2020年について改めて思う

今から4年近く前の2013年9月5日、私は以前のブログで、東京オリンピックへの立候補プレゼンテーションに関連して、少し書きました。よろしければ、以下のリンクをご覧になってください。

 「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

私の東京オリンピックへの感じ方は、あのときからあまり変わっていません。心から歓迎する気持ちには今でもどうしてもなれません。

その後、ロゴの剽窃疑惑やら、国立競技場の建て替え問題やら、テニス会場を巡る都市間での諍いやら、オリンピックというビッグ利権に群がるハイエナたちの様子が感じられます。

オリンピックとは直接関係なくとも、オリンピックを理由にした様々な思惑もどんどん出てきています。築地市場の移転問題も、オリンピックに間に合うように環状2号線の建設を進めたいということも事の一端だったと思います。

オリンピックが開催される2020年を新しい日本の門出の年にしたい、と勝手に思う野心的な政治家たちが正々堂々と現れ出しました。

最も驚いたのは、5月3日、日本のメディアがこぞって、安倍首相の「2020年の憲法改正を目指す」という発言を一大事としてトップで取り上げたことです。

この発言は、改憲を目指すグループの集会へのビデオレターの中でなされたもので、素直に考えれば、国民全体へ向けたものではなく、自分のお仲間の仲良しさん向けに話したものと思われます。

しかし、必然的にそれは、国民全体へ向けたものになることは明らかでしたし、その効果を狙っていたはずです。そろそろ「空気」を作ってもいい頃だ、メディアも国民も「忖度」し始める頃だろう、というタイミングでしょう。たとえそれが自民党総裁としてでも首相としてでもなく、一改憲論者の個人として話したものだったと言い訳しても、それは通らないことは明らかです。

実際、自民党の憲法改正の議論の結果として出てきた内容ではなく、今後の政治運営上の政党間連立として他政党を取り込むための便宜的な内容でした。たとえば、自民党は民主党政権時代に高校教育無償化には批判的だったのに、今回の発言では、高校教育無償化をするために憲法改正をするかのような、よく訳の分からない話になっています。

そもそも、憲法を遵守すべき首相です。その首相が、自分が総裁を務める政党内での議論を踏まえず、自分で勝手に、憲法改正を目指すことにとどまらず、そのスケジュールまで明言するというのは、明らかにやりすぎではないかと思うのです。

メディアは、共謀罪の話をチラつかせながら、何となくこれから言いたいことも言えなくなってきそうだ、という「空気」を世間に振りまき、自分の首をどんどん閉め始めて自分で苦しくなっています。何となく自分の意見を言いづらいような、誰かに監視されるという恐怖をこれから感じるようになるのか、といった不安を掻き立てています。

たくさんの、ときには国家や組織ぐるみの嘘が巧妙に組み込まれ、嘘と分かっていてもそれを受け入れざるをえない、そうしなければ国家がいつ自分を犯罪者扱いしないとも限らない、という空気。一握りの人間が自分だけを守るために嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

東日本大震災のあと、原発事故が起こったとき、権力者や大企業はそこに住む人々に嘘をつき、守ってくれませんでした。その後、取ってつけたように、国民を守るフリをしました。あのとき本当は何があったのか、その真実を明らかにしてしまったら、今までの全てが無意味になってしまう。そう思った一握りの人間が嘘をつき、その嘘を守るためにさらなる嘘をつく。

あのときの福島が、今では日本になってしまったのでしょうか。嘘だと分かっても仕方ないと割り切って従順になることが大人になることなのでしょうか。私たちはそのように子供たちを教育していくのでしょうか。

そんな教育を受ける子どもが自分の夢を語れますか? 嘘をついてはいけないよ、と子どもに言えますか?

そのように嘘の連続ををつかれてきたということでは、沖縄も、水俣も、他の国家権力に立ち向かわなければならなかったところも同じだと思います。

2020年の東京オリンピックで日本が変わるのではありません。私たちが子供たちの夢を叶えさせてあげたい、正直で真面目に生きたものが報われるような社会にしていきたい、そういう思いが否定されない世の中。それを大人が子供の鏡となって子供に見せられる世の中を作っていく。そうした日々の積み重ねが社会をより良い方向へ変えていくはずです。

そんなのはもう無理なんだ、諦めてくれ、と子供に言いたくはありません。

成長しなかった子供のように常に原点へ戻る

大学を卒業して初めて就職した研究所にインドネシア研究者として23年間奉職し、退職してからすでに9年が経ちました。大学を卒業して社会人になったとき、これからの人生でこんなことをしたい、と思ったことがありました。

それは、地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。援助とかではなく。ものすごく抽象的ですが、そんなことを思いました。

ではどうして研究所に入所したのかというと、まずは、世界中のどこか、自分が最も深く付き合っていけるところのことを知らなければならない、できればそこのところに関するプロフェッショナルになりたい、と思ったからでした。

研究所に初めて出勤したときに、上司から「君はインドネシア」と担当国を告げられ、私のインドネシアとのお付き合いが始まりました。インドネシアのことを全く知らないゼロからの出発でした。インドネシア語を学び始め、インドネシアで発行された英字紙を毎日読んでメモを取り、上司から指示された課題図書を読み、「何も知らないからすべて勉強」と納得して、自分の能力のなさを痛感しながら日々を過ごしていきました。

仕事は調査研究でしたから、先輩や同僚のほとんどは、研究所を退職すると大学の先生になっていきました。過去、私にも数件のオファーがありましたが、タイミングが合わず、結局、お断りしました。

研究所に入って間もない頃、ある尊敬する先輩ベテラン研究者の方が「どうしてみんな大学へ移ってしまうのだろう。専門性を活かしてジャーナリストやビジネスの世界へ行ったっていいはずなのに」とおっしゃっていたのを今も鮮明に覚えています。

私自身、あまのじゃくのせいか、いつも本流ではなく傍流、アウトロー、人とは違うことをしたいと思っていたからかもしれませんが、自分が他の先輩や同僚のように大学へ移ることに疑問を持っていたことは確かです。

研究所を退職してからは、決して順調というわけではありませんでした。専門家の仕事を受けてはいましたが、収入が不安定になると、毎月決まった給料を得られるということがいかに安心だったかということをしみじみ感じました。

教えることが好きな自分は、やはり大学への就職を考えたほうが良いのか。そんなことも思って、教員公募に応募したこともありますが、幸か不幸か、採用されることはありませんでした。他の方よりも能力が劣っているからだと自分を卑下し、そんな自分が嫌になることもありました。でも、幸運にも、どんなときでも家族が支えてくれました。

そして、自分はまだ、研究所に入ったときに思った原点へ戻ることができました。地球のどこかで、そこの人たちと一緒に何か新しいモノやコトを創りたい、そこの人たちと幸せになるようなモノやコトを一緒に。まるで成長しなかった子供のままであるように、今でもまだ、それを追い求めているのでした。

これまでの人生には、色々な選択がありました。その一つ一つを考えたとき、正直、後悔することもなかったとは言えません。でも、これまでの選択が最良だったと自分に言い聞かせて前に進むしかない、と、ようやく、本当に思えるようになりました。誰かの真似でも後追いでもなく、自分にしかできない人生を歩んでいく。最近、そのように悟れるようになった気がします。

福島市を拠点に松井グローカル合同会社を立ち上げたのも、その悟り、というか、区切りのように思います。世間では定年を意識する年齢になりましたが、その意味での私の定年は9年前に終わっています。ちょっとここまでくるのにのろのろしましたが、むしろこれからが本番、という気持ちです。

