ジャパン・レール・パスを買えなかった友人

今日は、1月にマレーシアのマラッカでお世話になったマレーシア人の友人S氏と東京で再会しました。S氏は、日本各地にいる友人を訪ねるため、1カ月の予定で日本に滞在しています。

S氏、S氏を私にご紹介頂いたY氏、S氏の部下、の4人で、桜を眺めながら南池袋公園のカフェで歓談しました。やや風は強いものの、温かかったので、「外で」と勧めたら、「肌寒い」といわれ、屋内で過ごしました。

しばらくして、S氏が「ジャパン・レール・パスを日本で買えるらしいから、買いに行きたい」と言うので、その場所のある新宿駅へ一緒に行ってみることにしました。

しかし、彼は結局、ジャパン・レール・パスを買うことができませんでした。

ジャパン・レール・パスは、外国からの旅行者が日本を旅行する際にJR線を一定期間乗り降りできるパスです。7日間の普通車用で33,000円、のぞみなどを除く低速新幹線を含む鉄道に乗ることができます。

通常は、外国で事前に引換証を買い求め、来日した際にJRの窓口でジャパン・レール・パスと引き換えることになっていますが、東京オリンピックを3年後に控え、外国人旅行客の増加を見込んで、JRグループは、2017年3月8日から2018年3月31日まで、ジャパン・レール・パスを試験的に日本国内でも販売することにしました。

詳細は、以下のサイト(PDF)をご覧ください。

「ジャパン・レール・パス」の日本国内での試験販売及びご利用資格の一部変更について

このサイトにも説明がありますが、2017年4月1日以降、ジャパン・レール・パスは海外在住の日本人向けの引換証販売を終了しました。これに対する批判が、ネット上に多数見られます。

さて、マレーシア人の友人S氏らと新宿駅のびゅうプラザに出向き、ジャパン・レール・パスを買おうとしたのですが・・・。係員に断られました。

ジャパン・レール・パスは、海外から「短期滞在」(3カ月)の入国資格により日本を訪れる、日本国以外の旅券のみを持つ外国人旅行者に対して販売されるものでした。

S氏は、5年毎更新の日本の永住権を持っているのでした。彼は30年近くにわたって、日本の複数の大学でマレーシア語やマレーシア文化を教えてきた人で、その間に取得したものでした。数年前に、マレーシアへ帰国し、現在は、日本に居住しておらず、マレーシアで活動を行っています。

日本に住む権利を持っていても、実際には住んでおらず、久々に日本に来て、昔からお世話になった方々を訪問しようと思っていた矢先に、ジャパン・レール・パスが買えないということを知って、ちょっとびっくりした様子でした。

それでも、「マレーシアで引換証を買ってこなくてよかった。マレーシアでは資格などよくわからずに引換証を売られたことだろう。日本に着いてから引換証が無効と言われるよりよかった」と、自分を慰めるようにつぶやいていました。

彼のような、日本と深く関わり、日本を愛し、マレーシアと日本との関係深化に多大な貢献をしてきた方でも、たとえ実際に日本に住んでいなくとも、永住権があるという理由で、久々の日本旅行でジャパン・レール・パスを使うことはできないのでした。

極言すれば、ジャパン・レール・パスという特権を使ってもらいたい、日本へ来て欲しい旅行者とは、滞在期間3カ月以内の外国人旅行者なのですね。1年ぐらいかけてじっくり日本を旅してまわりたいとか、日本と深く交わってしまって日本を第二の祖国のように思い永住権を得てしまったような人は、たとえ日本に居住していないとしても、ジャパン・レール・パスを使って欲しい、好ましい外国人旅行者とは見なされない、ということなのかもしれません。

これもまた、外国人にたくさん来て欲しい、と言っている日本の観光関連の一コマです。

日本と長く付き合ってきた彼には、決して好ましいこととは思いませんが、そうした事情を理解してもらうことはできました。こんなことで、日本が嫌いになるようなS氏ではないと思いますが、もし読者の皆さんが彼の立場だったら、どう思うか、ちょっと思いをいたしてみてください。

彼には、広島や福岡の知り合いを訪問するために、成田発の格安航空会社のチケットを購入することを勧めました。

日本にとって必要なことは、外国人観光客の数を増やすことだけでなく、日本を深く理解し、日本との間の架け橋になるような方々をもっと大事にすることだと思います。

彼らのおかげで、どんなに日本のイメージが好意的に伝えられているか、日本に対する理解がどれほど深くなっているか、想像すればわかるはずです。市民レベルでも、世界中に日本の味方を増やしていくことが日本の安全保障にもつながると思うのです。

その意味で、決まりとはいえ、S氏がジャパン・レール・パスを買えなかったことは、残念なことでした。

タニンバル絣を使ったファッションショー

今日は、在日インドネシア大使館で開催されたファッションショーに行ってきました。

今回のファッションは、インドネシア・マルク州西東南マルク県にあるタニンバル島のイカット(絣)を使い、服飾デザイナーのウィグニョ・ラハディ氏が制作した作品が紹介されました。

ウィグニョ氏は、日本の伝統的な着物に着想を得て、それをタニンバル絣と組み合わせた「メタモルホスイースト」(Metamorphoseast)というテーマで作品を制作。たしかに、着物や帯、袴といったものをイメージさせる作品が出されました。

昨日の会議で一緒だった西東南マルク県高官を含むマルク州訪問団の方々と再会しましたが、自分たちの伝統的な布がこのような形で日本で紹介されることを、とても喜んでいました。

最近の絣は、原料の木綿の糸が細いものを使い、薄い生地にして着やすくしてきているのだとか。あのゴワゴワの絣も味わい深いものがありますが、ファッションとして着こなすならば、薄い生地もありなのだろうなと思いました。

インドネシア大使館も、1階のロビーをこんな風に使って、こんな素敵な企画を催すなんて、いつの間にか随分とセンスがよくなっているなあと感心しました。

このファッションショーには、マルク州代表団からもらった招待状で出席しました。マルク州代表団から「どうしても出席して欲しい。招待状を出させるから」と言われていたものです。本当にありがたいご招待でした。

今回の絣の生産地であるタニンバル島へ日本から行くには、ジャカルタないしバリからマルク州の州都アンボンへ飛び、アンボンからタニンバル島のサウムラキへ飛びます。アンボンからサウムラキまでの飛行所要時間は1時間半、ウィングエアが1日1〜2便飛ばしています。

タニンバル島のある西東南マルク県は、日本企業も開発に関係するガス田・マセラ鉱区の近くで、今後のガス田開発の展開を踏まえても、なかなかセンシティブな場所でもあります。しかし、今回の訪問団からは、日本への親近感と期待が強く表明されていました。

