今回の申告は郵送で完了

今年も法人税の確定申告の季節が来ました。会計年度を4~3月としているので、期限は5月末(今回は土日の関係で6月1日まで)です。

弊社(松井グローカル合同会社)は、福島市に設立したので、当然、法人税、県民法人税、市民税は、福島税務署、福島県県北地方振興局、福島市役所へ申告する必要があります。
私は、自宅のある東京と事務所のある福島を行き来するという仕事の形を模索してきました。2拠点での活動です(インドネシアも含めると3拠点?)。
例年はこの時期、福島市に居て、すべて処理してきました。書類を整えれば、福島市の旧市内が小さいので、3つの役所を自転車で半日かからずにまわって済ませることができました。
福島市の弊社の事務所と同じ敷地内にある古民家「佐藤家住宅」。
3月半ばに訪れて以来、事務所へは行けない状態です。
でも今年は、新型コロナの影響で、東京から福島へ行けなくなってしまいました。
福島に行ったとしても、2週間はホテル等(実家でもいいのかもしれないが)に籠って経過観察しなければならない、という話でした。また、弊社は、同じ敷地内に高齢者施設があることもあり、先方から来訪しないことを求められてもいました。
法人税の申告書類を作成する際には、前年の書類を参考にするのですが、それらの書類はすべて事務所に置いてありました。これは困った。税理士を使わず、自分で作成しているので、前年の書類が必要になるのです。
そんなとき、高齢者施設の担当者から、「事務所に入ることを許してもらえれば、当該書類を探して東京へ送ります」との申し出がありました。渡りに船、と申し出をありがたく受けたのですが、ここで問題発生。
「事務所の鍵が見当たらず、事務所へ入れませーん!」という連絡。
事務所の鍵自体、高齢者施設代表でもある家主から借りて、私が合鍵を作ったのだから、絶対、向こうにあるはずなのに・・・。
でも、放置しても埒が明かず、時間も限られているので、こちらで再び合鍵の合鍵をつくり、先方へ郵送しました。
翌々日、合鍵が届いたので事務所へ入ります、との連絡。しばらくして、先方からビデオコールがあり、事務所の机まわりを映しながら、「これですか、それともこれですか?」と、しばし、一つ一つ見せてもらい、ようやく、前年の書類の入った封筒が見つかり、東京へ送ってもらうことになりました。
2日後にその封筒を受け取り、申告書類の作成に取り掛かり、何とか終了。
すべての書類のコピーを取り、福島税務署、福島県県北地方振興局、福島市役所の3ヵ所宛の封筒を作成、それぞれに受取証を返送してもらうための返信用封筒を入れて、郵便局から簡易書留で本日(5/26)、送付しました。
その後、県民法人税と市民法人税を支払うために、福島の地銀である東邦銀行の新宿支店へ出向き、支払いを済ませました。
赤字決算のため、県民法人税と市民法人税の均等割分のみを支払う形でした。
というわけで、何とか、郵送で今回の申告を終わらせました。
電子納税も考えたのですが、法人税の場合、電子証明書の発行やICカードリーダーが必要なだけでなく、様々な明細書のすべてが対応しているわけでもないので、意外に面倒で厄介だと感じました。次回以降、電子納税のための準備をすすめるかどうか、ゆっくり考えたいと思います。
今年度の課題は、これまでと同様、いかにして売り上げを増やすか。クライアントに頼るのではなく、自分で何かを創りあげることをしっかり考えないといけない!
新型コロナの影響で、当面、収入源がほとんどない状態が続きそうですが、今は耐えるしかないのはやむを得ません。でもよい機会なので、今後の新たな展開について、もっと大胆に考えてみたいとも思っています。

小松理虔著『新復興論』を読了

購入して読み始めたのはずいぶん前だったが、ようやく本日(5/17)、小松理虔著『新復興論』を読了した。

あいにくまだ同氏とは面識はないが、東日本大震災後の彼の活動は興味深く、ツイッターなどにおいて、自分で勝手に追いかけていた。
私自身、福島のことを考える際、「復興」という言葉を素直に受け止められなかったり、様々な現象を「福島」という地名で一般化されてしまうことに強い違和感をずっと感じていた。
自分の出身地である福島市における福島の人々と、いわき市を含む浜通りの「福島」の人々との微妙な心理的距離や、福島市在住の人々によるあたかも自分が福島全体を代表しているかのような言動が跋扈するなかで、インドネシアなど海外とも深く付き合ってしまって、福島については出戻りのような自分が自分の立ち位置をどこに置いたらいいのか、悩み続けるなかで、小松氏の発信になんとなく親近感を抱いていた。
『新復興論』は、よそからの借り物ではない、小松氏が地元での生活経験のなかから、自分の言葉で自分の思想を編み出していくプロセスを経ながら書き上げたもので、二者択一の単純な議論や政治性を排除した、他の専門家の真似のできない内容だと感じた。
とくに、リアリティとの関わり方に関して、地域づくりにおけるコミュニティデザイナーとアーティストとの役割の違いを明確にしていた点に思わずうなづいた。
いくつもの珠玉の言葉があった。いくつか自分なりにまとめてみる。
「アーティストは事実を伝えるのではなく、真実を翻訳するのだ」という古川日出男氏の言葉の引用。アーティストは課題を提示する人であり、そこには、現状に対する批判精神が込められているのが当然である。アーティストが社会的課題を解決するのではない。行政などの意図に応じて作品制作を行うなど、リアリティに囚われすぎると弊害が生じる。土地の歴史や文化を掘り起こし、そこだから存在するものを大事にする。それを進めるにもアートの力が有効である。
原発を含む福島のエネルギーをめぐる歴史は、外部から求められての「敢えての依存」が時が経つにつれて「無意識の依存」へ変わっていった歴史であった。それに伴って、福島では、自らが犠牲となって国策に貢献したのにその後結果的に差別を受けるという「方法的差別」を繰り返してきた。そうした福島と同様の経験を持つ人々は世界中に存在する。アートを通じて、それら世界の様々な場所で闘っている人々と連帯すべきだ。
外部者を排除した地域づくりは前に進められない。様々な人々に関わってもらうには、まじめの度合いを下げるしかない。復興事業の多くはまじめに行われすぎている。まじめの度合いを下げるのにアートの役割がある。徹底して楽しむこと、そして小さく展開すること。不まじめさによって、予期せず偶然に誰かへ情報が誤配され、その誤配から全く新しい何かが生まれる可能性がある。ゆるさの効用がある。
原発事故を障害として捉える。治癒して元に戻るケガではなく。障害としての原発事故をむしろ価値と捉え、共存を図る。
この最後の障害論は、まさに、今の新型コロナウィルス感染拡大の現状にも当てはまるものだろう。そうだとするならば、地域づくりの場合と同様、アートにも、閉鎖状態を和ませる以上の、何らかの果たせる役割があるような気がする。また、まじめすぎるのもよくないのかもしれない。
『新復興論』は地域づくりの現場に関わる方々はもちろん、地域づくりを教える教師やそれを学ぶ学生にとっても示唆の大きい内容である。そして、それぞれの経験に照らして、地域づくりにおける自分なりの思想や考え方を見つける良い材料になるものと思う。
小松氏の今後の活動や言論についても、引き続き注目していきたい。

