カカオツアーから帰国しました

8月20〜27日、ダリケー株式会社主催のカカオツアー2017のお手伝いを終えて、27日朝、帰国しました。

ツアー中は、通訳兼コーディネーターとして、総勢55名のツアー参加者+スタッフと様々なアクティビティを行いました。

今回の参加者は、高校生や大学生のほか、チョコレート愛好家、会社役員、大学教授など、バラエティに飛んだメンバーでしたが、年齢や立場を超え、互いに自分を高め合う、素敵な仲間となることができました。

カカオの生産者とチョコレートの消費者とを結ぶこのツアー。生産者と消費者との信頼は、国境など軽く超えていくことができるのではないか、という確信を強くしました。

現場を見ることの重要性とともに、日本人とインドネシア人が信頼し合うとはどういうことなのかを全身で感じてもらえたのではないかと思います。

たとえば、地元の小学校で、参加者は、小学生と一緒に、カカオ豆からチョコレートを作る小さなワークショップを行いました。

地元のカカオで生まれて初めてチョコを作った小学生たちは、「また自分でチョコを作ってみたい」と目を輝かせました。そこには、これまでカカオ豆を作るだけだった生産地で何かが変わる兆しがありました。

一緒に、共に。これがキーワードだったと思います。

ツアーへの参加前と後とで、人生観が変わった、とまで言い切った参加者もいました。それはなぜなのでしょうか。

百聞は一見に如かず。ぜひ、来年、このツアーにご参加ください。カカオツアー、という枠を軽く超えてしまうかもしれません。

インドネシアの大学の先生方を福島へ

8月1日、インドネシアのマラン・ムハマディヤ大学の先生方5人を福島市へお連れしました。朝、羽田に到着し、そのまま東京駅から新幹線で福島へ来ました。

今回の訪問は、今年4月に私が同大学でゲスト講義を行なった際に話が出ていたもので、福島をテーマとした新しいプログラムを立ち上げる可能性を探るための来訪です。

福島駅近くのホテルへ到着。でも午後3時までチェックできず、一息入れる間もなく、ホテルのカフェでそのままミーティングへ。でも、今回の福島訪問では、実は、このミーティングが一番重要だったのでした。

ミーティングの後、ようやくチェックインし、夜行便でできなかったマンディ(水浴)をした後、どうしても私のオフィスを見たい、ということで、飯坂電車に乗って、オフィスへ向かいました。

私のオフィスの敷地内にある古民家に感嘆し、オーナーの話にいちいち頷く面々でした。オーナーの実家の畑で採れた旬の桃を頬張って、「リンゴより美味しい!」と感嘆の声を上げています。

もちろん、私のオフィスにも来ていただきました。急に強い雨が降り出し、しばらくオフィスで雨が弱まるまで待機せざるを得ませんでした。

先生方の福島訪問は本当にわずかの時間ですが、福島をテーマとした新しいプログラムへのヒントはつかめたようです。うまくいけば、来年の今頃、そのプログラムが実現するかもしれません。私も、その準備に楽しく関わっていくことになりそうです。

よりどりインドネシア第2号を発刊

ここ数日、会員制ウェブマガジン「よりどりインドネシア」第2号の原稿を書いていたため、ぐろーかる日記の更新がおろそかになっておりました。お約束通り、7月22日に第2号を発刊いたしました。以下のページをご参照ください。

 よりどりインドネシア第2号

今回の話題は、首都移転論議、中国系工場襲撃事件、教育問題、ソト・クドゥスの4点です。

首都移転論議、再び
ジャカルタからの首都移転論議は、今回が初めてではありません。本号では、過去の論議を少し詳しく振り返ります。

北スラウェシでの中国系セメント工場襲撃事件
北スラウェシ州で中国系セメント工場への襲撃事件がありました。その背景には中国嫌いにとどまらない、地方政治の思惑が絡んでいました。

新学期、今年も入学仲介業者が暗躍したが・・・
インドネシアの学校は新学期がスタート。日本より進んでいるかもしれないオンラインの新入生入学受入システム。それでも変われない構造的な問題に触れました。

クドゥスで本場のソト・クドゥス
私も大好きなソト・クドゥス。中ジャワ州クドゥスで食べる本場の味を紹介します。

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25年ぶりにジャカルタの恩人の一人と再会

ジャカルタでの用務を終え、帰国便まで時間が取れたので、ジャカルタの恩人の一人のお宅を訪問し、25年ぶりに再会しました。

つい最近、日本の携帯のLINEにこの方からメッセージが入りました。ジャワ人によくある名前であり、何人か同じ名前の知り合いがいるので、それまでの一番最近連絡のあったバニュワンギ県会議員かと思って尋ねたら、恩人の方でした。

彼と出会ったのは、前の職場に入った年なので、1985年です。インドネシア中央統計局の最後は副長官を務めた方で、私がインドネシア研究に携わり始めた駆け出しの頃、ずいぶんと可愛がってもらいました。

日本にも何度か招聘し、地方視察へご一緒して、温泉に入ったり、いろんなエピソードがあります。職場の先輩のリクエストで、彼の奥様と温泉ホテルで「ブンガワン・ソロ」のデュエットをさせられたのも、今となっては懐かしい思い出です。

4年前に、心筋梗塞で倒れ、手足がうまく動かなくなってしまったと聞いていたので、お会いしてよいものか、ちょっと迷っていました。

お会いしてみると、とても元気そうで、昔と同じように、「お前は子供だったよな」「ずいぶん太ったじゃないか」「こどもはいるのか」などと、冗談を交えながら、とにかく大声でよくしゃべられました。