ダイアローグ・イン・ザ・ダークを初体験

前々から絶対に参加したいと思っていたダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)。視覚障害者のアテンダントの声を頼りに、何人かのグループで、視覚以外の全感覚を使いながら、真っ暗な暗闇空間で一緒に過ごすイベントです。

 ダイアローグ・イン・ザ・ダークのホームページ

これまで、タイミングがなかなか合わず、参加できていなかったのですが、比較的時間のあるゴールデンウィーク中の今日、お一人さまで参加できるプログラム「一期一会」に参加してきました。下の写真は、DIDの会場への入口です。

定員8名に対して、参加者は7名。全くの見ず知らずの参加者どうし、本名も名乗らず、ニックネームで呼び合い、そのニックネームもなかなか覚えられない、という状態でスタートしました。

まず、薄暗い部屋に入って、参加者は自分の使う白杖を選び、アテンダントから白杖の使い方を学びます。そして、すぐに真っ暗な空間へ入っていきます。

アテンダントの声のする方向や場所を推しはかり、自分の持つ白杖と近くにいる参加者の存在を頼りにしながら、少しずつ前へ進んでいきます。周りは真っ暗で本当に何も見えません。アテンダントの励ましの声、音や匂い、参加者の人間の体のあたたかさを感じながら、徐々に暗闇に放り出された不安が少なくなっていきます。

暗闇の中で、参加者どうしでいくつかのゲームというか遊びのようなことをやり、それが意外に盛り上がったのですが、何をやったかはここではあえて書きません。コースや季節によっても中身が色々変わるようですので、興味のある方は、ぜひ、ご自分でDIDに参加して、体験してみてください。

個人的に、DIDにはずいぶん前から興味を持っていましたし、彼らの活動やそれについて書かれた書物から様々な学びを得てきました。

そうした予備知識が前もって色々入っていたせいか、今回のDID初体験でも、私自身の人生観が変わるほどのインパクトを得たようには感じませんでした。ただ、このDIDのエッセンスをどのように自分の今後の活動に生かせるか、ということを考えていました。

私の福島市のオフィスのある敷地内には、中がほぼ真っ暗になる蔵があります。そこを使って何かできそうな予感がしています。

DIDを行うには物理的な広さや建物の構造、アテンダントの育成など、様々な条件があるでしょうから、そう簡単にどこでもやれるわけではありません。DIDのための適切な場所を探すのも簡単ではないと思われます。

でも、このDIDは一度はすべての人が体験したら良いのではないかと思いました。ささやかな時間ではあっても、日頃、人間としての自分が忘れかけていた何かをきっと思い出すことができるひとときになり、それをふとした機会に思い出すのではないかと思います。

そして、もうすでに取り組まれているのかもしれませんが、外国人留学生とかインバウンドで外国から来る観光客の方も、気軽に体験できるといいなと思いました(たとえば、東京観光ツアーの中にオプショナルとして組み入れるとか)。そんな参加者のなかから、自分たちの国でもやってみたいと思う人が出てこないとも限りません。彼らと一緒に外国語プログラムを検討してみることもできるかもしれません。たとえば、今、宗教的なものを見た目で判断しがちなインドネシアに導入できないかな、とも思いました。

DIDは進化し続けます。今年になって、高齢者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・ウィズ・タイム」、聴覚障害者をアテンダントとした対話プログラム「ダイアローグ・イン・サイレンス」を開始しています。こちらの今後の展開も大いに注目されます。

大事なことは「ダイアローグ」です。勝ち負けを重視するディベートではなく、勝ち負けにつながりがちなディスカッション(議論)でもなく、すべての話者が互いを尊重して気づきやインスピレーションが促されるダイアローグ(対話)こそが、これから益々重要になってくると確信します。私の活動でも、このダイアローグを最重視していきます。

ともかく、今日、DIDを初めて体験できて、ようやく本当にDIDのサポーターになれたような気分です。ぜひ、皆さんもご自分で体験されて、ダイアローグの力を感じ取っていただければと思います。

飲めないのに飲んでしまった福島の日本酒の美味しさ

5月1日の夜、福島のオフィスを訪れた2人目の来客であるジャーナリストの友人と夜、義妹が勧めてくれた福島市内の店「はりまや」にて、美味しい料理とともに、日本酒をゆったりと飲みました。

私はアルコールが苦手で、ビールをコップ1杯飲むだけで、顔がすっかり真っ赤になってしまいます。家でも晩酌をしたことはおろか、クリスマスの時のワインなどを除いて、アルコール類を飲むこともありません。

これまでは、アルコールを飲むと、持病の気管支炎のせいか呼吸が苦しくなることが多く、友人たちと飲むときも、ビール1杯程度で抑えるようにしていました。

しかし2月に、インドネシアのスラバヤへ出張した際、ご一緒した大阪の中小企業の社長さんがお酒が大好きで、毎日お付き合いすることになり、なんだかんだと飲まされてしまいました。その多くは日本酒で、しかも一升瓶を5本も机の上に並べ、スラバヤのウワバミのような華人の傍に無理やり座らされ、相手をさせられたのですからたまりませんでした。

でも、今回の日本酒は、本当に美味しいと思いました。福島の日本酒3本の飲み比べ、しかも頒布会のときだけに出された珍しい貴重なものとのことでした。

上写真の左から「写楽」純米吟醸短稈渡船、「天明」純米瑞穂黄金の生、「風が吹く」純米吟醸中取りの生、です。「写楽」はフルーティーな味わい、「天明」はスキッとした味わい、そして「風が吹く」はまろやかな味わいでした。いずれも、会津の歴史ある酒蔵で造られたものとのことでした。

ジャーナリストの友人も大の酒好きですが、食事も美味しく、話題も興味深かったせいか、頭がクラクラするような酔いにはならず、美味しい日本酒をいただいた満足感でいっぱいになりました。

そして、調子に乗って、もう一つの飲み比べもしてしまいました。こちらは、山形の酒2本と新潟の酒1本の、日本海側の酒蔵シリーズでした。これらの日本海の酒は、先に飲んだ福島の酒に比べると、キリッとした味わいが強いように感じました。

震災前から、福島では酒蔵同士がお互いに切磋琢磨しながら、時代に合った質の高い日本酒を造ってきました。その結果、国内外の日本酒コンクールでは最高位を連続してとるなど、自他共に認める日本酒の実力県として認知されており、風評被害を乗り越えるのに大きな役割を果たしています。関係者の苦労と努力はこれからも続いていくことでしょう。

今回、福島の日本酒は美味しいと素直に思えました。飲めないのに飲んでしまった自分ですが、福島の日本酒の美味しさを伝える役目も少しは果たせそうです。

福島の当社への最初の来客はマカッサルの親友

松井グローカル合同会社を立ち上げて、福島のマイ・オフィスへの最初の訪問客が今日4月30日にありました。その客は、私のマカッサル時代からの親友であるリリ・ユリアンティ(Lily Yulianti)さんでした。

彼女は現在、オーストラリアのメルボルンに住んでいますが、もともとはインドネシアのマカッサルの出身で、新聞記者、NHKラジオジャパンのインドネシア語アナウンサーなどを経て、小説家、エッセイスト、ジャーナリストとして活躍しています。

彼女は、若い世代への質の高い執筆に関する指導も続けてきました。2011年からは、インドネシアの著名な映画監督であるリリ・レザ氏と一緒にマカッサルで立ち上げた「ルマタ文化スペース」を母体に、マカッサル国際作家フェスティバル(Makassar International Writers Festival: MIWF)を主宰してきています。

今年のMIWF2017は、マカッサルで5月17〜20日に開催されますが、私もフルで参加する予定です。「ルマタ文化スペース」の設立には私も協力し、MIWFでも5年前からささやかながら1セッションのスポンサーを務めています。