村を育てる学力、村を捨てる学力

ツイッターを眺めていたら、地域づくり関係で私が注目している方の紹介している言葉に目が止まった。そこでは、小学校の先生が黒板に書いた板書の写真が掲載されていた。
その言葉は、以下のようなものだった。

* * * * *

 村を育てる学力

 

 私は、子どもたちを、全部村にひきとめておくべきだなどと考えているのではない。

 ただ私は、何とかして、学習の基盤に、この国土や社会に対する「愛」をこそ据えつけておきたいと思うのだ。みじめな村をさえも見捨てず、愛し、育て得るような、主体性をもった学力、それは「村を育てる学力」だ。そんな学力なら、進学や就職だって乗り越えられるだろうし、たとえ失敗したところで、一生をだいなしにするような生き方はしないだろうし、村におれば村で、町におれば町で、その生まれがいを発揮してくれるにちがいない、と思う。

 「村を捨てる学力」ではなく「村を育てる学力」を育てたい。

 「村を育てる学力」は、何よりも、まずその底に、このような「愛」の支えを持っていなければならない。それは、町を育て、国を育てる学力にもなっていくはずだ。
 村を育て、町を育て、国を育てる学力は、愛と創造の学力である。それは、村に残る子どもにとっても、町で働く子どもにとっても、しあわせを築く力となり、子どもたちの、この世に生まれてきた生まれがいを発揮してくれる力になっていくのだと、私は信じている。

「東井義雄 一日一言 いのちの言葉」より
* * * * *
教育というものは、近代化の手段だった。教育を受けて得られる学力は、自分を古く遅れた世界から解放し、新しい進んだ世界へ導くものだった。だから、教育は子どもたちを伝統的で閉鎖的な世界から近代的で開放的な世界へ、すなわち子どもたちを村から町へ引き剥がしていくものだった。
多くの場合、それが進歩だと見なされた。東井氏の言葉で言えば、教育が授けたものは「村を捨てる学力」だった。
彼の人生を少し調べてみた。戦前は皇国教育を徹底した教育者だったが、戦争を経て、そこでの深い懺悔と反省のもとに、戦後は綴り方教育を通じて、主体性を持った子どもの教育を兵庫県の村で行い続けた。
彼の言葉には珠玉の響きがある。彼のたくさんの言葉に勇気づけられ、励まされた人々は、教育者をはじめとして、数多いことだろう。
なかでも、上に挙げた「村を育てる学力」で私が最も心を打たれた言葉は、「生まれがい」という言葉だ。
それぞれの子どもの「生まれがい」をとことん尊重する。そこに国土や社会に対する「愛」を育ませることで、主体的に自分の依って立つ「村」を大切に思う気持ちを促す。その子が村に残ろうが町へ出ていこうが、大事なのはその子たちの「生まれがい」が尊重されることなのだ。
村を育てる学力は、必ずしも村に残って頑張るための学力ではない。世界中どこにいても、村のことを思い続けて行動できるための学力である。その場所が、たとえ村でなくとも。
昨今の地域づくりの現場では、人口減少という深刻な状況に直面して、UターンでもIターンでもなんでもいいからとにかく人口を増やすにはどうするか、ということに関心が集中しすぎているきらいがある。そして、村の子どもたちにできるだけ村に居続けてもらうために、大人たちが子どもたちに対して、村の将来への過度な期待を半ば強制している様子もうかがえる。とくに、震災後、その傾向が強まった印象がある。
次の世代への期待は当然ある。でも、それが強すぎれば、そして表面的には子どもたちが健気にその期待に応えようとしているならばなおさら、どこかで無理が生じて破綻するのではないかと危惧する。なぜなら、そこには、大人の思惑はあっても、村に対する「愛」が大人にも子どもにも欠けているからだ。
村を育てる、という言葉は今や死語なのだろうか。市町村合併と高齢化が進み、村を育てるどころか、村を維持できるのかが切実な問題となってしまっているからだ。
そして、とくに行政上の効率の観点から、村を町へ糾合するような政策の流れも加速化している。村を育てる学力が必要な局面は、もうとうに過ぎてしまったということなのか。
東井氏の地元である兵庫県豊岡市では、兵庫県立の国際観光芸術専門職大学(仮称)の設立準備が進んでいる。国公立初、演劇を本格的に学べる兵庫県立の専門職大学で、兵庫県但馬地域を拠点に観光・芸術文化分野で事業創造できるスペシャリストを育成する、という目標を掲げ、学長に平田オリザ氏を招聘する計画のようだ。
平田氏は、東井氏の「村を育てる学力・村を捨てる学力」を意識しつつ、グローバル化に直面する今の教育が「国を捨てる教育」になるのではないか、との危惧を示している。この新大学をそれに対する新しい地域発の価値創造の場としたいのだろう。
それも良いのかもしれない。でも、今必要なのは、やはり、広い意味での「村を育てる学力」なのではないだろうか。村ではなく、広くコミュニティや地域社会や集団をも包含する「ムラ」と捉えたほうが良い。「ムラを育てる学力」を養うのは、学校だけでなく、コミュニティや地域社会や集団、もしかすると家族もなのではないか。
学力は授けられるものではなく、主体的に自分たちで学び取っていく力である。今必要なのは、自分から自分の依って立つ足元を学ぶこと。それは必ずしも、自分がそこに居続けなければならないということではないはずだ。たとえムラから離れていても、ムラのことを思い、それを踏まえて行動する。そして、そのムラは国境を越え、あるいは、世界中に複数のムラを抱いて生きる人々もいることだろう。
東井氏の「村を育てる学力」を「ムラを育てる学力」と言い換えて現代の文脈で考えたとき、その根本にあるのは、ローカルを基盤としつつもローカルに必ずしも留まらない、ローカルに「愛」を持った人々が様々なムラで活動する、そのための学力、ローカルへの「愛」に根ざした自分の頭で考える力、と言いかえることはできないだろうか。
「ムラを育てる学力」を育てたい、と改めて思った。
私が小学1・2年生の時に過ごした二本松市立原瀬小学校の旧校舎。当時、父はこの学校の校長で、2年間、この敷地内にあった校長住宅で過ごした。この松の木には数え切れないほど登って遊んだ。2012年3月9日撮影。東日本大震災で建物が危険な状態になり、旧小学校の建物は取り壊された。

