震災6年目をマカッサルで迎えた意味

東日本大震災から6年の今日を、インドネシア・マカッサルで迎えました。

日本時間の14時46分は中インドネシア時間の13時46分、マカッサルの大好きなシーフードレストランNelayanで昼食を摂っていました。

時間を気にしながら、Ikan Kudu-Kudu(ハコフグ)の白身の唐揚げをつまんだ手を拭きながら、静かに黙祷しました。「え、ごちそうさまなのー?」とびっくりした2人の友人も、すぐに気がつき、続きました。

6年前、東京で迎えた強烈な地震。そのすぐ後の原発事故の可能性を感じ、日本は終わる、この世が終わる、と本気で思ったあの日。今でこそ、その反応は過敏だったと言わざるを得ず、苦笑してしまうのですが、福島の実家の母や弟たちも含め、家族みんなを連れて、日本を脱出しなければ、と思ったものでした。

その脱出先として想定したのが、今滞在しているマカッサルです。ここにはたくさんの友人・知人がいる、我々家族のために長年働いてくれた家族同様の使用人がいる、住む場所も容易に確保できる。自分の故郷のような場所だから、いや故郷以上の場所だから、と思うからでした。

いざとなった時に、この地球上で自分を受け入れてくれる、自国以外の場所があるという幸運を確信していた自分がそこにいました。

結局、日本を脱出することはなかったのですが、震災6年目の今日、マカッサルとの結びつきを改めて強く感じる出来事がありました。

今回の用務の中で、物件探しがあったのですが、今日訪ねた物件のオーナーが、1996年に私がマカッサルでJICA専門家として業務を開始した際の最初のアシスタントMさんだったということが判明しました。紹介して案内してくれたのは彼女の姪だったのです。

姪は早速、叔母さんである私の元初代アシスタントへ電話をかけ、再会を祝しました。電話口の彼女の声が昔と全く変わっていなかったのにはびっくりしました。Mさんは、1年ちょっと勤めて、諸般の事情により退職してしまったのでした。それ以来、消息は不明で、今回、20年ぶりにコンタクトしたのでした。

また、別のオーナーは、よく存じている大学の先生の教え子でした。彼との共通の知り合いの名前もボンボン飛び出します。

何といったらいいのでしょうか。こんなことが起こってしまうマカッサルは、自分にとってよその町ではない、怖いくらいに自分にマカッサルが絡みついてくるかのようです。それは、生まれ故郷の福島市とはまた違った意味で、自分の人生にとって不可欠な場所なのだという感慨を強くしました。

今回一緒に動いた友人2人は、違う物件オーナーに会うたびに、また私のコネクション再確認が始まってしまうのではないか、時間がなくなる、と戦々恐々の様子で、申し訳ないことをしてしまいましたが、やめられないのです。

福島とマカッサル。東京とジャカルタ。自分にとっての福島=東京の関係とマカッサル=ジャカルタの関係との類似性を感じます。この関係性こそが、これからの自分のローカルとローカルとをつなぐ立ち位置の基本となる気がしています。

そう、日本では福島へ、インドネシアではマカッサルへ。自分の今後の活動の第1の拠り所としていきます。4月、福島市で始めます。

ジャカルタでの国際線と国内線の乗継(お役立ち情報)

3月4日朝、東京へ戻りました。到着が午前9時で、それほど気温が低くもなく、極度な温度差で体が戸惑うこともありませんでした。飛行機のなかでそれなりに眠ったはずなのに、眠くてしかたのない一日でした。

今回、往復に利用したのは、インドネシアのガルーダ・インドネシア航空でしたが、ジャカルタのスカルノハッタ空港での国際線と国内線の乗継について、ちょっと気をつけておいたほうが良い点があるので、以下、メモとして残しておきます。

羽田空港のガルーダ・インドネシア航空機
(ボーイング777-300)

<ビザ>

現在、インドネシアへの入国にあたっては、観光、親族訪問、社会訪問、芸術・文化活動、政府用務、講義・セミナー等参加、国際展示会参加、インドネシアでの本社または代理店の会議出席、他国への乗り継ぎを目的とする場合で、滞在期間が30日以内の場合には、滞在ビザが免除となります。

なお、上記目的で31日以上滞在する場合には、到着ビザ(Visa on Arrival: VOA)が必要になります。VOAは30日有効で、入国後1回のみ延長可能ですので、最長60日以内の滞在となります。VOAは1回あたり35米ドルの有料です。

なお、商業目的ではないスポーツ、研究・短期留学・短期トレーニング、商談(ビジネス・ミーティング)、物品購入を目的とする場合は、30日以内でもVOAが必要となります。

インドネシアへの入国ビザについては、在インドネシア日本大使館のホームページに詳しい情報が載っております。ビザなし入国後のVOAへの変更不可など、留意事項も詳しく説明されているので、ご参照ください。

 インドネシアへの入国・滞在(在インドネシア日本大使館ホームページ)

<入国審査>

ジャカルタのスカルノハッタ空港では、かつては到着ロビーへ向かう途中の左右で外国人向けの入国審査が行われましたが、現在は、到着ロビーへ向けて直進した先で行われるように変更されました。

ビザなしの場合はそのまま、あるいはVOAを支払い後、動く歩道等でまっすぐ到着ビーへ向かって直進します。直進すると、左側が「一般の外国旅券保持者」、右側が「長期滞在許可(KITAS)を持つ外国旅券保持者」「外交官等」に分かれます。

「一般の外国旅券保持者」のほうは、ジグザグに一列に並ぶように指定されていて、先頭から順番に、空いた入国審査官のブースへ進むようになっています。

入国審査官のブースでは、基本的には旅券を出すのみですが、帰国便のチケット控の提出を求められることもあります。滞在目的、滞在日数、宿泊先などを英語で質問されることもあります。

<ガルーダ国際線からガルーダ国内線への乗継>

ガルーダ・インドネシア航空で国際線から国内線へ乗り継ぐ場合には、通常は、スーツケースなど預け荷物は最終目的地までスルーで行きますので、ジャカルタでピックアップする必要はありません。入国審査後、そのまま税関検査へ向かいます。

税関検査では、検査官に税関申告書(機内で配られます)を渡し、乗り継ぎであることを伝えた後、求められた場合には手荷物をX線検査機へ通します(今回、私は求められませんでした)。

税関検査終了後、到着ロビーへは出ずに、左側へ向かうと、ガルーダ・インドネシア航空の乗り継ぎカウンターがあります。すでに国内線の搭乗券を持っている場合はスルーしてよいのですが、搭乗ゲートなどの情報を得るために乗り継ぎカウンターに立ち寄っても構いません。

乗り継ぎカウンターの後は、右へ曲がって、まっすぐ進みます。国内線第2Fターミナルに入り、そのまま進んで突き当りを左へ曲がり、向かって右側の通路をまっすぐ進むと、F6と表示された場所に「第3ターミナルへの乗り継ぎ(Transfer to T3)」と書かれた表示があり、そこを入ってまっすぐ行くと、椅子のたくさん並んだ場所があります。ここから、ガルーダの無料専用バスで、ガルーダ国内線の発着する第3ターミナルへ向かいます。このバスは、駐機場を見ながら、空港ターミナル敷地の中を走って行きます。

第3ターミナルに到着すると、手荷物検査の後、そのまま出発ゲートへ出ます。

<全日空からガルーダ国内線への乗継>

なお、全日空はガルーダ・インドネシア航空とコードシェア便を飛ばしていますが、ガルーダ国内線への乗り継ぎの場合、現在のところ、最終目的地まで預け荷物はスルーで行きません。いったん、ジャカルタで預け荷物を回収し、税関検査を受けた後、到着ロビー(1階)へ出ます

到着ロビーから外へ出てすぐのところに大きなエレベーターがあるので、それで2階へ。2階の着いたところのすぐそばに、無料ターミナル間連絡バスの乗り場がありますので、そこからバスに乗り、第3ターミナルへ向かいます。乗り口に段差のある小さなバスですので、預け荷物を車内へ持ち込む際にはご注意ください(下に荷物入れがある場合でももすでに荷物でいっぱいの場合があります)。

