マカッサル国際作家フェスティバルの2日目、私は2つのセッションでパネリストを務めました。
一つ目は、”Asia in our Hands: Japan, Malaysia & Philippines”というセッションで、マレーシアとフィリピンから招待された若手作家に、今回、人形劇のワークショップを主宰したジョグジャカルタの女性アーティストを加えたセッションでした。
このセッションでは、実行委員長のリリ・ユリアンティからリクエストがあったため、福島の話をしました。様々な風評が世界中に流布しているが、帰還困難区域は福島県の一部であり、大半の地域では日常生活が営まれていること、除染や産品検査が行われて監視し続けていることなどを紹介したうえで、和合亮一氏の「詩の礫」の初期の作品で英訳されている「悲しみ」という詩の一節を、試みに日本語と英語で朗読しました。参加者はしっかりと聞いてくれました。
他のパネリストからは、どのように他国の文学への関心を引き起こすか、そのためのネットワークをどう作っていくか、といった話が展開しました。インドネシアの参加者はマレーシアやフィリピンの文学作品についてほとんど知らず、また、マレーシアでもフィリピンの文学作品はほとんど知られていない。その一方で、韓国ドラマはけっこう皆知っている、という状況であることを確認しながら、文学者どうしがこうしたフェスティバルのような場を通じて、もっとコミュニケーションを取り合うことが必要だという話になりました。
私からは、文学者どうしのコミュニケーションも必要だが、キュレーター間の交流をもっと進めていくことも合わせて重要ではないかという意見を述べました。
2つ目は、”How to Rise Readers in Your Family”というセッション、すなわち、本好きの子どもを育てるにはどうしたら良いのか、というテーマでのパネルディスカッションでした。
一緒にパネルをした方は、日本に長く滞在経験があり、自作の本を3冊書かれた方で、自身の無学で文字を書けなかった母親がどうやって自分に教育の機会を与え、博士を取るまでに育てたのか、という話をしてくれました。
私は主に、親による子どもへの読み聞かせの話をしました。声色を変えた読み聞かせを少し演じて見せて、読み聞かせが親子のコミュニケーションを深め、安心感を作り、子どもの想像力や好奇心を掻き立て、本に対するバリヤーを低くする効果がある、といった話をしました。
インドネシアでは、読書は知識を得るため、賢くなるために読むという傾向が今も強く、親が声色を変えて子どもへ読み聞かせをするというのは一般的ではない様子でした。親から本を与えられて、読むことを強制された経験を語る参加者もいました(でもその参加者は本好きになったそうです)。
質疑応答で、山奥の辺境地の学校で小さな図書館を作ったものの、子どもたちが本に見向きもしない、文字を読めないので本を読めない子どもが多い、本が紛失するとまずいから図書館に鍵がかけられてしまった、私はどうしたらいいのだろう、という質問がありました。
私は、知識や学びは必ずしも本だけから得られるものではない、先祖から伝えられてきた知識や学びが生活の中で生かされているはず、子どもがそこで生きる力はそうした知識や学びから生まれる(町の子どもにはないものである)、そうした知識や学びに対して外部から来た先生がどの程度これまで関心を持ち尊敬を示してきたのか、本はいずれ必要になれば読むようになるけれど読まないからといって落胆する必要はないのではないか、というような話をしました。
でも、今日出席したセッションの中で、一番引っかかったのは、午前中に一般参加者として出席した、”Narrations about Conflict and Resolution”というセッションでした。
このセッションでは、アンボンの宗教間抗争、マカッサルの反華人暴動、バンガイ群島の村落間抗争の経験談が語られました。しかし、それは、それらが起こった当時、まだ小学生ぐらいだった作家たちによる経験談で、本当は何が起こっていたのかを実感できているわけではなく、後追いで取材して映画や小説を作り上げようとしているのでした。
それ自体はある意味やむをえないことなのですが、私が頭を抱えたのは、彼らよりも上の世代のある参加者が発した問いかけでした。すなわち、「どうしてそれらの抗争や暴動は1990年代後半、スハルト政権崩壊前後に起こったのか、よくわからない」という質問でした。
スハルト時代を知らない世代がどんどん増えているだけではなく、あの時代を生きてきた世代でさえも、歴史上の出来事とその流れを捉えられなくなろうとしている、本当は何が起こったかを記憶できず、後追いで作られる「事実」に置き換えられてしまう可能性が高い、と思ったのです。
実際、1997年9月に起こったマカッサルの反華人暴動を題材とした映画を作って、華人と非華人との関係を考えたいという、華人の血の流れる若手映画監督は、当時のことを華人の方々が全く話してくれないことを嘆いていました。それを聞いて、私は「ある意味、当然だよな」と思いました。歴史とは、こうやって埃に埋もれていき、その時々の為政者にとって都合のいいように書き換えられていく、そのプロセスが綿々と続いていくのだな、と思いました。
私も、仕事柄、1990年代の抗争や暴動を、新聞記事などで丹念に追っていました。マカッサルの反華人暴動の時には、実際、マカッサルでそれを経験しました。何が起こったのかも私なりに記録に残さなければと書いてきました。それらを総合して、私なりの当時の歴史の流れと抗争や暴動との関係に関する大まかな仮説も持っています。
でも、それを精緻に再構成して、論文にして、あるいは本にして、英語版など作って、インドネシアの人々を含めた一般へ公開発表することがよいことなのか、ずっとずっと悩んできました。現段階では、発表しても誰も幸せにならないのではないか、と思い、「発表すべきかも」という思いを断ち切るために、自分をビジネス志向や会社設立の方向へ向けさせた面もあった、と気づきました。
今日のセッションの話を聞きながら、そして昨今のインドネシアの状況を考えながら、我々もインドネシアの方々も、1990年代の歴史の流れをもう一度学び直す必要性が出てきているのを痛感しつつも、自分は「もうそれはやらない」と断ち切ったはずではないか、と悶々としてしまうのでした。
1990年代の抗争や暴動の背景となる政治史の検証をやはり行うべきなのか、あるいは、外国人である自分がそこへ手を突っ込む必要はないのではないか、と、まだしばらく悶々としていかざるを得ないような気がしています。