福島市の冬の風物詩「光のしずくイルミネーション」

福島市の冬の風物詩といえば、「光のしずくイルミネーション」である。1月31日まで、福島駅東口広場とパセオ通り及びその周辺で、総電球数20万個が夜を光で彩っている。

今回の福島滞在でも、パセオ通りで眺めることができた。

今や、日本中のあちらでもこちらでも、LED電球を使ったイルミネーションが花盛りで、他と比較して際立たせるには、ただ光らせるだけではない、何らかのプラスアルファが必要である。それも、ポジティブなプラスアルファが・・・。

この福島市の冬の風物詩は、東日本大震災の後に始まったと記憶している。パセオ通りに植えられ、電飾を施された木の一つ一つに、福島に少しでも希望をもたせようとするかのような詩が一つ一つ掲げられていた。その詩に私も勇気づけられたものだった。

今は、それはない。電飾を施された木々だけが立っている。

人々は今、このイルミネーションに何を思うのだろうか。

一人ひとりの状況は違うだろうが、希望は取り戻せたのだろうか。新たな希望は生まれたのだろうか。

夕方5時過ぎ、イルミネーションの光るパセオ通りを行き交う人々の姿はほとんど見られなかった。

光のしずくは、どこか寂しげだった。

福島で友人とインドネシアを熱く語る

1泊2日で福島。東京へ戻る前に、友人である福島市の会社社長と会った。初めてのインドネシアから帰ったばかりの彼から、インドネシアの話を聞きたい、というリクエストがあったからだ。

中国、ベトナムとビジネスを進めてきた彼は、初めて行ったインドネシアで、以前、ベトナムに行ったときに感じたような、ほとばしるような感覚を感じ、それからインドネシアで頭がいっぱいになった様子だった。

今日は、それに輪をかけるように、私が様々な情報を、系統立てずにまくし立てたものだから、消化不良に陥ってしまったようで、申し訳なく思った。

それでも、自社の若手社員を対象に、一人ぼっちになれる海外研修をやりたいと言う話が出た。福島出身の若手社員にマイノリティになる経験をさせる、という話になり、インドネシアでならば、こんなふうに研修したらいいのではないか、と、話は大いに盛り上がった。

彼の来年は、インドネシア・イヤーになるかもしれない、ということだった。必要あれば、もちろん、しっかりサポートするよ、と言った。

小名浜名物カジキソースカツ丼を食べる

先週、福島イノベーション・コースト構想推進機構のツアーを終えた後、東京へ戻る前、いわき駅で夕方買った駅弁がこれ。

すでに夕方で、定価880円なのを550円で売られていたのを買った。

よくあるソースカツ丼だが、中の肉が豚肉ではなく、カジキの肉。カツの下にはキャベツの千切りがご飯の上に薄くのっている。

ソースの味は豚肉の場合と同じような味で、カジキの肉はやや薄く、ちょっと固かった。

箱には、次のような口上が書かれていた。

大洋の航海者カジキとWhatsカジキグルメ
小名浜沖の潮目の海は、黒潮と親潮がぶつかる豊かな漁場。世界の海を航海する300kg級のカジキも訪れます。震災後の福島の海は漁業が再開できない状況が続いています。そこで、いわきの多くの海の男たちと海を結び、回遊魚で安全なカジキを新たな名物とする取り組みが続いています。カジキの白い身には、イミダペプチドという疲労回復効果の高い成分も含まれ、サプリメントにも多用されています。太平洋の豪快なカジキと、海の男の心意気をご堪能ください。

この駅弁には、「小名浜美食ホテル」のブランドがつけられていた。

小名浜美食ホテルは、実際に小名浜にある観光商業施設である。ホテルの名がついているが、宿泊はできない。

 小名浜美食ホテル

せっかくカジキを使うのだから、ほかの味付けでの駅弁を期待してみたい。夕方に550円に割り引かれないような駅弁を。

アスティくん、さようなら

福島市の私のオフィスは、古民家「佐藤家住宅」とサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」の2つが建つ敷地内にある。

佐藤家のマスコット的存在だったのが、大きなオス犬のアスティくんである。今日(12/6)、定例の打ち合わせのため、佐藤家を訪ねると、アスティくんが先週、私が福島市を離れた後、亡くなったことを知った。

すでに火葬され、小さくなっていた。

先週、福島市のオフィスにいたときは、急に冷え込んだせいか、体調を崩し、床に横たわっていた。エサも受け付けず、だいぶ吐いた様子だった。

そこで、餌を水に溶かし、注射器で口の中に注入してみた。体内に食べ物が入ったせいか、少し元気になった様子で、自分で立ち上がろうとしていた。結局、立ち上がれなかったけれど・・・。

