席してみた

先週は、公益社団法人企業メセナ協議会の主催する2つのイベントに出席しました。友人であるインドネシアの都市研究専門家のマルコ・クスマウィジャヤ氏が出ているので、彼に会いに行くというのも一つの目的でした。

1つ目は1月24日、「文化拠点と地域・コミュニティ:ケーススタディ&ワークショップ」というイベント。出席者が3つのグループに分かれて議論し、「過疎・高齢化の進んだ地方小都市で元庄屋の古民家を生かしてどのようなコミュニティ再生が可能か」というお題で、グループごとにアイディアを出し合う、というワークショップでした。

議論中に、マレーシアの都市コミュニティ開発機関シンクシティのディレクターであるダンカン・ケンプ氏と前述のマルコ氏がグループを回ってアドバイスを行い、議論終了後、各グループから出されたアイディアに対して2人からコメントをもらう、というものでした。

私の属したグループは5人と少人数で、ゆっくり話し合いをすることができました。メンバーは文化・芸術及びその振興活動に関わっている方々でしたが、驚いたのは、全員が地域・コミュニティの再生・活性化のための芸術・文化の役割について真剣に考えていらしたことでした。

よそ者が芸術や文化を外から持ち込んでも一過性のものにしかならない。それが何らかの持続的な変化を地域・コミュニティに起こしていくためには、何が必要になるのだろうか。現実の話として、地元の方々は自分達に負担がかからない限りにおいて、よそ者が文化イベントをやることは拒まないけれども、積極的によそ者の行事に関わるわけでもないのです。

今行われているビエンナーレやトリエンナーレは、それをやり続けている間に何か新しいものが生まれ、地元の方々にもその必要性が理解されて、持続性がいずれ確保されていくだろう、という根拠なき希望のもとに行われている、という指摘も出ました。

それじゃあどうするのか、と議論していてもなかなかいいアイディアは出てきません。そこで、原点に戻って、まず地元の人の話を丁寧に聞くことから始めるしかない。その話を聞いている中からその人が地域で生きてきた様々な知恵や生きざまや特技などが見えてくる。

その地元の人自身が気づかなかったり、忘れてしまっていたりしたものも、話を聞く中でいろいろと引き出されてくるかもしれない。そうやって、その人の生きてきた人生を敬い、肯定しながら、その人の持っている大事なものをもう一度認識する。そのようなプロセスを経ると、地元の人たち一人一人が、実は広い意味でのアーティストになるのではないか。

よそ者がアートを持ち込んで何かやるのもいいけれども、そこにいる地元の人たち一人一人が「アーティスト」であることを発見し、それを地域・コミュニティの中で生かしていくことが、アートが地域に根ざすという意味で有益なのではないか。

私のグループでは、そんな議論をゆるゆると続けていました。マルコ氏は「再発見」という言葉を使い、アートが地域の中で何かを始めるときに決定的に重要である、とコメントしてくれました。

私自身は、故郷の福島市で、古民家を生かした場づくりに関わることを考えており、このワークショップのお題に違和感は感じませんでした。今回のメンバーは、わずか1時間の議論では話し足りない、もっとずっと話をしていたいね、と言い合いました。素敵なメンバーに恵まれて、とても気持ちのよいワークショップでした。

2つ目は、1月26日の東京フォーラム「芸術・文化を振興する企業理念とは:インドネシア・マレーシア企業における展開に向けて」というシンポジウムへの出席でした。

このシンポジウムには、前述の2人に加えて、マレーシアからパフォーマンスアート協議会のアズミー氏、インドネシアから芸術振興財団代表のリンダさん、フィランソロフィー・インドネシアのレスマナ氏が出席し、各国における企業と芸術活動との関係について、話し合いを行いました。

それぞれの国の状況紹介がありましたが、やはり、観客動員数や認知回数といった短期的な成果を求める企業側と、芸術活動の社会への受容を長い目で見たい芸術家側との認識ギャップがなかなか埋まらず、日本の一部民間企業が行ってきたような長期的な企業メセナの視点がまだ十分に育っていない、という評価でした。

そういう日本にしても、かつての高度成長期とは逆の状況の中で、これまでのような形で民間企業が芸術振興にじっくり関わっていける余裕が少なくなってきているようにも見えます。これからメセナを高めていきたいマレーシアやインドネシアと、企業メセナをより成熟した社会の中で定着させたい日本との間で、どのような有意義な相互学習関係が生まれてくるのか、個人的にはなかなか興味深く聴かせてもらいました。

日本の芸術家のほとんどは民間企業の支援によって育てられた、とも聞きました。少なくともインドネシアでは、まだそのような状況にはありません。しかし、自分たちで何とか資金を工面し、小規模ながらコツコツと芸術活動を続けている小集団が全国各地に存在しており、その中には、目を見張るような技術を持った者たちも存在します。

地方政府は行事などの折に彼らを招いてパフォーマンスをさせたりしますが、あくまでも行事に彩りを添えるものであり、パフォーマンス自体を芸術的に評価して深めさせようという意識はまだ低いと言わざるをえません。

それでも、民間企業が少額ながら寄付をし、それらをかき集めて、地方政府からの支援なしで実施するようなイベントも現れました。その一つが、私の仲間がインドネシア・マカッサルで毎年開催しているマカッサル国際作家フェスティバル(MIWF)です。今年も5月17〜20日に開催されます。このMIWFでは、実は私も、5年前から、インドネシア東部の若手有望作家を発掘するセッションのスポンサーを個人的に続けています。

今回のイベントは、東京オリンピックを前に、マレーシアやインドネシアなどの文化活動の勢いを日本へも取り込み、日本の地域をアートで元気にしたい、それを企業が支援していけるようにする、という目的があると感じました。

私としては、その対象を日本だけでなく、外国と結びつけることで、日本の地域だけでなく外国の地域でも、新たなアートが生まれ、それがきっかけとなって日本のローカルも外国のローカルも一緒に活性化し、再生していくという動きが生まれる、という方向性もぜひ考えてほしいと思いました。

そう、もっともっと、国境を越えた、地域に根ざしたアートの結合と新たなアートの様々な創造が起こってほしいし、起こしてみたい、と思いました。

中国正月に寄せて:華人>プリブミの時代は終わった

今日は中国正月(イムレック)。私は東京ですが、インドネシアでも、各地で爆竹が鳴り、花火が上がり、獅子舞が繰り出し、賑やかにお祝いをしているようです。

2016年2月の中国正月、スラバヤの
タンバック・バヤン地区で見た獅子舞

スハルト時代から30年以上、インドネシアを見てきた自分にとっては、このお祝いをしていること自体が信じられないことのように思えます。

なぜなら、1998年5月のスハルト大統領辞任までの時代は、基本的に中国との対決姿勢をとってきており、中国正月を祝うどころか、漢字の使用も禁止されていました。華人系の人々は、身内だけでひっそりと、人目を避けながら中国正月を祝っていたのでした。

スハルト政権が崩壊し、後継のハビビ大統領の後のアブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥル)大統領の時代に中国正月を祝日とすることが決まり、その後のメガワティ大統領の時代に正式に祝日となりました。中国正月が祝日となってから、まだ10数年しか経っていないのです。

そんな歴史を感じさせる様子もなく、街中のショッピングモールでは中国正月向けのセールが行われ、中国正月を祝う赤い色で埋められています。

華人はインドネシア国籍を持つインドネシア人の一部、という認識が定着してきました。華人系の人々も、祖先の出身国である中国よりもインドネシアへの帰属意識が強くなり、華人系だから中国共産主義の手先、という見方も随分と薄れました。