福島に着いて、すぐに詩人の和合亮一さんと面会しました。東日本大震災後の日本現代文学の動向に関心を寄せるリリ・ユリアンティさんが福島へ来ると聞いて、どうしても会って欲しかったのが和合さんでした。幸い、今回の面会は大変有意義なひとときとなり、今後の双方の活動にとっても多くの示唆を得ることができました。

和合さんとの面会の後、福島在住でインドネシア語の先生を務めるレニーさんと弟のチェジェさんと一緒に、昼食の後、私のオフィスと敷地内の古民家を見学してもらいました。ちょうど古民家のオーナーもいらっしゃったので、古民家の内部も丁寧にご案内いただきました。

リリ・ユリアンティさんが「どこかで桜を見たい」ということで、私のオフィスを見学した後、一路、米沢へ向かい、上杉神社で桜を眺めました。上杉神社の桜は、屋台の出ている表側はもうずいぶん散ってしまっていましたが、裏側へ行くと、まだけっこう残っていました。

リリ・ユリアンティさんらと一緒に、気持ちの良い風が桜の花を散らし、花吹雪となって舞い散るさまを、静かにゆっくりと眺めていました。

駆け足ではありましたが、震災後からずっと「福島へ行きたい」「東北へ行きたい」といっていたリリ・ユリアンティさんの夢は、叶うことができました。そして、これから新しい何かが始まる予感をたしかに感じるのでした。

爽やかな季節、皇居東御苑を初めて散歩

法人登記関連でバタバタしていた昨今ですが、今日は久々にオフの1日。気持ちのいい風を感じながら、妻と一緒にツツジの花を求めて散歩に出ました。

行先は、皇居東御苑。ずっと東京に住んでいながら、訪れたのは今回が初めてです。東京メトロ東西線の竹橋駅で降りて、北桔橋門から入り、江戸城跡の天守台へのぼりました。

天守台から見下ろすと、広い緑の広場が見渡せます。

西側の堀沿いにある富士見多聞にも行きました。多聞というのは見張り台の意味ですが、倉庫や他の目的でも使われていたそうです。御休息所前多聞という別名があります。なお、この富士見多聞は4月から新たに公開されたばかりでした(午後4時15分で閉館)。

様々な植物が植えられているだけでなく、いろんな種類の竹の植えられた竹林や、マルチの敷かれた茶園(下写真)もありました。

うっそうと生い茂るレンゲ。

そして、ツツジは本丸公園よりも二の丸公園が見事でした。

東京のど真ん中で、様々な植物を見ながら、静かにゆったりと過ごせる空間でした。サツキや菖蒲はまだこれからで、いつ来ても何かが咲いていることでしょう。

外国人の皆さんにも、気軽にジャパンを味わえる空間なのかもしれません。大手門の前では、たくさんの人々が写真を撮っていました。

明日(4/30)から火曜まで、再び福島です。

法人口座開設と「吾妻の雪うさぎ」

本日、無事に法人銀行口座を開設することができました。

一般に、法人口座開設には2〜3週間かかると言われておりますが、今回は、申請してから1週間で開設できました。

これは、古民家のオーナーがこの銀行支店のお得意さんで、全面的にバックアップしてくれたためだと思います。また、この銀行支店で対応してくれた次長が高校の後輩、といった地方ならではの人的関係もものを言っているのかもしれません。

この銀行支店は、私のオフィスから歩いて2分、この近さは得難いものです。私の中学・高校の友人たちは、すでにこの銀行の理事や支店長になっている者が多数いますが、今回は彼らの助けは求めませんでした。

とにかく、今回の法人口座開設にあたっては、この銀行の支店の皆さんに本当によくしていただいて、深く感謝しています。

オフィスを出て、西のほうを見ると、吾妻連峰がいつもと同じようにそびえ立っています。吾妻連峰は私の中に焼き付けられた風景で、東京で暮らし始めた若い頃、近くに山が見えないことをとても寂しく思ったものでした。

吾妻連峰のなかに、小さな富士山型の吾妻小富士という山があります。磐梯吾妻スカイラインでドライブすると、浄土平というところがあり、そこから吾妻小富士へ徒歩で簡単に登ることができます。

この季節だと、吾妻小富士の山すその残雪の姿がうさぎに似ていることから、地元ではこれを「吾妻の雪うさぎ」と呼んで親しまれています。

この雪うさぎがはっきり見えてくるようになると、それが農作物の種まきを始めるサインとなります。

私の活動も、この吾妻の雪うさぎの頃に始まるのだなあ、とちょっと感慨を覚えました。

先ほど、東京の自宅へ戻りました。明日は東京で用事があるためです。

連休中は東京でゆっくりするつもりだったのですが、4月30日〜5月2日に福島へ戻ることになりました。さっそく、インドネシアから、群馬から、福島へ行くという友人からの連絡があったためです。

読者の皆さんも、ぜひ、福島へどんどんいらしてください。本物の福島をご案内します。

少しずつ進めている活動環境整備

福島市に松井グローカル合同会社を設立して、少しずつ、身の回りの環境整備を進めています。

昨日(4/22)に地元銀行の支店に法人口座開設を申請したのですが、最近は、法人口座を使った詐欺などの犯罪が横行しているため、すんなりとは認めてもらえません。必要な書類は整っているのですが、銀行曰く、まずは本社住所で事業が行われているという実態を確認する必要があるということで、申請の可否は持ち越しとなりました。

というわけで、来週、担当者が本社住所を尋ねてくるので、来週早々にも、オフィススペースを整えることになりました。

オフィススペースは、当初、今回お世話になる古民家の中の大家の会社の事務所の一角、というか机を借りて始める予定だったのですが、大家からの提案で、大家の住宅(古民家とは別棟)の隣にあるプレハブ小屋を使わせてもらえることになり、文字通り、1軒のオフィスを構える形になりそうです。法人口座開設にこれはプラス!

来週はオフィススペースの整備に充てるとして、この土日は、寝泊まりする実家の居住スペースの整備に努めました。勤務先が休みだった弟に車を出してもらい、ハンガーラックや机や椅子や、プリンターなどを購入することができました。

実家では、以前、客間として使っていた部屋を私の部屋として使っていいことになり、上の写真のように、シンプルにレイアウトしてみました。

基本的に、福島の実家は寝泊まりする場所なので、いろいろ物を置く必要はないのですが、急に処理しなければならない作業(例えば、書類をスキャンしてPDFにして送る、など)が最低限できる状態にはしておきたいと思い、多機能プリンターなどを揃えました。

母にハンガーがあるかどうか聞いたら、私が子どもの頃に使っていたカラフルなハンガーがまだ捨てられずにたくさん残っているというので、使わせてもらうことにしました。こういうのは、今ではあまり見かけないような気がします。

こうして、弟の協力のおかげで、実家で滞在する部屋の様子が整いました。

福島へ来るのに先立って、どこでもインターネットが使える環境を作るため、改めてインターネット・ルーターを用意しました。ちょうど、古いWiMAXがあったので、新しいWiMAX 2+に機種変更して、これを使うことにしました。

新しいルーターのW04は、WiMAX 2+に加えて、電波の悪いところではau LTEも使える(但し、最大7GBで1ヶ月に約1000円追加で支払う)ので、電池の持ちさえ注意すれば、けっこう快適に使えそうです。

福島市に会社を設立しても、ずっと福島から出ないわけではなく、日本中、あるいはインドネシアをはじめとする世界中のローカルを相手に、モバイルで活動していくつもりです。とりあえず、日本中、いつでもどこでもインターネットにアクセスできる環境で仕事をしていければと思います。