奥様によると、相変わらず、よくしゃべり、よく食べるそうで、お会いしてホッとしました。お子さんたちも皆独り立ちされ、孫にもたくさん恵まれ、幸せそうでした。

何年経っても、こうして相手にしてもらえるなんて、私もとても幸せな気分でした。

次回は、彼とコンビを組んでいたもう一人の恩人、元中央統計局の長官だった方とも一緒にお会いしたいと思いました。

ジャカルタの恩人は、数えたことはありませんが、けっこうたくさんいます。本当にたくさんの方にお世話になり、それが今の自分を支えているのだということを改めて感じました。

ジャカルタで用務を遂行中

今回のジャカルタ滞在、近畿経産局とチーム・E関西によるエネルギー・環境ビジネスに関するビジネスマッチングの可能性を探ると題して、用務を遂行中です。

7月12日夜は、ネットワーキングカフェinジャカルタにおいて、「インドネシアにおけるビジネス展開」と題して、1時間弱の講演を行いました。久々のジャカルタでの講演だったので、少々緊張しましたが、何とか無事に終えることができました。

13日は、午前中、タンゲラン県営ティルタ・クルタ・ラハルジャ水道会社を見学しました。この水道会社は、オランダ植民地時代の1923年に設立された水道会社が母体となっており、その時に建てられた建物が今も残されています。

水道会社の構内に小さな浄水場があり、近くのチサダネ川から取水された水が砂などによるろ過で予想以上にきれいに浄化されていました。

この水道会社は11の浄水場を持ち、タンゲラン県、タンゲラン市、南タンゲラン市へ給水するだけでなく、全体の5分の3の浄水をジャカルタ首都特別州へ売っているそうです。
早いもので、今回のジャカルタ滞在はあと1日を残すのみとなりました。

やたら知人に出会う、今回のジャカルタの宿

昨日(7/10)からジャカルタに来ています。いつもは、東ジャカルタの私のアジトに泊まるのですが、今回は、調査団の一員としてなので、他の団員と同じホテルに宿泊しています。

このホテルに初めて泊まったのは1980年代後半で、それ以来、何度か泊まっているのですが、昔よりもいろんな面で進歩が見られます。とくに食事は、以前はとにかく美味しくなかったという記憶したなかったものです。今も決してものすごく美味しいとは思いませんが、そこそこ食べられるレベルになりました。

部屋が広いのがこのホテルの特徴ですが、かつてはバスタブ付きの部屋が少なかったのです。今はほとんどの部屋にバスタブが付いています。ベッドもよくなりました。

近年、日本の関係オフィスがジャカルタの中心部よりも南へ移ってきたせいか、日本からの出張者の滞在ホテルも南へ移ってきている様子があります。

今回のこのホテル、見た目だけでも、日本人客の比率が高いです。昔のプレジデント・ホテルほどではありませんが。

そして、そのせいか、知人に必ずと言っていいほど出くわします。昨晩のチェックイン時、今朝、朝食をとるためにエレベーターを降りた時、外での仕事を終えてホテルに戻ったロビーで、別々の知人に複数会いました。

今までの経験からしても、相当な確率です。というか、いつもはアジトに宿泊なので、日本人に会わないジャカルタライフが普通だったので、ビックリしているだけなのですが。

今日の夕食で食べた、ランデブーのゴーヒョン(肉詰め巻き揚げ)は相変わらずのおいしさでした。このたびスラバヤに着任されたT氏とこの店でご一緒したことを思い出しつつ。

恩人であるTさんの思い出

梅雨とは思えないような九州地方の豪雨、まるで、インドネシアの雨季の雨のような、日本がどんどん熱帯の気配を漂わせるような、陽気のよくない日々が続いています。

今週は、悲しいお別れの知らせがいくつかあった週でした。色んなことを感じながら、お見送りをされた方々のことを思っていました。

その中の一人が、私の恩人の一人であるTさん(女性)とのお別れでした。91歳でした。Tさんは、インドネシア語とマカッサルとの二つの意味で、私の恩人でした。

それは私が最初の職場に入って3年目ぐらいの頃だったでしょうか。私は、Tさんと一緒に、毎週、インドネシア人のJさんにインドネシア語を教わっていました。その時、Tさんはすでに60歳を超えていましたが、とにかく元気な方でした。

当時は、毎週、インドネシア語の本や新聞記事を題材にして、日本語の訳をつける練習をしていたのですが、Tさんは毎回、分担部分をしっかりやってきていました。それは、Tさんが次のステップへ向かうための準備だったのでした。

元教師のTさんは、その後、1988年頃、日本語教師として、インドネシアのマカッサルへ渡り、現地の日本語学校で日本語を教え始めました。とある友好団体によるプログラムだったのですが、おそらく、マカッサルで日本語を教えた最初の日本人だったのではないかと思います。

Tさんは日本語学校のある同じ建物に住んでいましたが、プログラムの予算が限られていたため、本当に質素な生活をされていました。当時、頼れる在留邦人の知り合いもなく、毎日のように様々なトラブルに見舞われ、相当なストレスだったと想像します。

私がマカッサルでTさんとお会いすると、いつもそうしたトラブルの話を聞かされたものでした。車も持っておらず、当時はタクシーもなかったので、いつもペテペテ(乗合)や教え子のバイクの後ろに乗って、街中を移動していました。

Tさんのもとで、たくさんの生徒が日本語を勉強していましたが、途中で止めていく者も少なくありませんでした。でも、Tさんは本当に懸命に日本語を教えようと奮闘されていました。