第3ターミナルでは、改めて、ガルーダ国内線のカウンターでチェックインし、回収して持ってきた預け荷物を預けなおします。

<日本航空その他で国際線からガルーダ国内線への乗継>

上記の全日空からガルーダ国内線への乗継の場合と同じです。

<<修正&再修正!!>>

ブログの読者の方から、ガルーダ・インドネシア航空以外の国際線からガルーダ国内線へ乗り継ぐ場合でも、到着ロビーへ出ずに、乗り継ぎカウンターで発券、チェックイン、荷物預入れが可能、との情報をいただきました(情報提供をありがとうございます!)。

その場合には、預け荷物をターンテーブルから受け取った後、すぐ近くの税関ではなく、「ガルーダ国内線へ乗り継ぐため」と言って、ガルーダ国際線到着時と同じ税関まで、ずーっと(到着ロビーへ出ずに)中を歩いて移動し、税関検査後、左へ向かって、乗り継ぎカウンターで対応してもらう、ということになります。乗り継ぎカウンターはガルーダ国際線到着時の1箇所のようです。

ちょっと裏技的ですが、お試しになられてください。

<ガルーダ国内線からガルーダ国際線への乗継>

この場合も、出発地で預けた荷物はスルーで最終目的地まで行くはずです。

ジャカルタ第3ターミナル内の「国際線への乗継」表示場所から、ガルーダ国際線の発着する第2ターミナルへ無料シャトルバスで向かいます。バスは、第2ターミナルのF6に到着します。到着後、左へ曲がるとエスカレーターがあり、それで2階へ上がります。

「国際線への乗継」表示に沿って歩いていくと、ガルーダ国際線チェックインカウンターに出ます。そこをまっすぐ進むと、イミグレ(出国審査場)があります。

<ガルーダ国内線からガルーダ以外の国際線への乗継>

まず、到着した第3ターミナルで預け荷物を受け取ります。それを持って、いったん到着ロビーから外へ出て、一番左端から無料ターミナル間連絡バスに乗り、国際線のある第2ターミナル(2Dまたは2E)へ向かいます。

<ジャカルタ・スカルノハッタ空港の航空会社別ターミナル>

参考までに、現時点での航空会社別のターミナルは以下のようになっています。

*国内線
ライオン(ジャワ、カリマンタン、スラウェシ、バリ、ロンボク以外の東部地域) : 1A
ライオン(スマトラ各地、ロンボク) : 1B
バティック : 1C
シティリンク : 1C
スリウィジャヤ、ナム : 2F
エアアジア : 2F
ガルーダ : 3

*国際線
ガルーダ、中国東方、中国南方、エアアジア、エティハド、大韓航空、サウディア、ベトナム、アモイ:2E
上記以外:2D

なお、国際線は全て、いずれは第3ターミナルへ移転する計画のようです。また、各ターミナル間を結ぶトレインを現在建設中です。

スラバヤ出張を終えて帰国へ

2月26日に始まった今回のスラバヤ出張ですが、あっという間に終わりを迎えました。

日本ではきっとひな祭りの今日、午前中、インドネシア全国食品飲料事業者連合(GAPMI)のアディ・ルクマン議長がワークショップ会場を訪問し、今回使った食品加工機械を見て回りました。

やはり、彼も油を使わないせんべい菓子の製造に興味がある様子で、とても興味深そうに見ていました。

あっという間に終わった感のある今回の出張でしたが、食品加工機械に命をかけている中小企業経営者の生きざまと熱意に改めて心を打たれました。85歳を超える彼が、機械の間を立ち回りながら、スタッフに指示を出し、機械を操作し、説明をする、そのバイタリティーをただただ感嘆しながら眺めていました。

そして、彼が最大限に私にも気を遣ってくださるのでした。本当に、こちらが恥ずかしく思うほど、気を遣ってくださるのです。そして、それに十分に応えられていないのではないかという気がずっとしていました。

この食品加工機械に対する東ジャワ州の関係者の関心は高く、たしかに、日本側とインドネシア側に両者のニーズにマッチした案件なのだと改めておもいました。

これから、スラバヤから飛行機に乗り、ジャカルタで乗り継いで、明日の朝、東京へ戻ります。その後、3月9〜14日にまたインドネシアです。こんどは、マカッサルです。

ワークショップで嬉しかったこと

今回の食品加工機械に関するワークショップ、昨日から2日間、別の参加者によるワークショップが行われました。

ワークショップで取り上げるのは、せんべい焼き機とエクストゥルーダーです。せんべい焼き機は、上板と下板の二つの分厚い鉄板で型を押し、熱を加えてせんべいにする機械です。

一方、エクストゥルーダーは、2本のスクリューを組み合わせながら徐々に外へ物体を押し出す装置で、水と熱の力でフワッとした物体ができ、それを外へ押し出します。押し出された物体を切り、味をつけ、さらに乾燥機で熱風乾燥すると、油を使わずに、揚げせんべいのような、パリッ、サクッとした食感の「せんべい」を作ることができます。

昨日は、主に、せんべい機の使い方を学び、今日はエクストゥルーダーについて学ぶという内容でした。でも今日、開始時間の午前9時に会場へ入ると、参加者が皆、機械の周りに見当たりません。まだ来てないのかな、インドネシアではよくあることだし、と思っていたら、それは間違っていました。彼らはどこにいたのでしょうか。

彼らは全員、準備室に入っていました。

準備室は、実際にワークショップの機械で使う原材料を用意する場所で、昨日は、せんべいの素になるタネのレシピを丁寧に教え、そのタネを使ってせんべい機でせんべいを作ってみたのでした。

でも、彼らは昨日の復習をしていたのではありませんでした。昨日学んだことをもとに、自分たちでレシピを考案していたのでした。チョコレートを使ってみたい、ココナッツミルクを入れたい、レモン汁を加えてみたい、と、自らも菓子を製造販売している彼らは、幾つかの独自のレシピを作り、それをせんべい機で試そうとしていました。

教えられたことはその通りする、しかし自分たちで新しいものを創る能力は乏しい。これは、インドネシア人の特質として、日系企業などでよく言われていることです。しかし、彼らは、どうしても自分たちのレシピを試したいのでした。

我々のチームリーダーは、「こんなに積極的に自分たちで何かやりたいと言ってやってしまうワークショップ参加者は初めてだ」と目を丸くしながら、とても嬉しそうでした。

実際、彼らのレシピで作ったせんべいは、より香ばしく、レモンの微妙な酸っぱさが隠し味になっていて、とても美味しいものでした。自分たちのレシピを試し、我々のチームリーダーからその成果に二重丸をもらった彼らは、本当に嬉しそうでした。

ワークショップが終わって、反省会の中で、参加者のリーダー格の女性が質問しました。せんべい1枚の重量からすると、せんべい機で1日に何キログラムのせんべいを作れるか、エクストゥルーダーを使った場合と彼らの手作業とを比較した際の生産性がどれぐらい異なるか、等など、細かい技術的な質問をいろいろしました。

チームはその一つ一つに丁寧に答えていました。すると、一連の質疑応答の後、質問した参加者が謝り始めました。こんなに細かいことをいろいろ聞いて失礼ではなかったか、と。我々からは、そんなことは全く失礼ではなく、逆に、意味のない美辞麗句をもらうよりもずっと嬉しいし、とても良かったと答えました。

私は、相手が誰であろうと、聞きたいと思ったことは同じように聞いてほしい、と付け加えました。そんな質問を正々堂々とする参加者がいたことが、私もとても嬉しかったからです。

ワークショップの開会式で、参加者の自己紹介と自分の製品の説明をし合う、ということも、会場の飲食品・包装センターが取り入れていきました。

また、エクトゥルーダーのような価格の高い機械を中小企業がどうやって使えるようにするか、という議論も行われました。価格が高いけれど使ってみたい、なぜなら生産性が大幅に向上するからだ、原材料がたくさんあるのでもっと生産量を増やしたい、ではどうしたら、エクストゥルーダーをみんなで使えるか。