もう相当な歳だった。老衰だった。

私を見ると、尻尾を振って匂いをかぎに来たものだった。おじいさん犬だったが、可愛かった。他方、見知らぬ人が来ると、ガンガンに吠えまくった。

アスティくん、さようなら。あちらの世界でも、楽しく過ごしてね。

寒さをいっそう感じる季節になった。

福島第2原発を視察した

12月4日、福島第2原発を視察するという貴重な機会があった。

今回も、先週と同様、福島イノベーション・コースト構想推進機構の第2回ツアー「リスクマネジメント・コース」(12月3~4日)に参加してきた。

そのメインが、福島第2原発の視察だった。そして、福島第1原発の事故の際の経験をもとにした避難者による避難所運営に関わるマネジメントや、福島第2原発が事故を防げた理由を学びながらリーダーがどのようなりリスクマネジメントをすべきか、について、ワークショップが行われた。

福島第2原発は、富岡町と楢葉町にまたがって立地する。東京電力は、2019年7月31日、福島第2原発1~4号基のすべてを廃炉とする決定をした。もちろん現在は稼働していない。ただし、燃料棒はまだ残っているため、高い値になることはないにしても、放射線に関する管理は厳格に行われていた。

福島第2原発を視察する意味は、実際に原子炉建屋の中、燃料棒などのある圧力容器の下へ入ることができたことである。事故のあった福島第1原発の視察では、線量が高いため、実際に中へ入ることはできない。内部がどうなっているかを見るには、福島第2原発の視察でその機会があることが有用である。

視察では、携帯、カメラ、メモ道具など何も域内へ持ち込めない。ポケットのなかのハンカチも持ち込めない。

案内の東京電力の方々の指示に従い、赤い来客者カードをぶらさげる、白い入館者カードをぶら下げる、ベストを着る、ヘルメットを持つ。原子炉建屋に入ると、線量計を渡される、靴下を履き替える、靴を履き替える、オーバーオールを着る、白い手袋をはめる。白い手袋の上からビニール手袋をはめる。圧力容器の下へ向かう前に、もう一度靴下を履き替え、もう一度別の靴を履き替える。

とにかく、放射線量の高低に応じて、次から次への身に付けるものが変えられる。肌がむき出しにならないように身につける。夏場は確実に蒸して暑くなるだろう。

原子炉建屋内を歩く際、床に手をつかないように気をつける。床についた手で顔を触ると顔が汚染される可能性があるからとのこと。

原子炉建屋内での視察を終えると、それまでとは逆に、身につけたものを脱いでゆく、原子炉建屋の中を歩いてきた靴下を脱ぐ際には、放射線域で脱ぎ、脱いだ後の素足をそこへ降ろさず、非放射線域へとまたぐ必要がある。

一通り終わって、係員へ線量計を返す。係員が線量計の値を読み上げる。「0.000ですね」とのこと。

原子炉建屋の圧力容器の下は、様々なコードや棒が飛び出ており、体をかがめる必要があった。福島第1原発では、この部分が高熱で溶けてしまい、網状の足元のからさらに下へ落ちていってデブリになったのだ、とリアルに納得できた。福島第1原発では今、自分たちがいるのと同じ場所へ人間が入ることはできず、ロボットを使って内部の状況を確認しようとしているのだ。

福島第1原発の原子炉建屋の内部を見ることはできないが、福島第2原発のそれを見学することで、ある程度リアルにその様子を想像することができる。

また、放射線管理がいかに細かく、最新の注意が払われているかを、様々なものを身に着けたり、ボディチェックを繰り返すなど、面倒なプロセスに時間をかけることも、実際に体験することで納得できる。

写真にもメモにも残せず、ただ自分の五感の記憶に頼らざるを得ないのが難点だが、機会があれば、できるだけ多くの方々に福島第2原発を視察していただければと思う。

上野駅から富岡駅へ

上野駅から特急「ひたち」に乗り、終点のいわき駅(昔は平駅だった)で乗り換え、富岡駅まで来た。

いわき駅から富岡駅までは普通列車だが、車輌は、昔の「スーパーひたち」の旧特急車輌で、乗り心地抜群。いわきと富岡の間を1日に2往復しているというが、それに乗れてラッキーだった。

富岡駅から見る風景には感慨深いものがある。

この写真は、2015年9月19日に撮影した、富岡駅の様子。ホームは残っているが、その向こうには、フレコンバッグの山が積まれているだけだった。

富岡駅の周辺もきれいに整備されていた。崩壊した建物はなくなり、新しい建物が立っていた。当時、駅すぐの場所にあった慰霊碑は、見当たらなかった(下の写真は2015年9月19日)。

常磐線は、富岡駅=浪江駅の間がまだ不通。来年2020年3月には全線復旧・開通となるばく、工事が進められている。それに合わせて、あの夜の森の桜並木も、避難困難区域を解除して、観られるようにしたいそうだ。

現在、夜の森の桜並木の一部は、まだ通行できないままだ。

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭

11月29日、「先端農業視察コース」の2日目は、復興のための新しい農業の試みを進めているプロジェクトを視察した。

広野町振興公社は、国産バナナの生産を試みていた。

日本でバナナと言えば、生食用だけが注目されるが、バナナの花も食用、葉は包装用と活躍する。たとえばバナナの葉を使って、脱プラスチックの動きを加速できないか。

バナナ以外に、パパイヤも試みていた。パパイヤも実だけでなく、葉も食用(やや苦いが)に適する。栄養食品として、様々な活用が期待できる。

お土産に、バナナ1本をもらって食べてみた。インドネシアの現地での完熟バナナの味を知っている身からすると、それを思い起こさせるとても美味しいバナナだった。やはり、国産だと何かが違う。