今回の出会いを機に、単にガス田開発があるからという理由だけではなく、彼らとの関係を深め、西東南マルク県とも丁寧にしっかりとお付き合いしていきたいと改めて思いました。

帰国、花見に間に合い、夜は用事

ジャカルタからタイガーエア+スクートというLCC乗り継ぎ、しかもシンガポール、台北経由の成田着で帰国しました。

当初、シンガポール=成田間で座席指定したのに、なぜかシンガポール=台北間と台北=成田間の座席が異なるというので、おかしいと主張したら、改めて通しのシンガポール=成田間で席を用意してくれたのですが、その席が優先降機となる前方座席だったので、今回のスクートはなかなかラッキーでした。

初めて日本に来た外国人観光客の鉄道乗り換えの手伝いなどをして、帰宅したのは午後1時過ぎ。その後、自宅でしばし、庭の桜で花見をしました。花は8分咲き程度でしょうか。4月2日に「東京の桜は満開」との報道があり、今年は東京で花見は無理かなと思ったのですが、間に合いました。

しばし、庭に机と椅子を出し、桜を愛でながら、お茶の時間を過ごせました。

桜以外の庭の花々も、咲き始めて、まさに春が来た!という感じでした。

そして、午後5時からは、都内某所で用事があるため、出かけました。インドネシア・マルク州の訪日団の一員である州政府職員の友人から「ぜひ来てほしい」と言われたためです。でも、行ってみたら、知らない日本人のビジネスマンばかりで、場違いな雰囲気でした。

会場に現れたマルク州訪日団を見てびっくり。同州政府職員の友人から紹介された訪日団の団長は、昨年2月、20年近くぶりに再会した私の友人でした。今回は、マルク州官房経済開発投資部長としての来訪でした。

会議では、ただ出席するだけと思っていたのに、ひょんなことからインドネシア語の通訳をする羽目になり、結局、最後まで通訳のお手伝いをしてしまいました。でも、その結果、当初は全く面識のなかった日本人のビジネスマンたちともお知り合いになることができました。

それはともかく、さすがに、帰宅途中の電車の中では久々に相当の疲労感を感じてしまいました。

マラン・ムハマディヤ大学の学生との討論会で講演

今日は朝9時から、マラン・ムハマディヤ大学で国際関係学科の学生たちと討論会がありました。学生側から希望されたもので、中間試験期間中にもかかわらず、40〜50人ぐらいの学生が集まりました。

会場は、校内のアル・ファッフルディン・モスクの1階です。このモスクには、アラビア語教室、国際関係学科の図書館、カウンセリング室など、様々な機能の部屋が設置されています。

私の講演テーマは、「グローバルの挑戦に対するローカルの強化:インドネシアと日本のケース」(Kekuatan Lokal dalam Menghadapi Tantangan Global: KAsus di Indonesia dan Jepang)というもので、このお題でインドネシア語での講演を40分ぐらいやった後、学生との質疑応答セッションとなりました。

講演では、今、なぜ、グローカルなのか、という話を中心に、生活の中での身近な事例をあげながら、グローバリゼーションという抽象的なものをどのように捉えたらいいのか、といったことを考えてもらう内容にしました。

出席した学生はとても熱心で、居眠りしている者は見当たらず、メモを取りながら聴いてくれている学生も多数いました。

質疑応答セッションでは、次々に手が上がり、活発に質問してくれたので、こちらも真剣に答えることができ、とても充実したセッションとなりました。

やはり、学生たちと真正面から真剣に議論し合うのは、本当にいいものですね。学生たちにとっても、何か少しでも、有益なものが伝わっているといいなと思いました。

自分でいうのもなんですが、こういうのが自分は好きなんだな、と改めて思いました。そして、インドネシアでも日本でもどこでも、正解を求めるためでも勝ち負けを決めるためでもない、自分たちが自分たちの頭で一生懸命考えるための対話の機会を、少しづつでもつくっていけたらいいなと思いました。

当初乗る予定だった午後3時マラン発のスリウィジャヤ航空便がキャンセルとなり、一便前の午後12:50発へ繰り上げになったため、討論会の後は、T先生にマラン空港まで送ってもらい、ずいぶんと早目にジャカルタに着いてしまいました。これから、シンガポール経由のLCC乗り継ぎで東京へ戻ります。桜がまだ見頃だといいのですが。

マラン・ムハマディヤ大学を訪問

今回のマラン行きは、マラン・ムハマディヤ大学を訪問することが目的です。同大学政治社会学部のT先生の招きで大学を訪問し、先生方や学生らと色々話をしました。

この大学は、インドネシアのイスラム社会団体であるムハマディヤが経営している大学の一つで、全国各地にあるムハマディヤ大学のなかで評価の高い私立大学で、インドネシア政府が認定したAクラス大学(国立29校、私立15校)の一つです。

英語で授業を行う国際クラスにも力を入れていて、ガルーダ・インドネシア航空の機内誌にその広告がよく載っています。学生数は3万人を超え、3つのキャンパスがあり、第3キャンパスはマラン市、マラン県、バトゥ市のちょうど境界に建っています。なかなか学校経営がやり手で、経営が悪化した遊園地を買い取って、教育機能を持った施設へ帰る計画もあるようです。

まず、政治社会学部国際関係学科の先生方と面会し、意見交換をしました。T先生は、私を客員として招聘して授業をしてもらいたいという希望を持っているようで、その話を追って内部で検討するということになりました。

次に、同大学調査・社会貢献局で同局の先生方と面会し、意見交換しました。この局は教員や学生の調査・研究の実施管理や、知の社会還元を意識した実地授業(KKN)の実施運営を行っている部署です。

今後、日本の大学と提携して、学生たちが一緒にフィールドワークを行うプログラムを行いたいという話でした。すでに複数の日本の大学と協力関係を持っており、まずはそこでのプログラムのさらなる発展という文脈で考えてみることをアドバイスしました。そして、必要に応じて、私からも協力することを約束しました。

調査・社会貢献局の方々からは昼食に招かれ、さらに歓談が続きました。

夜は、T先生の友人であるジャーナリスト、華人系団体代表、女性活動家、大学教師などと一緒に、夕食の後、約2時間半、自由に意見交換を行いました。話し合ったトピックは、グローバリゼーションとローカルの対応、インドネシア農業の今後、環境保全、日本との関係など、多岐に渡りました。

今日お会いした皆さんは、私の話を真剣に聞いてくださり、議論も前向きのものが多く、有意義な内容でした。今後、何らかの形で、マラン・ムハマディヤ大学と日本の大学などとの交流とそこからのさらなる展開を生み出していけるよう、引き続き、彼らとコンタクトを取りながら話を進めていきたいと思いました。