スハルト時代には認められなかった華人系の政治・国防治安への進出も進み、華人系の政治家や軍人・警察官も、一般には特別視されるような状況でなくなりました。

漢字交じりの看板はあまり見かけませんが、中国語の新聞や雑誌などはけっこう出版されています。テレビやラジオでは、中国語ニュースの時間がレギュラーであり、中国語の歌謡曲やポップスも流れます。

スハルト時代に政治・国防治安への参入を禁じられていた華人系は、ビジネスの世界で生きていかざるをえず、その結果として、ビジネスは華人系企業グループが牛耳っている、という状況は、マクロで見ればあまり変わっていませんが、ミクロで見ると変化が起こっています。

すなわち、30〜40代の経営者を見ると、華人系だから優秀で、プリブミ(非華人系)だからダメ、ということはほとんど言えなくなりました。華人系でもそうでなくとも、彼らの多くは海外で教育を受けた経験を持ち、アジア全体に目を向けて英語でビジネスをし、経営手法も、かつてのような政治家と癒着したり特別扱いしてもらうことを前提としない、スマートな経営を行っています。

日本では今だに「華人系でないとパートナーとしてはダメ」といった話をよく聞きます。しかし、何を根拠にそう言えるのか(おそらく話者の幾つかの経験に基づくのかもしれませんが)、疑問に感じます。

華人系とか非華人系といったレッテルで見るのではなく、個々の経営者が優れているかどうかを見極めて、判断する眼力が求められていると痛切に感じます。

そして、華人系を中国と常に結びつける見方も適切ではなくなっています。たしかに、彼ら華人系は中国の政府や企業とビジネスを行っていますが、それは人種的な親近感に基づくのではなく、純粋にビジネスとして有望かどうかを判断して行なっているのです。非華人系でも、同じように中国の政府や企業とビジネスを行っている者が少なくありません。

スハルト時代の末期には、スハルト・ファミリーのビジネスを非華人系の代表として優先的に拡大させることを暗黙の目的として、華人系をディスる傾向が見られましたが、現在は、非華人系が政治家と結託して華人系をディスるような傾向は見られません。その意味で、何の根拠もなく、「華人系のほうがプリブミよりも優れている」といえる時代はもはや終わったのだ、と思います。

ただし、昨今の中国人労働者の大量流入や中国企業の進出を背景に、中国ファクターを政治的に使って現政権に揺さぶりをかけたがっている勢力が存在する様子もうかがえます。

ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック現知事(休職中)への攻撃も、華人系でキリスト教徒であるという点を執拗に攻めている形です。これは、あくまでもアホックへの個人攻撃とみなせるものですが、これが制御を失って、政治的に中国批判という形になってしまうとまずいです。

現に、現政権の与党・闘争民主党やジョコウィ大統領が中国を利しているとして、共産党との関係を疑うような話題も出始めており、中国ファクターを政治的に使って政権批判を行う可能性がないとは言い切れません。そして、国際政治にそれが連結した場合、今の微妙な日中関係を背景に、インドネシアにおける日本や日本人の立ち位置が難しくなりかねません。

もっとも、今のインドネシア社会では、(インドネシア人である)華人系と(外国である)中国とを区別するという態度が一般的になってきています。ですから、それほど過度に心配する必要はないのですが、一応、気をつけて見ていく必要はありそうです。

少なくとも、「華人系だから」といった色眼鏡でインドネシアのビジネスを見ることなく、経営者やそのビジネスの中身で判断する時代となっていることを理解して行動してほしいと思います。

外国人向け富士山・御殿場観光ツアーに参加して

今日は、インドネシアから来た友人とその家族と一緒に、外国人向けの観光ツアーに参加しました。彼らは富士山に行きたいということだったので、英語ガイドが付く次のツアーを申し込みました。

 1-Day Mt. Fuji, Gotemba Premium Outlets & Yamanakako Onsen

このツアーは、まず富士山へ行き、忍びの里でランチを食べ、山中湖温泉で温泉に入り、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物をして、東京へ戻る、という内容でした。今日のそれは、天候に恵まれて、とても良い一日になりました。

富士山では、スバルラインで4合目まで行きました。雪がたくさん残っていて、友人の子供たちは大喜びでした。

また、富士山4合目から見た南アルプス連峰の素晴らしく美しいことと言ったらありませんでした。

道中、何度も見えた富士山は、雲ひとつない空に美しくそびえ立っていました。富士山って美しいなあ、と改めて何度も思いました。

インドネシア人の友人とその息子2人は、温泉にも挑戦しました。最初、裸になるのを嫌がるかもしれない、と思いましたが、彼らは覚悟を決めて裸になり、温泉に浸かりました。するとどうでしょう、すっかり気持ちよくなり、気泡湯や露天風呂など、そこにある全種類の温泉に挑戦し、とても喜んでくれました。温泉好きのインドネシア人が3人増えました。

温泉の後は、御殿場プレミアムアウトレットモールでお買い物。このアウトレットですが、モールのどの通りからも富士山が見えるように作られているのに感心しました。

友人はバッグを買い、子供たちはバンダイやポケモンセンターなどで楽しんだ様子です。聞いてはいましたが、本当に外国人観光客の多いところでした。

今回のツアーですが、インドネシア人向けの冬のツアーとしてはよくできていて、オススメと感じました。富士山を眺め、本物の雪を楽しみ、初めての温泉体験をし、アウトレットで買い物もできる、と、一日でいろんな経験を楽しめるからです。

ガイドさんも英語が分かりやすく、かつ、移動中の車内で退屈しないように、簡単な折り紙で雪の積もった富士山を作るなど、いろいろな工夫をされていました。

総体的には良いツアーだったのですが、いくつか改善して欲しい点がありました。

まず、インドネシアやマレーシアなどからのイスラム教徒のお客さん向けの配慮をもう少しして欲しいと思いました。ツアーを申し込む時に食事について聞かれるのですが、ノーマルかベジタリアンしか選択肢がなく、今回も、別のインドネシア人の参加者がとても不安がっていました。

今回は、ガイドさんが「豚のものはありません」と繰り返していたので、安心していました。ところが、実際には、昼食会場では、地元特産の豚肉を使った料理(焼きそば)が1つ入っていて、ガイドさんお言葉を鵜呑みにしたイスラム教徒の参加者が知らずに食べてしまいました。「豚のものはない」とツアー会社から聞いていたガイドさんは、結果的に嘘の情報を流してしまったことになり、とてもお気の毒でした。また、食べてしまった方を私も懸命になって慰めました。

この昼食会場は、こうしたツアーで来る外国人専用に近い場所のようで、もしも、外国人だからこのぐらいで大丈夫だろう、という予断があるのならば、すぐに正していただきたいと思いました。日本人には知られてないから大丈夫、という態度ならば、いつかは必ずバレます。

次に、温泉です。今回の友人とその息子たちのような、覚悟を決めて違う体験をしようという客ならば良いのですが、すべての人がそうとは限りません。人前で裸になるのを拒む人も少なくないと思われます。今回の温泉は、そういう人の温泉体験を結果的に拒絶することになってしまいます。

少しでも温泉体験をしてもらえるように、せめて足湯の設備を整えてもらえたらと思いました。今回の温泉には足湯がなかったのです。私の経験では、足湯だけでも十分にインドネシアからのお客さんに温泉気分を楽しんでもらえました。また、足湯にすれば、温泉場での滞在時間をもっと短くすることができ、より柔軟な日程を組むことができるメリットもツアー会社にはあるかと思います。