そんな議論をワークショップの最後のほうでしていると、「皆んなで協同組合を作ろう」「協同組合の組合員で資金を出し合い、銀行からの融資を受けたらエクストゥルーダーを買えるのではないか」「みんなが平等に機械を使えるように順番をはっきりさせる」、などなどの意見や考えが表明され、いつの間にか、参加者全員が等しくエクストゥルーダーを使ってみたいという雰囲気になっていきました。

もしかすると、高価な機械をいくつかの中小企業がシェアしながら活用する、というモデルは、彼らインドネシア人の中から現れてくるかもしれない、と思いました。もしそんなモデルがこの東ジャワから生まれたら、もちろん世界へ貢献することになり、シェアリング・エコノミーの新しい一つの形態となるかもしれない。そんなことまで、考えてしまうような、参加者の熱気に煽られていました。

そんな風に思われる、今回の機械たちとそれを製造した大阪の中小企業は、きっと幸せ者なのだと思いました。

クエティアウを食べながら、思わずハッとしたわけ

今回は、チームで一緒に夕食をとる日々です。今日の夜は、スラバヤの大手水産会社の重役L氏からのご招待がありました。

「道端の庶民的な食堂でクエティアウ(米粉で作った平たい麺)を食べよう」という話で、チームリーダーは、「ビールは多分ないだろうな」と少し落胆気味でした。今日はクエティアウを食べて、早々に引き上げるものとチームメンバーは思っていました。

L氏の指定した店に着くと、たしかに庶民的な飾り気のない食堂でしたが、道端の屋台のような場所とは違いました。

以前、スラバヤに住んでいるときに、こういう雰囲気の店でよく一人で夕飯を食べたよな、けっこう同じような雰囲気の店ってあるもんだな、よく行ったあの店はもうどこかへ移ってしまったな、などといい気分で過ごしていました。

「ここは、クエティアウとカエルと鳩がうまいんだ」とご満悦のL氏がどんどん注文していきます。L氏は気を利かせて、ビールも持ち込んでくれていました。チームリーダーは大喜びです。

あんかけクエティアウが出てきました。うーん、美味い。

そして、クエティアウを食べながら、ハッと気がつきました。もしかして・・・。

そう、昔よく行った、あの店だったんだ、と思い出しました。スラバヤの以前の自宅のすぐそばにあり、毎週のように食べに行ったDepot Purnama。

やっぱり!たしかに同じ名前の店です。

給仕のおねえさんがチラチラ私を見ています。声をかけると、もちろん覚えていると。調理場にはオーナーの親父さんがいて、すぐに私だと分かりました。

スラバヤに住んでいてくたびれたときに、Depot PurnamaのNasi Cap Cai Babi(豚肉入り中華飯)に何度救われたことか、数え切れません。これを食べると、不思議なことに元気になるのです。豚肉入り八宝菜とご飯の間に目玉焼きが敷かれていて、具の腸詰めや臓物の美味しかったこと。

そして、L氏との面会が初めてでないことも分かりました。3年前、彼ら一族の集まりになぜか招かれたとき、その集まりの主催者が彼で、挨拶をしていたのです。そして、共通の知人の名前が何人か出てきました。そして「趣味は食べること!」と一緒に叫んで、盛り上がりました。

L氏はまだまだ注文を続けます。カエルの唐揚げ、カエルの豆醤スープ、Cap Cai、炒めクエティアウ、焼きそば、ナシゴレン・・・。

Depot Purnamaは、私のスラバヤでの大切な場所の一つであり続けているのでした。

焼きそばも美味しかった!

食品加工機械のワークショップ

昨日から、食品加工機械のワークショップが始まりました。東ジャワ州飲食・包装研修センターが東ジャワ州内の県・市から選抜した中小企業12社が参加しました。

今回で、すでにワークショップを3回実施しており、1回あたり10数社が参加しますので、これまでに30社前後がワークショップを受けたことになります。

このワークショップでは、大阪の幸和工業の制作したエクストゥルーダー、乾燥機、回転式味付け機のほか、煎餅用の機械などを実際に使って、製品を作ってみる、というものです。

今回の食品加工機械の特徴は、油を使わないでサクッ、パリッとした製品を作るというもので、油で揚げたものの多いインドネシアで、健康ブームも相まって、ノンオイルの加工食品を普及させる一歩とも位置付けられるかと思います。

「機械はぜひ使いたいのだが、価格が高いので我々には無理」という声も聞かれました。高価な機械をどのようにシェアし、活用できるか、知恵を絞る必要があります。

ワークショップ参加者、政府、日本側が一緒になって知恵を絞り、この東ジャワ州から機械のシェア活用モデルを作っていければと思います。

今日のお昼のお弁当が美味しかったので・・・

今日から、JICA中小企業海外進出支援事業の一環で、大阪の中小企業の皆さんと一緒に、食品加工機械のデモンストレーションのためのワークショップに関わっています。

主催は東ジャワ州飲食品・包装研修センターで、今回の私の役目は、機械の内容と研修の様子を理解し、5月の最終セミナーの運営に役立てる、というところです。

開会式の後、すぐに実地での機械の説明に入るはずなのですが、昨日の雨で電線が切れたため、機械が据え付けてある棟が停電となってしまい、機械を動かせなくなってしまいました。復旧するのは昼過ぎ、ということで、時間が余ってしまいました。

そのとき、急遽、チームから私に、「ワークショップ参加者に対して何か話をしてほしい」と言われ、まあ、そういうのは慣れているので、漫談のような「講演」をしました。それでも時間が余るので、「参加者の自己紹介をしてはどうか」と提案し、自己紹介でようやく間が持ち、続いて、包装面での特別授業が加わり、何とか、お昼までの時間を潰すことができました。

お昼になって、昼食は研修センターが用意してくれるのですが、今日のは下の写真のような弁当でした。

ご飯(左上)、鶏肉の辛味煮付け(左下)、パパイヤの葉の炒め物(右上)、キャッサバチップ(右中)、ゆで卵のカレーソース和え(右下)、これにミカン(地物か輸入物かは不明)が付きます。

最近のランチボックスは、写真のように、仕切りがあって、そこにおかずがいくつか入るようにできています。以前のように、真ん中にご飯があって、その脇に鶏の唐揚げと野菜が入っている、汁物と果物はビニールに入っている、という感じのものはあまり見なくなりました。

さらに昔は、バナナの葉にご飯とおかずが一緒に包まれていましたが、それも最近昼食ではあまり見かけません。

今のものは食べやすくていい感じなのですが、あのご飯とおかずのソースが入り混じり、なんとも言えない美味しさを醸し出していた、というのは、オフィスなどでの昼食には出てこなくなるのかもしれません。街中では、屋台などでまだバナナの葉やその代替品である(裏地に油よけコーティングした)紙で包むのがまだ主流ですが・・・。

そして、今日食べた弁当のおかずの味付けがなかなか良く、ご飯によく合うのです。インドネシアのいろいろなところを食べ歩きしましたが、ジャワの普通のこうした「定食」系のおかずは、意外にどこでも美味しく、田舎へ行ってもレベルの高さを感じます。

インドネシアの食べ物はナシゴレンとミーゴレン、などと単純化する話も聞きますが、それ以外のフツーの人々の食べているものの美味しさを発見する喜びを何度感じたことか。

自分たちが食べている普通のものを、よそから来たお客さんになんか出すのは恥ずかしい、という気持ちがあるのかもしれません。ナシゴレン、ミーゴレン、鳥の唐揚げをどこでも食べられるのは、その表れとも言えるでしょう。でも日本だって、どこへ行ってもラーメンとカレーがあるし、同じ感覚なのかもしれません。