友人とスラバヤ街歩き(2)

プネレ墓地周辺を歩いた後、スラバヤ街歩きの友人I氏のバイクにまたがって、スナン・アンペルへ行きました。ここは、アラブ人街として知られているところで、観光地としても人気があります。

まず、スナン・アンペル地区の地区長をすでに30年以上も務めている、町の顔とでもいうべきC氏にご挨拶。普通ならば地区長に型どおりの挨拶をして、すぐに歩き始めるのですが、C氏はとても話好きで、スナン・アンペルに関する話が止まりません。友人I氏ともとても親しい様子です。

しばらく歓談して、友人I氏と歩くのかと思ったら、C氏も一緒について来てくれることになりました。私はスナン・アンペルは2回目の訪問だったのですが、実際、スナン・アンペル地区の主ともいうべきC氏と一緒に歩くと、また違ったものが色々見えてとても面白かったです。

C氏の家がある通りは下の写真のようなのですが。

一つ向こう側の通りに入ると、店が並んで人通りが多くなります。

スナン・アンペル大モスクの裏にも行ってみました。前回は行かなかったところです。人で溢れています。参拝者は24時間訪れ、とくに休息日の金曜の夜はたくさんの参拝者で大にぎわいとなるようです。

モスクの敷地内にあった古い墓は、墓標のみを残して、柵の向こうに新たに移されました。

人々が「聖水」の入った壺に群がっています。でもC氏によると、その聖水たる所以は明らかではなく、飲用に適するのかどうかを計ったこともないので、その辺のただの水ではないか、それを有難がって飲んでいるのはよくわからん、と言っていました。

敷地の隅にチャオ氏の奥さんの家族の墓があります。チャオ氏は華人系でアンペル地区の地主の一人です。

アンペル地区の最大の地主だったのは、アラブ系のバスウェダン一族で、現在、ジャカルタ州知事選挙に出ているアニス氏はその子孫にあたります。

スナン・アンペル大モスクにつながる商店街とその入り口。

この入り口の門の欄干、AMPEL SUCIと書かれた両側を磨いたところ、ジャワ文字が彫られているのが最近発見されたそうです。でも、古代ジャワ文字なので、まだ解読されていないのだとか。

商店街の中にある小さな礼拝所。電光掲示板の数字もアラビア語表記です。ふと見ると、右側にあの人の来訪を告げるビラが貼ってありました。

スナン・アンペル地区も、古い建物が壊され、新しい建物に建て替えられていますが、古い建物もまだ残っています。その一つは、香辛料の販売と調合を行う店でした。香辛料を調合したマサラコーヒー(Kopi Rumpah)も売っています。

実は、私もよく行った、ジャカルタの某有名インド料理店で使うスパイスは、この店から供給されているのだそうです。先代がインド人からスパイスの調合の仕方をじかに習って習得したとのこと。

スナン・アンペル地区を歩いて、最後は、50年以上前からあるという、サルカムという小食堂で緑豆カレー(Gulai Kacang Hijau)。でも豆だけでなく、肉(おそらくマトン)も一緒に入っており、マリヤム・パンと一緒に食べました。C氏は、パンをちぎってカレーの中に入れてから食べよというので、そうしてみました。うーん、美味しい。

C氏にお礼を言い、I氏のバイクにまたがってホテルまで送ってもらい、今回の街歩きは終了しました。スラバヤには、まだまだ自分の知らない面白い場所がありそうで、今後も機会があれば、街歩きを続けたいと思います。

そして本日(4/2)夜、スラバヤまで迎えに来てくれた別の友人の車に乗せてもらって、マランへ到着しました。

友人とスラバヤ街歩き(1)

アパートの部屋の契約が終了し、マランへ行くまでスラバヤで過ごすのは今日土曜日と明日日曜の半日。そこで今日は、スラバヤ街歩きの友人I氏と一緒に、プネレ墓地周辺とスナン・アンペルの二箇所を歩きました。

ホテルに迎えに来てくれたI氏のバイクの後ろに乗って出発。最初に訪れたのは、プネレ墓地です。

この墓地は、オランダ植民地時代の墓地で、埋葬されているのはオランダ人が多いのですが、他にもドイツ人などの西欧人、アルメニア人なども埋葬されています。

すでに1920年代に埋葬は停止され、現在までに、亡骸のほとんどは別の場所へ移動されているとのことです。所有者が全て判明した後は、公園にする計画があるようです。広さ15ヘクタールもあります。

下の写真は、火葬場の跡。

1841〜1844年に蘭領東インド総督を務めたPieter Merkusの墓もありました。
そのすぐ近くに、墓標の朽ちた小さな墓があります。この墓は、蘭領東インド専属写真家のOhannes Kurkdjianというアルメニア人の墓で、蘭領東インドの今の残る写真のほとんどは彼の手によるものだそうです。
このプネレ墓地周辺には昔からバリ人が多く住んでいます。実は、初代大統領のスカルノもこの近くに住んでいました(厳密にはプネレ地区ではないようです)。スカルノはスラバヤのこの辺りで生まれ、母親はバリ人ですので、バリ人コミュニティの存在が安心感を与えたのかもしれません。
たしかに、ここからバリ島のシンガラジャやデンパサールへの直行バスが出ていますし、スラバヤで最も有名なバリ風のナシ・チャンプルの店もこのプネレ墓地のすぐそばにあります。
このプネレ地区は、墓地があるためか、以前から葬儀関係の仕事を行う人々が多い場所のようです。しかし、近年、プネレ地区から他所へ移っていく人が増え、バリ人集落としての一体感がなくなってきている様子です。
このプネレ地区で、I氏の友人のK氏がコーヒーとジャムゥ(ジャワの伝統薬用飲料)を出すカフェを1年ほど前から開設し、ちょっとしたコミュニティスペースになっていました。今回も、ちょうど、女性を対象にしたSNSに関する研修会が行われていました。
このカフェの建物は、植民地時代は植民地官吏の家だったそうです。
K氏はもともと地元紙の新聞記者だったのですが、スラバヤの伝統や歴史に造詣が深く、新聞記者を辞めて、カフェを運営するとともに、伝統や歴史を生かしたTシャツや雑貨を製造販売しています。カフェの裏に作業場があり、今はちょうど、政治団体向けのTシャツを作っているところでした。
ふと見ると、日本語で書かれたこんなものも。
I氏やK氏とスラバヤの都市としての発展の歴史や今後の課題などについて、いろいろと意見交換をしているうちに、気がつくと2時間近くもダベっていたことに気づきました。
一息ついたところで、再びI氏のバイクの後ろにまたがり、スナン・アンペルへ向かいました。この続きはまた次回。

Glocal in my context: Matsui Glocal

What is glocal? Of course, glocal is an artificial word made from global and local.