外国人向けのツアーに参加してみて、対象が外国人だけで日本人はいないから、という甘えのような部分が見えました。おもてなしとは、日本人にも外国人にも同じようにするものではないでしょうか。外国人だけで日本人には知られないから、という気持ちで観光客を迎えるのでは、日本のおもてなしの劣化と捉えられても仕方ないでしょう。

自分も将来、様々な形で質の高い、交流型のスタディツアーを実施運営したいと考えているので、今回の経験は色々と勉強になりました。

影絵芝居への批判をめぐって

ジャカルタで今日、ホットな話題となっているのが、ワヤン・クリッ(影絵芝居)批判です。

ワヤン・クリッというのは、ジャワの伝統的な影絵芝居で、水牛の革や角で作られた人形(下写真はその一つ)に灯りを当て、ガムラン演奏をバックに、ダランと呼ばれる演者が一人で人形の操演と語りを行うものです。

この影絵芝居を批判する垂れ幕がジャカルタ中心部で現れたことが、ツイッターなどの写真で見つかり、話題となっています。

その写真の一つは、例えば、以下にあるようなものです。

 VIVAニュースサイト

そこに書かれているのは、直訳すると「影絵芝居を演じるのはイスラム法(シャリア)ではない」、すなわち、影絵芝居はイスラムにそぐわない、という意味に取れます。ほかにも、「影絵芝居はイスラム教徒の文化でも教えでもない」「影絵芝居の上演を固く禁止する」といった垂れ幕も現れました。

インドネシアのワヤン・クリッ(影絵芝居)は、むしろイスラム教を広める媒体として使われたという歴史があり、こうした垂れ幕に対して、疑問を呈する声が起こっています。

最近は、映像や写真を加工して虚偽の情報を流すことが横行しているため、この写真も加工したものでイスラム教徒同士の分断を狙った陰謀ではないか、といった説まで出ていました。

インドネシアのイスラムは、とうとう自分たちの土着文化までをも目の敵にし始めたのでしょうか。それほどに、単純に急進化しているのでしょうか。

今回の事件は、そのように単純に受け止められるものではありません。

実は、ちょうど、ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック州知事候補と組んでいる州副知事候補のジャロット氏が、アホック=ジャロットの名前を前面に出さずに、影絵芝居のイベントを開いていたのです。ジャロット氏は影絵芝居の愛好家として知られています。

影絵芝居を批判する垂れ幕は、その影絵芝居イベントへ行かないように促すことを目的として、対立候補ペアの支持者たちが作ったものと察します。

しかし、その文面だけから見ると、あたかも、インドネシアのイスラムが代表的な自国文化に対する寛容さえも失っているかのように捉えられてしまいます。

今回は、そうではないと確信しますが、過去の歴史を見ると、そういってただ笑って過ごせばいいものでもないことに留意する必要があります。

かつて、南スラウェシ州では、伝統的な民族舞踊にイスラムの要素を入れるべきだとして、政府が介入して、踊り手の衣装などに改変が施されました。バリ舞踊でも、ムスリムの踊り手が踊る場合に、肌を出す女性の衣装にクレームがつくという事態が起こっているようです。

それ以前にも、偶像崇拝的な農耕儀礼や先祖伝来の民話なども、イスラムの教えに合わないという理由で禁じられ、迫害されるような事態がありました。

国民の多数派であるイスラムこそ、他者や少数派への配慮や寛容が必要であることは、多くの国民に共有されているのですが、一部の勢力が政治的理由からイスラムを利用する可能性は依然として高いと言わざるをえません。それら勢力による政治利用の自己制御が効かなくなったとき、寛容できる余裕を失い、社会は分裂へ向かう可能性が高くなるのではないかと思われます。

アメリカに対しても日本に対しても、この影絵芝居批判騒動と同じような雰囲気を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

今回マカッサルで食べたもの

今回のマカッサル滞在で食べたもの(の一部)は、以下のとおりです。今回は、うんちくなしです。

Coto NusantaraのCoto Makassar

Kios Muda MudiのEs Pisang Hijau

Toarco Toraja Cafeのリングシュークリーム

Kios Ratna JuwitaのGado-Gado

Roemah PojokのNasi Kuning Ambon

他にもいろいろ食べましたが、とりあえず、今回は以上のようなものをマカッサルで食べました。皆さんのお好きなものはありましたか。

友人の結婚式に出席

1月14日は、マカッサルで友人の結婚式に出席しました。

友人のお父様は地元国立大学医学部の重鎮教授で、広島大学に留学したこともあり、マカッサルの日本人社会とは深いお付き合いをしてきた方です。友人はその時、日本の小学校で学び、日本語を勉強し、今はマカッサルで日本語学校の校長をされています。

とてもきれいな流暢な日本語を話す友人は、これまでに何人もの生徒に教え、また、マカッサルで日本人にインドネシア語も教えてきました。

控えめで落ち着きがあり、裏表がなく、真面目でしっかり者の彼女はみんなに愛され、親しまれてきました。今日の結婚披露パーティーも、そんな彼女の姿が見られました。

私以外にも、日本から駆けつけた友人たちが数名いました。日本人、インドネシア人問わず、久々にお会いできた私の友人・知人がたくさんいました。温かい雰囲気のとても気持ちのよいパーティーでした。他人のために色々尽くしてきた彼女に、今度は彼女自身がもっと幸せになってほしい、と願わずにいられませんでした。

さて、先ほど、その日本人の友人たちから「これから飲みに行こう」という誘いが入りましたので、夜も更けてまいりましたが、これから出かけてきます。

インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会

マラッカの興奮も冷めやらぬ中、1月13日昼前、無事、マカッサルに着きました。雨季のマカッサルということで、雨模様でした。

ホテルにチェックインして、まずは、もちろん、ワンタン麺を食べに行きました。マカッサルに着いたら真っ先に食べたくなるのが、これです。

そして、ホテルに戻ってから、インドネシア研修生実業家協会南スラウェシ支部のメンバーと面会しました。

インドネシア研修生実業家協会(IKAPEKSI)という組織は、技能実習研修生として日本に滞在し、インドネシアへ戻った後、起業したり、企業で働いたりしている方々が立ち上げたOB会のような組織です。この組織の立ち上げは彼ら自身のイニシアティブによっており、日本政府からもインドネシア政府からも立ち上げに関する支援は受けませんでした。

現在は単なる親睦団体としてだけでなく、IKAPEKSI会員間のビジネスマッチングや情報交換、日本から帰国した技能実習研修生に対する教育訓練や事業相談、なども行っています。現在、インドネシア国内の各州に支部をつくり始めており、南スラウェシ州支部もその一つとして昨年立ち上がりました。

南スラウェシ州からの技能実習研修生は、日本滞在中に行方不明になるなど問題を起こしたため、しばらく同州からの派遣が見合わされてきました。それゆえ、メンバーの多くはだいぶ前に日本に滞在した古い人がほとんどで、若いメンバーがいないという特徴があります。彼らとしては、何としてでもそうした汚名を晴らし、再び南スラウェシ州から技能実習研修生を派遣できるようにしたい、という強い願いがありました。

縁あって、私はIKAPEKSIのアドバイザーを務めており、真面目に活動している彼らの良き相談役でありたいと願っています。そして、技能実習研修生に関するマイナスのイメージを払拭し、彼らのような活動がもっと認知されるように、微力ながら努めていきたいと思っています。