私の原点、福島市天神町を再訪

昨日、法人登記に関係する諸手続を終えた後、私が産まれてから幼稚園を卒業するまで過ごした場所、福島市天神町を再訪しました。

舗装されていない小さな路地の両側に小さな家が3軒ずつ並んでいた場所です。荷物の配達でオート三輪が入ってくる路地でした。

今回訪ねると、その路地の面影は残っているものの、両側は駐車場になっていました。

最初に家族で住んでいた家は、上の写真の「路地」の右側、黒い車が停まっているあたりに建っていました。その手前には大きな銭湯がありました。

上の写真の「路地」の左側、正面の建物の左あたりに、次に家族で住んでいた家がありました。路地を挟んで一度引越しをしたのです。

当時の家には、家族5人に加えて、父の知り合いのお婆さんとその娘さんが同居していました。娘さんはもうずいぶんな年齢の独身でした。このお二人に遊んでいただいたり、ずいぶんとお世話になったものです。

上の写真の一番左手前、路地を出るところ、銭湯の向かいには、清水屋というお店がありました。

4歳か5歳の誕生日のとき、お祝いになんでも好きなものを清水屋で買いなさいと母に言われて買ったのは、棒付きのあずきアイスでした。これをずっと食べたかったのです。でも、私の誕生日は1月、寒い中でアイスを食べたせいか、すぐにお腹を壊しました。優しいおばさんが店番をしていました。その清水屋は、今はもうありません。

路地を出た正面に時計屋さんがあり、その時計の針を見ながら、夕方まで遊びました。

母がいつも買い物に行っていた地元スーパーの信夫屋も、今はありません。お酒をたくさん売っている店でした。

でも、清水屋の隣のふとん屋とその隣の魚屋は、今もまだ残っていました。銭湯の斜め前にあった床屋は、私が生まれて初めて行った床屋ですが、それもまだ残っていました。

清水屋の隣のふとん屋に立ち寄り、その4代目社長と子供の頃の話をしました。彼は私よりも7歳年下の高校の後輩でした。私が小学校に上がる際に二本松へ移った後に彼は産まれたので、直接の面識はなかったのですが、この界隈の共通話題で盛り上がりました。

そんな話をしていたら、ふとん屋の社長から「本当にここがあなたの地元なんですね」と話しかけられました。そう、ここが自分の「地元」、原点・・・。

この場所を離れてもう半世紀にもなるというのに、あの頃のことがどんどん思い出され、オート三輪や、あずきアイスや、時計屋さんや、床屋さんや、バキュームカーや、スーパーカブで出勤していく父や、家の庭にスイカや柿の種を蒔いたことや、ボロボロの服を着て毎日リヤカーを曳いていたクズ拾いの怖そうな老婆や、私をよくいじめた銭湯の息子のYちゃんや隣家のHちゃんのことや、諸々のことが次々に頭から溢れてきます。なるほど、ここは自分にとっての「地元」なのだと思い起こしました。

もしタイムマシンがあったなら、半世紀前の、私たちの遊び場だった舗装されていない路地や、人が行き交っていた賑やかな通りを、もう一度見てみたい、あの頃のより良い未来を信じて疑わなかった人々のいた空間をもう一度体験してみたい、と素直に思いました。

私という存在がこの世で始まった場所である福島市天神町が、自分にとって大切な「地元」であることを改めて実感できたのは、とても幸せなことでした。

ママチャリでまわる福島市での法人登記関連手続

今日は午前中、1時間遅れの東北新幹線で東京の自宅から福島に着き、4月11日に行なった松井グローカル合同会社の法人登記申請の続きを進めました。

とりあえず、福島駅構内の蕎麦屋でソースカツ丼セットの早めの昼食。

その後、いったん、実家に寄って、コーヒーを飲んで一服した後、実家のママチャリで出発です。

まず向かったのは、福島地方法務局。昨日の法務局からの電話で指摘された部分を修正した書類を持参し、4月11日にすでに提出した申請書類の一部と差し替えました。

15分ぐらい待った後、申請書類にOKが出て、事前に申請していた(法人の)印鑑カードを受け取りました。

そのまま、別室へ移り、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書を多めに発行してもらいました。申請の前に、必要額の印紙を買って、申請書に貼り付けて提出します。10分もかからずに、登記事項証明書(履歴事項全部証明書)と印鑑証明書が発行されました。

これで、晴れて正式に、松井グローカル合同会社の法人登記が完了しました。設立日は、法人登記登録を申請した2017年4月11日となりました。

福島地方法務局で発行された証明書類を持って、関係機関への届出に移ります。

ママチャリに乗って、福島税務署へ出向きました。福島税務署では、法人設立届出書、青色申告の申請承認書、給与支払事務所等の開設届出書などの書類を提出しました。なお、この4月から、税務署への届出には法務局で発行された登記事項証明書(履歴事項全部証明書)の提出は必要なくなったとのことです。ただ、今回は念のためということで、コピーを取られました。

福島税務署の次は、東北福島年金事務所へ行きました。法人化すると、国民年金から厚生年金へ、国民健康保険から健康保険へ切り替わるのですが、そのための手続をするのです。ものの本には「設立後5日以内に」と書かれていたので、焦って行ったのですが・・・。

「役員報酬の支払は6月から」というと、報酬支払がない間は厚生年金料や健康保険料を徴収することはできないので、6月になってから改めて手続に来て欲しい、という回答でした。

役員報酬の額は設立後3カ月以内に決定して税務署へ報告する必要があるので、現段階ではまだ決めていなかったのです。今回の税務署への届出書に支払開始日を記入する必要があったので、6月30日と記載したのです。

年金事務所からは、法人設立した際の必要書類や説明書類の一式が入った「新規適用届」という1セットをいただいたので、じっくり読みながら、6月までに検討することにし、今回は手続をしませんでした。

年金事務所の後は、すぐそばにある福島市役所へ。市民税課で法人設立届を提出しました。

その後は、福島市役所から福島県庁へ、ママチャリで20分ぐらいかけて行きました。福島県庁内の県税事務所を目指したのですが、ここでは、県北地方振興局のなかの県税部へ出向いて、法人設立届を提出しました。

なお、これらの法人設立届出の捺印は、法人代表社員の印(丸印)となります。

というわけで、今日の午後だけで、法人登記後に行なう関係機関への届出は、つつがなく終えることができました。

インドネシアで経験したこの種の手続に費やす時間と労力に比べると、今回の手続がいかに楽で効率的か、行政側からの説明が懇切丁寧に的を得たものか、ということを実感します。

そして、福島市の旧市街は、ママチャリで簡単にまわることができるぐらい、コンパクトなのだなと改めて思いました。風はやや冷たいものの、穏やかな春の日和で、ママチャリで動くのがとても気持ちのいい1日でした。

スハルトを知らない若者たち

昨日、シンガポール・チャンギ空港で、華人系インドネシア人の若者が西ヌサトゥンガラ州知事を汚い言葉で罵った話を書きましたが、それを読んでくれた友人から「あのジャカルタ暴動を知らないのだな」というコメントをもらいました。

あのジャカルタ暴動というのは、1998年5月半ば、ジャカルタの街中で広範囲に起こった暴動のことで、その標的は華人系でした。読者の皆さんのなかには、きっとまだあの時の様子を鮮明に記憶されている方も少なくないと思います。

話は変わりますが、先日4月4日、インドネシア・東ジャワ州マランのムハマディヤ大学で学生と議論した際、彼らがスハルト大統領の時代を知らないという現実を目の当たりにしました。それはそうですよね。彼らはまだ20歳前後、ジャカルタ暴動やその後のスハルト政権崩壊といったインドネシアの激動の時代には、まだ乳幼児だったのですから。