According to Oxford dictionary, glocal is “reflecting or characterized by both local and global considerations”. Or in Longman, it is “relating to the connections or relationships between global and local businesses, problems etc”.

Generally, global and local are opposite words each other, as globalization vs localization. Globalization is regarded as enemy from local. In Indonesia and maybe other developing countries, globalization is almost synonym with westernization, capitalism, imperialism, USA & Europe, or sometimes with christianization.

We remember that developing countries had felt to be exploited under colonialism by Western countries. So, the concept structure between globalization – localization and exploit – exploited has not been changed.

However, developing countries should know that many local people in USA or EU also criticize against impact of globalization. Such people played big role to win new USA President last year.

It means that almost all local people of the world, not only in developing countries but also in developed countries, feel and battle the globalization.

I understand that there is a universal basic issue in local society everywhere in the world. Local peoples in USA, EU, Indonesia, and Japan are facing to the same universal issues.

That is the crisis of local identities. Collapse of “who we are, where we live, what our life is”. Local life cannot be separated from so-called globalization, including using mobile phone, internet, or imported consumer goods.

The problem is not developed countries vs developing countries. But, what we keep and develop our own life with local identity.

Local people often think only they are in the worst condition because they know about only their local society. But, you are not alone. Even though the character and level of living is different, almost all local people feel and think the same.

In this context, I myself want to define glocal as global network of locals without border of administrations, and countries.

My glocal has no best model to be learned by others. No intention to apply a model to others. My glocal respects each locality and tries to settle the respect among locals. We start from such respect to others or at least recognition of others. Then, facilitate to learn each other to know more about ourselves in the local, for next step.

I will do more with local anywhere in the world. I believe the local-to-local network in global will change current confrontative situation, if we start from ourselves and our daily life, not from ideology or political jargon.

スラバヤの郵便局から船便

昨日で部屋の片付けが終わってホッとしていましたが、部屋を引き払う前にやらなければならないことが残っていました。スラバヤから日本へダンボール箱5個、ジャカルタへダンボール箱1個を送る作業です。

日本へ送るダンボール箱は、元をたどれば日本から送ってきていたものも含まれるのですが、地域振興、地域づくり、スラウェシ地域開発などの資料や本で、それに文房具などが追加されたものです。

ジャカルタへ送るのは、過去に記念品やお土産などでいただいたバティックなどの布地やシャツなどが主で、ジャカルタの「アジト」(昨年25年ぶりに舞い戻ったインドネシア大学大学院留学時代の下宿)へ送ります。

緊急に必要なものはないので、スラバヤの郵便局から日本宛のは船便で送ることにしました。ジャカルタ宛は、通常のトラック便です。

昨日、お世話になった友人から運転手と車を使わせていただき、郵便局へダンボール箱6個を運びました。スラバヤから海外へ送る場合には、近所の小さな郵便局ではなく、中央郵便局まで出向いて処理した方が良いようです。専用の窓口があります。営業時間は朝7時から夜10時まで、土日祝は休みです。

スラバヤ中央郵便局

まずは、ジャカルタへ送る分。これはすぐに窓口で手続きが終わり、重さも10キロ程度だったので、普通便で約1週間、料金は62,500ルピアで済みました。

さて、日本向けのダンボール箱です。

船便はPaket Pos Biasa Luar Negeri(外国向け普通小包)、航空便はPaket Pos Cepat Luar Negeri(外国向け速達小包)と呼ばれ、さらにEMSがあります。

ダンボール箱を持ち込むと、「中身は何か」と聞かれました。本、資料、文房具など個人用のもので商業用ではないというと、「本ということにしろ。それ以外の余計なことは書くな」と言われ、結局、すべて「本」ということになりました。何度も聞かれたのは、「バッテリーは入っていないだろうな」ということでした。

そして、中身を開けることを覚悟していたのですが、幸いなことに、それはなしですみました。

郵便局の職員から「会社名などが外に見えると商業用とみなされるので、その部分を全部テープで隠すように」と言われました。さらには、すべて茶色のテープで覆い隠し、下地の文字が見えないようにすべし、とも言われました。

今回のダンボール箱は前回使った引越会社のものを流用したので、結局、すべてを茶色のテープで覆い尽くすことになりました。でも、郵便局の職員が手際よくテープで隠していくのを見ていて、さすが慣れているな、と思いました。最後に、SEGEL(封印)と書かれたテープをぐるっと貼ります。

テープで覆い尽くされて梱包されたダンボール箱に差出人名・住所と受取人名・住所を油性マジックで書き、箱の重さを計ります。5箱のうち1箱が31キロありました。1箱の重さを30キロ以下にしなければならないとのことで、せっかく綺麗に「封印」した箱をもう一度開封し、中身の一部を別の軽そうな「封印」を解いたもう一つの箱へ入れ替え、何とか5箱とも30キロ以下に収めました。もちろん、もう一度「封印」テープを貼りました。

なお、1箱当たりの相当金額を書類に書かなければならないのですが、「個人用なのでできるだけ低く抑えたい」と言うと、郵便局職員は「最低は1箱50万ルピアだから、それでいこう」とアドバイスしてくれました。1箱4200円ぐらいの計算になります。

もうすでに金曜礼拝の時間が迫っていましたが、郵便局職員の配慮で、料金の支払いも済ませることができました。今回の料金の目安は、30キロで127万8000ルピア(約1万1000円程度)で、速達小包だとこの約3倍、EMSだと約5倍ぐらいの金額になるようです。

船便なので、日本の宛先に着くまでには約1〜2カ月程度かかるそうです。日本の税関がどれぐらいの関税をかけるかは分かりませんが、これでインドネシアで支払う分は終了です。

金曜礼拝の時間になり、友人の車の運転手も礼拝へ行ってしまったので、郵便局でぼーっと運転手が戻ってくるのを待っていました。この中央郵便局は、いつ来ても、本当に風情があって、ただいるだけでも気持ちがいいのです。

高い天井が居心地のいい空間を作っています

オランダ時代のものと思しき郵便ポスト像

この場所には初代スカルノ大統領が子供のころ通った学校がありました

郵便局から船便を出し終えて、昼食の後、アパートに戻ると、本当に部屋の中に何も物がなくなり、2年前、この部屋を始めてみた時と同じ状態に戻りました。アパートの事務所へ鍵を返して、この部屋とお別れとなりました。