Tさんの教え子の中には、その後、日本へ出稼ぎに出かけたものの、不法就労がバレて捕まり、インドネシアへ送り返された人がいますが、今、私はマカッサルで彼が運転する車をよく使っています。

Tさんとマカッサルで会ったのは、私が長期でマカッサルに滞在する前の話でした。ちょうど、ジャカルタに2年いた間に、マカッサルへは2回行き、その度にTさんに会っていました。Tさんに案内された宿舎でボヤ騒ぎが起きたことなど、今となっては、全てが懐かしい思い出です。

Tさんが教鞭をとった日本語学校はその後取り壊され、今は駐車場になっています。ちょうど、サヒッド・ホテル・マカッサルの向かいあたりにありました。ボヤ騒ぎのあった宿舎も、どこにあったか、記憶が定かではありません。

今まで色々な人に会いましたが、あんな小柄な体なのに、どうしてあんなパワフルに動けるのか、Tさんの元気さにはいつも圧倒されていました。

Tさんがいてくれたから、私はインドネシア語の勉強を続け、マカッサルについて色んなことを知ることができました。私を導いてくださった恩人の一人なのです。

とっても世話焼きで、自分のことよりも他人のことをいつも考え、何事にも全力でぶつかっていく方でした。

晩年はなかなかお会いする機会がなく、年賀状のやり取りも滞りがちでしたが、7月の梅雨の最中に、旅立たれていかれました。

おそらく、Tさんのことを知る日本人は少ないかもしれませんが、彼女もまた、紛れもなく、日本とインドネシアとの関係を深めるのに大きく貢献した方であったことは間違いありません。

私も、Tさんと出会うことができてよかったとつくづく思います。Tさんが願うような日本とインドネシアになったかどうかは分かりませんが、彼女の軌跡を振り返りながら、さらなる進化を促していきたいと思います。

どうか安らかにお休みください。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

来週はジャカルタ

6月中はずっと日本でしたが、来週は久々にインドネシア出張、ジャカルタです。

今回は、チームでの活動になりますので、いつものアジトではなく、他のメンバーと一緒にホテルに泊まります。

10日にジャカルタ到着、11日は3件のアポ、12日はネットワーキングカフェで講演、13日は視察、14日はビジネスマッチングセミナー、14日夜ジャカルタ発で、15日朝に東京へ戻ります。

皆さんにお会いできるといいのですが・・・。

コンサルタントと名乗ることについて

自分がなりたいのは、ローカルの足元の生活から物事を発想し、ローカルが他のローカルとつながりながら、新しいモノやコトが創り出されるための黒子、です。

でも、法人クレジットカードの申込や銀行での法人口座開設で、それを職業や職種で一言で何というか、と問われると、どう言っていいのか分からなくなります。「その他」というのが該当するのでしょうが、それだとさらに具体的な説明を求められて、面倒になります。

それで、「コンサルタント」と名乗ることにしています。でも、世の中のいわゆる正統なコンサルタントとはちょっと違うような気がしています。

一般に、コンサルタントは、顧客(クライアント)からの相談を受けて、助言や解決策を教え、その対価をもらう仕事と考えられます。ですから、顧客の意向がどのような理不尽なものであっても、それに合わせる必要が出てきます。

これまでのいくつかの経験で、そのような振る舞いが必要な場面があるということを十分に学びました。契約書や仕様書に書かれていなくとも、顧客から指示されたことは、断ってはならないし、顧客の気分を害するような態度を決して示してはならない、ということを。なぜなら、そんなことをして顧客から仕事がもらえなくなったら大変だから。

それに見合う見返り収入が十分にあるのならば、それはそれと割り切って、ニコニコしながら、うまく対応するのも大人の対応なのだろうな、と思います。まだ、収入が不安定な時には、そうした収入がやはり必要だと実感します。

でも、できることならば、そのような仕事だけをする人生など送りたくありません。私がやりたいことは、教えないコンサルティング。顧客に教えるのではなく、顧客が自分で気づき、自分で問題を解決するために動く、そのように促すやり方です。

数日前の記事で、東京から東北へやってくるコンサルタントに関する記事が載っていました。曰く、復興や地方創生で困っている自治体などへ、そうしたコンサルタントが乗り込んでいって自分のアイディアを売り込む。東京から来たコンサルタントさんだからといって自治体側もなぜか期待して、多額の報酬を支払ってしまう。その実、後から振り返ると、何が自治体にとって役に立ったのか分からない、といった話でした。

コンサルタントと名乗ると、そんな輩と一緒にされてしまうのだろうか、なんて思ったりもします。ちょっとこわいです。

しかしこの構図、実はインドネシアでさんざん見てきた構図と全く同じなのです。そして、ある意味、自分もそうした外部専門家の立場にいたこともあるわけです。そんな立場の自分なのに、「よそ者に騙されるな(私もよそ者だけどね)」とインドネシアの村人たちに言い続けていた自分は、やっぱり他のコンサルタントさんから見ると、異様だったのだなと今にしてよくわかります。

インドネシアでは外国援助。日本では復興や地方創生という名の補助金。これらに頼った仕事しかしないコンサルタントならば、やはり顧客であるそれらの資金元の意向に沿わざるを得ないのは当然です。

でも、それらのコンサルタントの仕事をいちいち業績評価しているのかどうか。評価しているとしても、誰がどのように評価し、その結果を受入側へも含めて公開しているのかどうか。事業を作れば予算が増えるという仕事のしかたならば、自分の予算でやった仕事が無駄だった、国民の皆さんごめんなさい、とは言いにくいし、別の形でうまく言っているように見せるのだろうな、と思ってしまいます。

