カバンを買い換えるの巻

昨日、日頃、使っている仕事カバン(というかリュック)を買い換えました。

今まで主に使っていたのは、Hedgrenのリュック。これは、たまたま、インドネシア・ジャカルタのサリナデパートのカバン売り場で見つけて、まあ、とりあえずしばらく使えればいいや、と思って買ったのですが、これが意外に使いやすく、重宝してきました。

物入れの場所が3箇所あり、MacBook Airと機内防寒用のウィンドブレーカーを入れるスペース、書類や本などを入れるスペース、携帯電話など小物を入れるスペースに分かれていて、けっこう、収納力があります。飛行機の中では、ちょうど席の下のスペースに収まり、足おき代わりに使っていました。

使い込むににつれて、鍵などを入れておく一番上の小さなスペースのファスナーが壊れて締められなくなり、リュックに物を入れると、全体が下にダラリと垂れるようになってしまいました。それに、雨に当たると、防水・撥水仕様でないので、中のものが濡れてしまって、困ったことがありました。

東京の街中で使うにはちょっと大きすぎるし、アポで人に会うときにもややカジュアルな感じだし・・・。ということで、来週からのスラバヤ出張を前に、買い換えました。

今回購入したのは、Manhattan Passageの縦型3ウェイタイプ、#2450というものです。このメーカーの特徴どおり、軽量で撥水性が高く、機能的です。

縦型ですが、表面に二つ大きなポケットが付いていて、モノを取り出しやすいです。普通のリュックだと、深く入ってしまったものが取りにくくて難儀でしたが、これだと、すぐに取り出せて良いです。とくに、上のポケットは、ほぼ日手帳オリジナルがちょうど縦に入る高さで、愛用のA5ノートも横にして余裕で入ります。

3ウェイではありますが、私は通常、ショルダーバッグにしないので、リュックにするか手提げにするかです。収納はA4用となっているので、ちょうどMacBook Airがピッタリに入り、大きすぎないのが良いです。

背負ってみると、カバンが背中をずり落ちてこず、背中の真ん中あたりで止まって、いい感じ。そして、何といっても軽くて、MacBook Airを入れて背負っても、重さをあまり感じません。

手提げにすれば、それほどカジュアルな感じもせず、大きくないので、日本で人と会うときに持ち歩いても違和感はなさそうです。

久々にいい買い物をした、と満足しました。

この人たちも、HedgrenのリュックからManhattan Passageの3ウェイバッグへ移しました。ももりん(左)とキビタン(右)です。また、どこへも一緒に連れて行きます。

インドネシアから日本への難民急増?

新聞報道によると、日本へ難民申請するインドネシア人の数が急増したとのことです。

2016年の難民申請者総数は1万901人で、国別のトップがインドネシア人(1829人)で、以下、ネパール人(1451人)、フィリピン人(1412人)、トルコ人(1143人)、ベトナム人(1072人)の順でした。

ちなみに、2015年のインドネシアからの難民申請者は969人、2014年はわずか17人でした。その急増ぶりには目を見張るものがあります。

インドネシアの状況をよく知らない方がその数字だけを見たら、ここ数年のインドネシアでは、政情不安やテロ頻発など、何かとんでもないことが起こっていて、危険を感じた人々がたくさん増えて、難民申請が急増したのだ、と思うことでしょう。

でも、まさか、本当にそうなのでしょうか。

プロのインドネシア・ウォッチャーの私は毎日現状を見続けていますが、そのような、難民を発生させるような事態は一切起こっていません!

インドネシア語のメディアでも、インドネシアから日本への難民申請急増は話題になっていて、なぜそんなことが起こるのか理解できない、という話が聞こえてきます。

実は、インドネシアは、難民の受け入れ国でもあるのです。

難民の権利保護のための市民社会ネットワーク(Indonesian Civil Society Network for Refugee Rights Protection)という団体によると、2014年6月30日時点で、UNCHRインドネシア事務所に登録された難民総数は1万116人で、うち6286人が亡命者です。難民の出身国はアフガニスタン、ミャンマー、スリランカ、パキスタン、イラン、イラクなどです(この数字の出所はこちら)。

インドネシアは国際難民の経由地としても知られていて、難民の多くは一時的にインドネシアへ滞在しつつも、最終目的地としてオーストラリアへの渡航を希望するケースが多いようです。なかには、不法なルートを使って、オーストラリアへ渡航しようとする難民を乗せた小さな船がインドネシア沖で座礁したり沈没したりし、インドネシア政府が彼らの救助へ向かう、といった事態も頻発しています。

すでに一人当たりGDPが3500ドルとなり、中進国化を意識し始めたインドネシアからの難民申請が増えているのは、理解しがたいことですが、その多くは、日本での就労を目的としているものとみられます。

東京オリンピックなども含め、単純労働者や建設労働者が日本で不足しているという情報は、インドネシアでもよく知られるようになりました。インドネシアは、日本が技能実習生や看護師・介護士として最も多くの人材を受け入れている国でもあります。帰国した彼らからの様々な就労に関する情報が流れています。

翻って、彼らの多くの出身元である農村では、農業で生計を立てるのが年々厳しくなっています。高収量品種米の導入に伴う化学肥料・農薬の多投などによって農地の肥沃度が低下し、生産性が上がらないだけでなく、農産物価格が低迷して、農業は儲からないと見なされています。子供たちは農業を継ぎたがらず、現世代で離農を覚悟している農家が増えています。他方、都市を中心に、国産よりも安くて質の良い野菜・果物・畜産物の輸入が増加を続けていて、農民の生産意欲を減退させている面があります。

しかし、それは、難民を発生させるほどの窮乏を農民に強いているという状況ではありません。日本も含め、どんな国でも、こうした産業構造の転換をどのように進め、国内産業を新しい段階へうまく適応させていくか、は重要な政策課題となります。その意味で、インドネシア政府による農業政策・産業政策・村落開発政策には、戦略的・計画的思考が欠けていると言わざるをえないと感じます。

日本の事業の現場では、難民であろうが技能実習生であろうが、とにかく働いてくれる人が欲しい、というところがあります。もちろん、外国人労働者だからといって、安くこき使えると今だに思っているとするならば、それはもう難しいはずです。日本もまた、新しい状況に合わせた、外国人労働力の受け入れ体制の構築と、日本社会自体のそうした状況への準備を進めていかざるをえないと思います。

でも、10年前、20年前に比べたら、まだまだ不備はあるものの、いつの間にか、日本社会はそうした外国出身の人々を社会の一部としてうまく受け入れ始めているのではないかという気もします。都市よりもむしろ地方で、そうした傾向が進んでいるのかもしれません。というか、人口減などにより、否が応でも、進めざるをえない状況になっていると行ったほうが正しいのかもしれません。

難民申請したインドネシア人を、現状で難民として認めるのは難しいですが、日本が他国から好かれ、彼らが働いてみたいと思うような国になっていくことも、世界の中で生きていくには、必要なことではないかと思います。

ジャカルタ州知事選挙の結果から読み取れること

2月15日に行われたインドネシアの101地方首長選挙の中で、内外のメディアに最も注目されたのが、首都ジャカルタの州知事選挙でした。

各種クイック・カウントでの得票率を見ると、候補ペア番号1番のアグス=シルヴィ組が16〜17%、2番のアホック=ジャロット組(現職)が42〜43%、3番のアニス=サンディ組が39〜40%、という結果でした。過半数を獲得した候補ペアがいなかったので、上位2ペア、すなわち2番と3番で決選投票が4月に行われます。
これまでの下馬評からすると、1番の票がかなり3番へ流れたことがうかがえます。1番はすでに敗北宣言をしました。
クイックカウントの結果には、意外に大きな違いはなかったですね。以前は、それぞれの候補ペアが自分に有利な数字が出るようにクイック・カウント会社を「買収する」といった話があり、結果が大きく異なることもあったのですが、今回はそのような様子は見られなかったように思えます。
私の予想では、2番がもう少し票を伸ばして過半数をかろうじて獲得し、僅差で当選するかなと思っていました。下馬評では3番がいま一つ伸び悩んでいましたが、私は3番は指示を伸ばしてくるだろうと思っていました。
インドネシアの選挙では、あえて2つのペアがガチンコで対決するのではなく、1つのペアが、自らの別働隊として、弱そうなペアを別に仕立ててあえて3ペアにして票を割り、決選投票へ持ち込んで勝つ、というやり方を戦術上採ることがあります。今回のジャカルタがそうだとは思いませんが、流れとしては、そんなふうにも見えてしまいます。
つまり、1番と3番は嫌アホックの票で概ね一致するので、次の決選投票では、1番の票を従えた3番が2番のアホックに勝つのではないか、という見方です。2番が勝つためには、イスラムか否かを基準に投票する人をいかに懐柔するかと同時に、3番のクリーン・イメージをいかに貶めるか、が鍵になってくると思われます。
現段階では、アホックが順当に勝つのはかなり厳しいと考えます。アホックがイスラム勢力を懐柔するのが難しいからです。となると、3番にこれからマイナスの何かが起こるのを待つしかないのかもしれません。