部屋の片付けが済んでしまった

今日、アパートの部屋の片付けが概ね済んでしまいました。もう少し時間がかかるかと思っていたのですが。

荷造り作業中の地元NGOメンバーの一人

3月28日に友人が、29日に地元NGOが、それぞれアパートの部屋を見に来て、譲って欲しいものを物色していきました。荷物を運ぶトラックの用意などもあるだろうし、彼らが来るのは31日、アパート契約の最終日かな、と思っていました。

ところが昨日の夕方、両者から「明朝9時にうかがう」と連絡が来ました。こちらは31日だと思っていたので、ちょっとびっくりし、彼らが来る前に、昨晩、自分の必要なものを選り分ける作業を急遽しなければならなくなりました。

今朝、アパートの管理事務所に物品搬出願いを出し、台車を借りて、彼らが来るのを待ちました。ところが、今朝になって急に、業務用エレベーターが故障。一般用エレベーター2基のうち1基が故障中なので、3基あるエレベーターのうち1基しか動いていない状況となりました。

私の部屋は21階にあり、エレベーターなしには荷物を運び出せません。しかし、3基中1基しか動いていないため、エレベーターは超満員状態が続いていました。こんな状況で、荷物を搬出できるのか、焦りました。

最初に来たのは、28日に会った友人の運転手とその兄貴の2人。彼らは、本棚、机、椅子、プリンター、本、その他もろもろのものを持って行ってくれました。

彼らがまだ作業している間に、NGOメンバー3人もやってきました。私のインドネシア語の本を彼らの運営する図書館へ寄付する約束をしていたのです。彼らにも本棚、本、その他を譲りしました。

幸い、故障していたエレベーター1基が動き始めたため、荷物の搬出でものすごく困る事態にはならずに済みました。11時半前、両者とも荷物を積み終え、アパートを出て行きました。

引っ越しと同じかそれ以上の荷物を積んだかもしれません

荷物がほとんどなくなって、がらーんとした部屋に一人で佇んでいると、いかに自分の荷物が多かったかをしみじみと感じるのでした。

明日で、この部屋ともお別れ・・・。

iPhoneがとうとう死んだ、と思った

私のインドネシアなど海外で主に使う携帯電話は、iPhone 5s。アップルストアでSIMフリー64GBを買って以来、もう3年以上使っています。

2年ぐらい前から電池の持ちが悪くなったと感じていて、ようやくつい最近、電池交換を初めてしましたが、それ以後は、また昔のように快適に動いてくれています。

このiPhone 5sにインドネシアのキャリアのSIMを入れて、日本でも使っているのですが、海外ローミングはオフにしているので、日本ではWifiのあるところでのみSNSを使い、ないところでは、Wimaxの一番安いのを使ってつなげています。

この愛機ともいうべきiPhone 5sが今朝、突然動かなくなりました。なぜかマカッサルの帆船の写真が画面に写っていて、指でスライドしても、スリープ/スリープ解除ボタンを押し続けても、一向に画面は帆船のままで反応しません。

アパートの借りている部屋の片付けは佳境に入っており、明後日までに引き払わなければならないのに、よりによってこんな時に愛機が動かなくなるなんて・・・。iPhone 5sはとうとう死んでしまった、と思いました。

片付けをする気になれず、スラバヤのアップルストアがどこにあるのかも分からないので、とりあえず、携帯電話屋が集まっているWTCへ向かいました。

ウェブで見ても、アップル製品を売っている店はすぐ出てくるのですが、修理できる店は見当たらないのです。アップルストアという名の洋品店さえありました。

WTCに着いて、アップル製品を売っている店に行くと、店員は「うちは売っているだけだから」とつれない返事。まあ、修理はできないだろうと思っていたので、仕方ないなあと思い、アップル製品の修理ができるところはどこか尋ねると、スラバヤには2箇所あるとのことでした(マリナ・モールの3階とあともう一つは忘れました)。

でもその店員は優れていました。「リスタートすればいいんだよ。スリープ/スリープ解除ボタンとホームボタンを同時に押してさ。ちょっとやってみるね」と言って試みると、ちゃんと元どおり、動くようになりました。

開いているアプリが多すぎて、使用メモリがいっぱいになっていただけでした。「ちゃんと終わったらアプリをこまめに消してね」と微笑んで、店員は去って行きました。

そういえば、iPhone 5sの再起動って、これまでほとんどしたことがなかったと思いました。遅ればせながら、今日、強制的に再起動させる方法を知りました。

3年目に入った愛機との付き合いも、まだしばらくは続けられそうです。

ソト・アヤム屋のイメージを変える店

今日のインドネシアは、ヒンドゥー教の「正月」ニュピで祝日。友人に誘われて、ランチを一緒にしたのですが、行き先はソト・アヤムの店。

ソト・アヤムは、ちょっと煮込んだスープに鶏肉の入った濃い味のスープのことで、ジャワ島ではどこでも食べられる庶民の味です。私も大好物なのですが、地方地方によって味付けが異なり、それを探訪して味わうのが楽しみの一つです。

中ジャワや東ジャワでは、ソト・アヤムの中にご飯(インドネシア語でナシと言います)を入れて食べるのが一般的で、それはナシ・ソト・アヤムと呼ばれます。不思議なことに、ジャカルタではご飯とソト・アヤムを別々に出すのが一般的です。私は、ナシ・ソト・アヤム派です。

場末のありふれた屋台で食べるのが普通なので、そんな質素な感じのところかと思って行った先は、ソト・アヤム・チャッ・ハール。噂には聞いていましたが、これがとんでもないソト・アヤム屋でした。

ダーッと広い店内。隣のカフェとの境までたくさんの席が用意されています。メニューはなく、ソト・アヤムの一つのみ。ただし、肉はムネ肉かモモ肉か、ご飯はソトに混ぜるか分けるか、が訊かれます。

場末のソト・アヤム屋では、ソト・アヤム以外に、うずら卵や鳥皮、テンペなどが目の前にあって、それを適宜とって食べる仕組みですが、この店のテーブルにそれらはありません。レジの脇に、うずら卵の串刺しと鳥皮の串刺しが1本それぞれ5000ルピアで売られていて、別途買う仕組みになっていました。

さて、評判のソト・アヤムですが・・・

ラモンガン風(ソト屋はラモンガン県出身者が多いことに由来しているらしいです)ということで、例によってお馴染みのクルプッの粉をかけ、レモンを絞り、サンバルとケチャップ・マニスを適宜かけて、いただきます。

私がふつう食べるラモンガン風のソト・アヤムに比べると、ずいぶん濃厚でこってりした感じの味わいでした。屋台のものよりもボリュームもやや多めです。

個人的には、もう少しサラッとしているほうが好みなのですが、まあ、これはこれでいけるかな、と思いました。

この店は、つい数年前までは、今の店の先のビルの前の軒先を借りて、細々とやっていた場末のソト・アヤム屋に過ぎなかったそうですが、車が前によく停まるようになり、評判が評判を呼んで、あっという間に、店が大きく拡張したようです。