30年以上もインドネシアを追いかけてきた自分にとっても、当たり前ではあっても、まさに新鮮な驚きでした。あの時代を知らないインドネシアの若者たちにも、日本の方々に話すときと同じように、インドネシアの歴史を話さなければならないということを改めて理解しました。

私自身は、1998年5月のジャカルタ暴動の前に、1997年9月、当時、JICA専門家として、家族とともに滞在していたマカッサルで、反華人暴動に直面しました。

いつもは穏やかな人々が、あの暴動のときには人が変わったように、華人系住民を罵り、投石や放火を繰り返したのでした。邦人も華人系に間違えられやすいので、マカッサルでは、数人の邦人の家も投石の被害にあいました。今思い出すとありえないような、ものすごい量や内容のデマや噂が飛び交い、それに右往左往される日々でした。

マカッサルの反華人暴動は、貧富格差の拡大に怒った非華人系(一般にプリブミと呼ばれることもある)の人々が、富を握っているとみなされる華人系を襲ったという、社会的格差が背景にあるという解釈が一般的になっています。

しかし、渦中にいた私には、それが後付けに過ぎず、真相は別なところにあると言うことができます。その内容については、今回は詳しく述べませんが、一つ言えることは、時間が経つにつれて、様々な要素が後付けされ、真実はどんどん覆い隠され、その真相を述べることがはばかれる雰囲気が出てくる、ということです。

もっと言うと、最初は嘘だとわかっていても、その嘘が嘘に塗り重ねられていくと、嘘が本当になってしまう、歴史的にそのような解釈になってしまう、ということが言えるのかもしれません。

スハルトを知らない若者たちは、その時間を経た歴史を他人事として学び、その「事実」をもってインドネシアを知ろうとするのです。一度、国家や政府によって認定された「事実」は、覆すことが難しくなってしまいます。別の言い方をすれば、歴史とは勝者の歴史であって、敗者の歴史では決してない、ということです。

これは何もインドネシアの若者に限ったことではありません。嘘が嘘を重ねて本当になっていく、同じような現象は、世界中どこでも、そして日本でも起こっているということを改めて認識したいです。

心にもっと余白が必要なのだ

今日の朝日新聞の朝刊に載っていた「折々のことば」にハッとしました。

 僕たちが他者とつながり、世界への問いを共有するためには、僕たちの心にもっと
 余白が必要なのだ。 (小野正嗣)

同じ空間のなかに存在していながら、お互いにその存在を知ることもなく、だから気にとめることもない2つの集団。イタリアの島にたどり着いた難民とその島に元々住んでいる島民とが接することがない、のです。

鷲田清一氏は、小野氏のことばについて、「一つの大きな傘の下に集うのではなく糊代(のりしろ)で横に繋(つな)がることの意味を思う」と記しています。

これを読んで、昨日のブログで書いた、グローカルについての私なりの解釈に通ずるところがある、とピーンときたのでした。私のグローカルとは、まさに、糊代で横につなげようとすることだからです。

インターネットで容易に世界の様々な事柄を頭で知ったような気になっていても、人間の眼で見ている実際の視野は、逆に狭くなってきているのかもしれません。

一般的な人間社会の幸福と個人や家族や親しい友人の幸福とが一致できないような気分が支配的なのでしょうか。将来への不安が一般的な人間社会の今後への不安となり、他の人がどうなろうとも、せめて自分の身の回りの幸福だけでも確保したい、という気分が強まっているような気がします。

心の余白が少なくなっているのです。それは、他者への想像力が衰えていること、と言い換えることができるかもしれません。

自分が他者の存在を認め、自分も相手からすると他者なのだと認識することは、当たり前のことです。世の中には様々な人がいる、のも当たり前のことです。でも、インターネットを通じて、そうした「他者」と出会って理解したような錯覚を起こしてはいないか、と思います。

自分が世の中で認められたい、という気持ちが、他者との競争をことさらに意識し、自分を認めてくれない他者や世の中に対して反感を抱く、そんな気持ちに由来する暴力や暴言や過激な行動が現れてきます。

心の余白がなくなる代償として得たものは一体何だったのでしょうか。地位、名声、あるいはカネなのでしょうか。

忙しく働いて頑張っていると「えらいね」と言われて嬉しい、といったことがまだあるのでしょうか。「えらい」と言ってもらいたいから頑張って忙しく振舞っているということはないでしょうか。そうしたことにエネルギーを費やすのがなぜか美徳とされる一方で、他者を想像する心の余白は無くなってしまうのではないでしょうか。

ちょっと頭がくらくらっとしてきました。この辺で今日は筆を止めます。

グローカルとは何か:私なりの解釈

昨日は、福島市で法人登記申請をした後、実家で少し休み、登記が完了する4月20日までは何も手続を進められないので、とりあえず、東京の自宅へ戻ることにしました。

ふと思って、久々に、福島から東京まで東北本線の普通電車を乗り継いで行くことにしました。福島から黒磯、黒磯から宇都宮、宇都宮から赤羽、赤羽から自宅の最寄り駅まで、5時間かかりました。昔ならば6〜7時間かかったので、ずいぶん短縮されました。

たいして疲れを感じることはなかったのですが、池袋の法明寺で桜を眺め、帰宅すると、かなりの疲労感を感じてしまい、少し睡眠をとりました。年齢のせいとは思いたくないのですが、福島と東京との間の移動については、時と場合による良い方法を追求していきたいと思います。

法明寺の桜

ところで、松井グローカルという名前に使う「グローカル」という言葉について、世間で言われているのとは、ちょっと異なる解釈かもしれませんが、私なりの解釈があります。それについて、今回は少し述べてみたいと思います。

インターネット上でグローカルという用語は、たとえば、「グローバル(Global:地球規模の、世界規模の)とローカル(Local:地方の、地域的な)を掛け合わせた造語で、「地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方」というのがあります。

日本語ウィキペディアでは、さらに以下の3つのような意味合いで使われる用語、とされています。

1)地球規模/多地域での展開を目指しながらも、地域の法律や文化に応じる形で提供される製品やサービス。
2)インターネットなどの電子コミュニケーション技術を活用し、地球規模/多地域の基準の下で提供される地域限定のサービス。
3)地域の文化や需要に応じるために、世界的な企業が設立する現地法人、など。

上記の一般的なグローカルの意味を見て感じることは、「まずはグローバルがあり、それをローカルへ展開する」「グローバルを目指しつつもまずはローカルから始める」という方向性です。日本語ウィキペディアには、「「グローカリゼーション」という言葉は、1980年代の日本企業が営業戦略として使用し始めた」ともあります。