前回、ジョコウィが当選した2012年のジャカルタ州知事選挙のときも、今回とは違った形で、イスラムの名による大衆動員や誹謗中傷があり、もちろん、副知事候補だったアホックへの批判も渦巻きました。今回も、その片鱗は残っていました。

ジャカルタ州知事選挙を巡っては、表向きのイスラム主義の台頭(のような現象)やアホック自身の性格の問題などの裏に、様々な政治勢力の思惑があります。けっこう中身がゴチャゴチャしているのに加え、2019年の大統領選挙へ向けた動きとも関連してくるいくつかの要素が、すでに今回のジャカルタ州知事選挙に現れています。

それらについては、この数日の内に、Noteというアプリに記事を書きたいと思います。私なりの分析を加え、もしかすると中身が物議を醸すものになる可能性があるので、誠に恐縮ですが、有料記事とさせていただく予定です。僭越ではありますが、どうかご容赦ください。

「バレンタインデーを祝わないように」との通達

明日2月14日はバレンタインデー。日本で最もチョコレートの売れる時期でもありますが、インドネシアも、今ではバレンタイデーが有名になりました。

そして、毎年のように、「バレンタインデーを祝わないように」という呼びかけが出されます。

たとえば、首都ジャカルタの南隣にあるデポック市は、優秀で想像力に富み、宗教的で競争力のある人材を作り、将来に活躍する最良の世代を準備するため、2017年2月8日付市教育局回状を通じて、次のことを求めました(元のDetikの記事はこちら)。

1.生徒に対しては、学校内外でバレンタインデーを祝わずに、インドネシアの東洋的な文化価値に沿ったポジティブな活動に勤しむことを期待する。
2.生徒の親に対しては、子供たちを誘って家の中あるいは外で、家族の調和やつながりを高めるレクリエーションなどで一緒に過ごすことを望む。
3.すべての学校関係者は、学校内におけるインドネシア民族の代々伝えられてきた文化価値を踏まえた性格や態度を根付かせることを願う。

この通達の文面を見る限り、デポック市は、イスラム的価値にふさわしくないからバレンタインデーを祝ってはならない、と言っている訳ではないことがわかります。

この通達は、バレンタインデーそのものを批判している訳ではありません。そうではなく、最近の若者たちのバレンタインデーの過ごし方が尋常ではなくなっていることへの懸念が強く表れています。

以前聞いた話では、バレンタインデーに異性と食事やデートするだけならともかく、未成年どうしで外泊したり、バイクで走り回ったり、アルコールを飲んで騒いだり、とにかく風紀がものすごく乱れているということでした。どうやら、若者たちが自分たちの行動を自制できない事態が多々起こっているようなのです。

話は変わりますが、インドネシアのコンビニでビールが売られなくなり、在留邦人や日本人出張者の間でずいぶん話題になったのを覚えている方も多いと思います。

それを「イスラム教の影響が強くなっているから」と解釈する向きもありましたが、必ずしもそうではありません。

実は、コンビニが未成年者へアルコール類を売ってしまい、それを飲んだ若者が騒ぎを起こすという事件が相次ぎ、なかには、メチルアルコールにまで手を出して飲んで死んでしまう事件が起こるに至り、アルコール類の販売禁止策が出されるに至った、という経緯があります。

コンビニでのアルコール販売禁止も、今回のバレンタインデーを祝わないようにという通達も、自制できない若者たちを鑑み、彼らが欧米の真似をしてそれにうつつを抜かしている状況を懸念した、風紀の乱れ対策と見るのが適当かと思います。

しかし、この風紀の乱れに歯止めがかけられないと、イスラム法で治める以外に手段はない、という声が出てきてしまいます。すなわち、頼れる規範がイスラムしかないと考える向きが強まるのです。本当に風紀の乱れ対策をいろいろ考えてやったかどうかは分かりませんが、イスラムを出すほうが手っ取り早い、と考える人々も多いと思われます。

かつて、汚職撲滅が進まないのは世俗法で処しているからであって、イスラム法の世界になれば汚職は摘発できる、と汚職構造の抜本的改革にはイスラム主義で処するしかないという考えが現われたことがありました。インドネシアで10数年前、イスラム国家か世俗国家という議論が現れた背景には、こうした汚職対策への無力感がありました。

そして、イスラムの名を使いながら、そのような状況を利用しようとする政治勢力も現れてきます。

うがった見方をすれば、バレンタインデー反対に象徴されるのは、己を忘れ、欧米から入ってきた風習を無批判に無節操に受け入れ、それを自分でコントロールできないように見える若者たちを、東洋的とか土着文化とかいう曖昧な概念を用いて、インドネシアという国家に引き止める方策にも見えます。

本当に重要なのは、自制できる若者をどのように作っていくか、ということでしょう。それは、自分で分別をわきまえ、節度ある行動のできる若者になっていくことであり、それは今の教育のあり方と深く関わってくると思われます。

でも、どうしてこんな風になってしまったのか、とても不思議な気がします。

というのは、私がジャカルタに住んでいた1990年頃は、キリスト教徒以外は、誰もバレンタインデーなど祝っていなかったからです。それも、好きな相手に花束を贈る(多くの場合は男性から女性へ)のが一般的で、「日本では女性が男性にチョコレートを贈るのが流行っているんだ」というと、皆んなから「変なの!」と言われたものでした。

今では、インドネシアでも、バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈るのは普通のこととなりました。これは日本の真似なのでしょうか。

東京・銀座のリンツカフェの
チョコレートアイス&クレープ

政府エリートはなぜISへ合流しようとしたのか

1月26日、ISへ合流しようとしたインドネシア人とその家族が逮捕されたというニュースがありました。最初に報じたのは、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジア(CNA)でした。

このニュースが注目されたのは、このインドネシアネシア人が元財務省職員だったという点ででした。報道によると、彼の職位はIII/c級で、2016年2月に財務省を退職。疑惑が立たないように、8月15日にインドネシアを発って、まずタイに到着。その3日後にイスタンブールへ飛んだ、とのことです。

イスタンブールで彼らはイニシャルがIのインドネシア人と会い、隠れ家に連れて行かれた後、イスタンブールで家々を転々とします。そして、2017年1月16日にトルコ軍に逮捕されて警察へ連行され、1週間後にインドネシアへ送還されたのでした。

彼はオーストラリアのフリンダース大学に留学して公共政策の修士号を取っています。もし財務省でそのまま勤務していたならば、将来は安泰で、昇進も約束されていたはず。経済的にも恵まれていたのに、なぜ、ISに合流しようとしたのか、謎に包まれたままです。

ただ、これまで、インドネシアではエリートがイスラムへ傾斜する場面がいろいろありました。

1990年代以降、経済的に豊かになった華人系企業グループやそれを擁護する市場重視型エコノミストへの批判を強めたのは、イスラム知識人連合(ICMI)に集結した学者や知識人でした。ICMIは1990年に設立された知識人組織で、市場競争激化とそれに伴う格差拡大の原因は世銀・IMFによる自由主義的経済政策であると批判しました。

中央政府や地方政府では、ICMIに所属する官僚が徐々に主要ポストに就き始め、ICMIは単なる知識人連合ではなく、政策や人事にも大きな影響を与えるようになりました。そして、イスラム教徒とキリスト教徒の人口比が拮抗している地方では、両者間のポスト争いが激化し、それが火種の一因となって、暴動が起こるような場面も見られました。

組織の中心メンバーには、欧米留学組も多数いました。でも、留学した者でICMIに加わらなかった者も少なくありませんでした。留学中、彼らに何があったのかは知る由はありません。でも、留学中の何かが、イスラムへ傾倒する者とそうではない者とを分けたに違いありません。