このような成功物語は、ちょっと長い時間を同じ町で過ごすと、いろいろあることに気づくように思います。以前は屋台だったのに今では有名レストラン、という事例のスラバヤで最たるものは、ワポ(Wapo: Warung Pojok)というレストランです。名前の通り、端っこの屋台だったのが、今ではショッピングモールに支店を出すほどになりました。値段が安く、ボリュームが他店の倍以上あるのが売りになっています。

インドネシア各地で、こうした小さな無数の成功物語が産まれていることでしょう。そして、その裏には、またたくさんの失敗物語もあるに違いないのです。

マーベルシティ・モールを探検

スラバヤに無事到着しました。早速、準備のためにやるべきことをいくつか行い、夕方に小一時間寝てから、街へ出ました。

今夜の行き先は、マーベルシティ・モール。以前、スラバヤに住んでいたときはまだ建設中だったモールで、つい最近オープンしたと聞いたので、行ってみました。

マーベルシティはモールとアパートが敷地内に隣接し、その間をちょっとした広場のような形で結んでいます。飲食店がたくさん入っているようなので、行ってみたのですが・・・。

まだ半分ぐらいが工事中で、入居店舗も多くなく、閑散としている割には、若者や家族連れがけっこう来ていました。メインは地下にあるロッテマートで、ここで買い物をするために来るような感じでした。

意外にも、ジャカルタなどでおなじみの系列フランチャイズの飲食店は少なく、本格的な食事というよりも、軽く食べる感じの店がほとんどでした。その一つ、369カンティーンへ行ってみました。

この店は、スラバヤに本店がある上海小籠包の店として有名な369(ジャカルタのマンガ・ブサールにある支店は在留邦人によく知られています)の新規店で、ライス&サンドイッチ、という副題が付いています。

ちょっと寄って、軽くライスボウルやサンドイッチを食べる、というスタイルの店で、369のオーナーの息子が店を出したらしいです。

私が頼んだのは、マンチェスター風エビのライスボウル、というもの。ライスボウルは料理によって、バターライスか炒飯か白飯になっており、このマンチェスター風はバターライスでした。

小エビのフライにソースがかけられたものでした。でもどうしてマンチェスターでエビなの?と店員に聞いたら、「ソースがイギリス・ソースなので」という答えが返ってきました。

インドネシアでイギリス・ソースというのは、日本でいうとウスターソースに当たります(でも、ちょっと味が違うような気もしますが)。369らしいと思ったのは、それでもちょっと中華っぽく味付けてあり、バターライスもくどくなくて、けっこう美味しくいただきました。

この店では、いくつかの種類の飲み物はお代わり可能で、足りなくなると継ぎ足してくれます。

私の隣の席の子供連れは、2人の小さい子供が雄叫びをあげながら机上で創作活動を激しく行っていて、それが終わると、親が子供を連れて逃げるように店を出て行きました。その残骸を店員が愚痴ひとつ言わずに綺麗に片付けていました。

このほか、ロッテマートのすぐ近くに、友人のやっている「おにぎらず」の店がありましたが、今回は夕食後だったので、次回、また来てみようと思います。

マーベルシティ・モールは、まだまだ未完成のような状況でしたが、他のモールにあるような、タクシー乗り場がないのに困りました。歩道もなく、車で来ることのみを前提にしている作りです。

私はタクシーで来たのですが、マーベルシティ・モールでは帰りのタクシーを捕まえられず、モールを出て、しばらく10分ほど歩いて、ようやく道端で捕まえることができました。

早速、来て早々、スラバヤで大汗をかいてしまいました。

4月5日までスラバヤ、マラン

今夜のエアアジアで再びインドネシアへ向かいます。

ちょうど、海外から日本へ桜を観に来る方が多いせいか、LCCといえども、思ったよりも運賃が高かったのですが、やむをえません。帰国日がなかなか決まらなかったので、帰りも、ジャカルタから片道のLCC(タイガー+スクート)です。

今回は出張ではなく、プライベートです。スラバヤで2年間借りていたアパートの部屋の契約を3月31日で終了するため、部屋に置いたままになっている私物の片付けを行うのが主たる目的です。

スラバヤへ行く頻度が昨年来大きく減ってしまい、部屋を借り続けるのが経済的負担になったというのが理由です。これからの活動の中で、今後、スラバヤをどう活用していくかも考えてきたいと思います。

スラバヤ行きを友人たちに知らせたところ、縁あって、マラン市にあるムハマディヤ大学も訪問することになりました。スラバヤでの片付けが終わった後、マランへ移り、同大学の教員である友人が色々と予定を組んでくれています。

帰国は4月5日午前中です。それでは、行ってきます。

「牯嶺街少年殺人事件」を観てきた

今日、家族3人で、エドワード・ヤン監督の台湾映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」を観てきました。

今回のは、マーティン・スコセッシが設立したフィルム・ファウンデーションとアメリカのクライテリオン社による4Kレストア・デジタルリマスター版での上映でした。そういえば、2月に、やはり家族3人で観たキンフー監督の「侠女」「龍門客桟」という2つの台湾映画も、4Kデジタル修復版でした。
ずーっと昔、妻と一緒に「牯嶺街少年殺人事件」を観て以来、いったい何年ぶりになるのでしょうか。ストーリーも人物もすっかり忘れてしまっていたのですが、今日、改めて観ながら、その断面・断面が少しずつ思い出されていました。
今回のは236分版、約4時間の休憩なしでした。おそらく、前回観たのは188分版だったのではないかと思います。もっと主人公に焦点が当てられ、主人公を取り巻く少年グループ間の複雑な関係は、今回のほどは細かく描かれていなかったような印象があります。
最初のほうは、顔が似ている人がいるなどして、登場人物の関係がなかなか分かりにくかったのですが、事件が起こって話が大きく展開し始めてくる頃には、だいぶはっきりしてきました。そして、改めて、前半で何気なく撮られたかのように見えたショットがふと思い起こされてきて、もう一度しっかり観ておきたかったという衝動が現れてくるのでした。

大陸から台湾へ渡ってきた外省人と彼らを迎えた土着の本省人、第二次大戦終了以降も残る日本の影、貧富格差、共産主義分子摘発キャンペーンと思しき弾圧の匂いなどが少年少女の日常にも影を落とし、描き出される社会の息苦しくもけだるく、夢やあこがれに邁進しようにもできない、突き抜けない、救いようのない鬱屈した雰囲気が全編に満ちていました。