そんな普通のものがよそ者には信じられないぐらい美味しい、ということをそので普通に食べている人は認識していないのです。食べ物も立派な地域資源であり、そこの人にとって普通のものがすごいものであることを、そこの人とよそ者が交わることで認識する。

と考えると、食べ歩きもまた、そこの地域資源掘り起こしの第一歩になるかもしれない、楽しい営みなのかもしれないです。そう思って、食べ歩きは続くのです。

スラバヤに着きました、が・・・

ジャカルタ経由でスラバヤに着きました。

今回はガルーダだったのですが、機内で見たガルーダの機内誌COLOURがなかなか面白かったので、いただいてきてしまいました。

日本時間で、もう間も無く日付が変わりますので、今は、これぐらいにして、後ほど、追加したものを掲載します。

スラバヤは日本と時差が2時間ありますので、まだ午後9時台。空港で荷物が出て来るのを待っています。

(1時間後)

荷物が出てくるのを待っているのですが、出てきません。羽田からスルーで荷物はスラバヤで受け取れるという話だったのですが。

どうも、ジャカルタでの乗り継ぎ時間が短くて、スラバヤ便に荷物を乗せられなかったようです。たしかに、羽田からジャカルタの便は、ガルーダ国内線第3ターミナルから一番遠い駐機場に着き、バスでイミグレのある第2ターミナルへ移動、そして第3ターミナルへ移動しました。

乗り継ぎ時間は約1時間半、それでも時間が短かったと言えるのかどうか、よく分かりませんが、ガルーダでインドネシアの国内線に乗り継ぐ方は、このような事態も想定されておいたほうがいいと思います。

荷物は、次のジャカルタ発スラバヤ行きの便で来るということで、もう1時間ぐらい待たされています。

お、やっと出てきました。(午後10時40分)

インドネシア政治の連載記事、執筆終了

明日から3月4日までのインドネシア・スラバヤ出張を前に、4回分のインドネシア政治に関する連載記事を書き終えました。

最近は軽いものしか書いていないので、久々に真面目に書いたせいか、くたびれました。

最初はもっとサラッと書こうと思ったのですが、書いているうちに長くなってしまい、結構な分量になってしまいました。書き込めなかった材料も色々あるのですが、また機会を改めて書いてみたいと思います。

おそらく、他のメディアではまだ出ていないような分析も含まれていると思います。例えば、2019年の大統領選挙につなげた私なりの見方を出してみました。

以下に、タイトルとサブタイトルを記します。よろしければ、ご一読いただき、コメント・ご高評等をいただければ幸いです。また、ご希望があれば、講演会等でお話をすることも可能ですので、ご興味のある方は、お知らせください。

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「ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む」(全4回)

はじめに

1.反アホック勢力の候補ペア選定過程
 1.1. 統一候補ペア擁立への模索
 1.2. 統一候補ペアはなぜ実現しなかったか
 1.3. ユドヨノとプラボウォの歴史的確執
 1.4. イスラムを共通項に大衆動員へ

2.選挙運動でイスラムはどう使われたか
 2.0. はじめに
 2.1. ユドヨノ側のイスラム利用
 2.2. イスラム冒涜とされた問題ビデオ
 2.3. 素早かったMUIからのファトワ発出
 2.4. 体制内活動を担うイスラム団体はアグス=シルビア組を支持
 2.5. 筋金入りのイスラム強硬派はアニス=サンディ組を支持
 2.6. イスラム強硬派による反共喧伝

3.イスラム大衆動員の裏に隠された政治のリアル
 3.1. アホック公判で大衆動員の大義名分が失われる
 3.2. ジョコウィはアホックを見限っていない
 3.3. 大衆動員に付けられた政権転覆の匂い
 3.4. ジョコウィの汚職疑惑追及姿勢
 3.5. ジョコウィの汚職追及の標的はユドヨノ?
 3.6. ユドヨノと親族による汚職疑惑
 3.7. ユドヨノの本当の敵はアホックではなくジョコウィ
 3.8. プラボウォ側はどう出たのか

4.今後のインドネシア政治地図への影響
 4.0. はじめに
 4.1. 動員された者の多くはジャカルタの外から来たよそ者
 4.2. 安定化するジョコウィ政権
 4.3. 今後の政治地図を彩る3つのグループ
 4.4. ジョコウィ再選を狙うグループ
 4.5. ユドヨノ側の対応
 4.6. プラボウォ側の対応
 4.7. 注意すべき退役軍人グループの動き
 4.8. まとめと展望

インドネシア政治の連載記事を書いています

ここ数日、「ジャカルタ州知事選挙からインドネシア政治を読む」と題して、4回に分けた連載記事を書いています。久々に、インドネシアの政治ものの記事を集中して書いているのです。下記のリンクから飛べます。

    第1回 / 第2回 / 第3回 / 第4回

なぜ書こうと思ったのかというと、メディアの伝えるジャカルタ州知事選挙の記事が表面的なものに留まっていて、とくに、イスラムという要素に目を奪われすぎていると感じたからです。

たしかに、インドネシアの9割近くの人口を占めるイスラムのことは十分に見ていく必要があります。でも、何でもかんでもイスラム過激思想と結びつけて、意味のない恐怖心を煽るようなことがあってはいけないと思うのです。

この間、イスラムを旗印として、ジャカルタで起こった何万人ものデモや集会がインドネシア政治に大きな影響を与えたかというと、私にはそうは思えません。インドネシア政治のドロドロしたリアルな部分は、あの大衆動員の陰でうごめいていて、主要グループの対抗構造が変わり始めた気配があります。

また、ジャカルタという一地方の首長選挙であるにもかかわらず、それが次の大統領選挙を視野に入れた流れの中で動いており、今後、安定しているかに見えるジョコウィ政権が必ずしも盤石とは言えなくなる可能性も見えてき始めたように思えます。

そんな私なりの分析を記事にしたのですが、あえて有料とさせていただきます。というのは、様々な記事の切り貼りやコピペ記事とははっきりと区別したいからです。

いつものこのブログのように、サラッと書いてもよかったのですが、今回は、クロノロを作り、けっこうな量のインターネット情報を読み込みながら、書いてみました。時間と労力をいつもより費やした分、分量も長くなってしまいました。

ジャカルタやインドネシアの現場にいないということは、巷のゴシップなどを含む一次情報へのアクセスが限られるというデメリットと引け目を感じないわけではありません。しかし、今までの自分の経験からすると、現場にいると、逆に入ってくる情報が限られてしまう、俯瞰して立体的に物事を考えられない、ということも起こります。

有料ではありますが、よろしければ、是非、ご一読いただき、払った分の価値がある内容だったかどうかをお知らせいただければと思います。もちろん、厳しいご批判も覚悟しています。よろしくお願いいたします。

2月26日〜3月4日はスラバヤ出張

1週間後となりましたが、2月26日〜3月4日は、JICA中小企業海外進出支援事業の外部アドバイザーとして、インドネシア・スラバヤへ出張します。

今回は、大阪の中小企業による食品加工機械のデモンストレーションに関するワークショップのお手伝いです。主に、シドアルジョにある東ジャワ州商工局の訓練センターでの業務となる予定です。

スラバヤを州都とする東ジャワ州は、農産品加工による付加価値向上を州開発政策目標の最上位としており、日本からの食品加工機械の導入には大変熱心に取り組んでくださっています。とりわけ、健康ブームの影響で、油をできるだけ使わない加工食品の開発・生産への関心が高まっています。

日本でも、ノンオイルのおせんべいなど、ヘルシー志向の食品が増えていますが、高血圧や高コレステロールが蔓延するインドネシアでも、経済発展に伴う生計向上のなかで、そうした食品の健康化が大事な時代になってきたと言えるでしょう。

スラバヤはちょうど日本祭りが終わった頃だと思いますが、うまく日程が合えば、日本祭りにも顔を出したかったところです。以前、スラバヤに住んでいたときに楽しめたので、ちょっと思い入れがあります。

というわけで、来週、スラバヤでお会いできそうな方は、別途、ご連絡いただければ幸いです。

インドネシアから日本への難民急増?