私の経験でもそうですが、福島の高校から東京の大学へ入ったときに、まず驚いたのは、福島にいたのでは想像もつかないような優秀な同世代の若者が東京には多数いるということでした。自分とは別世界の人々でした。そして、インドネシア大学に留学したときにも、まだインドネシア語がよく分からないなかで、優秀な学生たちの存在がとても眩しく見えました。

もしかすると、欧米などへ留学した者には、そうした優秀な学生たちがまさに「欧米」を体現した存在と映ったのではないか、と想像します。自分の国では優秀な学生だったのに、一生懸命勉強しても「欧米」に叶わない彼らは、どのようにして自分のプライドを守ろうとするでしょうか。

おそらく、そんな彼らを惹きつけるオルターナティブが、イスラムであるような気がします。すなわち、そこで改めて、自分がイスラム教徒であり「欧米」とは異なる者であるという自覚が強まります。そして、自分の努力が足りないのではなく、「欧米」であること自体が間違っている、その代替はイスラムである、といった感情が、イスラム知識人というカテゴリーを生み出したようにも思えます。

実際、インドネシア人留学生が海外でイスラムへの傾倒をむしろ強めていくという話は、よく聞きます。彼らがその社会から疎外されていると感じるほどに、自らのアイデンティティをそこに求めようとする傾向が強まるようにも思えます。

トルコで逮捕された元財務省の彼もそうだったのかどうかはわかりません。でも、留学先のオーストラリアで、あるいは財務省の中で、彼自身が自分の存在を否定されたり、認めてもらえなかったりしたとするならば、その代替となるアイデンティティのありかをイスラムに求め、そこに何らかの勧誘や洗脳が加われば、自分を虐げた社会への報復に自分自身を向かわせる可能性があるのではないかと思ってしまいます。

こうしたことには、おそらく、エリートであるかないかはほとんど関係ないのではないでしょうか。

どんな人間でも、自分のアイデンティティが一つしかない状態になると、極端な行動へ走る可能性が高まるのではないか、と考えるとき、その人のアイデンティティと思えるものを複数持つような状況を作ることが大事になってくるように思えます。

例えば、宗教以外に、自分の出自種族や、生活している場としての地域。出身校やサークルなどを含めても良いかもしれません。こうした複数のアイデンティティが確認できることで、自分の情緒も安定し、自分を極端な行動へ追い込む必要もなくなるのではないか。

そんなことを考えながら、改めて、様々な自分を内包して生きていくことの意味をかみしめたいと思うのでした。

大学生と対話するのは楽しい!

今日2月5日の昼下がり、都内某所で、アジア開発学生会議(ADYF)に参加している大学生4人と話し合う機会がありました。

参考までに、アジア開発学生会議のホームページは次のリンクです。

 アジア開発学生会議(ADYF)(日本語英語

彼らのうちの一人は、昨年12月16日に私が担当した立教大学での特別講義の受講者で、そのときに、「自分たちの仲間と会って話をして欲しい」と言われていました。今回、それがようやく実現した形です。

彼らは、インドネシア・バリ島の観光開発による社会変容に興味を持っていて、自分たちで色々と学び、調査をしてきたようでした。今日の面会の前に、彼らは私への質問を前もってたくさん用意してきていました。

4人のうち3人は理系の学生で、大学では開発途上国の問題や国際協力についてなかなか学んだり議論したりする機会がないため、アジア開発学生会議に参加したという話でした。そして、今、自分が学んでいる専門を開発途上国の問題や国際協力に生かしたいという希望を持っていました。

彼らからの質問に答えながら、私からも色々な話をインプットしました。彼らの立てた前提が果たして地元社会の人々から見たら適切なものなのか、どのようにして地元社会の人々の本当のニーズを把握することができるのか、そもそもの問題設定自体が適切なのかどうか、といった話題を投げかけると、彼らからも様々な反応が返ってきて、私もいい意味での刺激を受けることができました。

以前のブログでも書きましたが、彼らのような大学生が自分の考えや意見を遠慮することなく話し合う場というものが、なかなかないというのが現状のような気がしました。大学時代こそが、若者が悩み、試行錯誤し、読書し、大きなことを考え、いい意味でホラを吹き、自分なりの思想や哲学を形作る、貴重な時期だと思います。

それが今、目先の試験や就活に追われ、社会人になってから試される「自分づくり」に時間を費やせないのは、残念なことです。せめて、1日に30分でも、毎週1時間でも2時間でも、そんな時間を作れたら良いのではないか、と思います。

今回のように、大学生と対話するのはとても楽しいものです。私自身は彼らの先生でも教官でもない、彼らとは何の利害関係もない、フツーの大人です。だからこそ、彼らの考えや意見をまっさらな気持ちで聞き、まっさらな気持ちで私の考えや意見を言うことができるような気がします。

「君たちが望むのならば、いつでも今回のような対話の機会を作っていいよ」と言ったら、彼らは何だか少し嬉しそうに見えました。もちろん、私自身の単なる勝手な思い込みかもしれませんが・・・。

何年もの時を経て旧友とつながり始めた気配

この一週間ぐらいの間に、もう何十年も会っていない、半ば忘れていたような、旧友たちと再びつながり始めた気配を感じます。

先週、ひょんなことから、中学、高校と一緒だった友人とフェイスブックでつながりました。すると、彼から、中学時代の彼の級友たちが東京に住んでいて、彼らが集まって飲んだときの写真が送られてきました。

この友人とはクラスが違っていたので、記憶は確かではないのですが、写真を見て、何人かの名前を思い出し、会っているかどうかを尋ねたら、ほとんど合っていました。

高校を卒業して福島市を離れ、それから埼玉県に少し住んだ後、ずっと東京で暮らしてきました。

一般に、友人づくりにはいろいろなタイプがあり、少数の親友と長く親しい関係を続ける場合もありますが、私の場合は、その時その時で新しく友人ができ、昔の友人との関係はどんどん消えていくという形だったような気がします。

つい最近まで、福島市にいた時の小中高時代の友だちとは、ほとんどコンタクトがなかったのです。新しい友人がどんどんできていくので、ほとんど気にも止めず、放置したまま長い月日が経ったのでした。

数年前、Linkedinでダメ元でつながりリクエストを出したら、高校時代の友人らとつながり、その勢いで再会して、福島市で餃子を一緒に食べ、今ではいつでもコンタクトを取れる仲に戻りました。彼らは、福島県庁の幹部職員や地方銀行の重役になっており、いつでも協力すると言ってくれました。

先週、写真を送ってくれた彼。写真を見ながら、自分のクラスではないのに、何人かのことを急に思い出し、とても懐かしくなりました。私の中学時代のクラスメイトは、今、どうしているだろうか、と懐かしい気持ちが止められなくなりました。

その後、前の勤務先で一緒だった方とも10数年ぶりにコンタクトが取れ、来週、ランチをご一緒することになりました。また、20年以上前にとてもお世話になったマスコミ関係の方とも今朝フェイスブックでつながり、元気でいらっしゃる様子を嬉しく思いました。

写真を送ってくれた彼は、写真に写っていた面々に声をかけて、東京で飲み会を計画したいと言ってくれました。でも、会うとなるとちょっと恥ずかしい気持ちになってしまいます。

常に新しい友を得て、それがインドネシアなど海外にもどんどん友ができて、この歳になって、昔の友とつながり始めた、というのも、不思議な気がします。

フェイスブックという、何年経っても繋がっていることができ、常に連絡を取らなくても何をしているかがわかり、いつでも、10年以上会っていなくても、あたかも昨日会ったかのように冗談を言い合える、そんな道具のおかげで、私の友人ネットワークは軽々と国境や時間を超えていくのでした。

こうして、この世を去るまで、友人を作り続けていくのでしょう。そして、真摯に想い続ける限り、フェイスブックなどの助けを借りて、バーチャルに過ぎないにしても、これらの友人とつながり続けていくことでしょう。

皆んな、今どこでどうしているのだろうか。自分勝手な思い込みかもしれませんが、きっと、そんな風に皆んなも思っているような気がします。

何かのきっかけで、このブログを見てくれた友人がいたら、ぜひ、私まで連絡をください。そして、連絡が取れたら、近いうちにお会いしましょう。

激安ノートパソコンを購入

9年前、以前の勤務先を辞めたのをきっかけに、ウィンドウズからマックへ乗り換えたのですが、今日、久々にウィンドウズのノートパソコンを購入しました。

というのも、銀行のインターネットバンキング、インターネットを通じた税金支払いなど、今後の仕事のうえで、ウィンドウズにしか対応していない場面が出てきそうだと感じたからです。