民主化の成熟を様々な場面で見ることが多くなった今の台湾を意識すると、台湾の人々は、この映画を改めてどのような気持ちで観るのでしょうか。

でも、少年少女の淡い恋愛のなかで表現された言葉のなかに、私たちや社会の遠くない未来を暗示させるような、絶望と運命の入り混じった、救いようのないやり切れなさや鬱屈した雰囲気を感じてなりませんでした。

ネタバレになるので、詳しいストーリーは省きますが、4時間という時間を費やす価値のある映画だとは言えます。

この映画を観たのが「ラ・ラ・ランド」を観たすぐ後だったこともあり、二つの映画の描く世界の雰囲気が実に対照的であったことを改めて感じています。それは、現代を生きる私たちの社会において、明るい希望と真っ暗な絶望が併存しているということを、改めて明確に認識させてくれたような気がしています。

神楽坂でのホッと一息スポット

東京都内の散歩コースで好きな場所の一つが神楽坂です。

一歩中へ入ると、いくつかのクネクネした小道に、雰囲気の良い粋なお店がいい感じで存在していて、なんとも風情があります。そういえば、移転前の元職場に近かった四谷荒木町界隈も同じような風情があり、大好きな場所でした。

神楽坂でホッと一息つく私(と妻)のお気に入りのスポットの一つは、ル・ブルターニュ神楽坂店です。とくに、そば粉のガレットが大のお気に入りです。

いつ行っても、たくさんの人が並んで待っているような店なのですが、今日は珍しく、夕方、私たちが入ったときには誰も客がいませんでした。しかし、しばらくすると、次々にお客さんが入ってきて、わずか15分ぐらいの間に満席となっていました。

店員の対応はキビキビしていて親しみやすく、フランス語が飛び交う店内は、なかなか居心地が良いです。メイン通りからちょっと入ったところにあって静かな空間です。

次に今回訪れたのは、紀の善です。あんみつで有名な店ですが、お目当ては、抹茶ババロアです。クリームとつぶあんが付いていて、これらの味のバランスが絶妙なのです。

ほかにも、親子丼やうどんすきでの鳥茶屋、押し寿司の大〆、肉まんで有名な五十番、そして、コタツのある饅頭カフェのムギマル2など、神楽坂には興味深い店がいろいろあります。次回は、どこへ行きましょうか。

ガルーダマイルからスカイマイルへ

飛行機に乗るときに重宝するマイレージカードですが、私はこれまで、JALカードでワン・ワールド、ANAマイレージカードでスター・アライアンス、そしてガルーダマイルでスカイチーム、を代表させてきました。

ガルーダ・インドネシアが発行するマイレージカードは、かつてGFF(ガルーダ・フリークエント・フライヤー)と呼ばれた時代から愛用し、今は、ガルーダマイルのシルバーです。

でも、いろいろ考えて、スカイチームのマイレージカードをガルーダマイルからデルタ航空のスカイマイルへ変えることにし、今日、スカイマイルJCBテイクオフカードが届きました。変えることにした理由は、次のようなものです。

第1に、ガルーダマイルが貯めにくくなったことです。スカイチームに加盟したのと同時に、GFFがガルーダマイルへ変わり、マイルの取得条件が厳しくなりました。ディスカウント・チケットではマイルがほとんどつかなくなっただけではありません。

かつて、GFFには、ECプラス・ゴールドというステータスがあり、長い間、愛用していました。これは、お金を払って、ラウンジ利用、優先チェックイン・搭乗、預け荷物上限増量などのゴールドのステータスを買うものです。

GFFの時は年間150万ルピア(前年に一定回以上利用した場合の継続は50万ルピアのみ)払えばECプラス・ゴールドに慣れたのですが、ガルーダマイルになってからはそれが600万ルピアへ引き上げられ、しかもサービス内容は同じ、と改悪されたので、すぐに解約しました。

第2に、ガルーダマイルは期限があり、マイル利用座席数が少なく、すぐに埋まってしまうことです。ウェブ上でマイル利用の航空便の予約ができず、必ずガルーダのオフィスへ出向いて予約しなければならないので、日本を拠点としている現在では、マイル利用で座席をとるのが事実上難しいためです。

第3に、インドネシア国内で飛行機を使う場合でも、シティリンクやスリウィジャヤ航空などの格安便に乗ることが多くなったので、自腹でガルーダに乗ることが本当に少なくなったためです。やむをえず乗るとしても、大抵は割引運賃で乗るので、マイルはつかないことが多いのです。

マイルがつきにくく、マイル利用座席数が少なく、マイルに期限がある、という状況では、ガルーダマイルで貯めても、ほとんど意味がないと感じました。

インドネシアへ渡航する際、その時期に応じて格安の便で行くことにしていますが、中華航空や大韓航空など、スカイチームの航空会社を使うこともあるので、スカイチームのマイレージカードを持っていたいとは思いますが、ガルーダマイルで貯めるメリットを感じられなくなりました。

そこで、色々探した末、デルタ航空のスカイマイルJCBテイクオフカードを入手することとしました。

このカードの特徴は年会費が1500円(初年度無料)と安く、マイルの期限がないことです。もちろん、最上位のアメックス・ゴールドにすれば、スカイマイルの「ゴールド・メダリオン」というステータスを自動的に手に入れられるというのは魅力的なのですが、26,000円という年会費の高さとそれに見合うだけの利用頻度はないと考えると、スカイマイルJCBテイクオフカードで十分、という判断になりました。

今回、申し込んでからカードが手元に来るまで約10日間でした。

ガルーダマイルにはまだマイルが多少残っていますが、今後、スカイチームの航空会社便を利用する際には、スカイマイルで少しずつ貯めていきたいと思います。

六本木で見つけた一味違う散歩道

今日は午後、六本木の某所で民間企業の方と面会した後、夜の飲み会まで時間があったので、赤坂アークヒルズ付近から国立新美術館まで歩いてみました。

渋谷へ向かう大通りである六本木通りをあえて通らず、一本、中へ入った細い道を歩いていきました。首都高が通って日陰の多い六本木通りとは違って、この細い一本道には日が当たり、しかも車が通らない、歩きやすい道でした。

永昌寺の前を過ぎて妙像寺の角を右へ曲がり、少し坂を上り、突き当たりを左へ曲がって、高級マンションを見ながらすぐに右へ曲がると、檜町公園に出ます。檜町公園では、親子連れが楽しそうに過ごしていました。