日本で「グローカル」という名前を用いた企業や法人はいくつかありますが、その多くは、日本での事業を世界へ広げる、あるいは世界的視野で行う、というニュアンスがうかがえます。
私の考える「グローカル」はこれらとは異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルから始まります。地域、地域の人々や暮らしから始まります。
地域を大事にするという意味では、地域主義や、グローバリゼーションの反対語としてのローカリゼーションとも共通するところがありますが、それらとも異なります。
私の考える「グローカル」は、ローカルとローカルがつながることから始まります。そのつながりが、蜘蛛の巣状のインターネット網のように、無秩序にどんどんつながっていくような、ローカル間のネットワークが国境を越えて作られ、結果的に、ローカル間のネットワークがグローバル化する、というイメージです。
なぜ、ローカルとローカルとをつなげるのでしょうか。
日本やインドネシアやアジア各国やアフリカなど、様々な場所の地域を訪ねて感じたことがあります。それは、世界中のローカルが根底で同じ問題に直面している、ということです。
インドネシアでは、グロバリゼーションは、西洋化や欧米化の文脈で捉えられてしまうことが少なくありません。しかし、EUやアメリカの農民たちもグローバリゼーションを嫌っていることを話すと、「信じられない」という顔をします。他方、彼らは、ファーストフードの流行や携帯電話を手放せないことなどは、誰かよそ者に強制されて強いられているわけではなく、自分から好きでそうしている、ということは、自分もまた、グローバリゼーションをつくる一員になっている、ということに気づきます。
私たちは、そうした意味で、グローバリゼーションから逃れることはできなくなっています。グローバリゼーションに反対して自らを閉じてしまうのではなくて、グローバリゼーションによって、自分自身の育った地域が伝えてきた様々な教えや自分のくらしを自分たちが否定したり、忘れたりしそうになっている、ということに目を向ける必要があると思うのです。
15年ほど前に地元学に出会って学んだことは、果たして自分は自分の暮らしやその暮らしを成り立たせる地域について、どれだけ知っているのだろうか、ということでした。まずは、自分の足元を実は意外に知らない、ということに気づくことの大切さでした。
多くの地域では、自分たちの足元にあるものよりも外から来るもののほうが優れている、と思いがちです。日本もまた、欧米化することがより良くなることだと、もしかしたら今もずっと信じ続けているかもしれません。
そして、祖先から伝えられてきた、自然とうまく共生し、自然を上手に活用する様々な知恵を忘れていきました。自然から天候を読むのではなく、スマホの天気予報のほうを信じるようになりました。
私は、そうした変化を拒んだり、否定するものではありません。しかし、自分自身やその暮らしの元になっている地域を否定したり、忘れたりしてはならないのだと思います。
記憶に残すということは、過去を懐かしむためではありません。それが何十年も、何百年も、もしかすると何千年も伝えられているとするならば、そこに何かの意味があるはずです。その意味を現代の地域の文脈で学び直すことが、地域をもう一度見直すことにつながるはずだと思うのです。
そうしたもののなかから、その地域はいかなる地域であるか、という地域のアイデンティティが醸し出されてくるのです。しかし、そのアイデンティティがどこにあるかを感じられなくなっている、というのが、全世界のローカルが直面している根底問題ではないか、と思うに至りました。
まずは、自分たちだけではなく、世界中のローカルがアイデンティティ危機に直面していることに各々のローカルが気づき、自らが何であるのかを知りたいと思って行動を始め、それで改めてつかんだ何かをアイデンティティに加えていく、それを行っているローカルどうしがそれぞれのアイデンティティを認め、尊敬し合い、場合によっては、一緒に何か新しい価値を生み出していこうと動き始める。それに地域おこし、地域づくり、地域振興、地域復興などの名前を付けたければ付ければよいのではないか。
私がローカルのために何かを創るのではありません。そこの方々が自ら主体的に何かを創るお手伝いをする。私は、そんなプロフェッショナルな触媒を目指したいのです。
松井グローカルの活動対象は、全世界のローカルです。まずは、法人登記した生まれ故郷の福島市から始めます。
日本全国どこでも、世界中どこでも、必要とされるローカルで、そのローカルが自ら主体的に自らを知り、活動を自ら始め、必要に応じて他のローカルとつなぎながら、新しいモノやコトを創り始める、そのプロセスに触媒として関わっていきたいと思います。
ローカルの力を信じ、自分たちの暮らしを見つめながら、新しい価値を自ら創り出すお手伝いをする、そんな仲間が日本中に世界中に増えてくれば、国家単位で物事を見てきた風景とは違う、新しい風景が生まれてくるのではないか、おそらく地域づくりというものの中身が変わってくるのではないか、という気がしています。
私が「松井グローカル」という名前を使うのは、こうした世界が生まれ、支配者のいない、ローカル間のネットワークがグローバル化していくことを夢見ているためなのです。

違う言葉で、インターローカル、インターローカリゼーション、という言葉もあり、これも私が目指すことを表しているかもしれません。

妄想に取り付かれたような文章を長々と書いてしまいました。皆さんからの忌憚のないご意見やご批判をいただければ幸いです。

ジャパン・レール・パスを買えなかった友人

今日は、1月にマレーシアのマラッカでお世話になったマレーシア人の友人S氏と東京で再会しました。S氏は、日本各地にいる友人を訪ねるため、1カ月の予定で日本に滞在しています。

S氏、S氏を私にご紹介頂いたY氏、S氏の部下、の4人で、桜を眺めながら南池袋公園のカフェで歓談しました。やや風は強いものの、温かかったので、「外で」と勧めたら、「肌寒い」といわれ、屋内で過ごしました。

しばらくして、S氏が「ジャパン・レール・パスを日本で買えるらしいから、買いに行きたい」と言うので、その場所のある新宿駅へ一緒に行ってみることにしました。

しかし、彼は結局、ジャパン・レール・パスを買うことができませんでした。

ジャパン・レール・パスは、外国からの旅行者が日本を旅行する際にJR線を一定期間乗り降りできるパスです。7日間の普通車用で33,000円、のぞみなどを除く低速新幹線を含む鉄道に乗ることができます。

通常は、外国で事前に引換証を買い求め、来日した際にJRの窓口でジャパン・レール・パスと引き換えることになっていますが、東京オリンピックを3年後に控え、外国人旅行客の増加を見込んで、JRグループは、2017年3月8日から2018年3月31日まで、ジャパン・レール・パスを試験的に日本国内でも販売することにしました。

詳細は、以下のサイト(PDF)をご覧ください。

「ジャパン・レール・パス」の日本国内での試験販売及びご利用資格の一部変更について

このサイトにも説明がありますが、2017年4月1日以降、ジャパン・レール・パスは海外在住の日本人向けの引換証販売を終了しました。これに対する批判が、ネット上に多数見られます。

さて、マレーシア人の友人S氏らと新宿駅のびゅうプラザに出向き、ジャパン・レール・パスを買おうとしたのですが・・・。係員に断られました。

ジャパン・レール・パスは、海外から「短期滞在」(3カ月)の入国資格により日本を訪れる、日本国以外の旅券のみを持つ外国人旅行者に対して販売されるものでした。

S氏は、5年毎更新の日本の永住権を持っているのでした。彼は30年近くにわたって、日本の複数の大学でマレーシア語やマレーシア文化を教えてきた人で、その間に取得したものでした。数年前に、マレーシアへ帰国し、現在は、日本に居住しておらず、マレーシアで活動を行っています。

日本に住む権利を持っていても、実際には住んでおらず、久々に日本に来て、昔からお世話になった方々を訪問しようと思っていた矢先に、ジャパン・レール・パスが買えないということを知って、ちょっとびっくりした様子でした。

それでも、「マレーシアで引換証を買ってこなくてよかった。マレーシアでは資格などよくわからずに引換証を売られたことだろう。日本に着いてから引換証が無効と言われるよりよかった」と、自分を慰めるようにつぶやいていました。

彼のような、日本と深く関わり、日本を愛し、マレーシアと日本との関係深化に多大な貢献をしてきた方でも、たとえ実際に日本に住んでいなくとも、永住権があるという理由で、久々の日本旅行でジャパン・レール・パスを使うことはできないのでした。

極言すれば、ジャパン・レール・パスという特権を使ってもらいたい、日本へ来て欲しい旅行者とは、滞在期間3カ月以内の外国人旅行者なのですね。1年ぐらいかけてじっくり日本を旅してまわりたいとか、日本と深く交わってしまって日本を第二の祖国のように思い永住権を得てしまったような人は、たとえ日本に居住していないとしても、ジャパン・レール・パスを使って欲しい、好ましい外国人旅行者とは見なされない、ということなのかもしれません。