バナナの次は、イチゴ。大熊町での大規模イチゴ「工場」。

販売先は確保されていて、効率を徹底的に追求し、夏季にケーキなど業務用イチゴを生産することで、一般用の冬季イチゴと合わせて採算を取ろうとしている。

これも一つのやり方で、帰還困難地域を抱える大熊町に将来の希望をもたらす事業の一つという位置づけ。雇用創出の面もあるが、ロボット等の導入もありうると思われた。

イチゴの次はレタス。川内村でのLED光源を使った野菜工場を見学。

極めて衛生的で、気象条件に左右されず、安定した価格で供給できる。まさに野菜工場。風評の影響を受けない、新しい農業としての川内村の答えの一つなのだろう。

近くの工業団地には、バングラデシュの方が所有する企業が、ハラル対応食材を生産する工場を建設する予定。高齢化の進む川内村の今後の農業はどうなっていくのだろうか。

レタスの次は、葛尾村の胡蝶蘭。企業などの贈答向けの需要がかなりあるとのこと。

AIで適温に調整されたハウス内には、見事な胡蝶蘭が並ぶ。販売も順調なようで、葛尾村の新しい産業としての期待がかかる。

バナナ、イチゴ、レタス、胡蝶蘭。いずれも、東日本大震災+原発事故の後、既存の農業の再開がままならない状況下で、新しい希望の種として始まった事業である。

そして、そこには政府からの補助金が活用され、行政の肝いりによる第三セクターのような形で進められている。今はとにかく軌道に乗せることに懸命なのは当然だが、今後、どうやって持続性を維持していけるか。また、地域の先端ではない地場の営農活動や地域社会の中に、これからどのような関係性を持って根づいていくか。

しばらく間を置いて、これらの事業を再度訪問し、様子を見守っていければと思う。

11/28-29はツアーに参加中

11/28-29は、福島イノベーション・コースト構想推進機構主催のツアーに参加している。今回のは「先端農業視察コース」。

今日は、福島市を出発して飯舘村、南相馬市、楢葉町とまわり、広野町に一泊。

飯舘村でICT活用農業の試みを見学し、南相馬市で浜地域農業再生研究センターの取り組みの説明を受け、楢葉町で籾米の乾燥・貯蔵・調製・出荷までを担うカントリー・エレベーターを見学した。

南相馬市のランチ会場で、こんなのにも出会った。コンニチハ。

広野町のホテルが快適でとてもよい。

束の間の福島市内の秋景色

11月11~12日は福島。11月12日の午前中、税務署と法務局へ行って書類を受け取った後、街中で束の間の秋を楽しんだ。

福島大学附属小学校のイチョウ。見事に黄色く色づいていた。こんなところにイチョウ並木があるのに気がつかなかった。

少し色づいた信夫山(三山のなかのこれは湯殿山)。前にある建物は、東日本大震災後の仮設住宅の跡。

信夫山の麓の福島県立美術館・図書館の紅葉。太陽の光が雲に見え隠れして、光の加減がすぐ変わるので、なかなかいい感じの光にならない。

わずか30分弱の、束の間の秋景色。

昨日、香港では、至近距離で警告なしに警官が若者へ発砲。今日の香港中文大学では、キャンパス内に警察が入り、6,000発の催涙弾が撃ち込まれた。

未来の祀りふくしま2019、オーストラリア・チームとの3日間

8月8日朝、インドネシア出張からの帰国早々、東京の自宅にしばし寄った後、福島へ移動し、詩人の和合亮一さんと合流して、今年の「未来の祀りふくしま2019」を構成する二つのアーティスト・グループと会いました。

二つのアーティスト・グループですが、オーストラリア・チームとシアトル大学チームの二つです。実は、2018年12月28日、大雪の日、和合さんの誘いを受けて、この両チームの関係者とお会いし、福島でどのようなアート活動を行うのか、一緒にブレーンストーミングをしておりました。

そして、8月10日にはいわき市立美術館、11日には飯舘村の山津見神社で、オーストラリア・チームと和合さんとのコラボ・イベントに参加しました。これら一連の流れのなかで、地域とのアートの関わり方について、自分なりに色々と考えることができました。

今回は、オーストラリア・チームとの3日間について書きたいと思います。

8月11日、飯舘村・山津見神社でのコラボレーション・パフォーマンス

オーストラリア・チームは、和歌山大学の加藤久美先生、サイモン・ワーン先生、アダム・ドーリング先生が中心となり、ブリスベーンからパフォーミング・アーティストのジャン・ベーカー・フィンチ(Jan Baker Finch)さんとパーカッショニストのジョイス・トー(Joyce To)さんの2名を招聘しました。

チームは8月2日から9日まで、主に飯舘村に滞在して、どのような表現を作っていくかを練っていきました。飯舘村という地に根差した様々な場所(ひまわり畑、御影石加工所、製材所、廃材置き場など)を訪れ、関係者の方々から色々な話をお聴きし、その話とその場所にある音、色、匂い、風などを感じ踏まえながら、その場にて即興でパフォーマンス+パーカッションを試みました。

飯舘村での経験を踏まえ、それを咀嚼したうえで、8月10日、いわき市立美術館で「福島ー新しい光をさがして」と題するアートイベントに結実させました。このイベントは、ブリスベーンからの二人に和合さんを交えた3人によるもので、いわき市立美術館は、「人々が自然とともに生きる音や風景をテーマにした、ダンス、音楽、詩によるコラボレーション。三人のアーティストが、福島の風景、歴史、伝統、人々の暮らし、そこに込められた思いなど、『福島の美しさ(光)』を再発見し、表現します」と紹介しています。

 いわき市立美術館の紹介チラシ

パフォーミング・アートを含む現代アートを重視するいわき市立美術館の通路などの空間を利用して、このイベントが行われました。

美術館の入口から始まり、徐々に中へ中へ通路を移動し、その後、再び、入口のほうへ通路を戻り、最後は、階段の上で詩を詠む和合さん、そのすぐ下の通路で踊るジャンさん、階段の入口で音を奏でるジョイスさん、という動き。