ウソがまことか、まことがウソか

最近の様々な情報を見ていると、本当に、「ウソがまことか、まことがウソか」という気分になります。

日本でもインドネシアでもアメリカでもどこでも、誰かが何らかの目的や意図をもって、端からは生の情報のように見えながら、実は加工された情報が流されるようになっています。情報操作のための手段として、メディアの情報が流れるようになってきました。

特に、映像情報では、映像を傍目にはわからないように加工して、誰かを貶めるための手段として使われています。また、貶めたい人の過去を目を皿のようにして調べて、ちょっとでも貶められそうなネタがあれば、それをことさらに強調する者もいます。

そうした情報が正しくないことが証明されたとしても、そうした情報を流した者がそれを認めることはなかなかありません。

なぜなら、そうした情報が量的に拡大し、たくさんの人々に知られるようになれば、そのウソの情報が力を持ち、権力と結びついたりすると、それが本当の情報として認知されてしまったりするからです。

そうなると、地道に事実を積み上げて客観的な情報を提供しようと努める真摯な人々が、反動的だとか権力迎合だとか体制的だとか、いわれのないレッテルが貼られ、その声がメディアを通じて大きくなればなるほど、真摯な人々を誰も守ることができなくなってしまいます。

最近、とみに、こうした「ウソがまことか、まことがウソか」という状況が強まっていて、その一端をSNSがになっていることは否定できないような気がします。

こうした情報に振り回されて、自分が自分であることを見失ってしまう、いや、失ってしまっていることに気づかないような場面が出てくる恐れがあります。

自分を見失わないためには、他人が言うことではなく、自分の五感をまず信じることが大事でしょう。本を読み、旅をし、様々な人と交わることで、借り物ではない自分自身の思想を作っていく作業を続けていくことが肝要かなと思います。

そのためにも、自分の生活の場である地元、ローカルの現実に自分なりの根を張り、五感で得た現実の事実から思想の根を生やし始めることだと思います。そして、飛び交うメディアなどの情報を、自分の思想に基づいて取捨選択し、白か黒かではない、情報に応じた是々非々の態度をとることが求められるような気がします。

さらに、白か黒かをはっきりさせるような議論はレッテル貼りの亜流であり、そうした動きには関わらないこと、レッテル貼りの対象になるようなことがあってもひるまないこと、が大事になるかもしれません。

ウソがまことでまことがウソ、という状況を笑って済ませられる時代は、もう終わりつつあるのかもしれません。様々な疑問をしっかり持ち、常に批判的に情報に接する態度を養いたいものです。

友人の結婚式に出るためマカッサルへ

今度の土曜日、1月14日の私の友人の結婚式に出るため、インドネシア・マカッサルへ行ってきます。今回は、仕事ではなくプライベートです。

彼女は、マカッサルで長年、日本語学校を運営し、たくさんの若者たちに日本語を教え、日本のことを伝え広めてきました。

彼女自身、日本の大学に留学中の父親に連れられて、日本で何年も過ごしました。日常会話の日本語はまったく淀みなく、インドネシア人と会話していることを忘れるほどです。

彼女の結婚式がメインではありますが、久々に、時間の許す限り、懐かしいマカッサルの友人たちとも再会する予定です。仕事で行くと、時間がなくてなかなか彼らに会えないので、今回のようなプライベートの旅の時間は貴重でもあります。

友人たちの中には、南スラウェシ州政府の国際交流局長や投資調整局長など、重要ポストに就いている者も少なくありません。20年以上前、JICA専門家(地域開発政策アドバイザー)としてマカッサルに滞在したとき、彼らはまだヒラで、毎日のように、オフィスで彼らと地域開発政策について、それこそ色々と議論したものでした。

彼らとの再会も楽しみです。

もちろん、マカッサルですっかり馴染んだ食べ物との再会も楽しみです。

マカッサルの夕陽(2016年8月27日)
今回は雨季なので、恐らく素敵な夕陽にはお目にかかれないでしょう。

今回は、マレーシアのクアラルンプール経由のエアアジアで、東京=マカッサルを往復します。11日夜に羽田を出て、12日はマレーシア、13〜16日がマカッサル、17日がマレーシアです。マレーシアでも、知人に紹介された新しい友人たちほかと会う予定です。

個人的には、今年ぐらいから、日本=インドネシアの二国間の往来から、マレーシアなどの他の国へのヨコ展開を進めていきたいと考えています。

とくに、いろんな国の地方で頑張っている人々の活動をもっと学んでいきたいと思っています。皆さんのご推奨の場所があれば、ぜひ、情報提供をお願いします。

右ならえの自己アピール

昨日のブログを私のFacebookで紹介したところ、友人たちが色々なコメントを寄せてくれました。そのなかで、興味深かったのは、自己アピールについてのコメントでした。

マレーシア在住の友人から、日本の外へ出ると自己アピールの強い人ばかりで、しかもそのやり方がうまい、という話が寄せられました。たしかにその通りで、私が長年付き合っているインドネシアでも、同じように感じます。

それはアジアに限ったことではなく、欧米などでも同じで、「イエス・ノーをはっきりしなさい」とか、「自分の意見をはっきり言いなさい」といったアドバイスをよく聞いたものでした。そうしないと世界で通用する人間にはなれないような気分になるものです。

日本は、組織でうまく渡っていくには、その場その場の雰囲気(今の言葉でいえば空気)をうまく読んで、イエスともノーとも取れるような対応で、生き残っていく、そんな処世術がベースになっているような気がします。いったん組織に入ってしまえば、オレがオレがの自己アピールはむしろマイナス、とだんだんに学習するようです。

もしそうだとすると、大学生などの就活での自己アピールとは一体何なのでしょうか。学生の就活指導を行っている別の友人は、私のFacebookに「就活する多くの学生が自己PRに戸惑っている」とコメントを寄せられました。

極言すれば、企業側にいい印象を持ってもらって採用してもらうための自己PR、自己アピールなのでしょう。私は知りませんが、おそらく、自己アピールのハウツーを教える講座や教材もあるのかもしれません。それも仕方ない面があるとはいえ、手段としての自己アピールはちょっとつらいなあと感じます。

自己PRや自己アピールを考えることは、自分自身は何者かを振り返って知るためのよい機会とも考えられます。でも、そこから導かれる自分像が果たして企業側に受け入れてもらえるようなものなのか、企業側の希望やニーズに沿った自分像になっているかどうか、そういったことが気になって仕方ないのではないかと察します。

そうすると、他人がどんな自己PRをしてその企業に就職したかが気になり、採用してもらうためには同じような自己PRや自己アピールをしたほうがよい、という判断になりかねません。何だか、自己PRや自己アピールも受験テクニックのようになってしまうようです。

本当の自分はこうだけれども、それとは別に、就職のための自己アピール用の自分を作ってしまえ、と割り切ってしまうのも一つのやり方かもしれません。でも、それができる人は、おそらく自己PRに戸惑うことはないでしょう。

多くの学生は、就活をする大勢の同類が自己PR、自己アピールするという状況のなかで、自分だけ、それをしないで済ますことはできない、という感覚に支配されているのではないでしょうか。彼らのは、みんながそうだから自分もするという、右ならえの自己PR、自己アピールと言えなくもないでしょう。