これもまた、外国人にたくさん来て欲しい、と言っている日本の観光関連の一コマです。

日本と長く付き合ってきた彼には、決して好ましいこととは思いませんが、そうした事情を理解してもらうことはできました。こんなことで、日本が嫌いになるようなS氏ではないと思いますが、もし読者の皆さんが彼の立場だったら、どう思うか、ちょっと思いをいたしてみてください。

彼には、広島や福岡の知り合いを訪問するために、成田発の格安航空会社のチケットを購入することを勧めました。

日本にとって必要なことは、外国人観光客の数を増やすことだけでなく、日本を深く理解し、日本との間の架け橋になるような方々をもっと大事にすることだと思います。

彼らのおかげで、どんなに日本のイメージが好意的に伝えられているか、日本に対する理解がどれほど深くなっているか、想像すればわかるはずです。市民レベルでも、世界中に日本の味方を増やしていくことが日本の安全保障にもつながると思うのです。

その意味で、決まりとはいえ、S氏がジャパン・レール・パスを買えなかったことは、残念なことでした。

神楽坂でのホッと一息スポット

東京都内の散歩コースで好きな場所の一つが神楽坂です。

一歩中へ入ると、いくつかのクネクネした小道に、雰囲気の良い粋なお店がいい感じで存在していて、なんとも風情があります。そういえば、移転前の元職場に近かった四谷荒木町界隈も同じような風情があり、大好きな場所でした。

神楽坂でホッと一息つく私(と妻)のお気に入りのスポットの一つは、ル・ブルターニュ神楽坂店です。とくに、そば粉のガレットが大のお気に入りです。

いつ行っても、たくさんの人が並んで待っているような店なのですが、今日は珍しく、夕方、私たちが入ったときには誰も客がいませんでした。しかし、しばらくすると、次々にお客さんが入ってきて、わずか15分ぐらいの間に満席となっていました。

店員の対応はキビキビしていて親しみやすく、フランス語が飛び交う店内は、なかなか居心地が良いです。メイン通りからちょっと入ったところにあって静かな空間です。

次に今回訪れたのは、紀の善です。あんみつで有名な店ですが、お目当ては、抹茶ババロアです。クリームとつぶあんが付いていて、これらの味のバランスが絶妙なのです。

ほかにも、親子丼やうどんすきでの鳥茶屋、押し寿司の大〆、肉まんで有名な五十番、そして、コタツのある饅頭カフェのムギマル2など、神楽坂には興味深い店がいろいろあります。次回は、どこへ行きましょうか。

ガルーダマイルからスカイマイルへ

飛行機に乗るときに重宝するマイレージカードですが、私はこれまで、JALカードでワン・ワールド、ANAマイレージカードでスター・アライアンス、そしてガルーダマイルでスカイチーム、を代表させてきました。

ガルーダ・インドネシアが発行するマイレージカードは、かつてGFF(ガルーダ・フリークエント・フライヤー)と呼ばれた時代から愛用し、今は、ガルーダマイルのシルバーです。

でも、いろいろ考えて、スカイチームのマイレージカードをガルーダマイルからデルタ航空のスカイマイルへ変えることにし、今日、スカイマイルJCBテイクオフカードが届きました。変えることにした理由は、次のようなものです。

第1に、ガルーダマイルが貯めにくくなったことです。スカイチームに加盟したのと同時に、GFFがガルーダマイルへ変わり、マイルの取得条件が厳しくなりました。ディスカウント・チケットではマイルがほとんどつかなくなっただけではありません。

かつて、GFFには、ECプラス・ゴールドというステータスがあり、長い間、愛用していました。これは、お金を払って、ラウンジ利用、優先チェックイン・搭乗、預け荷物上限増量などのゴールドのステータスを買うものです。

GFFの時は年間150万ルピア(前年に一定回以上利用した場合の継続は50万ルピアのみ)払えばECプラス・ゴールドに慣れたのですが、ガルーダマイルになってからはそれが600万ルピアへ引き上げられ、しかもサービス内容は同じ、と改悪されたので、すぐに解約しました。

第2に、ガルーダマイルは期限があり、マイル利用座席数が少なく、すぐに埋まってしまうことです。ウェブ上でマイル利用の航空便の予約ができず、必ずガルーダのオフィスへ出向いて予約しなければならないので、日本を拠点としている現在では、マイル利用で座席をとるのが事実上難しいためです。

第3に、インドネシア国内で飛行機を使う場合でも、シティリンクやスリウィジャヤ航空などの格安便に乗ることが多くなったので、自腹でガルーダに乗ることが本当に少なくなったためです。やむをえず乗るとしても、大抵は割引運賃で乗るので、マイルはつかないことが多いのです。

マイルがつきにくく、マイル利用座席数が少なく、マイルに期限がある、という状況では、ガルーダマイルで貯めても、ほとんど意味がないと感じました。

インドネシアへ渡航する際、その時期に応じて格安の便で行くことにしていますが、中華航空や大韓航空など、スカイチームの航空会社を使うこともあるので、スカイチームのマイレージカードを持っていたいとは思いますが、ガルーダマイルで貯めるメリットを感じられなくなりました。

そこで、色々探した末、デルタ航空のスカイマイルJCBテイクオフカードを入手することとしました。

このカードの特徴は年会費が1500円(初年度無料)と安く、マイルの期限がないことです。もちろん、最上位のアメックス・ゴールドにすれば、スカイマイルの「ゴールド・メダリオン」というステータスを自動的に手に入れられるというのは魅力的なのですが、26,000円という年会費の高さとそれに見合うだけの利用頻度はないと考えると、スカイマイルJCBテイクオフカードで十分、という判断になりました。

今回、申し込んでからカードが手元に来るまで約10日間でした。

ガルーダマイルにはまだマイルが多少残っていますが、今後、スカイチームの航空会社便を利用する際には、スカイマイルで少しずつ貯めていきたいと思います。

聞き書き甲子園イベントでの出会い

昨日と今日は、東京大学弥生講堂で開催された「聞き書き甲子園15周年記念イベント」に出席しました。聞き書き甲子園については、以下のページをご参照ください。

 聞き書き甲子園

聞き書き甲子園を簡単に説明すると、聞き書きという手法を学んだ高校生が毎年100名、夏休みに森や川や海の名人に会いに行き、名人から聞き書きをし、それをテープ起こしして文章化し、名人の一人称の文章にまとめて作品に仕上げる、という事業です。

毎年3月に、名人を招いて、その作品の発表会を行うのですが、今年は15周年ということもあり、これまでの15年の軌跡を振り返り、新たな聞き書きの可能性を展望するための記念イベントが2日間行われました。

私はかなり初期の頃からこの聞き書き甲子園に興味を持ち、事業を運営するNPO法人共存の森ネットワークの会員にもなっています。また、インドネシアでの高校生を対象とする聞き書き甲子園インドネシア版の準備段階で間接的に少しお手伝いもしました。

聞き書きの効能については、また別途、論じてみたいと思いますが、森や川や海の名人の代々受け継いできた技や心を敬い、それを次世代へ受け継ぐ関係性を改めて認識する契機となるものだと思います。ただし、聞き書きが地域おこしの特効薬になるかというと、そうではなく、地域おこしを促していくもっと底流にある何かを掘り起こす役割を果たすような気がします。

今日も、幾つかの出会いがありました。このイベントで、前々からお会いしたいと願ってきたK先生とようやくお会いできました。大学ゼミの大先輩であり、敬愛する宮本常一氏に直接師事されたK先生との出会いは個人的にとても嬉しく、至福以外の何物でもありませんでした。立ち話で色々とお話することができ、話をすればするほど、もっとゆっくりお話をうかがいたくなりました。

K先生のほか、K氏との出会いも嬉しいものでした。聞き書きやNPO活動に関する共通の友人の名前が何人か挙がり、よそ者が地域づくりに関わる際の弊害などについて話が盛り上がりました。K氏からも色々と学びたいと思いました。

昨日も今日も暖かく穏やかな1日だったので、東京大学弥生講堂まで自転車で往復しました。イベントも終わって、主催者のNPO法人共存の森ネットワークの皆さんにお礼の挨拶をして、自転車に乗って、東大前の横断歩道を自転車で渡ったとき・・・。

その横断歩道に立っていたマスクをかけた女性を目が合いました。ええ〜っ!