しかし、ノートパソコンを新しくもう1台買うべきかどうかは悩みました。今メインで使っているMacBook Airのブートキャンプを使って、マックとウィンドウズをMacBook Airの中に併存させることもできるからです。

それでも、MacBook AirのストレージがSSD256GBで、DropBoxとファイルを同期させているので、ブートキャンプを使って、マックとウィンドウズをパーティションすると、容量不足になりそうな気がして、不安になりました。

そこで、やはりウィンドウズのノートパソコンをもう1台買うということにしたのですが、最初は、MacBook Airを自分用にし、新たに購入するノートパソコンを仕事用にしようかと思いました。目をつけたのは、携帯性に優れたLet’s Note SZ、VAIO Z、Thinkpad X1の3つでした。これらにそれなりのスペックを搭載すると、いずれも25〜30万円ぐらいかかって、とても高価になってしまうので、今の経済状態からは大変厳しくなります。

MacBook Airが壊れて使い物にならないのであればその選択肢もあったでしょうが、MacBook Airはまだまだ健在で、携帯性も十分にあります。

前述の3つの機種の中古パソコンも色々見て、そのリーゾナブルな価格にはずいぶんと惹かれたのですが、携帯性を考えたとき、バッテリーの状態が不明なのがとても気になりました。

結局、今まで通り、MacBook Airをメインで使うとして、そのサブとして使えるウィンドウズのノートパソコン、新品で5万円以下、携帯性はあえて問わず、で探しました。

たまたま行った家電量販店で、生産完了したASUSの一つ前のモデルが破格の値段でした。最安値は、Windows 10 Home、CPUはCeleron、メモリ2GB、HDD500GB、14インチディスプレイが税抜で29,800円、というのにはさすがにびっくりしました。

私が購入したのはその一つ上のASUSで、Windows 10 Home、CPUはAMD、メモリ4GB、HDD500GB、15.6インチディスプレイ、テンキー付きキーボードで、税抜で39,800円、わずかですが1%のポイントが付きました。ゲーマーでも高度な数理分析を行うわけでもないので、とりあえずこれに性能は十分です。ただ、おそらく、このスペックならば、通常ならこの倍の値段でもおかしくないと思います。

新品でこの値段のものは、ネット上では見つけられず、実際に量販店に行って初めて見つけたものでした。「何でもネット」の世の中ではありますが、こういう一種の「出会い」みたいなところが面白いなあと感じてしまいます。

購入した後、家にあったMicrosoft Office Home & Business 2010をインストールし、問題なく使えるようになりました。でも、有線LANは問題ないのに、無線LANがつながりませんでした。加えて、マウスも欲しくなりました。DropBoxの膨大なファイル同期が始まってしまいました。これらは、これから少しずつ解決していこうと思います。

というわけで、常に携帯するメインはこれまで通りのMacBook Air、新ノートパソコンはサブ、据え置きで使っていきます。目標の5万円以下でうまく収まりました。

我々の結婚生活の原点

今日は、妻の用事に付き合って、東京都内の某市へ出かけました。

この某市は、我々が結婚して初めて生活した街でもあります。駅周辺はすっかり変わり、新しいショッピングセンターができていました。古ぼけた公会堂は、新しいコミュニティセンターに変わっていました。

反面、我々が毎日のように利用していたスーパーマーケットはなくなり、家電量販店に変わっていました。路地裏にあったはずの八百屋も総菜屋もなくなっていました。

さて、我々が結婚して最初に暮らしたアパートはどうなっているのか、気になって行ってみました。当時は新築、今や築27年の中古アパートです。

まだきれいに建っていました。このアパートの2階に住んでいました。2DKの小さな作りでしたが、二人で生活を始めるには十分な広さでした。

ここが我々の結婚生活の原点、ともいえる場所です。

ここでの生活はわずか1年で終わり、その後、インドネシアへ赴任したのでした。

久々に歩いたこの街、「とても住みやすかった」という思い出がよみがえります。路地裏の雰囲気はあの頃のままでした。

この某市がどこか、もう分かってしまった方もいるかもしれませんが・・・。

中国正月に寄せて:華人>プリブミの時代は終わった

今日は中国正月(イムレック)。私は東京ですが、インドネシアでも、各地で爆竹が鳴り、花火が上がり、獅子舞が繰り出し、賑やかにお祝いをしているようです。

2016年2月の中国正月、スラバヤの
タンバック・バヤン地区で見た獅子舞

スハルト時代から30年以上、インドネシアを見てきた自分にとっては、このお祝いをしていること自体が信じられないことのように思えます。

なぜなら、1998年5月のスハルト大統領辞任までの時代は、基本的に中国との対決姿勢をとってきており、中国正月を祝うどころか、漢字の使用も禁止されていました。華人系の人々は、身内だけでひっそりと、人目を避けながら中国正月を祝っていたのでした。

スハルト政権が崩壊し、後継のハビビ大統領の後のアブドゥルラフマン・ワヒド(グス・ドゥル)大統領の時代に中国正月を祝日とすることが決まり、その後のメガワティ大統領の時代に正式に祝日となりました。中国正月が祝日となってから、まだ10数年しか経っていないのです。

そんな歴史を感じさせる様子もなく、街中のショッピングモールでは中国正月向けのセールが行われ、中国正月を祝う赤い色で埋められています。

華人はインドネシア国籍を持つインドネシア人の一部、という認識が定着してきました。華人系の人々も、祖先の出身国である中国よりもインドネシアへの帰属意識が強くなり、華人系だから中国共産主義の手先、という見方も随分と薄れました。

スハルト時代には認められなかった華人系の政治・国防治安への進出も進み、華人系の政治家や軍人・警察官も、一般には特別視されるような状況でなくなりました。

漢字交じりの看板はあまり見かけませんが、中国語の新聞や雑誌などはけっこう出版されています。テレビやラジオでは、中国語ニュースの時間がレギュラーであり、中国語の歌謡曲やポップスも流れます。

スハルト時代に政治・国防治安への参入を禁じられていた華人系は、ビジネスの世界で生きていかざるをえず、その結果として、ビジネスは華人系企業グループが牛耳っている、という状況は、マクロで見ればあまり変わっていませんが、ミクロで見ると変化が起こっています。

すなわち、30〜40代の経営者を見ると、華人系だから優秀で、プリブミ(非華人系)だからダメ、ということはほとんど言えなくなりました。華人系でもそうでなくとも、彼らの多くは海外で教育を受けた経験を持ち、アジア全体に目を向けて英語でビジネスをし、経営手法も、かつてのような政治家と癒着したり特別扱いしてもらうことを前提としない、スマートな経営を行っています。

日本では今だに「華人系でないとパートナーとしてはダメ」といった話をよく聞きます。しかし、何を根拠にそう言えるのか(おそらく話者の幾つかの経験に基づくのかもしれませんが)、疑問に感じます。

華人系とか非華人系といったレッテルで見るのではなく、個々の経営者が優れているかどうかを見極めて、判断する眼力が求められていると痛切に感じます。

そして、華人系を中国と常に結びつける見方も適切ではなくなっています。たしかに、彼ら華人系は中国の政府や企業とビジネスを行っていますが、それは人種的な親近感に基づくのではなく、純粋にビジネスとして有望かどうかを判断して行なっているのです。非華人系でも、同じように中国の政府や企業とビジネスを行っている者が少なくありません。

スハルト時代の末期には、スハルト・ファミリーのビジネスを非華人系の代表として優先的に拡大させることを暗黙の目的として、華人系をディスる傾向が見られましたが、現在は、非華人系が政治家と結託して華人系をディスるような傾向は見られません。その意味で、何の根拠もなく、「華人系のほうがプリブミよりも優れている」といえる時代はもはや終わったのだ、と思います。

ただし、昨今の中国人労働者の大量流入や中国企業の進出を背景に、中国ファクターを政治的に使って現政権に揺さぶりをかけたがっている勢力が存在する様子もうかがえます。

ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック現知事(休職中)への攻撃も、華人系でキリスト教徒であるという点を執拗に攻めている形です。これは、あくまでもアホックへの個人攻撃とみなせるものですが、これが制御を失って、政治的に中国批判という形になってしまうとまずいです。