私が福島で起業した理由の一つは、東京のコンサルタントにならないためです。親切な地元の方々は、客人の意向にできるだけ合わせてくれます。客人が教えることにも分かったふりをしてくれます。でも、事業が終わると、客人が机上で描いたようには変わりません。事業を金づると思っている客人にとっては、次の事業が取れればいいのです。

そんなコンサルタントと一緒にされたくはありません。でも、収入を安定させるためには、お面を被って、外国援助や補助金の仕事もします。その仕事の過程で得るものはゼロではないし、次の自分オリジナルの仕事につながる部分もあるからです。

自分にしかできないコンサルティングがある、と確信しています。あえて教えないコンサルティング。学び合いを促して自分も学ぶコンサルティング。「後は自分でやれるからもういいよ」と顧客から言われることを常に覚悟しているコンサルティング。「何でもいいから何か仕事をください」と言いまくらないコンサルティング。

まずは、顧客とどこまで真の信頼関係を築けるか。一歩一歩、進んでいきたいと思います。

7月より、本格的に活動開始します

このところ、ちょっと体調がすぐれませんでしたが、休み休みしながら、少しずつ回復してきました。昨日、自宅のある区役所で健康保険の切り替え(国保→健保)を終えたことで、これまでちょっと時間はかかりましたが、法人としての活動準備をほぼ終えました。

私のオフィスと同じ敷地内の古民家(福島市)
この古民家の有益な活用法もオーナーと一緒に考えていきます

というわけで、7月からいよいよ、本格的に活動を開始します。すでに、いくつか、インドネシア出張がらみの仕事が今年後半に入ってきていますが、それ以外の通常の仕事も始めていきます。

内容については、以下のリンク「会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ」をご覧ください。

 会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ

まず、企業、団体、学校向けのコンサルティング、講演・講師、研修などをお引き受けします。インドネシアに関するものだけでなく、コミュニティや組織などへ外部者が入って活動していく際のコミュニケーションのしかたや問題発見・解決の手法も教授いたします。

私のやり方は、一言で言えば、「教えないコンサルティング」です。

外部者としての私が教えるのではなく、そこにいるコミュニティや組織の方々が自分で気づき、自分で行動し始めるように促すコンサルティングを行います。この手法は、インドネシアで村人や組織に助言・アドバイスを行う実践のなかで、身につけたものです。それを様々な分野で適用し、また、「教えないコンサルティング」のできる人材を育てていきたいと思っています。

次に、日本の地方自治体・企業・団体とインドネシアの地方政府・企業・団体とをつなげて、意味のある連携事業を行えるように促していきたいと考えています。

日本側がインドネシアと関わりたいと思っても、インドネシアのどこと関わったらよいのかわからない、というケースは多いと思います。逆に、インドネシア側でも、日本と関わりたいが、どの地方自治体・企業・団体とコンタクトしたらいいか分からない、という話をよく聞きます。在日インドネシア大使館には、日本のどこかと姉妹都市提携をしたいという問い合わせがたくさんあるそうですが、大使館側はどこを推薦していいか困っている、ということです。

こうした日本側とインドネシア側に対して、どのような連携を目指しているのか、そこから何を生み出したいのかをしっかり聞いたうえで、双方にとって有意義なマッチングを果たせるお手伝いをしたいのです。

そして最後に、7月から、有料会員制のウェブマガジン「よりどりインドネシア」を月2回発刊します。

日本ではあまり知られていない、いくつものインドネシア、様々なインドネシアについての情報を提供していきます。とりわけ、ジャワ・バリ以外のインドネシアの地域や人々の生活に関わるような、広く深い情報を、独自の視点で切り取りながら解説します。もちろん、ときにはセンシティブな内容も含んだ、ビジネスに関わる政治経済分析も行なっていきます。

ウェブマガジンを購読いただいた方は会員となり、読者コミュニティの一員として、情報交換や意見交換に加わっていただき、会員フォーラムとしていきます。また、私に対するメール相談も回数無制限でお受けいたします。

上記に関する詳しい内容は、以下のサイトをご覧ください。コンサルティング等のご依頼やお問い合わせは、メールにて、お気軽にお寄せください。お待ちしています。

 会員制フォーラム及びサービス料金のお知らせ

 メールアドレス:matsui@matsui-glocal.com

イスラム教徒にとっての喜びの日

今日6月25日は、言うまでもなく6月最後の日曜日ですが、全世界のイスラム教徒にとっては、1か月間の断食月を終えた喜びの日、イード(Eid)です。インドネシア語では、イドゥル・フィトゥリ(Idul Fitri)と呼ばれます。

世界中のモスクでは、夜明け過ぎから、ムスリムの方々がたくさん集まり、断食月を終えた自分をたたえ、アッラーへ感謝の祈りを捧げたことでしょう。日本でも、そんな光景を見ることができた場所もあったことと思います。

イードを迎えるにあたっては、新しい服などの物を揃えます。また、過去1年間におかした過ちへの赦しを求めます。こうして、新しい真っさらな人間となって、再び次の断食月までを過ごしていく、という日が今回は今日だったわけです。

何となく似ていませんか。私たちの新年に。新年を迎えるにあたって、除夜の鐘を聴きながら1年間に溜まった108の煩悩を振り払い、また新しい服に着替え、初詣に行って新しい年への願いをかける、清らかな自分になるのが、一般的な私たちの新年の迎え方です。

断食明けを祝い、インドネシアの各地ではたくさんの花火が打ち上げられました。最近では、新年の年明けの時にも、花火が打ち上げられます。しかし、スハルト時代の終わり頃の1990年代末までは、花火が打ち上げられることもなく、静かな断食明けのイードでした。新年もそうです。花火だらけになったのはごく最近のことなのです。