それは、私が日本の外で感じたインドネシアなどでの自己アピールとはずいぶん違うように思います。

自分はどうしても将来これをやりたい、これを自分がやることにはこんな意味がある、だから組織もこのように変わらなければならない、自分はそれを実現するためにこの組織に加わりたいんだ・・・。日本の外で感じた自己アピールには、そんな要素がたくさん含まれていたような気がします(印象なので人によって感じ方は異なると思いますが)。

右ならえの自己アピールは、こうした自己アピールとは違うものだと思うのです。

自己アピールは、アピールしておしまい、というものではないはずです。本来、その自己アピールがマルかバツか、白か黒か、決めるものではなく、そこから何かが始まるもののはずです。では、何が始まるのか。

対話です。対話というコミュニケーションが始まるのです。

他者との対話。自己との対話。

物事の結論は、マークシートのようにすぐに決まりません。対話のプロセスの中で、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、それを新たに含めながら論理を組み直し、もう一度深く考え、新しい考えを生み出し、対話し、様々な思いもよらないモノやコトに気づき、というプロセスを何度も経ながら、結論らしきものが遠くにおぼろげに見えてくる、というものではないでしょうか。

対話のためには、自分が何者かを深く考える時間と経験が必要でしょう。読書や旅、そこでの人との出会いが、自分が何者かを考える機会となるはずです。本来、比較的時間に恵まれた大学時代に、そういったことをしっかりしておく必要があるのだと思います。

就活のための右ならえではない、しっかり対話のできる自分を作るための機会として、自己PR、自己アピールを考えることが大切なのではないかなと思います。

それにしても、今の若者にとって、素顔の自分をさらけ出してもいい場所、自分の意見や気持ちをそのまま吐き出してもかまわない安心できる場所、自分という存在をその考え方とともに認めてくれる場所、そんな場所が本当に必要なのではないかという気がします。

それが大学やアルバイト先にあるのか、いや家庭にあるのか、状況は個々人によって様々だと思いますが、右ならえの自己アピールに悩む学生たちが安心して悩み、そんな彼らを認めてくれる場所を作るのは、作らなければならないのは、我々、シニア世代なのだと思います。なぜなら、もしかすると、我々が彼らをそういう状態に追いやったのかもしれない、という気さえするからです。

あなたの「故郷」はいくつありますか

ずっと前から、故郷は一つでなければならないのだろうか、と考え続けています。

生まれた場所は一つしかないので、生まれ故郷は一つだけです。でも、「故郷」と呼べるような場所は、生まれ故郷と同じ場所である、とは限りません。

私にとっては、生まれ故郷は福島県福島市、その後、父の仕事の関係で福島県二本松市原瀬に2年、二本松市内に1年住んで、また福島市へ戻りました。

高校卒業まで福島市にいて、大学浪人中は埼玉県川口市、大学入学後は東京都東村山市、国立市、就職後は再び川口市、小金井市、そして、東京都区内に移りました。

さらに、インドネシアのジャカルタに2年、東京に戻った後、マカッサルに5年、また東京に戻った後、マカッサルに1年半、1ヶ月おいて再びマカッサルに2年、ジャカルタに3年、スラバヤに2年、そして今は東京に・・・、というふうに、点々としてきました。

これまでに挙げた場所はどこも、自分にとって、懐かしく愛おしい大事な場所になっています。何度か再訪するたび、そこで生きていた、生活していた自分(たち)を臨場感を感じながら思い出します。就職前までに住んだ家は、全てが跡形もなく無くなっており、自分(たち)がそこに居たという物理的な証は、もはや見つけることはできません。それでも、そこに行けば、いや、行かなくとも、行けなくとも、その場所とそこに居た自分(たち)を思い出すのです。

東日本大震災後に訪れた母校・
二本松市立原瀬小学校(2012年3月)

危険建築物として取り壊された
二本松市立原瀬小学校跡(2013年8月)

長く住んだ場所以外に、出張などでたくさんの場所を訪れ、色々な人々に会い、色々な思い出を作ってきたのですが、なぜか、それらの場所で思い出したくもない、嫌いになった場所を一つも思い出せないのです。

そんななかで、故郷は一つじゃなくていいのではないか、と強く思うようになりました。そのきっかけは、東日本大震災に伴う原発事故で突如故郷を失った人々の存在でした。自分の意思ではなく、ある日突然に、自分の居場所を去らなければならない、それも自然災害ではなく人災によって、というのは本当に理不尽なものです。それに加えて、自らの判断で自主的に避難した人々もいました。そんな様子を見ながら、自分の故郷でもある福島のことを思っていました。

強制的にせよ、自発的にせよ、避難した方々は、自分の生活の場である故郷を離れたわけです。新しい生活の場所をいずれ戻るための一時的な滞在場所と捉えるか、元の場所での生活を断念して新しい生活の場所と捉えるか、それは人によって、世代によって、場合によっては同じ家族の中でも、異なることでしょう。

でも、一時的な滞在にせよ、定住にせよ、今、生活している場所を「故郷」と思えるならば、そのほうが楽しいだろうし、気持ちも楽になるのではないか、という気がします。第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生も楽しいのではないか、と。

状況や立場は異なりますが、サラリーマン転勤族も、自分の意思とは必ずしも関係なく、あちこちへ移動します。彼らもまた、第二の故郷、第三の故郷、第四の故郷、と、日本中、世界中にたくさんの故郷があるような人生になれば楽しいのではないか、と思います。

自分にとっての「故郷」がたくさんあればあるほど、自分の関わった人々が増え、自分のことを思ってくれる人々が増えていく。そんな場所が世界中いたるところにあれば、どこへ行くにも安心した気持ちになれるような気がします。

戸籍や住民票といった公式書類ではなく、そこを故郷と思ってくれる人を増やすような、ファンクラブのような試みを、日本中、世界中でやってみたら面白いかもしれません。それは、ふるさと納税の豪華賞品を介在させるようなものではなく、言葉にできないような、個々人にとっての愛おしさや思い出を大切にする、多くの人々に「故郷」と思ってもらえるような場所になる、ということです。

故郷を愛おしむのは同じ日本人に限ったことではありません。アニメやポップカルチャーの愛好者とは別に、日本に住んだことがあり、日本のために何かをしたいと思っている外国の方々は少なくありません。そんな方々のための「故郷」に日本が、日本の地方がなる、ということはできないでしょうか。

逆に私のように、インドネシアとの関係が切れなくなって、インドネシアのあちこちの地方を愛おしく思い、そこのために何かを一生懸命やりたい、と思ってしまう外国好きの日本人も多いことでしょう。

高知県馬路村は、ユニークな手法で村のマーケティングに成功した場所ですが、そこには、日本人全員の「故郷」になりたい、という彼らの願いが込められているのでした。

自分の「故郷」を増やすのは、ふるさと納税で興味を持った市町村から始めてもいいかもしれません。商品だけでなく、実際にその市町村へ行き、人々と出会う中で、本当の「故郷」になるかもしれません。物理的に人口が減っても、「故郷」と思う人が増えていくのは、それが新しい何かを生み出すきっかけになるかもしれないと思うのです。

私の「故郷」は、これからまだまだ増えていくことでしょう。というか、増やしていきたいです。

あなたの「故郷」はいくつありますか。そして、「故郷」の数をこれから増やしていきませんか。

サンタ帽は宗教の押し付けか

この季節になると、インドネシアのショッピングモールやレストランなどで、サンタ帽やトナカイのツノをつけた従業員によく会います。

数年前、マレーシアのクアラルンプール国際空港で、空港職員がジルバブの上からトナカイのツノをつけているのを見たときには、本当に驚きました。とても興味深かったので、思わず、iPadで写真を撮ってしまったのですが・・・。