現に、現政権の与党・闘争民主党やジョコウィ大統領が中国を利しているとして、共産党との関係を疑うような話題も出始めており、中国ファクターを政治的に使って政権批判を行う可能性がないとは言い切れません。そして、国際政治にそれが連結した場合、今の微妙な日中関係を背景に、インドネシアにおける日本や日本人の立ち位置が難しくなりかねません。

もっとも、今のインドネシア社会では、(インドネシア人である)華人系と(外国である)中国とを区別するという態度が一般的になってきています。ですから、それほど過度に心配する必要はないのですが、一応、気をつけて見ていく必要はありそうです。

少なくとも、「華人系だから」といった色眼鏡でインドネシアのビジネスを見ることなく、経営者やそのビジネスの中身で判断する時代となっていることを理解して行動してほしいと思います。

誕生日を迎えました

本日1月26日、55回目の誕生日を迎えました。

フェイスブックやリンクトインなどを通じて、たくさんのメッセージをいただきました。ありがとうございます! 改めて深く感謝をお伝えいたします。いただいたメッセージには、これから一つ一つお返事をお返ししたいと思います。

昔お世話になっていた職場に今もいたなら、管理職定年となる歳です。かつて、55歳の頃の父の威厳ある姿を思い出すとき、今の自分のあまりにも子どもみたいに無邪気で普通すぎる姿との対照に、我ながら思わずすくんでしまいます。

ある意味、「大人」にならないで歳を重ねてきたような気もします。自分で年齢を決められるならば、もうずっと28歳のまま、27年が過ぎてしまったような気もします。28歳の頃の気持ちと今の気持ちとがまだつながったまま、老後や寿命を全く意識できず、まだまだずっと走り続けていけるような気がしています。

この間、私よりも先に生を終えた友人や知人のことを思います。それぞれにいろんな事情があったことでしょうが、彼らの分まで一生懸命生きようと思って生きなければならないと自分に言い聞かせてきました。

自分という存在が、果たして世の中のために役に立っているのかどうかは、正直言って、よく分かりません。少し前までは、世の中の役に立ちたいと願い、それが果たされていないのではないか、自分などいてもいなくても同じなちっぽけな存在なのではないか、と悲観することもなかったとは言えません。

でも、生きている、生かされているということは、少なくともそれ自体に意味があり、これから何かすることが世の中にとって意味のあることなのでしょう。

生が長ければ長いほどいいとは思いません。生の中身をもっと濃くしたいと努めながらも、薄いように見える生の中身が実はものすごく濃いことに気がつくこと、そしてそれを大切なものとしてありのままに受け止めること、その繰り返しなのかもしれません。

私の生自体を客観的に誰かが価値判断することはできないはずです。その誰かにとって私の存在がプラスだったかマイナスだったか無関係だったかを判断するのは自由ですが。

今この瞬間にも、「生きたい」と懸命に生きている人々が世の中にはたくさん存在する、という当たり前のことを意識したいものです。

誰も一人では生きていけないし、自分のためだけに生きる訳でもない、直接的にせよ、間接的にせよ、自分以外の誰かのために生きている、それが生きるということの根本のような気がします。

今までよりももっと、自分以外の誰かと安心して一緒に過ごせる時間を大事に大切に丁寧に過ごしていきたいと思います。誰かを受け止め、誰かと信頼を分かち合える瞬間や時間を感じながら、これからも丁寧に真摯に前へ向かって生きていきたいです。

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

55年前に産まれてすぐの頃の私。
私という存在の原点。

お通夜の最後の参列者

今日の午後、突然、知人の訃報が知らされました。先週亡くなり、今日がお通夜、明日が告別式、ということでした。

この方は、某マスコミの管理部門の方で、これまで、インドネシア関連の講演などで大変お世話になった方でした。

彼についてとくに思い出されるのは、2015年1月28日、ジャカルタで開催された「インドネシア=日本の新たなパートナーシップ」と題するシンポジウムです。このシンポジウムは、彼の会社が幹事として運営され、彼はその責任者でした。

シンポジウムでは、日本とインドネシアの著名人によるセミナーに加えて、新企画として、日本とインドネシアの企業経営者に企業の現場から日本とインドネシアの関係強化をどう図るか、という内容のパネルディスカッションがありました。私はこのパネルディスカッションで、彼から進行役を任されました。

きれいごとではなく、技術移転や労務問題など、日本側とインドネシア側から双方に対する本音が出る、中身のある議論にしたい、というのが彼の願いでした。でも、パネルディスカッションが始まる直前になっても、議事進行のシナリオは用意されておらず、また、日本語とインドネシア語の混じる形で議事を進めることになっているので、進行役としては、いったいどうなることやら、皆目見当のつかない、不安な状態でした。

私は、拙いながらも、日本語とインドネシア語のバイリンガルで議事進行役を務め、議論を丁寧に拾いながら、そこから派生してさらに本音の部分が深まるような方向へ議論を導いていきました。1時間半という予定時間内で終わるのか、シナリオが何もない中で、必死で議事を進行していきました。

何とか議論をうまくまとめた形になり、パネルディスカッションは、自分で言うのも何ですが、けっこう中身のある内容になったと思います。ご興味のある方は、以下のリンクをご参照ください。

平成 26 年度新興国市場開拓事業(相手国の産業政策・制度構築の支援事業(インドネシア:知日派育成))報告書

このパネルディスカッションに引き続き、シンポジウム後のレセプションで、何か日本とインドネシアの今後のパートナーシップを象徴するような、前向きの内容を作れないか、とおっしゃったのも彼でした。

私は、日本とインドネシアの架け橋になりたいと本当に頑張っている、日本人の血とインドネシア人の血を持つダブルの友人2名にプレゼンしてもらってはどうかと提案しました。彼はそれを快諾し、2名のプレゼンが実現しました。彼らは今、日本とインドネシアの架け橋として、さらに活動を発展させています。

これまで、いろんな方々と一緒に仕事をする機会がありましたが、今回亡くなった彼と一緒にした仕事は本当に思い出深いものでした。

今日は、夕方から都内で用事があったのですが、その用事が長引いてしまい、お通夜に行くのは無理かと最初は躊躇しました。でも、着いたらもう終わっているかもしれないけれど、行けるところまで行ってみよう、と電車を乗り継いで、トイレに行くのを我慢し、時には必死で走りながら、お通夜会場まで行ってみました。

着くと、お通夜はもう終わっていました。でも、斎場に明かりが灯っています。見ると、ご家族がまだいらっしゃいました。彼の部下だったTさんが、私が遅れてくることをご家族に伝えてくださっていたのです。待っていてくださったのでした。

本当に恐縮し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それでも、彼に最後のお別れを言おうと思いました。焼香用の火はすでに消されており、線香をあげるように促されました。そして、お別れをすることができました。

ずっと待っていてくださったご家族に深く御礼を申し上げ、場を後にしました。

享年46歳。まだまだこれから、でした。もっともっと、一緒に仕事をしたかった・・・。帰りの電車の中で、色々な気持ちがこみ上げてきました。

Wさん、さようなら。本当にお世話になりました。どうぞ、安らかにお休みください。

100回目の投稿、ブログは毎日更新中

昨年6月、軽い気持ちで始めた個人ブログ「ぐろーかる日記」ですが、このポスティングで100回目の投稿となりました。

そして、今年の目標の一つとして掲げたブログの毎日更新も、1月1日以降、まだ継続中です。

ブログを毎日書く、と決めてはみたものの、本当に何もネタのない日もあります。そんな日は、身の回りのちょっとした出来事や、食べ物のことや、日常生活のたわいもない話をメモ代わりに書いています。

自分の拙いブログをいろいろな方に読んでもらい、何か少しでも、そうした方々の毎日にプラスになるような存在になれたらなあと思っています。お時間があれば、引き続き、ご笑覧いただければ幸いです。

今日から、もう一つ別の今年の目標へ向けた個人的な活動を始めました。今年中にこの目標を達成できるかどうかはまだわかりませんが、今後の自分にとって大切な基礎の一つを築くことになると考えています。

そして残りの5つの目標の実現へ向けて、さらに精進していきたいと思います。さて、どうなりますことやら。

マレーシア・クアラルンプールのKL Sentralにある
NU Sentralモールに飾られたニワトリの電飾。もうすぐ中国正月。

影絵芝居への批判をめぐって

ジャカルタで今日、ホットな話題となっているのが、ワヤン・クリッ(影絵芝居)批判です。

ワヤン・クリッというのは、ジャワの伝統的な影絵芝居で、水牛の革や角で作られた人形(下写真はその一つ)に灯りを当て、ガムラン演奏をバックに、ダランと呼ばれる演者が一人で人形の操演と語りを行うものです。