その意味では、かつてのインドネシアのイードは、日本の正月を思い出させるような雰囲気がありました。

今から26年前、ジャカルタに2年間滞在していた際、本場の断食明けを見たいと思い、西スマトラ州パダンで、知り合いの大学の先生の家族訪問(日本のお年始のようなものでしょうか)に付いて行ったことがあります。

敬虔なムスリムである先生はまず、自分の家の近くのモスクで、説教をし、近所の方々と一緒に礼拝を行いました。先生の家でお食事をいただいた後、車で出発、パダンパンジャンにある家族の家に立ち寄りました。そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受け、さらに車で、ブキティンギのご家族の家へ行きました。もちろん、そこでも「食べろ、食べろ」の接待を受けました。

最初、さすがに本場のパダン料理なので、とても美味しくたくさんいただいていたのですが、段々にお腹がいっぱいになって、食べられなくなりました。正確に言うと、お腹がいっぱいになったという以上の理由がありました。

それは、一族を訪問して回るので、出てくる食事の味付けが全て同じだった、ということです。よく考えれば、当たり前のことなのですが、当時の私には、3軒目で初めて体でわかったことなのでした。

話は変わりますが、ジャカルタでは、カトリック大聖堂と大モスクが道路を挟んで隣にそびえ立っています。日曜日といえば、キリスト教の礼拝・ミサが行われる日でもあります。

イードの朝の祈りと教会の朝の礼拝が時間的にぶつかります。そこで、教会側は、今日の朝の礼拝の時間を30分遅らせて、イードの祈りの時間とバッティングしないように配慮したということです。ムスリムの方々からは、こうした教会側の配慮に対する感謝の言葉がSNS上に溢れていました。
ジャカルタだけでなく、マランなどの地方都市でも、従来からそのように配慮してきた、ということです。州知事選挙などを通じて、宗教的寛容への懸念が出ていると多くの人々が感じているからこそ、そんな教会の配慮を素晴らしいと思ったのかもしれません。
でも、これまで当たり前だったことを素晴らしく感じる、という世の中の空気の変化をどうしても感じざるをえないとも思いました。もう一度、昔のような「当たり前」という感覚へ戻っていって欲しいと思いました。

改修前のアチェ州バンダアチェ市のバイトゥラフマン大モスク(2010年10月)。
個人的には、インドネシアで一番美しいモスクだと思います。
スマトラ沖大地震の際、人々の心の拠り所となった重要なモスクでもあります。

<予告>7月10〜14日、ジャカルタ出張

6月は断食月ということもあり、インドネシアへの出張はなく、日本で過ごしています。自宅のある東京と事務所のある福島とを頻繁に往復していて、今週も、明日明後日は福島です。これで、6月は3往復目です。

そして、ちょっと早いのですが、断食明け後の7月10〜14日、久々にインドネシアへ出張します。今回は、近畿経済産業局および公益財団法人地球環境センターの仕事で、全日程をジャカルタで過ごします。14日夜便で東京へ戻ります(東京着は15日朝)

この仕事を含め、今年度、上記2機関による「平成29年度地域中核企業創出・支援事業(環境・エネルギー分野における地域中核企業の海外販路開拓のための支援ネットワーク高度化及び中国・ASEAN市場獲得を目指した環境・エネルギー関連機器・サービスの現地実証の推進及び販路拡大支援事業)」での、インドネシアに関するコーディネーター役を務めることになります。

今回の出張中、7月12日(水)18時からの「ネットワーキングカフェinジャカルタ」で、私も講演させていただく予定です。このネットワーキングカフェでは、環境・省エネ技術関連企業との交流のため、現地日系企業・関係機関、現地進出予定企業等へ出席を呼びかけています。場所は、Atlet Century Park Hotel、私の講演は無料ですが、19時からの企業交流会は会費制(50万ルピア程度)となります。

最近は、ジャカルタ以外の地方への出張のほうが多い傾向がありますので、私にとっても久々のジャカルタでの仕事です。ジャカルタ在住の皆さんとお会いできるのを楽しみにしております。

なお、今後、8月、9月、10月、12月にもインドネシアへ出張が入る予定です。福島、東京、インドネシアと動き回ることになりそうです。

開発援助の経験から日本は何を学んだというのか

インドネシアで様々な開発援助の現場を見てきました。援助する側から見た現場だけでなく、援助される側がそれをどのように受けとめているかも見てきました。

日本からインドネシアへの援助だけでなく、インドネシアの中央政府から地方政府、地方政府から地域住民への補助金や援助プロジェクトも見てきました。私自身、JICA専門家のときには、中央政府側と地方政府側の両方の立場で用務を行ったので、その本音の部分も含めていろいろと観察することができました。

中央政府には表向き絶対に逆らわない地方政府。しかし、中央政府の役人達が帰ると、途端に地方政府の役人から批判や不満が噴出します。中央政府の役人を交えたセレモニーでの猫を被ったような従順さと、あまりに対照的で、思わず笑ってしまいそうになります。

村でも同様です。役人が来るので、村人には百姓仕事を脇に置いてもらい、とにかくまずは人を集めます。役人のお話を恭しく拝聴し、食事も供して、役人には気持ちよく過ごしてもらいます。そして、役人が帰った後は、村の現実から遊離した役人の話の内容を咀嚼できずに、困惑したりするのです。

よそ者が相手に対して何か働きかける際、何も反発がない場合には、相手が完全に同意しているのか、相手が適当によそ者に合わせてくれているのか、見極める必要があります。でも、成果を気にするよそ者は、それをもって、うまくいっている、自分のやり方に同意してくれている、と自分に都合の良い解釈をしがちです。