女性警備員がそれを見ていて、すぐに写真を削除するよう、強硬に求めてきました。マレーシアでは、空港での写真撮影が厳しく禁止されているのです。ジルバブの上からトナカイのツノは、それをうっかり忘れてしまうほど、衝撃的な出会いでした。残念ながら、写真は破棄しました(自動的にクラウドへアップできるものなら良かったのですが)。

その後、インドネシアでも同様にジルバブの上からトナカイのツノをつけている従業員をたくさん見かけることになりました。

しかし、インドネシアで、そうした従業員が上司からの指示で、嫌々ながらトナカイのツノをつけている、という側面があることが報じられました。実際に、どれぐらいの従業員が嫌がっているかはわかりません。気にしない従業員もいることでしょう。でも、従業員の宗教を無視して、上司がトナカイのツノやサンタ帽をつけることを強制してはいけない、という、まあ、当たり前の一般的な世論ができたような気がします。

振り返ってみると、インドネシアでトナカイのツノやサンタ帽が見られるようになって、まだ5年ぐらいしか経っていないような気がします。以前は、そんな姿は見られませんでした。というか、クリスマスは基本的にキリスト教との宗教行事であって、街中やショッピングモールがクリスマスで盛り上がるということは、特になかったと記憶しています。

最近、クリスマスの雰囲気を盛り上げるショッピングモールに白装束のイスラム系団体が押しかけ、イスラム・ウラマー審議会(MUI)が発出した「イスラム教徒が非イスラム教の格好をすることを禁止する」というファトワ(布告)を守らせるため、状況を監視し、ファトワに違反した場合にそれをやめさせようとするという動きがありました。

警察はこうした行為を行き過ぎであるとし、押しかけたイスラム系団体を説得して監視をやめさせようと努めました。宗教大臣は、イスラム系団体による一方的な監視は認めないとし、MUI自身もファトワの遵守は政府・警察などが行うべきとしてイスラム系団体による監視を認めない、という見解を示しました。

このファトワ自体に問題がある、ファトワ遵守が通常の法規の遵守よりも優先されるのか、といった議論はありますが、イスラム系団体が一方的に押しかけて監視することは認められないという点では一致しているようです。

そういえば、中国正月になると、今では、ショッピングモールの警備員たちが中国風の帽子や服装に身を包み、弁髪のような細長い結い髪の付け髪さえつける者さえ現れました。それを初めて見たのは3〜4年前だと思います。

クリスマスも中国正月も、そしてイスラムの断食明けも、すべてが以前よりも賑やかになりました。とくに、ショッピングモールや店々が競ってセールを催し、雰囲気を盛り上げるために、店のディスプレイや従業員の身なりを合わせていったのです。

10年、20年のスパンでこうした変化を見ていると、商業主義の影響がますます大きくなっていくことを実感します。トナカイのツノやサンタ帽は、その象徴といえるかもしれません。

上の写真は、昨年12月にマカッサルの有名な揚げ焼きそば屋Mie Titiで見かけた従業員ですが、この店でこんな様子を見たのは初めてだったので、やっぱり驚きました。

商業主義の浸透、という面は相当に強いのですが、他もやっているから自分たちも、という横並び意識も、商業主義の傾向に輪をかけているように思います。

便利屋にはならない、ともう一度言う

もう一度、言ってしまいたいのですが、やはり、自分は便利屋にはなりません。お人好しにもなりません。仕事師として生きていきたい、と改めて思います。

インドネシアと関わって30年経ち、地域づくりの勉強やファシリテーションに関わってからも10年以上経つのですが、自分はまだまだ未熟だといつも思っています。

インドネシアは関われば関わるほど分からなくなってくるし、地域づくりやファシリテーションもテクニックで済ませずにやろうとするとどんどん深みにはまってきます。

組織や地位に関わりのない状況となると、それに応じ、世間体を気にして演じる必要もないので、いつまで経っても、フツーの人の感覚で行動することになります。歳相応の態度、というのも分からないし、ある意味、まだ「子ども」のままなのかもしれません。貫禄ってなんだろう、なんて思います。

それでも、やはり、軽く扱われていると思ったり、タダで(あるいは安く)情報を取ろうとする人たちが私に接近してきます。「あなたの宣伝をしてあげるからタダで」と、なんだか心配してくださる方もいます。そういう方々と接していて、なんだか私を使い捨てのように見ていると感じたことがよくありました。実際、そういう方々は、必要なくなれば、私には何もコンタクトをしてこなくなります。

今年も様々な経験をし、学んだのは、仕事として割り切るべき時は割り切る、ということでした。

誠心誠意を込めて一生懸命尽くし、命を賭けるような覚悟で、自分の技の限りを尽くして何かを創ったとしても、その成果を他人が掠め取って、自分の手柄にしてしまう、ということが色々あることがよくわかりました。その他人にとっては、私はただの便利屋に過ぎなかったのです。

はい、あなたの仕事はこれでおしまい、と退場を促され、この後、自分の作ったものがどうなるかも分からずじまいになる、ということが起こってくるでしょう。そして、そこでは、そのような仕事のしかたで構わないのでした。

私は力の入れ方を間違っていたようです。誠心誠意を込めて一生懸命尽くし、命を賭けるような覚悟で、自分の技の限りを尽くす必要など、実はなかったのです。誰かが成果を掠め取っていくということが分かっていれば、最初からテキトーに仕事をしていればよかったのだ、と後悔してもいます。

自分が本当にやるべき「務め」は忘れてはならないのですが、それと収入や報酬を得るためにする「仕事」とは明確に分けて、「仕事」はその収入・報酬額を満たす分だけやればよく、それ以上の価値を生む余計なことはしない。

「いい人ですね」などとおだてられても、報酬なしの(下請け)仕事は基本的に断る、というのを基本にし、その濃淡を明確にしていく。ただし、「仕事」については、必要ならば、依頼主様のご希望には頭を下げて従うように振る舞う(これがなかなか難しい)。

そういったメリハリをつけて割り切って、「務め」の遂行のために「仕事」をする、ということが大事だと学びました。

2回前のブログでお知らせしたように、インドネシアに関する分析記事をノートというSNSを使って有料で書き始めたのは、その情報と分析は、皆さんにお金を払って読んでいただきたいからです。

でも、1本100円という価格設定が適切かどうかがまだ分かりません。それでも、お金を払って読んでくださった方がいたのは大変ありがたいことで、これからも、そこでしか読めないインドネシアの分析記事を(不定期ですが)書いていきたいと思います。

またまた神代植物公園のバラ

マングローブ保全とビジネスの両立

12月7〜11日、今年最後のインドネシア出張として、スラバヤへ行ってきました。

今回は、地球環境戦略研究機関(IGES)の研究員の方からの依頼で、持続可能なコミュニティを目指すための政策を考えるための前提として、環境と共生するスラバヤの地元での活動の現場などを案内する、という仕事でした。

今回は、わずか2週間前に依頼された急な用務でしたが、実質2日間で、スラバヤのいくつかの場所を案内できました。

そのうちの一つは、マングローブ保全活動とコミュニティ開発を両立させているルルット女史のグループの活動です。彼女とお会いするのは、今回で4回目になります。

最初にお会いしたのは、2009年、スラバヤで開かれていたとある展示会の場でした。そのときの様子は、かつてブログに書きましたので、興味ある方は、以下のリンクをご参照ください。