新聞報道によると、日本へ難民申請するインドネシア人の数が急増したとのことです。

2016年の難民申請者総数は1万901人で、国別のトップがインドネシア人(1829人)で、以下、ネパール人(1451人)、フィリピン人(1412人)、トルコ人(1143人)、ベトナム人(1072人)の順でした。

ちなみに、2015年のインドネシアからの難民申請者は969人、2014年はわずか17人でした。その急増ぶりには目を見張るものがあります。

インドネシアの状況をよく知らない方がその数字だけを見たら、ここ数年のインドネシアでは、政情不安やテロ頻発など、何かとんでもないことが起こっていて、危険を感じた人々がたくさん増えて、難民申請が急増したのだ、と思うことでしょう。

でも、まさか、本当にそうなのでしょうか。

プロのインドネシア・ウォッチャーの私は毎日現状を見続けていますが、そのような、難民を発生させるような事態は一切起こっていません!

インドネシア語のメディアでも、インドネシアから日本への難民申請急増は話題になっていて、なぜそんなことが起こるのか理解できない、という話が聞こえてきます。

実は、インドネシアは、難民の受け入れ国でもあるのです。

難民の権利保護のための市民社会ネットワーク(Indonesian Civil Society Network for Refugee Rights Protection)という団体によると、2014年6月30日時点で、UNCHRインドネシア事務所に登録された難民総数は1万116人で、うち6286人が亡命者です。難民の出身国はアフガニスタン、ミャンマー、スリランカ、パキスタン、イラン、イラクなどです(この数字の出所はこちら)。

インドネシアは国際難民の経由地としても知られていて、難民の多くは一時的にインドネシアへ滞在しつつも、最終目的地としてオーストラリアへの渡航を希望するケースが多いようです。なかには、不法なルートを使って、オーストラリアへ渡航しようとする難民を乗せた小さな船がインドネシア沖で座礁したり沈没したりし、インドネシア政府が彼らの救助へ向かう、といった事態も頻発しています。

すでに一人当たりGDPが3500ドルとなり、中進国化を意識し始めたインドネシアからの難民申請が増えているのは、理解しがたいことですが、その多くは、日本での就労を目的としているものとみられます。

東京オリンピックなども含め、単純労働者や建設労働者が日本で不足しているという情報は、インドネシアでもよく知られるようになりました。インドネシアは、日本が技能実習生や看護師・介護士として最も多くの人材を受け入れている国でもあります。帰国した彼らからの様々な就労に関する情報が流れています。

翻って、彼らの多くの出身元である農村では、農業で生計を立てるのが年々厳しくなっています。高収量品種米の導入に伴う化学肥料・農薬の多投などによって農地の肥沃度が低下し、生産性が上がらないだけでなく、農産物価格が低迷して、農業は儲からないと見なされています。子供たちは農業を継ぎたがらず、現世代で離農を覚悟している農家が増えています。他方、都市を中心に、国産よりも安くて質の良い野菜・果物・畜産物の輸入が増加を続けていて、農民の生産意欲を減退させている面があります。

しかし、それは、難民を発生させるほどの窮乏を農民に強いているという状況ではありません。日本も含め、どんな国でも、こうした産業構造の転換をどのように進め、国内産業を新しい段階へうまく適応させていくか、は重要な政策課題となります。その意味で、インドネシア政府による農業政策・産業政策・村落開発政策には、戦略的・計画的思考が欠けていると言わざるをえないと感じます。

日本の事業の現場では、難民であろうが技能実習生であろうが、とにかく働いてくれる人が欲しい、というところがあります。もちろん、外国人労働者だからといって、安くこき使えると今だに思っているとするならば、それはもう難しいはずです。日本もまた、新しい状況に合わせた、外国人労働力の受け入れ体制の構築と、日本社会自体のそうした状況への準備を進めていかざるをえないと思います。

でも、10年前、20年前に比べたら、まだまだ不備はあるものの、いつの間にか、日本社会はそうした外国出身の人々を社会の一部としてうまく受け入れ始めているのではないかという気もします。都市よりもむしろ地方で、そうした傾向が進んでいるのかもしれません。というか、人口減などにより、否が応でも、進めざるをえない状況になっていると行ったほうが正しいのかもしれません。

難民申請したインドネシア人を、現状で難民として認めるのは難しいですが、日本が他国から好かれ、彼らが働いてみたいと思うような国になっていくことも、世界の中で生きていくには、必要なことではないかと思います。

ジャカルタ州知事選挙の結果から読み取れること

2月15日に行われたインドネシアの101地方首長選挙の中で、内外のメディアに最も注目されたのが、首都ジャカルタの州知事選挙でした。

各種クイック・カウントでの得票率を見ると、候補ペア番号1番のアグス=シルヴィ組が16〜17%、2番のアホック=ジャロット組(現職)が42〜43%、3番のアニス=サンディ組が39〜40%、という結果でした。過半数を獲得した候補ペアがいなかったので、上位2ペア、すなわち2番と3番で決選投票が4月に行われます。
これまでの下馬評からすると、1番の票がかなり3番へ流れたことがうかがえます。1番はすでに敗北宣言をしました。
クイックカウントの結果には、意外に大きな違いはなかったですね。以前は、それぞれの候補ペアが自分に有利な数字が出るようにクイック・カウント会社を「買収する」といった話があり、結果が大きく異なることもあったのですが、今回はそのような様子は見られなかったように思えます。
私の予想では、2番がもう少し票を伸ばして過半数をかろうじて獲得し、僅差で当選するかなと思っていました。下馬評では3番がいま一つ伸び悩んでいましたが、私は3番は指示を伸ばしてくるだろうと思っていました。
インドネシアの選挙では、あえて2つのペアがガチンコで対決するのではなく、1つのペアが、自らの別働隊として、弱そうなペアを別に仕立ててあえて3ペアにして票を割り、決選投票へ持ち込んで勝つ、というやり方を戦術上採ることがあります。今回のジャカルタがそうだとは思いませんが、流れとしては、そんなふうにも見えてしまいます。
つまり、1番と3番は嫌アホックの票で概ね一致するので、次の決選投票では、1番の票を従えた3番が2番のアホックに勝つのではないか、という見方です。2番が勝つためには、イスラムか否かを基準に投票する人をいかに懐柔するかと同時に、3番のクリーン・イメージをいかに貶めるか、が鍵になってくると思われます。
現段階では、アホックが順当に勝つのはかなり厳しいと考えます。アホックがイスラム勢力を懐柔するのが難しいからです。となると、3番にこれからマイナスの何かが起こるのを待つしかないのかもしれません。

前回、ジョコウィが当選した2012年のジャカルタ州知事選挙のときも、今回とは違った形で、イスラムの名による大衆動員や誹謗中傷があり、もちろん、副知事候補だったアホックへの批判も渦巻きました。今回も、その片鱗は残っていました。

ジャカルタ州知事選挙を巡っては、表向きのイスラム主義の台頭(のような現象)やアホック自身の性格の問題などの裏に、様々な政治勢力の思惑があります。けっこう中身がゴチャゴチャしているのに加え、2019年の大統領選挙へ向けた動きとも関連してくるいくつかの要素が、すでに今回のジャカルタ州知事選挙に現れています。

それらについては、この数日の内に、Noteというアプリに記事を書きたいと思います。私なりの分析を加え、もしかすると中身が物議を醸すものになる可能性があるので、誠に恐縮ですが、有料記事とさせていただく予定です。僭越ではありますが、どうかご容赦ください。