この影絵芝居を批判する垂れ幕がジャカルタ中心部で現れたことが、ツイッターなどの写真で見つかり、話題となっています。

その写真の一つは、例えば、以下にあるようなものです。

 VIVAニュースサイト

そこに書かれているのは、直訳すると「影絵芝居を演じるのはイスラム法(シャリア)ではない」、すなわち、影絵芝居はイスラムにそぐわない、という意味に取れます。ほかにも、「影絵芝居はイスラム教徒の文化でも教えでもない」「影絵芝居の上演を固く禁止する」といった垂れ幕も現れました。

インドネシアのワヤン・クリッ(影絵芝居)は、むしろイスラム教を広める媒体として使われたという歴史があり、こうした垂れ幕に対して、疑問を呈する声が起こっています。

最近は、映像や写真を加工して虚偽の情報を流すことが横行しているため、この写真も加工したものでイスラム教徒同士の分断を狙った陰謀ではないか、といった説まで出ていました。

インドネシアのイスラムは、とうとう自分たちの土着文化までをも目の敵にし始めたのでしょうか。それほどに、単純に急進化しているのでしょうか。

今回の事件は、そのように単純に受け止められるものではありません。

実は、ちょうど、ジャカルタ首都特別州知事選挙に立候補しているアホック州知事候補と組んでいる州副知事候補のジャロット氏が、アホック=ジャロットの名前を前面に出さずに、影絵芝居のイベントを開いていたのです。ジャロット氏は影絵芝居の愛好家として知られています。

影絵芝居を批判する垂れ幕は、その影絵芝居イベントへ行かないように促すことを目的として、対立候補ペアの支持者たちが作ったものと察します。

しかし、その文面だけから見ると、あたかも、インドネシアのイスラムが代表的な自国文化に対する寛容さえも失っているかのように捉えられてしまいます。

今回は、そうではないと確信しますが、過去の歴史を見ると、そういってただ笑って過ごせばいいものでもないことに留意する必要があります。

かつて、南スラウェシ州では、伝統的な民族舞踊にイスラムの要素を入れるべきだとして、政府が介入して、踊り手の衣装などに改変が施されました。バリ舞踊でも、ムスリムの踊り手が踊る場合に、肌を出す女性の衣装にクレームがつくという事態が起こっているようです。

それ以前にも、偶像崇拝的な農耕儀礼や先祖伝来の民話なども、イスラムの教えに合わないという理由で禁じられ、迫害されるような事態がありました。

国民の多数派であるイスラムこそ、他者や少数派への配慮や寛容が必要であることは、多くの国民に共有されているのですが、一部の勢力が政治的理由からイスラムを利用する可能性は依然として高いと言わざるをえません。それら勢力による政治利用の自己制御が効かなくなったとき、寛容できる余裕を失い、社会は分裂へ向かう可能性が高くなるのではないかと思われます。

アメリカに対しても日本に対しても、この影絵芝居批判騒動と同じような雰囲気を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

米国のトランプ新大統領の就任演説を聴いて

1月20日深夜、眠い目をこすりながら、アメリカのトランプ新大統領の就任式をテレビで観ていました。就任式やその前後の行事には全てしきたりがあり、それに則ってすべて進んでいくのは興味深いものでした。

画面を通して観ると、やはりそこに現れる人々の様々な表情が観てとれて面白いです。オバマ前大統領夫妻の大役を終えた安堵感溢れる表情とは対照的に、トランプ新大統領夫妻や家族たちはやや緊張した面持ちのように見えました。

世界が注目した新大統領の就任演説。でも、トランプ新大統領の演説は、自国民だけへ向けたものでした。

当然といえば当然ですよね。新大統領を選んだのは自国民なのですから。自分を選んでくれた自国民に対しての演説なので、「アメリカ第一」を繰り返すのは当然のことでしょう。「偉大なアメリカを取り戻そう」と世界へ向けて訴えたわけではないのです。

もちろん、世界中の人々がこの就任演説を観ていることを意識してのパフォーマンスであり、アメリカがより自国優先主義を強める、と解釈されるのは誤りではなく、懸念が深まるのももちろんのことと思います。

でも、日本も含めたどの国でも、自国優先主義を採っていない国など、国家である以上ないはずです。我々は、どこかで、世界最強の国であるアメリカには、自国だけでなく、世界のことをもっと考えて行動してほしいと思っているように見えます。そして、そのアメリカに自分たちが付いていく、だからアメリカはしっかりしてよ、と思っている国さえあるのです。

自分たちは自国優先主義でもアメリカはそうであって欲しくない、というのは、少々身勝手ではないかという気もします。世界のことをもっと考えて行動するのは、たとえば、日本もどこの国も同じなのではないでしょうか。

アメリカが自国優先主義になると、世界中がバラバラに自国のことしか考えなくなる、という意見もあるでしょうが、アメリカにだけ「世界のことを考える」ことを求めてきたことのほうが誤りであったのではないでしょうか。

そうではなくて、自国優先主義はすべての国の大前提として、それと並行して、世界のことをすべての国が考える、そのような世の中を作っていく。戦争を回避しながら、国家間の利害関係を交渉し調整するにはものすごいエネルギーや時間やコストがかかりますが、それをすべての国が覚悟してやっていかなければならないのではないでしょうか。アメリカだけに任せるのではなく・・・。

そのためには、自国外の世界をもっと知っていかなければならないのではないでしょうか。よその世界を知ることなく自国内だけに留まる態度こそが、利害関係の交渉や調整を難しくしていくことでしょう。「自国優先主義」と「自国さえ良ければいい主義」は大きく異なるはずです。

個人レベルでも、自分以外の人や世界の存在を認め、それを知ろうとしないと、それらに対する勝手な妄想、偏見、イメージが作られ、場合によっては、それがヘイトや排斥や差別につながります。知らないから恐れ、怖がり、それに対する妄想や偏見を勝手に強め、だからこそ、相手を威嚇したり、やられる前に力でやっつけてしまおうとする。戦争やテロはそんなことの繰り返しであり、我々はまだそれらから十分に学べていないような気がします。

トランプ政権の発足で、アメリカがよりナショナリズムに走り、社会の分断はより大きくなりだろうというコメントを聞きます。おそらく、そうなるのでしょう。反論するには、現状はあまりにも厳しいです。

でも、国家におけるナショナリズムが強まることを懸念したり悲観したりしてそれを呆然と見ているよりも、我々一人一人が自分以外のよその人や世界を知る行動を起こしていくことのほうが大事なのではないでしょうか。

傍観している我々もまた、社会の分断に結果的に加担していることになるのですから。

自分以外の人や世界の存在を認めてそれらをもっと知る。他者への想像力を高める。そして社会の分断を少しずつ溶かしていくために自分でできる範囲の行動をする。微力ながら、自分の身の回りから、そんな方向へ少しでも促せるような活動を進めていかなければならない。トランプ新大統領の就任演説を聴きながら、改めてそう決意しました。

マレーシアから羽田へ向かうエアアジア機から見た夕暮れ
(本文とは関係ありません)

今回の私は怪しい人物?

1月11〜18日、マレーシア、インドネシアへ行ってきましたが、普段はこれまでなかったことが起こりました。

日本からの出国時と入国時、荷物検査と税関で荷物をすべて開けさせられたのです。これまで、何度も海外へ出かけていますが、行きも帰りも全部荷物を開けさせられたのは、今回が初めてでした。

羽田空港での行きの荷物検査では、「ハサミのようなものがある」と言われ、もう一度リュックを荷物スキャンに通した後、「おかしい」という表情をした、メガネのまだ若い女性検査官が、リュックの中のものを全部開けるように命じ、自分も一緒に私の荷物を中から外へ出し始めました。

もう一度、彼女は「おかしい」と首をかしげ、それでもないとわかると、諦めたように、自分の持ち場へ、何事もなかったかのように、さっさと戻って行きました。

残された私は、一人で荷物をもう一度リュックへ入れ直しました。けっこう工夫して収納しているので、入れ直すのにはけっこう時間がかかりました。

この間、女性検査官からは何も言葉をかけられませんでした。あなたのが終わったから持ち場に帰る、疑うのは当然、という風情に見えました。

ちょっと頭にきたので、彼女に「終わりましたよ」と呼びかけましたが、無視されました。

私が疑われて当然の風情だったのでしょうか。

次は、帰国後の羽田空港。スーツケースを受け取って、いつもの通り、税関のグリーンライン(申告なし)へ向かいました。人も並んでおらず、すっと行くかなと思ったら、係官から、おもむろに「マレーシアからですか?」「マレーシアから最近、麻薬とか密輸するのが多いんですよ。ちょっと中を開けてもらえますか?」と言われました。