 マングローブからの贈り物

その後、2014年12月には、ジェトロの仕事で、新しいビジネスを志向する中小企業家のインタビューの一環で、お会いしました。以下はそのときの写真です。

彼女の活動の特徴は、マングローブ林の保全・拡大から始まり、マングローブの実や種を使った商品開発を行うことで、環境保護とビジネスとを両立させる活動を実際に実現したことにあります。その代表例として、先のブログ記事にも書いたように、マングローブから抽出した様々な色素を使った、バティック(ろうけつ染め)を作り出したのでした。

ルルットさんは、マングローブの実や種などの成分を分析し、健康によいと判断したものを飲料や食品などに加工し、販売してきました。ジューズ、シロップ、せんべいなどのお菓子やその成分を刷り込んだ麺を開発したほか、石鹸、バティック用洗剤などにも加工してきました。マングローブ加工品はすでに160種類以上開発したということです。

2009年に林業省と契約し、スマトラやカリマンタンでのマングローブ保全とマングローブ活用製品開発のコンサルティングを開始したのをきっかけに、全国各地で、ルルットさんの指導を受けたマングローブ保全グループが立ち上がっていきました。なかには、ルルットさんの指導から自立して、独自に製品開発を行い、それらの製品を外国へ輸出するグループも現れているとのことです。

「これまで何人を指導したのですか」とルルットさんに尋ねると、「数え切れないわ」と言いつつ、ちょっと恥ずかしそうにしながら「数千人」と答えました。

インドネシア全国で、ルルットさんの教えを受けた数千人がマングローブ保全活動とマングローブの恵みを活かしたコミュニティ開発に関わっている、と考えただけで、私たちの目の見えないところで、様々な環境を守り、再生させる努力が地道に行われていることを想像しました。

ルルットさんは、今でも「活動の第一目的はマングローブ保全だ」ときっぱり言います。彼女によれば、マングローブを活用するコミュニティ・ビジネスとして成り立たせていくには、最低でも2haぐらいのマングローブ林が必要で、それまではとにかくマングローブを植え続けることが重要だそうです。

そうでないと、住民はマングローブ林を伐採し始めるのだそうです。彼女が先日行った東南スラウェシ州クンダリの状況は、本当に酷く破壊されていて、まだまだ頑張らねば、とのことでした。

もっとも、ビジネスとして大きくしていくつもりは、あまりないそうです。マングローブ産品の売り上げやルルットさん自身のコンサルタント報酬のほとんどは、マングローブ保全の活動に使っているので、利益はほとんどないと言います。少なからぬ民間企業が共同ビジネスを持ちかけてくるそうですが、全部断っているとのこと。彼女が持っているマングローブ加工のノウハウや成分の活用法などは、門外不出だそうです。

もっとも、彼女は、民間企業がマングローブ保全活動を行うように働きかけてもいます。マングローブ林を破壊したり、海を汚染したりする企業に対して反対運動を仕掛けるのではなく、むしろ、それらの企業のコンサルタントとなって、「マングローブ保全を行うほうが、漁民や住民による反対運動やデモを避けることができる」と説き、排水・廃棄物処理の方法などを企業側にアドバイスする、そうしてコンサルタント報酬もちゃっかりいただく、というなかなかしたたかな側面も見せていました。

それにしても、なぜ彼女はそこまでしてマングローブ保全にのめり込んでいるのでしょうか。その理由が今回初めてわかりました。20年以上前、ルルットさんは難病を患い、体が動かなくなり、歩けなくなって、死を覚悟したそうです。真摯に神に祈りを捧げると、不思議なことに、動かなかった足が少しずつ動き始め、その後2年間のリハビリの末、日常生活へ復帰することができました。

この経験をきっかけに、自分が取り組んできた環境保全の道を命ある限り進んでいこう、と決意したそうです。そんなルルットさんは、本当に、マングローブ保全活動に命をかけているように見えました。

政府からは様々な支援の申し出があるそうですが、ルルットさんはその多くを断り、自前資金で活動を進めることを原則としています。メディアへは、マングローブ保全のさらなる普及のために積極的に出ていますが、それに流されることはありません。

ルルットさんのような方が現場でしっかり活動しているのは、とても心強いことです。我々のような外国の人間は、ともすると、インドネシア政府やメディアでの評判を通じて良い事例を探しがちですが、それは本物を見間違える可能性を秘めています。

私自身、ルルットさんの活動を今後も見守り続けるとともに、彼女のような、地に足をつけて活動している本物をしっかり見つけ出し、他の活動との学び合いの機会を作っていければと思っています。

入れなかったジョグジャのきのこレストラン

ジョグジャカルタの郊外、スレイマン県にきのこ料理のレストランがあるというので、知人と一緒に昼食に出かけました。

このレストラン「ジェジャムラン」(Jejamuran)、全てのメニューがきのこづくしということで、まあ、よくある地方のちょっとしたレストランだろうな、というような、あまり期待もしない、軽い気持ちで行ったら、とんでもない状況でした。

とにかく、店が広い。そして、その店が満員で、たくさんの人々が並んで待っているのでした。

きのこだらけ

きのこづくし

「しめじ」の看板

「舞茸」?の看板

奥では拡張工事中

たまたま、今日は「全国先生の日」(Hari Guru Nasional)のようで、学校がお休みらしいのと、ちょうどムスリムの金曜礼拝が終わった後、ということで混んでいたのかもしれません。でも、第一駐車場も、第二駐車場も、第三駐車場も満杯なのです。

このレストランは、様々なきのこ料理を出すだけでなく、値段も安いのが特徴のようです。今では、ジョグジャカルタ周辺だけでなく、ジャカルタや外国からも客が来る、観光スポットの一つとなっているようです。

きのこだけで、これだけ人が集まるとは驚きです。

このレストランの経営者ラティジョ氏は、1968年からきのこ栽培を始め、ディエン高原にきのこ栽培会社を立ち上げて、一時は7000人を雇用し、海外へ輸出していました。

そういえば、1993年にディエン高原へ行ったときに、大きなマッシュルーム栽培加工を行う会社があったのを思い出しました。当時のディエンでは、マッシュルーム・チップスが有名なお土産品でした。

しかし、ディエン高原の会社は、その後、経営が悪化して倒産してしまいます。ラティジョ氏は1997年、机一つで道端できのこ料理を売り始めました。客の多くはトラック運転手や田んぼから帰って来る途中の農民でした。これがレストランとなるのは2006年でした。

料理人には地元のお母さんたち、その他の従業員には、当時、砂などを運搬する人夫だった地元の若者たちに声をかけ、一人一人面接しながら雇っていったということです。他にも同業のきのこレストランができたそうですが、結局、途中で消えていったようです。

それにしても、ラティジョ氏のきのこ一筋の波乱万丈の人生を思いつつも、このレストランの繁盛ぶりはすごいとしか言いようがありません。

結局、我々は入るのをあきらめました。

たかがきのこ、されどきのこ。いつかまた、訪れてみたいと思います。

ジョグジャのワンタン麺は・・・

11月24日の夜、ジョグジャカルタでワンタン麺のはしごをしました。

ジョグジャカルタで麺を食べる、というのはある意味邪道かもしれません。というのも、ジョグジャカルタなどでこれまでに食べた麺は、コシのない麺ばかりで、美味しいと思ったものは皆無だったからです。