檜町公園には「富士山」もありました。

檜町公園からそれとつながったミッドタウンガーデンの前を通り、ふと振り返ると、つぼみが膨らみ始めた桜の木の向こうに、東京タワーが見えました。

ミッドタウンの西側へ出て、右へ曲がってしばらく外苑東通りを歩き、乃木坂郵便局の次の角を斜めに左へ入ります。この通りは高級マンションが多く、私道なので、車輌の通行は制限されているのですが、歩くのにはちょうどいい感じの気持ちのよい道です。

でも、前を見ると行き止まり。その行き止まりの先に、歩行者と自転車のみが通れる通路があり、その脇に丸い筒状・チューブ状の道路のようなものが。

そのまま進んでいくと、眼下に大通りが見え、階段を下りていくとすぐに乃木坂駅。

さらに100メートルほど進んで、国立新美術館に着きました。ここまでで、赤坂アークヒルズ付近から20分ほどでした。
入口から入ると、木々に赤い水玉模様の布が巻かれていました。すでに、草間彌生展の世界が始まっていました。

国立新美術館の斬新な建物。私も含めて、写真を撮る人がたくさんいました。

当日入場券を求めようとする人々がずらっと並んでいて(真ん中の木の後ろが入場券売場)、ちょっと萎えましたが、並んだら意外に早く入場券を買えました。

今回観たのは、草間彌生展ではなくミュシャ展のほうです。けっこうな数の人がいましたが、「スラブ叙事詩」は大作で絵が大きいので、じっくり見ることができました。ミュシャの奥深さを感じることができる展覧会でした。

会場を歩き回ってちょっとくたびれ、急激に空腹感を覚えたので、夜に宴会があるにもかかわらず、夕方に、有楽町の慶楽で牡蠣油牛肉炒麺を食べてしまいました(吉行淳之介の定番だったとか)。ここの炒麺はいつ食べても美味いです。

お腹もちょうど良くなり、夜の宴会に出席しましたが、午後の六本木の一味違う散歩道の面白さに比べれば、刺激は少なく感じられてしまいました。幹事さん、ごめんなさい。

自宅近くのレンタルオフィス

昨日までとは打って変わって、今日は冷たい雨の降る、寒い1日でした。

そんな冷たい雨に打たれながら、いつものように、自宅近くのレンタルオフィスで、作業をしていました。管理費を除いた賃料が3万円弱、しかも個室という、とても経済的な部屋は暖房がよく効いて、セーターを脱いでも汗ばむほどでした。

この部屋を借りて間もなく2年になります。狭い自宅には物があふれ、本を読んだり、物を書いたり、集中して作業できる場所が限られているため、思い切って、レンタルオフィスを借りることにしたのでした。

でも、東京都心のレンタルオフィスは総じて賃料が高く、安いと思ってみると、個室ではなく、机や椅子を共用するタイプのものがほとんどでした。

とにかく、自宅やインドネシアから持ち帰った本の置き場がないと困るので、個室が条件。たまたま、自宅近くに新しくできたレンタルオフィスが、オープン記念価格で借りられることを発見し、借りることができました。

部屋は通常のスチール本棚が2本入るスペースがありますが、今ではもう、すでに2本では足りず、あふれています。

そろそろ契約した2年目を迎えるので、更新しようと思って、管理会社に電話し、賃料が値上げになるかどうかを聞くと、何と、これまでと同じ賃料で借りられるとの返事。本当にありがたいことです。

まだしばらく、東京では、このレンタルオフィスを使うことにします。何せ、自宅から歩いて10分もかからない距離。最寄駅からも徒歩5分程度です。

これからも複数拠点で活動したいので、こうしたレンタルオフィスの賃料コストや滞在コストをいかに抑えるかはとても重要です。とりあえず、東京はこれでOK。さて、次は福島、マカッサル、ジャカルタです。

なお、スラバヤでもこれまで部屋を借りていましたが、3月末で契約が終了するので、来週は、スラバヤへ出かけて、部屋の片付けと明け渡しをする予定です。

聞き書き甲子園イベントでの出会い

昨日と今日は、東京大学弥生講堂で開催された「聞き書き甲子園15周年記念イベント」に出席しました。聞き書き甲子園については、以下のページをご参照ください。

 聞き書き甲子園

聞き書き甲子園を簡単に説明すると、聞き書きという手法を学んだ高校生が毎年100名、夏休みに森や川や海の名人に会いに行き、名人から聞き書きをし、それをテープ起こしして文章化し、名人の一人称の文章にまとめて作品に仕上げる、という事業です。

毎年3月に、名人を招いて、その作品の発表会を行うのですが、今年は15周年ということもあり、これまでの15年の軌跡を振り返り、新たな聞き書きの可能性を展望するための記念イベントが2日間行われました。

私はかなり初期の頃からこの聞き書き甲子園に興味を持ち、事業を運営するNPO法人共存の森ネットワークの会員にもなっています。また、インドネシアでの高校生を対象とする聞き書き甲子園インドネシア版の準備段階で間接的に少しお手伝いもしました。

聞き書きの効能については、また別途、論じてみたいと思いますが、森や川や海の名人の代々受け継いできた技や心を敬い、それを次世代へ受け継ぐ関係性を改めて認識する契機となるものだと思います。ただし、聞き書きが地域おこしの特効薬になるかというと、そうではなく、地域おこしを促していくもっと底流にある何かを掘り起こす役割を果たすような気がします。

今日も、幾つかの出会いがありました。このイベントで、前々からお会いしたいと願ってきたK先生とようやくお会いできました。大学ゼミの大先輩であり、敬愛する宮本常一氏に直接師事されたK先生との出会いは個人的にとても嬉しく、至福以外の何物でもありませんでした。立ち話で色々とお話することができ、話をすればするほど、もっとゆっくりお話をうかがいたくなりました。

K先生のほか、K氏との出会いも嬉しいものでした。聞き書きやNPO活動に関する共通の友人の名前が何人か挙がり、よそ者が地域づくりに関わる際の弊害などについて話が盛り上がりました。K氏からも色々と学びたいと思いました。

昨日も今日も暖かく穏やかな1日だったので、東京大学弥生講堂まで自転車で往復しました。イベントも終わって、主催者のNPO法人共存の森ネットワークの皆さんにお礼の挨拶をして、自転車に乗って、東大前の横断歩道を自転車で渡ったとき・・・。

その横断歩道に立っていたマスクをかけた女性を目が合いました。ええ〜っ!

15年前、東京外大の非常勤で「インドネシア経済論」を教えたときの教え子でした。彼女もびっくりしていました。早速、近くの喫茶店で小一時間、色々な話をしました。フェイスブックではつながっていましたが、どうしているかなあと思っていた教え子だったので、とても懐かしく、とても嬉しいひと時を過ごせました。

今日も、素晴らしい出会いに感謝。

1 38 39 40 41 42 75