そして、スーツケースの隅々まで、手を入れて見始めました。5分近くスーツケースの中を探った後、「ないですね」と言っておしまいでした。この係員からも、疑われた側を気遣う言葉はありませんでした。

荷物検査の検査官も、税関の係員も、いってみれば、人を疑うのが仕事の方々で、きっと、いつも濡れ衣をかけてしまった相手から罵声を浴びたりすることもよくあるかもしれません。でも、濡れ衣をかけられた側のことをもう少し気遣ってもいいのではないかと思いました。

今回は、買ったばかりの、ユニクロの黒いウルトラライトダウンジャケット(これは軽くて暖かくて本当にいいですよね!)を着ていました。ズボンも黒かったので、黒装束でした。まさか、この格好のせいで疑われたのでしょうか。

それにしても、疑われるほうも悪い、というのが世の中の常識になってしまうのでしょうか。痴漢されるほうも悪い、いじめられるほうも悪い・・・。

いや、やっぱり、女性検査員や税関係員に対して、声を荒げて抗議すべきだったのか・・・。

今回マレーシアで食べたもの

昨日1月18日、クアラルンプールから東京へ戻りました。今回、マレーシアで食べたものは、次のようなものでした。

まずは、1月12日、マラッカの昼食で食べたカレーセット。マラッカの有名店Selvamにて。

バナナの葉の上にご飯、アチャール、野菜カレー、パパドなどが載せられ、チキンカレー、マトンカレー、豆カレー(ダル)から選んだ1つをご飯の上にかけてもらいます。合わせて、イカのサンバル煮、揚げ魚、ゆで卵カレー、マトンカレーを追加でチョイス。

飲み物はマンゴーラッシーを注文、食べた分だけ支払う仕組みです。食べ終えたら、バナナの葉を半分に畳みます。

インドのターリーとインドネシアのパダン料理のミックス、のような形に思えました。

次は、1月16日、マカッサルからクアラルンプールに夜着いて、11時半頃に食べたマトン・ブリヤニ。

長粒米のブリヤニにキャベツの炒め物とゆで卵が添えられ、その上から豪快にマトン・カレーがかけられた一品。これで11.5リンギ。ご飯の上にゆで卵が載っているのは、マカッサルの定番ナシ・チャンプルを思い出させます。
1月17日のランチは、NUセントラルのDolly Dimsum。この店は、ハラールの飲茶レストランで、ランチをご一緒した友人(イスラム教徒の女性)は前から興味があったとのこと。でも、インドネシアでは、ショッピングモールに入っている中華系レストランは、すでにほとんどがハラールなので、ちょっとびっくりしました。マレーシアの中華系レストランは、まだイスラム教徒を客としてあまり認知していない様子がうかがえます。
そして、その彼女が持ってきたモナカアイスも賞味しました。

ソルティーキャラメル味とイチゴミルク味。皮がサクサクしていて、なかなかの味でした。保冷バッグに入れてこられたのですが、食後に食べたせいか、中身が溶け始めていたのがちょっと残念。でも、このモナカアイス、クアラルンプールではけっこう受け入れられるのではないでしょうか。現在、ハラール認証申請中で、将来はフランチャイズを志向しています。インドネシアやシンガポールなどへも広がるといいな、と思います。

1月17日の夕食は、友人と一緒に新峰肉骨茶(Sun Fong Bak Kut Teh)。クアラルンプール在住者ならきっと必ず知っている、1971年創業の有名店です。今回が二度目ですが、しっかりと堪能しました。

まずは、ニラのような青菜ともやしの炒め物。シャキシャキ感がたまりません。

次は、オリジナル肉骨茶。レタスなどが入っていない、肉骨茶のなかの肉骨茶という感じの美味しさ。

ドライ肉骨茶というのも注文しました。これもなかなかいけますが、やはり、薬草などが入ったスープと一緒の肉骨茶のほうが好みです。

インドネシア・マカッサルの名物料理に、骨つき牛肉を煮込んだコンロというのがあります。通常はスープ・コンロとして汁付きですが、汁なしのコンロ・バカールがジャカルタで発明され、マカッサルに逆輸入されるということが起こりました。前々から、このコンロと肉骨茶とは、牛と豚という肉の違いはあれ、何らかの関係があるのではないかと考えています。

新峰肉骨茶での最後の締めは、豚肉ビーフン。この豚肉が三枚バラ肉で、柔らかくてとろけそう。病みつきになりそうな美味しさでした。

新峰肉骨茶を出てすぐのところに、ドリアン屋の屋台が出ていました。

猫山王というドリアンを食べさせる屋台です。この猫山王ドリアン、後で知ったのですが、黄色みを帯びて味が濃く、ドリアンの中でも最も美味しい部類のドリアンとのこと。

たしかに、ドリアンとしては小ぶりなのですが、肉厚で、味がとても濃厚でした。うーん、至福のとき。でも、1キロ60リンギと高く、これは1.5キロだったので90リンギ。結局、80リンギにまけさせて賞味しました。

クアラルンプール最後は、1月18日、KLIA2のフードコートで、チキン土鍋飯(Claypot Chicken Rice)を食べました。

タマゴが載っていて、熱々をタレ付きご飯と混ぜ混ぜして食べる、この幸せな気分。おこげもまた、カリカリしていい感じでした。

食べることで、自分が楽しく、元気になれるような気がします。今回も、「どうだ、私を食べてみよ」と言われているような勢いのある食べものたちと出会えて、元気に前向きに一層慣れたような気がします。

また、食べにきます!!

ウソがまことか、まことがウソか

最近の様々な情報を見ていると、本当に、「ウソがまことか、まことがウソか」という気分になります。

日本でもインドネシアでもアメリカでもどこでも、誰かが何らかの目的や意図をもって、端からは生の情報のように見えながら、実は加工された情報が流されるようになっています。情報操作のための手段として、メディアの情報が流れるようになってきました。

特に、映像情報では、映像を傍目にはわからないように加工して、誰かを貶めるための手段として使われています。また、貶めたい人の過去を目を皿のようにして調べて、ちょっとでも貶められそうなネタがあれば、それをことさらに強調する者もいます。

そうした情報が正しくないことが証明されたとしても、そうした情報を流した者がそれを認めることはなかなかありません。

なぜなら、そうした情報が量的に拡大し、たくさんの人々に知られるようになれば、そのウソの情報が力を持ち、権力と結びついたりすると、それが本当の情報として認知されてしまったりするからです。

そうなると、地道に事実を積み上げて客観的な情報を提供しようと努める真摯な人々が、反動的だとか権力迎合だとか体制的だとか、いわれのないレッテルが貼られ、その声がメディアを通じて大きくなればなるほど、真摯な人々を誰も守ることができなくなってしまいます。

最近、とみに、こうした「ウソがまことか、まことがウソか」という状況が強まっていて、その一端をSNSがになっていることは否定できないような気がします。

こうした情報に振り回されて、自分が自分であることを見失ってしまう、いや、失ってしまっていることに気づかないような場面が出てくる恐れがあります。

自分を見失わないためには、他人が言うことではなく、自分の五感をまず信じることが大事でしょう。本を読み、旅をし、様々な人と交わることで、借り物ではない自分自身の思想を作っていく作業を続けていくことが肝要かなと思います。

そのためにも、自分の生活の場である地元、ローカルの現実に自分なりの根を張り、五感で得た現実の事実から思想の根を生やし始めることだと思います。そして、飛び交うメディアなどの情報を、自分の思想に基づいて取捨選択し、白か黒かではない、情報に応じた是々非々の態度をとることが求められるような気がします。

さらに、白か黒かをはっきりさせるような議論はレッテル貼りの亜流であり、そうした動きには関わらないこと、レッテル貼りの対象になるようなことがあってもひるまないこと、が大事になるかもしれません。

ウソがまことでまことがウソ、という状況を笑って済ませられる時代は、もう終わりつつあるのかもしれません。様々な疑問をしっかり持ち、常に批判的に情報に接する態度を養いたいものです。