ミー・ジャワ(Mie Jawa)というジャワの麺があり、ガジャマダ大学の学生たちに「おいしいところがある」というので連れて行ってもらったことがあるのですが、やっぱりコシのないベチャッとした麺で、それを嬉々として食べている学生たちの味覚は違うのだ、と自分を納得させようとしたものでした。

今回食べた2箇所のワンタン麺は、その意味でいうと、麺のコシはそれなりにあり、シコシコと食べられました。どちらも、値段は1杯1万ルピア程度と、ジョグジャカルタということもあって、かなり安かったです。でも、実際に食べてみたら、その安いということの別の意味がわかってしまったのです。

その意味とは・・・。ワンタンの中に具が入っていない!! ゆでワンタンもあげワンタンも、ワンタンの皮だけなのでした。おーっ、ワンタン麺よー。

他の店は知りませんが、少なくとも今回食べた2軒とも、ワンタンの具がなかったのでした。もしも、これがジョグジャカルタのワンタン麺の標準なのだとしたら、値段は安くとも、ちょっと残念です。

今週はジョグジャカルタ

11月5日に帰国して、2週間後、再びインドネシアです。今回の出張先はジョグジャカルタのみです。

実は、私には愛知県立大学多文化共生研究所の共同客員研究員というステータスがあり、そのステータスで、ジョグジャカルタの国立ガジャマダ大学にて、愛知県立大学のプログラムの一部を担当するための出張なのです。

内容は、ガジャマダ大学政治社会学部の学生向けに特別講義を行った後、愛知県立大学のプログラムで日系企業へのインターンを予定している学生9人の面談・カウンセリングを行います。

これは、これまでも3回ほど過去にやってきたプログラムで、個人的には、学生たちと面談していろいろ話を聞くのが楽しみです。彼らが自分の将来をどんなふうに考えているのか、日本や日本企業に対してどんなイメージを持っているのか、これからどんな社会を作っていきたいのか、といった話が展開し、思わず彼らの本音が聞こえてくるからです。

ずっと思っていることなのですが、日本の学生たちとも、インドネシアの学生たちとも、こんな風にして話をし、本音を聞けるような機会があると、彼らはやはり同じ時代を共有しているのだなと思える反面、未来への期待という面ではこんなに違うのか、という感慨を持ったりすることもあります。

少し前のブログで書きましたが、日本でもインドネシアでも、若者たちが本音を出せるような場づくりをしてみたいと思うようになりました。それは、年配者が若造を教育する場ではなく、お互いが上下の意識なしに自分の思うことを自由にいい、互いにそれを聞き、尊重しながら、アプローチは異なっても、新しい解を一緒に探していけるような場づくりです。ディベートのような勝ち負けを求めるのではなく、自分たちが予想もしていなかったような解を見つけ出せるダイアローグを志向したいのです。

短い期間ではありますが、こうしてインドネシアの大学で学生とじっくりコミュニケーションできる機会があるのはとてもありがたいことです。

前回のJICA案件のときのように、毎日移動で宿泊先が変わるということは今回はなく、ずっとガジャマダ大学の構内にある宿舎に5泊します。ガジャマダ大学の仕事のときにはいつもお世話になっている宿舎で、今日も、管理人ご夫妻と再会を喜び合いました。この宿舎の朝食のナシゴレンが美味しくて、楽しみなのです。

予定もあまり入らず、夜も長く過ごせそうなので、ゆったりした気分です。宿舎のインターネットも快適で、今夜は、ショパンを聴きながら過ごしています。

帰国し、しばし静養中

10月30日〜11月5日、今年関わっているJICA案件最後のインドネシア出張を終えて、帰国しました。

今回は、福島市チームとともに、東ジャワ州バトゥ市とマラン市を訪問しました。福島市との間で、農業関係の今後のよい連携関係が生まれそうな確信を得ることができた、有意義な出張でした。

バトゥ市の水耕栽培用ジャガイモの育苗所にて

とくにバトゥ市では、市長表敬に留まらず、市の農業政策アドバイザーの大学教授から、極めて前向きの見解が示され、今後の展開を積極的に進めていこうという機運が強まっています。これらの内容については、いずれ、時期を見てお知らせしていきたいと思います。

9月27日〜10月22日のインドネシア出張に続いて、帰国後も報告書執筆に集中し、10月28日に名古屋で講演した後、今回の出張となりましたが、この間、私にしては珍しく、体調がすぐれない状況がずっと続いていました。

チーム内にはインドネシア語で仕事のできるメンバーが他にいないため、本業のサーベイ以外に、アポ取り、車両アレンジ、ホテル手配などのロジや、福島市を含む日本の地方自治体からのお客様のケアもしました。

自分では、それら自体を負担に感じたことはありませんでしたが、自分の体は嘘をつけなかったようです。

出張中に足、手、顔などに水泡を伴った吹き出物が出てしまいました。それが出ているところは、赤く火照って痛いのです。こんな状態になったのは、これまでで初めてだったので、すぐ治るだろうと放置しておいたら、どんどんひどくなっていきます。

頭痛も続きました。ときおり、ぼーっとして、何もやりたくない状態になり、とにかく眠くてしかたがない。そんな日が長く続きました。

自分では意識していませんでしたが、ストレスと過労だったのでしょうか。過労というほど、たいした量の仕事をしているとは思わなかったのですが。

帰国後、皮膚科で診てもらったら、ヘルペスという診断でした。まさか、という気がしましたが、専門医がいうのですから受け入れるしかありません。医師の指示に従い、点滴を受け、抗生物質を含む薬を処方してもらい、東京の自宅でしばらく静養することにしました。こんなことはこれまでで初めてのことです。

この数日間、ゆっくり寝て、休んでいる間に、症状は徐々に良くなってきました。頭痛もなくなってきました。今週中には復活できると思います。というか、報告書原稿の最終締切があるので、復活しなければなりません。

11月20日から一週間は、別件で、またインドネシア(ジョグジャカルタ)へ出張します。おそらく、今年最後のインドネシア出張になると思います。

体は嘘をつかない、ですね。自分の年齢のことも考えて、仕事と休養のコントラストをうまく作っていくこともこれからの課題だと改めて感じ入りました。

トウガラシの花、ジャガイモの花

インドネシア・東ロンボク県センバルン郡の野菜畑を歩きながら、出会ったのは野菜だけでなく、野菜の花たちでした。

トウガラシの花を初めて見ました。小さな白い花でした。

あまり目立たない、白い色の控えめな佇まいでした。質素な感じもします。

周りは、見渡す限りのトウガラシ畑。そういえば、トウガラシのことをロンボクともいうのです。ロンボク島はトウガラシの島、なのです。

続いて、ジャガイモの花。

あの不恰好な形のジャガイモからは想像もつかない、素敵な花でした。

このジャガイモ畑から獲れるジャガイモは、インドネシアの食品大手企業との契約栽培です。かつてはニンニクの第産地として名高かったセンバルン郡でしたが、政府によるニンニク輸入拡大政策の影響で、ニンニクから他作物への転作が必要になったとき、転作作物として、東ロンボク県政府が食品大手企業とのジャガイモの契約栽培の話を持ってきたそうです。

それにしても、こうした花が咲くからこそ、実がなるのだ、という当たり前のことに気づかされます。そう思うと、野菜の花の可憐さが愛おしく感じられます。

今週は、とにかく報告書原稿を仕上げなければなりません。そんな合間に、こんなブログも書いてみたくなります。

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