地方首長選挙はジャカルタだけではないが・・・

インドネシアでは、ジョコ・ウィドド大統領の一声で、今日、2月15日は全国で休日となりました。

そう、今日は、ジャカルタ首都特別州の正副州知事選挙の投票日。だからって、全国も休みになるのかあ、と思った方は間違いです。なぜなら、地方首長選挙はジャカルタだけで行われているわけではないからです。
7州の正副州知事、76県の正副県知事、18市の正副市長、合わせて全国で101の地方首長選挙の投票日なのです。ジャカルタはその一つにすぎません。選挙費用がかかってしまうので、できるだけ統一して行うようになったのです。
大統領から州知事、県知事・市長に至るまで、インドネシアでは、正・副のペアで立候補し、有権者が意中の候補ペアを直接投票で選ぶ、という方法を採っています。この方法を採ることで、人口の拮抗するような種族、宗教、出身地盤などを基にした対立を回避し、これまで、(地域)社会の分断を少なくするような作用が果たされてきました。
たとえば、イスラム教徒とキリスト教徒の人口が拮抗しているところでは、首長候補がイスラム教徒ならば、副首長候補をキリスト教徒として、両者がペアを組むというのが一般的です。このため、種族対立や宗教対立が選挙運動で起こりにくい構造となっています。
かといって、候補ペア同士が細かな政策論争を繰り広げるという要素も少なく、最終的には、その土地の有力者や名士の一族かどうか、資金力があって選挙戦を十分戦えるかどうか、などが投票に影響を与えます。
選挙には金がかかります。その資金を作るために、候補ペアは自分の資産や財産を売却したり、多額の借金を作ったりますので、もし選挙で負けると、借金の返済に苦しむだけでなく、一気に貧困にあえぐ状態に陥る可能性もあります。実際、選挙で負けて、精神的におかしくなってしまう者もいると聞いたことがあります。
資金を作るのは勝者も同じで、だから首長は任期中に当選前の「投資資金」を回収するのに忙しく、汚職への動機がどうしても生まれてしまうとも聞きます。
インドネシアにも政党はありますが、地方首長選挙では、まず有力者がいて、彼がどの政党の神輿の上に乗るか、という力関係になります。すなわち、政党が地方首長をて下にするのではなく、政党が次回総選挙を有利に進めるために、どの勝ち馬に乗るか、という形になります。ですから、1期目と2期目で与党が異なるという事態が一般的になります。
ということで、101の地方首長選挙は地元の方々にとっては大変重要なものであり、私も幾つかの地方首長選挙の結果が個人的に気になっています。ジャカルタ首都特別州知事選挙もそうした選挙の一つにすぎないのです。
日本でジャカルタ首都特別州知事選挙が注目されるのは、それを取材する日本のメディアが皆ジャカルタにおり、他の100の地方首長選挙を取材する余力がない、という物理的な理由もあります。ジャカルタだけがインドネシアではない、ジャカルタがインドネシアを代表するわけでもない、と私は何度も声を大にしてきました。
しかしながら、やはりジャカルタ首都特別州知事選挙は、他の地方首長選挙よりも重要な意味を持つものとなってしまいました。なぜならば、今のジョコ・ウィドド大統領がジャカルタ首都特別州知事から大統領へ就任したことで、ジャカルタ首都特別州知事ポストが次期大統領へ向けての重要ポストとなってしまったのです。

そのような文脈で、今回、現職のアホック知事(華人・キリスト教徒)が再選されるかどうかが注目されるに至ったわけです。

今回のジャカルタ首都特別州知事選挙の持つ意味は何か、この選挙の裏で起こっている重要な動きとは何か、イスラム関係者の動きや数万人を動員したデモはどのような意味を持つのか。そういった話は、このゆる〜いブログではなく、別のところで、私なりの考えを述べてみたいと思っています。お楽しみに。

「バレンタインデーを祝わないように」との通達

明日2月14日はバレンタインデー。日本で最もチョコレートの売れる時期でもありますが、インドネシアも、今ではバレンタイデーが有名になりました。

そして、毎年のように、「バレンタインデーを祝わないように」という呼びかけが出されます。

たとえば、首都ジャカルタの南隣にあるデポック市は、優秀で想像力に富み、宗教的で競争力のある人材を作り、将来に活躍する最良の世代を準備するため、2017年2月8日付市教育局回状を通じて、次のことを求めました(元のDetikの記事はこちら)。

1.生徒に対しては、学校内外でバレンタインデーを祝わずに、インドネシアの東洋的な文化価値に沿ったポジティブな活動に勤しむことを期待する。
2.生徒の親に対しては、子供たちを誘って家の中あるいは外で、家族の調和やつながりを高めるレクリエーションなどで一緒に過ごすことを望む。
3.すべての学校関係者は、学校内におけるインドネシア民族の代々伝えられてきた文化価値を踏まえた性格や態度を根付かせることを願う。

この通達の文面を見る限り、デポック市は、イスラム的価値にふさわしくないからバレンタインデーを祝ってはならない、と言っている訳ではないことがわかります。

この通達は、バレンタインデーそのものを批判している訳ではありません。そうではなく、最近の若者たちのバレンタインデーの過ごし方が尋常ではなくなっていることへの懸念が強く表れています。

以前聞いた話では、バレンタインデーに異性と食事やデートするだけならともかく、未成年どうしで外泊したり、バイクで走り回ったり、アルコールを飲んで騒いだり、とにかく風紀がものすごく乱れているということでした。どうやら、若者たちが自分たちの行動を自制できない事態が多々起こっているようなのです。

話は変わりますが、インドネシアのコンビニでビールが売られなくなり、在留邦人や日本人出張者の間でずいぶん話題になったのを覚えている方も多いと思います。

それを「イスラム教の影響が強くなっているから」と解釈する向きもありましたが、必ずしもそうではありません。

実は、コンビニが未成年者へアルコール類を売ってしまい、それを飲んだ若者が騒ぎを起こすという事件が相次ぎ、なかには、メチルアルコールにまで手を出して飲んで死んでしまう事件が起こるに至り、アルコール類の販売禁止策が出されるに至った、という経緯があります。

コンビニでのアルコール販売禁止も、今回のバレンタインデーを祝わないようにという通達も、自制できない若者たちを鑑み、彼らが欧米の真似をしてそれにうつつを抜かしている状況を懸念した、風紀の乱れ対策と見るのが適当かと思います。

しかし、この風紀の乱れに歯止めがかけられないと、イスラム法で治める以外に手段はない、という声が出てきてしまいます。すなわち、頼れる規範がイスラムしかないと考える向きが強まるのです。本当に風紀の乱れ対策をいろいろ考えてやったかどうかは分かりませんが、イスラムを出すほうが手っ取り早い、と考える人々も多いと思われます。

かつて、汚職撲滅が進まないのは世俗法で処しているからであって、イスラム法の世界になれば汚職は摘発できる、と汚職構造の抜本的改革にはイスラム主義で処するしかないという考えが現われたことがありました。インドネシアで10数年前、イスラム国家か世俗国家という議論が現れた背景には、こうした汚職対策への無力感がありました。

そして、イスラムの名を使いながら、そのような状況を利用しようとする政治勢力も現れてきます。

うがった見方をすれば、バレンタインデー反対に象徴されるのは、己を忘れ、欧米から入ってきた風習を無批判に無節操に受け入れ、それを自分でコントロールできないように見える若者たちを、東洋的とか土着文化とかいう曖昧な概念を用いて、インドネシアという国家に引き止める方策にも見えます。

本当に重要なのは、自制できる若者をどのように作っていくか、ということでしょう。それは、自分で分別をわきまえ、節度ある行動のできる若者になっていくことであり、それは今の教育のあり方と深く関わってくると思われます。

でも、どうしてこんな風になってしまったのか、とても不思議な気がします。

というのは、私がジャカルタに住んでいた1990年頃は、キリスト教徒以外は、誰もバレンタインデーなど祝っていなかったからです。それも、好きな相手に花束を贈る(多くの場合は男性から女性へ)のが一般的で、「日本では女性が男性にチョコレートを贈るのが流行っているんだ」というと、皆んなから「変なの!」と言われたものでした。

今では、インドネシアでも、バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るのは普通のこととなりました。これは日本の真似なのでしょうか。