観客が場所を移動する、という動きは面白かったのですが、実はいわき市立美術館では割と普通のことなのだそうです。

この3人、事前に大まかな流れを確認したのみで、入念な打ち合わせもリハーサルもなく、即興で演じていきました。

日本語が全く分からないジャンさんは、和合さんの詩の抑揚や声の大小、間の取り方から何を表現しているかをつかむ。そのジャンさんの動きが和合さんの詩の朗読のしかたに影響を与える。それを把握してジョイスさんのパーカッションが奏でられ、3人があたかも一緒に呼吸しているかのような、感じ、感じられる、誰かが誰かにただ合わせるのではない、3人の間の何とも形容しがたい緊張と共鳴の1時間が演じられていきました。

後で彼らに訊いたところ、ジャンさんは和合さんの詩の朗読における意図をかなり正確に把握していました。また、ジャンさんやジョイスさんのパフォーマンスの背景にある飯舘村の素材について、和合さんもそれを感じながら朗読をしていたとのことでした。

パフォーマンスの後は、オーストラリア・チームが飯舘村でどんな活動をしてきたか、映像を交えて紹介され、観客の皆さんと対話が行われました。

8月10日のいわき市立美術館のイベントについては、以下のような、いくつかのメディアで報じられました。

 鎮魂と再生願う「祀り」 詩、ダンス、音楽で表現 いわき(福島民報)
 福島第1原発事故 鎮魂と再生祈り 詩朗読とダンスコラボ いわき(毎日新聞)

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翌日の8月11日は、同じくこの3人で、飯舘村の山津見神社の社殿にて、コラボレーション・パフォーマンスを同神社へ奉納するアートイベントが行われました。

山津見神社は虎捕山津見神社とも呼ばれ、1051年に創建された伝統のある神社です。産業の神、交通安全の神、海上安全・豊漁の神、良縁結びの神、安産祈願、酒造、狩猟の神など多くの神徳があり、地元の人々から信仰を集めてきました。山頂の本殿は、海上の漁船にとっての道標にもなったといいます。また、山神の神使としての狼に対する信仰が篤く、社殿の天井には、狼を描いた242枚の天井絵がありました。

震災後の2013年4月1日、社殿が火災により焼失しました。もちろん、天井絵もすべて焼失しました。

その後、地元の方々の深い思いを受けて、山津見神社を再建することになるのですが、天井絵の再現は不可能と思われました。しかし、天井絵が写真で残されていることが分かりました。

その写真は、焼失の数日前にたまたま神社を訪れた、前述の加藤先生とサイモン先生によって撮られていたのでした。二人は、写真をもとに天井絵を復元させたいと動き、東京芸術大学保存修復日本画研究室の荒井経先生に働きかけ、荒井先生と学生たちが「山津見神社オオカミ天井絵復元プロジェクト」として取り組みました。

そして、2015年6月、山津見神社の社殿は再建され、天井絵の復元作業も進められ、2016年8月11日、オオカミの天井絵242枚が神社へ奉納されました。

そうなのです。2019年8月11日は、復元されたオオカミの天井絵がや山津見神社へ奉納されてからちょうど3年目なのでした。加藤先生とサイモン先生は、天井絵が奉納されてから3年間実施してきたアートプロジェクトの集大成として、この日に、ブリスベーンからの二人と和合さんの3人によるコラボレーション・パフォーマンスを奉納したのでした。

加藤先生やサイモン先生の招きで、今回お世話になり、オオカミの天井絵の復元に注力してきた飯舘村の方々が社殿に入り、オオカミの天井絵の下で、パフォーマンスを観賞しました。

和合さんの締めくくりの詩は「狼」。彼もまた、山津見神社の焼失、再建、オオカミの天井絵復元の一連の流れをずっと注視してきました。人と自然とのつながり、人々を結びつける力、震災によって帰らなかった命、翻弄された人々の思い、残された自分たちの故郷への思い。そんな様々な思いを胸に、山津見神社の狼をイメージして作られた「狼」。和合さんは、ずっと前から、この山津見神社で「狼」を朗読したいと願ってきました。

この「狼」、実は2018年5月、和合さんをインドネシア・マカッサル国際作家フェスティバルに招待したときに、夜のメインイベントで、壇上で日本語のまま朗読し、会場で大反響を呼んだ詩でした。私が聴くのはそのとき以来2度目でした。

彼ら3人は、ここでも即興ベースで演じました。ジャンさんのまるで何かが乗り移ったかのような舞、ジョイスさんの絶妙なパーカッション、そして、復元されたオオカミの天井絵の下で和合さんが朗読する「狼」。

ものすごかった・・・。

場の力・・・。まさしく、ここで、この場所で演じられなければならなかったのだ、と実感しました。和合さんの「狼」はここで朗読されなければならなかったのでした。

天井絵のオオカミたちが3人に乗り移っていたのかもしれません。3人の間の緊張と共鳴に加えて、即興なのに、何かが彼らを導いていたような、そんな不思議な気分になりました。

いつの間にか、自分の左目から、すうっとひとすじの涙が・・・落ちていきました。

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即興と即興のせめぎ合いが、緊張と共鳴と結合を生み出す。あらかじめ作られた何かではなく、そのとき、その場所だからこそ作られた、奇跡のパフォーマンス。

それは、どうやっても、二度と同じには再現できない。その瞬間に立ち会うことでしか得られない、はかなく消え、しかし、ずっと心にのこるもの。

あれはいったい、なんだったのだろう。ずっとそれを思い続けています。

ブリスベーンからの二人が飯舘村での滞在から得たものがあるからこそ、それがいわき市立美術館や山津見神社でのパフォーマンス表現に結実し、だからこそ、飯舘村の方々にとってもよそよそしくない、自分たちのどこか深いところに、心地よく突き刺さってくるような、言葉にならない何かを感じていたのかもしれません。

そこではもう、演じる人と観る人という垣根がいつのまにか溶けて、両者とも同じ時間、同じ場所を共有して一緒に何かを創っている、という感覚になるのではないかとさえ感じました。