15年前、東京外大の非常勤で「インドネシア経済論」を教えたときの教え子でした。彼女もびっくりしていました。早速、近くの喫茶店で小一時間、色々な話をしました。フェイスブックではつながっていましたが、どうしているかなあと思っていた教え子だったので、とても懐かしく、とても嬉しいひと時を過ごせました。

今日も、素晴らしい出会いに感謝。

春の訪れをいつの日か分かち合いたい

春を感じさせる穏やかな一日でした。午後のイベントへ出掛ける前に、自宅の庭で春を見つけました。

福寿草やモクレンが咲いていました。

温かな日差しに照らされながら、花が可憐に咲いていました。

こうして、平和に春の訪れを感じることができる日常の何気ない幸せを、今日は改めて感じなければならないことになりました。

午後9時から放映されたNHKスペシャル「シリア 絶望の空の下で 閉ざされた街 最後の病院」。反アサド勢力の最後の砦とされたアレッポ東部に最後まで残った人々と、死傷者を受け入れなければならない、最後まで残った病院・クドゥス病院の、凄まじい状況を市民のカメラ映像で追った、見るのが辛くなる番組でした。

一言で言うならば、地獄。目の前で次々と人々が亡くなっていく。医師や看護士の能力を超える数の人々が運び込まれ、生存可能性の高い人々を優先せざるを得ない、助けようにも助けられない、そんな現実が次々に映し出されていきます。

アレッポを制圧するアサド政権からは反政府のレッテルを貼られた人々。でも、もはやアサド打倒のために最後まで戦うような状況にはなく、かといって、投降しても命の保証があるとは思えないほどの不信感のなか、次の瞬間での死を意識しながら生きる人々の姿には、今の瞬間瞬間を生きるしかない、究極の状況が映し出されていました。

絶望しかない世界。でも、絶望に打ちひしがれている暇すらないのでした。そして、医師や大人たちがわずかな希望を託せるのは子供たちしかなく、それが子供たちを助けようとする尋常ではないエネルギーになっているかのようでした。

何が何でも生き延びるためには、どんな酷い権力者であっても、従順で馬鹿なふりをして権力者へ尻尾を振らなければならないと思って、さっさと降伏し、投降するしかない、そういう選択をしてしまうだろうし、その選択を後世で「仕方なかった」と納得しながら生きていくしかない、という面はあるかもしれません。

安全で安心して暮らせる状態にある後世の人々が、そうした行為を批判し、愚弄したとしても、そうして自分を偽ってでも生き延びた人々は、それを甘んじて受けざるをえないでしょう。きっと、日本もまた、そうして生きてきた人々が少なくなかったはずです。

アレッポのクドゥス病院の人々は、たとえ反アサドの活動家でなかったとしても、様々な理由で、そこから脱出できなかった人々も少なくなかったかもしれません。そういう人も含めて、アサド政権から反政府のレッテルを貼られたのでしょう。

テロリストのように、他人の生きる権利を一方的に踏みにじる人でなければ、その人の生きる権利は何としてでも尊重されなければならないはずです。クドゥス病院の人々は、少なくとも人間の命をできる限り救おうと懸命だったのに、彼らを「反政府=テロリスト」と一方的に決めつけて爆撃するのは、主義主張やイデオロギーを超えて、犯罪以外の何物でもない、ということは明確にしておかなければならないでしょう。

そのような状況を、国際社会は見て見ぬ振りをしてきたことを、彼らは糾弾しています。私もその国際社会の一部であり、個人として深く反省しなければなりません。しかしながら、国際社会がその現実を見たとして、祈る以外に、何が一体できたのか、という気持ちもあります。それでも、それを見てしまった者は、少なくともその情報を広めるなど、何かをしなければならなかったのでしょう。

このNHKスペシャルを観た後では、庭の福寿草やモクレンに春の訪れを感じていた自分の呑気さをちょっと後ろめたく感じてしまいます。

でも、そう感じられる自分の今の瞬間瞬間に感謝しつつ、不躾かもしれませんが、アレッポの人々と春の訪れをいつの日か分かち合いたい、という気持ちが不意に湧き上がってきました。きっと、それがあって始めて、自分が何かをしていけるのではないかと感じます。実際に何ができるのかはまだわからないのですが・・・。

4月からのために

今回、福島へ帰ったのは、4月からの準備の最終確認のためでした。

4月からのために、まず、実家にいる母や弟たちと話をし、色々と了解してもらいました。さらに、関係する方々にも会って、了解をもらいました。

あとは、もう少し、準備を進めるだけ。

始めます。4月から。ここで。楽しく、面白く、そして本質的に。

「結詞」が急に頭の中に浮かんで

なぜか、急に頭の中に、井上陽水の「結詞」という曲が浮かんできて、リフレインしています。

アルバム「招待状のないショー」の最後の曲ですが、このアルバムには、同じ歌詞の「枕詞」という曲も収録されています。でも、頭の中で鳴っているメロディーは、「結詞」のほうです。

たしか、この曲を聴いてジーンときたのは中学時代だったような気がします。

すると、続いて、吉田拓郎やかぐや姫やユーミンの曲が次々に頭の中に現れて、一気に、福島市で過ごした中学時代、高校時代のことを思い出し始めてしまいました。
高校時代、友人と一緒に、福島駅から電車に乗って、郡山市の開成山公園へ行き、かぐや姫の再結成コンサートを見に行きました。ライブの臨場感に圧倒されたものの、その後、ライブに行くことはなかったです。あのとき、一緒に行った友人は、今では、福島県庁の管理職職員として活躍しています。
大学に入ってからは、いわゆる当時ニューミュージックと言われた、フォークをほとんど聴かなくなったのですが、なぜか最近、時々、無性に聴きたくなり、聴くと、その曲とともに福島市で暮らしていた二十歳前の自分のことを思い出すのです。
これって、もう、年寄りになってしまったということなのでしょうか。
そういえば、インドネシアのポピュラーソング歌手では、もう25年以上もRuth SahanayaやKLa Projectを聴いているのですが、その曲の一つ一つが当時のインドネシアでの生活の一コマと結びついて、ジーンと思い出されてきます。

通貨危機の頃のKLa Projectの曲は、今にして思えばびっくりするほど暗くシニカルで、当時の社会の絶望感をにじませていたのだなと思います。しかし、その後の彼らの曲が次第に明るさを取り戻していくなかに、インドネシア社会の空気が反映されているように感じていました。

かつて子ども時代を過ごした福島の家は、今ではもう跡形もなく残っていません。でも、井上陽水を聴いていた頃の自分とは、たとえば「結詞」とともに、自分の中で会えているような気がします。

あれから自分の何が変わらず、何が変わったのか。変わってはならないものは変わらずにあるか。変わらなければならなかったのに変われなかったものは何か。

福島と向き合うときに、それは「結詞」を聴いていた頃の福島で暮らした自分とも向き合うことでもあるのだ、ということを改めて思っています。

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