日本の開発援助は、受益者自身が自分たちで自分たちのために主体的に物事を進めるようにするために支援する、という建前をとってきました。たとえば、研修や教育訓練を施すにしても、それらを実施できるトレーナーの人材育成も合わせて行い、日本がいなくなっても、自分たちで人材育成ができるような仕組みを埋め込んでいく、というような援助を、少なくとも建前上は目指してきたと思います。

そのノウハウや実践例は数多くあり、蓄積され、対象となる人々の自立を助けることが日本の開発援助の特色として語られることも少なくありませんでした。

そんな素敵な海外での実践経験を培い、その援助手法を世界に誇ってきた日本ですが、東日本大震災の後に東北で行ってきた復興支援にそうした経験はどれほど生かされたのでしょうか。あるいは、日本国内では、対象となる人々の自立を助けることをする必要がない何らかの理由があるのでしょうか。

そんなことを自問する毎日を送っています。

日本だけが素晴らしい、なんて到底思えない現実と、これから格闘していくのだ、という覚悟が求められていると感じます。このことについては、これからもおいおい書いていきます。

英語とインドネシア語でも発信中

6月1日から、Glocal from Fukushima という題の個人ブログを書いています。使用言語は英語とインドネシア語で、1日ごとに2つの言葉で交互に書いています。

福島市に個人会社を設立した後、外国語での福島に関する発信がまだまだ少なく、もっと等身大の福島を外国の方々にも知ってもらいたいと強く感じました。そして、自分ができるのは、福島についての記事を英語とインドネシア語で発信することだと思い当たり、拙いながらも、始めてみたところです。

一つの記事を英語とインドネシア語で書いても良かったのですが、書いている私が新鮮な気持ちになりにくいので、あえて、違う話題を交互に書き連ねています。また、福島の何について書くか、ネタを探す契機にもなり、いい意味で福島のことをもっと知らなければ、という気持ちにもなります。

今はまだ、一般的な内容が多いのですが、今後は、自分が福島であった人々のことや、遭遇した事件や、いろいろなエピソードを織り交ぜていきます。

Glocal from Fukushimaも、この「ぐろーかる日記」と同様、目標は毎日更新です。こちらもまた、ご愛読のほど、よろしくお願いいたします。

 Glocal from Fukushima

とても残念だったこと

やはり、このことはきちんとブログに書かなければならないと思いました。

日本のある政府系機関と一緒に、7月、インドネシアへの短期出張を予定しています。その機関から依頼され、アポイントメントをとるために、私の長年の友人(インドネシア人)にアレンジのお願いをしました。

彼からは3人の名前が挙げられ、それぞれにレターを出すように指示がありました。すぐに、機関に連絡をとり、機関名のレターを用意して、送りました。

すると、彼から、「3人のうちの2人については、ポジションの高い人物なので、紹介料が必要になる。1人あたり10万円、2人で20万円払ってくれないか」という要求が来ました。

ええっ? 目が点になりました。

私もアポ取りの仕事をやったことがありますが、たしか、1件100ドルもしなかったと思います。

まさか、インドネシアでは、人と会うのにも多額の紹介料を払わないと会えない状況になってしまったのか、これが標準になってしまったのか、と驚き、そして、悲しくなりました。

長年の友人だった彼が、利益最重視のビジネス企業ではなく、政府系機関のアポだというのに、こんなに多額の紹介料を要求するなんて。どうしてしまったのだろう。昔の彼は、そんなにカネ、カネではなかったはずなのに。

念のため、別ルートで、先の2人のアポに関連して、多額の紹介料を払うのがインドネシアの標準になったのか、と尋ねてみました。答えは、「そんなはずない」「カネを払わなければ会わないなんて思われたくない」という返事でした。

その返事を聞いて、ホッとしました。インドネシアは、まだ大丈夫だ、と。

日本の大学に留学して学位をとった彼。どうして狂ってしまったのか。

とても残念ですが、彼とは、おさらばしました。もう、会うこともないでしょう。彼を他人に紹介することもありません。

友だちを選ぶのを間違ったことを深く後悔しています。

ようやく「看板」をつけました

今日、ようやく、オフィスの入り口ドアに、「看板」をつけました。これだけでも、少しはオフィスらしくなったのではないかと思います。

写真を撮っている自分が写り込んでしまうので、少し斜めにして撮ったら、ややピンボケになってしまいました。

午前中は、亡き父の遺した洋服を取っ替え引っ替え試着しました。色褪せてしまったものも少なくありませんでしたが、まだ大丈夫なものもけっこうありました。

もう少し痩せると履けそうなスラックスも何本かありましたし、そのまま履けるのもありました。もう少し頑張って痩せたほうがいい、と改めて思いました。

試着しながら気づいたのですが、父の寸法と私のがほとんど同じなのです。私は腕が短いので、既製の長袖シャツを着ると袖が余ってしまうのですが、父のシャツの袖の長さはほぼピッタリでした。また、足も短いので、スラックスを買うときには詰めてもらうのですが、それもピッタリ。寸法を直す必要がほぼないのです。

母にそういったら、「これはどう?あれはどう?」と、別の場所から父の洋服を次々に出してきて、試着させてくれます。

そうして、スラックスとジャケットをいくつかクリーニング店へ持ち込みました。来週から、父の洋服を着るのがちょっと楽しみです。

今日の福島も、昨日と同様、北西の風は強く吹き、涼しいというか寒い1日でした。半袖で通したので、ちょっと体も冷えたみたいです。夕方、少々気分が悪くなりました。

6月1日から、英語とインドネシア語でブログ「Glocal from Fukushima」を始めました。インドネシア語で書いた昨日のブログをたくさんのインドネシア人の友人たちが読んでくれて、福島へ行きたいと言ってくれています。嬉しいことです。