一緒に何かを創る。地域とのアートの関わり方の神髄もまた、そこにあるのだということを実感した3日間でした。

椏久里珈琲で美味しいコーヒー&お菓子と突然の弾き語り

6月1・2日は、福島市で東北絆まつりが開催されて、多くの観客でにぎわったようです。友人の話だと、市内は交通規制がかかっていて、メイン会場の市役所へ行くのも大変だった様子。

というわけで、常にメジャー路線を避けて行動する、あまのじゃくな私は、絆まつり見物には行きませんでした。その代わり、6月1日は、友人からの誘いを受けて、今月のケーキとコーヒーを味わうため、椏久里珈琲へ行きました。

椏久里珈琲には、毎月変わるケーキをいただくため、最低でも、1ヵ月に1回は顔を出すようにしているのですが、今回は、それに加えて、友人が「紹介したい人がいる」ということで、いそいそと出かけたのでした。

その方は、福山竜一さんという、シンガーソングライターでした。これまでにも、椏久里珈琲で何度かミニコンサートを開いている方です。

今回は演奏が目的ではなかったようですが、やはりギターは担いで来られており、椏久里珈琲のマスターご夫妻からの要請により、急遽、生の弾き語りをしていただきました。

いきなり「やれ」と言われたせいか、最初はあまり声が出ていませんでしたが、徐々に声が出始め、とくに高温のファルセットがとてもきれいで、やさしい感じの素敵な歌い方でした。

椏久里珈琲のマスターご夫妻をイメージして作った「アグリの大地で」、福山さんの故郷をイメージして作った「トマト色の黄昏」、どちらも、歌とともに歌詞がジーンと来ました。

福山さんを紹介してくれた友人のために歌った「ケセラセラ」、実は、私にとっても、歌ってもらってよかったと思えるものでした。歌に救われた気分でした。

福山さんのCDを1,000円で購入しました。もちろん、サイン付きで。

CDは、椏久里珈琲の店内、またはオンラインショップで購入できます。オンラインでの購入はこちらから。

福山さんのブログはこちら → ヤングの秘密の小部屋

福山さんの歌を聴いていたので、うっかり食べ忘れそうになったのが、椏久里珈琲の今月のケーキ。今回のセレクションは、コンヴェルサシオン。

曰く、「サクッ」とバターの甘い風味、「しっとり」とアーモンドのかぐわしい香り。異なる食感と風味が一つになった完成度の高いフランス菓子です。

あまり奇をてらっていない、庶民的なお菓子ですが、香ばしくてコーヒーにぴったりの美味しさでした。

いつもなら、満席で座れないのが椏久里珈琲の土曜の午後なのに、絆まつりのためか、珍しく、店内はお客さんもまばらで、マスターご夫妻も交えて、ゆったりと過ごすことができました。生の弾き語りも堪能できて、なんだか、思いがけず、ちょっと贅沢な土曜の午後になりました。

福山さん、ありがとうございました。そのうち、また、歌を歌いにいらしてください。もっとたくさんの人に聴いてもらいたいです!

伊藤若冲展を観に行く

今回の福島滞在中に行きたいと思っていたのが、福島県立美術館で開催中の「伊藤若冲展」。ようやく時間の取れた4月13日(土)、気合を入れて、開場時間の午前9時半に合わせて実家を出ました。

実家から会場までは自転車でわずか5分。今回はすごく混んでいるし、土曜日だし。でも、朝早くだったら、入れるかも。

でも甘かったです。

開場前、すでに長い列。ともかく、列に並びました。

雲一つない青空、快晴。天気がよくて良かったです。

行列に並んでから約30分経って、ようやく、美術館の中に入れました。

展示会場は5つに分かれ、若冲の作風の変化を順に追って観られるように配置されていました。でも、入館者がとても多くて、作品をじっくりと観ることができないほどでした。

屏風絵や襖絵などは、少し遠くから全体をゆったり眺めたいのですが、とにかく人が多くて、無理でした。

サクッと1時間程度で観るのを切り上げましたが、入館者はその後も次々にやって来ていました。バスを仕立てたツアーで来たお客さんもたくさん。すごいなー、若冲の人気。

個人的には、サクッと観るのを切り上げたせいかもしれませんが、前回の「若冲が来ました」のときよりはややインパクトが薄く感じました。

それでも、若冲の描く直線・曲線、線を組み合わせた構図の的確さ、迷いのなさがとても印象的でした。それ故に、作品の一つ一つが驚くほどシンプルに、観る人の心に迫ってくるのだと感じました。

穴のあいた蓮の葉。立ち上がっていくその姿を、福島の復興になぞらえて、力を与えてもらっている、という風に感じている、ようです。

若冲展の前半は今週いっぱいで終了し、一部の展示を入れ替えた後半が来週以降となるようです。

常設展を観て美術館らしさを少し味わった後、ふたつやま公園へ行って、雪を被った吾妻連峰と安達太良連峰に会いに行きました。

福島にいた子どもの頃、毎日見ていた吾妻と安達太良。今も福島に帰ると再会できて、ほっとした気分になります。私自身の脳裏に焼き付いた原風景がなのです。

隣の森合運動公園の桜が見事でした。

先週までの東京での桜に続いて、福島でも桜を楽しめました。

そして、毎月1回は行きたいと思っている常連の椏久里珈琲で、今月のケーキとコーヒーを味わいました。

焼きたてクロワッサンも追加!