30代のご夫婦の遺志をどう継いでいけるか

昨日のNHKスペシャルでは、村の再生のために頑張っていた30代のご夫婦が自ら命を絶つという選択をしたという話が、まだ心に刺さったままの状態です。

彼らのところへは、当初、震災ボランティアがたくさんやってきて、一緒に汗を流し、米づくりを始めたという話でした。しかし、時が経つにつれて、ボランティアは少なくなり、ほとんど来ないような状態になったということでした。

その話を見ながら、よそ者が寄り添うというのはどういうことなのか、どこまで寄り添えばよいのか、私自身も関わることの多い外国援助の現場のことと重ね合わせて考えていました。

30代のご夫婦にとって、ボランティアの方々が来てくださるのは、本当に嬉しかったのだと思います。と同時に、いつまでもボランティアの方々が来続けるわけではないこともわかっていたと思います。むしろ、いつまでもボランティアに来てもらっている間はまだ本当の復興ではない、と思っていたかもしれません。

でも、徐々にボランティアの来訪数が減るにつれて、自分たちの支持者が減っていくような、寂しさも感じていたことでしょう。でも、きっと、それでも頑張らなければ、と頑張ったのだと思います。

ボランティアで来ていた方の中には、昨日の放送をご覧になった方もいたことでしょう。そして、ずっと30代のご夫婦のところへ行き続けなかったご自分を責めていらっしゃる方もいるかもしれません。自分がもしそのボランティアだったら、きっとそうするだろうなと思います。

ボランティアなんだから気にする必要はない、という考え方もあるでしょう。でも、そうやって本当に割り切れる人はいないと思います。

かわいそうだから行ってあげるボランティアから、好きで面白いから行くボランティアへの転換が進まなかった、ということでしょうか。

でも、亡くなられた30代のご夫婦にとって、一番辛かったのは、自分たちの同世代の仲間で、一緒に村へ戻って、ともに農業で再生を果たそうとする仲間が、ほとんどいなかった、増えなかったということではないかという気がします。

かつて村で農業を生業としていた人々が村へ戻らない、戻れない中で、よそ者のボランティアに定住して一緒に農業をするように促すこと、お願いすることは現実的ではなかった、のでしょう。

日本中、一部を除いて、ほとんどの山村で人口が減少し、若者の多くが都会へ行ってしまっています。一部では、都会の若者が山村へ移住し、新しい生き方を始めているケースもあります。

それに加えて、原発事故による風評の消えないところへ、わざわざ行く、移住するというのは、とても勇気のあることです。そんな動きが少しでも現れれば、30代のご夫婦の遺志も生かされるのではないか。希望はほんの少しでも、そんな動きが起こるきっかけを作ることに自分も微力ながら関わっていきたい。そんな風に思います。

そんななか、この30代のご夫婦が生きてきた川内村に、昨年11月、タイ最大の珈琲店チェーンである「カフェ・アマゾン」の日本1号店が開店したというニュースを聞きました。このことが、これから川内村の風評イメージを反転させ、どんな変化を創り出していくのか、興味を惹かれます。

全村避難となった飯舘村には、椏久里(あぐり)というスペシャリティ・コーヒーの名店がありましたが、震災後に閉店を余儀なくされ、福島市で開店、再出発しました。

福島でのコーヒーをめぐる動きが、新しい福島を創り出すストーリーの一つになれば、と祈っています。

よそ者の自分が軽々しく言うべきではないとは思いますが、コーヒーがきっかけとなって、小さな希望が生まれ、それが少しずつ膨らんでいくことを願いつつ、それを膨らませる一人に自分もなれれば、と思います。

それでも生きて欲しいー原発事故から5年の福島を観て

9日夜、NHKスペシャル「それでも、生きようとしたー原発事故から5年・福島からの報告」を観ました。重く、つらく、簡単に言葉を紡げません。それでも、少しは書かなければならない、という気がします。

人間は、何か自分の打ち込めるものがあったり、将来こうしたいという希望を持ち続けたり、誰かのためになっていると思えたり、そんな感情を生きるエンジンにしているように思います。それを生きがいと言ってもいいかもしれません。

その生きがいが、たとえば東電原発事故のような、何らかの理由で断たれてしまうと、その原因を作った対象をいかに憎み、恨み、糾弾し、裁判に訴えようとも、それ自体が生きがいになっているうちはいいのですが、たとえ裁判に勝ったとしても、その後の生きるエンジンにはなれないかもしれません。生きがい自体が喪失し、それに変わる短期的な生きがいも終焉し、新たな生きがいが生まれていないからです。

それに追い打ちをかけるような、相手のことを気にかけない誹謗、中傷。誹謗、中傷を行っている本人には、それで相手が傷つくということを理解できないばかりか、そう言い続けることが彼らの生きがいになっているかのような、そんな状況も加わります。

自分の土地のほぼ近くにおびただしい数の除染廃棄物のプレコンバッグがあるのを見たら、故郷へ戻る夢が断たれたと絶望的な気持ちになるのは理解できます。その土地はただの土地ではなく、かつて、農産物を育てただけでなく、その人にとって様々な思い出の積み重なった土地に違いないからです。

村に戻って、自分たちが頑張って農業で村を元気に復興させたいと、本当に頑張っていた30代のご夫婦。放送されたことだけが原因なのかどうかは分かりませんが、米価低落や外からの関心の低下、同じ若い世代が戻ってこないという現実などを前に、自分たちの頑張りって一体何だったのだろうか、という疑問が深く湧いてきてしまったと察します。

こんな状態で、自分は何のために生きているのだろうか、という気持ちが現れる。一人で頑張っていればいるほど、自分が惨めになる。意味があるんだろうか、生きていたって。面白いことなんか何もない。分かってくれる人なんてこの世の中にはいない。そんな気持ちが湧いていたのではないかと思うのです。

人様の迷惑にならない。これは、亡き父から私が生前よく聞かされました。NPO「なごみ」の方が訪問しても、構わないでほしい、もう来ないでほしい、と言ったお年寄りの気持ちが何となくわかるような気がします。自分が生きていることで、人様に迷惑をかけたくない、と思っているのではないかと思うのです。

長生きしてごめんね、と心の中で思っているお年寄りは少なくないのではないか。最近、そんなことをよく思います。

そして、年金や介護保険の世代間負担の格差が拡大するにつれ、なんとはなしに、そうしたお年寄りを内心では迷惑がる風潮も感じられる気がします。

福島の自殺が増えているという問題もそうですが、日本全国どこでも、自殺の問題は、こうした気持ちや状況がその背景に横たわっていると感じます。

自分が生きていることになんの意味があるのだろうか、という人たちが欲しいものは、生きていることに意味がこんなにある、ということをなんらかの形で示してあげること、それ以外にないと思います。

人様に迷惑をかけられない、といって面会を拒否する方には、いかにお節介を焼いたり、迷惑をかけてもらいたいと思っているかを他人が態度で示すことから始めるしかないでしょう。そして、その方の話を、一切否定せずに、ひたすら聞く。ずっとずっと聞く。一人でも心を開く相手がいるだけで、その他人に話を聞いてもらうことが生きがいのようになってくる、というのでもよいのではないでしょうか。

7日のNHKスペシャルの「ばっちゃん」も、そうやって若者たちに居場所を何十年も提供している方の話でした。

人の話を否定せずにじっくり聞いてあげる。そんなことを、自分の身の回りの人から始めてみてはどうでしょうか。

ツイッターでこの番組が話題になっていたのですが、それは福島の話として特別視したり、悪いのは東電・政府だ、だから原発再稼働反対と言ったり、どことなく、遠い他人の可哀想な話として受け止めているような印象を持ちました。

でも、状況背景や環境は違っても、自殺するのは、自分がこの世の中で必要のない、意味のない人間だと思うのが原因のような気がします。だとするならば、自分が苦しいときに話を聞いてくれる人間が存在し、また他人が苦しいときに自分が話を聞いてあげる存在になることから始めるしかないのではないかと思うのです。

福島の自殺者が増えているという現状は、もちろん重大です。たとえ他の地域よりも件数や率が低いからといって、「大したことはない」と軽視できるものではありません。自殺する人にとって、地域ごとに多いか少ないかは、関係ないからです。

自分の身の回りから話を聞く、聞いてもらう関係を作り始めること。それがたとえ昔のようなコミュニティの復活につながらなかったとしても、今よりはもう少し生きていてよかったと思えるような世の中へ近づいていくのではないかと思います。

色々と思うことはあるのですが、今はこの程度のことしか書けません。ご容赦のほど。

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