東京・銀座のリンツカフェの
チョコレートアイス&クレープ

天敵はハウスダストとカビ

季節の変わり目になると呼吸が苦しくなる気管支ぜんそくとの付き合いは、もう何十年にもなります。まだ私が小さい頃は、小児ぜんそくとも言っていました。

急に気温が下がると、ゼーゼーしてきて、よく親に背中をさすってもらったものです。ですから、秋から冬、冬から春にかけてがきつくなるのでした。

気管支炎となれば、その「お友だち」であるアレルギー性のアトピー性皮膚炎ともずっとお付き合いしてきました。副腎皮質ホルモンの入ったステロイド軟膏をチビチビ使ってきました。

振り返ると、気管支炎もアトピーもひどかったのは、幼少期を除けば、前の職場に入ってしばらくの間でした。当時は、毎日、インドネシアから送られてくる新聞を読んで記事をまとめる作業を続けており、その新聞と一緒に運ばれてきたか新たに発生したかのダニやカビが原因だったのだろうと推察します。

その後、インドネシアへ赴任した2年間では、症状が全くと言っていいほど出なくなりました。帰国して、新聞との格闘が少なくなると、症状もあまり出なくなりました。

インドネシアにいる間は症状が出ないのですが、日本では、冬になると毎年のように、何度かはきつい気管支炎に、そしてアトピーで肌がボロボロと何度も剥けるようになりました。

今年は、毎月、血中コレステロール検査で通っているお医者さんに薬と吸入器を処方してもらったため、気管支炎は今のところ、ひどくならずにいます。毎日、自宅で肺活量検査を行い、その値を記録して変化を見ていますが、最初の頃はかなり低い値だったのが、今は高い値で安定しています。いつもの冬に比べると、アトピーもひどくなく、また何かあればすぐ医者に行ける体制なので、ずいぶんと楽だし、安心です。

子どもの頃、「大人になったら自然に治るよ」と、かかりつけの先生に言われたのですが、今もまだお付き合いしている状況です。まだ子どもなのかもしれませんが。

これら気管支ぜんそくとアトピー性皮膚炎がひどくなる原因は何か、だいぶ前に、病院でアレルゲン検査をしてもらったところ、ハウスダストとカビへの感応度が異常に高く、この二つが自分の天敵であることがわかりました。

今でも、ハウスダストやカビがひどいとすぐ症状が出るので、今日、思い切って、その対策用に、コードレスの布団用クリーナーを購入してしまいました。ダイソンのV6、コードレスなのに、強力な吸引力を持つクリーナーです。

というのは、これをインドネシアへ持っていきたいからです。だいぶ長い間、インドネシアでは、荷物置き場と化したアパートの一部屋を借りているのですが、前にそのベッドで寝たら、全身が痒くなって眠れず、飛行機内の強力冷房への対策で持ち歩いているウィンドブレーカーを着て、ようやく眠れた、ということがあったためです。

窓は少し開けたままにし、換気はしているのですが、今のインドネシアは雨季で、とくにハウスダストやカビの天国になっています。2月末に1週間インドネシアへ行くので、まずはこのダイソンで掃除をしてから、ちゃんと眠りたいと思うのです。

さて、インドネシアのアパートではちゃんと眠ることができるでしょうか。

米国でも中国でもなくインドネシア?

私の友人のフェイスブックページに、「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」という英語記事が紹介されていました。以下のサイトがそれです。

 Indonesia: Country of the Future

これは、今後の経済成長の話を言っているのではありません。たしかに、15〜64歳の生産年齢人口の増加があと10年以上は続くインドネシアは、成長市場として、日本のビジネス界も有望市場として力を入れています。そういう文脈で、日本では「成長著しいインドネシアで儲けよう」というような紹介がけっこうされています。

でも、ここで取り上げるのは違います。

だいたい、掲載されているのはArtists & Climate Changeというサイトで、経済やビジネスとはあまり関係がありません。いったい、芸術や環境問題に関連してそうなサイトがどうして「未来は米国でも中国でもなくインドネシア」などと言っているのでしょうか。

興味のある方は、ぜひ、この内容を直接読んでいただきたいのですが、ここでのキーワードは「コモンズ」です。コモンズとは、コミュニティが共同で管理する資源のことであり、誰か個人の所有権の集合体というよりも、コミュニティが所有するという形です。言い換えると、所有ではなく共有(シェア)を重視するアプローチになります。

今や、世界中のアーティスト、都市プランナー、環境保護活動家などが、資本主義や商業主義に対するアンチテーゼとして、このコモンズの考え方に親近感を抱き、コミュニティと協働しようとしています。

そうした彼らから見ると、インドネシアのゴトンロヨン(相互扶助)といった根強い考え方のなかにコモンズ的なものを強く感じるようです。

インドネシアでも商業主義の影響は村落部にまで広まり、都市ではゴトンロヨンが形骸化しつつある状況も見受けられます。このサイトの書き方はちょっと過大に高評価しているようにも思えます。でも、先日、ジョグジャカルタ市の隣のスレマン県の村へ行った際、農民が村の決まりごとを皆んなで決めて皆んなで守る、本当の意味でのゴトンロヨンがまだしっかりと機能しているのを確認しました。

そのジョグジャカルタなどでは、建築家がコミュニティのイニシアティブや助言を基にして制作活動を行う動きもあるようです。アーキテク・コミュニタスという建築家グループは、地元の人々を信じること、コミュニティとの相互信頼が必要条件である、と明言しています。

インドネシアでのアーティストのユニークな創造性、連帯意識、豊かな資源といったものに加えて、コモンズに関わるローカル・ナリッジ(地元の知恵)が息づいていて、それが持続的な社会を作っていく。とするならば、我々は、気候変動や環境悪化の最前線にあるインドネシアの彼らからもっと学ばなければならないのではないか、とここでは主張しています。

このサイトでは、2016年の流行語「ポスト真実」から、2017年は「コモンズ」へ、というメッセージも込められていました。

日本でも、越後妻有トリエンナーレや瀬戸内芸術祭にもそれらと共通した動きを見ることができるし、それらのイベントをコミュニティとともに作り上げる努力を長年続けてきた北川フラム氏らの活動からも、同様の意識を読み取ることができます。

そう、こうした動きは、インドネシアでも、日本でも、世界でも、同時代的に起こっているのです。とするならば、日本でもまた、「ポスト真実」から「コモンズ」への動きが起こってほしいし、起こしていきたいと思うのです。

政府エリートはなぜISへ合流しようとしたのか

1月26日、ISへ合流しようとしたインドネシア人とその家族が逮捕されたというニュースがありました。最初に報じたのは、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジア(CNA)でした。

このニュースが注目されたのは、このインドネシアネシア人が元財務省職員だったという点ででした。報道によると、彼の職位はIII/c級で、2016年2月に財務省を退職。疑惑が立たないように、8月15日にインドネシアを発って、まずタイに到着。その3日後にイスタンブールへ飛んだ、とのことです。

イスタンブールで彼らはイニシャルがIのインドネシア人と会い、隠れ家に連れて行かれた後、イスタンブールで家々を転々とします。そして、2017年1月16日にトルコ軍に逮捕されて警察へ連行され、1週間後にインドネシアへ送還されたのでした。

彼はオーストラリアのフリンダース大学に留学して公共政策の修士号を取っています。もし財務省でそのまま勤務していたならば、将来は安泰で、昇進も約束されていたはず。経済的にも恵まれていたのに、なぜ、ISに合流しようとしたのか、謎に包まれたままです。

ただ、これまで、インドネシアではエリートがイスラムへ傾斜する場面がいろいろありました。

1990年代以降、経済的に豊かになった華人系企業グループやそれを擁護する市場重視型エコノミストへの批判を強めたのは、イスラム知識人連合(ICMI)に集結した学者や知識人でした。ICMIは1990年に設立された知識人組織で、市場競争激化とそれに伴う格差拡大の原因は世銀・IMFによる自由主義的経済政策であると批判しました。