おだやかな、春の福島の一日でした。

Bijiという名のお店を訪ねてみた

福島市内には、どのぐらいインドネシアと関わりを持つ人々がいるのだろうか、と思って、気になる店や場所や人を探し始めました。

昨年10月、福島市で初めてのインドネシア・フェスティバルが開催されたときに、何人かのインドネシアの方と結婚して市内に住んでいる方にお会いしました。そんな、インドネシアと関わりを持つ方々とも知り合いになれたら、と思った次第です。

今日は、Bijiという名前のお店を訪ねました。

Bijiというインドネシア語の意味は、種、粒、といった感じでしょうか。

お店の方に、どうしてBijiという名前を付けたのか、訊いてみました。

すると、このお店にあるモノを買っていただき、種から草花が育っていくように、大事に大切にそのモノを使っていいものへ育てていってほしい、という願いを込めて、Bijiという名前を付けたのだそうです。

店内には、ちょっと個性的でしゃれた小物や家具が置かれていて、しかもその各々が作者によってきちんとつくられたモノたちでした。モノに込められた作者の思いやモノが造られるまでのストーリーが聞こえてくるような、そんなモノたちでした。

インドネシアのモノは家具で、旦那さんが定期的に買い付けに行かれるそうです。

創業は2005年。こんなお店がもう15年も福島市内にあったなんて、恥ずかしながら、気がつきませんでした。

ただ、お店の方は、昨年10月のインドネシア・フェスティバルのことはご存じなかったのでした。また、福島市内に居住するインドネシア人の方々ともお付き合いはまだないとのことでした。

福島市だけではないのでしょうが、インドネシアと関わった日本人の方と、技能実習生などで来ているインドネシア人の方とが、同じ福島市という比較的こじんまりした空間に居ながら、それぞれが違う世界にいる、という状況なのだと改めて認識しました。

それなら、両者をつなげてみようかな、と思いました。何が起こるかは分からないけれども。つなげることで、もう少し楽しい空間や時間が生まれるような気がします。

BIJI
960-8051 福島市曾根田町3-14
Phone/Fax: 024-535-7716

福島・しみずの里の完成内覧会開催(3/22-23)

今日(3/23)は、福島市のサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」の完成内覧会の最終日です。

昨日の内覧会は100人以上の方が訪れ、皆さんから多数のお褒めの言葉をいただきました。

今日も午後4時まで内覧会を開催中。是非いらしてください。また、同じ敷地内にある国有形登録文化財の古民家「佐藤家住宅」もあわせてご案内いたします。

バレンタインデーのスペシャルラーメン

2月14日はバレンタインデー。いつの頃からか、バレンタインデー=チョコレートとなってしまった、チョコレートの日でもあります。

そんな日の昼食に、スペシャルラーメンをいただきました。

チャーシューの上にかかっている黒い角ばった物体は・・・チョコレートです!

その名も、チョコレートらーめん。

福島県を出自とするラーメン店チェーンの幸楽苑が、2月1~14日までの限定で売り出した異色のラーメンです。

福島市の競馬場近くの幸楽苑で、昼時でしたが、ちょうど入れました(13日昼にも来たのですが、満席で入れず)。

チョコレートのスープに麺が入っているのか、と思ったら、さにあらず。

醤油ラーメンのスープに少しチョコレートが溶けているという感じで、スープの味自体は醤油ラーメン。隠し味的にちょっとショウガが効いていました。

せっかくなので、上に載っている角ばったチョコレートと麺を絡めて食べてみました。

やはり、これだと違和感は否めないです。でも、スープに溶かすと、チョコという味の主張が消えました。

チョコレートと聞くと「甘い」と思うでしょうが、カカオ自体には苦さはあっても甘さはなく、あれは大量の砂糖による甘さです。

いい香りのするカカオ入りのスープはありかもしれませんし、カカオパウダーを練りこんだ麺を白い塩味スープでいただく、なんていうのもありかもしれません。

体にもよいカカオとラーメンの相性は、意外にいいかもしれません。

そんなことを考えるだけで、なんだか楽しくなります。

しみずの里が福島市に4月オープン、入居者募集中

私がお手伝いしている、福島市泉のサービス付き高齢者向け住宅「しみずの里」は、いよいよ、4月1日のオープンへ向けて、着々と完成に近づいています。

 しみずの里ホームページ

この「しみずの里」では、デイサービス、居宅介護支援、訪問介護、訪問看護のサービスも提供します。食事は温かい美味しいものを毎回手作りで提供します。

ただ今、入居者を募集中です!

そして、正式オープンに先がけて、完成内覧会を開催します! 

日時は、2019年3月22日(金)・23日(土)の午前10時~午後4時まで。

この機会に、是非、環境の良さを実際に味わってみてください。

福島駅から飯坂電車で泉駅下車、徒歩5分です。当日は私もいる予定です。

他では味わえない、素敵な環境です。

いらっしゃったなら、必ずそれが分かります!

しみずの里」の南側の同じ敷地内には、国登録有形文化財「佐藤家住宅」があります。福島市内唯一の茅葺きの大規模古民家です。

この「佐藤家住宅」は、明治6年に建造され、広い芝生の庭園には、地名の由来となった「泉」が湧き、茅葺きの兜屋根、合掌造りの大空間、囲炉裏、蔵など、古き良き日本の原風景を感じられる空間がそのまま残されています。

「佐藤家住宅」を地域遺産として末永く守り続けるために、この空間から様々な活動が生まれる場づくりをしていきます。

もちろん、「しみずの里」の入居者の皆さんが、ゆったりと楽しく過ごせる場所として輝かせていきます。

大きな茅葺き屋根の風格ある古民家。四季折々に咲き誇る花々や様々な果実。吾妻山からの伏流水がコンコンと湧いてくる泉。

ベンチに腰掛けながら、大きな空を見上げるのもよし。

ウグイスの鳴く林の中で、タケノコを探すのもよし。

泉のなかでスイカやビールを冷やして、セミの声、夏を楽しむもよし。

近所の方々や子どもたちがふらっとやってきて、わっと歓声を上げる。

そば打ち名人もやってきて、美味しい日本酒を楽しむ秋。

囲炉裏の火を囲んで、外国から来られた方々と和やかに語らう夜。

音楽会や映画上映会、勉強会、セミナー、お茶会、薪能・・・。

何だか、ここにいるだけで温かく、ほっこりしてくるような・・・。

日本一、いや世界一幸せな場所になったらいいな、と思います。

そんな場所を「しみずの里」で一緒につくりませんか。入居される方は、その仲間だと勝手に思っています。

ご関心のある方は、matsui@matsui-glocal.com へお気軽にお知らせください。ご連絡をお待ちしています。

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