6月の半分以上は福島で過ごす予定

今日から9日まで福島です。何とか少しずつ、事業準備が進んできました。

3月末にスラバヤから送った5箱のダンボール箱は、無事、福島のオフィスへ到着し、今日はそれらを開けました。なお、下の写真の冷蔵庫はオーナーの持ち物で、ずいぶん長い間使われていないものです。

箱を開けると、懐かしい書籍や書類とともに、おそらくダニの類も現れたのでしょう、インドネシアでと同じように、急に首のあたりが痒くなってきました。

緊急に必要なものは、長年使っていなかったノート類や文具なので、それを取り出した後は、しばらく、ダニさんとともに箱の中でお休みしてもらうこととしました。

オーナーのところから私宛の郵便2通を引き取りました。1通はM銀行からのインターネットバンキング用トークン、1通はクレジットカードでした。

銀行からトークンは届いたのですが、肝心の法人向けインターネットバンキングへのログインが何度やってもできない状況になりました。ログインできないのでは、トークンを使う場面も出てこないわけです。

私のパソコンがMacBook Airだからログインできないのかもしれません。今や、法人口座向けのインターネットバンキングでは、セキュリティ対策の面から電子証明書の使用が一般的なようですが、その発行はWindowsでしかできないのです。

やはり、仕事用はいっそのこと、思い切って、Windowsノートパソコンに変えてしまうほうがいいのでしょうかね。好みは、レッツノートかThinkpadなのですが。

以前のブログでも書きましたが、前に29,800円のWindowsノートパソコンを買ったのですが、反応が遅すぎて使えませんでした。でもちょうど、たまたまパソコンが壊れてしまった妻に代用品として取られたのでした。

もう1通のクレジットカードはアメックスのグリーンで、最初にゲットした法人向けビジネスカードです。とても嬉しかったのですが、一つ大事なものが欠けていることに気づきました。振替銀行口座届が同封されておらず、カードを銀行口座に紐つけられないのです。

そこでアメックスへ電話をし、事情を話したところ、1週間以内に振替銀行口座届を送ってくれることになりました。

法人口座のインターネットバンキングの手続がけっこう厳しく、オンラインの会計ソフトでの読み込みもなかなか難しいので、クレジットカード決済でしばらくはしのごうと思ったのですが、カードは届いても、まだそこまでには至れていません。

おそらく、6月はその半分以上を福島で過ごすことになりそうです。インドネシアは断食月で、6月の出張予定はありませんが、7・8・9・10・11・12月と毎月のようにインドネシア出張が入る可能性が出ています。

その前に、福島での活動拠点・生活拠点づくりを進め、年後半を見据えて活動の基礎固めをしておきたいと思っています。

高僧を敬えという声の陰で

昨今のインドネシアの状況を憂う人々がかなりいる様子です。

政治目的のために、社会の分断を煽り、敵を作り出して攻撃する。もっとも、そうした状況を理解し、そうした手法の浅はかさを見抜いている人々も少なくはありません。

しかし、見抜いていたとしても、それを声高に言いにくい雰囲気が生まれている気配があります。

その一例は、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張の流布です。イスラム教の世界で、彼らは敬われる存在で、彼らの言うことはありがたく受け止めるものである、という一般常識があります。

しかし、彼らの一部には、政府や国家イデオロギーを批判するような説教をモスクで行なう者がいるようです。これまでも、そうした説教の中身が過激で、説教を聞く者たちを煽る内容として問題視され、過激な考え方へ促すとみなされる面もありました。

「政府高官が共産党に関係している」と説教した説教師が5月30日、警察に拘束されました。先の大統領選挙では、ジョコウィ候補(現大統領)の家族は元共産党員であるという噂が流布しました。言論の自由を逆手にとって、こうした言説を正当化する動きが出てくるのではないかとも危惧します。

聖なる断食月ラマダーンには、静かに穏やかにイスラムの教えを深く理解するような説教が行われるものですが、どうも、今回の断食月には、先のジャカルタ州知事選挙の影響が残っているのか、政治的な匂いのする説教も引き続き行われている様子です。

そうしたなかで、イスラム教の神学者(ウラマー)や高僧(イマーム)を冒涜してはならない、という主張のもとで、説教で何を言ってもかまわないかのような雰囲気が出てきてはいないか、とちょっと心配になります。録音などで明らかな証拠が残っていれば別ですが、そうでない場合、説教の内容を批判することがイスラム高僧らへの冒涜と取られてしまう恐れがあるのではないか。ウラマーやイマームを敬え、という声が聞こえてきます。

これは何もイスラム教に限ったことではないでしょう。どんな宗教でも、信者から偉いと思われている高僧の言うことを批判することは難しく、逆に、偉い者たちは、それをいいことに、他者から批判されないことを前提に、自分の言いたいことを神の言葉として語ってしまうのでしょう。

しかし、真実を明らかにしようとする者たちに対しては、偉い者たちはその「偉さ」への尊敬を求め、自らの行為を認めようとはせず、反抗者として従わせようと試みます。その「偉さ」に宗教や権力が備わると、真実を明らかにしようとする者たちは、一転して危険人物、反逆者のレッテルを貼られることになります。

今後、こうした動きがインドネシアで広まっていくのかどうか、注意深く見守る必要があると思います。

しかし、これはインドネシアだけの話ではありません。我々にとっても、他人事ではないはずです。

たとえ、公に批判することを許されないような状況に陥った場合でも、どのような形で必要な批判を続けていけるのか。私は、スハルト時代のインドネシアでメディアが採った間接的な批判手法を参考にしたいと個人的に思っています。