中央政府や地方政府では、ICMIに所属する官僚が徐々に主要ポストに就き始め、ICMIは単なる知識人連合ではなく、政策や人事にも大きな影響を与えるようになりました。そして、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比が拮抗している地方では、両者間のポスト争いが激化し、それが火種の一因となって、暴動が起こるような場面も見られました。

組織の中心メンバーには、欧米留学組も多数いました。でも、留学した者でICMIに加わらなかった者も少なくありませんでした。留学中、彼らに何があったのかは知る由はありません。でも、留学中の何かが、イスラムへ傾倒する者とそうではない者とを分けたに違いありません。

私の経験でもそうですが、福島の高校から東京の大学へ入ったときに、まず驚いたのは、福島にいたのでは想像もつかないような優秀な同世代の若者が東京には多数いるということでした。自分とは別世界の人々でした。そして、インドネシア大学に留学したときにも、まだインドネシア語がよく分からないなかで、優秀な学生たちの存在がとても眩しく見えました。

もしかすると、欧米などへ留学した者には、そうした優秀な学生たちがまさに「欧米」を体現した存在と映ったのではないか、と想像します。自分の国では優秀な学生だったのに、一生懸命勉強しても「欧米」に叶わない彼らは、どのようにして自分のプライドを守ろうとするでしょうか。

おそらく、そんな彼らを惹きつけるオルターナティブが、イスラムであるような気がします。すなわち、そこで改めて、自分がイスラム教徒であり「欧米」とは異なる者であるという自覚が強まります。そして、自分の努力が足りないのではなく、「欧米」であること自体が間違っている、その代替はイスラムである、といった感情が、イスラム知識人というカテゴリーを生み出したようにも思えます。

実際、インドネシア人留学生が海外でイスラムへの傾倒をむしろ強めていくという話は、よく聞きます。彼らがその社会から疎外されていると感じるほどに、自らのアイデンティティをそこに求めようとする傾向が強まるようにも思えます。

トルコで逮捕された元財務省の彼もそうだったのかどうかはわかりません。でも、留学先のオーストラリアで、あるいは財務省の中で、彼自身が自分の存在を否定されたり、認めてもらえなかったりしたとするならば、その代替となるアイデンティティのありかをイスラムに求め、そこに何らかの勧誘や洗脳が加われば、自分を虐げた社会への報復に自分自身を向かわせる可能性があるのではないかと思ってしまいます。

こうしたことには、おそらく、エリートであるかないかはほとんど関係ないのではないでしょうか。

どんな人間でも、自分のアイデンティティが一つしかない状態になると、極端な行動へ走る可能性が高まるのではないか、と考えるとき、その人のアイデンティティと思えるものを複数持つような状況を作ることが大事になってくるように思えます。

例えば、宗教以外に、自分の出自種族や、生活している場としての地域。出身校やサークルなどを含めても良いかもしれません。こうした複数のアイデンティティが確認できることで、自分の情緒も安定し、自分を極端な行動へ追い込む必要もなくなるのではないか。

そんなことを考えながら、改めて、様々な自分を内包して生きていくことの意味をかみしめたいと思うのでした。

大学生と対話するのは楽しい!

今日2月5日の昼下がり、都内某所で、アジア開発学生会議(ADYF)に参加している大学生4人と話し合う機会がありました。

参考までに、アジア開発学生会議のホームページは次のリンクです。

 アジア開発学生会議(ADYF)(日本語英語

彼らのうちの一人は、昨年12月16日に私が担当した立教大学での特別講義の受講者で、そのときに、「自分たちの仲間と会って話をして欲しい」と言われていました。今回、それがようやく実現した形です。

彼らは、インドネシア・バリ島の観光開発による社会変容に興味を持っていて、自分たちで色々と学び、調査をしてきたようでした。今日の面会の前に、彼らは私への質問を前もってたくさん用意してきていました。

4人のうち3人は理系の学生で、大学では開発途上国の問題や国際協力についてなかなか学んだり議論したりする機会がないため、アジア開発学生会議に参加したという話でした。そして、今、自分が学んでいる専門を開発途上国の問題や国際協力に生かしたいという希望を持っていました。

彼らからの質問に答えながら、私からも色々な話をインプットしました。彼らの立てた前提が果たして地元社会の人々から見たら適切なものなのか、どのようにして地元社会の人々の本当のニーズを把握することができるのか、そもそもの問題設定自体が適切なのかどうか、といった話題を投げかけると、彼らからも様々な反応が返ってきて、私もいい意味での刺激を受けることができました。

以前のブログでも書きましたが、彼らのような大学生が自分の考えや意見を遠慮することなく話し合う場というものが、なかなかないというのが現状のような気がしました。大学時代こそが、若者が悩み、試行錯誤し、読書し、大きなことを考え、いい意味でホラを吹き、自分なりの思想や哲学を形作る、貴重な時期だと思います。

それが今、目先の試験や就活に追われ、社会人になってから試される「自分づくり」に時間を費やせないのは、残念なことです。せめて、1日に30分でも、毎週1時間でも2時間でも、そんな時間を作れたら良いのではないか、と思います。

今回のように、大学生と対話するのはとても楽しいものです。私自身は彼らの先生でも教官でもない、彼らとは何の利害関係もない、フツーの大人です。だからこそ、彼らの考えや意見をまっさらな気持ちで聞き、まっさらな気持ちで私の考えや意見を言うことができるような気がします。

「君たちが望むのならば、いつでも今回のような対話の機会を作っていいよ」と言ったら、彼らは何だか少し嬉しそうに見えました。もちろん、私自身の単なる勝手な思い込みかもしれませんが・・・。

スラウェシの過去をもっと知るために

今日は、第2次世界大戦中、日本占領下のインドネシア・マカッサルの歴史や当時の日本人の足跡を調べている方々が定期的に集まる「スラウェシ研究会」に出席しました。

この研究会は、当時、民政府の官吏としてマカッサルにおられた方、スラウェシ島情報マガジンというサイトを運営されている方、日本政府関係者としてマカッサルに滞在された方、などが参加し、戦時中の在留邦人の活動や証言などを掘り起こしています。

この方々は、最高齢90歳の後期高齢者となられていますが、独立以前のスラウェシのことをできるだけ後世へ伝え残したいと思いながら、自分の趣味を兼ねて、情報収集に当たられています。

今年は、できれば、マカッサルで彼らの調査研究の成果をマカッサルの人々へ還元したいと考えています。実は、インドネシアの人々も、昔のマカッサルがどうだったかということを意外に知らないのだと言います。インドネシアの歴史を教わる際、始まりはインドネシアの独立であり、それ以前の細かな実態については、ほとんど知られていないようなのです。

参考になるサイトを以下に挙げておきます。

 スラウェシ島情報マガジン
  スラウェシ研究会のメンバーW氏の力作です。
  とくに戦前のセレベス、太平洋戦争の記録、軍政下のマカッサルは圧巻です。
  彼の調べた新事実も多数含まれており、頻繁に改訂を加えておられます。

 北スラウェシ日本人会ホームページ (会報タルシウス
  マナドを中心とした北スラウェシ州在住日本人会のホームページです。
  とくに、会報「タルシウス」は創刊号から最新号までpdfでダウンロード可能。
  貴重な論稿が多数含まれ、私も、創刊号、第2・6・8号に寄稿しました。

スラウェシと鰹節との関係、ベチャ(輪タク)はマカッサル発祥?、敗戦後の収容所での暮らしの様子、スラウェシと関わりのあった人物紹介、などなど、興味深い内容が溢れています。

ぜひ、これらのウェブサイトを訪れていただき、日本人がかつてどのようにスラウェシと関わってきたのかを少しでも知っていただければと思います。

そして、そうした先人たちの膨大な努力のうえに、我々は今、スラウェシやインドネシアと関わらせてもらっているのだということを忘れてはならないと思うのです。

マカッサルの夕陽の美しさは、あの頃も今も、
変わらないことだろう(2016年8月27日撮影)

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