でも、そんな手法を使う必要のない世の中にするために、まだまだ尽力し続けなければならないのです。

インドネシア語や英語でも発信したい

今年は、このぐろーかる日記をここまでなんとかほぼ毎日更新してきています。今日のように、何もなかったわけではなくても、あえて書く材料がない日もあります。

毎日更新し始めて、もうすぐ半年になりますが、こうなると、これを書かずに1日を終えてしまうと、物足りなさというか、罪悪感というか、そんなことを感じてしまうほどです。毎日の生活の一部になっているかのような気分です。
これまでの傾向を見ると、インドネシアの政治に関する話を書くと、アクセスがぐーんと増える傾向にあります。その他の話でも、まあそこそこアクセスがあり、毎日読んでくださる殊勝な読者の皆さんがある程度はいらっしゃる様子がうかがえます。
本当は、もっとゆるーく書いていきたいのですが、やっぱり、日によっては力が入ってたくさん書いてしまうことも少なくありません。写真一枚でおしまい、という日もあっていいし、これからそんな日もあると思います。そんな日は、まあ、お許しください。
日本語でこのブログを書いているわけですが、やっぱり、インドネシア語や英語でもブログを書いたほうがいいのだろうな、と思っています。欲張りかもしれませんね。

でも、日本語で毎日書くだけでも続けるのはけっこう大変なのに、さらにインドネシア語や英語で書くのは、さらに大変になるかもしれません。
それでも、とくに、福島のことをインドネシア語や英語で伝えていくことはとても重要だと思うし、場合によっては、インドネシアに関する私なりの意見をインドネシア語で書くことがあってもいいのではないかとも思うのです。
というわけで、できれば1日おきぐらいで交互に、インドネシア語と英語で、自分の身近な様子を伝えるブログを書いてみようかと思っています。いや、週にインドネシア語と英語を2本ずつでもいいかな。
外国の友人のなかには、このブログをグーグル翻訳などを使って読んでくださっている方もいるようです。翻訳ソフトを使って、ガーッと訳してしまうのも一計ではありますが、ニュアンスが異なってしまうので、拙くとも、オリジナルで書くほうがいいのではないかと思っています。
ちなみに、私の会社のサイト( http://matsui-glocal.com )では、活動状況を日本語、英語、インドネシア語の3か国語で書くようにしていますし、フェイスブックの会社ページもそのようにしています。よろしければ、のぞいてみてください。
まずは続けること、そして、福島の様子を発信することを目的にして、インドネシア語や英語で、簡単なブログを6月から書いていこうと思います。よろしければ、そちらもよろしくお願いいたします。

発行予定ウェブマガジンへの投稿者募集

様々ないくつものインドネシアを日本語で伝えたい、という思いから、2017年7月に、有料会員制のウェブマガジン(月3回程度)の発行を考えています。

また、このウェブマガジンの購読者(会員)向けに、会員どうしで情報交換のできる掲示板(フォーラム)を敷設することも検討中です。

日本で流れているインドネシア情報は、ビジネスを行う上での指南本や観光ガイドが多く、また、バリやジャカルタの情報がほとんどです。

日本人が住むところで売れるもの、日本人に身近なもの、と考えるとそのようになってしまうのでしょうが、9割以上のインドネシアが知られていない、という状況にあります。またメディアの情報も、インドネシアの過去の出来事や歴史や文化を踏まえられておらず、表面的な情報となってしまっている印象があります。

そこで、このウェブマガジンでは、インドネシアにディープに関わっている皆さんのご協力をいただき、インドネシアをより広く深く知り、いくつものインドネシアを伝えたいと考えます。

このような趣旨に賛同していただける方で、ウェブマガジンに原稿を投稿してくださる方を大募集したいと思います。

条件は以下のとおりです。

・投稿者の国籍、年齢、性別は不問。
・使用言語は日本語。内容により、英語やインドネシア語でも受け付ける場合あり。
・原稿の長さの目安は、800〜1,000字程度。写真(イラストも)付きを歓迎。
・原稿料は掲載1回ごとにお支払いします(1回あたり4,000円程度。ただし、会員数が一定数以上に増えるごとに原稿料を引き上げる予定)。
・投稿頻度はお任せします。毎月でも、1年1回でもかまいません。
・いただいた原稿は、当方で読ませていただき、修正の必要がある場合には、当方から投稿者へ提案します。また、どの号に掲載するかは、当方の判断にお任せください。
・原稿はオリジナル、書き下ろしでお願いします。
・文字原稿のほか、写真(+キャプション)の投稿も歓迎します。

私のほうでも「ぜひこの方に書いてもらいたい」という方は何人かおり、その方々には別途、原稿執筆をお願いしたいと思いますので、その節にはよろしくお願いいたします。

なお、とくに歓迎したい投稿は、以下のようなものです。

・インドネシアの地方に住んでいらっしゃる方、または地方に長く滞在した経験を持っていらっしゃる方に、その地方での生活に関する軽いエッセイを書いていただきたい。
・インドネシア人の方と結婚された方、付き合っていらっしゃる方に、お互いに感じたカルチャーショック的なことを書いていただきたい。
・知る人ぞ知るというような、衣・食・住などの穴場的な話題、オタクな話題

投稿ご希望の方は、私までメールにてふるってご連絡ください。また、ウェブマガジン自体へのご意見・ご提案もウェルカムです。

メールアドレスは、 matsui@matsui-glocal.com です。

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